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2026年10月4日日曜日

 2026年10月4日(日)(聖霊降臨節第20主日)

          『執り成し』

        ヘブライ人への手紙6章 4節~12節

4:一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、

5:神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、

6:その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。

7:土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。

8:しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。

9:しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。

10:神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。

11:わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。

12:あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。


1.信仰を失うことへの警告

    「愚かなおとめたち」の譬え

    1:「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

    2:そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

    3:愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

    4:賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

    5:ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

    6:真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

    7:そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。

    8:愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

    9:賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

    10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

    11:その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。

    12:しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。

    13:だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

   マタイによる福音書25章のこの「愚かなおとめたち」の譬えで、主イエスが警告されている事柄は、実に深刻です。

  ヘブライ人への手紙6章6節のこの言葉も、同様にきわめて深刻です。

    6:その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。

  長年、教会生活を続けてきていながら、途中で教会から離れてしまう人がいます。 わたしは、その消息を聞くたびに、こう思うことにしてきました。それぞれ躓きがあったのでしょうが、究極的には、「その人自身」の問題ですから、何か事情があったから躓いてしまったとは、わたしは考えません。最終的には、「神とわたし」自身の事柄ですから、最終的な責任主体は「その人自身」なのです。神さまから最終審において問われるのは、ほかの誰でもなく、「その人自身」だけなのです。ですから、わたしは、信仰から離れてしまうという事柄は、その人を躓かせた「何か」に原因があるとか、やむを得ないとか、そういう風には考えることがどうしてもできないのです。

神さまから問われるのは、「その人自身」でしかないはずなのです。

 「愚かなおとめたち」の譬えも、ヘブライ人への手紙6章6節の「再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」という言葉も、「その人自身」が最終審において責任を問われるという厳粛な裁きを告げていると言わざるをえないのです。

 

2.はじめから信仰ではなかった

  ですから、わたしは、最終的にはその人自身の永遠の生命に関する事柄は、ただ神さまにおゆだねするしかないのですから、わたしは、その人のことで一喜一憂するのはやめよう、と考えています。わたしにはどうすることもできないからです。

 ですから、せめてわたしは、その人は、実は、教会生活をはじめるその時から、主イエスを真実には信じてはいなかったのではないか、そう考えることにしているのです。

 というのは、ヘブライ人への手紙6章4節、5節には,こう書かれているからです。すなわち、

    4:一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、

    5:神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、

    6:その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。

   真実に、神さまからの「光」に照らされ、「聖霊にあずかるようになり」「神のすばらしい言葉と来るべき世の力を体験しながら」「堕落した」のであれば、「再び悔い改め」に「立ち帰ることは」できないと明確に告げられているからでう。「愚かなおとめたち」の場合は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と「花婿」(キリスト)から拒絶されてしまうからです。

 だから、はじめから、「光に照らされてはいなかった。天からの賜物を味わってもいなかった。「聖霊」にあずかってもいなかった。そう考えるようにしたのです。教会生活をはじめたとしても、それは人間的な動機にすぎなかったのではないか。そう思う事で、「悔い改め」不可能な事態ではない、まだ希望はある、そう思いたいのです。

 信仰生活が破綻したのではなく、実ははじめから「信仰のようなもの」にすぎなかったのではなかったか。そう思うことで、とりかえしのつかない「悔い改め不可能」であってほしくはない。まだチャンスはある。最後の最後、悔い改める瞬間でもいい、最期の一秒でも悔い改める機会のあることを願いたい。そういう思いから、信仰から離れる人を回心の余地を残しておいてほしいと考えているのです。

 3.審判を畏怖しない人々

   神の審判は、やがて将来到来する最後の審判をイメージするかもしれません。最期の審判は、誰にも想像すらできない出来事ですから、わたしたちの理解を超えていますし、あらゆる感性を超越していますから、それを畏怖したり、恐れおののくことすらも不可能です。審判はただ神さまがなしたもう事柄で、被造者にすぎない人の世界では感知しえません。

 だから、いたずらに恐怖したり、恐怖を煽ったりすることは無駄であるばかりではなく不遜ですらあります。

 そして、さらには、「最期の」という言葉にとらわれても審判の意味を見失います。審判は、すでの起きている事柄でもあるのです。

    17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

    18:御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

    19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。

    20:悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

   ヨハネによる福音書が語っているのは、主イエスを信じることができないでいる事自体が、裁き・審判の結果であるということです。 「信じない」、「信じていない」という主観的な状態が、審判の結果だとしたら、世界の大多数の人々は、審判の結果、そのように「信じない」、「信じていない」状態で平気で生きていることになる訳ですから、このような状態を、畏怖したりする人はいません。だから誰も、審判を恐ろしがったりしていないのです。

 そうではなくて、むしろ、「主イエスを信じられない」でいることを、自分自身、戦慄するようであれば、それはそれで、実の所は、主イエスを「信ずべき信仰の対象」であることを、知っていることになる。そうであれば、そこには「悔い改め」の兆しとして「畏怖する精神」が生まれていると言えるのです。だから、そこに救いは間近にあると言って良い。

 問題なのは、主イエスを「信じない」、「信じないでいること」に、なんの痛痒もなく平気の平左だという状態なのです。


   まさに、「光よりも闇の方を好んでいる」精神状態です。

 このような人は、神を信じない事になにほどの感慨も持ち合わせてはいません。まして神の審判を恐ろしがったりするはずもありません。


4.耕地の譬え 畏れよ、震えよとの警告

    7:土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。

    8:しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。

  「土地は」、 「耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受ける」と言われています。ここで「土地」すなわち耕地ですが、耕地が神の祝福を受けるのは、実りを実らせることによるというのです。信仰という実を結ぶならば神の祝福がある。しかし、「茨やあざみを繁茂させてしまうと、耕地に蒔かれた種は実を結ばない。すなわち、「信仰の実を結ばない。そのような「耕地」は呪われ、ついには焼かれてしまう。「信仰という実」は結実しないなら(役に立たない)、「呪われ」「焼かれる」というのです。 この比喩は、耕地が耕地としての「役に立たず、信仰の実を結ばない」ことを指し示しているのですから、この「耕地」は、信仰を放棄したキリスト者を指し示しているでしょう。その信仰離脱者は、「失われた人々」のことです。教会から去った人々です。

 この譬えもまた、厳しい内容です。

 みことばは、「救われざる堕落」に対して、決してその責任追及の矛先を緩めません。「救われざる堕落」した者を労り、励ましたりはしないのです。最期は呪われ焼かれしまうというのです。これだと、恐るべきイメージだと言えるでしょう。

 神の審判を、畏れもせず、平気な人々への審判は、実は、この平然としていられる感覚の鈍さ、ものごとを深く受けとめることのできない傲然たる態度がとれてしまえている事自体が、審判を既に受けている動かぬ証拠だと、みことばは語りました。彼らは神を畏れないのです。神を畏れない事が審判の結果でした。

 このように審判を受けている人々だからこそ、この「耕地」の譬えは、畏怖すべき結果が、この先には待ち設けているのだと強く断言せざるをえないのです。彼らこそ、神は祝福を与えもすれば、恐るべき審判を下しもされるお方なのだということを示さなければならなかったのではないでしょうか。だから容赦はないのです。ここに甘える隙は微塵もありません。


5.それにもかかわらず

    9:しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。

   ヘブライ人への手紙の書き手は、「こんなふうに話してはいても」と、語調を変えて呼びかけます。この手紙の読者たちは、教会の人々です。ここではじめて、この手紙のなか、唯一、ここだけです。「愛する人たち」と、ここで始めて、そして最後の呼びかけです。思いをこめての一言です。

 あなたがたは、信仰の破綻へと、決して堕落するようなことはないと、わたしは信じていますと確言するのです。

 先に述べたように、審判は、「神の事柄」です。神の審判はただただ真の神のみが知っておられる神の意志、神の決断なのです。だから、わたしたちは、この神の意志について、何も語り得ない者なのです。そのことをわきまえなければなりません。 だから、わたしたちにできることは、主イエスが警告したもうたという事実を伝えることだけです。わたしたちが警告するのではありません。警告は、真の神と「その人自身」の事柄について、「その人自身」に、神が問うているという事実を伝えるだけなのです。

