2026年2月15日(日)(降誕節第8主日)
『奇跡を行うキリスト』
マルコによる福音書4章35節~41節
東濃の三つの教会を一人の牧師が兼任しております。
2026年2月8日(日)(降誕節第7主日)
マルコによる福音書2章1節~12節
『いやすキリスト』
『いやすキリスト』
マルコによる福音書2章1節~12節
1.数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2.大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
3.四人の男が中風の人を運んで来た。
4.しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
5.イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
6.ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
7.「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
8.イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
9.中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
11.「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
12.その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
1.信仰心がないような人から感じる恐さ
最近、年齢のせいなのかどうかわかりませんが、神さまへの信仰心がないなあという感じがする人と接すると、心にダメージを受けるというか、しばらく心が痛めつけられたような感覚に陥るのです。
本人は、人を傷つけているつもりは、おそらくまったくないと自分では思っていると思います。けれど、信仰心について、ほとんど関心もなければ、場合によっては見下しているような感じが、そのことばづかい、その表情からにじみ出てくるものが、痛いのです。
こんなことでは伝道などできないなあ、と思うのですが、たぶん伝道という事柄は、そういう痛みを受けとめて、逆に主イエスの愛をもって愛し返してゆくことなのだろうと、意を決して歩き出さないといけない。そんなことを考えている今日この頃です。
2.主イエスの愛の道は痛みの道
苦難の道行きをされる主イエスは、ご自分に従ってきている「大勢の人たち」がやがては、主イエスを十字架につけ殺してしまう人たちのなかに紛れ込み、結果として主イエスを見殺しにする、裏切るということを熟知しながら、この「大勢の人」たちをみつめておられたのだと思うと、主のこころの痛みがなんだか、いっそう伝わってくるような気がします。
肌感覚で、痛くなります。
主イエスの苦難の道行きは愛する痛みの道なのだと実感します。
愛するということは痛むことなのだということが、主イエスから感じられてくるのです。
3.四人の男が中風の人を運んで来た。
「四人の男が中風の人を運んで来た。」しばし、この四人の男tたちに思いをはせよう。
四人の男たちは集まった。友人であろう中風の人をイエスのもとへ連れてゆこうと、お互いに思いをひとつにしたのだ。
彼らにも暮らしがある。仕事もあれば家庭もあったかもしれない。けれども、彼らは友人のためになんとかしたいと思い立ったのだ。一人が他のひとりに話した。そしてもう一人にもさらにもう一人にも話した。あの方のところへ彼を連れて行けば癒していただけるのではないか。四人の考えは、主イエスなら友人を癒してくださるという期待・願いで一つにまとまった。それで、彼らは普段通りの暮らしを中断することにした。仕事を休もう。他の用事もいったん棚上げにとすることにしよう。
彼らには、中風の友人のため、彼らの暮らしを中断するという小さな犠牲を払うことになんの躊躇いもなかった。
これくらいの犠牲はなんともないさ。大切な友人が癒されるならば、そんな嬉しいことはないからと。彼らは行動を共にした。
中風の友人は嬉しかったに違いない。みんなありがとう。わたしのためにそこまでしてくれるんだね。有り難う。
4.道を阻まれて
他にも、イエスの噂を聴き知って、カファルナウムに、再び帰ってくれたイエスなら、数々の癒やしの奇跡をされたあの方ならきっと癒していただけると期待した人は大勢いた。
大勢の人が集まったために、戸口の辺りまですきまもないほどになった。皆が癒していただきたいという期待・願いでいっぱいいっぱいだった。われ先にとすし詰め状態になっていた。
