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2026年4月6日月曜日

2026年4月4日土曜日

 2026年4月5日(日)(復活日主日)

   復活日主日

『キリストの復活』

マルコによる福音書16章1節~8節

主イエスはここにおられない。


マルコによる福音書16章1節~8節
1:安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエ
    スに油を塗りに行くために香料を買った。
2:そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
3:彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」
    と話し合っていた。
4:ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に
    大きかったのである。
5:墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたの
    で、婦人たちはひどく驚いた。
6:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ
    のイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられな
    い。御覧なさい。お納めした場所である。
7:さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたよ
    り先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかか
    れる』と。」
8:婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、
    だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。







1.弟への想い
    先月15日に、わたしの弟は、わたしより先に天へと旅立ちました。弟は
エンバーミングという処理をされて、死後1週間後の主日に、わたしの司式
で、家族に囲まれながら最期の告別式を迎えました。
  エンバーミングとは、遺体は死後硬直のあと、急速に腐敗するので、全身
の血液を防腐剤と入れ替え灌流固定することを云うそうです。この処置によっ
て、死後の自己融解を最小限に抑え生きた状態に近い形態を保持することがで
きるということでした。
 遺体となった弟は、驚くほど母に似ていました。やがて、私自身もこのよう
に看取られる日が来るのだなと思いつつ、幼き日からの彼との思い出が、走馬
灯のように思い起こされるのでした。
 そして、思ったものです。弟も主イエスに愛されていたなと。神から愛され
たからこそ、人々を愛する医師という仕事をこよなく愛したのだと。
 そんな弟が、神のみもとへと旅立ったのだと、わたしは心から願い祈りまし
た。
 
2.イエスの死後も大祭司は恐れていた
   主イエスが十字架上で絶命された翌日から、ユダヤ教の安息日だったの
で、イエスの葬りは慌ただしく執り行う必要がありました。最高法院の議員で
もあったアリマタヤのヨセフが、許可を得て、主イエスの遺体を引き取り、し
かるべく丁重に葬りました。墓は大きな岩をくり抜いた大きなものだったよう
です。入口は大きな石で塞がれ、ローマの封印がなされたことでしょう。遺体
が盗まれることを恐れたのです。墓場には見張りが配置されるほどに用心深く
警護されたのは、イエスが復活すると予言していたからです。
 大祭司カイアファらは、主イエスを神の冒涜者として殺害すべしと目論んで
いた反面、イエスの死後も、イエスの存在に脅威を感じていたのです。
 本当に復活したとしても、弟子たちによって遺体が盗まれたにせよ、どちら
であろうと、イエスの影響力が雲散霧消するとは思えなかったのです。
 死人を甦らせたイエスだ。自分自身が甦らないとは限らない。心の片隅で
は、イエスの復活をなかば信じ、なかば恐れていたのです。だから厳重な警備
を要請したのです。
 事柄上、それゆえ、甦りが信じられるか信じられないかという問題ではなか
ったのです。ファリサイ人は死後の復活を信じていました。イエスは復活する
かもしれない。
 そう彼らが半ば本気で信じていたと、わたしには思えるのです。けれども、
イエスが復活したとしても彼らにとっては、イエスがキリストであるという信
仰の告白には至らない。復活の主イエスに出会ったからといって、即信仰に至
らない者も実際にはいました。だから、復活が信じられるか信じられないか
は、敵対者たちには問題とならない。もし、本当に復活したのであれば、それ
はイエスの弟子たちの隠謀論だと噂を流せばよい、そう彼らは考えたからで
す。
 敵対者たちが、主イエスをキリスト(メシア)と信じるようになるために
は、神御自身の選びの御業をたまわる出来事が生起しなければなりません。そ
して、その出来事が起こらないとも限らないのです。現実に、敵対者であった
サウロは、復活の主に出会い、瞬時に信じる者へと変えられたのです。

3.油を塗るために
 厳重に見張られていた主イエスの墓に、マグダラのマリア、ヤコブの母マリ
ア、サロメらが、週の初めの朝早く、向かいました。
      彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょ
      うか」と話し合っていた。(3節)
  女性の力では、到底重い石をどかせることはできませせん。彼女たちは入口
を塞いでいる大きな石をどかす算段など何も考えずに、ともかく入口まで行っ
たということになります。思慮が足りない。助けのあてもないのにも関わら
ず、駆けつけたという風情です。混乱していたのです。
 香料も買ったようですが、決して安価なものではないはずなので、彼女らに
とってイエスがどれほど慕わしい存在であったかをうかがわせます。それにし
ても婦人たちの行動力には驚かされます。決して思慮深いとは言えませんが、
その即座の行動の素早さは、彼女らの思いの深さ、強さを感じます。
 それにしても、入口の石をどうやって動かすつもりだったのでしょうか。も
し石を動かす助けがいなかったら、彼女にはどうすることもできないでしょう
に。あとさきを考えず、ともかく行こうではないか、という行動には無謀さす
ら感じます。
   内臓は死後6時間後には既に腐敗が始まり、48時間後には自己融解する
と言われます。主イエスも死後48時間をゆうに経過しているので、自己融解
し、遺体ならば、強烈な腐敗臭や血液が漏出している状態になっていても不思
議ではありません。
 どんなに高価な香料でも、強烈な腐敗臭を防ぐ事は困難だったろうと思いま
す。焼け石に水です。それでも、彼女らは、ご遺体に一目会いたいとう思いで
墓に来た。
  それにしても、なぜ男の弟子たちは動かなかったのか。まだ恐れていたの
か。婦人たちの決然とした行動力とは、あまりも対照的な男の弟子たちの姿で
す。

4.転がされていた入口の非常に大きな石
      ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は
      非常に大きかったのである。(4節)
   「目を上げてみると」とあるので、墓は小高い丘の中腹にあったのでしょ
うか。
 あるいはもっと象徴的な意義を表象しているのでしょうか。つまり、彼女ら
は、「上」を仰いでいるのです。彼女らは、ただの石の移動後の状況を見たの
ではなく、神の大きな力を見たということです。彼女らは自力では到底動かせ
る筈もない大きな石であったにも拘わらず、途轍もなく大きな力が、この状況
下で人力をはるかに超えた力が働いて、非常に大きな石が転がされているとい
う驚くべき現実をみたというのです。
 既に、封印が解かれて入口から大きな石は転がされていました。
   彼女らは、神の啓示の出来事を、ここで既に経験しはじめていたというべ
きです。なぜなら、入口の石は、神の力でしか転がすことは不可能だというこ
とは、彼女たちは知っているからです。墓の中に入ること自体が奇跡なので
す。

5.白い長い衣を着た若者
      墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見え
      たので、婦人たちはひどく驚いた。(5節)
  わたしたちはあえてマルコによる福音書の記述だけを通じて、神の啓示の出
来事を黙想しましょう。
 墓の中に、彼女たちは入って行きます。
 ここに遺体独特の腐敗臭の痕跡すら書かれていません。それどころか、主イ
エスのご遺体は影も形もありません。すなわち、主イエスはここにはおられな
いのです。
 そればかりか、彼女たちを驚かせたのは、白い長い衣を着た若者が右手に座
っていたのです。
 その若者が一体誰なのか彼女らにはわかりません。
 見た目の姿形によっては、若者が誰であるか分からないのです。この正体不
明の若者が「長い白い衣」を着ているのは、あの基督の変貌の時の、主イエス
を彷彿とさせますが、主イエスその人ではないことは明らかのようです。姿形
が主イエスであれば、彼女らは、「主だ」とわかるはずだからです。ただ彼女
たちにとって、この長い白い衣を着た若者が「神の使い」「天使」のような存
在だということを感じとるには充分だったようです。彼女らの驚きは、「神の
使い」を間近に見たという驚きだったのです。
 婦人たちは、この若者と出会ったことで、神の使いと出会ったと感じたとい
うことなのです。

6.あの方は復活なさって、ここにはおられない。
      若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられた
      ナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはお
      られない。御覧なさい。お納めした場所である。(6節)
   わたしたちは、この「若者」をあえて、「天使」と呼びましょう。婦人た
ちも、おそらくそう感じたと思うからです。
 最初に「若者」が告げた言葉は、第1には、婦人たちが主イエスを捜し求め
ているという事実。第2には、「主イエスは復活されて、ここにはおられな
い」という事実。第3は、この墓の中に、十字架で殺害されたイエスの遺体が
安置された場所で間違いないという事実の三つでした。
 天使の告知は、主イエスの、この墓の中にはおられないという主イエスの不
在がイエスの復活を意味しているのだという内容だったのです。「空虚な墓」
の事実でした。