 わたしたちは、ですから、神の厳粛な恐るべき審判を、あえて告げなければならない神の愛を確信し、すべて人に隔てなく、伝えねばなりません。

 神は真の裁き主でありたもうお方です、と。ゆえに、人よ、畏れなければなりません、と。あなたは戸口にたって、あけてくださいと、あのおとめたちのように懇願しても、「あなたのことは知らない」と言われぬように、油を準備してください、と。油の準備とは、11節、12節で示されているように、信仰の熱心さであり、怠けず、信仰と忍耐をもって、審判の日を、畏れつつ待ち、待ちつつ救いを確信し望むことです。

 神の審判は必ずあります。それは恐るべき事です。それにもかかわらず、神は愛なるお方です。


6.神はあなたを見捨てない。

    10:神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。

  ヘブライ人たりが、「以前も今も」、「聖なる者たち」、すなわち使徒たち、福音伝道者たちのことでしょうが、かの人々ん、「仕えた」という具体的な愛の行為が、ここで言及されています。その詳細については不明ですが、それは間違いなく、「神の名のために」人々が「示したあの愛」の行為・実践のことでしょう。神は、この具体的な愛の実践を、どれ一つとして「お忘れになうようなことはありません。」神は愛のお方です。具体的な、小さなことでも、神は不義なるお方ではないから、決して忘れないお方なのです。

 ここに愛とは何かが示されています。

 どんなに小さな愛の実践であっても神は、お忘れにはならないのです。必ず神は、報いてくださるというのです。人が二かするので報いてくださるのではありません。報いを望まず、愛する実践を人がするとき、それは自分を促したもう神の愛の促迫があるがゆえなのです。その促迫に応えることこそ、信仰なのです。だから、神はご自身がわたしたちに投げかけてくださった愛の運動を、人がそれに応じて愛の実践をするという響き合いを神は喜んでくださるのです。その響き合いは、神はあなたがたが「堕落」の危険のなかで滅びることを、決して許さないという断固たる意志を示してくださる。これが神の愛です。これが神がわたしたちに報いてくださる恵みです。神は言われます。

 「わたしはあなたを決して見捨てない。」


7.信仰を受け継ぐ人たちに倣いなさい

    12:あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。

    キリスト教信仰は怠惰を戒めます。怠けてはいけないのです。無論のこと、休みは必要です。休みは怠けずにいるために休むのです。リクリエーションというのは文字通り訳せば「再創造」です。神さまによって、新しい自分に再創造していただくことをリクリエーションと言うわけです。だから休息は、再創造のために必要な創造のときなだから休むのです。怠けないためにこそ休むのです。

 信仰と忍耐は、分かちがたく結びいています。信仰することには、必ず忍耐が伴うからです。「約束されたものを受け継ぐ人たち」の先祖は、アブラハムです。

 アブラハムこそ、信仰と忍耐の人でした。わたしたちは、信仰するにあたって、かならず見倣うべき人をみつめ、見倣うのです。だから聖書を読むということがどれだけ大事か。それは歴史を学ぶということは、信仰の先達を見倣う為に絶対に必要だからです。


8.最後まで希望を

    11:わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。

 せんだって、わたしは信仰の友を天に送りました。神さまは、最後の時を、共に祈ることを許してくださいました。感謝のほかはありません。

 友は、最後の最後までみことばのときつぎを怠りませんでした。教会の宣教のために原稿を用意していましたが、体調がすぐれずそのまま8月30日、みずから入院されました。

 わたしたち夫婦は翌日一緒に食事でもしようかと思い、連絡すると、思いがけず見舞いとなりました。2週間後に、友は天上の人になりました。

 文字通り、最後まで希望を持ち続けて逝きました。

   わたしたちは、最後まで希望を失ってはなりません。

 友を思いつつ、わたしも自身の信仰を正す機会が与えられ感謝でした。自らの使命・課題を忠実に遂行できるように、日々新たにすごし、残りのときを、怠らず熱心に、信仰と忍耐をもって歩んで行きたいと思います。



2026年9月27日日曜日

 2026年9月27日(日)(聖霊降臨節第19主日)


 『苦難の共同体』

         コロサイの信徒への手紙1章21節~29節

21:あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。

22:しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

23:ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。

24:今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。

25:神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。

26:世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。

27:この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。

28:このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。

29:このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。

1.「以前」を断罪して憚らない

    21:あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。

 冷静に考えてみると、この言葉はかなり強烈です。面と向かってこのように言われたら、人によってはかなり怒る人も出てきても不思議ではありません。傷つく人もいるかもしれません。それでもパウロは、このように語らねばならなかった。あるいは語る事ができた。そのことの意味を考えてしまいます。

 語られている異邦人たちは、それまでの人生を「神々」を信じてきた人々です。この人々が真面目に生きてこなかったということは、おそらくなかったと思います。堕落していたということでもないと思います。ただ異教の神々を信ずる信仰世界では、人身御供も「真面目に」行われていたでしょうし、神殿娼婦との儀式的な性行為も行われていたことでしょう。このような儀式的性行為を「真面目に」行っていたことに、性的欲望の達成に満足してもいたことでしょう。娼婦との交わりを通じて神々との交わるという意味を感じていたかもしれません。

 このような異教の精神世界では、女性は客観的にはある意味で性の欲望のために奴隷的状況に置かれていた訳ですが、そのことを「神々」への奉仕のように考えさせられていたはずです。人身犠牲の「生贄」に選ばれた者は、男女を問わず、共同体のために殺されることを受け入れるように考えさせられていたはずです。

 このような異教の精神世界に「真面目に」生きてきた異邦人(異教徒)の人々は、十字架の死によって、すべての人の罪を背負われ殺されたイエスによって、繰り返し「生贄」を殺し、殺される精神世界から、解放されたのではないでしょうか。

 「神々」は繰り返し、「生贄」を要求する。そのたびに、共同体は、「生贄」を殺し続けます。「生贄」に選ばれることは,死ぬ事ですから、いくら選ばれることが家族にとって名誉なのだと教え込まれていたとしても、愛する者を殺さねばならないことに、痛みを感じない者はいなかったはずです。 「生贄」にされる者自身も辛くないはずがありません。そのような儀式が共同体存続のためには必要不可欠だと信じられている精神世界は、おそらくは恐怖と不安に満ち満ちていたのではないかと、わたしなどには想像されてしまうのです。

  現代は、急速にかつての「神々」の世界に戻りつつあります。「生贄」をたえず犠牲にして共同体を守るという政治が現実に行われています。沖縄に米軍基地を集中させたり、補助金を出すことの引き換えに原発をつくったりする手法は、「神々」の世界と本質に於いては大きな違いはないと言えるでしょう。戦争でも、パンデミックでも、「コラテラル・ダメージ」だと片づけられてしまいます。。

    ※コラテラル・ダメージ(collateral damage)とは、軍事行動などによって意図せず発生する「巻き添え被害」や「付随的被害」を意味する言葉です。

 初代教会に加わるようになった異教徒の人々は、この不安と恐怖に満ちていた「以前」の世界に見切りを付けた人々だったのかもしれません。

 このように考えるならば、「以前」の人生を、強烈に否定されるとしても、怒りが湧いてくることもないし、傷つくこともないと思うのです。「以前」の世界を、いくらかでも「誇り」と感じていたり、居心地がよいと思っていたら、パウロのこの言葉を受け入れることは難しいと思います。

 しかし、おそらくこの人々はパウロの強烈な「以前」すなわち異教徒だったころの人生に対する強烈な否定・断罪を、従順に受け入れていたと思われます。

 むしろ、心から、「今」を感謝しているのです。


2.「しかし今や」を、「栄光」だと断言する

    27:この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。

 パウロの強烈な断罪を、心から従順に受け入れたということは、「以前」の自分の人生を悔い改めていたということを意味します。「悔い改め」というのは「方向転換」を意味します。文字通り「方向転換」が彼らには起きていた証拠です。証拠というのは彼ら自身の「今」の現実です。異教徒自身が劇的に人生のあり方を変えているのです。かつては人身犠牲や性的儀式を良しとしていた人生を、それらの神事を、「今や」まことの神に敵対する悪事だと感じているのです。この「感性の革新の出来事」が起きているということはそれ自体が「奇跡」です。

 つまり、わたしにはこの強烈な否定・断罪の言葉が語られ、受け入れられているという現実そのものが「奇跡」以外のなにものでもないと思われるのです。それと同時に、否定・断罪と同時に、「今や」として語られるのは、「栄光」に満ちたものであるという断言でした。