とても中風の人を連れて戸口のところまで行けそうにない。道をゆずってくれる人もいなかった。道は阻まれていたのである。
5.われ先にと道を阻む「信仰」は真の信仰か
他人に道をゆずらないこの熱心さは、自分の期待・願いを他人のそれに優先させるという熱心さだ。我先の熱心さだ。
ほかの誰よりもわたしはあなたを慕っています。ほかの誰よりも、わたしはあなたを信じていますから、癒してください・・・。
こういう「われ先にの信仰」は、主イエスに真実従う道ではないことは、こうして説明すると、誰の目にも明らかである。
こういう信仰観は、実績主義なのである。競走主義なのである。信仰を量と考えているのである。自分の信仰の量を競い合っている。「実績なき信仰はない」という考えなのだ。こういう考えは,自分がどれだけ大きな信仰を、つまり量的に大きな信仰をもって、一歩でも先に、他人を押しのけてでも先に、神に近づくことが「信仰の勝利」だという考えなのである。
この考えは、神との関係を自分が決めるという考えとなって実を結ぶ。つまり神が自分を救うのではなく、救う神を自分が決めるのである。自分が先に近づけば神は自分を救わねばならないという考えに落ちて行くのだ。そういう神は、自分の思いのままの神だということになる。それでは本当の神ではない。
5.屋根をはがして穴をあけ
四人の男たちのこの大胆な共同行動は、一見するとあまりにも豪胆な方法に見えます。大胆すぎます。屋根をはがして穴をあけるとは、なんという迷惑な行為であろう。この家の家人は、イエスに泊まる場所を提供したばかりに、家を壊されてしまったのです。家人の反応は聖書には記されていないが、この光景を観ていた家人は、さぞかし驚いたことであろう。そして怒ったのではないか。イエスに宿を提供することには、こんな被害もあるものだと覚悟のうえならともかく、はじめての経験だとしたら、やはり当惑しないほうがおかしい。
6.イエスはその人たちの信仰を見て
ところが主イエスは、そんな家人の当惑をよそに、この大胆不敵な無謀な共同行動をやってしまった男たち四人を見て、連れられてきた中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのでした。
ここで気づくことは、主イエスが見たその信仰とは、四人の男たちを見てとマルコは書いているのであって、中風の人の信仰を見たとは書いていないことです。
主イエスの見ている先には、あの四人の男たちの大胆な共同行動があった。そこに主イエスは「信仰」を見たのです。
主イエスは、家人からすれば迷惑行為とも言えるような大胆不敵な四人の共同行動に「信仰」を見ておられたということです。
傍目からみれば、迷惑行為ともなるようなこの傍若無人な共同行動を、主イエスはあきらかに「信仰」の発露を見ておられた。
「大勢の人々」「群衆」の「われ先にの信仰」とは違った、真実な信仰が、彼らの共同行動にはあると、主は見ていたもう。
それは、どういうことなのであるか。
7.聖霊が起こしたもう「切迫」が人を動かす
四人の男たちは、思い立った。あの方ならば中風の友人を癒すことがおできになる。この思いには,不純な動機が微塵もない。ひとかけらの打算もない。友人との交わり・絆には純粋に友情以外の何ものもなかった。そしてこの思いは、一人ではなかった。四人が殆ど同時に語り合い一つとなって、それぞれの事情を克服し、犠牲を惜しまずに、ためらうことなく即座に、共同の共同を起こしている。
そして、群衆に行く手を阻まれても、くさることもなく、即座に大胆かつ迅速な共同行動にもためらいがなかった。
その決断は、素早くかつ大胆だった。ここに緊急事態にこそ、彼らのなかに働いている動機が、聖霊が生起せしめる切迫感にみちた「促迫であったことが、主イエスには見えていたのだ。
彼らを突き動かしているのは、神である。聖霊なのであると、主イエスには見えていた。
彼らには人間的諸事情を乗り越えるべき「時」には、即座に決断しなければならない事があり得るということは、当然のことのように感じられていたに相違ない。
その決断は、瞬間の決断なのだということを彼らは感じていたのだ。『塩狩峠』の長野政雄さんは、今この瞬間しかない。今自分の体で列車をとめなれば、次の瞬間ではもう遅いのだ。そういう瞬間に自分の体を犠牲にするという決断を一瞬でくだした。
その瞬間は、神が促した聖霊による「促迫」ではないかと、わたしは考えている。
四人の男たちのこの瞬時の決断も、聖霊による「促迫」だったのだ。主イエスは、彼らの信仰が神の恵みに促されていることを見たのだ。
8.「子よ、あなたの罪は赦される」
主イエスは、四人の男たちに向かってではなく、中風の人に罪の赦しの宣言をされた。
この出来事が教えていることは、「信仰」の共同性である。