7.「空虚な墓」が意味するもの
    マルコによる福音書の「復活」証言は、「あの方は復活なさって、ここに
はおられない。」という「イエス不在の告知」でした。復活の主イエスとの直
接の遭遇は、マルコによる福音書においては記述されてはいないのです。他の
の福音書では、明確に復活の主との出会いは記録されているのに、マルコによ
る福音書だけは、「不在」がイエスの復活を指し示しているのです。そして、
次に天使が告げた事は「ガリラヤ」へ行けという命令でした。復活の主イエス
との実際的な出会いは、「ガリラヤ」で生起するという予言でもありました。
 先に述べたように、わたしたちは、マルコによる福音書に即して、婦人たち
と復活の主イエスとの出会いを黙想しています。
 この「空虚な墓」での出来事は、まぎれもなく神の啓示の出来事の経験でし
た。彼女らは「上」を見仰いで、墓の入口の非常に大きな石が転がされている
奇跡を経験しました。そして、墓の中に入り、本来遺体が安置されているはず
の場所には、主イエスは不在であった事実に出会ったのです。
 神の啓示の出来事の内部で、神の不在を経験したのです。
   しかも、彼女らが主イエスを捜し求めているはてに、主イエスの不在を告
知されるのです。なんという逆説( 一見、真理にそむいているようにみえ
て、実は一面の真理を言い表している表現)でしょう。捜し求めている先に、
神と出会うという筋書きならば、それはそうだろうと納得できそうなものなの
に、そうはいかないのです。しかも、この不在との遭遇は、彼女らが圧倒的な
神の奇跡の真っ只中で遭遇するのですから、複雑です。
 どう言ったらよいでしょうか。
 人は求道心の結果として神と出会うということでは、どうもないらしいとい
うのです。そうではなくて、人はいかに浅慮短慮であっても、遮二無二に、神
を思慕する決然たる一歩を踏み出してゆく時に、神が大きな石を転がしてくだ
さったように、神はその時自らを開示してくださるというのです。しかし、そ
れでも、その神の自己開示という奇跡の真っ只中で、人が遭遇するのは、「神
の不在」という啓示だというのです。さらにもう一度しかし、この「神の不
在」こそ、未来の「ガリラヤ」で、復活の主御自身を相まみえるというので
す。つまり、復活の主イエスとの出会いは、たとえ、今・ここでかなわないと
しても、やがて来る将来において(ガリラヤ)、必ずや復活の主イエスは、御
自身と出会ってくださるということなのです。かかる意味において、女性たち
こそが、人類ではじめて復活の主イエスに出会った人々だったのです。

2026年3月30日月曜日

 2026年3月29日 (受難節第6主日) 

棕櫚の主日(受難週4月4日まで)

マルコによる福音書15章21節~41節

『十字架への道』


1.時・場の違和感

 主イエスの復活を信じられないという人々がいます。 主イエスの同時代、同一の場所で、主イエスの復活を、それぞれの固有な「場」と「時」において、生きた人々がいました。

 彼らのなかには主イエスの復活を信じられない人もいたはずです。

 「信じられない人々」もいれば、「信じようとしない人々」もいたことでしょう。

 そして「信じないではいられない人々」もいました。

 復活の「時」、「場」を共有していた固有な生を生きていた人々にとって、主イエスの復活の出来事は、やはり、ほかの「時」「場」と同じ重さでしかない「日常」の一コマだった筈です。

 だからこそなのですが、わたしには、とても不思議に思えるのです。

 何の変哲もない「日常」だった筈の出来事が、人類にとって、比類のない「時」と「場」であったという事実、これは人類史にとって、「愛敵」という、それまで存在しなかった愛のありようを、人類の各員に贈与したことは紛れもない事実として、この出来事以後の歴史を決定づけているという事実によって証明された事実の決定的な起点という意味での事実となっていた事が、わたしには不思議でならないのです。

 これは、奇跡という意外に考えようがないのです。


2.主の十字架を担う「光栄」を賜った「キレネ人シモン」

 わたしは、まず、人類にとって決定的な出来事が、当時の人々のあいだでは、「日常」でしかなかった埋もれた経験だけを生きていた人々が圧倒的多数を占めていた他方で、主イエスの十字架の死の直前に、この決定的出来事に、図らずも、強制的に関わらざるを得なかった人がいた事に感謝せざるを得ないのです。主イエスの十字架を背負った人がいたのです。彼の経験は、わたしたちにとって極めて重要な意味を持っているからです。

 彼は、「田舎から出て来て通りかかった」にすぎません。まったくの偶然の遭遇でした。たまたま通りかかっただけの彼に、「兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」

 神の恩寵は、人間の主観を超越しているのです。

 彼の名は、「キレネ人シモン」。

 彼には「アレクサンドロとルフォス」という息子がいたようです。息子の名が残されているということは、キリスト者共同体に、彼らが名を残すに値する役割を担っていたのではという推測を可能にするでしょう。

 「キレネ人シモン」は、主イエス・キリストのゴルゴタへと続く坂道を、主イエスの十字架を担ぐという光栄を担うことが許された稀有な宿命を神から授かったのです。

 彼は自ら願って主の十字架を担いだのではありませんでした。担ぐことを、他者から強要されたのです。

 しかし、強要された事が、彼にとって、いや彼以後の全人類にとって大いなる恵みとなったのです。

 神の恩寵は主観的な願望を超越しているのです。

 

3.「痛み」は「神の愛の痛み」に対応する

 彼の肩に食い込む十字架の重量がもたらす「痛み」は、主イエスの「痛み」を彼に、否応なしに体験させました。

 彼の体を痛めつける激痛は、神の「痛み」を、彼が知る縁(よすが)なったのです。

 そして彼の「痛み」は、わたしたちにとって、神の「痛み」を追体験し、知るための、「光栄」として、意味深いものとなるのです。

 実に、わたしたちにとって「わたしの痛み以上の神の痛み」・「神の愛の証明」として受けとめ直す契機と変わるのです。「痛み」はこのとき、「十字架の痛みの光栄(反射)」となるのです。

 とはいえ、「痛み」は「痛み」です、わたしたちは誰しもが、「痛み」から解放されたいと願うのは当然です。「痛み」なのですから。

 主イエスは、わたしたちの「痛みから解放されたい」という願いを無視されたりはしませんでした。

 主は言われました。

 「重荷を負うている者は、わたしのもとに来なさい。」と言われました。(マタイによる福音書 11章 28節)

    疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

「痛み」という「重荷」を、主は共に担ってくださっています。

    わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイによる福音書 11章 29節)

    わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書 11章 30節)

 「痛み」「重荷」を、主は、同じ軛を負うてくださっているのです。人生から「重荷」が完全になくなるということではありません。「重荷」を負うことは「責任」を担うということですから、わたしたちは「責任」を負うことで、はじめて意義ある人生を送ることができるのです。わたしどもの信仰は、重荷を放棄する、責任を放棄するということではなく、共に重荷を負うてくださる神と共に生きる信仰なのです。

4.兵士たち

  言うまでもなく、このローマ兵たちにとっては、普段と変わらない日常の時間、日常の場所での振る舞いが、マルコ伝には無機質に記録されています。何の感情移入もありません。彼らには、イエスの処刑は、彼らの仕事のなかでの作業にすぎないのです。

 彼らは、この人類にとって決定的な出来事に、居合わせながらも、イエスの復活について何も考えず、何も感じない、ただ主イエスを殺すという彼らの仕事に、淡々と従事しているのでした。

 彼らにとっては、イエスの着ている衣服を分け合って、自分の取り分とすることだけが関心事でありました。

 イエスの腕に釘を打ち込み、足の甲を合わせてやはり釘を十字架の杭に打ち込む作業を、終えると午前9時でした。


5.午前9時

 午前9時に、処刑場に集まっていた人々は、野次馬もいたでしょう。嘲笑する者たち、侮辱する者たちでした。朝のこの時間に、わざわざ、忌み嫌われているこの場所へ集まるとは、彼らの、憎悪の関心度合いの激しさがわかります。

