2026年4月26日 (復活節第4主日)
ヨハネによる福音書13章31節~35節
『キリストの掟』
東濃の三つの教会を一人の牧師が兼任しております。
2026年4月26日 (復活節第4主日)
ヨハネによる福音書13章31節~35節
『キリストの掟』
2026年4月19日 (復活節第3主日)
『まことの羊飼い』
ヨハネによる福音書10章7節~18節
1.羊の門、囲い
主イエスのこれらの言葉は、比喩で満ちている。
羊も比喩なら、門も比喩だ。
比喩が指し示しているものは、「わたしは」という主語によって、限定されてくる。羊は、弟子であり、キリスト者であり、人類をも指すという具合に広がってゆく。
さしあたって、聴き手のわたしたちは、羊とは、この「わたし」のことだと受けとめる。それでよい。
「わたしは羊の門である。」と主イエスが語られるとき、羊としての「わたし」にとって、主イエスは「救い」の「門」である主イエスの前にいるのである。
2.自己選択権ということ
「わたしは羊の門である。」と主イエスが語ってくださるとき、「わたし」には、通るべき門をはっきりと知っている。だから、そこには迷いはない。
ところが、「わたし」は通るべき「門」が主イエスではない場合があるというのだ。
その「門」は、主イエスよりも「前に来たもの」が、「門」を自称する場合の「門」だ。主イエスはその偽りの「門」を「盗人」、「強盗」と呼ぶ。この場合、「わたし」はこの「門」を通ってよいかといえば、良いわけがない。この「門」は、通ってはいけない「門」なのだ。
この偽りの「門」が「わたし」の前にあるとき、「わたし」は、選ばねばならない。
通ってはいけないが、通るか通らないかは、やはり選ばなければならないのだ。
「わたし」には、どちらかを選ぶ権利がある。自己選択権があるのだ。
善の道と悪の道がある。善の道を選ぶべきであることはわかっている。しかし、「わたし」は善の道と悪の道のどちらかを選ぶ権利があるというのだ。
創世記の堕落の物語では、エバもアダムも、神の戒めを守る道と蛇の誘惑に乗って戒めを破る道の両者が、彼らの前にはあった。彼らには自己が行くべき道を選ぶ権利があったのであった。神の戒めを守るべきことはわかっていた。しかし、彼らは神の戒めを破る道を選んだ。
この物語は、自己選択権という権利の恐るべき本質を教えている。
3.悪を選ぶ権利はあるのか
偽りの「門」、すなわち、「盗人」、「強盗」の目的は、「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」。目的は明白だ。
「盗み」、「殺人」、「滅亡」どれもが、「わたし」が願わざるゴールだ。誰もこんな目的地へ行きたいはずはない。しかし、エバもアダムもこの道を選んだ。ゆえにこそ、彼らの末裔の「わたしたち」の世界は、「盗み」、「殺人」、「滅亡」に満ち満ちているではないか。
某国は公然と他国の石油利権を盗むと公言している。ミサイル攻撃で無辜の民が死んでも平気だ。文明全体を滅ぼすとさえ言いきる。こんな世界に誰がした。根源には自己選択権がある。こんなことを決断する為政者を選んだのは、「わたしたち」に他ならない。
人は、悪の道を自由意志によって選択するかもしれない存在なのである。誰しもが願わざる悪の道を、人は選ぶかもしれない存在なのだ。
「自己選択権」は危険な陥穽(落とし穴)なのである。
自分で選ぶということは、自分では選ぶことが本来できない筈のことを、選ぶことができると錯覚することではないのか。
たとえば、わたしたちは、人のものを盗むことができるとか、人を殺すことができるとか、人を貶めて滅ぼすことができるとか・・・・。
偽りの「門」の目的は、このような事が蔓延することだ。けれどもわたしたちには、このような所業を選ぶことは、本当に「わたし」の選択の権利なのかと言えば、そんな権利が許される筈はないではないか。そんなことを選ぶ権利は本来ありえないはずではないのか。
4.羊は彼らの言うことを聞かなかった。
しかし、幸いなるかな主イエスは言われた。
「しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」と。
主はあえて、過去形で、「聞かなかった」と言われた。
そのこと(既に過去の既定の事柄だということ)が示す事は、羊が偽りの「門」を選ぶことはなかったと過去形で語ることにより、その事は、選ぶか選ばないかという選択の事柄ではなく既に決定済みの事柄なのだという意味にとれる。つまり、「選択」の問題ではないという事なのだ。「決定済み」の問題なのだと主は言われたのである。
人類にとって、アダムとエバ以来の「悪の道」は既に過ぎ去った過去のことであり、主イエスによって開闢する人類の新たな歴史においては、人は、悪の道を選ばなかったという決定的地点が既に始まっているというのである。新しいアイオーンが始まっているのだ。
換言すると、人は、善の道を選ぶか悪の道を選ぶかという自己選択権に、惑う必要はもうないということだ。人は、偽りの「門」、悪の道を選ぶ可能性は既に存在しないというのである。
なぜなら「羊すなわち人類」は、主イエスを既に知っているからだというのである。
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(14節)
5.「わたしは羊の門」=神の先行的選び
これは限りなき恵みの宣言である。
〈善の道を進むか悪の道を進むか右往左往する自己選択権という自由の苦悩〉から人は解放されたという解放の宣言だからである。
主イエスによってもたらされたイエス御自身の解放の福音のまえで、人は、ただ主イエスに従うという唯一の道を通る以外の道を選ぶ必要はなくなったのだ。
主イエスという「門」は、「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける、と言われる道である。
主イエスという「門」の前で、人は既に、主イエスという「門」」を知っていると主は言われる。
「人」がすなわち「わたし」が、主イエスを知っているのは、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と言われたとおり、主イエスが「人」を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからに他ならない。
人がイエスを発見するのではなく、主イエスが既に、人を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからこそ、「人」すなわち「わたし」は、主イエスを知っているのだ。
ここに選択肢は存在しない。ただ、神の一方的な選びがあるだけである。
「わたし」が、主イエスを知っているからではなく、主イエスが「わたし」を既に選んで知っていてくださるからこそ、「わたし」は主イエスを知っているのだ。
ゆえに、この主イエスの先行的選びによって、わたしという人間が主イエスの前にたつとき、既にわたしは主イエスに捉えられた者であるがゆえに、主イエスを知っている。
