2026年8月30日(聖霊降臨節第15主日)
1コリント 12章27節~13章13節
『最高の道』
東濃の三つの教会を一人の牧師が兼任しております。
2026年8月30日(聖霊降臨節第15主日)
1コリント 12章27節~13章13節
『最高の道』
2026年8月23日 (聖霊降臨節第14主日)
使徒言行録13章44節~52節
『全ての人に対する教会の働き』
使徒言行録13章44節~52節
44:次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。
45:しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
46:そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
47:主はわたしたちにこう命じておられるからです。
『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
/あなたが、地の果てにまでも
/救いをもたらすために。』」
48:異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
49:こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。
50:ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
52:他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
1.歓迎されていたパウロとバルナバ
ピシディアのアンティオキアに到着したパウロとバルナバは、前の安息日には、ユダヤ教の会堂に招かれて、福音を語りました。(15節) 反応はすこぶるよいものです。次の安息日にも同じ話をしてほしいと、人々はしきりに願ったとあるからです。人々というのは、当然ユダヤ人です。このなかには、異教からユダヤ教に改宗したユダヤ人もいました。集会が終わってからも、パウロとバルナバについてきたので、パウロとバルナバは、彼らを牧会しています。「ひきつづき神のめぐみにとどまるように」と、説きすすめたのでした。
2.主の言葉はその地方全体に広まった
おそらくパウロとバルナバは、前週懇請されていたとおり、ユダヤ教の会堂で主イエスの福音を語るために、足を運ぼうとしていたことでしょう。
ところが、前週のユダヤ会堂でのユダヤ人たちの評判がよかったせいでしょうか、ふたりの話を聴こうとして、ほとんど全市をあげて、人々が集まってきたのです。
この描写どおりであれば、ユダヤ教会堂に収まりきれるものではありませんから、二人は会堂に入る以前に、大勢の人々に囲まれてしまったのでありましょう。
おどろくべき影響力です。この影響は、どのようにしてはじまり、伝播したのか。わたしが聖書の記述から考えられることは、前週、二人の話を聴いて感銘を受けたユダヤ人たちが、全市の住民に語り伝えたとしか思えないのです。ほかに誰がいるでしょうか。
それほどまでに、二人を歓迎しただけでなく、ついてゆこうとまでしていた人々です。ほとんど主の福音を受けいれていたと言っても言いすぎではないと思うのです。
つまり、ピシディアのアンティオキアのほとんどの人々はピシディアのアンティオキアのユダヤ人社会から福音宣教の種が蒔かれたということであったはずなのです。
だからこそ、「主の言葉はその地方全体に広まった」と記録されたはずなのです。
外形的な事実をみれば、福音宣教の果実は実ったというべきでしょう。ところが、意外にも二人はこの地を去ることになるのです。
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
3.ユダヤ人の翻心
ピシディアのアンティオキア全市あげてのパウロとバルナバへの傾倒という事実は、驚異的です。この現実をもたらしたのは、他ならぬユダヤ人たちの使徒たちへの傾倒でした。
ところが、全市の大多数の非ユダヤ人すなわち「異邦人」たちの使徒への急速かつ絶大な傾倒ぶりを目の前にして、「異邦人」たちを二人に引き合わせた当の本人たちユダヤ人たちの心に異変が起きたのです。ユダヤ人の翻心です。
この事態の遷移をみるとき、「ユダヤ人の罪」とみるべきか、それとも「人間存在の罪」とみるべきか、わたしたちもまた解釈上の決断を迫られますが、わたしは、そのどちらの解釈も可能だと考えます。
パウロとバルナバの話には、「神の秩序」の変更がありました。
46:そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
神は神の民としてイスラエル(ユダヤ人)を選び、主イエスの福音は、まずは必ずユダヤ人に語られることになっているというのが、パウロたちの信仰内容だったのです。だからこそ、主イエスもパウロもまずはユダヤ人に向けて宣教を開始しました。それはユダヤ人の背信後も変わりません。
しかし、ユダヤ人たちは、「それを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」というのです。ここには「神の秩序」の変更があります。この変更は、ユダヤ人みずからが選び取ったがゆえに、やはりこの翻心の責任はユダヤ人自身に帰せられるという解釈です。これが「ユダヤ人の罪」だという解釈です。
他方、「人間存在の罪」と見る解釈も可能ですし、こちらのほうが、普遍性があります。「ユダヤ人の罪」だという特定存在に罪を負わせる解釈は、常に「差別」を生みかねない危険があるからです。「人間存在の罪」だと見るのには根拠があります。
それは、「妬み」です。
45:しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
自分たちが感じいって、パウロとバルナバへの傾倒を全市の人々に広めたのに、そのせいで、全市の人々が、パウロとバルナバへと傾倒してゆくありさまを、いざ目の前にしたときに、彼らが感じた人間的感情が「妬み」でした。
4.あまりに人間的な感情、それこそ妬み
急激な翻心の根本動機となったものは、あまりにも人間的な妬みの感情でした。妬みは憎悪と紙一重です。憎悪は殺意につながっています。あまりにも明解な人間の罪の姿です。前週は、従ってゆきたいとさえ思っていた宣教者たちに、これほどまでに憎悪を向けられるとは、人間の罪とは実に恐ろしいものです。
妬みという感情、この感情が動機を形成し、思想を形成し、行動に踏み切らせる。ここには人間の罪の本質が見られます。こう解釈すると、この醜悪な姿は、ひとり特別にユダヤ人だけのものではなく、人間存在、原罪を有する全ての人間存在に共通するものだということができます。
つまり、わたしたち自身の姿なのです。
この急激な翻心、裏切りは、わたしたちの「鏡像」に他ならないことになります。
50:ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
5.追放と門出
パウロとバルナバへのはさぞ驚いたことでしょう。二人は、つい前の週には彼らは歓迎され、招かれ、慕われていたのです。ところが1週間後には、彼らは「嫉まれ」、「口汚くののしられ」「反対」されたからです。
そして、「反対」者たちは「扇動」、「迫害」、そしてついには、「追放」したのです。
しかし、聖書には二人の驚愕については一言も記してはいません。むしろ、記述は、淡々としています。
更に言えば、二人は「喜びと聖霊に満たされていた」のです。
52:他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
なぜなら、二人が語るべき福音を語り得、福音を聴くべき人が聴き、信ずべき人々が救われたからです。「永遠の命」を保証された人々が、地方一帯に増え広がったからでした。
二人が語るべき福音とは、主イエスことが「「異邦人の光」だと神によって定められた聖書のみことばでした。
6.地の果てにまでも救いをもたらすために
47:主はわたしたちにこう命じておられるからです。
『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