 罵声、嘲笑、哄笑がその場を支配していたようにみえます。主イエス処刑の「時」と「場」は、まさに現代の縮図そのもののように思われます。

 無関心なローマ兵、通りがかりの嘲笑する者たち、侮公衆に聞かせようとばかりに、代わる代わるに律法学者たちや祭司長たちが吐き捨てるように侮辱します。

「他人は救ったのに、自分は救えない。」と。

 遠くから婦人たちは見守っていた。またその他にも、イエスについてきた婦人たちが大勢いたとマルコ伝は記録しています。十字架のみもとに、怖くて近寄れなかったのでしょうか。哀しみの嗚咽を彼女たちは呑み込むようにして見守るほかはなかったのです。


6.「他人は救ったのに、自分は救えない。」

  「救い」とは何なのでしょうか。ここでイエスが命を永らえることなのでしょうか。主イエスは、人類を救うために命を捨てるために世に来られたのです。イエスは、この十字架につけられて殺されるために、エルサレムまで来られたのです。生きながらえることが目的ならば、エルサレムに来る必要はありませんでした。

 殺されることが分かっていながら来たのです。

 侮辱する者たちには、イエスを殺す事が最終目的だとことが、彼らの侮辱の言葉に明らかに示されています。

 彼らは、イエスがここで死なないことが、彼らにとってが不都合だったから、「自分を救ってみろ」と侮辱できたのです。彼らには、イエスが生き続けることが不都合でした。だから殺すのです。

 彼にとって、「メシア(キリスト)」は、生きてこそメシアでした。だから殺さねばならなかった。殺しさえすれば、イエスがメシアではない事が証明される、と彼らは考えていたのです。

 キリスト・イエスは、十字架で死なねばならない。このことについて、彼らは完全な無知であったのです。

 彼らにとって、イエス殺害こそ、最終目的であり、彼らにとっての最終的解決だったのです。

 イエス殺害が最終到達点だったからこそ、「他人は救ったのに、自分は救えない。」という言葉が、「侮辱」になり得たのです。

7.それを見たら、信じてやろう

  現代のわたしたちにとって、「それを見たら、信じてやろう」という精神的態度は、実に身近に存在します。

  イエスの復活を、「信じられない人々」もいれば、「信じようとしない人々」もいます。

 ここで、十字架上で死ぬためにイエスが世に来られたということについて完全な無知な人々は、「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と侮辱しました。

 「見たら,信じてやろう」という精神的態度は、はじめから、イエスが生きながらえることが、必要不可欠なはずだという自分自身の勝手な思い込みがあったがゆえにこそ、「十字架から降りてきて、生きながらえることなどどうせできないだろう」と、そう考えたのです。だから、「自分を救えない」という言葉が、彼らにとっては「侮辱」たりえたのです。

 イエスは、ここで死なねばならない使命があったことが彼らには理解出来ないのです。

 このような精神的態度の人々は、現代においても、多くみられるありふれたものです。

 イエスは、生きてこそ使命を果たすべきだった、という訳です。死んで花実が咲くものかという訳です。

 「救い」について、根本的に違うのです。

 「信じてやろう」式の「ものの考え方」は、そもそも、「絶対信じない」という態度と何も変わるところのないものです。「どうせそんなこは起こらない。やれるものならやってみろ。そうしたら信じてやる」という態度だからです。この態度は、およそ「信じる」という態度ではないからです。「信じてやる」は「決して信じない」と同根なのです。「信じるか信じないか」はこっちが決める、つまり人間が決めるというのです。

 およそ、「信仰」の名に値しません。自分を神さまより上に置いているからです。これでは「自分教」です。

   ここで主イエスを侮辱している人たちは、自分はイエスより「上」だと思っている人たちなのです。

 

8.エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。

   主イエスの、このみことばをどのように理解したらよいのか、理解に苦しんたことのない人はいないでしょう。

 主イエスは、ご自分が、祭司長、律法学者たちから殺されることになっていることを三度にわたって予告してこられました。堂々と十字架の死にむかって歩んでこられました。

 それなのに、なぜ、主はこのように叫ばれたのか。

 わたしたちは、言葉が首尾一貫して矛盾のないことを

無意識のうちに好む傾向があるのです。ですから、主イエスのみことばも、人間らしく、首尾一貫して矛盾なく理解したいのです。

 ところが、この十字架上のイエスの叫びは、死ぬことこそが神への従順であると語ってこられたイエスの言葉と矛盾しているように聞こえるのです。ここにわたしどもの無意識の美意識と齟齬が生じてしまうから、悩むのです。

 しかし、実際のところ、言説というものは矛盾だらけの事のほうがはるかに多いのではないでしょうか。

 わたしは、この主イエスの叫びを、文字通り、父なる神が子なる神イエスを死へと渡さなければならない神の絶対的な矛盾への子なる神としての父なる神への愛の叫びと受けとめることができると理解します。

 十字架の死は、父なる神にとって、神であることを自己放棄するに他ならない絶対矛盾なのです。御子なる神イエスの死は、父なる神にとって、自己自身の死以上の死なのです。そのような父なる神に対して,子なる神イエスはその絶対矛盾をあえて遂行しなければならないこと、すなわちイエスを「捨てる」なければならぬ神に対して、イエスは、「なぜそれほどまでに、しなければならないのですか。」と神の愛の痛みを悲しんで叫んでおられる。「なぜそれほどまでに、人類を愛しておられるのですか。」この「なぜ」」は疑問詞ですが、疑問詞であって疑問詞以上の意味が込められています。

 わたしは、あなたの人類への愛を受けとめます。独り子なるわたしを捨てなければならないほどに、あなたは人類を愛されているのですね。わかりました。わたしは、あなたの人類への愛をしっかりと受けとめて、その使命を完遂します。なぜそれほどまで人類を愛されるのですか。なぜそれほどまでにわたしを愛してくださっているんのですか。承知しました。わたしは、あなたの独り子なるわたしを捨てるほどまでに、人類を愛しておられるのですね。わたしは、あなたがそれほどまでに人類を愛しておられることを信じることができていることを、いまここに受けとめることができました。感謝です。

 主イエスは、神の愛の痛みを、喜んで受けとめたゆえに、叫ぶことができたのではないか。

 だから、この叫びは、嘆きの叫びではなく感謝の叫びなのです。勝利の雄叫びなのです。

 主イエスは、殺されること、捨てられることを、感謝の雄叫びをあげるまでに受け入れたもうたのです。殺されること、捨てられることを、感謝して受け入れた人は他にいません。捨てられ、殺されることが、この方にとって「愛」することだったのです。ここに「愛」があります。アーメン




2026年3月16日月曜日

 2026年3月22日 〈受難節第5主日〉

  弟清水宏明兄は、医師であった父を尊敬し、医師となり、地域医療に尽くしました。東日本大震災後は、ボランティアとして福島に定期的に通い続けました。

 3月15日に、69歳で天に召されました。3月19日と20日に、弟との最期の面会の日とし、多くの方の弔問をいただき、遺族一同感謝しました。

 葬送の礼拝は、遺族のみの家族葬とし、22日に感謝のうちに執り行いました。

22日は、牧師は遺族のみの家族葬の司式のため、礼拝は「代読礼拝」でした。

  〈十字架の勝利〉

  マルコ 10:32~45




イエス、三度自分の死と復活を予告する
          (マタ20:17―19、ルカ18:31―34)
32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

ヤコブとヨハネの願い(マタ20:20―28)
35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めるこ とではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

1.  苦難へと先頭に立ち、向かう主イエス
   主イエス・キリストは、栄光の御姿を、ペトロ、ヤコブ、ヨハネに見せてくださった。その御姿は、甦りの主の栄光に輝いていた。その時、雲の中から、父なる神は、宣教の開始の時と、同じみことばをもって、主イエスが神の独り子なる神であられることを宣言してくださったのであった。
 弟子たちは、この啓示の内部にいながら、神の宣言を聞いたことになる。
 エリヤとモーセと主イエスは、これから向かうエルサレムへの道、十字架の極みへと至る苦難の道程について、語り合っておられたのだった。主はこの啓示の体験を誰にも話してはならないという禁止命令をくだされた。
 それは、主の甦り(復活)の出来事を彼らが体験することにならない間は、彼ら自身にも理解不可能だったからに他ならない。だから、弟子たちは、「この言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」のであった。
 彼らには、依然として「受難の予告」の真の意味を悟らずにいたのである。
 弟子たちの無理解にもかかわらず、主イエスは、人類救済のみ旨へと向かって、堂々と歩まれる。その悠々たる勇姿を、マルコは伝える。
    一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。(32節) 
 この主イエスの御姿に、弟子たちは「驚き」かつ「恐れた」のである。」主イエスは、自分がエルサレムへと行けば、必ず律法学者や祭司長らに殺される命運が待ち設けていると語った言葉は、言葉の上では聴いて理解してはいた。その真の意味について、深い神の経綸については悟り得ずとも、意味表示のレベルでは聞いて知っていた。だからこそ、主イエスのこの悠然と、かつ堂々と先頭を行く御姿に驚愕と恐怖を隠せなかったのだ。それほどまでに、主イエスの揺るぎのないみ旨に対する意志は堅固そのものだったのである。人類を罪の奴隷から解放する愛に全身から溢れていたのだ。愛は愛する者ために、苦難をみずから負うという真理を主イエスは体現されていたのだ。