 かくのごとく「栄光充満の断言」が語られる現実それ自体も、「奇跡」以外のなにものでもないのです。


3.苦難を喜びとする

    24:今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。

 わたしはキリスト教信仰のどういうところが素晴らしいのかというとき、世の「宗教」というものは、おしなべて、幸福追求という自分の願望を保証してもらえるという御利益信仰が多いのではないかと思うのですが、キリスト教信仰は、イエス・キリストの存在が、自己自身の真の主体性だということを信じる信仰だということです。言い換えると、私自身の「内にキリストがおられる」「キリストの栄光」が私たち自身の「内に」存在する希望であるということです。

    27:この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。

  キリスト・イエスがわが「内に」住んでおられる。わたしはもはや「わたし」という罪深い存在なのではなく、わが内におられるキリストこそが真実の「わたし」だと言い得ることこそが、素晴らしいと思うのです。

 わが内なるキリストは、自己一身の安寧を求めず、むしろ他者・隣人のために苦しまれたキリストのごとく、他者・隣人のために苦しむことを喜ぶようにされているというのです。この利他的な人格への方向転換が起きていることが素晴らしいと思うのです。


4.キリスト者の完全

    子どもの頃、「人間は完全ではない」とよく言われて育ちました。みなさんもそうなのではないでしょうか。「完全な人などいない。みな罪人なのだ」と。

 しかしパウロはあえて「完全」という術語をここで使います。どういうことなのでしょうか。考えてみます。

 「完全」であるというのは、なにも他人からみて完全無欠な、どこからみても高潔至極な「評価」を得るようなということなのか。わたしは、それは他己評価を視点としたものだと思うのです。人から見て、どう見えるかというなら、人によって見方も価値基準もまちまちですから、誰からみても「完全無欠」の評価を受けることは不可能です。だから、その意味では「完全な人はいない」のです。それは当然です。 

 しかし、ここでパウロとて、そのくらいのことは子どもでもわかるはずなのですから、そういう他者の視点からの「完全」などという意味で、この言葉を使っているのでないことは明らかでしょう。

 パウロは「キリスト者の完全」について語っているのです。他者が彼らをどうのように見るかなどということは、パウロにはどうでもよいのです。そういう価値観そのものをキリスト者は捨ててしまっているからです。パウロにとっての「完全性」とは、「キリストに結ばれて完全な者となる」ことこそが重要なのです。


5.わたしの内に力強く、キリストの力によって

   すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、パウロは「知恵を尽くして」、「すべての人を諭し」「教えているのです。」と語ります。パウロの目的が明確に語られます。彼はコロサイ教会の異邦人出身のキリスト者に、向かって語っているのです。このためには労苦を惜しみません。そのことを成し遂げる推進力となっているのは、彼の「内に」にある「キリストの力」でした。

 「キリスト者の完全」とは、他者評価の問題ではなく。いつにかかって神がキリストの贖いのめぐみによって、人を神と和解させ、「きずのない者」「とめがめるところのない者」とされているという事態のこというのです。キリスト・イエスとの一体性なのです。これこそ「キリスト者の完全」なのです。パウロはコロサイ教会の信徒一人一人に、キリスト・イエスが立ち現れてくる、そのために労苦を惜しまないのです。その労苦そのものはキリストの力によるのであり、キリストと共なる存在の労苦だからです。

 キリストの苦しみの欠けたところを身をもって充たす苦しみを恵みとしてたまわっているという「喜び」。この喜びを喜ぶことが許され、賜っていることこそ、キリスト教信仰がこの世の宗教と決定的に、質的に異なることなのです。

 この他者のために苦しむことを喜ぶ信仰が、わたしたちの信仰だというのです。 アーメン          


2026年9月20日日曜日

 2026年9月20日(日)(聖霊降臨節第18主日)

『キリストに贖われた共同体』

  ヘブライ人への手紙9章23節~28節

23:ですから、天にあるものの雛型は、これらのものによって清められねばなりませんが、天にあるもの自体は、これらより優れたいけにえによって清められねばなりません。

24:事実、キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今や私たちのために神の前に現れてくださったのです。

25: それも、毎年自分のものでない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストは、ご自身を何度も献げるようなことはありません。

26: もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、ただ一度現れてくださいました。

27:そして、人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっているように、

28: キリストもまた、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです。


1.百万遍

   京都に百万遍というところがあります。浄土宗知恩院は、正式名称を浄土宗大本山百万遍知恩寺というそうです。そこから京大前の交差点あたりの一体を百万遍というそうになったということです。念仏を7日間(もしくは10日間)のうちに100万回唱えることで目的が成就されるという信仰に由来するそうです。

  元弘元年(1331年)第8世善阿空円のとき、京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により善阿空円が念仏百万遍を行ったところ疫病がやんだことから「百万遍」の号が下賜さたのだそうです。

 百万遍念仏とは、自身の往生、故人への追善、各種の祈祷を目的として念仏を百万回唱えることだそうですから、人が祈祷を数限りなく唱えることによって目的が達成できるという思想が背後にはあることになりそうです。

 このような思想は、法然の説く専修念仏、称名念仏の教えとどう結びついているのか、わたしにはわかりません。

 しかし、念仏を数限りなく一意専心して唱え続けるというのはある種の「修行」のように思えますので、それはやはり、「人の業」によって「功徳を積む」という積善行為なのでしょう。

 そういう意味であれば、パウロの信仰義認とは明らかに異なります。わたしたちの信仰は、人の行為・業によって救いを得られるとは考えないからです。

    人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、

    ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。  ローマ書3章23節~24節

   徹頭徹尾神の絶対的恩寵(恵み)によってのみ、人は救われるのです。

  カトリックにはロザリオ、正教会にはコンボスキニオンがありますが、プロテスタント教会は、このように修行のような祈祷は棄ててしまいました。やはり行為義認、つまり人の行為によって、神に近づくことができるという思想の残滓だからではないかと思います。


2.動物供犠

   旧約時代の祭司は、動物を犠牲として神に捧げて「贖罪」できると説いてきました。山羊や仔牛の血を流すことで、人の犯した罪を神に免じていただけるという思想が前提にあったのです。ですから、人は自分が律法を守れずに罪を犯すたびに繰り返し犠牲獣の血を流す必要があったのです。

 主イエスは、神殿に犠牲の動物を売り買いする人々を蹴散らしました。「宮清め」です。

 主イエスが、神殿はわたしの父の家は「祈りの家」と唱えられるべきだと激怒したのは、犠牲の動物の血を流すことで、人の罪が贖われるという信仰観そのものを粉砕する意味があったはずです。

    25: それも、毎年自分のものでない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストは、ご自身を何度も献げるようなことはありません。

 大祭司は、「贖罪」のために、何度でも犠牲の儀式を繰り返さねばなりませんが、それによって神と人とのあいだの関係がどうにかなるということは金輪際あり得ないのです。

 ただし、神さまご自身が、捧げよと命じるならば、そこには必ず神の意志があるのですから、そこには意味があります。神さまの要求ですから。

 アブラハムは、息子イサクを捧げよと命じられたとき、彼は逡巡したに相違ないのですが、彼は神さまの命令に従いました。しかし神は、アブラハムが息子を捧げようとした刹那に、彼を引き留められました。アブラハムのイサク献祭の意味は、たしかにあったのです。

 アブラハムの苦悩は、わたしたち人類が独り子なる主イエスを十字架に渡さねばならない父なる神の苦悩・痛みを知るために、どうしても通らねばならなかった苦闘だったのです。

 

3.繰り返しても贖罪にはならない

  知恩寺8世善阿空円がたとえ百万遍専修念仏を完遂したとしても、罪の贖いにはなりません。無限に祈りを繰り返したとしても、罪の贖いにはならないのです。

 動物の血を流しても、人の罪の贖いにはならないし、それを百万遍繰り返しても、神さまとの関係を、人の業によって修復したり、「再創造」したりはできないのです。

 被造物(神によって創られた存在)は神さまではないのです。神さま以外に何ができましょう。神さまご自身が神の独り子を十字架に捧げなければ人の罪は贖われることはないのです。


4.偽預言者・偽キリストを見破る基準

 偽預言者、偽キリストたちを見分けるための基準がここにあります。それは贖罪観にあります。

 罪の贖い、神さまと人との間が関係喪失となったということが、人の原罪なのですが、原罪を贖う、つまり贖うというのは買い取るという意味です。罪の奴隷となった人を神さまが買い取って自由人にするという、そもそもそういう比喩的な術語です。

