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2025年10月13日月曜日

 2025年10月12日 (聖霊降臨節第19主日)

2テサロニケの信徒への手紙3章6節~13節

『労働の意味』

今回は、youtube配信をお休みします。
替わりに、原稿(メモ)を掲載を以下に掲載します。

                  『労働の意味』
                  2テサロニケの信徒への手紙3章6節~13節
6 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。
7あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。
8また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
9援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
10実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
11ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
13そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
1.再び「倣うこと」
  ここでも「倣う」ことが奨励されています。信仰生活は、つまりは、信仰の先達、とりわけ使徒、さらに究極的にはキリスト御自身に「倣う」ことに他ならないということでしょう。
 「倣う」ことは、他律的な行為なのか。一見、倣うだけでは自主性や主体性が乏しいのではないかと思われるかもしれません。決してそうではない。
 使徒やキリストに倣うには、必ず探求が伴います。探求なしには何をどう、どのように倣うのか見いだす事はできないからです。たゆむことなく、祈り、学ぶことなしに、倣うことはできないのです。
 アウグスティヌスは『修道士の労働』や『アウグスティヌスの修道規則』でも修道士の労働を重視し、修道士の労働を推奨してもいます。『修道士の労働』では、まさに本日のテキスト『テサロニケ人の信徒への手紙二』第三章一〇節「働きたくない者は食べてはならない」の解釈を中心に議論が進められています。
 当時のカルタゴには福音書の記述を根拠に労働せず、施しで生計を立てる修道士たちがおり、それを支持する人々と反対する人々のあいだに不和が起こっていて、これを憂いたカルタゴ司教アウレリウスがアウグスティヌスに執筆を依頼したものが、『修道士の労働』でした。労働を忌避する修道士の聖書解釈の誤りを指摘し、労働を忌避する修道士を批判したのです。
 修道院での生活は、「働くことは祈ることだ」というべきものでした。祈り、学び、労働で一日は規則正しく律せられていました。
 使徒やキリストは、いかにしてその宣教の日々を送られたのか。 倣うためには、その事柄をひたすらに祈り求める必要がどうしてもあります。働きつつ、祈り、祈りつつ学ぶのです。
2.対極にあるもの
   わたしは、ラ・グランド・シャルトルーズ修道院 の「大いなる沈黙」という映画が大好きです。静謐な修道士たちの暮らしを見ていると、自然とこころが癒されます。そして私自身も、このような生活を求めている自分を発見します。
  さて、ラ・グランド・シャルトルーズ修道院には 『シャルトルーズ修道院慣習律』という修道院内での聖務日課などを詳しく記した書物が定められています。例を挙げれば、第四一章で「この場所の居住者は荒野の境界外に何も所有してはならないと定めた。すなわち畑地、葡萄園、庭、教会、墓地、贈り物、十分の一税、そのようなものすべてである」とするのは、境界で囲われた空間のそとに飛び地や権利を一切持たず、荒野の空間のなかで生きることを定めたと考えられます。
  洗礼者ヨハネが荒野に入ったように、修道院境内地の中でのみ自給自足で共住する修道院です。
 この暮らしの対極にあるものが怠惰です。閑暇を弄ぶことです。
    8 また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
   この使徒パウロの自負は、兄弟姉妹に「倣う」ようにという促しのために、「むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。」という自発的で、明確な目的をもっていました。「だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して」働いたのは、兄弟姉妹への愛から発する自発的かつ積極的な目的があったからでした。自分のためだけではなくて、兄弟姉妹の自発性を信じて、促す「苦労」だったのです。
   すなわち、教会共同体の兄弟姉妹に「倣う」ことができるようにという隣人・兄弟姉妹のためのなした証しの労働でした。つまり労働は、他者への愛が動機となっていたのです。
 この兄弟姉妹への愛、しかも自発的に「倣う」ことができるように促す、いざなうからこそ発出している労働なのです。この対極にあるのが、「怠惰」であり、「閑暇をもてあそぶこと」でした。
3.労働は祈り
 わたしは朝起きたとき、よく作業の段取りを思い浮かべます。 思い浮かべると、なぜでしょうか。不思議に落ち着くのです。作業すること自体が、祈りではないかとよく思います。汗をかきながら、土を掘り起こしたり,運んだり、草を刈ったりと。
 体を動かしながら、つれづれにいろいろな事を思いめぐらすのです。こんな時間は喜びの時間だと思います。すこしも苦労だとは思いません。動きつつの祈りです。
4.動けない。働けないことは怠惰でも閑暇でもない。
 『レナードの朝』(原題:Awakenings)という作品があります。「1920年代に流行した嗜眠性脳炎によって、30年間、半昏睡状態のレナードは、意識はあっても話すことも身動きもできない。彼に強い関心を抱いた勇気ある新任ドクターのセイヤーは、レナードに試験的な新薬(Lドバ)を投与し、機能回復を試みる。そしてある朝、レナードは奇跡的な"目覚め"を迎えた・・・。」
 この作品が衝撃的だったのは、30年もの間、眠ったままの状態でベッドに横たわったままだったレナードが、劇的に眠りから覚めるということもさることながら、わたしにとって、この30年間レナードを見守り続けた家族は、どんな思いでこの30年間を過ごしたのだろうかということでした。
 レナードは、薬の耐性ができてくると、再び深い眠りにつきました。その後の彼を家族は再び見守り続けることになりました。
レナードは、労働することができない。動けないのです。彼を「怠惰」とか「閑暇」とかで評することは誰にもできないでしょう。彼は原因不明のいまだ治療方法もない嗜眠性脳炎という難病に罹患している患者です。神さまは、彼にこの途方もない試練を与えたもうたのです。彼だけではなくて、彼の家族にもです。
 こんな彼と彼の家族に、このみことばを投げかけるのはあまりにも酷ではないでしょうか。「働きたくない者は、食べてはならない」と、どうして言えるでしょうか。彼は働きたくないのではないのです。働きたいとも働きたくないとも、語ることも動くこともできない境遇なのです。
 神さまどうして彼をこのような境遇に置かれたのでしょう。でも神さまがこのような境遇へと彼を置いている以上は、この境遇の彼に、神さまが置かれたたもうたと、そのみこころを受け入れざるを得ません。このような彼が現に存在している以上は、動けない、語れない、ただ眠り続ける彼と共に家族も社会も生きてゆく他はありません。そうであれば、労働することは、誰にとっても普遍的な、喜び、祈りだと、十把一絡げに言いきることには躊躇いを覚えない訳にはいきません。働かない、働きたくないという以前に、働く事は彼には不可能なのですから。このような彼にと、神さまが決めておられるのだから、この彼にとっての、彼の家族にとっての、喜び、祈り、哀しみ、辛さを、彼も家族も社会も、教会も、わたしたちも、考え、祈り、思いめぐらし、そしてまた祈り、待つことが、彼の近くで、また遠くでいる人に、多かれ少なかれ課題としての恵みがあるはずです。
5.対象限定の命令だった
    11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
    12 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
  「働きたくない者は、食べてはならない」というパウロの、いくらか激した命令語調の、この言葉は、特定の人たちに向けられた「状況」に応じた言葉だということは、「そのような者たちに」という対象を特定していることで分かります。つまり、具体的に特定の人々にむかって、限定された状況に相対して語られた言葉なのです。アウグスティヌスの『修道士の労働』も同様です。特定の労働を忌避する修道士に向かって書いています。パウロもテサロニケ教会の特定の人々に、限定された状況に向けての「命令」だったのです。それゆえ、普遍的な倫理・道徳のような一般的な言葉ではなく、「怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者」たちに向かって語っている。
6.働くことは、キリストに結ばれた現実のなかで
    13そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
   「自分で得たパンを食べるように」という勧めは、他者の働きに依存・寄生・搾取してパンを食べることが、人間関係を破壊するという意味を含み持ちます。
 むかしの「不在地主」というのは、小作農民の労働に依存・寄生・搾取して「怠惰」・「閑暇を貪って」いた人々でした。そういう関係は、やがては人間関係に不信と軋轢を生み出します。
 「労働を忌避する修道士たち」は、どのような修道士だったのか。第二八章三六節には「彼らは委託なしに、定まった住所なく、根無し草の放浪者のように、いろいろな地方を回っています。あるものは殉教者たちの、いわゆる殉教者たちの遺物を売っています。他のものは、(聖句の入った)小箱を大きくしたり、(自分の衣服の)房を長くしています。また他のものは彼らが聞いたところの両親や親せきについて、彼らはどこそこに住んでいるが、私は彼らを訪ねる途中であると嘘を並べます。そしてこれらの人はみな彼らの都合にいい貧しさのための寄付を求め、またその偽善的な聖さに対する代償を要求します」。とあるように、放浪して詐欺まがいの口舌で、喜捨を求めていたというのです。依存・寄生・搾取して「怠惰」・「閑暇を貪って」いたとも言える状態でした。ですから、「自分で得たパンを食べる」ことは、そのことで、隣人に余計な負担を負わせないという意味を持つのです。働いて、その実りを自ら刈り取ることは、隣人との共生の条件となるのです。
7.動けず、語れず、働けない存在が共生の交わりを形成する
   レナードのように、動けず、語れず、働けない存在が、人と人との交わりを、慈愛の関係へと形成してゆくことを、わたしたちは知っています。
 人間社会は動物の世界のような弱肉強食の世界ではありません。赤ちゃん、こども、学生、老人、病者、貧困者、難民などなど、この世界には、弱い人、助けを必要とする人が多数存在します。この愛されるべき人々との繋がり、絆のなかで、わたしたちは生きる力を与えられつつ、苦しみつつ、喜びつつ、感謝しつつ生きています。
 動けず、語れず、働けない存在がわたしたちの社会を、苦悩しつつも温かな社会へと築いているのではないでしょうか。
 このように、思いめぐらせてゆくとき、「働きたくない者は、食べてはならない」「自分で得たパンを食べるように」という命令は、働けるから価値があるとか、働けないから価値がないとか、そういう人を人とも思わない「生産性」「効率性」でしか人を観ない人間観を、根底から覆す観点をもっているのです。
8.人はみな、それぞれが固有な存在として、神に愛されている
 かえって、どんな人も、人として、誰一人として、神さまから愛されていない人などいないのだ。人はみな、神さまの前で、等しく尊い存在なのだという意味で語られているのです。 
 参考文献:杉崎泰一郎.『修道院の歴史_聖アントニオスからイエズス会まで』
上智大学中世思想研究所. 『中世思想原典集成 精選3 ラテン中世の興隆1』

2025年10月5日日曜日

 2025年10月5日(聖霊降臨節第18主日)

エフェソ5章1節~5節

『新しい戒め』




2025年9月28日日曜日

 2025年9月28日 (聖霊降臨節第17主日)

ヤコブ書2章8節~13節

『隣人とは誰か』(隣人の発見)



2025年9月22日月曜日

2025年9月21日聖霊降臨節第16主日 

1コリント1章10節~17節

『我らは信ず』



2025年9月15日月曜日

 2025年9月14日聖霊降臨節第15主日

1コリント15:32~52

『究極の希望』



2025年9月8日月曜日

 2025年9月7日(日)(聖霊降臨節第14主日)

ローマ書8章18節~25節
『苦難 忍び耐え、待ち望め』


2025年8月31日日曜日

2025年8月31日 聖霊降臨節第13主日

「例外なき倫理」

コロサイ書3章 18節4章1節




2025年8月25日月曜日

 2025年8月24日 (聖霊降臨節第12主日)

使徒言行録20章17節~35節

『聖霊の囚われ人』



2025年8月18日月曜日

 2025年8月17日(日)(聖霊降臨節第11主日)

田浦教会の方々と合同礼拝を守りました。感謝。

使徒言行録9章26節~31節

『サウロの回心』(命をかけてパウロを守った教会)




2025年8月4日月曜日

 2025年8月10日  (聖霊降臨節第10主日)

  〈憐れみの福音〉

  2コリント 5:14~6:2

  詩編 107:1~9



2025年8月3日日曜日

 2025年8月3日(日) (聖霊降臨節第9主日・平和聖日)

ローマの信徒への手紙9章19節~28節

『異邦人の救い』




2025年7月28日月曜日

 2025年7月27日聖霊降臨節第8主日

『悪霊の逆襲による福音の逆証明』

使徒言行録19章13節~20節



2025年7月23日水曜日

 礼拝スケジュール 2025年度

◎坂下教会の礼拝は午前10時開始で固定します。

◎田瀬と付知の礼拝は、交替で、両教会の合同(田瀬・付知)で行います。

 開始時間は、午後2時で固定します。 

 第1、第3、第5週は、田瀬教会にて。

 第2、第4週は付知教会にてします。


 ◎東濃3教会合同礼拝は、祝祭主日のみとなります。

 イースター、坂下教会にて。

 ペンテコステは、付知教会にて。

 クリスマスは、田瀬教会にてとなります。

 どうぞよろしくお願いいたします。

   東濃3教会

https://plaza.rakuten.co.jp/beyondmoonies/





 2025年7月20日聖霊降臨節第7主日

1テモテ2:1~8

『祈り』




2025年7月14日月曜日

 2025年7月13日 聖霊降臨節第6主日

坂下教会 岐阜地区交換講壇 白砂誠一牧師による宣教

ヨハネによる福音書13章1節~第11節

『弟子の足を洗うイエス』


付知教会にて 田瀬・付知教会合同礼拝における

岐阜地区交換講壇

柳本伸良牧師による宣教

使徒言行録4章32節~37節



2025年7月7日月曜日

 2025年7月6日聖霊降臨節第5主日

コリントの信徒へに手紙2 8章1節~15節

『極度の貧しさがあふれ出て』



2025年6月29日日曜日

 2025年6月29日 (聖霊降臨節第4主日) 

                「世の光としての使命」

                    フィリピの信徒への手紙2章12節~18節



「恐れおののきつつ」
  徹頭徹尾、神の恵み、即ち恩寵こそが、人の「内に働いて」、神の意志(御心)ままに、「望ませ」、「行わせる」と使徒パウロは言います。
 つまり、わたしたちの内に神ご自身が働いてくださり、御自身の意志を実現させたまうがゆえに、わたくしたちが「望む」ことは、神の御意志のまま「望む」という事であらねばならないというのです。その「望み」は、必ず「行う」という人の行為をも促し、実行させたもうということでなのす。
 しかるに、もしもわたしたちのが、わたしたち自身の「内に」、神の御意志に反逆し、「何事に」つけ、「不平や理屈」を言い、神の御旨に反抗する邪悪な精神的態度が残すのであれば、「よこしまな曲がった時代」の子に転落し、もはや神の子とは言えなくなるのです。(申命記32:5)
 わたしたちの「内に」働かれる神の恵み(恩寵)を、あえて拒むこの態度の残滓が一片だにあるとすれば、わたしたちは、真剣に自己を糾明し、みずからの「内」から、この残滓を払拭し、「従順でいて」、「恐れおののきつつ」、「自分の救いを達成するように努め」るべきなのです。
 不断の自己糾明と悔い改め(方向を神に向ける決断)と、「救いの達成」に努めるならば、「とがめられるところのない清い者となり」、「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」、「命の言葉」の保持するとパウロは断言します。
 この神への反逆心という罪の残滓の払拭をなし得るのは、ひとえに、わたしたとの内に働く神の恵みが神の愛によって、惜しみなく注がれているからです。
 それゆえにこそ、わたしたちは、神の恵みにいっそう敏感に、繊細に、真剣に、気づかされる認識力を願い求めばければなりません。それが「恐れおののきつつ」という精神的態度なのです。
  パウロの喜び キリスト者の完全
  裁きの日に、キリスト・イエスによって神の子として、天上の神と共に永生すること、信徒ひとりひとりが「命の言葉」をしっかりと保ち、「世にあって」も、「星のように輝く」ことを実現することが、使徒パウロの喜びだというのです。
 わたしは、この箇所を読んで、パウロが衷心から信徒に完全なるキリスト者であることを望んでいたのだろうと思った。
 完全な救いを、信徒ひとりひとりが実現・成就することを心から願っていたのではないだろうか。
 魂の奥底にも、ひとかけらの邪心のないことを、救いというならば、完全な救いを達成することは、はたして可能なのだろうか。そんな「理屈」をこねてしまうのは、わたしの罪でしょうが、「完全さの達成」は、どこまで努力しても、永遠に遠ざかるような、近づいても限りなきはるかかなたに、逃げ水のような事柄なのではないのだろうか。
 しかし、パウロの語る達成点は、明確です。
  「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」
  「非のうちどころのない神の子として、星のように輝く」と言うのですから、まさしく「完全性」を、彼は確信しているように見えるのです。 
 パウロが観ている「完全性」は、いったいどういう事を意味しているのだろうか。
 達成とは、人の評価とか価値とかではない
   人は老い、やがて地上でのからだは朽ち果て、土に還ります。人の生物としての限界はあまりにも明白です。人は、それゆえ隣人を愛するという具体的な行動も、いずれは断念せざるを得なくなります。ですから、限りあるいのちの存在としては、誰しもが、神の愛のみ旨を行動にうつすことができなくなるのです。
 そうであっても、キリスト者の完全を達成すべく、真剣に、衷心から努力を続けるべく「もがきあがく」べきなのでしょうか。
 いやいや、そういう「達成度」は、「評価」主義、実績主義ですから、神さまは人を、そういう秤で観ることはなさらないでしょう。
 では、「キリスト者の完全」とはいったいどういう事なのでしょう。
 いのちのみことばをかたくたもつ
   「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(13節)
 みことばに立ち帰って考えます。
 人の内に働く神ご自身が、人に「御心のままに望ませ、行わせておられる」のです。
 わたしたちは、老いようが、病に伏せようが、いかなる苦境に墜ちようが、つまり、わたしたちのからだやこころがいかようであろうとも、神の恵み(恩寵・御心)は、「神の御心のまま」なのですから、決して変わらないのです。
 わたしたちが認知症になったとしても、それによって神の意志が変わるはずはありません。「神の御心」は、絶対なのです。
 だから、わたしたちは、この「いのちの言葉」にかたく立つこと、「いのちの言葉」をかたく保つことは、わたしたちの限界をはるかに超えているのです。
 この確信をパウロは獄中で語っている 
  フィリピ書を、パウロは獄中で書いていることを忘れてはなりません。彼は身体の自由を奪われた環境で、会うことのかなわぬフィリピの信徒たちに、「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」と、励ましているのです。彼には外的な環境は、なんら精神の自由に影響してはいません。
 むしろ、彼は殉教すらも予感しています。
  「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。」(17節)
   獄中にありながら、会うことすらできないフィリピの信徒たちの従順な信仰、みことばにかたくたつ信仰、恐れおののきつつキリスト者の完全性の達成に生きることを心から喜んでいるのです。
 信徒たちが神に捧げる礼拝に、パウロの殉教の血潮が注がれるという比喩を、大胆に彼は語り得ました。自分の殉教の血潮が、信徒たちの真実の信仰へと導くことが出来さえするなら、それは主イエスが人類の救いの為に死に至るまで神に服従した、その道をなぞることに他ならないがゆえに、「わたしは喜びます」というのです。「あなたがた一同と共に喜びます。」と言うのです。
 苦難のさなかにありながら、会うことのできない信徒たちの信仰達成の成就を衷心から喜び、共々に喜ぶことを望むのです。ここには「苦難のアナロギア」があります。主イエスと苦難を共にし、信徒の救いのために苦難することを喜びとする「信仰のアナロギア」が成立しています。 共々に喜びましょう。
                      