/あなたが、地の果てにまでも
/救いをもたらすために。』」
さて、ユダヤ人が翻心したのは、ともすると、彼らからみれば「救われざる者」と見下していた「異邦人」が、急激かつ絶大な信頼を,二人の弟子たちに捧げるようになったからでした。本来なら、喜んでもいいはずなのに、妬みゆえに苦々しい思い、憎悪はパウロとバルナバへと向けられました。
パウロとバルナバには、ユダヤ人の翻心に、主イエスを十字架につけたエルサレムの指導者たちが二重写しに見えたことでしょう。
ここで、二人は、主イエスが甦りの主でありたもう福音を語り始めます。実に、主イエスを信じる者は、誰であれ、義とされるのだと語り始めまめるのです。
主は、一民族のためでも、まして一国家のためでもなく、全人類の救い主なんだと宣言するのでした。この結果、「異邦人」は、喜び、主の言葉を賛美したとあります。
48:異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
7.牧者が去るとき
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
二人は福音宣教の任務を完遂したのです。
福音宣教の成否、数でもなければ、権威でもありません。二人は、結果、外形をみるかぎり、迫害され、追放されるのですが、二人の話を、聴いた人がいる。たとえ、聴いた人がユダヤ人で嫉妬に狂って憎悪の人に翻心したとしても、一度は福音を信じた事実は変わりません。迫害に奔った裏切りの者たちも、イエスの救いに招かれ続けている事実は不変です。
二人の使徒に悔いはありません。憎まれても愛する思いを持ち続けていたに違いありません。
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
牧師が辞任するとき、思い起こす聖句がこの箇所です。「足の塵を払い落とし」て、新たな任地へと向かうのです。この描写には、使徒としての召命観が表出しています。
主によって示された任地を去るのは、任務の放棄ではありません。パウロとバルナバは、新たな門出に立ったのです。
臆することなく、さらなる熱情をもって、次の任地へと向かうのです。
2026年8月16日(聖霊降臨節第13主日)
エフェソの信徒への手紙4章17節~32節
『新しい人間』
『人格の更新・他者の発見』
17:そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、
18:知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。
19:そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。
20:しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。
21:キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
22:だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
23:心の底から新たにされて、
24:神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
25:だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
26:怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
27:悪魔にすきを与えてはなりません。
28:盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
29:悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。
30:神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
31:無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
32:互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
1.「異邦人」そのネガティブな意味
本日のみことばで気になることが、実はあるのです。
「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」という言葉です。
久保田早紀さんが歌った「異邦人」は当時大ヒットして、そのエキゾチックな旋律には鮮烈な印象をもちました。
サヨナラだけの手紙 迷い続けて書き
あとは哀しみをもて余す 異邦人
歌詞をじっくりと読むと、異邦人とは自分を指しているようです。どこかの外国での情景でしょうか。異国の光景が目に浮かびます。そこで出会った人との別れの思い出を歌っているようです。
「異邦人」でまた思い出すには、アルベール・カミュの作品があります。実存主義作家でノーベル文学賞を受賞した人です。
いずれも、「異邦人」に込められた意味はかなり違っていて、意義は多様性に富んでいます。この「異邦人」とは平たく言えば「外国人」ですが、この「異邦人」という術語は、聖書から広まった言葉で、元来特別な意味を持っていました。「外国人」という意味は同じでも言葉が違えば、まったく異なったニュアンスを感じさせます。
本日のエフェソ書のこの聖句で気になるのは、この「異邦人」という術語の使用文脈は、ネガティブな意味で用いられていることです。「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」とはっきりと、「異邦人」のようであることを否定しています。
2.「異邦人」とは誰か
久保田早紀さんの「異邦人」は自分自身がどこかの異国で恋をして、その好きな人と別れる一人の外国人女性の心境を歌っていますから、「異邦人」とは自分自身を指しています。自分はこの「異国」の地では「ストレンジャー」・「エトランジェ」なのだというのです。
カミュの「異邦人」は、哲学的な意味で「見知らぬ人」「異質なもの」「疎外された者」を意味しています。
人間は「生きる意味」を求めますが、世界には最初からそんな意味はないというのです。この「意味を求める人間」と「意味を持たない世界」のズレをカミュは「不条理」と呼びました。母親が死んでも何の感慨も示さない主人公ムルソーの姿に社会通念とは異質な「不条理」な「異邦人」を描いたのです。
エフェソ書が書かれた原始キリスト教会の世界宣教という状況を想像してみますと、福音を聴き、キリスト者となる以前の人々の多くは、もともとユダヤ人であった人々を除けばすべて「異邦人」です。
つまり、異邦人出身のキリスト者に向かって、「これまでの生き方を棄てよ」という意味になります。
新しい人間となったいまは、これまでの古い生き方は棄てなければならないというのです。
言葉あるいは術語というものは、人間のものですから、文脈によって意味は限りなく多様だということを、わたしたちは常に念頭においておかなければならないし、そうでなければ、過ちを犯してしまいかねません。
言葉は、悪用される危険が伴うものなのです。
「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」という言葉の断片だけを引きだして安易に用いると、この言葉はとんでもないヘイトスピーチに変わってしまいかねません。「外国人」差別につながりかねないからです。
3.「もはや異邦人のように」の特定固有な意味
言われている対象は、ユダヤ人から見ての「異邦人」であったけれども、いまはキリスト者となった「異邦人出身のキリスト者」だと想定すると、「もはや異邦人のように」という意味は、単なる「外国人」という意味ではないことになります。ここでの「異邦人」は、現代の「外国人」と言う国籍の問題ではなく、信仰上のアイデンティティーの問題です。「もはや異邦人のように」という意味は、多神教の神々を崇拝していたときの生き方を指していると考えるべきでしょう。
