2026年2月15日(日)(降誕節第8主日)
『奇跡を行うキリスト』
マルコによる福音書4章35節~41節
『奇跡を行うキリスト』
マルコによる福音書4章35節~41節
35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
1.「向こう岸に渡ろう」
象徴的な、主イエスの言葉である。
仏教には、彼岸という言葉がある。対する言葉は此岸である。
対岸は、仏教では涅槃だという。
「彼岸へ渡ろう」と言い換えれば、イエスの言葉の意味は想像が広がるだろう。涅槃は楽園になる。
しかし、涅槃と楽園とでは、大きな違いがある。
涅槃は「悟りに至るための越えるべき渇愛や煩悩の例えである川の向こう岸」であるが、他方「楽園」は、神の恵みによって招じ入れられる世界である。涅槃は、人が越えるべき「渇愛や煩悩」の向こう岸であるが、楽園は、神が人を招き入れる向こう岸だ。人の「悟り」と神による「救い」の違いと言ってもいいかもしれない。「自力」と「他力」と言い換えられるかもしれない。
2.「群衆を後に残し」
群衆は、言うなれば見捨てられたという見方もできる。群衆はイエスの一行についてきた人々の群れである。余暇のあいまに物見遊山に来ているのではない。それぞれが意を決して犠牲を払ってでもイエスに期待を寄せてここまでついてきた。真剣だったはずだ。
彼らは岸に置いておかれ、イエスの一行が舟に乗って遠ざかってゆくのを、どのような思いで見ていたであろうか。見捨てられたという思いをもったとしてもなんら不思議ではない。
その意味で「向こう岸へ渡ろう」と言われた主イエスの言葉は、彼岸への号令であったけれども、その号令には、群衆を置き去りするという人情を断ち切る非情さがあったと見ることができよう。
号令に従って、イエスを舟に乗せた弟子たちも非情だ。群衆がどれだけ、イエスを慕い、期待してついてきたか、彼らは身近に知っていたであろう。しかし、彼らは非情なイエスに従順に従うだけだ。
3.この非情さは
信仰の世界は不可解なところがある。ここに見られるイエスの号令に暗示される非情さも不可解だ。神の愛を説くイエスの非情さは不可解だ。癒していただきたいとの一心な思いでついてきた群衆を置き去りにする。どのように理解したらよいのか。
わたしはこの非情さが神の独り子としての愛から起源するものだと考える。愛には「境界線」がある。
群衆の一心さ、一途さの根底には「依存心」がある。依存心は、人格の成長を妨げてしまう力がある。主イエスは群衆をご自身に依存させようとはされなかった。主イエスは神の愛によって、人格を解放し、成長を促すことを願っておられたのだ。
当時の人々にとって、病も障害も罪の結果だと考えられていた。癒されることは、すなわち罪からの解放を意味していた。しかし、主イエスは病も障害も、罪の結果なのではないと、人々の癒しを行いながら宣言し、実現されていた。たとえ病であるとか障害であるとか、人がそのことで苦しんでいたとしても、それは罪のせいではない。神の栄光が顕れんがためだと諭された。病や障害を癒すことで、人々に依存心を起こすことのないように、距離を置かれていた。
ここで、「彼岸への号令」をかけられた主イエスの行為は、群衆が依存心に固執することのないように、距離を置くためであった。人々はイエスに見棄てられたと思うかもしれない。しかしそれこそが依存心の現れなのだ。主イエスは、人々に、病も障害も、罪の結果なのではなく、神の業が我が身に顕れている現実をまっすぐに見つめ直す猶予を与えているのである。
信仰は、人格の成長を意味する。人格の成長は、自分自身をまっすぐに見つめ直し、幸も不幸も正しく受けとめ、生き直す力だ。
主イエスは、群衆にその機会を与えている。ご自身と人々のあいだに、心情を交わし合うことが愛なのではない。神と人とを的確に愛する方法を身に着けることを促されているのである。
4.激しい突風が起こり舟は波をかぶって、水浸しに
湖とはいえ、激しい突風によって転覆や破船が起こらないとは言えなかったようだ。弟子たちは主イエスに向かって救助(?)を求めている。
イエスは艫のほうで眠っていた。
嵐の中でのゆうゆうと眠るイエスの姿には、神の権能が顕れているが、弟子たちには、そうは見えていなかったようだ。