               

2025年6月22日日曜日

 2025年6月22日 (聖霊降臨節第3主日)

使徒言行録17章22節~34節

「悔い改めの使信」


パウロの「説得術」
 アテネの人々のまえで、パウロは路傍で伝道説教を始めました。 
「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。」

 人々の世界観、信仰観をまずは、「認めます」という語り始めでした。しかし、「パウロはアテネで二人(シラスとテモテ)を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。(16節)」とあるように、彼の内心は、アテネの偶像崇拝に、実のところは、激しい憤りを感じていたのです。

 相手に無用な反発心を生じさせるのは得策とは言えないでしょうから、内心を表には出さず、相手の立場をいったんは承認する姿勢を示すことは、対話を成り立たせるうえでは正しい選択だったとは思います。
 内心とは裏腹に、実は相手の神への信仰観や世界観を根底から覆し、まことの神信仰とは「あなたがたが信じているような事柄ではないのだ」ということを伝えようとしているのですから、本心を隠していることにはなるでしょう。
 パウロは、ある種の「説得術」を試みているのです。
 このような「説得術」は、ある意味、わたしには小賢しい方法ではないかと思わないでもありません。
 なぜなら、まことの神への真実な信仰は、人間的話術による「説得」で、生起する事ではないからです。わたしは大胆にも、使徒パウロの伝道説教を批判しました。
 パウロといえどもわたしたちと人間としての存在は、神の前に完全に平等ですから、批判もまた自由なのです。パウロもまた人間ですから、問題も抱えていて当然です。わたしはパウロが間違いをおかしたと言っているのではなく、内心を隠して相手に迎合するような「説得」には疑問ありと思っているにすぎません。真の信仰は、ただ神さまが生起せしめると私は信じているのです。
 事実パウロののこの伝道説教によって、アテネの人々はどのように反応したかというと、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。」(32節)  とあるように「あざ笑う」者あり、「いずれまた」と言って距離を置く者がいたとあるように、自らの「信仰」問題として突き詰めて考えなかったという報告をルカはしています。ただ信仰を告白する者たちもいないではなかったというのですので、反応は相半ばしたというところでしょうか。

   宗教的多元論
 ジョン・ヒックという人の提唱する宗教多元論という思想があります。パウロの説得術には、ある意味で、宗教多元論に近いものがあるように思います。つまり、パウロがアテネでみつけた「知られざる神」と刻まれた祭壇は、アテネの人々が知らずに拝んでいるが、それは「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。」と同一化しているところからも、その近接性ゆえに分かります。

宗教多元主義が誤りだというつもりはありません。わたしたち被造者が神について語ることには、自ずから限界がありますから、語る資格はそもそもないからです。
 わたしたちが語りうるのは、せいぜい「私はかく神を信じている」ということに制限されるでしょう。
 パウロもまた、事情はわたしたちと変わりません。
「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(23節b~24節)
  彼は、明らかに彼自身が信じている「神についての教説」を述べています。すなわち、「われは天地の創り主たる神を信じず」という信仰内容です。
「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(25節)
つぎには、また十戒の第一戒と第二戒「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。」」(出エジプト記20章3~4節)という禁止命令を伝えます。偶像崇拝の禁止です。この禁止命令こそが、アテネの人々の魂に届くかどうか。パウロの真意はここにあります。直接、「神はかく語りたもう」という表現はとらず、「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。」と婉曲に神の神性の不可侵性を伝えています。
 「ギリシア人にはギリシャ人のように」というパウロの姿勢がここに示されています。
 わたしは、安直な「迎合」には、抵抗を感じるのですが、このような姿勢は、相手に対する深い愛から生まれるもので、「迎合」とはいえないと思っています。「婉曲」表現と「迎合」表現とは区別すべきなのです。
「あなたの神信仰も正しい。正しいけれど、実は間違っている」というのであれば「迎合」でしょう。「あなたの神信仰も正しい」と「迎合」しているからです。「迎合」しながら、相手の信仰は間違っているというのは、「看板に偽りあり」です。
 けれども、「あなたがこれまで知らずにいたでしょうから、あなたのその神信仰は、その意味で認めるべきです。知らずに信じていたからです。しかしあなたが心底求めていたはずの神は、あなたは知らなかったでしょうが、実は天地の創造者であり、人間がつくりあげたモノではなく、生きとし生けるものに命を与える方なのです。」というのは、神の神性の「婉曲」表現でしょう。こういう事を宗教多元主義というのであれば、これ自体はあり得る立場だと言えましょう。
 ただし「あの神OK、この神もOK」というような多元主義は、聖書を通してご自身を啓示したもう神への信仰からすれば、あり得ません。まことの神は偶像崇拝を明らかに禁じているからです。
 「神は近くにいましたもう」 
 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」(27節)
   神は創造主であり、人は被造者です。天は天であり、地は地です。被造者である人と創造者でありたもう神との間には、「無限の質的な差異」があります。それゆえ、人は限りなく神と遠く、神は限りなく人と遠いのです。しかし、パウロは、ここで「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」と宣言します。偶像は人の近くにいつもいます。なぜなら人がその偶像の神を創っるのですから、人の願望や都合で祭り上げることはたやすいはずです。まことの神はそうはいきません。神が人を創造し、命を与えたのです。人の都合で神を動かすことはできないし、あってはならないのです。だから人のおもいのままにはならないのが、まことの神であられます。だから人の思いをはるかに超えた方こそがまことの神であられます。ですから、人から神は限りなく遠い存在なのです。
 ところがパウロは、神は近くにいましたもうというのです。
 アテネの人々にとって、「天地の創り主なるまことの神」が無限の彼方の遠き存在であられるのに、「近くにいましたもう」という神への信仰を、パウロを通して初めて知ったことでしょう。
 このはじめて聴いた神の存在に、激しく魂を揺さぶられた人々もいました。この人々は、単にパウロの説得術によって説得されたのではないはずです。まことの神の存在に感動したのです。魂の震撼を得させた方は、神ご自身なのです。
「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。」(34節)
   悔い改めの使信
  パウロは、ギリシャ神話の別の文脈とは言え、旧約聖書の人類創生の出来事を前提として、人はみなすべからく神の子孫(「神の似姿」(創世記1章26節)だと言って、「神の子孫」という共通術語によって、人の起源を「神の似姿」だという人間論を宣言します。つまり人は、「神の似姿」という本来的な自己を神によって創造されているという、人の自己像を極限にまで高めるのです。
 だからこそ、「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」(29節)と、神を人の「つくりもの」とする偶像崇拝を捨て去らねばならないと、勧めることができたのです。神を人の「つくりもの」にすることなどあってはならないと。
 神は、そんな人の「つくりもの」ではないのに、神を人の従属物に貶めてしまうようなことが平気でできてしまえるのは、まことの神への「無知」から生じていると、パウロは断罪していることになります。
 まさしく「断罪」なのですが、「婉曲」表現で、人は「神の子孫」なのだから、「神である方を」、人の「つくりもの」と「同じものと考えてはなりません」と、愛をもって、婉曲に、しかし本質的には、厳格な禁止命令によって「断罪」しているのです。
 こうして観て行くとき、このパウロの伝道説教は、人間的な話術、説得術とみるよりも、婉曲表現による弾劾宣教であるとみるべきだということがわかります。
 それゆえ、アテネの人々にむかって、「悔い改め」を迫ることができました。
  「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」(30節)
  婉曲表現ですから、言葉使いは優しく、柔らかいですが、内容は、極めて深刻な罪の弾劾なのです。
 弾劾であることによって、罪の赦し、贖いの主イエス・キリストこそ、信ずべき神の独り子であることを宣教するのです。
「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」(31節)
    罪の裁きの日こそが、救いの成就の日
  「この世を正しく裁く日をお定めになった」。
 「審判」の日が定められたということが、「罪の赦し」が確実になったことを意味しています。真実な裁きなき、真実な救いもないのです。ゆえに人は、真実な裁きがおのれにくだされることを、魂の奥底では願っているのです。
 おのれの罪が裁かれ、その裁きの報いを、独り子なる神イエス・キリストがすべて負ってくださり、その贖いによって、人はおのれが、罪なき本来の「神の子」として、神に迎えいれられることを、キリスト・イエスの十字架の死と甦りが確証してくださったからです。 
 わたしたちの近くにいましたもう救い主キリスト・イエスの現臨を感謝します。 アーメン

 

2025年6月16日月曜日

 2025年6月15日 (聖霊降臨節第2主日 )  (三位一体主日)

  田瀬・付知教会合同礼拝   (内木家記念礼拝)

エフェソの信徒への手紙1章3節~14節

「あらゆるものが、キリストのもとに」


  「あらゆるものが、キリストのもとに」

         エフェソの信徒への手紙1章3節~14節

 ロシアによるウクライナ侵攻によって既に100万人もの人々が死亡したとの報道がありました。

 一人の兵士の母親が、ある神学者に尋ねたことがあります。わたしの息子は天国へ行けたでしょうか、と。

 神学者は答えました。

 わたしは、聖書に証言されている事柄を信じています。

 「あなたの質問は、まぎれもなく根源的な問いであることは間違いありません。人は死後の命運について誰しもがあなたのように問わざるを得ないのです。しかし、その答えを私が、私の責任をもって答えることはできませんし、他の誰でも同様です。その答えはただ、人に命を与え、命を取り去ることがおできになる創造主であられる神さまだけが答えることができるでしょう。造られた存在にすぎない人には、創造主の位置に置くことはできないのです。人はただ信ずること、ただ祈ることはゆるされているし、信ず祈ることはできるのです。」

  根源的な問いとは、その問いが根源的であるという意味です。そのほかの問い(自余の問い)とは区別される問いです。この問い以外の問いは、この問いの答えによってまったく意味がなくなるほどの問いです。

 人の死後の命運についての問いは、人には答えることが絶対に不可能な問いであり、かつまた根源的な問いであるゆえに、不可欠な問いなのです。問わずにはおれない問いなのです。

 この母親の問い、愛する息子の死後の命運についての問いは人の生命についての問いでした。人は人を産み育て、そして生涯を生き抜き、やがて世を去ります。生命の遺伝子は、個人の時を超えて人から人へとつながりゆきますが、個人の生命の命運はこの世のわずかな時を刻むだけのものなのであろうか。この母親の問いは、即、祈願に他なりません。

 エフェソの信徒への手紙は、ここで繰り返し「キリストにおいて」(11回)と語っています。

 人が信じ、祈ることを、創造者であり父なる神さまに、その祈りを届け、かなえてくださるのは、神と人とのただおひとりの仲保者キリスト・イエスだからです。

 キリスト・イエスは断言されました。

「23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 

         (ヨハネによる福音書16章23節~第24節)

「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」(23節)

  主イエスは、このように断言してくださいました。わたしたちは、この主の言葉を信じることができるのです。祈ることができるのです。

 神さまは、わたしたちを選んでくださった。この「選び」には、選ばれない人のことを語るために「選び」が語られているとは思えません。なぜなら、神の救いの目的が、「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(10節)とあるからです。

 「天にあるものも地にあるものも」とは、あらゆる存在を意味するからです。最後的目的がすべてのものの「統合」であるなら、その「選」にもれる「選ばれないもの」は存在するはずはありません。

 ですから、「わたしたち」は、実に、このみことばを信じ、祈る「わたしたち」です。

 神さまは、天地創造以前に、この「わたしたち」をすでに選んでくださっているというのです。

「4天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」

 わたしたちの命運は、「キリストにおいて」すでに神のお定めによって定められているというのです。

 それは、神さまがわたしたちを愛して、「イエス・キリストによって」、「聖なるもの」、「汚れのないもの」、「神の子」とするため、「御心のままに定めてくださった」というのです。

 わたしたちを、神の子とするために、神は、キリスト・イエスにおいて、「その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(7節)

   創造主なる神さまは、神の栄光、神の恵みの栄光を、わたしたちが「たたえるため」に、この選びを定めてくださった。

 ですから、あの根源的な問いの答え、すなわち「わたしたちの信じ、祈ること」は、わたしたちを、キリスト・イエスの血潮によって罪赦され、聖なるもの、汚れなきもの神の子とするという「輝く恵み(恵みの栄光)」を、たたえること(讃美すること)に直結するでしょう。

 このときすでにわたしたちは、あの「信じ、祈ること」の実現を堅く信ずることへと招かれ、ゆるされています。そのことで既に、天地創造以前からの、あの「御心」の実現を堅く信ずることへと招かれ、赦されているのです。

 このことこそが、「キリストに希望を置く」ことであり、「神の栄光をたたえる(讃美)」ことに他ならないのです。

「13あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」





2025年6月7日土曜日

 2025年6月8日 (聖霊降臨日) 14:00

          東濃3教会聖霊降臨日合同礼拝        こどもの日・花の日



 「聖霊降臨の出来事」

                  使徒言行録2章1節~11節
1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

宣教事前黙想

 復活者イエスの出現の記録は、「甦り」の主が、「からだの甦り」の主でありたもう事実を示していたことは明らかです。
 しかしながら、その「甦りのからだ」の「身体性」は、自余の被造物のような「身体」でなかったこともまた明らかでした。復活者イエスの「甦りのからだ」は、閉じられた戸を開けずにとも、突如として弟子たちの真ん中に出現できたし、焼き魚を弟子たちの前で食べたりもされた。被造者のごとき様相を示していながらも、被造者であることを完全に超越した存在として、弟子たちに出現されていたのです。
 復活の主イエスの「身体性」は、人類の永遠の命、アブラハムの懐(ふところ)で、人類が授与される永遠の身体がいかなる存在となるのかを主イエスみずからお示しになられたところの「身体」だったといえましょう。
 復活者イエスと等しい身体とされることが、人類の、わたしたちの希望なのです。

 ヴィットゲンシュタインという哲学者の有名な言葉があります。
「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」
" Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.
           『論理哲学論考』

 死後の世界は語ることができなしいし、沈黙すべき事柄 

 いわゆる「死後」の生命については、「語りえない」事柄です。哲学者は、語りえない死後の生命については、人は沈黙せねばならないというのです。

 言語もまた人間世界の事柄ですから、被造者的な限界を持っています。ですから、言語で、被造者的限界を超えた「神の存在」を語ることはできないということになりましょう。

 聖書が証言している「聖霊降臨」の出来事も、言語の出来事としては「不可解」なものとなっているのは、言語の被造者的限界のなかで、神の存在、神の啓示の出来事を書き記すことが本来不可能だという現実に起因しているのではないしょうか。

 言語は、この聖霊降臨の証言において、ただ指し示す言語、比喩としての言語の範囲内に留まらざるをえないことが、不可解のもととなっているのではないでしょうか。

 たとえば、「炎のような舌」という表象が証言には記されていますが、「炎」も、「舌」も比喩的にしか理解することができません。 

 「炎」は神顕現の比喩であり、「舌」は言語の出来事を示す比喩です。

 視覚的な表象ですが、後世の画家も、「炎のような舌」を視覚的に表現することに困難を感じたのでしょうか、「舌」そのものを描かない絵画もあります。言語的にも視覚的にも神の啓示の出来事として表現することが困難なのです。有名なエル・グレコの「聖霊降臨」を見ても、「舌」のようには見えません。「舌」は、「言葉」を意味している用語ですのです。言葉を視覚的に表現することは、そもそも困難です。 