2. 三度目の受難予告
    イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。(32節)
  主イエスは、三度目の受難予告を12弟子に話される。 彼らは、言葉の上では、単なる意味表示のレベルでは、理解していた。しかし、真の意味、神の深い経綸については悟ってはいなかった。それでも、主イエスは、彼らの胸深くに、たとえ意味表示のレベルであったとしても、刻みつけるように、御自身が殺されるためにエルサレムへと向かっているのだと諭されたのであった。
愛するということは、苦難を負うということなのだ。主イエスは、神の愛を、われら人間に、具体的にお示しになられたのである。二千年前に、ひとりの青年が、このような姿を示すことがなかったのであれば、人類はいまだ愛するというこが、どのようなものであるか知ることはなかったであろう。

3.ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願い
   ヤコブとヨハネの懇願は、決して権力欲から出ているものではないと、わたしは考える。「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」(41節)とあるのは、他の10人の目には、「抜け駆け」のように映ったからだろうが、それは誤解だ。弟子として重用され、他の弟子よりも「偉くなりたい」という発想で、ヤコブとヨハネはイエスに懇願していると、彼らは思ったのであろう。が、それは見損なっている。ヤコブとヨセフは、主イエスが「栄光をうけるとき」のことを考えているからだ。たしかに、二人は主イエスが語る「栄光」については何も知らない。何も知らないというのは、主イエス御自身が言われたことから分かる。
    イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(38節)
  主イエスの「栄光」に輝く変容を目撃したからこそ、二人には、「栄光」こそが彼らの願いとなった。そう考えると、彼らの願いが、人間的な権力闘争と同じ次元の願望とは質が異なることは、明らかであろう。
 彼らは、主イエスが「神の独り子なる神」でありたもう御姿を見たのだから、彼らには、神の栄光を顕すイエスの御傍に侍りたいと願うのは、神との接近を願う事に他ならないだろう。そう言う意味で、この願望「宗教的願望」とは言える。二人は真面目な信仰者として願っているのだ。
 だが、その願望、宗教的な願望もまた、主イエスからすれば、「あなたがたは、自分で何を願っているか。分かっていない。」ことにすぎないのである。
 
4.主が飲む杯、主が受ける洗礼
    イエスは言われた。「(中略)このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(38節)
  二人が決定的に分かっていないことは何か。主イエスの栄光は、苦難を通してこそ栄光に入るという十字架の死と復活ということが、彼らにはまるで分かっていないことだ。彼らが願っているのは「栄光」の主であっても、その栄光は、受難の死を通る道であることが、二人にはまるで分かっていないのだ。
 それゆえ、主イエスは、苦難の死を意味する「杯」「洗礼」を語るのである。「杯」は主イエスの「苦難と死」を意味し、「洗礼」は「死」を意味する。主は、二人に、御自身と同じ道、すなわち、苦難と死の道を行くことができるかを問うているのである。
 苦難の死を通過しないままで「栄光」の神に近づくことはできない。主は、真の「栄光」への道こそを、二人に問うているのだ。

5.殉教の預言
     彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。(39節)
  ゼベダイの子ヤコブについては、主イエスがここで「確かに」と言われたごとく、西暦44年頃、ヘロデ・アグリッパによって殺されることになる。(使徒12:2)殉教の預言を主がなさったとみなされている箇所ある。ただ、ヨハネについては、殉教にあいそうになりながらも生きのびたようである。
 しかし、彼も主の「杯」「洗礼」に近いような苦難を受けたと言われてはいる。
 結局は、この二人は、甦りの主イエスとの出会いの後には、聖霊によって生まれ変わって、主イエスの辿ったのと同じような苦難の道程を歩む人に変えられることになった。
 ここで、これだけ、無理解な弟子であったにもかかわらず、復活の主の命に与って、まったき新生を経験することになった。イエスは、すべてを見透していたことがわかる。

6.神による定め
    しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」(40節)
  主は、「神のさだめ」について語る。ここで語られるのは、父なる神の定めと主イエスの職務との区別である。父なる神とと子なる神とは異なる人格であることが明確に語られていると言える。三位一体の神は、この区別がはっきいとありつつ、唯一なる神だという信仰だ。区別されつつ分離し得ない神であられるのである。
 主には右もあれば左もなるのだから、右に座る者、左に座る者は、たしかに「誰か」ではある。しかし、主は「誰か」をお決めにはならないという。それを定めるのは父なる神だというのである。その定めに、主はまったく介入しない。であれば、人は右も左も、主イエスに願うことは虚しいことになるというものだ。主は、たとえ、「宗教的な願望」「信仰動機」によるものだとしても、主イエスとの「距離」や「位置」を願う動機や目的を、徹底して無視されるのだということを語られたのである。そのような動機には、根底に人間的欲望が隠れ潜んでいるからだ。
 
7.真逆の世界
    しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
    いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。(43節~44節)
   二千年前もそうだったようだが、主イエスの世界についての観察は、まったくと言って良いほど、現代世界と同じである。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」というのだ。
 「偉い人たち」が誰かと言えば、誰もが思い浮かべることができるだろう。この「偉い人たち」は、「権力を振るっている。」というのだ。強い立場にある者たちは、支配欲をほしいままにしている。
 キリスト者の共同体は、そのような世界とは「真逆」の世界だというのだ。それは支配欲を根本動機とするこの世界とは、まったく逆の方向性、すなわち仕えること、奉仕することを生の根本動機とする世界だというのである。
 主が語る「いちばん上」というのは、「いちばん下」を意味するというのだ。
 すべての人の僕になりなさいというのは、すべての人の奴隷になりさないと言っていることだ。僕は奴隷を意味する言葉だからである。マルチン・ルターの言葉を思い出す。「キリスト者はすべての人の王であり、すべての人の僕である。」(『キリスト者の自由』)
 「キリスト者はすべての者の中で最も自由な主人であり、誰にも従属しない。キリスト者はすべての者の中で最も忠実な僕であり、すべての人に従属する。」

8.主は仕えるために、命を捧げるために来た。
    「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(45節)
   主イエスは、その御生涯を、人類救済のために、身代金(贖い)として、命を捧げる(捨てる)ために来た。
 われら人間は、キリストの命という代償によって、贖いとられたがゆえに、「すべての人の王となり、すべての人の奴隷となる」自由を得た。
 主は、全生涯を、この「下降へと昇る」という受難の道行くに徹して歩まれた。
 われら人間は、このキリストの死を身に着けて、キリストの武具をまとい、「下降へと昇る」道に続きたいものである。




2026年3月9日月曜日

 3月15日(日)〈受難節第4主日〉

〈主の変容〉

マルコによる福音書9章2節~10節



                    マルコによる福音書9章2節~10節

2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。

13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

1.キリストの受難予告後の神の啓示

 主イエスは,ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた。その洗礼が真に意味していたものは、洗礼者ヨハネと共に、人類救済の道を開始するという「事」であった。

 だからこそ、その時、聖霊が鳩のように降って「見よ、これはわが愛する子、これに聞け」と神は、天から宣言の御声があったのであった。

 それゆえ、主は、言葉とふるまいによって、この道、人類救済の道、すなわち、十字架の死と復活という受苦の道を歩んでこられたのである。

 主イエスの受苦への道行きは、最初から徹底していた。

 しかし、この御受苦を真意を知る者は、一人の例外もなく、誰一人としていなかった。

 主は、御自身の御受苦の道行きについて、そのキリストの秘密を、弟子たちには明示された。それが最初の受難予告であったのである。

 だからこそ、受難予告の後、六日という象徴的な期間のあとに、主は御受苦の究極的目的点である復活の御姿を弟子たちに御顕されたのであった。

 変容のキリストこそが、甦りの主、復活の主イエスの御姿なのである。

 ここで、神は、主イエスこそが、独り子なる神であられることを、再び天から宣言された。

      すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)