助けを求めているようでもあるが、窮状を訴えているようにも見える。嵐のなかで、弟子たちが今にも遭難するような状況なのに、それにも拘わらず眠っていることへの非難にも見える。おそらくそれらのどれもが混じった気持ちだったのだろう。
40節の「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とのみことばは、嵐を鎮めたあとの言葉とされているけれども、わたしには、このときの言葉のほうが相応しいように思える。弟子たちは、暴風のなかでゆうゆうと眠っておられる主イエスをみて、その姿に神の権能を見なければならなかった。それなのに、イエスの姿を見て、むしろイエスを非難しているからだ。
38節が弟子たちの非難をよく示している。「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。」
これはおかしなことを言うものだ。弟子たちだけが溺れ死ぬかのような言い草である。舟が遭難すれば溺死の危険性は、乗船している全員にあるはずだ。そうであればまっさきに自分たちの師である主イエスのことを心配してもよさそうなものなのに、自分たちの危険だけを訴えている。もうこれで弟子不合格だろう。
5.「激しい突風」「水浸しの船内」が象徴するもの
嵐を静めるイエスの姿は、ただ自然を統べ治める権能者としての神性を顕すという出来事にとどまらない。たしかにここで主イエスは神の全能性を明確に示された。この出来事を人間の想像の産物に落とし込む人も多くいることであろうが、わたしには、それこそが知的怠慢ではないかと思うのだ。
この出来事が虚構ではないことは、わたしには自明に思われるのだ。この出来事には、弟子たちという当事者が存在する。弟子たちの固有名は省かれている。古代教会の礼拝のなかで、マルコの記述に結実するまでに史実として伝承されてきた時間がある。その時間はそれほど長くはない。長くはないその歴史時間に、弟子たちの不信仰な言葉を含めての伝承が伝承され続けてきたことを考えると、核となる出来事がまったくの人の想像の産物であったことはおよそ考えられない。しかもその時代は、迫害がもっとも激しい時代だったはずである。
信仰するだけで生命の危険がある時代に、誰かの想像の産物を命がけで信じ伝えてゆくことに、誰がかけたであろうか。わたしにはあり得ないと考える他はない。
そうなのだ。この出来事の伝承を教会が礼拝ごとに暗唱し、繰り返し伝え続けた時代こそ、信仰者たちが時代の「嵐」のなかに放り投げ込まれていた時代だった。マルコは、その嵐の中のキリスト者共同体そのものが、この出来事のなかでの水浸しの船内そのものと,共時的に体感していたのだ。彼は、幾人もの兄弟姉妹が処刑されてゆく時代状況のなかで、全能者として堂々たるイエスを、畏敬の念をもって想起していたに相違ないのだ。
そして現代のわたしたちもまた、時代の暴風にさらされている。パレスチナで、ウクライナで、ミャンマーで、神の子たちが、殺されつづけているからだ。
この世に生をうけたすべての人は、神の子だ。信ずる宗教とかイデオロギーとか、そのような表層的なもので人を分かち、隔てることは主イエスの願いではない。ムスリムであろうと、ブッデイストであろうと、コミュニストであろうと、神の創られた神の子なのだ。
神の子たちが、今も嵐の中で命の危険にさらされ続けている。
7.起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」
主は起き上がる。風を叱る。この行為は激しくわたしたちを鼓舞してやまない。神はわたしたちの困難な世界で、起き上がってくださるというのだ。そして、吹き荒れる脅威の世界に対して叱ってくださるというのだ。
私たちは、主イエスの起き上がってくださるときを待ち望んでいる。主を起き上がってくださいと。主よ世界を脅かす脅威を叱り飛ばしてくださいと。願わずにおれません。
わたしたちは、あの出来事を体験した弟子たちのように恐れたりはしません。むしろあなたの恐るべき力を待望します。
世界の、いま起きている嵐をしずめてください。あなたならおできになるのですから、みこころならばお願いします。もしそれがみこころでないのなら、この世界の脅威に立ち向かう誠実さを私たち人類にお与えください。