 霊の甦りではなく、からだの甦り

 初代教会は、復活者イエスとの出会いによって、甦りの希望を与えられました。
 しかし、当初から、主イエスの甦りは、「霊的な出現」であったと主張する人々が存在し、教会の信仰を脅かしていたようです。仮現論(ドケティズム)という異端は早くから存在していたのでしょうが、このような理解は、わかりやすいので、伝播力は凄まじいものがあります。わかりやすいというのは、想像しやすいからなのです。そもそも「霊的」という場合、その意味内容は、この用語を用いる人の考えの深浅に左右されます。つまり、使う人によって、勝手に想像のまま使うことができるのです。現代に「スピリチュアリズム」が流行するのも、人によって勝手にイメージをその人その人が創り出しているからなのです。
 「死後の世界」と呼んだり、「霊界」と呼んだり、「スピリチュアル・ワールド」などと、手を替え、品を替えて安易な使い方をしていますが、それらの用語の概念は、それぞれ別ものなのに、人は安易に「同一視」し、勝手に意味づけをしています。
 さらには、「霊界」と通信できるなどという事を言い出します。
 古来から、「口寄せ」とか「霊媒」とかの職業的な霊界と交流できると自称・他称の「巫女」「巫覡(ふげき)」は存在していました。旧約聖書は、このような存在を神への冒涜として厳しく禁止していますが、本来知り得ない、語り得ない死後の世界とか霊界と交流できると言い得る能力をもつという思想は、まことの神以外に知り得ない、語り得ない事柄を、知っている、語り得ると言うに等しいからです。言い換えれば、神の立場に自分を立たせていることに他ならないからでした。(レビ記 19:31、申命記 18章9節~14節)
注記 口寄せ(くちよせ)とは、霊を自分に降霊(憑依)させて、霊の代わりにその意志などを語ることができるとされる術。または、それを行う人である。

巫(ふ、かんなぎ)は、巫覡(ふげき)とも言い、神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指す。女性は「巫」、男性の場合は「覡」、「祝」と云った。「神和(かんな)ぎ」の意。

 主イエスの甦りを、単なる人間の能力の範囲内で想像し得る「霊的なよみがえり」だという主張は、「巫覡」と、質的に同一の前提が、その思想の根底にあるのです。

 霊的な甦りだという主張は、イエスの十字架の死の贖罪はどうなるのか

 論理的に考えてみよう。
 霊的に復活したという思想の前提には、通俗的な「霊魂不滅論」があります。人は死ぬと、肉体から霊魂のみが離れるというのです。イエスの「霊魂」が弟子たちに現れたという理解です。そうだとすると、イエスの十字架の死が、神の御子という代贖という意味はなくなってしまいます。イエスがただの人として殺されただけという意味になってしまうのです。「神の独り子の死」ではなくなるのです。主イエスは、死んで「よみにくだり」という意味もなくなります。死んでしまって、肉体は土に還ってしまっただけになります。このような「霊魂不滅論」を前提とした「霊的復活」しただけの「甦り」だとすると、主イエスの死は、ただの人の死にすぎなくなります。神ではないということになります。
 また、このようなイエスの死の理解であるなら、イエスは神ではなくただの人にすぎないだけではなく、イエスによる救いもまた存在しなくなります。イエスの「霊魂」を信じるということはどういうことを結果するでしょうか。ただの人にすぎない「イエスという男」を信じると言うことによっては、神と人間とが離反してしまった「神喪失性」(死)は、そのままになります。つまりこのような「イエスという男」の「霊魂」を信じても、「罪の贖い」はないことになります。このような「信じ方」によっては、治癒奇跡行為者イエス、すぐれた道徳的教師を信じたにすぎなくなります。これではもはや、キリスト教信仰とは別物です。「霊的復活」だという主張は、罪の裁きなきものです。それゆえ、裁きなきところに救いもあり得ないのです。
 

 キリストの昇天を礼拝した弟子たちは祈りつつ待っていた

 復活者イエスが弟子たちを祝福しながら昇天してゆくありさまを、弟子たちは礼拝しました。このとき、彼らははじめて、この時、復活者イエスを「まことの神」ご自身であられると、はっきりと認識したからこそ、神を礼拝したのです。
 復活者イエスは、まことの神であられる。
 まことの神の独り子なる神であられる。
 この神認識を、彼らはイエスの祝福と使命委任によって贈与されたのでした。
 この主の昇天は、事実として生起したことは疑いようがありません。
 なぜなら、弟子たちは「大喜び」で、主の命じたまま、エルサレムへと向かい、主がおくりたもう助けぬし、すなわち聖霊降臨を祈りつつ待ったからです。
 弟子たちのこの共同的な喜び、共同的な祈り、共同的な待望は、主の昇天を、彼ら全員が共同的に体験したという事実によってしか、説明できません。
 主の昇天の出来事は、ただ神の出来事としてのみ理解する他はない出来事なのです。主の昇天の出来事は、人間の経験則によっては、いかなる意味でも承認しがたい出来事です。人間の自然の認識力を超えている出来事なのです。
 ただの「霊魂」の昇天であるなら、「昇天」の必要すらなかったでしょう。
 ただの「霊魂」であるなら、共同的な体験として、同時に生起する必要すらなかったでしょう。否、弟子たちに出現する必要すらなかったことでしょう。
 ただの「霊魂」にすぎないのであれば、人間の頭脳の中で想像しさえすればよいからです。
 「キリストの昇天」は、ただ神の啓示の出来事として理解するときにのみ、了解されるのです。いかなる意味でも、自然現象のような事象として理解することは不可能な、そしてかつ具体的な出来事だったのです。
 

 聖霊降臨は神顕現の出来事であり、共同的にして個人的な派遣の出来事

 神の啓示の出来事は、人間的事件とはまったく別次元の出来事です。
 人間の言語では表現することはできないのです。その不可能な事柄を、不可能でありながら、その出来事を表現しなければならないとき、福音書記者は視覚的なイメージで、その人間にとっては不可解な出来事を不可解なままに記録にとどめてくれたのです。それが聖霊降臨の出来事でした。
 この啓示の出来事は、主イエスの派遣の予言の成就として生起しました。
 独り子なる神・復活者イエスによる聖霊さまの派遣の出来事なのです。
 聖霊さまの派遣は、祈りつつ待望していた弟子たちの共同体に生起しました。
すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(4節)

  「一同は聖霊に満たされ」という言葉が、この出来事が、弟子たちという集団に、共同的に生起したことを示しています。

 共同的な派遣の出来事だということと同時に、この出来事が、まったく個人的な次元においても生起していることが示されています。 

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。(3節)
 共同的にして個人的な派遣なのです。
 

 聖霊降臨は言葉の出来事

 聖霊は、教会共同体に派遣されたということが、教会という存在を、わたしたちがいかに認識するかということの基礎です。
 すなわち、教会・キリスト者共同体は、「聖霊の共同体」だということなのです。
わたしたちは、使徒信条において告白します。
   我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
  罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン

「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と告白します。つまり聖霊を信ずるということは、教会を信ずる信仰なのです。聖徒の交わりを信ずる信仰なのです。

 信仰は人が語りえぬことを、神が語りたまうことして信ずること

 身体のよみがえりを、わたしたちは信じます。キリストがわたしたちに与えてくださる永遠の生命を信じます。「身体のよみがえり」も、「永遠の生命」も、被造者にすぎない人間には決して語り得ぬ事柄です。絶対に語ってはならない事柄です。

 ただ、まことの神ご自身がお示しになる他はないからです。

 聖霊降臨の出来事によって、わたしたちは語るべき言葉を、聖霊さまご自身が語らせるままに語るべき使命を、主イエスより使命を委任されました。それゆえに、わたしたちは、世界のすべての人びとに、主が語り給ふ救いの福音を宣べ伝えなければなりません。

 いまや、人が語りえぬ事柄を、神ご自身が語らせるように語るべき者とされたのです。

                            アーメン


 


2025年6月1日日曜日

2025年6月1日 (復活節第7主日「キリストの昇天」

 2025年6月1日 (復活節第7主日)アジア・エキュメニカル週間(7日まで)



宣教黙想

                         「キリストの昇天」

ルカによる福音書24章44節~53節

イエスは言われた。

44「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

48あなたがたはこれらのことの証人となる。

49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」


天に上げられる(マコ1619―20、使徒19―11)

50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。

51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、

53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。


  エマオ途上

    エマオ途上で主イエスに出会った弟子たちが、エマオでの食事に際して、「眼が開け、イエスだと分かった」が、たちまち、主イエスの姿が見えなくなったという経験をして、「時を移さず出発して」、彼らはエルサレムへと戻りました。

 彼らが、エマオへ向かっていたのには、何らかの目的があった筈ですが、主イエスとの出会いの経験をしたことによって、まったく彼らの当初の目的などはどこかへ雲散霧消してしまっていたようです。

 彼らは、「時を移さず、エルサレムへと戻った」のです。

 この二人の弟子の行動の変化を見ると、主イエスとの出会いの現実性がわかるような気がいたします。彼らは、主イエスだと「分かる」以前、エマオ途上の時から、「聖書を説明してくださったとき、心が燃えていた」 のですから、眼前のお方が、主イエスだと「分かった」瞬間から、彼らの心は、いっそう激しく感動していたと思われるのです。

 彼らの当初の目的などは、もう眼中にありません。彼らはもう、いてもたってもいられない強い感動に充たされていたに違いありません。

エルサレムに戻ってみると、「11人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」のでした。そして二人の弟子もまた、「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」とあります。

 このような語り合いの最中のことです。

 ルカは、「こういうことを話していると」と、エルサレムでの、弟子たちの語り合いの場面での出来事だという説明をします。

    復活者イエスの出現

 その場に、主イエスがご自身を現されるのです。復活者イエスの出現です。

 この出現によって、主イエスご自身が、ご自身の「身体」をお示しになられた事が大切な意味をもちます。弟子たちは、はじめ目の前に出現したイエスをみて、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」からです。つまり、彼らには、死んでいるイエスが亡霊となって現れたと咄嗟に思ったというのです。主が復活してシモン・ペトロに現れたということや、エマオ途上で主イエスを旅の道中を共にした弟子たちもいたのにもかかわらず、現に目の前にいるイエスが甦った主だとはにわかに認識することができなかったということです。

 彼らが咄嗟に思ったのは、古来ヘレニズム世界では通俗的に信じられていた「霊魂不滅」の「共通感覚」で理解したのです。 人は死んで霊魂だけが肉体を離れて「霊界」に住むという考えです。「霊界」からこの世へと、出てきた幽霊とか亡霊とかという形で出てきたのだと、彼らの脳裏には浮かんだのでしょう。こういう考え方は、古来から現代に至るまで、多くの人びと漠然と受け入れている考えです。

 復活者イエスが弟子たちに出現したときに、主はこのような考えを木っ端微塵に粉砕する御言葉を語られました。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足をみなさい。まさしくわたしだ。触ってよくみなさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり。わたしにはそれがある。」

  「まさしくわたしだ」と主は言われました。十字架上で殺され、三日目に甦ったところのまさしく「わたしだ」と断言されたのです。すなわち亡霊・幽霊の類の存在ではないことをお示しになったのです。(38節~39節)

 主の復活を、「霊的に復活した」などという考えを主イエスは粉砕したのです。「霊魂不滅」論と同様に、「仮現論」(ドケテイズム)*1という思想を否定されたのです。

   弟子たちは、それでも「喜びのあまりまだ信じられず。不思議がっているので」と、彼らの「不信仰」は依然としてそのままでした。復活の主イエスだと言われているのに、まだ「不思議がっている」というのは、復活者イエスの「身体性」を、いまだ受け入れられないということでしょう。彼らの認識能力の限界をはるかに超えた現実だったのです。

 人間は、手持ちの認識の道具(理性や知識)でしか、認識することはできないものです。わたしたちは、「神」を認識することはできないのです。たとえ、神ご自身であられる復活者が目の前にいたとしても、「神」と認識することは不可能なのです。

 主イエスが、「なぜ、うろたえているのか」と叱責されたとしても、無理なものは無理なのです。人間の側からは認識できないのです。ただ神さまご自身の自己贈与という出来事が起こるときにのみ、わたしたちに授与された神の力によって、いわば神さまだけが神さまを認識できるのです。

 まだこの場での弟子たちには、「否定の方法」によってしか、復活者イエスを知ることができない状態だったのです。

 主はなおも、ご自身の「身体性」をお示しになられました。

 「ここに何か食べものがあるか}と言われ、焼き魚を、彼ら前でムシャムシャと食べられたのです。幽霊が物体である焼き魚を食べるはずはないのです。「そんなことはありえない」という方法で、弟子たちにも「分かる仕方」で、ご自身の「身体性」を否定できない仕方でおしめになられたのでした。「幽霊」が物体を食べることは出来ないから、幽霊ではないという仕方です。

    聖書に書いてある事柄は必ず実現する

 エマオ途上での聖書の解き明かしと同じことが、主イエスによって語られました。

    44「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

   聖書は、実に主イエス・キリストををこそ予言した神の言葉なのです。

  主イエスによる、聖書全体の総括的な要約とみいうべき御言葉が示されます。

    45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

    46言われた。

    「次のように書いてある。

    『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

    47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。

 ここにきて、復活者イエスの神の力によって、神の力の自己贈与の出来事が起きました。 「彼らの心の目を開い」たのです。 

  弟子たちの「心の目を開い」たということは、神ご自身が、神として、神の力により、神の力(認識力) を弟子たちに賜ったということです。

 そして言われた。「あなたがたは、これらのことの証人となる」と。

    49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

  主が、弟子たちに、神の力の自己贈与によって、ご自身が、神の独り子なる神として、十字架において死にたまい、三日目に甦った、人類への愛の道を、いま弟子たちにも、その道を辿るべき使命の委任をされたのです。

 主の昇天

 主イエスは、弟子たちをエルサレム近郊のベタニアまで連れてゆき、祝福されました。

 この祝福は特別な意味をもちます。この祝福を受けた弟子たちは、今までとは違った意味で、主イエスを「伏し拝む」ことになったからです。これまでの主イエスへの敬愛、尊敬というような意味での伏拝ではないのです。彼らはこの時はじめて、主イエスを、「神」として礼拝したからです。

 彼らが主イエスに命じられたように、エルサレムへと帰りますが、彼らは「大喜びで」とあります。そして、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と命じられた通りに、ペンテコステの出来事が起こるまで、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」というのです。

 わたしは、彼らの「大喜び」を黙想するのですが、弟子たちのこの「喜ぶ」姿は、まさしく彼らが共同の体験として、復活の主イエスの出現を経験し、それだけではなく、主イエスの力を身に受けて、主イエスが歩まれた愛の道を行くようにされた、その現実が、この「大きな喜び」なのではないだろうか、と思えるのです。

 だから、この主の証人たちは、貧しい漁師だったり徴税人だったりの小さき者にすぎなかったのに、いまや彼らは、主イエスの力を充満させて、主の使命委任のみことばを実際に生きるものとされるのです。

    47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

    48あなたがたはこれらのことの証人となる。

 彼らは、主の祝福のこの時から、あらゆる国の人びとに、「福音」を宣べ伝えるものとされたのでした。わたしたちの信仰は、この主の昇天によって、弟子たちが主との別離の瞬間から、主が彼らと共なる存在といて、生きるようになった、そのことを同じ事が、わたしたちにも起きている、そのことなのです。

2025年5月24日土曜日

 2025年5月25日 (復活節第6主日)

マタイによる福音書6章1節~15節

「イエスの祈り」

1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。

4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

9だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。

10御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

12わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

13わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。

15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」


  主イエスが弟子たちに、かく祈れと命じたもうた「主の祈り」について、黙想します。

   「偽善者のようであってはならない

 主イエスは、「偽善者のようであってはならない」と言われました。

 「偽善者」というのは、「人にみてもらおう」という動機で、祈り時にも「会堂や大通りの角に立って祈りたがる」と、偽善の動機を鋭く指摘されました。

 「善行」や「施し」と同様に、「祈り」も、他者から賞賛を得たいという名誉心が動機となる場合は、その他者からの評価や賞賛という「報酬」を目的とする動機がある以上は、それらはすべて「偽善」だというのです。

 「善行」や「施し」、「祈り」さえもが、信仰的、霊的な意味、動機から離れた人間の名誉欲という欲望に基づく限り、それらは「偽善」であって、そのような行為は、人間からの報酬を受けているので、神からの報酬を拒む事になるということになるので、すべきではないというのです。

 人の報酬ではなく、神の報酬をこそ求めるべきだというのです。

 ところで、神からの報酬を求めるということは、わたしたちの地上的な生においては、ただ信仰においてのみ希望することができるのであって、眼には見えない報酬です。

 生きている間には、ただ希望の対象であるだけです。地上的生のあいだにあっては、認識することができない報酬です。

 逆に言えば、目に見える報酬は、すべて欲望にもとづくものだということになります。人間欲望に起源する報酬への執着は、主イエスによれば禁じられているということです。


  褒めると、人は褒められるために行動するようになる

  モンテッソーリ教育では、こどもを褒めてはいけないと教えます。

 なぜならこどもは褒められると、褒められたという報酬で快感を得た経験をすると、その報酬を再び得たいという欲望にかられて、褒められたいから、何かをするという行動のパターンを身に着けてしまうからです。

 人から褒められたいがために頑張るという行動パターンを身に着けたこどもは、みずからの主体的な努力に意味を見いだせなくなってしまうので成長できなくなるのです。ですからモンテッソーリ教育では安易な褒め言葉は禁句です。

 こどもには、神が与えた自発的な動機・創造性がかならず備わっています。だから、じっと見守るのです。大人は手本を示すだけです。こどもは大人の行動・模範をみて、自分もやってみたいという思いへをもちます。そのとき、大人は「やってみる?」と促すのです。