エフェソにはアルテミス神殿があって、かつては神殿娼婦が千人もいたとされていましたが、どうもそれは近年では俗説だったする説が有力とのことでした。ただ、エフェソには多くの商業的娼婦は多く存在してはいたようですので、「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、」と戒めているのは、港湾都市として栄えたエフェソの退廃的な状況を背景にしていると見て良いと思われます。
という次第で、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」というネガティブな表現が意味していたものは、「情欲に迷わされて、滅びに向かっている古い人」という特定固有な状況を指していると言えるのです。だから、一般的な意味での「異邦人」全体を指して、ネガティブに言っていると見るべきではないということになるでしょう。「異邦人」のすべてが「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」という状況だとは限らないからです。
なかには道徳的に立派な人もいたのではないでしょうか。パウロが言うように、律法を知らなくても、心に律法が記されている人もいたことでしょう。
「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」ロマ書2章14節~15節
4.「心の底から新たにされて」
「人格の更新」ということが語られています。大切なことは更新する主体が必ず存在するということです。
神はまことに存在したもう。
「真理がイエスの内にあるとおりに」とあります。主イエスが信徒本人に、結ばれている。結ばれているだけではなく、信者本人の「内」に存在するというのです。
神の存在が、具体的な力をもって、信者本人に結びつき、内面に存在していてくださるというのです。この神の存在の力によって、信者は「真理に基づいた正しく清い生活を送るように」なることができるのだから、そうせよというのです。可能なのです。自己自身の努力とか精進とかでは絶対不可能なことが、神の存在の力によってでならば、可能なのです。
5.「わたしたちは、互いに体の一部なのです。」
キリスト者共同体の信徒は、「互いに体が一部をなしている」というのです。これは具体的な、客観的な、人間理解として、キリスト者共同体はキリストの肢体として一つの体の一部を、互いになしているというのです。
つまり、わたしたちは分かちがたく一つとされているというのです。これは理想でも観念でもありません。具体的な現実存在だというのです。
キリスト教信仰はこの現実を指しているのです。単なる道徳律でも、行動指針でもない。現実存在だというのです。総括すると、「真理に基づいた正しく清い生活」という具体的な現実として、立ち現れるのであるから、そのようにせよと命じるのです。
6.具体的倫理の命令
1)偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
2)怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。
3悪魔にすきを与えてはなりません。
4)盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけせん。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
5. 悪い言葉を一切口にしてはなりません。
6.聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさ い。
7) むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
8)神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
9)無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
10)互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
7.神の聖霊を悲しませてはいけません。
これらの倫理的命令は、「具体的な人格更新の果実として、信徒自身に生起する出来事」です。
ここで、わたしたちは、「神との人格的な交わり」が言及されていることに注目したいと思います。
信仰生活は、現実的に神との交わりの生活なのです。だから、「聖霊を悲しませてはいけません」と言われているのです。信徒が、これらの倫理的果実を結ぶことなく、真理に基づく正しく清い生活という現実を生起させず、罪を重ねるとき、それはただちに、神さま、聖霊さま、イエスさまを悲しませることになるというのです。
信仰生活は、神の悲しみ・痛み、嘆きを、自己自身のうちにいきいきと感じる生活なのです。
8.個人は全体の体の一部
キリスト者共同体はキリストの肢体として一つの体の一部を、互いになしています。ということは、一部が痛めば全体も痛むのです。一部が悲しめば全体もまた悲しむのです。この痛み・悲しみは、ただちに神の痛み・悲しみとなるのです。神の痛み・悲しみを感得するならば、人は、人類の痛み・悲しみをも感得せざるをえなくなるでしょう。
一人の痛み・悲しみは全体の痛み・悲しみであり、神の痛み・悲しみなのです。
週報に、渡部良三氏のことを紹介しました。渡部氏の歌が今日わたしたちの目に触れることができるのは、戦争という罪深さのさなかで、キリスト者の痛み・悲しみをいまに伝え・遺されたことは、わたしたちにとって神の賜物です。これらの歌によって、わたしたちは主イエスの痛み・悲しみの片鱗に触れることができるからです。
祈れども踏むべき道は唯ひとつ殺さぬことと心決めたり
9.異邦人は、私自身のことであったと発見し、選び取る
今年も8月15日を迎えました。NHKが制作した『開戦前夜』が公開されて論議を呼んでいます。内閣直属、飯村穣中将を初代所長とする「総力戦研究所」を舞台としたNHKスペシャルドラマを映画化したものです。史実とはかけ離れているとして遺族の飯村豊元大使が飯村中将の名誉棄損を訴えておられます。
8月15日は敗戦の記憶を新たに更新する日です。なぜ、戦争をしてしまったのか。「総力戦研究所」が出した結論は、明確に戦争をすれば「敗戦」必至だというものでした。それでもなぜ、戦争をしてしまったのか。戦後81年にして、いまなお、わたしたちは真実を正確に知りません。渡部良三氏のような、人の証言はごくわずかです。
かつて同じ人間を殺戮した戦争を二度と起こさないために、「記憶を日々新たに更新」する決断を、わたしたちはすべきです。そして、「敵」だと教え込まれた人に、「神の似姿」を見つめなければなりません。力より正義を、支配より和解を、沈黙より真実を選び続ける必要があるのです。
だから、「異邦人」は、ただ外国人を指すのではなく、「わたし自身」こそが、「異邦人」に他ならないことを、発見し、選び取るときなのです。「もはや異邦人のように生きてはならない」という言葉は、「わたしこそが異邦人に他ならなかったからこそ、この異邦人たるわたしに人格の更新が起きることが確実ならば、世界のすべての人に人格の更新は必ず起きる」という意味に、「更新」されるでしょう。その選択は、一度では終わりません。世代ごとに、社会ごとに、教会ごとに、そして一人ひとりの良心の中で、何度でもなされなければならない。
八月十五日は、その決断を更新する日なのです。
2026年8月9日(日)(聖霊降臨節第12主日)
エフェソの信徒への手紙5章21節~6章4節
『家族』
21:キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
22:妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
23:キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
24:また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
25:夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
26:キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
27:しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
28:そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
29:わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
30:わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
31:「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」
32:この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
33:いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
6章
1:子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
2:「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。
3:「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
4:父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
1.古代社会の家庭訓
聖書が神の啓示を伝える書物だという信仰は、やはり堅持すべきです。ですが同時に、聖書もまた、言語という神の被造物であるという事実を忘れてはなりません。
被造物は有限なる存在ですから、無限なる神を入れる「器」あるいは「乗り物」としては自ずから限界があります。わたくしどもは常に意識しておかねばなりません。聖書イコール神の啓示という三段論法は成り立たないのです。
限界づけられた存在、特定の時代、特定の文化、特定の言語に限界づけられた書物として、そこに神の意志、神のみこころが、神の抜擢によって、啓示の出来事が生起すると信じて読むのです。
この意味で、今朝のテキストもまた、時代や文化状況に限界づけられらた「家庭訓」として、まず受け止めるべきでしょう。
つまり、ここで語られている家庭内倫理は、時を超えての普遍的・原理的な倫理ではなく、二千年前の地中海沿岸文化の社会の現実を背景に、その状況の中で、キリスト者共同体がいかに存在していたのか、いかなる家庭倫理を目標としていたのかを、示していると、受けとめることができるとすべきでしょう。脱時間的な、脱空間的な観念論ではないのです。そこに具体的な状況があり、そこには固有な個人が存在し、固有な倫理が語られていたと想定すべきなのです。だからこそ、その固有な時と場においてこそ、神の言葉の出来事が生起する、そういう言葉として、伝承されてきたと、わたしは考えています。
そうであれば、聖書の言葉を逐語霊感説のように金科玉条の不動の倫理として読むことは、明らかな誤読なのです。この時代は、家庭内に、奴隷身分の存在もいたのです。自分自身が「解放奴隷」であったり、現役「奴隷」身分の者であったり、はたまた「奴隷所有者」であったりしたのです。
2.このアナロギアをどう活かせばよいのか
キリストと教会という存在と夫と妻の存在がアナロジーで結ばれています。
23:キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
24:また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
25:夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
この「~のように」というということば、「同じような様子で」という意味ですが、これはキリストと教会の関係と同じような様子で、夫と妻の関係も「仕える」「愛する」ことを勧める言葉です。つまり、この言葉には、「類比」(アナロギア)の意味があります。
※2つ以上の事物にある似た点(類似性)を基準にして、一方の性質から他方の未知の性質を推しはかること、またはそのように例えて比べることです。英語の「アナロジー(analogy)」にあたります。
この類比は、夫婦の倫理を、キリストと教会と同じような関係となるように勧めているのですが、現代の社会通念から見るとき、この倫理観には、いわゆる家父長制的な時代的限界があるとみることができるでしょう。
キリストと教会の関係には、厳然とした格の違いがあります。キリストは神ですが教会は人間の共同体です。教会はキリストによって救われるべき存在です。キリストは救う存在です。その格の違いは明らかです。
この格の違いを前提として、夫と妻の関係を、「同じように」「仕える」「愛する」と勧めるのは、夫をキリストの立場、妻を教会の立場のようにという類比関係になりますから、自然と夫の方が格が上で、妻の方は格が下という具合に受けとめても仕方がありません。
こういう風に受けとめるなら男女の間には男性優位という格の違いを固定化します。性差による差別につながります。
ですから、この家庭訓を、そのまま現代社会に金科玉条のごとくに勧めることは、人類が営々とした歴史を通じて獲得してきた男女平等という人権感覚とは矛盾します。歴史を逆行させることはできませんから、わたしたちの聖書の読み方の「成熟」が必要となるのです。
それでは、この聖書の言葉、類比思想を、どのように現代の教会は受けとめ直せばよいのでしょうか。
3.理想と現実
おそらくこの「家庭訓」は、当時の状況のもとでのキリスト者共同体における「理想」的な家族像を、描いていると思われます。教会がキリストに仕えるように妻は夫に仕え、夫はキリストが教会を愛するように妻を愛するべきだという理想を、示そうとしているのです。
けれども、現実の信徒ひとりひとりに、キリストが教会を愛するという現実性を理解しているかと言えば、おそらく理解しているというより、「そのように信じている」各々が遙か彼方の理想を、限りなく高く追求すべしという「当為」(ゾルレン、まさになすべきこと、まさにあるべきこと)的な理想像だったのだと思うのです。というのは、神ならざる人が神が人を愛するようにと言われても、そのことを正確に知ることは不可能だからです。どこまでも、信仰においての認識に限られるからです。
また、現実の信徒ひとりひとりの家庭生活は、おのおの千差万別ですから、苦境にあるものも順境にあるものも様々であったことでしょう。現実の苦境のなかで、この理想像をいかに聴いたのか、いかに聴いたらよいのか。それが課題なのです。
その課題は、現代のわたしたちにも、同じように切迫する課題として共有できるはずです。
4.現実のさなかで、キリストの愛を見いだす
実際の夫婦の結婚生活、息子や娘との生活を生きるわたしたちが、相手との関係を、どのように保ち、どのように苦楽を共に生きているかです。
さし向かいの関係において、「わたしとあなた」(我と汝)の関係に、わたしたちはあります。この存在は、代替不可能な「我と汝」の関係にありますが、その根拠は、キリストと教会の関係こそが可能根拠だということが、キリスト者にとっては信仰内容なのです。キリストが教会を愛するようにというあの「類比」は、この前提を可能根拠としているのです。
「わたし」が妻を愛することが可能とされているのは、「キリストが教会を愛していてくださるという神の存在の出来事」を根源としているということなのだというのです。
この「私」は夫として妻を愛していられるのは、キリストが私を現に愛してくださっている愛が、この「私」を「私」あらしめている神が現実を実現させてくださっているということなのだというのです。言い換えれば、現に神に愛されている原点がわたしの存在に打ち込まれているからこそ、私は妻を愛するという喜びに生きていられるというのです。妻を愛させてくださるのは神なのです。
「わたし」が妻として夫を愛し得るのは、やはり、「キリストが教会を愛していてくださるという神の存在の出来事」が生起しているからこそ、夫を愛し得るのです。だからこそ、「教会がキリストに仕えるように」夫を愛すべしというのです。「仕える」という言葉が使われていますが、「仕える」ことは愛の具体化だからです。