これを神の一方的な恵みといわずにおれようか。
6.雇い人
雇い人もまた何者かを比喩している。
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――(12節)
彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。(13節)
ここで深く立ち入って解釈する必要はない。
主イエスは「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる人」を引き合いに出しているのだ。
辛辣な宗教批判なのである。主イエスは、危機に瀕して逃走する人を引き合いに出して、「羊」のことを心にかけていない事実こそが、「羊飼いと雇い人の違い」だというのである。
羊の世話を委されていながら、心にかけておらず、危機に瀕すれば遁走する無責任な者を揶揄している。
厳しい宗教者批判だ。
主イエスは、どこまでも、個々の具体的な、固有な存在に固着してゆかれる。いつもいつも「一人の人」をみつめておられる。個々の固有な存在を、主はみつめておられる。
羊飼いは一頭一頭の羊の存在をこよなく大切にする。しかし雇い人はそうではない。自分だけが助かることにしか関心がない。
7.この囲いの外に 「囲い」の消滅
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(16節)
主イエスの「一方的な先行的な選び」は、「門」の中、すなわち囲いの中の「羊」たちだけが対象なのではない。囲いは「狼」のような外敵から「羊」を守る防護柵のことだ。「羊」を守るためには「囲い」が必要なのだ。
しかし、主イエスは言われた。この囲いの外にも、「羊」がいる。この「羊」もまた「一方的な先行的な選び」の対象だというのだ。
「囲い」は、防護柵なのだが、ともすると、「壁」に変質しかねない。差別のための自己正当化になりかねない。「壁」の中の人間のみを守り、外の人間を排除し、外敵化する人間の罪がそうさせる。
しかるに、主イエスは,常に「囲い」の外に、「わたしの声を聞きわける羊」に心にかけたもう。人のこころの中に蔓延る「壁」を不断に崩壊させて、遠くへ遠くへと「羊」を捜したもうのだ。主イエスは、「囲い」の中の羊を放置してでも、どこまでもどこまでも「迷える子羊」を捜し求めてゆかれるのだ。
こうして、世界中の羊は、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
この事は実現するとき、容易に「壁」に変質する「囲い」は必要なくなる。
主イエスのこの宣言は、終末論的な希望である。主イエスが神だからこそ言い得た言葉としか思えない。
ここには、世界大の共同体が、「一つの群れ」となるという理想世界実現の確証が語られている。人間の語り得る言葉ではない。神にしか語り得ない。究極的な希望の宣言だ。
8.十字架の死と復活の意志
わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。(17節)
だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(18節)
「わたしは良い羊飼いである」という宣言は、十字架の死と復活の出来事の予告であり、意志表示として理解されなければならない。
実は、人は、死ぬことができない。
人はやむなく死ぬのだが、死ぬことができるから死ぬのではない。人は死ぬことはできないのに死ぬのだ。なぜなら、死ぬ事が出来るのはただ神のみだからである。
神は死ぬことができる。なぜなら、再び生きることができるからである。神はいのちを捨てることができるし、いのちを再び甦らせることもできる。だからこそ、死ぬ事ができるのである。再び生きることができる方のみが死ぬ事ができるのである。
しかるに、人は、地上の生を終えるが、それは死ぬ事ができるという意味ではない。死ぬ事ができないのに、やむなく死なざるを得ないのだ。このやむなき地上の死は「死が支配する」だ。この「死」とは「神と人との関係喪失性」を意味する。神なき事、神喪失性こそが「死」の本質である。
この「死」(神喪失性)はキリストの「死」によって滅ぼされねばならぬ。
「死」(神喪失性)の「死」だ。実に「死」は十字架の死に呑み込まれたのである。
人は、死ぬ事ができる神によって、再び生きるいのちに与って甦る希望によって、死ぬ事ができるようになる。
人は、キリストのいのちに与って甦る希望があるとき、はじめて地上の生の終焉を迎える勇気を与えられるのである。
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(10節)
「死」の「死」、すなわち復活の希望によってこそ、人は死ぬ事ができるのである。キリスト・イエスによって「羊が命を受ける」からである。
主イエスは、明確に、「羊」すなわち「わたし」の「命」(甦りの命)を与えることを、このみことばによって確約されているのである。「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」との宣言は、羊すなわち「わたし」が「いのちを受けるため、しかも豊かに受けるための確証に他ならなかった。
主イエスは、神の独り子なる神として、全人類を「羊飼い」として、永遠のいのちを与えんがため、来られた。
その確証は、全人類にまで及んでいる。
わたしたちは、ただ主イエスの御前で、主に従うだけで、既に主イエスの「門」を通っているのである。
諦めてはならない。主イエスの前に立つとき、「わたし」は既に、主イエスに知られている。
知られている「わたし」は「主イエス」でありたもう「天国の門」を通るべく、主の御声を聴き分けることができる者と変えられている。
救いは、既に確定しているのだ。ここに迷いはない。
2026年4月12日復活節第2主日
ヨハネによる福音書20章19節~31節
『復活顕現』
1.不思議に思う事
甦りの主イエスが、突如として弟子たちの前に出現した。彼らは家の戸に鍵をかけて潜んでいたのだ。
この家の中で、わたしが不思議に思うことがある。
それは、弟子たちの「恐怖心」だ。彼らがユダヤ人たちを恐れていたのはわかる。このことが不思議なのではない。彼らはナザレのイエス、ガリラヤ人の仲間、弟子だというだけで、主イエスを殺害し狂ったように敵愾心をもって捜し回っている敵対者たちが、そら恐ろしかったのだ。この心理状態は、紛れもなく主イエスを裏切ったペトロの心理と同質のものだ。
弟子たちは、主イエスの仲間、弟子だということを隠したいのだ。自分たちも捕縛され、刑罰を受けるかもしれないという恐怖に囚われていたのだ。だから、鍵をかけて誰にも居場所を知られないように、潜んでいたのである。こういう「恐怖心」に、彼らが落ちこんでいるという事情がよく伝わって来る。