 大人のしぐさ、行動を興味深く、実に集中して観察するものです。神はそのように人を創造したもうたからです。

「やってみる?」。

「うん」。

    こどもは驚くべき集中現象を起こして、みごとに大人と同じようにさまざまな事を成し遂げてゆきます。そのとき決して褒めたりはしないのです。

 なぜなら子どもは、成し遂げたという喜びを沈黙のうちに味わっているからです。

人に見せるためでも、賞賛されるためでもなく、自分自身の内面の達成感という報酬を味わっているからです。

 「祈り」・「善行」・「慈善」行為も、同じです。祈りは「密室」で、善行や「慈善」は「右手の行為を左手には知らせない」ようにすべきなのです。

 祈りも善行も霊的な行為なのです。


 神からの報いを得ようとするなら、人に見られることを避ける。

  主イエスは、徹して人にみせるための善行や慈善、そして祈りを避けるように命じます。特に、祈りは「密室」で祈るべきことを命じられました。祈りは、神さまに捧げる行為です。神に捧げる行為を、人にわざわざ見せるとき、それは神さまに捧げる純粋な祈りではなくなってしまう、人から「あの人は信仰深い人だ」と思われたい、そういう評価を得たいという動機によって、祈りを祈りではなく演技にしてしまっているというのです。

 偽善という言葉の語源は「演じる」だそうです。

  ※偽善 (hypocrisy) という単語はギリシャ語の (hypokrisis) から来ており、原意は「演じる」であり、そこから「本心で無い感情を持っているふりをする」へと意味が変化してきた。

  

  神は隠れたところにおられる

   神は、「隠れたる神」(deus absconditus) なのです。神さまはわたしたちにすら御身を隠されていたもうというのです。(『隠れたる神』ニコラス・クザヌス)

     ※「隠れたる神」deus absconditus は、『イザヤ書』45:15《イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である》(日本聖書協会訳一九五七年版)《Vere tu es Deus absconditus, Deus Israel, salvator》 からとられたもの。

   「隠れたる神」は、人間の知によって把捉されえない創造主なる神です。

創造者が被造者によって把捉できるはずはないからです。把捉できるとすれば、その「神」はすでに、まことの創造者ではなく、人間の知によって把捉可能な概念にすぎないでしょう。わたしたちは、わたしたちの頭脳の中の概念を崇めているのではないのです。

 主の祈りは、どう考えても、人間の知能の産物とは考えられません。

    『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。

    御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。』

  「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけ得たというお方が、まことの神の独り子でありたもう神であられることは、実に、人に過ぎないわたしたちから見れば、「奇跡」としか考えられません。罪深い人間には、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけ祈ることは元来不可能だからです。わたしたちがいくら自分の立ち位置から、同じ文言をもって叫んだところで、わたしたちの祈りの声は、その祈りのゆえには神さまに届くことはないでしょう。

 人間の声は、所詮は被造物の声にすぎません。被造物の声はどこまでも被造物にすぎないので、同じ被造者には聞こえても、創造者でありたもうまことの神は、わたしたち被造者の声が被造者の声に終始するかぎり、創造者なる神にとっては、所詮は被造者の声であって、そのことは終始不変です。

 創造者なる神は、人が祈る以前から人のすべてを知っておられるのです。

 人の祈りが神に届くのではなく。創造者なる神は、やはり創造者なる神の独り子主イエスの声をこそ聞かれるのです。イエスがかく祈れと命じたもうからこそ、命じたもうイエスを通して、神はわたしたちの声を聴かれるのです。

 主イエスがかく祈れと命じたもうたゆえに、「主の祈り」は、すでに仲保者主イエス・キリストの仲保によって、神に結ばれた祈りなのです。

 わたしたちの肉声を神が聴かれるのではなく、主イエスという独り子なる神の存在によって、聴かれるのです。


  神よ、願わくばわたしたちの功罪を問うことなしにわたしたちの罪をお赦しください。

    神の正義の秤(はかり)にかけられて、何人(なんぴと)が立ち得ましょうか。

「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら主よ、誰が耐ええましょう。」(詩編130:3)

 わたしたちには、なんの「いさおし」もありません。ひとつだにありません。無です。いや無どころがマイナスなのです。罪を赦される何ものもないのです。

 神さま、わたしたちの「価値」をもってはからずにおいでください。

 わたしたちも、わたしたちに害悪を与えた人々を、秤ることなしに赦しますから。(塚本虎二『主の祈りの研究』136頁)

 わたしたちは、罪のなんたるかさえ、知りません。罪そのものさえ、わたしたしには限りなく秤りがたい、それほどまでにわたしたちの罪は重いのです。だから、わたしたちはわたしたちに罪を犯す人々を、無限に赦さなければなりません。どうか主よ、わたしたちに、無限に赦す力のないわたしたちに、赦す力と英明さをお与え下さい。

      我(われ)等(ら)のうけし害(そこない)をわれら誰(だれ)にも赦(ゆる)すごとく、汝(なんじ)も我(われ)等(ら)の功(く)徳(どく)を見(み)たまはず、聖惠(みめぐみ)によりて赦(ゆる)したまへ

    

「主の祈り」は、主イエスの執り成しの祈りです。

 「主の祈り」は、わたしたちに、隣人を赦す力と知恵をも与えることができるキリスト・イエスの祈りです。

 この祈りによって、わたしたちの罪が、赦される祈りです。キリスト・イエスが、「いま、ここに」、わたしたちの人格の中心に宿り、わたしと共にいてくださるイエスが、神にとりなしてくださるのです。

 主がかく祈りなさいと命じたもう祈りを祈ることは、祈る「私」の魂の根底に、主イエスご自身が宿りたまうがゆえに、祈りの真の主体は、主なのです。主イエスご自身が「私」として祈っていてくださっているのです。独り子なる神主イエスが父なる神ご自身に祈ってくださっているのです。仲保者イエスの御名によって祈るなら、神は祈りをかならずきいてくださるのです。                              アーメン

2025年5月17日土曜日

 2025年5月18日(復活節第5主日)

坂下教会にて、東濃3教会合同礼拝  10:00開始

来週より、送迎開始。



ヨハネによる福音書14章1節~11節

「父への道」
1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
 

 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(9節)

 【父なる神を見た者はいない。誰一人していない。】

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)

 主イエスは、ご自身を見る者は、誰も見たことのない父なる神を見たのだと語られました。このような大胆な言葉を、敬虔なユダヤ人であれば想像だにしなかったことでしょう。まして自らを見た者は、父なる神を見たのだと言いだし得るという事は、余程の「狂人」か、はたまた「涜神者」か、そのどちらかでしかあり得ない、と考えたに違いありません。

 だから、主イエスを「神」ご自身だと信じない者たちは、イエスを「神を自称する冒涜者」として憎んだことは、ユダヤ教徒としては至極当然の反応だったのです。人間が、自分を見たのは神を見たことと等しいというのですから、彼らにとっては明らかな「涜神」行為に見えたのです。神は神であり、人は人なのなのに、どうしてそんなことを言い得るのか。傲慢にもほどがあるというのです。「許せん、生かしておけぬ」とイエスの反対者たちは主イエスを憎悪、殺意をさえ抱いたのです。

 たしかに、主イエスが、被造者(造られた者)としてのただの人であったならば、ユダヤ人たちの反応はまったく正当なのです。ただし、それは主イエスが、被造者であったのであればです。

 しかしながら、ヨハネによる福音書によれば、主イエスは、被造者としての人ではないのです。被造者の形、姿をもって地上に来られたことは確かにそのとおりです。しかし、主イエスは、被造者の姿・形をもって来られたには来られたのですが、神ご自身が、被造者の姿・形へと「受肉」されて来臨されたのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)

 主イエスは、「父の独り子である神」ご自身なのです。ゆえに、主イエスを「見る」ということは、「それは父の独り子としての栄光」を「見る」ことを意味するのです。

 わたしたち信仰者は、聖霊により賜った信仰によって主イエスを見るとき、そのことは「父の独り子である神としての栄光」を見ているというのです。

 ところが、神の恩寵によって賜った信仰の「眼」で主イエスを見ることなく、被造者としての「肉の眼」でしか、主イエスを見ないのであれば、その場合には、わたくしたちとて、主イエスをただの人としてしか見えないことにならざるを得ないのです。

 眼前に主イエスが、共に四時間も同道していながら、エマオ途上の弟子たちには、復活の主イエスが誰であるかわからなかった事を思いだしてください。彼らは主イエスの姿・形は正確に覚えていたはずでしたが、それなのに彼らには主イエスが誰であるかわかりませんでしたね。

 「主イエスが誰であるか」。すなわち、主イエスが「神の独り子である神」であるかどうかということは、被造者としての認識能力によっては認識できないということを「エマオ途上」の出来事は示しています。むしろ人の認識の力は無力どころか妨げですらあるのです。

 神が賜い給ふ信仰によって「眼が開かれて」初めて、彼らは眼前の方が、主イエスご自身であることを知ったのでした。

「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(14:7)

 「見ること」と「知ること」。

  主イエスを知ることは、父なる神を知ることになるのだと主は言われました。この「知るということ」は、言い換えれば「信仰知」です。「信仰の知」とは、生まれながらの人間の理性による「知」、一般的な「理性の知」とは異なります。人間理性が主体となって対象を観察・分析する「理性知」とは違うのです。

 神が賜い給ふ「信仰知」は、人間に恩寵として神ご自身の聖霊が、人間の魂に降臨し、そこで初めて、人間の魂の内部に、神の霊たる聖霊さまが内在してくださり、その内在し給ふ神ご自身が、主イエスが「誰であるか」という「信仰知」を、人間に生起せしめたもうのです。すなわち、「信仰知」とは、神ご自身が、わたくしたちに「介入」してくださることに「よって、生起する「知ること」なのです。

 このような出来事が生起するとき、わたくしたちは主イエスが「神の独り子である神」ご自身であり給ふことを「知る」ことになり、そのことはすなわち、「神の独り子である神」と一つであり給ふ「父なる神」を「知ることになる」のです。

「いや、既に父を見ている。」

 この主イエスの御言葉は、さらに素晴らしいことを語っておられるのです。

 つまり、主イエスを「見る」ことは、すなわち、「父なる神」を、「既に見ている」ことなのだと言われているからです。

 この御言葉の素晴らしさは、つまりこういうことでしょう。

 神ご自身の聖霊の授与によって生起するときにこそ、「信仰知」は生起します。つまり「聖霊降臨」が「信仰知」を生起せしめるのです。

 ところが主は、「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」とあえて言われたのです。イエスを見ることによって「父を知る」ようになる。たしかにそうです。しかい、いや、既に「見ている」というのは、「父を知るようになる」以前に、「父を見ている」というのです。ということは、「知ること」が先行して、しかるのちに「見る」ということだけではなくして、「父を知るようになる」以前に「父を見ている」のだというのです。

 主イエスを見ることはすなわち、父なる神を見ることに等しいというのです。

 だから、この御言葉は実に素晴らしい事柄を語っていると言えましょう。

 主イエスを見ることは、即神を見ること、父なる神を見ていることなのだと言っておられるのです。

 ところで、わたしたちの誰一人として、主イエスの姿・形を知るものはいません。

 主イエスは、2千年前に、天に昇られたので、復活者イエスは、その外貌をわたしたちに示すことはないのです。

 だから、わたしたちが主イエスを「見る」ということは、やはり「信仰知」において、「見る」ことなしには「見ること」はできません。

 しかし、このことは、実はわたしたちにとって良いことなのです。

「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」(14:6)

 主イエスは、語り給いました。

 「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』

 わたしたちは、主イエスの外貌を、たとえ知らなくても、主イエス「通る」道が開かれているからです。

 主イエスと父なる神は、「相互内在」しておられると、主イエスは明言されました。

 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」(14:11)

  この「相互内在」の交わりは、わたしたちと主イエスとの間にも生起すると、主イエスは言われているからなのです。

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(14:18~21)

 主イエスは、必ず戻ってきて、「世は」主イエスを見なくなるが、わたしたちは主イエスを「見る」というのです。そして主イエスの命に与って生きることになるというのです。

 「かの日」とは、いついつかという日ではなく、主が再臨される時のことでありましょう。その日は、無限遠点の日かもしれないし、「永遠の今」かもしれません。

 いつかは知らなくても、かならず「かの日」はある。その今、わたしたちは主イエスとの交わりが、独り子なる神と父なる神の「相互内在」と同じように、生起・成就することが「分かる」(知る)というのです。

  

「かの日にはわたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(14:20)

 この「相互内在」こそが、わたしたちの「命」に他ならないことは言うまでもありません。 

「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(4:21)

       それでは、この「相互内在」ということは、具体的にさらにどういうことなのか。 主イエスのこのみ言葉に示されている事を、もっと具体的に考えてゆきましょう。

 主イエスを愛するということは、具体的には主イエスの「掟」を守ることだと示されています。主イエスの「掟」は、では何なのか。それはとどのつまり、神を愛し、人を愛するという最も重要な「掟」以外の何を言うでしょうか。

 

 「愛すること」、しかも神の愛をもって愛することです。神さまが愛してくださる愛をもって、主イエスを愛し、主イエスを愛する人は父なる神に、さらに愛される。神に愛される人を主イエスは愛し、愛された人は、その人に、主イエスご自身はご自身を御現しになられると明言してくださったのです。

 

 愛の根源は神です。神は愛だからです。

神に愛され、わたしたちは、神を愛し、人を愛することができるのです。

神の愛を受け、神の愛をもって神を愛し、神の愛をもって主イエスを愛し、主イエスを愛する者は、神に愛される。神に愛される人を主イエスは愛し、主イエスはその人にご自身を現れるというのです。この愛の循環、愛の充溢こそが、「救い」の現実でなくて何でしょうか。

 主よ、わたしたちはあなたを愛します。わたしたちをして、あなたご自身を御現しください。                           アーメン 

      



    

2025年5月10日土曜日

 2025年5月11日 (復活節第4主日)   母の日

ヨハネによる福音書11章17節~27節

「イエスは復活また命」


イエスは復活と命

 17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

   主イエスの生前、死者を甦らせたという伝承は、このラザロの復活の出来事のほかにも、多くあって、初代教会では、広く伝えられ続けていたと思われますが、このラザロの復活についてだけは、共観福音書にはなく、第四福音書(ヨハネ)にのみ記録されています。

 ラザロという名の意味は「神たすけたもう」というそうですが、ルカ福音書に同名の人物が主イエスの譬えのなかで登場しています。「金持ちとラザロ」の話です。

 その名の由来が示しているように、神がたすけたもう者の、いわば代名詞のような名前です。金持ちの家の門前で、物乞いをしていたあの貧しいラザロが「アブラハムの食卓」(神の国)に召された一方で、金持ちは炎熱の陰府へとおとされます。ラザロはこの世で、貧しかったが故に救われ、金持ちはこの世で裕福だったので陰府へとおとされたという主イエスの譬えでした。この譬えは、この世で苦難のなかで生きた者が救われ、この世で安逸を貪る者が裁かれるという「救い」の本質を語ったものです。

 ラザロは善行を積んだから救われた訳ではありません。ただ貧しかっただけです。金持ちは悪行を重ねていた訳ではありません。ただ、この世で、富んでいただけなのです。

 金持ちは、残酷な事に、天上のラザロが天国にいるのを観ることができるのですが、どうしても天国に行けません。金持ちとラザロのあいだには、渡ることができない深淵があるからです。金持ちは生きている兄弟たちに、自分のようにならないようにラザロを遣わして言い聞かせてやってくださいと、アブラハムにお願いします。

アブラハムは答えました。

しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

                 ルカ福音書16章29節~30節

 この世では一度死んだラザロが天国から甦って来て、モーセと預言者(旧約聖書のこと)に耳を傾けないなら、「『たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」というのです。厳しい言葉です。つまり聖書に傾聴しないなら、たとえ死者(ラザロ)が復活してきても、この言葉に傾聴しないだろうというのです。

 逆に言えば、聖書に傾聴するならば、たとえ死者が甦ってこなくても、聖書に傾聴していればよいのだということです。

 この主イエスの譬えに登場する「ラザロ」は譬えの中の登場人物ですので、ベタニアのマリアとマルタの兄弟であるラザロとは別の人格です。けれども、この譬えには「ラザロの甦り」という事柄が譬えのなかで重要な意味を持っています。

 ベタニアのラザロは、特定の人物ですので、譬えの登場人物とはもちろん違いますが、「甦る」という点で、共通しています。

 ベタニアのラザロは、本当に甦ってしまうのです。そして主イエスの譬えどおりに、ラザロが甦ってきても、信じない者はやはり信じないのです。それどころか主イエスもろともラザロさえも殺してしまおうとするのです。

 さて、「神たすけたもう」という名をもつこの人は、わたしたちの代表のような存在ではないかと思うのです。

 主イエスによって救われるべき人類の「さきがけ」として、ラザロは救われた、ということなのではないでしょうか。

 主は、人類を救うということはいったいどういう事情で救いなのであるか、ということを、ラザロを復活させたもう出来事を通してお示しになったということなのではないでしょうか。

 マリアとマルタは人を遣わせて主イエスに病気のラザロの治癒を願いますが、主イエスはなぜでしょう、「なお二日間同じところに滞在され」ました。三日目にようやく出発されます。まるで、ラザロが既に死んでしまったことを知っていて、その死を待っていたかのような振る舞いです。

 当時、パレスチナでは、確実に死亡したか、それとも仮死状態なのかを三日後に確認するということが通常行われていたようです。そういう意味では、ラザロが確実に死んでいるかどうかの確認後に、ベタニアに到着するように主イエスは、出発を遅らせたのかもしれません。