夫婦は仕え合う「さし向かいの存在」なのです。仕え合うことが愛し合うということなのです。
「仕え合う」という具体的行為によって、愛のあり方が示されることによって、愛の抽象化も観念化も防がれます。
そして、具体的行為の指針は、古代も現代もありません。 状況を超えるのです。もはや古代的な家父長的権力関係は、キリストと教会の愛の交流を可能として「互いに仕え合う」「互いに愛し合う」という「当為」によって、克服されるでしょう。
現代のわたしたちも、古代の信徒たちも、はるか天より愛してくださっているキリストを仰ぎ見て、このキリストに愛されているという現実性を、信じることができるからです。
5.わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
教会は、キリストの肢体だと、わたしたちは信じます。教会とは、わたしたち自身なのです。わたしたちが、キリストの一部だから、わたしたち自身が教会なのです。
この信仰に、真実生きているなら、わたしたちは決して教会から離れることはありません。わたしたちがわたしたちから離れることは不可能だからです。
最近長年、教会生活をしながら、最後に教会生活から離れたという知らせを聞くことがありました。とても残念に思う一方で、「やはり」という思いもしない訳ではありませんでした。
教会から離れることができてしまうのは、「わたしがキリストの一部」だという信仰がなかったのだと思います。教会から離れる人は、自分と教会(キリストの肢体)とは別物だと思っているから離れることができてしまうのです。残念ですが、そういう人は教会生活をしている時でも、同じように、教会をキリストの肢体とは思わず、むしろ教会を自分の意のままに動かそうとする人でした。教会に仕えるのでなく、教会を自分に仕えさせようとするのです。
教会は自己実現の場ではありません。教会は単なる人の集まりではないのです。「わたしたちはキリストの体の一部」なのです。
29:わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
「キリストが教会になさったように」。この「類比」を現実に生きる者こそが、キリスト者です。「わたし」を「愛するということ」は、わが妻を、夫を愛するということ」に等しい。これが「信仰における類比」の実現です。
28:そのように夫も、自分の体のように妻(夫)を愛さなくてはなりません。妻(夫)を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
互いに愛し合うことは、とりもなおさず「キリストを愛しているということ」とまったく同義なのです。
6.天使のような存在として
12:マタイによる福音書/ 22章 30節
復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
3:マルコによる福音書/ 12章 25節
死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
最後に、わたしたちが、甦りの命にあずかる時には、地上生活の延長として、存在するのではなく、もはや性差という生物学的な被造性とは別の存在になうと、主イエスは明言されました。
つまり、夫とか妻という関係性は、地上生活にあってはそのような性差が存在して、結婚とか家庭生活を営んでいるけれども、来世においてのキリストと共なる永遠の生命にあずかる時には、もはやそのような地上性とは別の次元の存在となるというのです。
そのことを、主イエスは「天使のようになるのだ」と言われました。
ですから、地上生活においては、夫に、妻に、そのような被造的実体を通して、キリストを見いだしていたけれども、地上生活を離れて、来世においては、わたしたちは、復活の時までは、「眠る」のです。
その眠りから覚めて、復活のキリストの復活体と等しいさまに変えられると、「天使のようになる」と、主イエスは明言されているのです。
ですから、先に天に召されたわたしたちの愛する兄弟姉妹は、復活の時に至るまでは、静かに眠りについています。
「眠り」は新しい復活の生命を迎える朝に目覚めるための「あいだ」の時です。
この静謐な時のあいだに、愛すべき兄弟姉妹はおられます。だから、わたしたちは安心して、主イエスの復活の時を、共に待つのです。
わたしたちは、この地上において待ちます。
愛すべき兄弟姉妹たちは、来世において、復活の時を待ちます。
地上と来世で、共に待つのです。
そういう意味で、信仰生活とは、「待つ生活」なのです。
「待望の生活」なのです。
やがて必ず成就する永遠の生命に与り、主イエスと等しい様に変えられる希望に生きるのです。
7.信仰生活は待望の生活
地上生活は、その希望の時を、祈りつつ待望する期間なのです。
この地上の期間、わたしたちは苦境にあろうと、順境にあろうと、目標は、復活の時なのです。
やがて天使のようになる存在に変えられる時まで、この希望を、日々待ち続けることができますように、ともどもに祈りましょう。 アーメン
ヘブライ人への12章3節~13節
ヘブライ人への12章3節~13節
3:あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。
4:あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。
5:また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。
/「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
/主によって懲らしめられても
/弱り果ててはならない。
6:主は愛する者を鍛え
/子として受け入れる者を皆
/鞭打たれるからである。」
7:あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。
8:誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
9:さらに、私たちには、鍛えてくれる肉の父がいて、その父を敬っていました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10:肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。
11:およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。
12:だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
13:また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。
1.キリストの忍耐に倣う
祖父清水安三が遺した言葉をご紹介します。
「わが人生において学んだ一事。曰わく『忍』。」
すなわち、忍耐こそが、人生を通じてこの一事をこそ学んだというのです。
3:あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。
この聖句を読んだ時に、まっさきに浮かんだ事が、祖父の遺したこの言葉でした。
「よく考えなさい」。熟考せよという勧告です。「キリストの忍耐について熟考せよ」と命じているのです。わたしはただ親族だからという意味で祖父を敬っているのではないと自らを戒めていますが、人生の師と呼ぶ人がわたしには幾人かいます。清水安三、小野一郎、岡山孝太郎と思い浮かべるとすぐ脳裏に浮かんでくるなかの一人として、わたしは歩んできました。
祖父の人生は、わたしのいわばロールモデルだったのです。
※具体的な行動や考え方のお手本となる人物のことです。仕事や人生で「あの人のようになりたい」と目標にする存在を指します。
この方々は、いずれも牧師です。この方々の究極的な目標は、すなわち主イエス・キリストです。だから、つまりは究極的な目標は、キリスト・イエスなのです。この方々は、遠いところにいますイエス・キリストを、近くへと引き寄せてくれた人生の先輩なのでした。