彼らは、なるべく別々に行動しないようにしていたのだろう。個別に行動して、敵対者にそのうち誰かが捕まったりしたら、ペトロがイエスを裏切ったように、仲間を裏切らないとも限らない。疑心暗鬼になりたくはないのだ。だから、なるべく一緒にいよう。捕まるときは、一蓮托生だ。みなで捕まろうではないか。そんな自暴自棄にもなっていたもかもしれない。彼らはひたすら怖かったのだ。逃げたかったのだ。
そんな彼らの前に、甦りの主イエスは、瞬時に現れたのである。わたしが「瞬時」だと思うのは、このとき、主イエスは、戸をあけて入ってきたのではなかったからだ。戸をあけて入ってきたのであれば、瞬時とは言えない。戸を開ける動作、歩く動作が必ずあるからだ。動作があれば、そこにはある程度の時間経過があるはずだ。だから、この経過時間があったのであれば、彼らはその経過時間のあいだ、主イエスを見続けていたことになる。
ところが、甦りの主イエスは戸をあけて入ってきたのではなかった。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(19節)
突如として、甦りの主イエスは、彼らの「真ん中」に立って、「シャローム」と言われたとういうのだ。
だから、このイエスの出現は、突然の出来事、瞬時の出来事だと云わねばならない。イエスは鍵がかけられていた家に鍵に触れもせず、戸を開けもせず、「来た」のである。甦りの主が、彼らの真ん中に立って、一見して彼らと少しも変わらない「身体」をもった存在として「来た」。甦りの主イエスが、「甦りの身体」をもった存在として、弟子たちの前に、現にいる。少しも変わらない身体であるのに、鍵をあけず、戸を開けもしないで、瞬時に出現したのであった。
ここに第1の不思議がある。
同じ「身体」であるにもかかわらず、同じ「身体」ではありえない「甦りの身体」として、主は今、ここにおられるのだ。不思議としか云いようがない。
そして、第2の不思議が弟子たちに起きた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(20節)
「恐怖心」でいっぱいだった弟子たちが、甦りの主の「出現」を経験して、「喜んだ」のだ。
「恐怖」から「歓喜」へと変化したのはどういうことか。不思議ではないか。あの怖れは、主イエスと仲間だと思われることが、自分の身を危うくする事から来ていた恐怖心だった筈だ。それがいま、主イエスと会って、イエスの弟子として喜んでいるのだ。恥ずかしくないのかと思ってしまう。あれほど、イエスの仲間だということを恥でもあるかのように、ひた隠ししたペトロと、まったく同じ質の恐れに落ちこんでいた彼らは、いま、イエスを会って喜んでいる。どういう心境の変化なのだろう。彼らは単に、『沈黙』に登場する「キチジロー」のような弱く卑怯な人間にすぎないのか。
2.何かが変わった
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。(22節)
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(23節)
弟子たちの「喜び」には、何かが変わったことの兆しが感じられる。そう考えなければ、この「不思議」さはただの謎に終わるだけだ。弟子たちの人格に、何かが起きたとしか考えられない。さっきまで恐怖に怯えていた彼らと、いま喜んでいる彼らとは、まったく同じ弟子たちではあっても、まったく別の人格が彼らのなかで現れ出てきたとしか考えようがないのだ。
喜んでいる彼らは、もはやさっきまでの小心者たちではない。彼らは、甦りの主イエスに出会って、別人格の存在と、既になってしまっているではないか。
3.派遣の類比
甦りの主イエスは言われた。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。
この言葉には、類比がある。
類比とは何かというと、「~のように」という言葉が意味するものを類比という。
「父なる神が主イエスを遣わしになった。」
父なる神の主イエスの派遣の出来事と「同じように」主イエスが弟子たちをお遣しになる。つまり「父なる神」の「子なる神イエス」の派遣と、「子なる神イエ」の「弟子」の派遣は、この「~ように」という関係の類比となっているのだ。
この類比の関係は、対応関係になっている。
この類比が成り立っているという事は、何を意味しているのか。
弟子たちが主イエスによって派遣されたという事実は、神とイエスの関係に対応している。主イエスの存在と弟子の存在との間には、神とイエスの関係の如き(ような)関係が生起していることになったことを意味するのである。
とんでもない事が起きていたのである。主イエスが弟子たちを派遣したという事実は、弟子たちが主イエスのごとき(ような)存在へと変えられているというのである。何かが変わったと、わたしが感じたのは、このことだ。弟子たちは、聖なる者とされたのである。
4.聖霊を受けよ
聖霊の原語はプニューマという。この言葉は「息」をも意味する。まさに主イエスは、息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたのだが、「息を受けよ」と言っているに等しい。
神の息は、生命を与える。アダムは神の息を吹き入れられて生きる者となった。キリスト・イエスの息を弟子たちは吹き入れられて生きる者となったのである。キリストの生命に生きる者となったのである。
5.聖霊の生命に変えられる「聖化」
このように考えることができると、あの「不思議」は、感嘆に変わる。そうか、それでわかった。あの主イエスを裏切った卑怯なペトロが、どうして殉教をも厭わない聖ペトロに変わったのか。合点がいった。ペトロは昔のペトロではなくなったのだ。聖なる者となったのだ。
主の派遣の命令によって、彼はまったく新しいキリストの生命のごとき生命を生きる者とされたのだ。
わたしが、感じた「不思議」体験は、主イエスのみことばによって氷解した。
6.「不信のトマス」
ディディモと呼ばれるトマス。みなさんよくご存じの「不信のトマス」の出来事が、次に登場します。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 (25節)
トマスは、仲間の証言では、甦りの主イエスの顕現を信じないという懐疑の人であった。彼は自分の認識力を信じて、仲間の証言を手放しで受け入れることを拒否する強い意志の持ち主だったようである。2千年前の古代社会にもこんな慎重な精神の人がいたことには少しく驚きを禁じ得ない。ある意味では、石橋を叩いても渡らないという慎重さは、詐欺やフェイクが横行する現代でも必要な態度とも言えそうである。
彼は他の弟子と同じだとも言える。トマスは他の弟子が先に甦りの主イエスに出会った時に、そこに居合わせなかっただけだ。他の弟子たちは、現に甦りの主イエスに出会っているから、信じるも信じないも現に会っているのだから、信じない事はできない。会っているのに会ったことを信じないとは誰も言えないからだ。でもトマスは、まだ会っていないのだ。条件としては、甦りの主イエスに出会う前の他の弟子と同じなのだ。トマスだって,実際に会ってみれば信じないということは不可能になる。他の弟子と実は条件はまったく同じなのだ。