 主イエスが、ベタニアについたときには、ラザロの葬送は終わっており、既に四日もたっていたとありますので、死亡確認は終わっていたことになります。

 生物としての死は、死んでまもなく死後硬直が起こり、時間の経過とともに腐敗が進行します。主イエスが墓石を取りのけるように言われると、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。腐敗臭です。物理的には既に完全な遺体となっていたのです。

    多くのユダヤ人が、ラザロのことで、マリヤとマルタを慰めに来ていました。彼らはラザロたちの友人なのでしょうか。死者を悼み、遺族を慰めようと集まっているのですから、善意の人たちであったことでしょう。実際、彼らの多くは「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」のです。しかし、「中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」とあります。この告げ口によって、イエス殺害計画が進められてゆくことになります。

 死者ラザロを甦らせた主イエスの行いを目撃しながらも、その出来事が神の業であることを読み取ろうとはせずに、イエス殺害の加担者となった人々もいたということです。おそらく彼らも善意の人であった筈です。けれども、彼らにとって「告げ口」には悪意はなかったかもしれません。しかし、その「悪意」のない些細な行為が、イエス殺害計画へと発展させることになったのです。人の行いという事が、どこでどう動いて、ごく些細なことに見えることであっても、とんでもない恐ろしい悪事につながってゆくかもしれない、そういう恐ろしさを感じます。

21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 マルタもマリアも、同じように、ラザロの生前、病床に主イエスがいてくださったら、ラザロは治癒したに違いない、そんな恨み言の一つも言ってしまいたい、いささか主イエスに対する不満というか「お恨み申します」というところでしょう。一言言っていまいます。

 ただ、主イエスは、ラザロの死を、離れた地に滞在していたとき既に知っておられたし、ラザロ葬送後の死亡確認をまって出発されたのですから、「治癒奇跡」によってラザロを蘇生させることは、はじめから意図されてはおられなかったのです。

そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16

 マルタは、一言恨み言を言いはしましたが、すぐに主イエスを「信頼」する姿勢を立て直します。

 22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 そしてここから、主イエスとマルタのあいだに、「復活」問答が始まります。

 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

ここで主イエスが明言されていることは、わたしたちの「復活」の希望です。

 主イエスを信じるものは、たとい死んでも生きるという希望です。そして、生きていて主イエスを信じる者はだれでも、決して死ぬことはないという希望です。 

 ラザロの復活は、この主イエスの救いのみわざを、人類に明示し、人類が信じるようになるための御業なのです。

15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。

  

  


2025年5月4日日曜日

 2025年5月4日(復活節第3主日)

マタイによる福音書12章38節~42節

「まさるもの」





すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。39イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。41ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。42また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 「しるし」を求める心理は、換言すれば「証明を要求する心理」です。

 証明を要求する事は、信ずるに値するかどうかについての「不安」が心理の根底に存在しているので、その「不安」を鎮めるために、何らかの補償を必要とするのです。信ずるためには、信ずる事柄について確実な「あかし」を必要とするのです。信ずるということは、信ずる事柄、信ずる対象が揺るぎなき存在であり続けるという不動性、永遠性が担保されると信じることができて初めて「信ずるに値する」という判断をするのです。そのような心理は、人間心理として当然と言えば当然なのです。

 しかし、その当然の人間心理に従って、判断するのであれば、信ずるに値するかどうかを担保するための「あかし」・「証明」・「しるし」を要求することになります。

 「なになにだから信じる」、「なになになので信ずる」、とかいうような、そこには信ずるに値するかどうかの担保となるなんらかの「原因」とか「理由」とか「根拠」とかが必然的に必要となるのです。そのような「信ずること」というのは、その「担保物件」(原因・理由・根拠)なしには、信じないという意味をも必然的にもつのです。

 「しるし」を要求する人々、この箇所では、「何人かの律法学者とファリサイ派の人々」ですが、この人々が「しるし」を主イエスに要求するとき、その事は、「しるし」がなければ信じないという意味を込めていることは明らかでした。

 さらに言えば、彼らが「しるし」を要求するのは、信じるに値する「あかし」を要求しているのではなく、むしろ、信ずるに値するための「あかし」「しるし」を、主イエスが少しも示そうとしていないことに対して、言質をとろうとしていると言ってよいでしょう。ここでは、彼らははじめから本気で「しるし」を認めてはいないのです。主イエスは数々の奇跡を行っていますが、彼らにとっては、それらは彼らにとっての「しるし」ではないのです。彼らにとっての「しるし」は、彼ら自身が信じている聖書の文脈上の「しるし」でなければなりませんでした。彼らの信仰上の「しるし」と彼らが認める限りでの「しるし」でなければ、彼らは決して認めないのです。言い方を変えればはじめから主イエスを信じる気など無いのです。

 マタイによる福音のこの箇所で、主イエスは、温厚にして穏健な言い方をされてはいません。単刀直入とさえ言ってもよいほどに直截的です。

「39イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」

  「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と、あまりにも直截的です。

 面と向かってなじっているというくらいの応答でしょう。遠回しとか婉曲的とかということとはおよそ真逆です。相手にむかって正面切って「よこしまで神に背いた時代の者たち」とはっきり断罪しています。

 彼らに対して、「よこしまで神に背いた時代の者たち」、「今の時代の者たち」と呼び方を替えて断罪しています。「この悪い時代の者たち」(45節)とも名指しています。

 そもそもわたしたちは、「荒野の誘惑」で、主イエスがサタンから何を要求されたかを観てきました。神の子なら石をかパンに変えてみよ、神殿から飛び降りてみよと、みずから神の子であることを証明してみせよと、サタンは主イエスに「しるし」を要求しました。「律法学者とファリサイ派の人々」の「しるし」の要求と、根本動機はまったく同一でした。

 主イエスは、サタンを退けたように、「律法学者とファリサイ派の人々」を、まったく同様に退けられるのです。主イエスは、ご自身が神の子でありたもう「しるし」を決してお示しにはなりません。人間心理の「不安」を鎮めるために、信じるための担保物件を示す事は、結局、主イエスが人間に「信じてもらう」事になり、信じるか信じないかの決定権を人間が握ることになるからです。神が人間に信じてもらう必要があるとすれば、その神は真の神に既に値しません。まことの神ではなく、人間の自由に委ねられた無力な概念にすぎないでしょう。 繰り返しますが、神の独り子なる神、主イエスは信じてもらうための「しるし」を決して絶対に与えないのです。

 次に、「ヨナのしるし」について考えてみましょう。

「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

  「預言者ヨナのしるし」だけが、主イエスによって「しるし」として挙げられています。

 「ヨナのしるし」は、人間心理の「不安」解消・補償のための「しるし」ではないのです。人間が信じるために要求する「しるし」という性質を「ヨナのしるし」は持ちません。

 唯一の「しるし」は、神ご自身がお示しになる主イエスの十字架の死と復活以外のなにものでもありません。主イエスの死と復活は、人間心理の補償ではありえません。人が欲する事柄ではないのです。人が欲したところで与えられる事柄ではないのです。

 人間が欲せざるところのもの、それはキリストの死に他なりません。キリストは人も神も決して願わない「死」、「十字架の死」の道を行かれました。

 主イエスの「死」は、人間心理の不安の補償によるところのメシア期待とは完全に相容れない出来事です。したがっていかなる意味でも、人が求める「しるし」ではないのです。

 ゆえに、主イエスの「十字架の死と復活」は、人が決して要求しえないがゆえに、かかる「しるし」ではないのです。

 「ヨナのしるし」が、かかる人間心理の所産である「しるし」要求に基礎をおく「しるし」ではまったくないところの、「唯一のしるし」であるのは、唯一の神の啓示の出来事である「十字架の死と復活」の「しるし」だからです。

「40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」

 主イエスの十字架の死と復活という「唯一のしるし」の「しるし」こそが、唯一の「しるし」なのでした。

  主は、最後の審判について「ヨナのしるし」と「南の国の女王」を例に出して語られました。

 最期の審判について、この箇所のすぐ前の「木とその実」の譬えのなかで、「裁き」の思想が語られていました。つまり「責任」が問われるという思想です。人は、神によって裁かれます。たしかに審判の主はただ神お一人です。ただし、神に問われ、裁かれるのは、一人一人の人なのです。

33「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。34蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。35善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。36言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。37あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

 この主イエスのみことばは、「裁きの日には責任を問われる」とおっしゃっいました。
「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」と言われたのです。
 「ヨナのしるし」では、「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた」からこそ、「ニネベの人々は」、「今の時代の人々」が裁きの日に裁きの座に引き出されるときに、「罪に定める」のだというのです。「ニネベの人々」はヨナが語る神の言葉を聴いて「悔い改めた」。だから、彼らは裁かれる立場ではなく、裁く立場に立つのだというのです。裁く立場というのは審判するという意味ではありません。神に問われるべき自分たちの責任を彼らは自らに問うてすでに「悔い改め」ている。だから、悔い改めることのない「今の時代の人々」と決定的にそこが違うというのです。だから「ニネベの人々」の「悔い改め」は、「悔い改めることのない人々」を裁く立場に立つということなのです。

 「南の国の女王」の例はどうかというと、「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである」と主は言われました。
 ここで語られている範例は、「35善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」という主イエスのみことばが基準となるでしょう。
 「南の国の女王」は、「ソロモンの知恵を聞くために、地の果てからきた」というその姿勢こそが、みずからの「倉」に「良いものを入れ」「良いものを取り出す」ことなのだということなのだと私は思います。言い換えれば飽くことなく執拗にどんな労苦もいとわずただ神の知恵(キリスト)を求めてやまない姿勢の隠喩となっているのです。
 このような姿勢を示した「南の国の女王」が、神の真理の深奥を求めず、自分自身のなかに固定化されたコンテキスト(文脈)を基準に、「しるし」を要求する「今の時代の人々」の責任を問うというのです。
 ヨナの宣教によって悔い改めた「ニネベの人々」や「南の国の女王」が、裁きの時に、「悔い改めない」「今の時代の者たち」(律法学者とファリサイ派の人々)を「罪に定めるだろう」(有罪判決)というのです。

 しかし、いまここには、さらなる権威をもって佇立するものがいる。

「ここに、ヨナにまさるものがある。」

「ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 「まさるもの」とは、ご自身を暗々裡に自己を啓示したもう主イエスご自身に他なりません。 

 「ヨナのしるし」を示したもう主イエスこそ、唯一の神のしるしであり給ふのです。ここで、主イエスは、ご自身をヨナのしるしが指し示している「十字架の死と復活」を、「ヨナのしるし」を通して予示し、宣言しておられるのです。この深刻な裁きのみことばは、「今の時代の人々」の頑なさを弾劾しているのです。主の弾劾は主の救いへの招きです。弾劾によって、悔い改める(方向転換)猶予を与えていてくださっているのです。

 「今の時代の人々」悔い改めることができない人々は、このときこの場の人々というより、実はいつの時代の人々と言い換えるべきでしょう。すなわち、主イエスの弾劾は、実は他の誰かではない、実にこのわたし自身なのではないか、と自らの責任を問うことこそが大切なのです。

 主イエスの弾劾こそが、救いへの招きだからです。アーメン

 



2025年4月26日土曜日

 2025年4月27日(復活節第2主日)労働聖日(働く人の日)

ルカによる福音書24章13節~35節

「復活者主イエスの顕現」

【YOUTUBE配信について】

これまで、期間限定の公開としてきましたが、しばらく原則公開とします。



  午前の礼拝が坂下教会で、午後の礼拝が付知教会での宣教です。

2回目の宣教なので午後の方がわかりやすいかもしれません。

事前黙想(宣教前の黙想です)

本日の聖書箇所は、いわゆる「エマオ途上」です。

まず思うことは、聖餐へと続く連想です。

弟子たちは、家についてから、復活の主イエスは食事の席についたときのことでした。

そのときの所作を見て、「イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(21節)。

「イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(20節)という所作です。

 弟子たちは、この時に至るまで、旅の道中を共にしてきた人がイエスであるとは気付かなかったのです。

 これをここでは弟子たちの「覚醒の出来事」と呼ぶことにします。

彼らの目前から、イエスの姿は見えなくなりますが、見えなくなるという事と、イエスであると「分かる」という出来事は、繋がっています。繋がっているというべきか、あるいは同時に生起するのです。「分かる」という認知の出来事と同時に、「姿が見えなくなる」という認知の出来事が、同時に起こるのです。

 つまり、イエスが「分かる」という信仰の認識が「覚醒」するという出来事は、イエスの「姿が見えなくなる」という「対象認識不能」の出来事が同時に起きたのです。

 この繋がりは、信仰認識の出来事がいかなるものであるかを如実に物語っています。

サクラメントの出来事がどのような事情で生起して、わたしたちに切迫してくるのか。この繋がりは、示唆しているでしょう。

 聖餐というサクラメントにおいて、わたくしどもが主の晩餐に与るとき、配餐の所作をわたしたちは目の当たりにします。そのとき、パンとぶどう酒は、甦りの主イエスが「分かる」という信仰認識の覚醒が生起するのです。しかし、その具体的な出来事は、決して甦りの主イエスの「姿が見える」ことではなく、「見えなくなる」ことと同時に生起しているということです。

 つまり、主イエスが「私を記念して行いなさい」と命じ給いし、聖餐にあって、わたくしどもはあの弟子たちのように、主イエスが「分からない」状態から、「分かる」という信仰認識を与えられます。しかし、その認識は、甦りの主イエス御自身をその所作や人物を通して写し見ているのではなく、主イエス御自身の姿形は、わたくしどもの認識対象としては「認識不能」だということなのです。「信仰認識の覚醒」と「認識対象の認識不能」という出来事が同時に生起するということです。

 信仰認識の覚醒の出来事が生起する以上は、たしかにこの時この場において、甦りの主御自身は、現臨してい給うのです。それゆえ聖餐は、神とわたくしどもを結びつけるサクラメントなのです。

 さて、「エマオ途上」において、わたくしどもが想起することは、やはり復活の主イエスの「客観性」です。すなわち、先週確認したように、主イエスの甦りは「からだの甦り」であるという現実です。

    13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

 「ちょうどこの日」というのは、主の復活したその日のことです。復活の主イエスは、 クレオパという名の弟子ともうひとりの弟子の二人連れが、エルサレムからおよそ11キロあまり西北の町エマオへ向かって歩いているところに、復活の主イエスがこの二人連れのなかにはいって、歩きながら同道するのです。

 話をしながらですので、時速4キロよりは遅めであったと考えると、およそ4時間弱の道中だったのではないかと推察いたします。

 道中、主イエスと二人の弟子は、客観的にみれば、三人の旅人が話をしながら歩く姿以外のなにものでもない光景が目に浮かびます。

 「身体の甦り」の主イエスは、被造者としての人間の身体とは区別される神的な身体として復活されています。まさしく「身体」ですが、わたしたちの「肉体」とは異なるのです。

 16節には、「16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」とあるように、弟子たちには、同道している旅人が、主イエスだとは気付きません。

 彼らは、先日まで生きておられた頃の主イエスの弟子たちなのですから、その外貌を知らないはずはありません。その外貌、背格好で、誰であるかは一目瞭然の筈なのですが、「二人の目は遮られていて」とあるように、外貌、背格好で明らかに主イエスだと分かる筈なのに、「遮る」もののせいで、「イエスだと分からなかった」のです。

 つまり、二人には「見た目」ではわからない状態だった。

 復活の主イエスは、外貌、背格好が同一であっても、見た目にはわからないという現実だったのです。

 この事実は、実はわたくしどもには大きな希望なのです。外貌や背格好はわたしたちには一切わかりません。知っている人は誰もいないのですから、「わたしはイエスと会いました」などという人がいたら、それはすぐに嘘だということがバレます。そういう嘘つきは世間にはいくらでもいますから、聖書は素晴らしいことに、それが嘘だとすぐにわかるということを、「エマオ途上」で示してくれているのです。弟子たちの「分からない」という事実が示してくれているということなのです。だから「分からない」という事こそが希望になっている。

 くつやのマルチンの寓話が素晴らしいのは、マルチンが出会った少年や、乳飲み子を抱えた女の人が、実はイエスさまだったということでした。主イエスは、外貌や背格好でわからないからこそ、わたしたちの隣人の誰もが、主イエスとして現れてくださるという「秘密」であり得るのです。

 「遮るもの」があったからこそ、この弟子たちがわたしたちの「代表者」たり得たのです。実際、わたしたちは主イエスを直接的に、「わかる」とか「見える」ということはあまりにも畏れ多き事柄です。聖霊の時代に生きるわたしたちにとっては、主イエスは聖霊さまとして現臨されているのですから、姿形、外貌こそがむしろ主イエスとの出会いを「遮るもの」なのです。直接的見神は否定されなければならないのです。なぜなら私たちは神ではないからです。神さまは神さまによってしか相まみえることはできないからです。直接的見神を主張することは自己神化という罪を犯しているのです。

 二人の弟子にとって、主イエスの外貌、背格好は自明だったけれでも彼らには「遮る」ものがあって、外貌、背格好が完全に一致、同一であったにも関わらず、主イエスと認識できなかった。この認識不可能という現実は、復活者イエスの身体がわたしたちの肉体とは別の存在だということを示していると言えましょう。人間の五感では認識不可能なのです。「信仰」という出来事、すなわち神の意志によってのみ生起する奇跡によってしか、復活者主イエスを認識(わかる)することは不可能なのです。