 この神御自身による、「イエスこそが神の独り子なる神であられる」という宣言は、主イエスの御受苦の道行きを、完全な意味で、弟子たちに目撃し得る仕方でお示しになり、その事実を神御自身が認証したことを意味している。

2.モーセとエリヤを知り得たのはなぜか

      エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。(4節)

 キリストの変容を目撃していた証人たち、すなわち「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」の3人が、この経験を後世に伝えたことになっているだから、この記述は、彼らには、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」と、確かに認識したということを意味している筈である。では生きていた時代が異なるエリヤやモーセを彼らは如何にして知り得たのか。特に、ペトロは、感動して「仮小屋」(幕屋)を建てましょうとまでイエスに申し出ているのだから、明確にエリヤとモーセを認識していた筈である。合理的認識論で言えば「謎」と言わねばならない。エリヤやモーセの容貌を弟子たちが知っていた筈はないのに、なぜ分かったのか。知らないのに知ったのはなぜなのか。

 この出来事を、人間が人間を認識する方法で、彼らが認識したと考えるならば、どこまでも「謎」のままで終わるであろう。

 しかし、ここで彼らが経験した出来事は、神の啓示の出来事である。神がこの出来事を、他ならぬ彼らに経験させた。これは「神の出来事」なのだ。

 神の啓示は、人間的認識論では推し量ることができない。

 主イエスは、彼らをのみ抜擢して「高い山」へと連れて登られた。高い山は古来タボル山と伝えられてきたが、ヘルモン山かもしれない。もはや特定は困難だ。ただ「高い山」とは神が御自身を顕現する神聖な場所を指す。

 主イエスは、啓示の場へと弟子たちを、しかも彼らだけを導いた。この「場」が啓示の「場」となるためであった。  

  神の出来事であれば、人間的な認識による制限・限界は超越している。神御自身が、弟子たちに、認識の対象を認識すべく認識対象を与え給ふから、彼らには、自分が知らないことを知ることができた。

 パウロは、生前のイエスを知らない。知らないにもかかわらず、神は甦りの主イエスをパウロの前に立ち顕された。彼は、「主よ、どなたですか?」と問うている。パウロは、目前に出現している復活の主イエスを、「主よ」として認識していた。神御自身だと、その時既に知っていたのだ。だから、「主よ、あなたはどなたですか?」と問うことができた。彼に復活の主イエスを知らしめたのは神である。神御自身が神御自身を御顕される出来事なのである。 

 これと同じ事が、ここでも起きていた。

 弟子たちには、自分が知らないこと(エリヤやモーセの容貌)を、知らないにもかわわらず、知ることができた。それは神御自身が、信仰の認識を与え給ふたからなのである。

3.モーセとエリヤは主イエスと何を語り合ったのか

   マルコによる福音書には、何を語り合ったのかは記されていないが、ルカによる福音書には記されている。

      二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。(9章31節)

  主イエスが、人類救済という究極的目的点(「エルサレムで遂げようとしておられる最期)について、語り合っていたのだ。ずばり、後受難の道行きについて語り合っていたのである。

  二人は、旧約聖書に登場する代表的な人物である。聖書は、「律法と預言書」のことであるが、モーセこそ律法を神から授かったメシア的人物であり、エリヤこそ、預言者マラキが預言したメシア到来の前に出現するとされた預言者の代表である。すなわち、この二人は旧約預言を代表する二人なのである。

 この二人は、主イエス・キリストこそが神の独り子であられるメシアであることを、旧約の成就だと証しする者なのである。主イエスが旧約の成就者であることを、二人は証ししているのだ。二人は地上で死を見ることなく天上に挙げられたと信じられていた人物であった。つまり、主イエスは、天上の人として、この二人と語り合うという姿をお示しになったことになるだ。

 ペトロが、感動したのは、彼が天上の人、モーセとエリヤと主イエスが天上の世界を垣間見たことによるのではないかと考えられる。

      「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」(5節A)

  地上の人にすぎない自分たちの前に、天上の人が居合わせたことに、素直に感動しているのだ。

 そこで、彼が地上の人として咄嗟に考えたことは、主イエスの究極的目的点へ向かう御受苦の道行きとは、およそかけ離れた的外れの発想だった。

      ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(5節)

4.仮小屋(幕屋)建立が意味したもの

    ペトロは、なんとおこがましくも天上の人三人の語り合いに口をはさむ。素直に感動しているのはいいとしても、口をはさむとはどういうことか。主イエスの御受苦の道行きを、彼は否定するような行為をしたのだ。

 口をはさみ、そして仮小屋(幕屋)の建立を提案するのである。

 一見すると、信仰深いかのような提案ではあった。仮小屋(幕屋)で、人々がそこへと礼拝することを彼は夢想していたのであろう。現代流に言い換えれば、「教会堂」を建立しましょうというような提案ではないかと考えられる。信仰深い装いをしてはいるが、主イエスの行こうとしている道行きに、教会堂や礼拝所はない。

 主イエスは、人類救済の道、十字架の死と復活という道行きをこそ、語り合っていたからだ。

 ペトロのこの提案は、主イエスが神の独り子として行こうとされる苦難の道行きを否定し、地上的な「宗教分派の形成へと地に落とすものでしかなかった。

 主イエスへの信仰は、「宗教」にすぎない代物では断じてないのである。ペトロには、まだ主イエスの啓示の意味が分かっていなかったのだ。

      ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。(6節)

      ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。(ルカ9章33節)

  ペトロが混乱していると、ルカはやや同情的に記してはいるが、マルコは提案そのものが口からでまかせにすぎないというような印象を与える書き方だ。無責任かつ、軽率な提案だとルカもマルコもみなしている。しかし、ペトロの軽率さも、神の自己顕現に「恐れ」を感じていたことを思えば、「恐れ」ゆえの混乱から生じたものかもしれないと言えなくもない。「弟子たちは非常に恐れていたのである。」

 弟子たちの「恐れ」は、彼らが主イエスと二人に、神の顕現を見ていた証左である。弟子たちは神の啓示を経験したのだ。

 これらの記述から、弟子の無理解と、それにも拘わらず弟子たちは神の啓示の出来事(主イエスとエリヤとモーセの会見)を経験したことは明らかである。

5.雲の中から声がした

      すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)

   「雲」は神顕現の表象である。雲が弟子たちを覆うたことは、神顕現の経験が視覚・聴覚だけの認識ではなくて、身体全体を包み込むものであったことを意味するだろう。いわば神御自身の内部的な世界に、弟子たちは誘われたのだ。彼らは身体全体で、神を感じたはずだ。

 彼らは、雲のなかで、雲のなかから聞こえてくる神の声をの振動を、体全体で感じたであろう。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声は、イエスが宣教の開始にあたってヨハネからバプテスマを受けた時に、天から聞こえたあの声だ。

 そうだ。宣教の開始の時に神が主イエスを我が独り子として認証した神の言葉だ。

 そして、今、受難予告という天国の秘密を弟子たちに語ったいま、御受苦の道行きを、まごうかたなく、すなわち間違えようのない程明確にお示しになったいま、再び、天の父なる神は、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と主イエスを我が独り子なる神と認証されたのである。

6.ただイエスだけが

      弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。(8節)

  身体的な神顕現のただなかでの経験のあと、突如として、エリヤもモーセも、そしておそらく雲も、消えてしまう。さて、弟子たちは、地上的な現実へと引き戻されたのだ。彼らは、主イエスと共に、旅を続行する時へと戻されたのだ。弟子たちと主イエスの時間が再び戻ってきた。

6.主の福音宣教の禁止命令ふたたび

      一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。(9節)

  受難予告の時、「あなたはメシアです」と言ったペトロに超弩弓の福音宣教の禁止命令の叱責をされたけれども、あの時と、この時は同じメシア秘密の意味あいが異なっている。この度は、「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限があるからだ。主の受難の極みに至るまでの禁止命令なのである。

 さらにもう一点異なるのは、「今見たこと」を「だれにも話してはいけない」という命令だということだ。

 ペトロの叱責のときは、浅薄な人の言葉による宣教の禁止命令だったが、主の変容の経験の場合は、経験した事柄そのものを誰にも話すなと言う命令である。

 今度の禁止命令は、弟子たちの浅はかさ故の禁止命令ではない。神の啓示の出来事は客観的事実だから、弟子たちの信仰の問題ではない。そこが決定的に異なる。

 この禁止命令が、「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限がついていることに、禁止命令の目的が隠されているだろう。

      彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。(10節)