 神さまだからこそ、罪の奴隷であるところの人間を買い取って自由にする、解放することができるのです。

 それを、人の力で人の罪を買い取ることなどは、そもそも不可能なのに、できると言うのであれば、それは人間を神さまの上に考えているということになるでしょう。

 だから、贖罪観において、人が人の罪を贖えるという思想を標榜する者がいたら、それは間違いなく偽預言者であり、偽キリストなのです。

  人間が人間の罪を買い取って、罪をなきものとできるという思想は、人間の力でできるというのですから、それは人間の行為によってできるということになります。そうであれば、人間は、その行為をどれだけすれば罪を帳消しにできるでしょうか。それは数限りなくその行為をしなければならなくなります。そしてどれだけ、その行為を繰り返せば、罪を贖い終えたと言えるのかという問題がありますが、それを確認する方法は厳密に言って有り得ません。どれだけ繰り返したら、「もう罪はなくなった」と言える認識に立てるのかと言えば、そんな認識に立ったと豪語する時点こそ、最も罪深い地点でしょう。 ですから、罪の贖いを繰り返ししなければならないという思想を標榜するとしたら、その者は間違いなく偽預言者であり、偽キリストです。 人が罪を清算できるという思想、そして罪を清算(帳消し)する行為を繰り返ししなければならないという思想は、偽預言者の思想であり、偽キリストの思想なのです。


5.ただ1度限り

    28: キリストもまた、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです。

  主イエスは、罪の贖いのために「ただ1度」限り「身をささげられました」。ただ1度限りということが極めて重要な事なのです。

 贖罪は、神の御業です。神の御業だからこそ「ただ1度限り」なのです。2度目があるということは、1度目では不十分だったということになります。不十分だというのは、神の御業の絶対性、全能性、完全性を否定することになります。言葉を換えれば、神さまが神さまでなくなってしまうことになります。そんなことは不可能です。神さまは神さまであって神さまは不完全なことをなさる事は不可能だからです。独り子なる神キリストを何度も十字架にかけることなど不可能なのです。十字架は完全な贖罪なのです。

 

6.2度目は救いをもたらすため

  2度目とはキリストの再臨のことです。主イエスは再び来臨されると予言されました。それは「審判」です。「審判」だからこそ、わたしたちにとっては「救い」なのです。再臨は、「罪を負うためではなく」です。罪を負われるのは十字架で完遂されています。再臨は、「救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです。」

  「救い」とは何か。それは救い主イエス・キリスト信じることだと、主は言われました。主イエスを信ずる者たちは、主イエスと同じありさまへと「一瞬にして変えられる」と書いてあります。主イエスと一つなる存在へと変貌するのです。

2026年9月9日水曜日


 2026年9月13日(日)(聖霊降臨節第17主日)



            『奉仕する共同体』

        コリントの信徒への手紙Ⅱ9章6節~15節

6:つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。

7:各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

8:神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

9:「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。

10:種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

11:あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。

12:なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。

13:この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。

14:更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。

15:言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。



1.ボランティアの語源

  ラテン語動詞「volo(ウォロ、「欲する」「求める」「願う」の意味)」)から副詞形voluntate(ウォルンターテ「自ら進んで」)、名詞形 voluntas(ウォルンタース)を経て英語の volunteer となったといいます。日本では無償の「奉仕活動」と捉えられがちですが、本来の意味は「自発的な意志による行動」を指すのだそうです。Wikiより

 まさに本日の聖句が、ピッタリと、その本来の意義を伝えていると言っても言いすぎではないでしょう。

      7:各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

  奉仕は、英語ではサービスですが、礼拝という意味もあります。ドイツ語でもGottesdienst(ゴッテスディーンスト)と言いますが、神を意味する「Gott」と奉仕を意味する「Dienst」が合わさった言葉です。つまり、奉仕と礼拝は元来は、同じ言葉で表現されていたと考えられるのです。礼拝と奉仕は切り離し得ない結びつき、関連があるということでしょう。


2.礼拝と奉仕

  ボランティアの基本原則は自主性・無償性・社会性だと一般に言われています。自主性は、聖書におそらく起源があります。見返りを求めない無償性も神の愛・神の慈しみの愛に遡源すると言えるのではないでしょうか。

      9:「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。

  そして社会性とは、人と人との関係性を意味します。見返りを求めず他者・隣人のために、自発的に自分の財や時間を捧げることによって、目には見えない「富み」・「恵み」を受けるというのです。この「富み」・「恵み」こそは、神が賜るものです。この「恵み」によって、他者・隣人の交わりは、「思慕」・「祈り」という「言葉では言い尽くせない贈り物」を与えられるというのです。

      13:この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。

      14:更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。

      15:言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

   繰り返し、もっと平たく言います。

 すなわち、神さまこそが、限りない愛をもってわたしたちを愛してくださるがゆえに、わたしたちは、神の恵みによってすべてのことに「富む者」とされ、他者・隣人に惜しまず施すようになるというのです。

 具体的には、神さまへの献金(「わたしたち(使徒)を通じて神に対する感謝の念を引き出す」)を捧げるようになるというだけでなく、その「施し」(献金)は他者・隣人(「自分たちや他のすべての人々」)に「惜しまず施しを分ける」行為へと直結するということです。 この神から人に惜しみなく与えられる「恵み」「富み」が、人に「施し」(献金)を惜しみなく神と人とに捧げるという、この「恩寵」の「結果」こそが、「礼拝」であり、「奉仕」なのだということなのです。


3.神の恵みと富み 

      11:あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。

   ここで、わたしたちは神の恵み、賜物について、このみことばによって信ずべきことがあります。わたしたちは、「すべてのことに富む者とされて」いるということです。 この事実は、受け入れがたいと抵抗感を感じる人がいるかもしれません。ことに、逆境のさなかに置かれている場合、「すべてのことに富む者とされているですって?自分はいま、苦難のなかに置かれているではないか!」と、思わずにはおれない、そう思っても仕方ないでしょう。「このようなみことばは、すべてのことが順風満帆で何の苦労もない人はそうかもしれないけど、自分にはとてもそうは思えない」。そう感じるかもしれません。

 聖書の言葉は、ときに残酷に響くことがあります。この箇所も何の気なしに読み流してしまえば何も感じないかもしれませんが、ひどく傷つく人がいても不思議ではありません。

 しかし、聖書の読みは、そこからこそ始まるのではないでしょうか。

  神の恵み・賜物・恩寵・・・。これらは同じ内容を異なった言葉で表しています。神さまは、「恵み」を惜しみなく注がれています。この恵みは、「種」「パンの糧」という比喩で次のように表現されています。

      10:種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

 種が、わたしたちのなかで実を結ぶように成長させてくさるのは神さまによります。「成長させてくださるのは神」なのです。

 しかしながら、蒔いた種が実を結ぶとは限らない。

  教会の庭、牧師館の庭に、わたしも、種を蒔きますが、発芽するものもあれば、しないものもあります。また種の播種時期を間違えると発芽しません。種蒔く人の素養が問題なのです。前提として、種を蒔く人は、蒔く人としての経験や、知識が必要なのです。種をただ蒔くだけでは実りに結びつく訳ではないのです。パンとなれば、なおさらです。パンのもとになる小麦粉やパン種が必要です。

  「すべてのことに富む者とされている」というのは、「この奉仕の業が実際に行われた結果として」、「慈しみが結ぶ実を」結んでいる、その結果を意味するのでしょう。

 つまり、種が発芽し、成長し、実を結ぶのは、「奉仕の業が実際に行われた結果」ということになります。

 「奉仕」とは「礼拝」行為と分離し得ない関係にあると先に確認しました。むしろ「礼拝」こそが「奉仕」であり、「奉仕」こそが「礼拝」なのです。

 「奉仕」=「礼拝」を実際に行うこととは、神への礼拝と隣人への奉仕が、同時に恵みとして授与され、育まれ、「慈しみ」「施し」(献金)へと結実することを意味する事柄なのです。

 私たちが、礼拝毎に献金を捧げるのは、献身の証しなのです。献金そのものが礼拝であり、即隣人への奉仕・慈愛の証しということなのです。


4.「あなたがたに与えられたこの上なくすばらしい恵み」

   人に躓いてはいけない。教会生活をはじめたとき、このように教えられます。人は誰しもが罪人です。また時によっては不信仰に陥ることもあります。こころならずも罪を犯すこともあるものなのです。教会のなかでトラブルを起こす人も出てきます。牧師も同様です。