 「エマオ途上」の弟子たちには、神人主イエスを認識する認識の器官が存在していませんでした。

 彼らが、甦りの主イエスを認識した瞬間は、あの聖餐のときの所作と同じように、主がパンを裂いてお渡しになった時でした。

 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

    弟子たちの「覚醒の出来事」が生起したときでした。



2025年4月20日日曜日

 2025年4月20日(復活節第1主日・復活日)14:00

            坂下・東濃3教会合同礼拝


   マタイによる福音書28章1節~10節

「キリストの復活」

主の復活をお慶び申し上げます。
主の復活の日が週の初まりとなったことは、人類歴史において、主の甦りが、わたしたち人類の新しい創造が開始されたことを意味します。
仏教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、ヒンズー京都であろうと、無神論者であろうと、この日が、新しい1週間のはじまりである事実は、共同的に共有しています。
 すべての人が、この日から、新しい時を生きるということなのであります。
主観的には、主イエスを知る人も、知らない人も、この事実を共有して、時を旅しているのです。

 まずこの現実を素直に喜びたく思います。
どうか、キリスト者以外の人々も、今日という日を、今というこの時をもって、新たに生きる決意をしようではありませんか。

 さて、今日はマタイによる福音書によって、復活事件を黙想します。といいますのは、福音書によって復活の出来事の記述がさまざまだからです。
同じ現実を、福音書記者によって、その伝承・報告が異なることは、この出来事の歴史性を疑う根拠にはなりません。
同じ現実の「記憶」が人によって、また共同体によって、その信仰的な強調点が特に際立って記憶されたり、伝承されたりすることは、特に古代世界において、
訝る必要はないと考えられるからです。現代のように、記録媒体がデジタル化されて、野球の審判でも「リクエスト」で判定がひっくりかえるくらいですから、二千年前の古代世界に生きていた人々の、当然の時間世界、空間世界で、それぞれが特異な記憶を伝承してゆく過程で、遷移してゆくことは不思議なことではありません。
むしろ、遷移していて当然なのです。

 ですから、福音書間での報告の相違は、むしろそのことによって、復活事件そのものが、そのような人間的な要素による相違にもかかわらず、核心となる主イエスの甦りについて、まったく一致していることこそ、この出来事の史実性の根拠とみるべきでしょう。

前置きはここまでにして、本題に入ります。
本日の主たる黙想は、復活の出来事の客観性です。
客観性とはどういうことを意味しているかといえば、それは主観性とは異なり、主観的な出来事ではない、つまり、人の主観がどうであれ、それとはまったく独立している出来事だということです。
 主観から独立しているということ、そのことは、その出来事がどのように体験されているかどうかということとは、「無関係にその出来事が起きている」ということです。
 まず、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともうひとりのマリアが、墓を見に行った。」(1節)とあります。
 ユダヤ教の安息日は、今日でいうと土曜日になりますから、まさにその翌日の明け方ということになります。
 キリスト者共同体は、この日、すなわちまさにユダヤ教の安息日の翌日を、「週の初めの日」へと変更したということが、この箇所で明らかにされています。
 当時は、主イエスの弟子たちはみなユダヤ教徒で、イエス御自身もユダヤ教徒でしたから、そのユダヤ教徒にとっての「安息日」を勝手に恣意的に変更することなど絶対あり得ないことでしたから、復活事件が起きたその日をもって主の復活の日として、すなわち人類創生の開始された日として記念したことによってしか、安息日の変更の説明になりません。つまり、この1節で、主の復活事件の史実性、客観性が、すでに証明されていることになります。

 次に、わたしたちは、2節から4節までの、「天使の出現」、それに対する「番兵たち」の反応を見ます。
 「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(2節~4節)
 「大きな地震が起こった。」 地震はなんといっても自然現象ですから、主観的な何かではまったくありません。つまり「客観的な事件」です。太陽が善人にも悪人にも等しく太陽であるのと同じで、誰にとっても地震は地震です。
 ただ、誰にとっても同じ客観的事象を経験する側の人によって、主観的な経験内容は異なってきます。
 「主の天使」が「天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」、「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」。これらの出来事は、自然現象とは言えない。自然現象は、自然法則に従っている事象です。つまり自然の法則性がかならずあって、その法則通りに繰り返し発生してくるものが自然現象ですから、一刻一刻と再現されつづけているので、この「天使の出現」のように、全宇宙の全時間のなかで、ただ一度だけ起こった出来事は、自然現象とは言わないのです。
 言い換えれば、ここで起きたことはただ一度限り、この主の復活の日にだけ起きた出来事なのです。
 ただ一度限り、起きた出来事であったことだからといって、それが主観的な経験だということにはなりません。
 この出来事もまた客観的な出来事だと言わねばなりません。
 なぜなら、この出来事に遭遇してしまった「番兵たち」は、「主の天使」と遭遇して、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と報告されています。
 「番兵たち」ですから複数人いたことになります。
 この複数人の「番兵たち」は、自分が見たいものを見たのではない。信じたいものを信じたのでもない。むしろ彼らにとっては思いもかけない対象と遭遇したのです。このことは、彼らの願望とか、彼らの信仰による幻想とか、そのような彼ら自身が生み出した心象風景という主観的な事柄ではないことを意味しています。
 しかも、そのことは個人的な経験ではなく、複数人が同時に「死人のようになった」という変化を彼らにもたらした。
 つまり、かれらにとっては想像もできない、恐るべき経験によって、彼らは「死人のようになった」。身体的に「死人のように」なったということです。
 そしてさらには、この番兵たちの今後について、マタイによる福音書は11節から15節において、次のように報告しています。  
「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」
「番兵たち」は、主の天使と思いも寄らない遭遇でしたのに、ただちに「この出来事をすべて祭司長たちに報告」しています。そして、命じられるまま、虚偽の風説を拡散させたのです。彼らは、神の啓示の出来事に遭遇していながら、イエスの復活を知りながら、彼らには、イエスへの信仰のかけらも感じられません。それどころか主イエスの復活事件を、弟子たちによる死体の窃盗事件だという虚偽の発信者となったのです。
この番兵たち数人は、神の啓示に遭遇していながら、そのことによって彼らの主観においては、実際に経験した出来事を深く熟考することよりも、地上の権威にすぎない祭司長に従うことのほうが優先的な事柄だったのです。彼らにはイエスへの信仰は生起していないし、神への信仰への深い祈りも熟考もありません。これが彼らの主観です。
 したがって、「天使の出現」というただ一度限りの啓示の出来事は、啓示の出来事として客観的な出来事であったことが、「番兵たち」の反応によって、逆説的に証明されているのです。
彼らは、「主の天使」に遭遇し、そのメッセージを聞いています。空虚な墓の事実を知ります。しかし、彼らは、「主の天使」の使信内容を知りながらも、そのことには蓋をして、イエスの死体がなくなっている「空虚な墓」の現実を祭司長たちに報告したのです。
 神の啓示に遭遇しながら、「番兵たち」には信仰は生起せず、「マグダラのマリアともうひとりのマリア」には信仰が生起しています。
この両者の相違と区別が、主の復活事件の客観性を担保していることになるのです。
第三の論点に行きましょう。8節から9節までを見てみましょう。ここには「からだの甦り」という事実が報告されています。
 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」
 婦人たちは、「恐れながらも大いに喜び」即座に「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」と報告されています。
初代教会の時代から、主イエスのからだの甦りの報告を信じられない人は、多くいました。弟子でさえも、湖上を歩かれた主イエスを「幽霊」だと勘違いしたくらいなので、何も不思議ではありません。番兵たちが主の天使と遭遇し、身体的に病態を呈するほどの衝撃を受けていながら、その体験を封じ込めたくらいです。甦りの主イエスとじかに出会って時を共に、食事をも共にしていても、まだ「わきばらに手を差し入れなければ信じない」という者もいたくらいです。
甦りの主イエスと出会ったという婦人たちの報告を、信じない弟子たちがいても不思議ではないし、婦人たちが出会ったのは、「主イエスの霊」だなどと、自分勝手な想像に封じ込める人たちがいても不思議ではありません。
古代世界でも現代世界でも、事情はまったく同じです。
「主イエスの甦りは、主イエスの霊の出現なのだ」と、自分の頭の中で理解可能な解釈、「そういうことなら信じられるが、からだが甦ったなどとはとても信じられない」という人々は、たくさんいます。そういう人々は「霊」的な出現ならば信じるというのですが、そういう信じ方をすれば、いくらでも「作り話」ができるので、似たような「作り話」を信じこませることに成功した人は、信者を獲得します。あらたな「宗教」を起こしします。「新興宗教」が星の数ほど出てくることになります。
 しかし、聖書の報告は、そのような「霊的出現」「「霊的に復活」した」などとはまったく語っていません。
婦人たちは、主の天使の使信をまっすぐに信じました。
「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。』」
天使たちが言ったことは、「かねて言われていた通り、復活なさったのだ。」という事です。
  「9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」 
婦人たちは、復活の主にであったときに、主のみあしにすがりついています。「霊的出現」ならば足に抱きつくことは不可能です。「身体」だからこそすがりつけるのです。「霊的出現」ならば、そもそも「復活」とは言えません。
「霊的出現」は、時も所もを選ばず、イエスの意志によって自由自在に、いつでもどこでも起こらねばなりません。
「霊的出現」ならば、「遺体の置いてあった場所を見なさい」と語る必要はありません。物体としての「遺体」は墓に存在していたはずです。しかし実際は、「遺体」はなかったのです。だからこそ、「遺体のあった場所を見なさい」と天使は命じたのです。天使の命令は主イエスの身体の復活が起きたのだということを、示しているのです。
 そして、天使は、弟子たちに、告げるように命じます。「ガリラヤで、主イエスにお目にかかれる」と。主イエスが出現される場所を指定しています。
「霊的出現」ならば、場所の指定は無意味です。
場所の指定は、復活の主イエスの「身体」の出現の指定です。
この「身体」は、わたしたちの「身体」とは、まったく異なる「復活のみ身体」であることを明示しています。
「主イエスの復活の御身体」は、地上で死なれた時までの「み身体」とは、決定的に異なっていることが示されているのです。
主イエスの復活の御身体は、わたしたちの「身体」とは異なる「身体」なのです。
特定の時と場所に出現された「復活の主イエス」確かに、「身体」をもっておられたもうた。
その復活の主イエスの御身体は、弟子たちに出現し、天に昇り、神の右に座したもうた。特定の時と場所に出現した時は、この特定の時と場以外にはありません。
その後は、主は聖霊降臨の出来事によって、キリストの御身体を、聖霊として地上に現臨されています。
だから、わたしたちキリスト者共同体は、主イエスの地上における、復活の御身体の写しであらねばなりません。
わたしたちは、復活の主の御身体の一部であり、「影」なのです。
「影」にすぎないわたしたちは、やがて、主の最期の審判によって、正しい裁きを受けて、
主の復活の御身体と等しいさまに変えられる希望を与えられています。
そのとき、わたしたちは、身も心もすべてが新たにされ、主の甦りの御身体とひとつにされるのです。
この希望のものとに、わたしたちはあるのです。

2025年4月10日木曜日

 2025年4月13日(四旬節第6主日) 棕梠の主日(受難週19日まで)

◎田瀬・付知合同 14:00 四月十三日は付知教会で礼拝をします。

◎坂下教会    10:00 

『主イエスは十字架上で殺害されるために来られた』


宣教は、実際には、原稿を見ずに語ります。いわば即興「ライブ」です。事前の原稿にはないこと、また事前の原稿にあることが省かれることが多々あります。

事前黙想原稿

『主イエスは十字架上で殺害されるために来られた』

マタイによる福音書27章32節~56節

    32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

    33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、

    34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。

    35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、

    36そこに座って見張りをしていた。

    37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

    38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。

    39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

    40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

    41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。

    42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。

    43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

    44一緒に十字架につけられた強盗たちたちも、同じようにイエスをののしった。

    45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

    46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

    47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。

    48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。

    49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。

    50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

    51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、

    52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。

    53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。

    54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

    55またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。

    56その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 この十字架の出来事に登場する人々を見てみましょう。

      ①兵士たち(32節)、

      ②キレネ人シモン(32節)、

      ③二人の強盗(38節)、

      ④十字架の前を通りかかった人々(39節)、

      ⑤祭司長たちや律法学者と長老たち(41節)、

      ⑥十字架上の主イエスが叫ばれたとき、そこに居合わせた人々(47節)、

      ⑦そのうちの一人(48節)、

      ⑧他の人々(49節)、

      ⑨眠りについていた多くの聖なる者たち(52節)、

      ⑩眠りについていた多くの聖なる者たちが墓から出てきたときに、それを目撃した多くの人びと(53節)、

      ⑪百人隊長やイエスの見張りをしていた人たち(54節)、

      ⑫遠くから見守っていた大勢の婦人たち(55節)、

      ⑬マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母(56節)

 重なる人物もいますが、登場する人々はざっと13のキャラクターが挙げられます。

  (主イエスに対する態度によって色分けしています。)

   こうして俯瞰してみると、主イエスに対する態度が、登場する場面が展開してゆくとともに、大きな変化がみられます。

   44節までの人々は、キレネ人シモンを除けば、主イエスへの罵倒・中傷・試み・嘲笑の態度・発言をしています。

 しかし、午後三時をすぎて、主が父なる神にむかって叫ばれたときの描写に登場する人々は、主イエスに対して宗教的な関心を寄せていたり、まさに死んでゆくイエスへの気遣いを見せていたりしています。つまりイエスの十字架上の死を境目に、人々の態度の変容が窺われるのです。

 イエスを嘲笑する人々がすべて変容したのかどうか、詳細は不明です。たしかに嘲笑・中傷する人々のなかには、イエスの死後も相変わらずイエスへの態度を頑なに変えない人々も、あるいはいたかもしれません。

 しかし、この変容の描写の展開を見ると、主イエスを嘲笑し、憎悪と言っても過言ではないような態度を示していた兵士たちが、54節で描かれている「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちと同じ人々であったという可能性は、否定しきれない、とわたしには思えるのです。

 つまり、イエスを憎悪していた者たちが、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」

可能性です。

 極端な言い方をすれば、イエスを殺す側で、この処刑場で立ち会っていた処刑人たちが、主イエスの死の時に、起きた出来事を目撃して突如として信仰告白に至ったということを読みとることができるのです。

 この劇的な出来事というものが、あったからこそ、初代教会の信徒たちが、殉教をも超えてゆく信仰告白を支える「神の死の記憶」として、魂のささえとすることができたのではないか、わたしにはそう思えるのです。

 まさに、主イエスを殺害した当時者たちが回心した出来事がここに起こったのでした。

 この事実は、初代教会のなかでの回心の証言として存在し続けたはずです。この出来事は、初代教会の信徒たちの中では、イエス殺害に関わった処刑人でさえもが、証言者として、兄弟姉妹として受け入れられていた!ということを意味しています。

 まさに仇敵、怨讐ともいうべき主イエス殺害の当時者たちを、キリスト者共同体は、主イエスにある兄弟姉妹として受け入れ、証言者として尊敬し、伝承してきたのです。

 それでは、逆に「背信者・棄教者」の存在に対しては、わたしたちはいかに振る舞うべきでしょうか。

 その根源的な問いを遠藤周作は『沈黙』のなかで、キチジローという「裏切り者」への赦しというテーマで浮かび上がらせました。

 キチジローの密告によって、ロドリゴは捕縛されます。まさにユダそのものです。しかし、教会はこの弱きもの、信仰薄きものを赦します。

 背信者・棄教者に対して私たちがとるべき態度、心的な態度は、キリストを殺害した者を、主イエス御自身が愛したもうたという、神の慈愛に満ちた態度こそに、唯一の模範を求めるのです。

 なぜなら、主イエスは御自らを殺害した者の赦しを、神に懇願されましたからです。

 この愛敵の態度こそ、背信者・棄教者への唯一の根源です。

 愛敵なのです。敵愾心ではなく愛敵の心なのです。


 主イエスを殺害した兵士たち、見張りの者たち、百人隊長らが、同時に「回心」したのは、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れて」のことでした。その「いろいろな出来事」とは、52節、53節に語られている死人復活の出来事を指しています。

 つまり、主イエスが復活した後、死人の甦りがただちに起きているというのです。

 わたしたちは、ここでも、自分の自然的理性が納得出来ない場合には、そのことには蓋をして、合理的な説明、たとえば、神話的表象とか、古代人の信仰による福音書記者の想像とかで自分を納得させようとすることは避けます。なぜなら、福音書記者の「創作」などということであれば、当時主イエスの処刑の現場に「居合わせた人びと」が現に存命している時代ですから、その人たち(イエスの死の証人たち)が、なにゆえに、嘲笑する者から、「本当に、この人は神の子だった」と信仰告白するという者へという劇的な人格変容が起きたのか、説明がまったくつかないからです。初代教会に存命中の当時者たちが、マタイが作り話を書いているのなら、許すはずはありません。

 彼らが回心した現実が作り話だということになりますし、何より彼らが回心した原点である、現実にその出来事(死人の復活)が起きたからこそ、「恐れた」という心的な激変が起こったのにもかかわらず、その重大な事件が実際は何もなかったことになってしまうからです。それこそ非合理的です。

 そればかりか、ここで甦った人たちの出現は、イエス殺害者の当時者の回心を呼び起こすという直接の出来事だっただけではないはずです。復活者イエスが弟子たちに、何度も御自身をお顕しになられたけでなく、「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」のですから、この「聖なる者たち」はただ出現したに留まっていた筈はありません。この甦った人たちもまた、初代教会の構成員として、兄弟姉妹、さらには指導者として霊的な牧会を担ったことでしょう。