ただ、トマスだけは、最初の主の顕現の時に,その場に居合わせなかったにすぎないのである。
だから、トマスの不信というのは、少しかわいそうな気がする。他の弟子も条件は同じなのだから。
7.「決して信じない」
トマスだけ単独行動していて、主の顕現の現場に立ち会うことがなかった理由が気になるが、それはさておくとして、彼の「決して信じない」というきっぱりとした断言には、いくぶん寂しさを感じないではない。
自分一人だけ、甦りの主イエスに会わなかったということが、彼の心の傷になったのかもしれない。他の弟子たちだって、受難の死と復活の予告を聞いていたのに、主の言葉を信じられないでいたという点では、トマスと何の差もない。頑なに「決して信じない」と言いきるのは、自分一人、置いてけぼりをくったという痛みから来ているのかもしれないのだ。そう考えてゆくと、トマスには同情できる。
8.信じない者ではなく、信じる者になりなさい。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)
「信じない者ではなく」と主は言われた。まるで、トマスが「決して信じない」と言いきったあの言葉を知っているかのようにである。
ところで、わたしにはこの主のこの言葉からは、深い愛が感じられる。寂しい彼の心のうちをすべて知っていているかのような言葉に聞こえる。
すると、トマスは、即座に答えた。「主よ、わたしの神よ」。
ここで注意すべきは、トマスは手のみ傷に指を当ててもいないし、脇腹に手を差し入れてもいないことだ。
彼は即座に、「主よ、わたしの神よ」と信仰を告白しているのだ。彼は自分の認識力による「確認行為」は何もしていない。彼にとって、そんなことは実はどうでもよかったようにしかみえない。彼はイエスの愛に触れて感動している。自分の手で触り、自分の目でみないうちは決して信じないと言っていたのに、彼は触ってもいないし、目で確かめようともしていない。彼は主に出会った瞬間、信じないではいられない存在へと変えられているのだ
9.見たから信じたのか
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)
主イエスはトマスに、このように語ったが、実はトマスにとって、認識手段による確認などもうどうでもよかった。トマスは見て信じた訳ではないのだ。イエスの愛の言葉に触れて彼は感動して、人生がひっくり返ったのだ。
だから、主のこの言葉は、トマスを「代理」としている背後の存在者である全人類に向けて語っておられたのである。
見ないのに信じる人は幸いだという言葉の意味は、トマスの背後に存在するすべての人を指し示して、言っているのだ。人類は、もう既に甦りの主イエスを肉眼で「見て信じる」ことは不可能となっている時代に生きているからだ。
さらに言えば、現代、目で見ることには、実に多くの虚偽が存在する。もう「見たら信じられる」ことは不可能なのだ。見たように信じる事は危険な時代になっているのだ。実際見るものは疑わしいのだ。
信仰とは、聴くことによる。見て信じる信仰は偽者だ。信仰は、神の言葉を聴くことによって、生起する。
だから、見るのではない。信仰は見ることによっては起こらない。見ないで信ずることが、本当の意味での信仰なのだ。見ないで信じる。それは神の宣教に聴くことによって信じる出来事が、奇跡として生起するということなのである。
ここに、教会の宣教の根拠がある。だから、教会の内部でこそ、甦りの主イエスの言葉を聴くことが、こよなく重要なのである。
10.魂の家の真中に立つ甦りの主イエス
弟子たちが隠れ潜んでいた家は、わたしたちの「魂」を比喩している。甦りの主イエスは、鍵をかけたわたしたちの「魂」の戸を開けずとも、「魂」の真中に顕現されたもうのである。
2026年4月5日(日)(復活日主日)
復活日主日
『キリストの復活』
2026年3月29日 (受難節第6主日)
棕櫚の主日(受難週4月4日まで)
1.時・場の違和感
主イエスの復活を信じられないという人々がいます。 主イエスの同時代、同一の場所で、主イエスの復活を、それぞれの固有な「場」と「時」において、生きた人々がいました。
彼らのなかには主イエスの復活を信じられない人もいたはずです。
「信じられない人々」もいれば、「信じようとしない人々」もいたことでしょう。
そして「信じないではいられない人々」もいました。
復活の「時」、「場」を共有していた固有な生を生きていた人々にとって、主イエスの復活の出来事は、やはり、ほかの「時」「場」と同じ重さでしかない「日常」の一コマだった筈です。
だからこそなのですが、わたしには、とても不思議に思えるのです。
何の変哲もない「日常」だった筈の出来事が、人類にとって、比類のない「時」と「場」であったという事実、これは人類史にとって、「愛敵」という、それまで存在しなかった愛のありようを、人類の各員に贈与したことは紛れもない事実として、この出来事以後の歴史を決定づけているという事実によって証明された事実の決定的な起点という意味での事実となっていた事が、わたしには不思議でならないのです。
これは、奇跡という意外に考えようがないのです。
2.主の十字架を担う「光栄」を賜った「キレネ人シモン」
わたしは、まず、人類にとって決定的な出来事が、当時の人々のあいだでは、「日常」でしかなかった埋もれた経験だけを生きていた人々が圧倒的多数を占めていた他方で、主イエスの十字架の死の直前に、この決定的出来事に、図らずも、強制的に関わらざるを得なかった人がいた事に感謝せざるを得ないのです。主イエスの十字架を背負った人がいたのです。彼の経験は、わたしたちにとって極めて重要な意味を持っているからです。
彼は、「田舎から出て来て通りかかった」にすぎません。まったくの偶然の遭遇でした。たまたま通りかかっただけの彼に、「兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」
神の恩寵は、人間の主観を超越しているのです。
彼の名は、「キレネ人シモン」。
彼には「アレクサンドロとルフォス」という息子がいたようです。息子の名が残されているということは、キリスト者共同体に、彼らが名を残すに値する役割を担っていたのではという推測を可能にするでしょう。
「キレネ人シモン」は、主イエス・キリストのゴルゴタへと続く坂道を、主イエスの十字架を担ぐという光栄を担うことが許された稀有な宿命を神から授かったのです。
彼は自ら願って主の十字架を担いだのではありませんでした。担ぐことを、他者から強要されたのです。
しかし、強要された事が、彼にとって、いや彼以後の全人類にとって大いなる恵みとなったのです。
神の恩寵は主観的な願望を超越しているのです。