そんなときに、「人をみてはいけない」と諭されるものです。見つめるべきは、主イエスであり、聖霊さまであり、父なる神です。みことばです。

 種を蒔かれても、土壌が枯渇していれば種は発芽しません。いばらのなかでも、石地に落ちても同様です。

 だからこそ、見られる自分自身は、見ている「彼ら」(14節)には、神からの恵みが「この上なくすばらしい恵み」であり、見たことによって、見られる自分自身を「彼ら」が「慕い」「祈る」ようになることが信仰生活には重要なのです。

 他者から見て、わたしたち自身が「神からのこの上ない恵み」に生かされていなければ、見る人を躓かせるかもしれないのです。

 隣人が、わたしたちを見て、「慕い」「わたしたちのために祈る」ようになる、そのような恵みの証人となること、それこそ、「奉仕」であり、「礼拝」の生活なのです。


5.「すべてのことに富む」

 「すべてのこと」とは何であるのか。

 その人によって、固有な人生を、神さまは与えています。固有というのは、その人にとって、それしかないという、ほかの人とは替わることが不可能な、その人だけの人生だという意味です。

 その人の固有な人生は、かけがえのない人生であり、その人だけのものです。その人生は、神が与えた人生であって神の祝福のもとにあって生まれてきたものです。

 その固有な人生は、苦難に満ちた逆境そのもののような人もいることでしょう。誰しも苦難を避けることはできません。苦難もまた神の賜物です。

 神は、ヨブに苦難を賜りました。

 苦難に、ヨブとても苦しみ抜きます。3人の友人たちがやって来てはヨブにさまざまな心ない言葉を浴びせます。しかし、最後には、ヨブは「神は与え、神は奪いたもう」と告白し、神を賛美しました。苦難のさなかで賛美したのです。

 すべてのこととは、苦難も祝福もすべてを含むからこそ「すべて」です。

 どんな境遇に置かれたとしても、この固有な人生を、神の恩寵として受け入れるようになるために、いかに時間がかかろうと、いかに苦しみ抜いて泣き叫び、苦悶しようとも、最期の最期には、神を賛美することが赦されている。このことこそが、わたしたち信仰者の「富み」ではないでしょうか。

      15:言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

 言葉で言い尽くせない神の贈りもの。小さなこと、小さなもの、大きなもの、大きなこと、どの事柄からも、神の意志が見えてくる。聞こえてくる。

 信仰者の人生は、言葉で言い尽くせない神の贈りものに、目を凝らし、耳をすませ、魂で感じとることが赦されている。そのひとつひとつに感謝をささげることができる。これぞ、わたしたちが「すべてのことに富む者」とされている証明なのです。

 主よ、耳をすまし、目をこらして、あなたの惜しみない慈しみのプレゼントを、見いだし、聴き取ることが、今日も明日もまたできますように、心からお祈りいたします。

2026年9月6日日曜日

 2026年9月6日(聖霊降臨節第16主日)

ガラテヤの信徒への手紙1章1節~10節

『生涯のささげもの』

   


1.  エドガルド・モルターラ誘拐事件 

   エドガルド・モルターラは、1851年にボローニャ(当時はローマ教皇領)のユダヤ人家庭に生まれました。乳児期に重病を患いました。その際、一家のキリスト教徒の家政婦が、彼がそのまま死ねば地獄に落ちると恐れ、秘密裏にカトリックの緊急洗礼を授けました。 その後エドガルドは回復しましたが、1858年(当時7歳)にこの洗礼の事実が教皇庁に知られることとなります。当時の教会法では「洗礼を受けた者はキリスト教徒として育てられねばならず、非キリスト教徒(ユダヤ人)の両親が育てることはできない」と定められていたため、ローマ教皇ピウス9世の命令により、エドガルドは家族から強制的に連れ去られ、ローマの修道院でカトリックとして教育されることになりました。

  両親は息子を取り戻すために奮闘し、この事件は国際的なユダヤ人社会やヨーロッパ全土の世論から猛烈な非難を浴びました。しかし教皇庁は返還を拒絶し続けました。この事件はカトリック教会の絶対権力に対する反発を強め、イタリア統一運動(リソルジメント)を加速させる政治的な契機の一つとなりました。エドガルドはその後、自らの意志でカトリックの司祭となり、1940年にベルギーで88歳で亡くなるまで、家族の元へ戻ることはありませんでした。

 この歴史的事件を、ステイーヴン・スピルバーグ監督が映画化しました。『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』という作品です。

   わたしは、本日の聖書を読みつつ、この事件のことを思い出しました。

 イタリア王国が成立する契機のひとつともなった歴史的事件です。カトリック教会法によって、ユダヤ人家庭の幼児を誘拐し、両親・家族から引き離し、カトリック信者として育てるという現代の感覚からすれば暴挙ですが、使徒パウロが創立したガラテア教会草創期において、この事件とはまるで立場が真逆のような、教会内での信仰的混迷が発生していたと思ったからでした。

 

2.教会内部に発生したユダヤ教への逆風

     6:キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。

  「ほかの福音に乗り換えようとしている」と、また「わたしはあきれ果てている」とも語調を極めて批判しています。

 キリストの愛と赦しの教えは、一言で言い表せば、「寛容の精神」と言えましょう。ところが、このパウロの言葉は、実に激越な「不寛容」の態度です。

 パウロは、矛盾しているのでしょうか。

 パウロが懸念しているガラテア教会の信仰の混迷は、圧倒的な「神の恵み・恩寵」(ただ信仰によってのみ義とされる:信仰義認)を信ずることによって、誰であっても「価なし救われる」という絶対恩寵の福音を、事実上否定することになる「律法遵守によってこそ義とされる」という「行為義認」という「ユダヤ教への逆行」に、信徒たちが惹かれていったという事態でした。

 行為義認、律法を守ることによって得られる自己満足感はたしかに、自己自身の行為そのものですから、わかりやすかったのだと思います。行為は自分の感覚で、その達成感を得られるからです。

 

3.神の神となる行為義認の道

 千日回峰行という「行」があります。

 千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは、比叡山や吉野山などの険しい山々を7年間かけて延べ1,000日間歩き、心身の限界に挑む天台宗や修験道の非常に厳しい荒行です。過酷な道のりは7年間の修行で、1日約30〜40キロ、のべ約4万キロを歩き、数多くの礼拝所を巡り、行が続けられなくなった場合は自ら命を絶つための短刀や死出紐(しでのひも:首つりの紐)を携えて挑む、命がけの修行として知られています。700日を満行したあと、9日間にわたり「断食・断水・不眠・不臥(横にならない)」の状態で不動真言を唱え続ける荒行です。

 こうした荒行を達成した人はごくわずかです。そして多くの人々は、「阿闍梨」と呼ばれる人を尊敬するものです。常人にはとてもできない事だからです。阿闍梨の経験した経験知はわたしたちに多くの知恵を与えてくれるものはありましょう。それを否定する必要はありません。

 ただ、この荒行を達成したことによって、「悟り」の境地を得たとしても、まことに存在したもう神との関係が義とされるということなのかといえば、それは否です。人の「業」によって、神との関係が「義とされる」(義認即救い)事はありません。人の「業」によって、神と人との関係が義とされる(ただしい関係とされる)のだとすれば、その行為を行う人と神とは同等の存在、もしくは神よりも人のほうが格上の存在だと言っているのと等しいからです。このような傲慢な思想は、自分では気づかなくても、自分を神とする、もしくは神の神となるという根本動機が潜んでいるのです。 

 わたしたちは、天地を創造したもうた創造主なる神によって創られた被造者にすぎません。

 わたしたちは、自分自身を救うことはできないのです。


4.不寛容であるべき事

   さて、パウロが激越なまでに厳しく「ほかの福音」を批判・非難したのか。どうしてここまで言わねばならなかったのか。この「不寛容」の態度は、どうして出てくるのか。

 これは、人類に救いをもたらす神の絶対恩寵の福音を根本から否定するものだったからです。自分たちは、アプラハム以来の天地創造の神を信じていると、主観的世界では確信しているのが、ユダヤ人ですから、ユダヤ教に逆行するからといって、創造者なる神への信仰はあるではないかと言うかも知れませんが、律法によって義が得られるという思想には、隠された神への否定が潜んでいるのです。人が人の行為によって神人関係を修復したり、確立できるとするなら、それは人が神になっている、もしくは神の神になっているからです。本人がいくら否定しても、自分自身が神に、神の神になってしまっている現実態は客観的に存在するのです。