四人の男たちの罪を主イエスは問題にされてはいない。罪の赦しは中風の人にむかってなされている。
あの四人の男たちは自分の足でイエスのもとに来られるからだ。
しかし、主がこの四人の男たちの信仰を見て、とあるのだから、彼らの信仰と中風の友人の罪の赦しは、明らかに関係しているはずである。四人の男たちの信仰と中風の友人の罪の赦し。両者の関係はいかなるものか。
信仰は個人のものだと、言われて育ってきましたが、ここに示されているのは、信仰はただ個人のものではないということであろう。
信仰には、共同性がある。中風の友人には、イエスのもとに来るだけの身体的条件がない。自力では歩いてこれないのだ。彼がイエスのもとに来るには、どうしてもあの四人の男たちの共同行動(信仰)が必要だった。あの四人の男たちの信仰は、中風の友人をイエスのもとに連れて来くることができた。この協働の行動が、両者をイエスのもとに連れてきたと言ってよいのだ。だから、四人の男たちの信仰は中風の友人の罪の赦しの宣言に直結しているのである。
具体的に考えてみよう。
足の不自由な人を教会に連れて来ることは、連れて来る人と連れて来られる人の協働の信仰だというべきだということである。
連れて来る人にとっても、連れて来られる人にとっても、両者の協働の信仰が、ここで罪の赦しとして,主イエスによって宣言されているということなのである。
9.そこに律法学者が数人座っていて、心の中で
7.「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
律法学者も神を信じている。そしてイエスが神の独り子なる神ではなくて、ただの人にすぎないのであれば、律法学者の考えは正しい。神以外に罪を赦すことはできない。正論だ。
ところが、主イエスはただの人でない。神の独り子である。そのことを律法学者は知らない。知らないのだから、仕方がないと言えばそうだ。彼らにとってイエスはただの人にすぎないのだから。
しかし、主イエスにとって、律法学者のこの「無知」は、聞き捨てならないことであった。
イエスは強い口調であっただろう。詰問する。
8.イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
9.中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
主イエスはなぜ?と問われた。
ここに表出しているのはきわめて鋭い裁きである。
主イエスがなされる御業、しるし、所謂奇跡は、人間の力によるものではないことは、律法学者とて認めざるをえなかったほどに、驚愕と衝撃をカファルナウムの人々に与えてきたからである。律法学者も知らないわけがない。第1、彼らがここに居合わせる事事態が、イエスのなしたもう行為が神の力によっていることを認めていたからに他ならないはずだ。
ところが、彼らは奇跡を目撃・経験しても、そして驚き、神の御業と認めていても、彼らはなお、かたくなにイエスが神の人であることを完全には受け入れてはいなかった。それゆえ、心の中で、「神を冒涜している」等と思ってしまったのだ。
それに対してイエスは、「なぜ?そんな考えを心に抱くのか」と厳しい裁きを下される。
神の奇跡を目の当たりにしてもなお、心が塞がれている。神の人を神として受け入れようとしない。主イエスは、彼らの心のなかの呟きを痛いほど感じておられたであろう。十字架上の槍のように主イエスに突き刺さってきたに相違ない。
10.地上で罪を赦す権威
10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
槍のようにイエスに突き刺さる不信仰の言葉は、十字架の痛み同様に、主イエスを苦しめていたのではないか。すでに、もう主イエスは、十字架への道を苦しみ痛みつつ歩まれている。
律法学者の槍のような言葉に耐えながら、主はなおも信仰について、重要な事柄を開示された。
神の御業は、単に意味表示するにすぎない言葉と、神の力が現実に働いている言葉との区別である。
主イエスの言葉は無論後者である。しかし人の言葉は前者にすぎない。前者は信仰がなくても語る事ができる。無神論者でも同じ言葉を語ることができる。しかしそこには神の力が働いてはいない。
主イエスが、あなたの罪は赦されると言われれば、現実に赦されるのだ。主イエスが「起きて、床を担いで歩け」と言われれば、現実に起きて歩きだすのである。
信仰なしにでも言える言葉は語るに易しい。しかし実際に、起きて、歩きだすようになる神の言葉は神の力なくては語ることはできない。
だから、主イエスは、ここで、みをもって、実際に神の力によって語られたことを、お示しになられたのだ。
10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