3.「痛み」は「神の愛の痛み」に対応する
彼の肩に食い込む十字架の重量がもたらす「痛み」は、主イエスの「痛み」を彼に、否応なしに体験させました。
彼の体を痛めつける激痛は、神の「痛み」を、彼が知る縁(よすが)なったのです。
そして彼の「痛み」は、わたしたちにとって、神の「痛み」を追体験し、知るための、「光栄」として、意味深いものとなるのです。
実に、わたしたちにとって「わたしの痛み以上の神の痛み」・「神の愛の証明」として受けとめ直す契機と変わるのです。「痛み」はこのとき、「十字架の痛みの光栄(反射)」となるのです。
とはいえ、「痛み」は「痛み」です、わたしたちは誰しもが、「痛み」から解放されたいと願うのは当然です。「痛み」なのですから。
主イエスは、わたしたちの「痛みから解放されたい」という願いを無視されたりはしませんでした。
主は言われました。
「重荷を負うている者は、わたしのもとに来なさい。」と言われました。(マタイによる福音書 11章 28節)
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
「痛み」という「重荷」を、主は共に担ってくださっています。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイによる福音書 11章 29節)
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書 11章 30節)
「痛み」「重荷」を、主は、同じ軛を負うてくださっているのです。人生から「重荷」が完全になくなるということではありません。「重荷」を負うことは「責任」を担うということですから、わたしたちは「責任」を負うことで、はじめて意義ある人生を送ることができるのです。わたしどもの信仰は、重荷を放棄する、責任を放棄するということではなく、共に重荷を負うてくださる神と共に生きる信仰なのです。
4.兵士たち
言うまでもなく、このローマ兵たちにとっては、普段と変わらない日常の時間、日常の場所での振る舞いが、マルコ伝には無機質に記録されています。何の感情移入もありません。彼らには、イエスの処刑は、彼らの仕事のなかでの作業にすぎないのです。
彼らは、この人類にとって決定的な出来事に、居合わせながらも、イエスの復活について何も考えず、何も感じない、ただ主イエスを殺すという彼らの仕事に、淡々と従事しているのでした。
彼らにとっては、イエスの着ている衣服を分け合って、自分の取り分とすることだけが関心事でありました。
イエスの腕に釘を打ち込み、足の甲を合わせてやはり釘を十字架の杭に打ち込む作業を、終えると午前9時でした。
5.午前9時
午前9時に、処刑場に集まっていた人々は、野次馬もいたでしょう。嘲笑する者たち、侮辱する者たちでした。朝のこの時間に、わざわざ、忌み嫌われているこの場所へ集まるとは、彼らの、憎悪の関心度合いの激しさがわかります。
罵声、嘲笑、哄笑がその場を支配していたようにみえます。主イエス処刑の「時」と「場」は、まさに現代の縮図そのもののように思われます。
無関心なローマ兵、通りがかりの嘲笑する者たち、侮公衆に聞かせようとばかりに、代わる代わるに律法学者たちや祭司長たちが吐き捨てるように侮辱します。
「他人は救ったのに、自分は救えない。」と。
遠くから婦人たちは見守っていた。またその他にも、イエスについてきた婦人たちが大勢いたとマルコ伝は記録しています。十字架のみもとに、怖くて近寄れなかったのでしょうか。哀しみの嗚咽を彼女たちは呑み込むようにして見守るほかはなかったのです。
6.「他人は救ったのに、自分は救えない。」
「救い」とは何なのでしょうか。ここでイエスが命を永らえることなのでしょうか。主イエスは、人類を救うために命を捨てるために世に来られたのです。イエスは、この十字架につけられて殺されるために、エルサレムまで来られたのです。生きながらえることが目的ならば、エルサレムに来る必要はありませんでした。
殺されることが分かっていながら来たのです。
侮辱する者たちには、イエスを殺す事が最終目的だとことが、彼らの侮辱の言葉に明らかに示されています。
彼らは、イエスがここで死なないことが、彼らにとってが不都合だったから、「自分を救ってみろ」と侮辱できたのです。彼らには、イエスが生き続けることが不都合でした。だから殺すのです。
彼にとって、「メシア(キリスト)」は、生きてこそメシアでした。だから殺さねばならなかった。殺しさえすれば、イエスがメシアではない事が証明される、と彼らは考えていたのです。
キリスト・イエスは、十字架で死なねばならない。このことについて、彼らは完全な無知であったのです。
彼らにとって、イエス殺害こそ、最終目的であり、彼らにとっての最終的解決だったのです。
イエス殺害が最終到達点だったからこそ、「他人は救ったのに、自分は救えない。」という言葉が、「侮辱」になり得たのです。
7.それを見たら、信じてやろう
現代のわたしたちにとって、「それを見たら、信じてやろう」という精神的態度は、実に身近に存在します。
イエスの復活を、「信じられない人々」もいれば、「信じようとしない人々」もいます。
ここで、十字架上で死ぬためにイエスが世に来られたということについて完全な無知な人々は、「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と侮辱しました。
「見たら,信じてやろう」という精神的態度は、はじめから、イエスが生きながらえることが、必要不可欠なはずだという自分自身の勝手な思い込みがあったがゆえにこそ、「十字架から降りてきて、生きながらえることなどどうせできないだろう」と、そう考えたのです。だから、「自分を救えない」という言葉が、彼らにとっては「侮辱」たりえたのです。
イエスは、ここで死なねばならない使命があったことが彼らには理解出来ないのです。
このような精神的態度の人々は、現代においても、多くみられるありふれたものです。
イエスは、生きてこそ使命を果たすべきだった、という訳です。死んで花実が咲くものかという訳です。
「救い」について、根本的に違うのです。
「信じてやろう」式の「ものの考え方」は、そもそも、「絶対信じない」という態度と何も変わるところのないものです。「どうせそんなこは起こらない。やれるものならやってみろ。そうしたら信じてやる」という態度だからです。この態度は、およそ「信じる」という態度ではないからです。「信じてやる」は「決して信じない」と同根なのです。「信じるか信じないか」はこっちが決める、つまり人間が決めるというのです。
およそ、「信仰」の名に値しません。自分を神さまより上に置いているからです。これでは「自分教」です。
ここで主イエスを侮辱している人たちは、自分はイエスより「上」だと思っている人たちなのです。
8.エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。