 パウロは、律法による義の思想に隠れ潜む自己神化の根本動機を見抜いていたからこそ、これこそ、まことの神への不従順、すなわち罪だと糾弾せざるを得ないのです。

 「そんなに目くじらたてることはないではないか。同じ神を信じているのだから」とか、「そんな『不寛容』な態度では、教会内部がギスギスしてしまうのではないですか」とか、そんな主張をする声が聞こえてきそうです。パウロは厳格するのではないですか、とパウロの「不寛容」な態度を批判する人が出てきても不思議ではありません。

 しかし、パウロの舌鋒はひるみません。「わたしはあきれ果てています。」と鋭い批判は、頂点に達します。

 福音の本質・核心をないがしろにして、骨抜きにしてしまう「偽教師」の影響力を、断固として、ここで食い止めなければ、パウロがこれまで語ってきた福音が、無意味と化してしまう。ここで放置したり、黙認したりすることは、愛でも赦しでもない。罪の容認、否、罪の擁護になってしまう。パウロは信徒への激しい愛ゆえにこそ、この事態を「背信」とし断固として、ここで食い止めなければならない、そう考えたのです。

 愛するがゆえに、福音を無にしてしまうことは、食い止めなければならない。これがパウロの「不寛容」な態度の動機でした。愛するがゆえに、断固として叱責しなければならなかったのです。

 これぞ「牧会」です。

 牧会とは魂の配慮です。信徒たちがそうとは知らずに背信の罪を犯してしまうことを食い止めることは、信徒たちを愛し、魂を救い、主イエスのもとに取り戻すことにほかなりません。そのためには、頑固として、「偽教師」たちの影響を遮断しなければならないのです。ここに一分の隙もあってはならないのです。

 これが福音まもるための「不寛容」です。この不寛容こそが、神への真実な愛であり、主イエスへの真実な愛なのでした。


5.真の「寛容」の精神

 どこまでも、まことの神・まことの人、主イエスへの信仰を貫きとおすことこそが、信徒の罪を赦し、永遠の命を与えるという真実の愛なのです。

 この一事こそが、「われらに罪をおかす者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りの実践なのです。それゆえ、真の「寛容」はここにこそあるのです。罪を罪として明確に示し、その罪をわが事として受けとめなおし、我がこととして悔い改め、ひたすらその罪の赦しを祈り願うのです。ここに真の「寛容」があるのです。「寛容」とは罪の容認や放置ではないのです。


6.アナテマ(呪われるがよい)※ 

    8:しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。

     ※パウロ書簡のなかにも「私たちが伝えたのと異なる福音を伝えるものは呪われよ(=アナテマたるべし)」(ガラテア1:8)などとする用法がある。こうした異質なものへの「呪い」の意を承けて、カトリック教会を含む古代教会では、アナテマは共同体からの除名、すなわち「破門」を意味する語として用いられるようになった。その証拠に、ニカイア信条などキリスト教の信仰箇条には、異端の説を信奉する者に対するアナテマが付加されるものが見られる。

    「呪われるがよい」とはなんという厳しい言葉であろうか。教会からの除名の根拠とされた箇所です。かつては、「破門」は地獄行きを即刻意味した極めて強い排除の術語です。今日では、先に「寛容」の意味について記したように、そのような意味よりも、悔い改めを促すための牧会的配慮の言葉として受けとめ直すべき術語ですが、それにしても激しい物言いです。

   ただ注目すべきは、「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ」と、自己批判や天使への批判を含めていることです。 つまりアナテマ、呪われよという術語の対象は、相手に限らない。自分自身も天使さえも含む。人によって評価を変えるような語り方をしていません。パウロの福音(信仰義認)に反するような「ほかの福音」(キリストの福音を覆すもの)を語るようであれば、自分自身であれ、天使であれ、同様に呪われるべきだという内容・事柄に集中した術語だということです。事柄が問題だというのです。人ではないのです。

 この視点は重要です。この姿勢は、相手に対して、悔い改めの猶予を与えて、方向転換したならば、直ちに戻っておいでと言っているようなものです。だから、この激しい言葉でさえ、愛の招きとなっているのです。


7.寛容は同調にあらず、承認欲求にあらず

    10:こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

   フランツ・イェーガーシュテッターという人のことが心に浮かびました。

 フランツ・イェーガーシュテッター(Franz Jägerstätter, 1907年5月20日 - 1943年8月9日)は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによるオーストリア併合後、ヒトラーへの忠誠とドイツ軍への入隊を良心の呵責から拒否し、死刑に処されたオーストリアの農民です。彼はカトリック信者の妻の影響を受けて聖書を読むようになり、信仰者となりました。彼はひたむきに聖書のみことばに堅く立って、「ヒトラー宣誓」を最期まで拒絶し、罪に問われ、ギロチンで処刑されたのでした。司祭までもが、ナチス・ドイツへの同調を勧めましたが、彼は同調を拒んだのです。「もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」とパウロは、真理をねじまげてまでして妥協、同調をするなら、「わたしはキリストの僕」(奴隷)ではありません。」ときっぱりと、同調という態度が必然的にもつ偽善性と距離をもちました。

  また、同調姿勢というものを、承認欲求と同列に語ります。承認欲求というのは、ようするに、「何とかして人の気に入ろうとあくせく」することです。

 パウロの鋭い洞察力に驚きます。誰にでも承認欲求はあります。しかし、人の承認をとりつけるために何かをなすことには、神への責任よりも他人の評価を優先するという邪悪さが潜んでいることを知っているのです。他者の評価を得たいが為に何かをするとき、神への責任(信仰)的主体であるべき自己自身が崩れてしまうからです。わたしたちは他人の評価よりも、神の審判をこそ畏れ、神からの承認をこそ祈るべきなのです。もし承認欲求があるとしたら、神との関係、主イエスとの関係においてあるべきなのです。そうでないなら、「わたしはキリストのしもべ」ではないというのです。フランツ・イェーガーシュテッターはただ神への応答責任(信仰)に生きようとして、殉教の道を選んだのです。


8.生涯のささげもの

   ささげものと言っても、それは「物」ではありません。わたしたちのささげものとは、私たち自身だからです。「生涯の」と言っても、それは短くも尊い人生の時間の長さのみを言っている訳ではない。フランツ・イェーガーシュテッターは反キリスト・ヒトラーへの宣誓を拒み、殉教しました。36歳の若さでした。短い生涯です。しかし、彼の殉教の瞬間は、「永遠」をたたえた「今」でした。 わたしたちの「今」「ここで」の瞬間も、「永遠」をたたえています。いま・ここで主イエスへの信従の思いをもって生きるとすれば、それは「永遠の今」であり、わたしたちは、キリストへの「生涯のささげもの」をささげているさなかなのです。

2026年9月1日火曜日

 2026年8月30日(聖霊降臨節第15主日)

1コリント 12章27節~13章13節

『最高の道』


                  『最高の道』
       コリントの信徒への手紙Ⅰ12章27節~31節
27:あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
28:神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
29:皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
30:皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
31: あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
愛
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
コリントの信徒への手紙Ⅰ13章
1:たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
2:たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
3:全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
4:愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5:礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6:不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7:すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8:愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9:わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10:完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
11:幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
12:わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。