  弟子たちが 「死者の復活」について論じ合っているのは、彼には、主イエスの受難予告をいまだ真に理解することができずいることを示している。神の顕現の啓示を身体全体で聴いた弟子たちでさえ、主イエスの究極的目的点である十字架の死と復活の意味をいまだ理解できないでいるのだ。まして人々に理解できることは不可能だということは自明であった。

 それゆえに、主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは」と語られたのだ。現実として、主イエスが、弟子たちの目の前に,出現するという出来事が生起して初めて、弟子たちは、受難予告の真実の意味を悟ることができるのである。主イエスは、その現実を、いまここで、あらかじめ完全に熟知していたのだ。

 いまここで、彼らが経験した出来事は、「復活の日」にはじめて弟子たち自身のなかで、彼らをイエスの本当の弟子に生まれ変わらせることを、主イエスは知っていたのだ。

 7.エリヤ再来預言論争

      そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。(11節)

      イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。(12節)

      しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(13節)

  エリヤ再来の預言はマラキ書にある。だからメシアが到来する前には、エリヤが来なければならない。主イエスは、既に来たと語られた。マルコによる福音書には、弟子たちは、洗礼者ヨハネがエリヤだと悟ったと記している。

      そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(マルコによる福音書17章13節) 

      「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」(マルコによる福音書17章12節B)

  主イエスは、エリヤの再来たるヨハネは「彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらった」として、御自身の命運と同じだということを明白に語ったのであった。

 これらの記述から、主イエスと洗礼者ヨハネは、ともに、苦難の僕(イザヤ53章)として、「人々から苦しめられることになる」命運であったことがわかる。

 原始キリスト教会において、エリヤが洗礼者ヨハネであり、イエスの苦難においても先駆者であったことが、重要な信仰内容であったことは、これらの記述からも伺い知ることができるであろう。

8.わたしたちの信仰との関係

   この「キリストの変容」の出来事の記録が、わたしたちの信仰にとって、どのような意義があるのか。考察したい。

 最も重要な信仰的事柄は、イエス・キリストが、「神の独り子なる神」であるという神の宣明(declaration)である。

      「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)

 これによって、人間が神となったという主張は完全に否定されるのである。これは旧統一協会や新天地をはじめとする、「自称再臨のキリス」はすべて、偽り者であることを、神御自身が完全に宣明していることを、わたしたちは知る。

 そして、イエス・キリストは、人類の罪からの解放のために、「受難予告」の通り、十字架の死と復活を成し遂げられ得るお方であることを、わたしたちは知る。

      「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてある。」(12節)

  主イエスは、死ぬためにこの世に来られたのである。このことを否定する者は、すべては偽り者なのである。

 第三に、人類救済のこの苦難の道行きは、旧約預言の成就者として、洗礼者ヨハネとナザレのイエスが、共働的に歩まれた道であったことである。

 洗礼者ヨハネは、エリヤの再来だったことは、イエス御自身が明言しているからだ。ヨハネ自身の自己意識に、たとえ揺らぎがあってとしても、神の独り子が明言している以上は、ヨハネはエリヤなのである。

      そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(マタイによる福音書17章13節) 

 それゆえ、わたしたちの信仰道程、すなわちわたしたちの地上での全生涯は、主イエスの道行きを慕い、辿る道であるから、わたしたちの魂の視線の焦点は、主イエスの十字架の死と復活であることを知る。

 朝起きて目覚める。今日も地上の生活を送ることが許されていることを、神に感謝する。

 食事をいただくとき、身体を支える肉の糧を得ること以上に、神の言葉という霊の糧を魂にいただくことを感謝する。

 歩くとき、主イエス・キリストの苦難の道行きを想い、感謝する。

 人を愛する刻、主イエス・キリストがわたしのために十字架上で死んでくださった事を感謝する。そして、わたしも人を愛する刻、苦難を引き受ける愛を主イエスから恵みとして与えられていることを感謝する。

 眠りにつく時、神は御自身をお示しになられる事を感謝する。主はわたしたちの魂が眠っていても、わたしたちと共におられるのだ。

      ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。(ルカによる福音書9章32節)

  わたしたちは、この限りない恩寵のなかに生きている。この確実な保証を神は、この出来事で与えてくださったのである。ただ感謝の他はない。

      すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」                    (7節)



2026年3月8日日曜日

 2026年3月8日(日)(受難節第3主日)

『受難の予告』

マルコによる福音書8章27節~33節



              『受難の予告』

                  マルコによる福音書8章27節~33節

ペトロ、信仰を言い表す

                 (マタ16:13―20、ルカ9:18―21)

27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。

28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。


イエス、死と復活を予告する

               (マタ16:21―28、ルカ9:22―27)

31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。

32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。

37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」


1.主イエスの最初の質問

    主イエスは、弟子たちに問いかけた。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。

 イエスが知らないはずはない。イエスと弟子は行動を共にしている。弟子たちが知り得る情報は、イエスも同じ環境の中にいるのだから、弟子の耳に入る事ぐらいイエスの耳に届く。イエスは所謂世評を聴きたい訳でもない。イエスが村々で行っていることは誰の目にも明らかだ。そのことで人々は驚き、ある者は、イエスを崇拝しだし、ある者は、いぶかしいと怪しむ。敵視する者も現れるほど評判になっていたことは衆知の事実だった。

 人々は、洗礼者ヨハネの生まれ変わりのように感じる者もいあれば、預言者エリヤの再来だと思ったりもする。それぞれが勝手な想像をめぐらしていた。それくらいのことは、奇跡実行の当事者が知らぬはずはないのだ。

 だから、イエスは知っていて、あえて弟子に問うたのだが、その意図は何か。それが問題だ。


2.イエスの2番目の質問

  次に、イエスは弟子たち自身が師であるイエスをどのように思っているかを問うた。

 この問いもまた、イエスが知らないから問うているという事ではない。弟子はイエスに現に従ってきているのだ。イエスを信じているから行動を常に共にしているのだ。それに、弟子たちはイエスから直接召命を受けたり、師である洗礼者ヨハネが、「世の罪をとりのぞく神の子羊だ」と証言したからこそ、イエスの弟子になったのだ。彼らは、直弟子と言ってもよいのだから、イエスが「誰であるか」を知って従ってきていることは自明だ。あらためて、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問うのは、いったいどういうことか。その意図は何か。それが問題だ。


3.知りつつ問いかける意図とは何か。

  たたみかけるようにして、イエスはご自身を、第1番目には世評。2番目には、直弟子たちの認識を、知っているにもかかわらず問いただした。

 その意図は何か。

 世評もペトロも、それぞれが、自分が信ずる「イエス像」をイエスに投影している。それはそれぞれがイエスに、自分自身が思い思いに、「自分が信ずるイエス」を、イエスに、映しだしているという意味だ。自分自身のイエス像は、期待であったり、願いであったり、理想であったり、人それぞれだ。共通しているのは、現実のイエスという人自身ではないということだ。

 なるほど、さすがに第一弟子のペトロは「メシアです」と、きっぱり言いきっている。それは今日、わたしたちが信仰告白する信仰の対象である主イエス・キリストかというと、そうではない。

 ペトロは、十字架上で殺され、三日目に甦り、天に昇られたイエスをいまだ知らない。

 また、これから彼は死刑判決を受けるイエスを「知らない」と鶏が三度鳴く前に、シラをきったりもすることになる。

 ペトロが「メシアです」と言っている事の内容は、その程度の認識にすぎない。「メシアです」と言いながら、自分自身の考える「メシア像」をイエスに押しつけているだけなのだ。だから、自己が描くメシア像と現実のイエスが矛盾すると、イエスを裏切る。裏切ったつもりはないが、実際裏切っている。自分が信じたイエスと違うので、自分が裏切られたとさえ思う。御門違いも甚だしい。自分が裏切っているのに、裏切りをイエスになすりつける。


4.メシア秘密

    イエスは、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」ご自身をどのように言うのかという問いに、「メシアです」と応えたペトロに向かって、同時に居合わせた弟子たちに向かってだが、ご自分のことを「誰にも話さないようにと戒められた。

 イエスが「メシア」すなわち、「キリスト」であることは、真実である。真実なのに、なぜ、イエスは誰にも話さないようにと戒められたのかと、疑問に思うかもしれない。福音書はなぜ、このような謎めいたイエスの言葉を残したのか。

 真実を伝えるということは難しい。人の語る言葉は、神について語り得ない。わたし自身、聖書のみことばを語りつごうとしているけれでも、語る先から語り得ない困難を痛切に思わずにおれない。