 つまり初代教会には、死者のなかから甦った人びとが多数存在していて、現世を今生きている信徒と共に生きていた、そういう時代が教会にはかつて存在していたということです。

 この十字架の出来事、甦りの出来事を、わたしたちは真剣に受けとめる必要があります。

 つまみ食いのように、お気に入りのところは受け入れるけれども、納得できない部分は、蓋をする式の「信仰」は、むしろ非合理的なのです。神さまにはできないことは何一つありません。

 神さまのなさる出来事は、科学的に検証可能な領域をはるかに超えた異次元の世界です。信仰は科学とは何一つ矛盾はしません。科学が対象とする領域は、神さまの領域とは異なるのです。神さまが創造したもう被造物の世界は、限りなく科学の対象として存在します。しかし、被造物の世界は、神さま御自身ではないのです。

 神の独り子なる神の十字架の死と復活の出来事は、科学的検証の領域ではないのです。ただし信仰の対象を科学的に、理性的に受けとめて祈りをもって考え抜き、その事情を知ろうとすることは、それ自体は神学的サイエンスそのものです。

 墓から復活者たちが出現し、多くの人に現れた。その出来事に出会い、恐れ、主イエスへの信仰告白「回心」が起きた、この一連の出来事を徹底して科学的に考究することは、信仰の認識の深化に他なりません。

 ゆえに、わたしたちは、身体の甦りを、真剣に受けとめ、祈りの内に考えぬかねばならないのです。

 







2025年4月1日火曜日


2025年4月6日(日)四旬節第5主日 

マタイによる福音書20章20節~28節

「十字架の勝利なき人倫なし」


事前黙想


マルコ伝ではゼベダイの子ヤコブとヨハネが直接に、主イエスに願い出ることというエピソードですけれど、マタイ伝では、ヤコブとヨハネの母が、息子二人を側近として重用してほしいと、願い出たということになっています。

両者の相違は、大きな事柄として区別されるべきです。ヤコブとヨハネが直接に願い出たということであれば、弟子としての心根に、「権力願望」という罪があることが浮かび上がります。母親からの願い出であれば、子離れできない親の自己実現の問題が浮上してきます。

いずれも主イエスに従う信仰の道にあっては、捨ててゆくべき事柄でした。マタイ伝で、主イエスが明らかにされた信仰の道は、マルコ伝とはニュアンスが異なります。28節「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」とあり、「同じように」と主の苦難の道と人間の信仰の道のあいだに「類比」があることを明確に語っておられるからです。



事前黙想その2

マタイによる福音書20章20節~28節

「十字架の勝利なき人倫なし」

「堕落論の解明」という主張こそ罪の極み

神と人との交わりが断たれ、関係が喪失していること、これを「罪」という。

われわれ人間は神と人との関係を一望する視座を持ち得ない。

人は被造者であるから創造者と被造者の関係を一望する身分をもたないのである。

ゆえに、「罪」をわれわれは、その存在の本質からして、そもそも「認識」できない。

われわれ人間にとって、「罪」を認識すること自体が、「神」を認識することができないのと同様に、

不可能なのである。

「罪」は、ゆえに、その影のようなもの、比喩としてただ、示されるままに、知らされるのみなのである。


当然、神が授与したもうた「十戒」は、人倫において、われわれに「罪」の認識を与える。

神の誡命を守ることを神は命じられたのであるから、誡命に違反するということによって、われわれには、「罪」の認識が示されることになった。

しかし、それは神と人との関係喪失の結果を認識しているにすぎない。

「死」とは、神と人との関係喪失の事態をいう。

誡命を破ることによって、人は既に死んでいるが、死んでいることすら認識してはいないのである。


誡命に違反することによって、「罪」の認識がいくらかでも与えられるならば、それは恵みによるのである。

誡命に違反しても、「罪」の意識すら与えられないという「罪」に陥っている人は神と人との関係喪失という「死」を、

なにほどにも知ることはできない。

「死んでいること」すら認識できないのである。


罪の限定的理解は、罪を限定するという意味での罪を、既に犯している。

既述したように、人間には罪を認識する能力は存在しない。

神の誡命に違反することによって、罪意識を恵みとして与えられることはあっても、それは罪自体ではなく、罪の結果の一部にすぎないのだ。

罪を限定することは、神を概念化することを前提としている。

概念化された神は、神御自身では、もちろんありえない。


神は概念化された瞬間から、人の思考内の道具に化しているからだ。


ゆえに、「堕落論の解明」などというのは、児戯に等しい。

それにとどまらず、それ自体が罪の結果なのである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


さて、語調を変えて、今日の聖書の箇所に話を戻しましょう。

以下聖書の引用

20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」



「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」

主イエスのこの言葉を読んだときに、わたしのあたまに二人の人物が、重なって浮かんできました。

一人は、アドルフ・ヒトラー、もう一人はドナルド・トランプ。

なぜ浮かんできたのでしょうか。

偶然、聴いたヒトラーの演説とトランプの演説が、そっくり同じようなセリフだったからかもしれません。

ヒトラーは言いました。「ドイツ国民のために」。

トランプは言いました。「アメリカ国民のために」。

 どちらも「ために生きる」と言うのです。

たしかに偶然と言えば偶然ですが、符合したのは、不思議ですがけれど、わたしのあたまには、二人がそっくり同じことを言っていると記憶されていたのです。

二人とも、主イエスの言葉どおりに、「権力を振るっています。」

ヒトラーは「救世主」を気取り、トランプは自分はクリスチャンだと言っています。

けれども、主イエスは彼らのようになってはならない。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」と命じているではありませんか。

「ために生きる」と吹聴する人は、その言葉で「権力をふるっている」のです。


しかし、主イエスは、「権力をふるう」ことを禁じておられるのです。


人が二人いるところには、しかし、力の差がいつしか生じてきて、「権力」関係がうまれてしまうのではないでしょうか、と。

権力関係は避けられないのではないかという疑問が湧いてきます。

たしかにそうです。

完全に平等という関係が望ましいけれども、たとえ水平的な人間平等という理想は尊いものです。

けれども、現実の人間関係にあっては、状況によっては必ずといってよいほどに、力の高低、大小といった「差異性」が存在してくるものです。


極端な例かもしれませんが、わたしの脳裏には、アウシュビッツの収容所が浮かんでいます。

この場に於いて、殺す側の人間と殺される側の人間という極限的な権力関係が存在していました。

この権力関係にいま、焦点をあわせるのではなく、コルベ神父とコルベ神父によって命をとりとめた人との関係に、わたしは関心があるのです。

それだけではなく、コルベ神父と生殺与奪の力をもつナチスの死刑執行人との関係もあります。

わたしは、コルベ神父は、主イエスの命令に、忠実に従った人だと思います。

わたしの脳裏に登場しているこの三者の生き方、そして死に方を想起するとき、主イエスの命令に忠実たらんとしたのは誰であったのか。

誰の目にも明らかなのではないでしょうか。

ヒトラーは、600万人の人々を毎日ガス室に送りながら、ベルクホーフの豪華な別荘で愛人と優雅に暮らしていた。

アウシュビッツ・ビルケナウで餓死室へと送られる側に、マクシミリアノ・コルベもフランツィシェク・ガヨウィニチェクもいあわせていたのです。

二人の間には、そこにただいあわせたということ以外には何の接点も交わりもありません。

しかし、まことの神、主イエスは、世界のいずこにいても、その現場に必ずいたもうのです。

ふたりの間には、主イエスの命じられた神の言葉が存在していました。


「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」


「偉くなりたい」という事柄が意味するものは、ヒトラーやトランプのような権力をふるうことでないことは明らかです。ですから、「偉くなりたい」という事柄は、主イエスが示したもう「偉大さ」への渇望でないはずはありません。

「偉くなりたい」という願いは、権力をふるうことを禁じておられるのですから、権力を否定した意味でなければなりません。

具体的には、「仕える者」になり、「皆の僕(奴隷)」となることを意味していました。

二人の間に、力の関係が、不可避なのだとすれば、その力の関係において、「仕える者」「僕(奴隷)」となることを、「偉くなる」と言われたのです。

しかも、その「仕える者」「僕(奴隷)」という身分、立場に身を置くということは、さらに具体的に、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」ということを意味していました。

 「人の子」主イエスが、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(贖い)として自分の命を献げるために来た」すなわち、十字架の死をもって、人類の贖い(身代金)となって「自分の命を捧げる」ために受肉されたという「贖罪の死」こそが、人の行くべき道の範であると示されているのです。

 ここには、明らかな「類比」が存在します。

 主イエスの十字架の道と人倫の道とのあいだには、明らかな「類比」があるのだと主イエスは語られたのです。

 そえは「同じように」という連結のことばによって示されています。


 あなた方が「偉くなりたい」のであれば、人倫において、主の十字架の犠牲の道と、「同じように」、「仕える者」「僕(奴隷)」となりなさい、と命じておられるのです。

 コルベ神父とフランツィシェク・ガヨウィニチェク(コルベ神父が身代わりのなって命を救われた人)のあいだには、この主イエスの命令がたしかに存在していたのです。

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母には、主イエスが、いかなる道を歩んでおられるのか、まったく理解することができなかったのでしょう。彼女が主に願い出た望みは、この世でいうところの「立身出世」「栄達」願望と言ってもいいくらいの、「欲望」なのでした。息子二人も母親の陰に隠れているように見えますが、まったく同じ「欲望」の虜にすぎません。

 ですから、

 「イエスはお答えになった。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』」と。

 主イエス御自身が、今十字架の死に向かって、歩んでいると言うことを、既に弟子たちに告知していたにもかかわらず、最初から従ってきていた弟子にすら、理解されてはいなかったのです。弟子たちに信仰がなかったということではありません。信仰はあるのです。忠誠心もあるのです。思慕もあるのです。尊敬心もあるのです。

 けれども、主イエスの目的を、正確に理解することは、まったくできでいなかったということが、この彼らの願い出によって、明らかになってしまったのです。

 「弟子の無理解」は、主イエスの十字架の極みにおいてすらも、継続してゆくのです。そして、そのこと自体が主の十字架の苦難の内容でもあるのです。

 主は最愛の弟子にすら理解されずに、最期を迎えねばなりません。それもまた苦難の内容そのものをなしています。

 主イエスの孤独、最期まで主イエスは、たった一人、誰からもキリストとしての聖なる使命を理解されないままに、死にたもうたのでした。


 『このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』

 この杯が何を意味しているか、明らかでしょう。十字架の「苦杯」以外の何でしょうか。

 「できます」と即座に答える弟子に、「苦杯」の意味が理解できているはずもありません。


 しかし、主は続けます。

 「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」

 

「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」

 主は、弟子たちが、いまここではまったく理解できていない「苦杯」を、弟子たちは「飲むことになる」と言われました。これは予言なのです。

 弟子たちが、今はまったく理解できない「十字架の死」という「主の杯」を、理解しないままに「できます」と答えているのにもかかわらず、「わたしの杯を飲むことになる」と主は言われました。

 理解できない弟子たちが、将来において、主イエスと「同じように」「十字架の死(殉教)」という苦杯」を飲むことが出来る日が来ると、主は予言されたのです。

 いまの弟子たちには、このみことばの意味は、おそらく「謎」にしか聞こえていないことでしょう。

 

「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」

 他の10人が憤慨したのは、この弟子たちも、二人の弟子とまったく同罪であったということを示しています。彼らも、主の十字架の道行きについて、無理解のまま、主イエスに対して、「この人についてゆけば栄達の道が開ける」という自己欲望達成の道具にしているにすぎないのです。

 

 このエピソードが確かな希望をわたしたちに与えている事柄がみえてきます。

  いかに、弟子たちすべてが、ただの一人も主イエスを理解していないとしても、主イエスは、この無理解な弟子たちを決して見棄てたまわなかった。

それどころか、この無理解な弟子たちに、福音宣教のすべてを、託されたのです。

 人は理解できるからこそ、従えるのか、いやそうではないと聖書は事実をもって伝えているのです。

 人は理解して信ずるのではありません。

 信ずる魂は、人の主観、経験、体験という限界をはるかに超えた神の力の賜物なのです。

 信ずる魂を、神が与えたもうのです。

 神が与えたもう魂は、みずからの自己欲望を捨てることができ、主イエスが歩まれた道と「同じように」行くことが可能にされるのです。

 コルベ神父は、神から与えられた魂を、主イエスの御声をままに聴き、従いました。

 決して、コルベ神父は、自己の欲望達成のために、身代わりの死を歩んだのではないのです。

 

2025年3月26日水曜日

 2025年度開始

◎東濃3教会合同礼拝は、祝祭 主日のみとなります。

 イースター、坂下教会にて。

 ペンテコステは、付知教会。

 クリスマスは、田瀬教会。

◎合同礼拝以外の週は、

  坂下教会:午前10時開始。

  田瀬・付知合同:午後2時開始。

  第1、第3、第5週は、田瀬教会。第2、第4週は付知教会にて。        東濃3教会

2025年3月30日(四旬節第4主日)14:00

東濃3教会合同・坂下教会消火礼拝

マタイによる福音書17章1節~13節

「変容したもう主イエス」



事前黙想

「キリストの変容」の出来事を、どこまでも合理的な解釈をしないと気がすまない人々は、教会が後のキリストの復活体との出会いを、主イエスの生前の出来事として物語化して伝承したのではないかなどと、自己の理性の限界内におさめようとする。

 しかし、わたしは、主イエスが「まことの神」でありたもうという現実を、繰り返して無理解を重ねてきた弟子たちが、それでも繰り返し神の奇跡を経験せしめられてきたのであるから、それにもかかわらず、なおも重ねて物語を創作する必要があったなどという仮定の想像のほうが、わたしにはよほど不合理に見える。

 山上で、主イエスが光り輝いてゆく変容、そこにモーセとエリヤが現れ来て語り合う出来事である。律法、預言者、そしてメシアがここに揃うのである。そして天から、神の「認証のみことば」が下される。洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたあの時に、天来のみ声と同じ神ご自身の言葉であった。

 そして再び主イエスの「沈黙命令」が弟子たちに下されたのである。

2025年3月30日(四旬節第4主日)14:00

東濃3教会合同・坂下教会消火礼拝

マタイによる福音書17章1節~13節

「変容したもう主イエス」

   これまでの流れ


 わたしたちは、既に信仰告白が、人間によるものではなく、神ご自身に起源するものであることを、「ペトロの信仰告白」において確認した。そしてまた、主イエスの受難予告に対するペトロの「諫言行為」が「サタン」に起源することに対して、主イエスが即座に喝破し、ペトロを大叱責することによって、ペトロをの内部に巣くうサタンを退散させたことをも確認した。


 変貌の出来事は、受難の出来事の開始を意味していた。


 本日は、主イエスの変貌の出来事を通じて、この出来事が、「主の受難の出来事」が、これにより開始したことを確認することになる。


 荒野の試練に先立ち、主イエスは、地上での宣教の歩みの公的な開始のために、神ご自身による確証の言(ことば)が天より降された。


 すなわち、


 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」(マタイ3章17節)である。


 この神ご自身による確証は、ヨルダン川での洗礼者ヨハネによって主イエスが洗礼を受けた時に、起こった。この出来事は、多くの人びとの衆人環視のなかで生起した出来事であり、一人や二人の証言によるものではない。この出来事を目撃、聴取、体験した共同的体験であった。すなわち、主イエスの宣教は、その初めから、「実存的」とか、「観念的」とか、「主観的」とかという単独者の出来事として生起した事柄を意味してないということである。客観的な出来事であって、人間の主観に左右左右されない独一無比な事柄を意味していたのである。


 ここで生起した神ご自身による「確証」は主イエスの公的生涯の開始を意味していた。それは民の客観的な共同的体験であった。そして何より、洗礼者ヨハネが、主イエスの神の独り子なる神として宣教を開始するにあたり、その開始の「火蓋を切る」仕事をしたことを意味していた。


 この事は、洗礼者ヨハネが、マラキの預言の成就者であったことを意味していたのだ。


 すなわちマラキ書3章1節


       「見よ、わたしは使者を送る。


      彼はわが前に道を備える。


      あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。


      あなたたちが喜びとしている契約の使者


      見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」。


  「彼はわが前に道を備える」という使命は、洗礼者ヨハネの自己認識と完全一致する。


すなわちマタイ3章1節~3節にはこうある。


すなわち、


    そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」


 また、このようにもある。


 ヨハネ1章22節~24節(注記1)


      そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」


  荒野の誘惑に「完全勝利」したことは、主イエスの人類救済の出来事、すなわち、主イエスの苦難と死、復活と昇天に至るすべての御業の「完全勝利」を意味していた。


 したがって、「荒野の試練」の勝利のあと、直ちに主は、「ガリラヤ伝道」へと向かったのであった。





 父なる神による二度目のキリスト認証のみ言


     


 マタイによる福音書17章5節に、以下のようにある。


 すなわち、


  5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。


 5節の「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という聖句は、「これに聞け」という命令が加わっている以外は、マタイ3章17節の、神ご自身による主イエスのキリスト認証・確証のみ言葉と同じである。


    このキリスト認証・確証の神の言こそが、この変貌の出来事の核心である。


 さて、


 モーセとエリヤとが出現して主イエスと語り合うビジョンは明らかに奇跡である。異象である。ここに合理的な言い訳めいた合理的解釈をさしはさむことはすまい。


 合理性を超えているから異象という他はないのである。


 とはいえ、異象だから幻視と決めつけることは適当でない。この出来事は、一人や二人の体験ではなく、抜擢された三人の弟子たちの共同的かつ同一の体験なのであるから、主観的な思い込みとか、ある事件の再解釈とか、そういう矮小化は防がれているといえるからだ。しかし他方、何らかの歴史的な現実を反映している「事実」そのものの報告と言うことも、この出来事の時空を超えた意味ある出来事として認識されている以上は、ただちに直接的に判断できない。