主イエスの、このみことばをどのように理解したらよいのか、理解に苦しんたことのない人はいないでしょう。
主イエスは、ご自分が、祭司長、律法学者たちから殺されることになっていることを三度にわたって予告してこられました。堂々と十字架の死にむかって歩んでこられました。
それなのに、なぜ、主はこのように叫ばれたのか。
わたしたちは、言葉が首尾一貫して矛盾のないことを
無意識のうちに好む傾向があるのです。ですから、主イエスのみことばも、人間らしく、首尾一貫して矛盾なく理解したいのです。
ところが、この十字架上のイエスの叫びは、死ぬことこそが神への従順であると語ってこられたイエスの言葉と矛盾しているように聞こえるのです。ここにわたしどもの無意識の美意識と齟齬が生じてしまうから、悩むのです。
しかし、実際のところ、言説というものは矛盾だらけの事のほうがはるかに多いのではないでしょうか。
わたしは、この主イエスの叫びを、文字通り、父なる神が子なる神イエスを死へと渡さなければならない神の絶対的な矛盾への子なる神としての父なる神への愛の叫びと受けとめることができると理解します。
十字架の死は、父なる神にとって、神であることを自己放棄するに他ならない絶対矛盾なのです。御子なる神イエスの死は、父なる神にとって、自己自身の死以上の死なのです。そのような父なる神に対して,子なる神イエスはその絶対矛盾をあえて遂行しなければならないこと、すなわちイエスを「捨てる」なければならぬ神に対して、イエスは、「なぜそれほどまでに、しなければならないのですか。」と神の愛の痛みを悲しんで叫んでおられる。「なぜそれほどまでに、人類を愛しておられるのですか。」この「なぜ」」は疑問詞ですが、疑問詞であって疑問詞以上の意味が込められています。
わたしは、あなたの人類への愛を受けとめます。独り子なるわたしを捨てなければならないほどに、あなたは人類を愛されているのですね。わかりました。わたしは、あなたの人類への愛をしっかりと受けとめて、その使命を完遂します。なぜそれほどまで人類を愛されるのですか。なぜそれほどまでにわたしを愛してくださっているんのですか。承知しました。わたしは、あなたの独り子なるわたしを捨てるほどまでに、人類を愛しておられるのですね。わたしは、あなたがそれほどまでに人類を愛しておられることを信じることができていることを、いまここに受けとめることができました。感謝です。
主イエスは、神の愛の痛みを、喜んで受けとめたゆえに、叫ぶことができたのではないか。
だから、この叫びは、嘆きの叫びではなく感謝の叫びなのです。勝利の雄叫びなのです。
主イエスは、殺されること、捨てられることを、感謝の雄叫びをあげるまでに受け入れたもうたのです。殺されること、捨てられることを、感謝して受け入れた人は他にいません。捨てられ、殺されることが、この方にとって「愛」することだったのです。ここに「愛」があります。アーメン
2026年3月22日 〈受難節第5主日〉
弟清水宏明兄は、医師であった父を尊敬し、医師となり、地域医療に尽くしました。東日本大震災後は、ボランティアとして福島に定期的に通い続けました。
3月15日に、69歳で天に召されました。3月19日と20日に、弟との最期の面会の日とし、多くの方の弔問をいただき、遺族一同感謝しました。
葬送の礼拝は、遺族のみの家族葬とし、22日に感謝のうちに執り行いました。
22日は、牧師は遺族のみの家族葬の司式のため、礼拝は「代読礼拝」でした。
〈十字架の勝利〉
マルコ 10:32~45
3月15日(日)〈受難節第4主日〉
〈主の変容〉
マルコによる福音書9章2節~10節
マルコによる福音書9章2節~10節
2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
1.キリストの受難予告後の神の啓示
主イエスは,ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた。その洗礼が真に意味していたものは、洗礼者ヨハネと共に、人類救済の道を開始するという「事」であった。
だからこそ、その時、聖霊が鳩のように降って「見よ、これはわが愛する子、これに聞け」と神は、天から宣言の御声があったのであった。
それゆえ、主は、言葉とふるまいによって、この道、人類救済の道、すなわち、十字架の死と復活という受苦の道を歩んでこられたのである。
主イエスの受苦への道行きは、最初から徹底していた。
しかし、この御受苦を真意を知る者は、一人の例外もなく、誰一人としていなかった。
主は、御自身の御受苦の道行きについて、そのキリストの秘密を、弟子たちには明示された。それが最初の受難予告であったのである。
だからこそ、受難予告の後、六日という象徴的な期間のあとに、主は御受苦の究極的目的点である復活の御姿を弟子たちに御顕されたのであった。
変容のキリストこそが、甦りの主、復活の主イエスの御姿なのである。
ここで、神は、主イエスこそが、独り子なる神であられることを、再び天から宣言された。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)
この神御自身による、「イエスこそが神の独り子なる神であられる」という宣言は、主イエスの御受苦の道行きを、完全な意味で、弟子たちに目撃し得る仕方でお示しになり、その事実を神御自身が認証したことを意味している。
2.モーセとエリヤを知り得たのはなぜか
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。(4節)
キリストの変容を目撃していた証人たち、すなわち「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」の3人が、この経験を後世に伝えたことになっているだから、この記述は、彼らには、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」と、確かに認識したということを意味している筈である。では生きていた時代が異なるエリヤやモーセを彼らは如何にして知り得たのか。特に、ペトロは、感動して「仮小屋」(幕屋)を建てましょうとまでイエスに申し出ているのだから、明確にエリヤとモーセを認識していた筈である。合理的認識論で言えば「謎」と言わねばならない。エリヤやモーセの容貌を弟子たちが知っていた筈はないのに、なぜ分かったのか。知らないのに知ったのはなぜなのか。
この出来事を、人間が人間を認識する方法で、彼らが認識したと考えるならば、どこまでも「謎」のままで終わるであろう。
しかし、ここで彼らが経験した出来事は、神の啓示の出来事である。神がこの出来事を、他ならぬ彼らに経験させた。これは「神の出来事」なのだ。
神の啓示は、人間的認識論では推し量ることができない。
主イエスは、彼らをのみ抜擢して「高い山」へと連れて登られた。高い山は古来タボル山と伝えられてきたが、ヘルモン山かもしれない。もはや特定は困難だ。ただ「高い山」とは神が御自身を顕現する神聖な場所を指す。