11.「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
12.その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。
主は現実に神の力をもって、中風の人を起き上がらせた。主イエスが語る言葉が、神の独り子なる神の言葉であることが、ここで実際に証明されたのである。これは、律法学者たちの不信仰が律法学者自身にとっても明らかなることであったはずあった。
11.人々は主イエスに神を見ることができたのか
人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
この神の御業を目撃し、経験した人々は、ここでも驚愕した。
「このようなことは、今まで見たことがない」と驚愕しているのだ。しかし、この驚愕は、はたして主イエスのうちに神の力が働いていると完全に受け入れることを意味したのだろうか疑問が残る。人々はイエスに神が働いていることを完全に信じたのか。「神を讃美した」と結ばれていることが気にかかる。
人々は、たしかにこのしるしをみて神の力を実感したはずだ。だから神を讃美した。しかし、神を讃美したが、彼らは、その神の力が主イエスの言葉に宿っていると本当に実感したのであろうか。イエスを神の人だと、ここで信じたのだろうか。
神を讃美はしたが、主イエスを神の子の権能をお持ちの方だと信じたのか。もしかすると、中風の人を癒やしたのは神の業だと認めつつも、
イエスを神の人だとは区別して、いまだ完全には受け入れなかったのではないか。
いくばくかの疑問が残るのである。驚愕しかつ神を讃美した群衆は、主イエスをやがて殺す側に豹変してゆく。主イエスはこの讃美を痛みと感じたのではないかと、わたしは懸念しているのだ。
2026年2月1日 (降誕節第6主日)
『教えるキリスト』
マルコによる福音書4章1節~9節
『教えるキリスト』
マルコによる福音書4章1節~9節
4
1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
1.おびただしい群衆の動機の真面目さと危うさ
主イエスは町々で数多くの奇跡を行い,人々は驚嘆し、生業を放棄してまでして、イエスの一行に従ってきたことが窺わせる記述である。
しかし、われわれは既に、マタイ11章で主イエスが、「悔い改め」という実を結ばない町々を叱ったという事実を知っている。
イエスのあとを追って集まって来た「おびただしい群衆」は、イエスにつき従ってはいても、この人々もまた、イエスの叱責を受けた人々なのである。
この群衆は、エルサレムまでついていった人々もいたであろう。そうではなくて、途中で家に戻った者もいたかもしれない。それでも、この「おびただしい群衆」が、イエスに、彼らなりに真剣に、真面目に、信じてついてきたことは間違いない。彼らの真剣さ、真面目さは疑いの余地がないのだ。彼らは彼らとして純粋な動機でイエスについてきているのである。
しかし、これまで黙想してきたように、彼らは主イエスから叱責の対象でもあった事も厳然たる事実であった。
イエスが行ってきた「奇跡」(ユダヤ教でいう「しるし」)を直接目撃し、経験したことによって引き起こされた衝撃や、驚愕が彼らを、イエスにつき従うという行動へと向かわせたことは間違いない。
しかしながら、奇跡の目撃・経験がイエスへの追従を引き起こしたとしても、それがただちに、主イエスへの真正な信仰告白であったかと言えば、必ずしもそうではなかった。その「事柄」が、主イエスの「叱責」によって明らかとなっていた。彼らの動機・彼らの追従は、主イエスの十字架の死の極みにおいて、実に鮮明に「裏切り」へと変わる。イエスの追従者が、イエスを殺す側へと、変貌したのだ。
2.舟に乗って腰を下ろした湖上のイエス
イメージとして思い描いてみますと、「おびただしい群衆」と主イエスとの間には、「湖上」と「湖畔」」という隔たりがある光景が浮かび上がる。
この隔たりは、主イエスが群衆との間に設定したものと考えられる。主イエスは、追従する人々から、しばしばみずから距離をとられたからだ。一人祈りに山に向かわれたこともあった。ここでも、主イエスは群衆から、あえて距離をとって舟に乗られたと見るべきだろう。
湖上から、湖畔の群衆に向かって、「種まきの譬え」を語り始められた。
3.「種まきの譬え」
この譬えは、「種」は神の言葉、直接には主イエスの言葉を指し示す。神の言葉を聴いた者が、はたして真実な信仰告白に至るのかどうか、至らずに終わる者の三様を3番目の譬えまでで示し、最後の4番目の譬えが真実な信仰告白をした者として、祝福するという譬えだとして知られる。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」