わたしたちの人生にとって、尊敬できる人生の師、先輩がいることがどんなにか大切でしょうか。
歴史の転換点で、人生の師・先輩が、キリスト者として、いかに生きたのか。いかに主イエスに従ったか。そのことを考えずにはおれません。
二千年前のはるか遠くにいましたもう主イエスならば、今・この時をいかに判断し、いかに行動したかを考えることには、自ずから遠さから来る限界があります。けれどももっと身近な尊敬する人生の師・先輩は、具体的な指針を与えてくれます。
わたしたちの人生行路は生涯をかけて、キリストにならいて生きるものです。途中でやめることはゆるされません。
ゆるされないということは、実は途中でやめることができない、不可能だという意味です。途中でやめれば罰があるとかそういう意味ではありません。その「不可能なこと」ができてしまえるとしたら、それはおそらくはじめからキリストに倣う生き方を、実はしてはいなかった、とわたしには思えるのです。つまり、キリストに倣う、キリストに従うという生き方ははじめと終わりが一つなのです。キリストに従う生き方をしようとした人は、かならず最後までキリストに従うのです。キリストはアルファでありオメガでありたもうお方だからです。
キリストに従う、キリストにならう人生は忍耐の人生だというのです。「罪人の反抗を忍」ばれたキリストの道にならう、従う道は、「忍耐」の道です。
裏切られ裏切られ、罵られ罵られ、憎まれ憎まれ、最後は殺される。これがキリストの道でした。この「苦難の道」こそが人類への愛そのものだったのです。
だから、わたしたちがキリストに倣う・従う道を生きるとしたら、キリストが歩まれた道、忍耐の道を熟考し、そしてキリストが歩まれたごとくに、「苦難の道」を行く事に喜びと感謝をささげられたなら、これ以上の栄光はありません。
「わたし」の人生にキリストが「現在」しておられるからです。
キリスト教的人生は、主にある苦難を慕う人生なのです。
2.格闘の人生
4:あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。
この聖句は、古代における拳闘試合を暗示しています。試合の相手は「罪」です。「罪」が擬人化されているのです。古代ローマの剣闘士の試合は殺し合いでした。殺すか殺されるかでした。古代の拳闘試合のグラブには金属が入っていたそうですから、殴り合えば血が流れます。血みどろの試合だったようです。この聖句には、「血を流すまで」とあるのは、「罪」という相手と血みどろになって闘うイメージを呼び起こして、信仰生活上、「血を流すまで」の試練を、いまはまだあなた方は経験してはいないが、そう遠くない時期に、信仰ゆえの迫害にさらされるかもしれない。そのとき、あなたがたは、その苦痛・苦難に耐え忍ぶことを覚悟しなければならない。そういう事態に遭ったとしても、あなたがたはその時こそ、キリストの忍耐について、熟考しなければならない、と勧告しているのです。
まさにそれは「死闘」なのですと、覚悟をもって、キリストの忍耐について熟考せよといっているのです。
3.人生の転換点・歴史の転換点
このような決定的な出来事が、人生行路において、そうしょっちゅう起こるものではないかもしれません。他方常に限界状況におかれている人もいることでしょう。
わたしが問題にしたいのは、ここぞという時に、キリストの苦難に倣う生き方、従う生き方を選択・決断することができるかいなかということです。
本日は日本基督教団が定める平和聖日です。
わたしたちにとって日常生活が平穏無事に過ごせることは何よりも幸いの証しです。日々の平安を願うことは当然です。しかし、人生には、歴史には、どうしても避けられない決定的な時があります。
1941年12月8日、1945年8月6日、9日、1945年8月15日・・・・。いずれも歴史の転換点です。こういう日に、わたしたちも、いま、実はいるのかもしれません。人生が、そういう決定的な日に、主イエスに倣う選択と決断がはたして、自分にできるだろうか。でもそういう具体的な事が、人の人たる「証し」なのではないだろうか。そう思ってしまいます。
いつ人生の転換点・歴史の転換点がおとづれるか、わたしたちにはわかりません。広島や長崎で、一瞬にして消えてしまった何万もの人々も、同じだったことでしょう。
何百キロも離れたところから飛来する爆弾が、平穏な日常を瞬時に破壊するという事態は、世界中のどこかで起きています。もし、わたしがあの時代に生きていたら、おそらく無邪気に日本の勝利を疑わなかったかもしれない。そんな事をふと考えたりします。そうであってほしくはありませんが、自分がそれほど英明だとも思いません。ただ、キリストに倣う生き方、従う生き方をしたいと願うのみです。
4.子に対するように
5:また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。
/「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
/主によって懲らしめられても
/弱り果ててはならない。
6:主は愛する者を鍛え
/子として受け入れる者を皆
/鞭打たれるからである。」
5節6節は箴言3章11~12節からの引用です。
古代パレスチナ人の子育てには、「鞭打ち」があったようですが、この時代は、現代よりはるかに戦争による「死」が身近に感じられていたのだと思います。不意の襲撃に対抗するためには、日頃から闘いの訓練は欠かせなかったのだと思います。そのような危機に対応することは当然で、「鞭打ち」が子育てにとって必要だったのでしょう。日頃から苦痛に耐える力を鍛えておかねばならなかったのです。
ただし当時の感覚を現代にそのまま適用することは誤りです。箴言の「子育て」「鍛錬」法は時代の要請であったし、こども自らが自分を守る術を鍛錬しなければならなかったからです。父親が権威をもって、こどもに「鞭打ち」などの「鍛錬」を必要としたのは、それなくしては生きられない世情があったからで、こども自らが自分を守る術を獲得しなければ、生きていけない時代であり、文化だったと考えられるのです。親が生きるための力を子に獲得させるべく「鍛錬」(パイデイア)するのは、愛の証明でもあったでのでしょう。
5.肉の親・霊の親
7:あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。
8:誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
父よる「鍛錬」は、ゆえに愛からくるものとして扱われています。 ここでは「鍛錬(パイデイア)」が直接意味するのは、「苦難」です。これから遭遇するであろう迫害、苦難を、どのように受けとめ、どのように乗り越えてゆくのか。それをただ単に、「この苦しみよ早く去ってくれ」と祈るだけではない、受け止め方がある。それは、神の愛による「鍛錬」なのだよ。だから、この「鍛錬」としての「苦難」は、神が、「わたし」を子として愛してくださっている証しなのだよと、受けとめ直すならば、その苦しみをどう受けとめ、乗り越えて行けるか、まったく違ってくるというのです。「鍛錬」、パイデイアという言葉は、本来、「こども」を意味する言葉を語源としています。「こどもを教育する」という意味の言葉です。
/「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
/主によって懲らしめられても
/弱り果ててはならない。
このみことばは、神の愛による鍛錬を軽んじてはならない。主によって「懲らしめ」られる(つまり鍛錬される)ことの意味を正しく受けとめなさいという勧告なのです。肉の親でさえ、愛する子を鍛えるのであれば、霊の親であられる神はなおさらだというのです。
10:肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。
神が神の聖性に、わたしたちをあずからせてくださる。すなわち、キリストの聖性がわたしたちに「現在」(立ち現れる)ようにしてくださるというのです。
6.「まっすぐな道を造る」
11:およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。