主イエスは、啓示の場へと弟子たちを、しかも彼らだけを導いた。この「場」が啓示の「場」となるためであった。
神の出来事であれば、人間的な認識による制限・限界は超越している。神御自身が、弟子たちに、認識の対象を認識すべく認識対象を与え給ふから、彼らには、自分が知らないことを知ることができた。
パウロは、生前のイエスを知らない。知らないにもかかわらず、神は甦りの主イエスをパウロの前に立ち顕された。彼は、「主よ、どなたですか?」と問うている。パウロは、目前に出現している復活の主イエスを、「主よ」として認識していた。神御自身だと、その時既に知っていたのだ。だから、「主よ、あなたはどなたですか?」と問うことができた。彼に復活の主イエスを知らしめたのは神である。神御自身が神御自身を御顕される出来事なのである。
これと同じ事が、ここでも起きていた。
弟子たちには、自分が知らないこと(エリヤやモーセの容貌)を、知らないにもかわわらず、知ることができた。それは神御自身が、信仰の認識を与え給ふたからなのである。
3.モーセとエリヤは主イエスと何を語り合ったのか
マルコによる福音書には、何を語り合ったのかは記されていないが、ルカによる福音書には記されている。
二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。(9章31節)
主イエスが、人類救済という究極的目的点(「エルサレムで遂げようとしておられる最期)について、語り合っていたのだ。ずばり、後受難の道行きについて語り合っていたのである。
二人は、旧約聖書に登場する代表的な人物である。聖書は、「律法と預言書」のことであるが、モーセこそ律法を神から授かったメシア的人物であり、エリヤこそ、預言者マラキが預言したメシア到来の前に出現するとされた預言者の代表である。すなわち、この二人は旧約預言を代表する二人なのである。
この二人は、主イエス・キリストこそが神の独り子であられるメシアであることを、旧約の成就だと証しする者なのである。主イエスが旧約の成就者であることを、二人は証ししているのだ。二人は地上で死を見ることなく天上に挙げられたと信じられていた人物であった。つまり、主イエスは、天上の人として、この二人と語り合うという姿をお示しになったことになるだ。
ペトロが、感動したのは、彼が天上の人、モーセとエリヤと主イエスが天上の世界を垣間見たことによるのではないかと考えられる。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」(5節A)
地上の人にすぎない自分たちの前に、天上の人が居合わせたことに、素直に感動しているのだ。
そこで、彼が地上の人として咄嗟に考えたことは、主イエスの究極的目的点へ向かう御受苦の道行きとは、およそかけ離れた的外れの発想だった。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(5節)
4.仮小屋(幕屋)建立が意味したもの
ペトロは、なんとおこがましくも天上の人三人の語り合いに口をはさむ。素直に感動しているのはいいとしても、口をはさむとはどういうことか。主イエスの御受苦の道行きを、彼は否定するような行為をしたのだ。
口をはさみ、そして仮小屋(幕屋)の建立を提案するのである。
一見すると、信仰深いかのような提案ではあった。仮小屋(幕屋)で、人々がそこへと礼拝することを彼は夢想していたのであろう。現代流に言い換えれば、「教会堂」を建立しましょうというような提案ではないかと考えられる。信仰深い装いをしてはいるが、主イエスの行こうとしている道行きに、教会堂や礼拝所はない。
主イエスは、人類救済の道、十字架の死と復活という道行きをこそ、語り合っていたからだ。
ペトロのこの提案は、主イエスが神の独り子として行こうとされる苦難の道行きを否定し、地上的な「宗教分派の形成へと地に落とすものでしかなかった。
主イエスへの信仰は、「宗教」にすぎない代物では断じてないのである。ペトロには、まだ主イエスの啓示の意味が分かっていなかったのだ。
ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。(6節)
ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。(ルカ9章33節)
ペトロが混乱していると、ルカはやや同情的に記してはいるが、マルコは提案そのものが口からでまかせにすぎないというような印象を与える書き方だ。無責任かつ、軽率な提案だとルカもマルコもみなしている。しかし、ペトロの軽率さも、神の自己顕現に「恐れ」を感じていたことを思えば、「恐れ」ゆえの混乱から生じたものかもしれないと言えなくもない。「弟子たちは非常に恐れていたのである。」
弟子たちの「恐れ」は、彼らが主イエスと二人に、神の顕現を見ていた証左である。弟子たちは神の啓示を経験したのだ。
これらの記述から、弟子の無理解と、それにも拘わらず弟子たちは神の啓示の出来事(主イエスとエリヤとモーセの会見)を経験したことは明らかである。
5.雲の中から声がした
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)
「雲」は神顕現の表象である。雲が弟子たちを覆うたことは、神顕現の経験が視覚・聴覚だけの認識ではなくて、身体全体を包み込むものであったことを意味するだろう。いわば神御自身の内部的な世界に、弟子たちは誘われたのだ。彼らは身体全体で、神を感じたはずだ。
彼らは、雲のなかで、雲のなかから聞こえてくる神の声をの振動を、体全体で感じたであろう。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声は、イエスが宣教の開始にあたってヨハネからバプテスマを受けた時に、天から聞こえたあの声だ。
そうだ。宣教の開始の時に神が主イエスを我が独り子として認証した神の言葉だ。
そして、今、受難予告という天国の秘密を弟子たちに語ったいま、御受苦の道行きを、まごうかたなく、すなわち間違えようのない程明確にお示しになったいま、再び、天の父なる神は、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と主イエスを我が独り子なる神と認証されたのである。
6.ただイエスだけが
弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。(8節)
身体的な神顕現のただなかでの経験のあと、突如として、エリヤもモーセも、そしておそらく雲も、消えてしまう。さて、弟子たちは、地上的な現実へと引き戻されたのだ。彼らは、主イエスと共に、旅を続行する時へと戻されたのだ。弟子たちと主イエスの時間が再び戻ってきた。
6.主の福音宣教の禁止命令ふたたび