「種を蒔く人」は、究極的には主イエスのことだ。主イエスが神の言葉を宣教したという譬えの文言だ。神の言葉の宣教は、神の使命として、イエスは言葉と行為という形で宣教されたと、神の主体的な人への関わりが確認される。
4.「蒔いている間に、落ちた」
しかしながら、種蒔きという主体的なイエスの行為が強調されているの、最初の三者三様は、すべて「蒔いている間に、落ちた」と書かれている。このことから、これらの場合は、「蒔いた」のではなく、すべて主体的な宣教の対象としてではなく、「蒔いている間に、落ちた」という偶発的な出来事にすぎないことが対照的に浮かび上がる。
すなわち、最初の三者三様の場合は、そもそも宣教の対象として選ばれていないという偶発的な「場合」だということが暗示されているのだ。「落ちた」という言葉にそれがよく表されている。「蒔いている間に、落ちた」のであって、その地に最初から、そこをめがけて種を蒔こうとしたのではないということなのである。
5.三者三様の地に、「落ちた」
(1)「道端に落ち」
→「鳥が来て食べてしまった。」
(2)「石だらけで土の少ない所に落ち」
→「そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」
(3)「茨の中に落ちた」
→「すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」
①「道端に落ち」た種は「鳥が来て食べてしまった。」という譬えは、「サタンが来て神の言葉を奪い取ってしまう」ことを意味している。神の言葉が奪い取られる者だというのだ。この場合、その地には「種」は消滅する。
②「石だらけで土の少ない所に落ちた」場合は、「そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」という。この場合は「神の言葉を聴いて、すぐに受け入れるが「根」がない。だから艱難や迫害が起こるとすぐにつまづいてしまう」者だというのである。
土地そのものが石だらけで土がないから根を地中深くはることができない。これは御言葉を継続して受け続けるという神の言葉を不断に、繰り返し学び、その学びを継続するという意思が問題となっている。根付かない場合とは、継続して神の言葉を聞き続ける意思がない者の譬えとなっているだ。
③「茨の中に落ちた」種は神の言葉が成長してゆくために必要な「光」がとどかないために、「すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」という譬えだ。
「この世の思い煩いや富みの誘惑が心に入り込み、御言葉をふさいで実らない」という意味である。
「茨」が、「光」を遮るというのである。「茨」は「この世の思い煩いや富みの誘惑」だというのである。
つまり、人間の欲望こそが、神の言葉の成長を阻害する「茨」だというのだ。
6.「良い土地に落ちた」種
4番目の「種」も「落ちた」となっているが、この「落ちた」の意味は、3番目までのあの三者三様の場合とはわけが違う。種は発芽し、根をはり、実を実らせる。この種は「よい地」に「落ちた」のである。種を蒔く人が種を蒔くという目的に一致している地なのである。目的を達成する地なのだ。この地は、そもそも目的の地なのであり、種はその地に偶然こぼれ落ちたのではない。まさに意図・目的をもって「蒔いた」のである。決して偶然こぼれ「落ちた」のではない。目的の地に「蒔いた」。「落ちた」とマルコは最初の三者と同じように、記したが、「落ちた」のでない。あくまでも「蒔いた」。
あえて同じ「落ちた」と記したのはなぜか。
選ばれていない地と選ばれた地が、あえて同一の「落ちた」で示されたことが意味する者は何であるか。
7.①消滅、②枯死、③徒花(あだばな)
三者三様の選ばれなかった地の比喩には、主イエスの宣教を聴く人々の、神の言葉に対して向き合う態度という現実が背景にあるだろう。いずれもが、主イエスへの「信従という実」を結ばない態度が反映しているのだ。これまでの群衆の魂の態度のことである。
そして、「これまでの態度」の反映だけではない。「これからの態度」の行く末についての将来の予言の比喩でもある。むしろ、将来の態度(「これからの態度」)の予言としての比喩のほうが、重要なのだ。
なぜなら、この三者三様の①消滅、②枯死、③徒花(あだばな)とでもいうような精神的態度は、これからの主イエスの苦難の道行きにおいて、イエスを苦難へと追いつめるのは、これらの精神的態度(霊の動き)だからである。この霊的動きこそ、イエスを十字架に追いやるのである。
8.選ばれなかった地の人々の選びは?