鍛錬された霊的聖性こそ、わたしたちの人生行路の目標です。
12:だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
13:また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。
最初に申し上げたように、キリストにならう、キリストに従う(信従)は、キリストの聖性が、わたしたちの人格に立ち現れるための「道」です。キリストがアルファであり、オメガです。ゆえに、キリストに従う「道」は、はじめもキリスト、終わりもキリストなのです。そうであれば、この「道」には、「苦難」「鍛錬」は不可避です。しかし避けられないとはいえ、決して途中で挫折することは不可能なのです。なぜなら、この「道」の真の主体は、キリスト・イエスだからです。
たとえ、崩折れるような時があっても、たとえ足が萎えても、たとえ手が萎えても、主イエスがまっすぐにしてくださるのです。まっすぐにしてくださるというのは、足や手が、たとえ萎えても、そのままであっても、主イエス・キリストが「まっすぐにしなさい」と命じている以上は、たとえ手足が萎えたままでも、霊的聖性においては、「まっすぐに」してくださるという意味です。
それは、「苦難」「鍛錬」の目的は、わたしたちを傷のない、汚れのない神の聖性にあずかることだからです。
「まっすぐ」の意味を熟考し、確信して人生を走り抜きなさいと、主は命じておられるのです。
「不自由な足が道を踏み外すことなく」というのは、教会共同体から離れてしまうことなくという意味です。
キリストに従うことから外れることは、本来不可能なはずです。キリストこそが、わたしたちの人生行路の主体者であられるからです。しかしながら、主の主体者でられるキリストに「反抗」する「罪」が存在することもまた事実です。だから、最終的な勝利者はキリストです。
しかし、キリストに反抗する「罪」もまた健在なのです。だからこそ「死闘」なのです。「罪との格闘」なのです。この「罪」との格闘のさなかで、わたしたちが「道」を踏み外すことがないように、「自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。」と命じられているのです。教会共同体から離れてしまわないように、「まっすぐな道を造りなさい」と言われる。
「まっすぐな道を造る」ということは、具体的には、日々聖書を読み、祈ること。礼拝すること。自己奉献の証しを立てること(献金)。聖餐にあずかること。伝道することです。
7.いつ天に挙げられても
世界の終わりは必ずきます。「わたし」の地上生活の終わりも必ず来るのです。それがいついつかかは誰にもわかりません。しかし必ず来ます。この決定的な転換点(地上生活から天上生活への転換点)は神の支配のもとにあります。このときを、パウロは待ち遠しいと言いました。キリストの聖性が彼を占領していたから言えた言葉だと思います。
神共にいますことは、無上の喜びだと確信していたのです。
いつおとづれるかわからないこの瞬間。戦争や地震災害でこの転換点を迎えた人々には、この瞬間すら知る事なく、転換点を迎えることでしょう。
わたしにもこの瞬間がおとづれるときに、主イエスと相まみえる喜びを感じるいとまも、もしかするとないのかもしれません。
たとえそうであっても、わたしは信じます。来世において、キリストと共にあることを信じます。
こう信じる幸いを感謝します。
いま、このとき、苦難のなかにおかれた人々、戦火のなかにある人々、被災による避難生活を余儀なくされている人々、これらすべての人々が、キリスト・イエスの「道」を見いだすことができるように祈ります。 アーメン
2026年7月26日 (聖霊降臨節第10主日)
コリントの信徒への手紙Ⅰ12章14節~26節
『キリストの体』
レコーダーの不調で音声動画をアップローできませんでした。
2026年7月19日(聖霊降臨節第9主日)
コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1節~10節
『神による完全な武器』
『神による完全な武器』
コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1~10
1:わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
2:なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
3:わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、
4:あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、
5:鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、
6:純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、
7:真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、
8:栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
9:人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、
10:悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
1.地上生活は「あいだ」の生
わたしたちは、地上の生活のあいだを生きています。この世に生を受けて、肉体が朽ちて土に還るまでの「あいだ」が、わたしたちの地上生活です。
この「あいだ」には楽もあれば苦もまたあることは誰しも避けえないものです。ただ地上にある「あいだ」は、人と衝突しても、反論することもできますし、衝突を避けることもできます。わかりあえることもあれば、距離を置くしかないこともあります。かかわることもかかわりから逃げることも可能です。
しかし、この「あいだ」の時間は限りがあって、いつかは「あの世」「来世」へと生命を移す時がやってきます。
その時は、ただ神さまだけが知っていて、支配してくださっている神のみこころにのみかかっている事柄です。
わたしたちは、その「時」が、いつ起こってもよいように、準備しておかねばなりません。そういう意味で「あいだ」の時間は、その決定的な「時」を迎えるための準備期間と言えるでしょう。
つまり、わたしたちは、やがておとずれる「時」、神のみもとへと帰還する決定的な「時」を迎えるために、準備し、覚悟してこの世の地上生活を営んでいるのです。
2. 反論できない立場
人は、突然おとずれる「時」にむけて生きています。
地上生活を終えてなお、非難中傷、人格攻撃を受けるということも、人には起こり得ます。「死者をむち打つ」」行為という言葉がありますが、死んでなお攻撃されるという事も、世間にはあります。むしろ死んでしまえば、いくらでも嘘偽りであっても攻撃できてしまえるので、卑劣な人は死後にデタラメで死んだ人を辱めることをしたりすることも世間にはよくあるものです。
※死屍に鞭打つ(ししにむちうつ)
死者の言動や行為を非難することをいう。中国の春秋時代、楚(そ)の伍子胥(ごししよ)は父と兄を平王に殺されて呉に逃れ、呉の力を借りて報復しようとしたが、平王の没後であったため、その墓を掘り起こして死屍を鞭打ち仇(あだ)を報いたという故事による。
そうした場合、死んでしまった人には弁明の機会がありません。「反論」しようにも不可能なのです。
「草場の陰で泣いている」という言い方が古来ありますが、反論できない故人に変わって戒めている訳ですが、死んでしまってから、「この世」に死んだ人が登場するという思想は、聖書から引き出すことはできません。「この世」と「あの世」は、行ったり来たりできない絶対不可逆なのです。
ということは、死んでから後に、「死者にむち打つ」ような中傷・攻撃を受けても、いっさい反論とか弁明はできないのです。それでは、いったい誰が死んで逝った人の名誉を守ることができましょう。