  わたしは、あえてこの出来事に、合理的な解釈も実存的な解釈も、歴史的な解釈も読み取らないこととする。あえて言えば、この出来事の共同性は、受難の出来事の証言の客観性を担保した三人の弟子たちの共同的体験の現実だった、と考える。


 三人にとって、この出来事は、あくまで鮮明な出来事であり、神の確証のみ言を目撃、聴取、体験した共同的、客観的な現実であったと考える他はないのだ。


 


旧約律法・預言書の成就者イエスと弟子の「別の誤解」


 モーセは律法を神より受けた者、エリヤは預言者を代表する。この二人が主イエスと語り合うビジョンは、主イエスこそが、新しい人類歴史の開闢が、神の民イスラエルのすべての救いをもたらすキリストでありたもうことを、視覚的に定着させたのである。


 しかし、このビジョン(視覚的認識)は、この出来事が神の自己啓示を意味していることは明らかであるにしても、このビジョンを体験した三人の弟子たちには、神の自己啓示であることまでは認識されていたけれども、彼らの認識のなかで、主イエスの受難予告にペトロが「諫言行為」をしたときとは、次元を異にはするが、「別の誤解」が生じていた。


 マタイによる福音書17章2節には以下のようにある。


 すなわち、     


2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。


 つまり、主イエスのこの「変貌」を前にして、またしてもペトロが、「的外れな提案」をしてしまうのだ。


 4節を見てみよう。


      4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」


 ペトロは、モーセ・エリヤ・主イエスのために「仮小屋」を建てましょうと提案する。


「仮小屋」という提案から、わたしは、三つの「罪」を見る。


 第一の罪は、偉大なうえに偉大だと信じてきたモーセ、エリヤ、主イエスに、「仮」の建物を建てようという目論見には、尊敬が感じられない。彼は心底、その提案がモーセ、エリヤ、イエスに喜ばれるべき信仰心の発露だと考えていたのだろうか、もしそうであれば、あまりにも尊敬する人びとへを軽視している提案ではないのか。


 第二の罪は、「仮小屋」を建てて、どうしようとペトロは考えていたのか。何を目的として、このような提案をしたのか。」


      「一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」とある。


 ペトロは相手の「ため」だと平気で言っている.一体、「仮小屋」を建てることが、どうして、モーセのためになり、エリヤのためになり、主イエスのためになると、言えるのだろうか。わたしには、何も相手のためにもならないことを、相手のためだと言い切っているようにしか見えない。


  第三の罪は、この提案には、ペトロの意識的にか無意識的か、はっきりした目的が潜んでいることだ。それは、ペトロの宗教的願望である。ペトロがいま、現実に他の二人と共有しているの神の啓示の体験を、自己の宗教的な陶酔感に浸りながら、「このままこの至上の恍惚体験」を、ここに留め置きたいのだ。いつでも、この「仮小屋」にきて、この三人に会うことができるとしたら、もう他には何もいらない。いまは「仮小屋」でも、やがてはここを聖所にするのだ・・・。いや神殿にしよう・・・。「天の宮」だ。


 


 主イエスの変貌という視覚的なビジョンの体験は、まぎれもなく主イエスが神ご自身であることを意味する出来事にほかならなかった。


 しかし、この否定しように否定できない人間の主観とは完全に独立した現実であるにもかかわらず、ビジョンによって、弟子たちの信仰内容は変えられてはいなかったのである。


 つまり、弟子の「無理解」、弟子の「的外れな提案」によって、むしろかえって、この変貌の出来事が、彼らの宗教的願望の投影でもなく、まして彼らの「信仰の所産」ではあり得ないということを証明しているのである。


 人間に示されたこの神の自己啓示の出来事を体験した当時者自身に「信仰の革新」はなんら生起していないのである。信仰は「神秘的体験」と必ずしも一致するとは限らないことをこの出来事は証明しているのだ。


 


変貌の出来事の核心はみ言にある。


 マタイによる福音書17章5節=7節を見る。


 すなわち、


      5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。


      6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。


      7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」


 


 「信仰の革新」は、人間の側からは決して生起しない。信仰は、ただ神からくる。


 「雲の中から」神ご自身のみ言が語られた。「6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。」


 弟子たちは、主の変貌という神の自己啓示の体験によっては、「信仰の革新」を経験できずにいたけれども、他ならぬ「神の言」によって、「信仰の革新」へと導かれたのだ。


 主イエスが彼らに触れられ、「起きなさい。恐れることはない。」とのみ言によって、彼らははじめて、信仰に覚醒する。


 ここから、弟子たちは、主イエスの受難への道に同道する弟子として、新たな旅立ちをしてゆくことになったのだ。





「これに聞け」


  雲の中からの神のみ言、「これに聞け」という命令は、主イエスの受難予告の通りに、主イエスが、以後、ひたすら、しかも威風堂々と、十字架上で殺されるという人類救済にむけて「受難の道」を、歩んでゆくが、この道をゆくイエスのみ言に聴き従うことを命じているといえよう。


 受難の道を行く主イエスの言に聴き従えという神の命令なのである。


 弟子たちは、この神の言のもとにある。


 信仰の覚醒は、神の言への従順以外ではあり得ないのだ。


 主イエスは、十字架に至るまで、主イエスを殺そうとするすべての敵対者を、赦し、愛するという行動を最期まで貫き通される。


 この愛の戒め、主イエスが身をもって示された愛のいましめに、あなたがたも同じように聴き従いなさい。神はここで命じられたのである。


 この「これに聞け」が弟子たちすべての原点となっているのである。





 五度目の「沈黙命令」


 17章8節~9節をみる。


 すなわち、


      8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。


      9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。


   主イエスの「沈黙命令」については「受難予告」のときにもなされた。「主イエスはキリストである」という信仰告白は人によるものではなく、ただ神によるものであらねばならない。


 人による評価、価値判断、業績、功績、奇跡願望、神秘主義的願望、宗教的体験主義などなどあらゆる人間的な起源は真実な信仰告白にはならない。すなわち、「主イエスはわたしの主、イエス・キリストでありたもう」という信仰告白には、一片の人間的動機も入り込む余地はないのである。


 これから、弟子たちは、殺されるために、その十字架の死という極点を目指して、揺るぎなく、威風堂々と先頭を切る主イエスの、あとに続き歩むことになる。


 これから殺されることが明白な方を、メシアだと宣教してゆくことは、はたして、彼には可能だったであろうか、彼らは、しかし、ここではっきりと、命じられたのだ。


 「沈黙命令」


      9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。


エリヤの使命は果たされた。


 信仰に覚醒した弟子たちは主イエスに重大な質問をした。


 洗礼者ヨハネこそが、来るべきエリヤであることを、主イエス御自身が弟子たちに語られるということをこの箇所は明示しているから、「重大」なのであった。


 マタイによる福音書17章10節~13節を見よう。


 すなわち、こう書いてある。


      10彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。


      11イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。


      12言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」


      13そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。


 主イエスは、洗礼者ヨハネこそ、この応答によって、「エリヤだ」と明言されていることになるのだ。


 だからこそ、初代教会は、洗礼者ヨハネをエリヤの使命成就者として、尊敬してきたのだ。


 ヨハネ福音書には、ヨハネが「わたしはエリヤではない」と自己証言しているが、一世紀90年代に成立したヨハネによる福音書が、わざわざこの洗礼者ヨハネの自己証言を残しているのには理由がある。主イエスによりヨハネについての証言とヨハネの自己証言との食い違いを明確化する目的がヨハネ共同体にはあったからだ。


 洗礼者ヨハネの宣教内容と主イエスの宣教内容には、明瞭な「差異と区別」がある。その差異性は、主イエスの宣教内容をより鮮やかに明確化する。この差異性は、自己証言とイエス証言の差異よりもはるかに重要であったのである。


 福音書全体を通してみれば、洗礼者ヨハネは、生前、母エリサベツの胎内にあって、人類のなかでただ一人、主イエスが誰であるかを「証言」した人物であり、預言者イザヤの預言成就者であることを自認し、それはマラキのエリヤ預言とまったく一致もしている。


 イエスの最初の弟子たちは洗礼者の弟子たちであったことが、ヨハネ福音書で示されている。洗礼者ヨハネの「見よ、世の罪をとりのぞく神の子羊」という証言に、ヨハネの弟子たちは信じ、従ったからこそイエスの弟子となったのである。


 ヨハネはその死においても、主イエスの先駆者として、神の義をまっとうした。主イエスに先だって、死罪とされたのである。ヨハネの「死」は、イエスの「死」の先駆であることは明白だ。だから、その誕生から死に至るまで、主イエスの先駆者、証言者としていささかのブレることなく生涯をまっとうしたである。


 洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆者として、つまりエリヤとして、主イエスの「受難の道」を先だって歩んだと、主はこの問答のなかで語っておられるのである。


 繰り返す、主イエスは、ここで弟子たちに、洗礼者ヨハネこそ、エリヤとしての使命を完全に全うしたと宣言されているのである。


      「 人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」


 洗礼者ヨハネのように、主イエスは、苦難の道程を歩むと語られたのである。


 繰り返す、洗礼者ヨハネこそ、エリヤの使命を完全にまっとうした、主イエスはそのように、ここで明確に語っているのだ。


 「人びとから認められず、好きなようにあしらわれ、苦しめられる」ことこそ、主イエスの先駆者、「主の道筋を備え、その道をまっすぐにする荒野の声」(イザヤ預言)」であり、エリヤとしての使命をまっとうすることなのだと語られたのである。


      マラキ3章23節~24節の預言をみよう。


 すなわち、


      23見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。


      24彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。


 


エリヤの使命とは「父の心を子に子の心を父に向けさせる。」


    洗礼者ヨハネこそは、エリヤであったと主イエスは明言された。


 それは主が使命とされている人類救済のみ業が、十字架の死と苦難によってこそ成し遂げられることと、まったく同一軌道上の道、すなわち、義のゆえに斬首されるという苦難によって、主イエスの受難の道の先駆者となったからである。


 エリヤの使命は、「父の心を子に子の心を父に向けさせる」事柄であった。


「父の心を子に子の心を父に向けさせる」事柄とは何か。


 人心を変えることではない。人心に、悔い改めを起こさせるバプテスマの働きも、彼が人間である以上は時空を超えることではないからだ。


 「父の心を子に子の心を父に向けさせる」事柄は、主イエスが、あの十字架上で、叫ばれる「エリ、エリ、エリ、サバクタニ」という叫びにも似た祈りの瞬間に、人類の目にも明らかとなった出来事だ。


 洗礼者ヨハネの、道ぞなえの道は、主イエスの御苦難の先駆として「死に渡される」ことであった。これにより、真の父(父なる神)の心を子(子なる神)に向けさせ、子(子なる神)に父(父なる神)の心を向けさせたのである。


 ヨハネは極悪人に課せられるべき斬首の死をもって、主イエスの受難の先駆となった。


このヨハネの死を見て、主イエスは父なる神の「心」をことごとく知り、父の心をさらに確実に確信したであろう。そして、父なる神への従順の道は、この十字架への道以外にないことをさらに確信したであろう。この独り子なる神の苦難の叫びは、「子の心」を父なる神に届けたことであろう。子なる神の痛み(苦難)を見つめる父なる神の「痛み」をこそ、十字架上の叫びこそ、人類が「神の痛み」をキリスト・イエスによって知らしめられたのだ。


 ここで「洗礼者こそエリヤ」その人だと弟子に示すことによる、ゆるぎない受難の道を、ここで弟子たちに示したもう事になった。


 この「変貌の山」での、神の命令によって、主イエスの受難の道が開始され、弟子たちがこの苦難の道への始まった。弟子たちの苦難の道への同道は、即、人類の道をも示している。


 


  最後に


 弟子への「これに聞け」という神の命令は、わたしたちにも向けられている。


 それは、主イエスが受難予告で示された、犠牲の愛、敵を愛する愛の道をこそ行きなさいという人倫である。


 この命令は、主御自身、さらには洗礼者ヨハネの示した義のゆえに死ぬという道、このようないばらの道こそが、人類が共同して、歩むべき人倫であるということであろう。





(注記1)


ヨハネによる福音書のこの箇所で、洗礼者はファリサイ人の派遣する使者の問いに、「わたしはエリヤではない」と答えている。これはヨハネ自身による自己認識において、エリヤ自身ではないという意味であるだけであることに留意すべきである。事柄として、彼自身には使命者として、イザヤ預言の成就者という自己認識があったということが重要であり、その使命の成就者とは、とりもなおさず、主イエスによって、「エリヤ」の使命成就者と認定されていた事が重要なのである。ゆえにキリスト者共同体にとって、洗礼者ヨハネは「エリヤ」と同定されたのである。



 

2025年3月21日金曜日

2024年3月23日 (四旬節第3主日)

  〈受難の予告〉

  マタイ 16:13~28、  詩編 86:5~10


黙想   サタンの視点、「キリストは決して殺されてはなりません」

  ペトロの信仰告白を、主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と、信仰は人のわざではなく、天与の賜物だと、祝福されます(幸いだ)

 ところが、ペトロの信仰告白を祝福した直後から、主はご自身の受難の予告をかたり始めるのでした。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」

 ペトロの信仰告白は、主イエスが「だれであるか」という事柄についてでした。ペトロは、イエスがメシア(キリスト)、生ける神の子だという認識内容を告白したのです。この告白は正確な認識でした。だからこそ「あなたは幸いだ」と主は祝福されたのです。

 しかし、この信仰知には、神の子・キリストが何をこそなしたもうお方であるかという信仰知が含まれていませんでした。それは主の受難予告に対してペトロがとった行動によって明らかになったのです。ペトロが、受難予告を語りたもう主イエスを諫め始めたからです。主は、これに対して、先ほどとは正反対に超弩弓の叱責をされます。「サタン、引き下がれ」と。

 祝福と叱責。ペトロに対する真逆の主の態度が示す事柄によって、判明することが二つあります。

 第一には、信仰はただ神ご自身の自己贈与によって生起するということ、そしてこの告白は「陰府の力も対抗できない」という不滅性を有していることです。それはペトロの態度が「サタン」呼ばわりされようといささかも解消されはしません。

 第二には、主が「三日目に復活することになっている」と明言されているにもかかわらず、ペトロは主の「苦難と死」について、「そんなことはあってはならない」と、否定したことが「意味するもの」です。

 それはペテロが自らの人間的な視点を、主イエスが完遂しようとされる人類救済のみ業に対して、押し被せて、これを否定したことが「意味していたもの」です。その「意味したもの」とは、「わが師イエスこそは生きてこの地上で、地上の王となって世界を支配するお方であるべきです」という「肉の視点」でした。彼にとっては「わが師イエスは決して殺されてはならないお方」だったのです。彼はそう考えた。この「肉の視点」こそあの荒野で、主イエスを誘惑したサタンの第三の誘惑そのものに他なりません。ゆえに主イエスは、あの時と同じみ言をもって、この「肉の思い」を退けたもうたのです。この怒りの叱責こそ、ペトロの魂にむけての神の独り子なる主の厳しい愛の言に他ならないのです。



2025年3月15日土曜日

 2024年3月16日 (四旬節第2主日)

マタイによる福音書12章22節~32節



『ベルゼブル論争』

本日の黙想はベルゼブル論争と言われる有名な箇所です。
 主イエスが弱き人々の病を癒し、障害を取り除き、悪霊を追放するみわざを行うと、パリサイ人らは、それは「悪霊の頭ベルゼブルによるものだ」と断定して、中傷しました。
 パリサイ人が、主イエスを攻撃する材料として、主イエスの行われる奇跡に対して、その解釈、意味づけを、そのようにしたことは、ある意味で当然だったことでしょう。しかし、彼らの内心は、決して主イエスへの敵意・憎悪で一色だった訳でもなかっただろうと、思われます。なぜなら、主イエスの奇跡は、やはり奇跡以外のなにものでもなかったし、その奇跡はたまたま一件とか二件というようなものではなくて、数知れず起きていたし、これらを経験して、実際に癒された人々や、目撃していた家族や親族、近所の人々は、そのような不思議で、しかも力ある業は、神から遣わされたのでなければ決して起きないだろうと、圧倒的な多数の人々は考える他はなかったのですから、群衆が等しく主イエスの力は神の力によると信じているなかで、パリサイ人らは、同じ経験をしたり、目撃しているにはいるが、彼らとしては決して信じない、信じたくはないという彼らの立ち位置では、群衆の思いと自分たちの思いとを同調させる訳にはいかない。なんとかして、群衆が主イエスに惹きつけられてゆくことを阻止しなければならない、こう考えるしかなかったのです。
 いわば彼らを宿命づけている立場からの要求に、主イエスの奇跡の驚異的な力に心動かされながらも、どこまでも固執しなければならなかったのです。
 だから、主イエスのこの驚異的な力は、神さまからのものではなく、悪霊の頭ベルゼブルからのものだという「こじつけ」「難癖」をつけないではいられなかったのです。確かに、このイエスという男のしている業は驚異的な奇跡・しるしには違いない、しかしそれは悪霊の頭にだってできるだろう。「悪魔の強大な力を背景にこの男はしるしをなしているに違いないのだ。」このような解釈・意味づけをすることにより、群衆が主イエスに心酔してゆくことを阻止しようとしたのです。
 しかしこのような断定は、実は彼ら自身の墓穴でもあったのです。