通例は、この選ばれなかった地のような精神的態度を反面教師として、このような者にならないように、自省し、選ばれた地として、神の言葉をみずからのうちで「芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなる」ようにしましょうという具合に、警句でもあり奨励でもあるような理解をする。
それはそれでよい。確かに自省のための警句として充分な比喩であり、奨励としてみずからの信仰(精神的態度)を鼓舞する比喩として受けとめてよいとは思う。
ただ、「それでは、選ばれなかった地でしかなかった人々、『おびただしい群衆』の命運はどうなってしまうのか」という必然的な問いが胸に去来することを、われわれは、禁じ得ない。
イエスを十字架に追いやった「おびただしい群衆」の命運はどうなってしまうというのか。
通常読み込まれなかった行間から生起する問いかけ、これがこの比喩が、本日われわれにとっての最重要事なのである。
三者三様の、いずれもが、「不信仰」に終わる人々、これらの人々に「救い」はあるのか。
神は、イエスは、救われざる人々を放置し、「滅び」へと落としてしまうのか。神は愛の神であれるのではないか。そうであれば、この不信仰な人々を見棄てたもうのか。
棄却された人の命運は愛の神の対象となり得るのか。「救いと」と「滅び」を人間的にわけて、ひたすら「救われるように」と鼓舞するだけが、この比喩の意図するものなのか。
これはキリスト信仰にとって、きわめて根源的な問いであろう。
9.神学的な「問い」と「答え」
愛の神は、救われない人々を永遠の滅びへと棄却するのか。それを「神の愛の愛」と主は言われるのか。
この「問い」は人類にとって最重要な「問い」のひとつだろう、とわたしは思う。
「永遠の滅び」への恐怖を煽り立てることで、選択肢をなくし、一定方向へと導くことが神の愛なのか。
「愛」と「棄却される人の命運を定める神の行為」は相容れない矛盾に見える。単純な三段論法では、愛の神と永遠の滅びへと定める行為は、結びつかない。
「永遠の滅び」、「救われない人々の命運」を神は本当に望まれるのか。論理的には結びつかないではないか。
この根源的「問い」の「答え」は、主イエスがなぜ十字架の死を死なねばならなかったのかにかかっている。
なぜ神は人なりたもうたのか。
なぜ神の子が死なねばならなかったのか。
なぜ神の子は殺されるために宣教したのか。
なぜ神の子は甦られたのか。
なぜ神の子は天に昇られたのか。
なぜ主イエスは、「不信仰な人々」に殺されなければならなかったのか。「答え」は、神の子主イエスは、この「不信仰な人々」の救いのために、殺されなければならなかった。「神の愛」は「不信仰な人々」を救うために、「不信仰な人々」によって殺されなければならなかった。神の愛は、そのままでは「永遠の滅び」へと定められねばならない人々を救うために、独り子なる神の子を犠牲の羊、贖いとされたのである。この贖罪によって、「永遠の滅び」が永遠に滅ぼされることを神は望んでおられる。ここに神の愛がある。「滅びの滅び」である。
神は愛の方である。おびただしい群衆の「不信仰」を滅ぼし、人々を救うために御子を遣わされたのだ。
すべての人は罪人である。神のこの愛により、罪人にして、義人とされるのである。「義人にして罪人」なのだ。
2026年1月25日(日)(降誕節第5主日)
マルコによる福音書1章21節~28節
『宣教の開始』
『宣教の開始』
マルコによる福音書1章21節~28節
21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
1.カファルナウムという町
イエスは故郷ナザレではなく、カファルナウムという町を「わたしの町」と呼んでいた。ここでペトロをはじめとした弟子たちを呼び出した。ペトロの家もみつかっている。イエスはペトロの家に滞在していたかもしれない。この町でイエスは多くの奇跡を行った。本日は、この町の会堂での出来事である。
2.安息日に会堂に入って