1.わたしたちはキリストの体の一部である
  人の悪口を言うことはなぜ「悪」であるのか、という問題を考えてみます。
  なぜひとは、他人のことを悪く言うのでしょうか。さまざまな事が考えられますが、そのうちに「劣位化説」という説があります。人の立場やランク(位)に焦点を当てる考えだそうです(和泉悠)。悪口を言う人は自分の優位性を確認したり証明したりするために悪口を言うというものです。いわば動機は「マウント」※をとりたいということ。
 悪口がよくないのは、「人間同士に上下や優劣関係をつくることが良くないからです。」これは「現代社会の通念であり、ランキングの上下をつくってしまう悪口は、人を傷つけなくても、悪意がなくても悪い、ということになる。」
 マウントを取る人の心理は、何かといえば、不安と自信のなさだといわれます。心の底では自分に自信がなく、周囲に認められたい(承認欲求)という気持ちが強いのです。また、相手より下に見られると不安になるため、攻撃することで自分を守ろうとする心理とも言えます。
※「マウントを取る」とは、会話や態度で自分が相手より優位(上)にあると示そうとする行為のこと。
要するに、自分と他者を比較して、本当は自信がないのに、優位に立つために、他人を自分より低めようという心理から悪口を言ってしまうのです。
 こういう人は、自分が神人キリスト・イエスの体の一部であって、他人とはそれぞれ異なった多様な一部をなしあっているということを知らないのです。他の部分を担う他人と自分とは、異なった役割を担っていて、体は、どの部分も互いに不可欠なのだということを知っていたら、他人との優劣などを比較することはないのです。一部分が弱れば、体全体が弱るのです。だから、一部分が痛めば、他の部分も共に痛むのです。
 もし、真実に、自分自身がキリストの体の一部分だと信じているなら、他人との比較で、優劣をつけて悪口を言うことなど、できなくなるはずです。

2.もっと大きな賜物を受けるよう努めなさい
   「もっと大きな賜物」を受けるよう熱心に努めよとパウロは勧めています。それぞれが固有なかけがえのない賜物を既に受けています。ほかの部分を担う人とは替わることができないその人だけの賜物です。既に固有な代替不可能な賜物を受けている以上の「もっと大きな賜物」を受けるべく熱心に努めよというのです。
 他人との比較ではなく、現在ただいまの自己自身をみつめ、その地点よりももっと優れた賜物へと自己自身を磨けというのです。すなわち自己自身の成熟です。自己自身の陶冶です。
 自己陶冶は、どれだけ精進しても、尽きるところはありません。それは能力の向上とか、体力の増進とか、そういうことに限る必要はまったくありません。こどもにはこどもとして、青年は青年として、壮年や老人も同じです。老人には、老人なりの「もっと大きな賜物」を受けるよう熱心に努めることがあるからです。 朝、目が覚めると、わたしなどは、教会の地面の土壌改良や草刈りのことを思います。一日の作業スケジュールを紙に書き出します。大抵は半分もできませんが、ひとつひとつの仕事をなし終えると、喜びが与えられます。たったそれだけのことですが、これはやはり「もっと大きな賜物」を受けるための努力に違いありません。自分で決めたことを成し遂げたという喜びは、紛れもなく「賜物」なのです。人より優れているとかなどということとは無縁なのです。自分の心が喜んでいるということは、キリストの体全体も喜んでいることだからです。人はこの喜びを「達成感」と呼んでいますが、わたしはこの感情は、「神の喜び」に、直結していると思うのです。わたしの「喜び」が、キリスト・イエスの喜びにつながっているのです。

3.愛がなければ
   13章1節から3節までは、「愛がなければ」という言葉で結ばれています。
  愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
  愛がなければ、無に等しい。
  愛がなければ、わたしに何の益もない。
 1節は、「人々の異言、天使たちの異言」を語ったとしても、もし 「愛がなければ」、その言葉は騒音に等しいと最大限の落としようです。 このような「相対化」※」をパウロがしているということは、コリントの教会で、起きていた「異言」現象については、認めてはいても一定の批判を持っていたことになります。(コリント人への手紙第一14章1−5節、27−28節、39節)
※相対化(そうたいか)とは、ある物事が「絶対唯一のものではない」と考え、ほかの視点や基準に照らしてその意味や位置づけを見直すこと。
    「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。」
            コリントの信徒への手紙一 14章4節
    「解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。」
           コリントの信徒への手紙一 14章28節
 つまり「異言」を語るのは、神に対し、もしくは自分自身に対して語るのであって、「解釈する者がいなければ、教会では黙って」いるべきだというのです。「解釈」なしには横の人間関係において、むやみに語るものではないというのです。
   「異言」は対人関係にあって、そのままでは「理解」できないから、教会の徳を高めることに支障をきたす怖れがあったのでしょう。
    「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。」      コリントの信徒への手紙一 14章 23節
  2節は、「預言する賜物を持ち、あらゆる神秘と知識に通じていようとも」、「山を動かす程の信仰」があっても」、もし「キリストの愛がなければ」無に等しいと言います。すなわち、「知識と信仰」です。「知識と信仰」があっても「愛」がなければ、無に等しいというのです。愛なき知識も信仰も、ただ「無」だというのです。
 「愛のない知識」の目的は自己愛にすぎません。「愛のない信仰」は、たとえ「山を動かすほどの完全」なものであっても、そこには神への愛も人への愛もありません。ただあるのは、「山を動かすほどの完全」な自己満足にすぎません。愛する対象が存在しないからです。
 この場合の「知識も信仰も」、結局、自己欲求の延長でしかないのです。
 この場合、自己はキリストの一部分ではなく、自己が自己の支配者であり、自己が完結した全体なのです。他者への愛ではなく、自己完結的なの自己愛なのです。
 しかし、「愛がなければ」というときの「愛」は、自己を愛する愛は必ず他者との絆がなければならないという「愛」です。「キリストの愛」です。他者と自己とは、互いに神=キリストの体なのですから、愛には必ず他者という対象が存在します。キリストを愛するがゆえの「知識と信仰」なのです。キリストを愛するがゆえに、さらにもっと知ろうとする。キリストを愛するがゆえに、さらにもっと信ずるのです。
  3節は、全財産を貧しい人々ために使い尽くすという他者への愛の行為においてさえも、「愛がなければ」何の益もないといいます。そして、たとえ「殉教」という状況においてでさえも、「愛がなければ」なんの益もないというのです。ここには、他者に対する「愛」の振る舞いにおいてさえも、「キリストの愛がなければ」、自己自身の魂の救いにはならないという極限的な愛の意味づけが語られています。
 まったき自己犠牲的な愛の振る舞い・行使においてさえも、純粋な愛が要求される。究極の自己犠牲である「殉教」でさえも、「キリストの愛」に充たされてこそ、「証言」なのです。

4.「愛」のふるまい
 4節から8節までは、いわば「愛の振る舞い」について語っています。「愛」という言葉を、「キリストの愛」と言い換えると、いっそう理解しやすくなります。ここで「愛」という主体は、人格をもっています。「神は愛なり」なのです。だから、「愛」を「キリスト」もしくは「キリストの愛」と置き換えて読むと、意味は明確に伝わってくるでしょう。
 どうみても、「愛」を「人」に置き換えることはできません。神=キリストだけが、わたしたちに人間に示された「愛」です。
 
5.終末論的な希望の認識
  「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」      コリントの信徒への手紙一 13章10節
    「完全なものが来たとき」とは、キリストの再臨を示唆していると思われます。 キリストが最後の審判をされた暁には、かくなるという希望が語られています。
    12:わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
    13:それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 7.信仰と、希望と、愛
    終末においてキリストが再臨されるまでの、歴史の時間を、わたしたちは生きています。この歴史的時間の途上においては、わたしたちは、互いにお互いを完全に知ることなく、「鏡におぼろに映ったものを見ている」ように見ているにすぎません。わたしたちの認識力は、それが限界なのです。いまは互いに一部しか知る事はできません。しかし、終末時には、この人間の世界は、認識的な大転換が起きると、聖書は語っています。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」というのです。
   はっきり知られているようにというのは、神によって、キリストによって知られている。わたしたちは神によって、キリストによって知られているのですが、終末時の認識的大転換が生起するとき、わたしたち自身が、キリストに知られているのとまったく同じように、知る事になると断言されているのです。
   神を見るものは死ぬ。それは旧約時代に貫かれていた信仰観でした。神は認識できないお方なのでした。
 イエスの時代、神は人となりたもうた主イエスを見るものは神を見たのです。
 終末時においては、わたしたち自身が、神、キリストに知られているごとくに、お互いを知ることができるというのです。
 この認識的な大転換に至るまでの「途上」にあって、わたしたちを導く、最も大いなるものは、信仰と、希望と、愛です。

   信仰は、信仰の真の主体者は聖霊であり、
  希望は、歴史的時間の彼方に到来するキリスト再臨の希望であり、
  この歴史的時間を生きる私たちが生きるべき「最高の道」こそ「愛」(すなわちその真の主体)なのです。


2026年8月24日月曜日

 2026年8月23日 (聖霊降臨節第14主日)

使徒言行録13章44節~52節

『全ての人に対する教会の働き』

       