3.左右に偽の武器を持ち
パウロの覚悟について考えてみましょう。「信仰即宣教」ということを、先週学びました。信じて生きるということは、準備・覚悟だということを、今日は教えられます。
いつ神に召されても、つまりこの世の生を終えて、あの世へと旅立ったとしても、構わないという準備・覚悟をもって地上生活を送りなさいということです。
死後において、反論できない立場になったときにも、どのような悪評、中傷、攻撃を受けたとしても、そのことに影響を受けることなく神の御許へと赴くという準備・覚悟をもちなさいということです。
そのことを、パウロは、「真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち」と言っています。
8:栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。
4:あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。
あらゆる場合ですから、この世であろうとあの世であろうと、その覚悟においては同様です。いかなる辱めにも、悪評にも、そしてそれが好評や名誉であろうと、変わることなく、「神に仕える者としてその実を示す」というのです。
4.栄誉だろうと辱めだろうと変わらぬ覚悟
二千年も昔の人の言葉だと思うと、実に驚くべき自己認識です。この言葉は、「自己実現」の超克が含蓄されているからです。ここには「生きがい」とか「自己実現」とか、そのような結局は、自己願望の達成が動機として微塵も存在していません。パウロの自己認識は徹頭徹尾、「神に仕える者」なのです。「栄誉」を得たいとか「好評」を博したいという他者による賞賛を求める名誉心の達成など、眼中にないのです。そして、「辱め」を受けることも、「悪評」を浴びせられることも、彼を脅かすことはないのです。「真理の言葉」「神の力」が、「神に仕える者」の「義の武器」であり、「神の武具」なのです。神の武器、武具に守られているから、好評も悪評も、彼にとっては脅威ではあり得ないのです。
5.パウロが受けていた具体的苦難
わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
9:人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、
ここには、パウロが受けていた苦難が具体的に語られています。すなわち、パウロは「人を欺いている」と非難されていたということです。パウロは、ある人々から見た時、「欺いている」と見られていたということです。主イエスの福音を語ることが、「人を欺いている」行為と見なされたということです。彼は、その非難・悪評に直面しても、どこまでも誠実であろうとしています。これがパウロの神の武器による霊的闘いなのです。
パウロは「人に知られていない」ことに落胆もしていませんし、宣教の「失敗」だとも思ってはいません。パウロから福音を聴いて信じる者が、たとえ皆無であっても、動揺したりしません。聞く耳のある者は聴いて信じるのです。神が聴く耳を与えるからです。神が選び分かち、パウロの語ることに耳を傾け、神は福音を信ずる者を起こしたもうから、その者には、よく「知られている」のです。その者は、パウロを通してキリスト・イエスを知っているのです。
パウロは、福音を語ることによって、命を奪われそうになりますが、神がパウロを生かしたもう以上は、決して殺されはしません。
パウロを、罰しようとする者たち、迫害者たちが次々に現れても、パウロは動ずることはありません。迫害者たちを、かえってキリスト・イエスの愛をもって愛したはずです。彼らは、かつてのパウロ自身でもあるのですから、なおさらです。
パウロは、殺されてはいませんが、死を恐れてもいません。死は神だけが与えることができると確信しているからです。
6.悲しみのなかにあって喜ぶ喜び
10:悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
パウロに悲しみがなかった訳ではありません。嘆くことも悲しむことも苦しみには伴います。
苦難、欠乏、行き詰まり、5:鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、
これは苦難のリストです。彼が具体的に受けていた苦難です。この苦難に悲嘆がなかったはずはないのです。ところがパウロは、この苦難の経験に遭いながら、「常に喜」んでいました。この苦しみも主が味わった十字架の苦難に少しでもあやかる経験であるなら、感謝の他はないとパウロは喜んだに違いありません。
パウロには財産というものがありません。ただ神が彼を養ってくださると信じていただけです。無所有の彼は、しかし、多くの人の財産を増大させることができたというのです。彼は貧しい人です。無一物だと自分で明言しています。ところが無一物であっても、その貧しさをもって。「すべてのものを所有している」と自覚しているというのです。
なぜなら、一切の被造物は、神が創造したものであって、神の所有するところの「もの」です。パウロが全面的に一切無所有を貫くのであれば、逆に言えば、一切無所有は、一切が神の所有であるから、神に仕える者と確信しているパウロには、一切が神のものであれば、必要なものはすべてご存じである神は、我が身が生きながらえるに必要なものは、彼には必ず与えられる。そう信じているならば、彼は神の所有を信ずる者として、「すべての者を所有している」と表現しても罰は当たるまいということです。
7.キリストの苦難と共に生きる喜び
6:純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、
キリスト者の喜びは、キリストとひとつの存在であることの喜びです。この喜びは、「神に仕える者としてその実を示す」喜びです。人間的な「承認欲求」ではなく、キリストと一つであることを願い求める祈りが喜びとなって実を結ぶのです。
より、具体的には,パウロ自身がこのように表現しました。
「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛」です。これらすべては「聖霊」による賜物です。
「純真」ひとつとっても、この態度を貫くことは人間的動機によってはできないでしょう。ただ神の力によってこそ、「純真」は人格に反映するのです。
「知識」、単なる好奇心はこの「知」の源にはなりません。「信仰知」です。信仰は「信仰知」を求めてやまないのです。(アンセルムス)主を信ずるからこそ、より深く主イエスを知ろうとするのです。
「寛容」、「寛容」を貫けば、この世では「苦難」を避けられません。「寛容」は自らに罪をおかす者を赦すことを必ず伴います。赦しても罪人はまた罪を犯すかもしれないのです。そうであれば、「赦す」ことは、再び「苦難」をわたしたちにもたらすでしょう。それでも「寛容」は、キリストが限りなき「赦し」を与えてくださったゆえに、わたしたちも「寛容」の実を結ぶことができるのです。「苦難」を引き受ける覚悟・準備こそが、キリストに近づくみちなのです。
「親切」、報いを望まずよきサマリア人の譬えのごとく、世話をすることも、覚悟・準備が必要なのです。サマリア人は、傷ついた人を助けましたが、「復讐」に狂い立つ親族は、サマリア人を襲撃する危険がありました。助けたのに助けたことによって殺されることすら、この世にはあるものです。報いを望まないだけでは親切は貫けません。親切で苦難が待ち受けているかもしれないからです。ナチスの迫害の元で、ユダヤ人を匿うことは、自分たちへの迫害を覚悟しなければ不可能でした。
「偽りのない愛」は、愛の定義によっては起きません。愛の概念をいくら研究しても、それは無駄というものです。聖霊の働きがあってこそ、愛は偽りから決別できるのです。
これらの「実」はすべて「神の力」「聖霊」によるのです。聖霊の実は、苦難を引き受ける準備・覚悟を必ず伴います。キリスト者の喜びは、キリスト・イエスの十字架の苦難に、いくらかでもあずかること喜ぶ喜びなのです。聖霊の降臨は、かならずそこにキリストの肢体なる教会を起こすのです。教会にしっかりとつながっていることが大事なのです。