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。(9節)
受難予告の時、「あなたはメシアです」と言ったペトロに超弩弓の福音宣教の禁止命令の叱責をされたけれども、あの時と、この時は同じメシア秘密の意味あいが異なっている。この度は、「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限があるからだ。主の受難の極みに至るまでの禁止命令なのである。
さらにもう一点異なるのは、「今見たこと」を「だれにも話してはいけない」という命令だということだ。
ペトロの叱責のときは、浅薄な人の言葉による宣教の禁止命令だったが、主の変容の経験の場合は、経験した事柄そのものを誰にも話すなと言う命令である。
今度の禁止命令は、弟子たちの浅はかさ故の禁止命令ではない。神の啓示の出来事は客観的事実だから、弟子たちの信仰の問題ではない。そこが決定的に異なる。
この禁止命令が、「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限がついていることに、禁止命令の目的が隠されているだろう。
彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。(10節)
弟子たちが 「死者の復活」について論じ合っているのは、彼には、主イエスの受難予告をいまだ真に理解することができずいることを示している。神の顕現の啓示を身体全体で聴いた弟子たちでさえ、主イエスの究極的目的点である十字架の死と復活の意味をいまだ理解できないでいるのだ。まして人々に理解できることは不可能だということは自明であった。
それゆえに、主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは」と語られたのだ。現実として、主イエスが、弟子たちの目の前に,出現するという出来事が生起して初めて、弟子たちは、受難予告の真実の意味を悟ることができるのである。主イエスは、その現実を、いまここで、あらかじめ完全に熟知していたのだ。
いまここで、彼らが経験した出来事は、「復活の日」にはじめて弟子たち自身のなかで、彼らをイエスの本当の弟子に生まれ変わらせることを、主イエスは知っていたのだ。
7.エリヤ再来預言論争
そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。(11節)
イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。(12節)
しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(13節)
エリヤ再来の預言はマラキ書にある。だからメシアが到来する前には、エリヤが来なければならない。主イエスは、既に来たと語られた。マルコによる福音書には、弟子たちは、洗礼者ヨハネがエリヤだと悟ったと記している。
そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(マルコによる福音書17章13節)
「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」(マルコによる福音書17章12節B)
主イエスは、エリヤの再来たるヨハネは「彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらった」として、御自身の命運と同じだということを明白に語ったのであった。
これらの記述から、主イエスと洗礼者ヨハネは、ともに、苦難の僕(イザヤ53章)として、「人々から苦しめられることになる」命運であったことがわかる。
原始キリスト教会において、エリヤが洗礼者ヨハネであり、イエスの苦難においても先駆者であったことが、重要な信仰内容であったことは、これらの記述からも伺い知ることができるであろう。
8.わたしたちの信仰との関係
この「キリストの変容」の出来事の記録が、わたしたちの信仰にとって、どのような意義があるのか。考察したい。
最も重要な信仰的事柄は、イエス・キリストが、「神の独り子なる神」であるという神の宣明(declaration)である。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)
これによって、人間が神となったという主張は完全に否定されるのである。これは旧統一協会や新天地をはじめとする、「自称再臨のキリス」はすべて、偽り者であることを、神御自身が完全に宣明していることを、わたしたちは知る。
そして、イエス・キリストは、人類の罪からの解放のために、「受難予告」の通り、十字架の死と復活を成し遂げられ得るお方であることを、わたしたちは知る。
「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてある。」(12節)
主イエスは、死ぬためにこの世に来られたのである。このことを否定する者は、すべては偽り者なのである。
第三に、人類救済のこの苦難の道行きは、旧約預言の成就者として、洗礼者ヨハネとナザレのイエスが、共働的に歩まれた道であったことである。
洗礼者ヨハネは、エリヤの再来だったことは、イエス御自身が明言しているからだ。ヨハネ自身の自己意識に、たとえ揺らぎがあってとしても、神の独り子が明言している以上は、ヨハネはエリヤなのである。
そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(マタイによる福音書17章13節)
それゆえ、わたしたちの信仰道程、すなわちわたしたちの地上での全生涯は、主イエスの道行きを慕い、辿る道であるから、わたしたちの魂の視線の焦点は、主イエスの十字架の死と復活であることを知る。
朝起きて目覚める。今日も地上の生活を送ることが許されていることを、神に感謝する。
食事をいただくとき、身体を支える肉の糧を得ること以上に、神の言葉という霊の糧を魂にいただくことを感謝する。
歩くとき、主イエス・キリストの苦難の道行きを想い、感謝する。
人を愛する刻、主イエス・キリストがわたしのために十字架上で死んでくださった事を感謝する。そして、わたしも人を愛する刻、苦難を引き受ける愛を主イエスから恵みとして与えられていることを感謝する。
眠りにつく時、神は御自身をお示しになられる事を感謝する。主はわたしたちの魂が眠っていても、わたしたちと共におられるのだ。
ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。(ルカによる福音書9章32節)
わたしたちは、この限りない恩寵のなかに生きている。この確実な保証を神は、この出来事で与えてくださったのである。ただ感謝の他はない。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 (7節)