 イエスが神であるということを、「イエスは神です」と語れば、語ったことになるのかと言えば、それは、やはり「人の語ることば」という限界があると言わねばならない。

 ペトロが、「メシアです」と応えた答えは、まったく正しい。まったく正しいが、正しいけれども、やはり「ペトロという人のことば」という限界があるから、正しい事柄を語ったところで、語られた「事柄」そのものの真実が伝わるということを意味してはいないのだ。

 主イエスは、正しく福音を語ることの不可能性を知っていた。ペトロが、「イエスはメシアです」と福音を人に伝えたとしても、真実な事柄は伝わらない。

 それどころか、ペトロ自身も真実な事柄を知らないのだ。知らない者に福音が伝えられることはない。

 ゆえに、イエスは福音を、ここで伝えることを封印されたのである。『イエスはキリストなり』これは紛れもない福音だ。しかし、ここで主は、この福音を語る事を禁じたもうた。それは、ここで福音を語ることが福音を伝えることにならないからだ。


5.受難の予告

 イエスは、ここでご自身の究極的目的を、はじめてお示しになった。

    「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(31節) 

 主は、人々には譬えをもって語られたが、弟子たちには、神の国の秘密を語ると言われていたが、いまこそ、秘義が語られたのだ。

 しかし、ペトロには理解できない。彼には、イエスの語る秘密が理解できないのだ。彼には、彼自身の「メシア像」がある。イエスが受難するなどと、彼には到底受け入れがたいことだったのだろう。なんと彼は師にむかって「いさめ始めた」のだ。彼にはイエスがメシア=キリストであるという事柄の秘義が、何も分かっていない。


6.振り返って弟子たちを見ながら

   主イエスは、このまるでイエスのことを理解していないペトロを最大級の,超弩弓の叱責を与えたもうた。

    「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(33節)

 ペトロの「メシア像」「メシア期待」の正体が、面と向かって暴露される。ここでイエスは苛酷なまでに非情だ。弟子に向かって「サタン,引き下がれ」と叱ったのだ。今日外見だけ見て、「パワハラ」だと非難されかねない強烈な叱責だ。しかし、主イエスがペトロを憎んで叱責しているのではない事は、明らかである。強い叱責は,強く叱責しなければならない必然があることを、知らねばならない。

 イエスは、「振り返って弟子たちを見ながら」と振る舞った。この所作から、イエスがペトロだけに、事柄を伝えようとしているのではなく、弟子たち全員に伝えようとしていることがわかる。

 また「振り返って」という所作には、ペトロの身の程をわきまえない「諫め」を無視して、一息ついてから、叱責を叱責として、これから大切な事柄を君たち全員に伝えるという主イエスの「構え」がうかがえる。

 ペトロは弟子たちを代表しているのだ。最も先輩格のペトロだからこそ、イエスは厳しく諭しているのだ。

 ペトロの「メシア期待」は、人間的動機であった。「メシア期待」は、期待である以上は,人間的願望・欲望を源泉としている。根本動機が、そもそも不純なのだ。

 それは神を信じるているということではないのだ。人間の事を思っているということは、すなわち神のことを思ってはいないことを意味していると、主イエスはきっぱりと明言されたのである。


7.群衆を弟子たちと共に呼び寄せて

  弟子たちを叱責し、不純な宗教的願望を捨てて、神さまに起源する動機へと集中させようとされたイエスは、今度は、語りの対象を「群衆と弟子」へと変更された。

 弟子たちだけでなく群衆へと向かわれたということは、ここで語られる事柄は、全人類にむかって、普遍的な戒めとして語られた事柄だということを意味する。

    「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

                    (34節)

    自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。(35節)

    人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(36節)

    自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(37節) 

    神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 (38節) 


8.福音の真実を伝えること

   福音を伝えることは、ただ人の言葉の次元で語り伝えるということによっては不可能だ。そのような饒舌をイエスは禁じられた。

 福音は、主イエスに現実として従うことによって伝える他はない。主イエスに従うことなのだ。「信従」なのだ。

 「自分を捨て」ということは、宗教的願望に起源する利己的なメシア期待、「信仰のようなもの」を捨てよということだ。

 「自分の十字架を背負って」ということは」、十字架の主に従う道を、主と共に歩むときに、自ずから己が十字架が何であるかが明確となるだろう。神と人を愛するなら、人は苦難を選ぶからだ。

 「自分の命を救いたいと思う者」とは、永遠の生命を信じることができずに、自己一身の延命を隣人の生命よりも願う者だろう。そのような利己的人間は永遠の生命を見失う。

 主イエスのため、また福音のため自分の命を失う者とは、地上の生命への拘泥を相対化し、永遠の生命を信じる者であろう。永遠の生命とはイエス・キリストを信じる事に他ならない。

 「永遠の生命」の価値は、全世界の価値と比較する事をすら絶している。


9.主イエスの恥とならないために

  審判は必ずある。最後の審判の時がやがて来る。それだけではなく、いま・ここに,リアルに審判はある。

 心から恥ずかしいと思う事が、突如として心に去来することは、誰にでもあるだろうと思う。その時こそ、いま・ここでの審判なのだと考える。

 その瞬間、神は、わたし自身の恥ずべきことを、示してくださっている。それは神の御前で、悔い改める機会を神が与えて下さっているのだと、わたしは考える。

 この機会は、悔い改めのチャンスなのである。主の来臨のときに、主イエスの恥となることのなきように、神は、いま・ここで悔い改め、新たに生き直す再出発の時なのだ。

 主イエスのみことばを、日々、繰り返し心に思い、主を偲びつつ生きることで、日々新たに生き直し生きるなら、終わりのとき、主もわたしを恥としないでくださると信じる。

 受難の主と、今週も,日々新たに、生き直して生きたいと、祈る。

 


2026年3月1日日曜日

 2026年3月1日 (受難節第2主日)

マルコによる福音書3章20節~27節

『ベルゼブル論争 負の共感力』





1.集まった人々

 ここで語られている人々は弟子たちを除くと三者に分かれる。

 最初に描かれるのは、群衆だ。イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来ていたとある群衆だ。この人々はどのような人々であったのか。ある人は病気を癒してほしいと必死な思いで家を出てきたのかもしれない。またある人は家族や友人のためにイエスにすがろうと来たのかもしれない。いずれもがイエスに助けを求めていたに相違ない人々だ。

 次には、イエスの身内の人々だ。家族や親族なのだろうが固有名はわからない。兄弟、弟妹や親戚の叔父叔母(伯父伯母)かもしれない。彼らはイエスを「取り押さえに来た」とある。穏やかではない。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

 彼らが来た理由は、一言で言えば「世間体」を気にしているということだ。主イエスがどうして「気が変になっている」と言われたのかは詳細はわからない。

 だいいち、イエスの言葉や振る舞いに、世間に迷惑をかけるような異常なものがあったとは思われない。人の病を癒し、汚れた霊を追放したり、障害を負った人々の障害を取り除いたりしてきたことが、迷惑行為だと言われるいわれはないのだ。

 それでも、「気が変になっている」との世評が身内の人々に、このような過激な行動に移らせたのは、イエスの言葉と振る舞いをよく思わない一定数の人々がいたからであろう。

 身内の人々は、その圧力に屈していたのだ。「世間様に申し訳ない」とでもいうことであろうか。「一族の恥さらしだ」というところか。彼らにはイエスに対する愛情よりもイエスの存在がもたらす世評の圧力への同調のほうが大事だったということだ。この身内には、イエスの立場を弁護したり、かばったりする者はいない。だから、この同調圧力に屈した身内の背後には、ここには言及されてはないイエスへの敵対者が存在する。

 イエスの人々への癒しの業を、精神異常者の行為だと決めつけることも、その悪意に屈する隷属的な精神の貧困さも、このイエスへの暴力的な襲撃という形として実を結んでいる。そうなのだ。まさにこれは親族のイエス襲撃の事件なのである。

 3番目に登場するのは、はるばるわざわざエルサレムから下ってきた律法学者たちだ。彼らの言い分も行動も尋常さを欠く。

    「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。(22節)