  『全ての人に対する教会の働き』

       使徒言行録13章44節~52節

44:次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。

45:しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。

46:そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。

47:主はわたしたちにこう命じておられるからです。

  『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、

  /あなたが、地の果てにまでも

  /救いをもたらすために。』」

48:異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。

49:こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。

50:ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。

51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。

52:他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。


1.歓迎されていたパウロとバルナバ

   ピシディアのアンティオキアに到着したパウロとバルナバは、前の安息日には、ユダヤ教の会堂に招かれて、福音を語りました。(15節) 反応はすこぶるよいものです。次の安息日にも同じ話をしてほしいと、人々はしきりに願ったとあるからです。人々というのは、当然ユダヤ人です。このなかには、異教からユダヤ教に改宗したユダヤ人もいました。集会が終わってからも、パウロとバルナバについてきたので、パウロとバルナバは、彼らを牧会しています。「ひきつづき神のめぐみにとどまるように」と、説きすすめたのでした。

 

2.主の言葉はその地方全体に広まった

  おそらくパウロとバルナバは、前週懇請されていたとおり、ユダヤ教の会堂で主イエスの福音を語るために、足を運ぼうとしていたことでしょう。

 ところが、前週のユダヤ会堂でのユダヤ人たちの評判がよかったせいでしょうか、ふたりの話を聴こうとして、ほとんど全市をあげて、人々が集まってきたのです。

 この描写どおりであれば、ユダヤ教会堂に収まりきれるものではありませんから、二人は会堂に入る以前に、大勢の人々に囲まれてしまったのでありましょう。

 おどろくべき影響力です。この影響は、どのようにしてはじまり、伝播したのか。わたしが聖書の記述から考えられることは、前週、二人の話を聴いて感銘を受けたユダヤ人たちが、全市の住民に語り伝えたとしか思えないのです。ほかに誰がいるでしょうか。

 それほどまでに、二人を歓迎しただけでなく、ついてゆこうとまでしていた人々です。ほとんど主の福音を受けいれていたと言っても言いすぎではないと思うのです。

 つまり、ピシディアのアンティオキアのほとんどの人々はピシディアのアンティオキアのユダヤ人社会から福音宣教の種が蒔かれたということであったはずなのです。

 だからこそ、「主の言葉はその地方全体に広まった」と記録されたはずなのです。

 外形的な事実をみれば、福音宣教の果実は実ったというべきでしょう。ところが、意外にも二人はこの地を去ることになるのです。

    51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。


3.ユダヤ人の翻心

  ピシディアのアンティオキア全市あげてのパウロとバルナバへの傾倒という事実は、驚異的です。この現実をもたらしたのは、他ならぬユダヤ人たちの使徒たちへの傾倒でした。

 ところが、全市の大多数の非ユダヤ人すなわち「異邦人」たちの使徒への急速かつ絶大な傾倒ぶりを目の前にして、「異邦人」たちを二人に引き合わせた当の本人たちユダヤ人たちの心に異変が起きたのです。ユダヤ人の翻心です。

 この事態の遷移をみるとき、「ユダヤ人の罪」とみるべきか、それとも「人間存在の罪」とみるべきか、わたしたちもまた解釈上の決断を迫られますが、わたしは、そのどちらの解釈も可能だと考えます。

 パウロとバルナバの話には、「神の秩序」の変更がありました。

    46:そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。

 神は神の民としてイスラエル(ユダヤ人)を選び、主イエスの福音は、まずは必ずユダヤ人に語られることになっているというのが、パウロたちの信仰内容だったのです。だからこそ、主イエスもパウロもまずはユダヤ人に向けて宣教を開始しました。それはユダヤ人の背信後も変わりません。

 しかし、ユダヤ人たちは、「それを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」というのです。ここには「神の秩序」の変更があります。この変更は、ユダヤ人みずからが選び取ったがゆえに、やはりこの翻心の責任はユダヤ人自身に帰せられるという解釈です。これが「ユダヤ人の罪」だという解釈です。

 他方、「人間存在の罪」と見る解釈も可能ですし、こちらのほうが、普遍性があります。「ユダヤ人の罪」だという特定存在に罪を負わせる解釈は、常に「差別」を生みかねない危険があるからです。「人間存在の罪」だと見るのには根拠があります。 

 それは、「妬み」です。

    45:しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。

 自分たちが感じいって、パウロとバルナバへの傾倒を全市の人々に広めたのに、そのせいで、全市の人々が、パウロとバルナバへと傾倒してゆくありさまを、いざ目の前にしたときに、彼らが感じた人間的感情が「妬み」でした。


4.あまりに人間的な感情、それこそ妬み

  急激な翻心の根本動機となったものは、あまりにも人間的な妬みの感情でした。妬みは憎悪と紙一重です。憎悪は殺意につながっています。あまりにも明解な人間の罪の姿です。前週は、従ってゆきたいとさえ思っていた宣教者たちに、これほどまでに憎悪を向けられるとは、人間の罪とは実に恐ろしいものです。

 妬みという感情、この感情が動機を形成し、思想を形成し、行動に踏み切らせる。ここには人間の罪の本質が見られます。こう解釈すると、この醜悪な姿は、ひとり特別にユダヤ人だけのものではなく、人間存在、原罪を有する全ての人間存在に共通するものだということができます。

 つまり、わたしたち自身の姿なのです。

 この急激な翻心、裏切りは、わたしたちの「鏡像」に他ならないことになります。

    50:ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。


5.追放と門出

    パウロとバルナバへのはさぞ驚いたことでしょう。二人は、つい前の週には彼らは歓迎され、招かれ、慕われていたのです。ところが1週間後には、彼らは「嫉まれ」、「口汚くののしられ」「反対」されたからです。

 そして、「反対」者たちは「扇動」、「迫害」、そしてついには、「追放」したのです。

 しかし、聖書には二人の驚愕については一言も記してはいません。むしろ、記述は、淡々としています。

 更に言えば、二人は「喜びと聖霊に満たされていた」のです。

    52:他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 なぜなら、二人が語るべき福音を語り得、福音を聴くべき人が聴き、信ずべき人々が救われたからです。「永遠の命」を保証された人々が、地方一帯に増え広がったからでした。

 二人が語るべき福音とは、主イエスことが「「異邦人の光」だと神によって定められた聖書のみことばでした。


6.地の果てにまでも救いをもたらすために

    47:主はわたしたちにこう命じておられるからです。

    『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、

    /あなたが、地の果てにまでも

    /救いをもたらすために。』」

  さて、ユダヤ人が翻心したのは、ともすると、彼らからみれば「救われざる者」と見下していた「異邦人」が、急激かつ絶大な信頼を,二人の弟子たちに捧げるようになったからでした。本来なら、喜んでもいいはずなのに、妬みゆえに苦々しい思い、憎悪はパウロとバルナバへと向けられました。

 パウロとバルナバには、ユダヤ人の翻心に、主イエスを十字架につけたエルサレムの指導者たちが二重写しに見えたことでしょう。

 ここで、二人は、主イエスが甦りの主でありたもう福音を語り始めます。実に、主イエスを信じる者は、誰であれ、義とされるのだと語り始めまめるのです。

 主は、一民族のためでも、まして一国家のためでもなく、全人類の救い主なんだと宣言するのでした。この結果、「異邦人」は、喜び、主の言葉を賛美したとあります。

    48:異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。


7.牧者が去るとき

    51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。

  二人は福音宣教の任務を完遂したのです。

 福音宣教の成否、数でもなければ、権威でもありません。二人は、結果、外形をみるかぎり、迫害され、追放されるのですが、二人の話を、聴いた人がいる。たとえ、聴いた人がユダヤ人で嫉妬に狂って憎悪の人に翻心したとしても、一度は福音を信じた事実は変わりません。迫害に奔った裏切りの者たちも、イエスの救いに招かれ続けている事実は不変です。

 二人の使徒に悔いはありません。憎まれても愛する思いを持ち続けていたに違いありません。

    51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。

  牧師が辞任するとき、思い起こす聖句がこの箇所です。「足の塵を払い落とし」て、新たな任地へと向かうのです。この描写には、使徒としての召命観が表出しています。

 主によって示された任地を去るのは、任務の放棄ではありません。パウロとバルナバは、新たな門出に立ったのです。

 臆することなく、さらなる熱情をもって、次の任地へと向かうのです。