 2.内輪もめの譬え

    身内の襲撃にも、イエスは動じない。それどころかこの三様の人々を「呼び寄せて」いる。そこで語られたのが所謂「ベルゼブル論争」である。

 これは、公言だ。宣言と言い換えてもよい。イエスはこの譬えで、「内輪もめ」がもたらすものは、崩壊・滅亡でしかないと宣言したのである。

   公言であるが、この比喩が指し示してものは聴く者が、何処に立っているかという立ち位置によって意味が大きく変容する。それだけ、この譬えは意味深長なのだ。

 まず、イエスは、「内輪もめ」という事態・事柄を望んではいない。イエスの究極的目的は「和解」だからである。

 崩壊・滅亡・内紛ではなく、平和・成長・和解だ。この目的からひもとかねばならない。

     「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。

     国が内輪で争えば、その国は成り立たない。

     家が内輪で争えば、その家は成り立たない。

     同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。

  「内輪もめ」すれば、すなわちサタン同士が相争えば、自滅すると主は断言される。ゆえにサタンがサタンを追い出すことは不可能だというのである。だから、律法学者たちの言い分は成り立たないというのだ。国家も家庭も「内輪もめ」すれば崩壊するほかはない。それはサタンとても同じだなのだ。

 イエスによれば、人間もサタンも、その点では変わるところはない、というのがイエスの論理だ。

 だから、イエスと律法学者たちとの間も、イエスと身内の人々との間も、中傷や襲撃という形となって現出しているけれども、つまり、外見的には、ユダヤ教内の「内輪もめ」とか、家庭内の「内輪もめ」のようにみえているけれども、主イエスの究極的目的たるみ旨(十字架の死と復活)から見返してみるならば、「内輪もめ」なのでは決してない。

 そうではなく、神と人との「和解」と、人と人との「和解」こそが、「内輪もめの譬え」によって、指し示されているのだ。つまり「内輪もめ」は滅びへの道だが、現実に生起しているイエスの言葉と振る舞いは、滅びどころか「和解」への道だというのである。

 人は譬えの外形に拘泥していては、本質を見誤る。現実に起こっていることを忘れてはならない。主イエスは、現実として悪霊・サタンを追放しているのだ。この現実から寸分も離れてはいけない。サタンはサタンを追い出すことはできない。そんなことをしたらサタンが自滅するだけだ。だから律法学者たちの言い分は破綻している。

3.律法学者たちの論理

  彼らの言い分は二つだ。一つは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」というもので、悪霊の頭ベルゼブルがイエスの「力」の真の主体者だという理屈だ。第2は、イエスは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」というもので、イエスの「力」は「悪霊の頭」によるものだと言う理屈である。この理屈は、イエスの「力」の真の主体者はベルゼブルであり、その「力」は悪霊の頭ベルゼブルの「力」だというものである。

 この理屈とイエスの論理との違いは、イエスのほうがサタンはサタンを追放することは不可能、自滅するからとしている。

 それに対して、律法学者たちはサタンはサタンでも他のサタンを追放する力をもつ頭級のサタンならば、追放できるという前提だ。サタンにも序列があるという訳だ。 なるほど、そう来るかという理屈は彼らなりに筋が通っている。

 しかし、見落としてはならないのは、この理屈の盲点は、悪霊を追放する具体的な「力」を、彼らは単にそのように解釈しているにすぎないという点である。彼らは彼らの都合で、勝手に、「決めつけ」ているにすぎない。イエスが現実に、悪霊追放の奇跡を行っている事実を、律法学者たちは勝手に悪霊の頭ベルゼブルの所業だと解釈をあてはめているだけなのだ。

 言うまでもないが、ただ「決めつけ」るだけなら、容易な事だ。容易でないのは、現実に悪霊を追放する事のほうだ。

 律法学者たちはただ自己都合で勝手な解釈、レッテルをはるだけだが、イエスは現実を動かしている。この差は無限だ。

 解釈する方はいかようにでも解釈可能だが、現実に奇跡を起こすことは、現実の「力」が働いているからこそ起きている。この力を律法学者たちは「悪霊の頭ベルゼブル」と言って、イエスを「ベルゼブルに取り憑かれている」と、「追放」しようとしているのだ。

 ここで気付く事は、まさに律法学者たちは、イエスという「悪霊の頭ベルゼブルに取り憑かれた」男を、ユダヤ教社会から「追放」(悪霊追放)しようしていることだ。つまり、彼らこそ、「悪霊追放」しようとしている当事者だということだ。

 律法学者たちはイエスを排除しようとしている。その論理はイエスが「悪霊の頭ベルゼブルに取り憑かれた男」だからとういう訳である。

 イエスは、「悪霊追放」の奇跡を、個人に対して行っただけではない。この論争の舞台そのものが、イエスを悪霊と決めつけて排除・追放しようという律法学者たちの中傷・攻撃・襲撃だったのだ。

4.「悪霊」の正体

 イエスは、ご自身が「悪霊」と同一視され、排除・追放・攻撃の対象とされているベルゼブル論争という舞台において、真の悪霊の正体とは何なのかという真理を明らかにされた。

 悪霊の正体は、単なる解釈とか決めつけによるレッテルなのではない。そうではなく、人間の内奥に隠れ潜んでいる魔物としての「共感力」なのだということであった。

 律法学者たちは何故に、イエスを悪霊とレッテルをはるのか。「気が変になっている」と身内を追い込んだ世評を、人はなぜ声高に語るのか。身内は現実に生きている生身のイエスをかばうでもなく、弁護など思いもよらず、暴力をもって襲撃さえする。何故なのか。それは彼らには、当時のユダヤ教社会の無言の圧力、言い換えれば社会に波風をたてずに平穏無事に過ごしてきたところに、主イエスが具体的・現実的な奇跡を行い続けることへの恐れと不安があった。理解できない事柄に対する動揺が社会の同質性を揺らがせているという漠然たる違和感が、共同体の紐帯を脅かしていると感じていた。それを喚起したのは、「共感する力」だ。漠然たる不安が「共感力」によって、異質な分子への根拠のない嫌悪、排除する力へと醸成されてしまう。この曖昧な差別感情が排除の論理を作り出す。決めつけがはじまる。そしてその決めつけは確信にまで増幅される。

   人々は、元来は根拠のない決めつけを負の共感力によって強化させてゆく。彼らは神への愛、ユダヤ共同体への愛着という正義の大義によって着飾られた「確信」 に満ちて、異分子の排除を正義と信じこんで、この舞台では、イエスを排除にかかったのだ。

 主イエスはご自分みずからが、具体的・現実的に神の力をもって「悪霊追放」を数限りなく行ってきた。そのことの偉大さゆえに、「負の共感力」に翻弄された人々は、熱狂的に、イエスの御業が偉大なるがゆえに、「悪霊の頭ベルゼブル」とレッテルをはって襲撃したのである。

5.受難の主

  だから、人のなかに隠れ潜むもの、人を思いやることもできれば、人を憎むこともいとわない、負の「共感力」というべき魔物のような性質を、主イエスは暗々裡に、真の悪霊だと気づかせようと、「内輪もめの譬え」を語られた。しかしイエスの究極的目的は平和であり、和解である。「内輪もめ」すれば滅ぶ他はないのだ。だから神は、徹底して攻撃され、襲撃されることを決して避けることなく引き受けたもうことによって、「内輪もめ」なのではなく、和解と平和をもたらそうと、受難の道を歩まれた。「内輪もめ」など起きてはいないのだ。主イエスは徹して襲撃されていることをやめない。それは「内輪もめ」ではないからだ。主イエスは、徹して襲撃されることによって、実は戦っておられたのだ。

6.略奪の譬え

 主の闘いとは何か。それは、完全に「強い人」を縛り上げることである。

 これは「略奪の譬え」だ。

 主の闘いは、人間内部に隠れ潜む魔物をコントロールすること他ならない。この魔物は、人間に利他的な、慈悲深い行動を促す原動力ともなるものだ。紛れもなく神が人に与えた「よいもの」だ。

 しかし、この魔物は、暴走する。思考停止を引き起こす。ときに愛国心という美名に名を変えて、敵を作り出し、人の道を踏み越えてしまうのだ。

 主イエスの闘いは、この強い人=魔物=共感する力を、人をして制御する知恵を、人に与えたもう。

 家財道具は、人の魂の内面世界の比喩であろう。主は、人を魔物の手から守るために、魔物を制御すべきことを、この譬えでお示しなった。

 われら人間は、主イエスによって内面に潜む「強い人=共感力」を縛られてこそ、自分自身の共感力という魔物を、正しく制御することができる。

 主よ、どうぞわたしたちの内面に隠れ住む魔物のような力を正しく用いて、これを人と神を愛する道具となさしめてください         主の御名により祈ります。