会堂、それはユダヤ教のシナゴーグと呼ばれる会堂である。主イエスは、ここ会堂で聴衆を得ている。このことは、主イエスがユダヤ教社会のなかで、福音宣教を開始されたことを意味する。堂々と会堂に、しかも安息日に「教え始められた」のである。聴衆は、すべてユダヤ教徒だ。聴衆であるユダヤ教徒は、イエスを、「教え」を説く者として受け入れていたのである。
安息日は、律法学者たちが教えを説く場となっていた。聴衆、会衆は礼拝をしに集まっていたのだから、イエスが教えを語り始めたときには、会衆は律法の解釈を語るものだとばかり思っていたはずではないかと考えられる。はじめから、驚くべき教えを語ることを期待していた筈はない。
会衆は、いつものように律法のすぐれた解釈を,静かに聴こうと待機していたに違いない。イエスは、彼らにとってはラビとしては新顔だけれども、あくまでユダヤ教のラビとして受け入れていたと考えるべきだろう。
3.人々の驚き
ところが、会衆がこの新顔の青年の口から語られた「教え」を聴いたとき、彼らは「非常に驚いた」のであった。その理由は、彼らが聴いた言葉は、どうみても「人に見える」この青年の語る言葉は、人の口から語られたものとは到底思えなかったからだった。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とマタイは記述した。「権威ある者として」というのは、人の権威をはるかに超えた「神的な権威」を意味するからだ。
この「人々の驚き」は、しかし、会衆がイエスを、メシア、キリストと信じたという信仰告白にまで至る「驚き」ではなかった。
4.「驚き」は直ちに信仰告白の次元ではない。
会衆は、イエスの言葉に、たしかに神的な権威を感じたし、聴いた。しかし、人は神の権威を感じたとしても、そのことから直ちにイエスへの信仰告白の次元へと飛躍することはないということを、わたしたちは、ここでの会衆のことを黙想するとき、認めざるをえない。彼らはたしかに衝撃をうけた筈だ。驚愕した筈なのだ。しかし、彼らの人格内部に彼らの全人格を完全に動かすという「動き」にはならなかったからだ。
この町の住人は、1500人ほどだったようだ。この町からイエスに従う弟子の共同体が生まれたのは事実である。しかし、弟子たちのあとに続く弟子の共同体が生まれ、弟子たちと同じ歩みをはじめたとは書かれていない。「悔い改め」はついに起きなかったのだ。マタイによる福音書11章の以下の記述に注目したい。
20それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
23また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
24しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」わたしのもとに来なさい。
人は、神によって選ばれたならば、人の力には関係なく、信仰は生起する。がしかし、そこに神の選びがないのならば、いかに神の圧倒的な「権威」や「奇跡」を経験しても、信仰は生起しないのだ。
わたしたちは、「人々の驚き」の現実をみて、主イエスの「宣教」、主イエスの「伝道」が、ただちに実を結ぶことはなかったという現実を見る。
実に神がなさる業は、人の思いを超えているのだ。
5.「神の選び」は「悔い改め」を結実する
「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」とマタイは記している。
カファルナウムは、主イエスに愛された町であった。
人々は数多くの奇跡を目撃・経験したが、ついに悔い改めなかったために、強く叱責を受けたのだ。
だから、わたしたちは、カファルナウムの轍を踏むことなく、自らを常にみつめ直して、「悔い改め」ることが、必要なのである。これを「自己糾明」とイグナチオ・デ・ロヨラは呼んだ。(『霊操』)
6.汚れた霊に取りつかれた男のこと
なぜだろう。礼拝に来ている会衆になかに、「汚れた霊にとりつかれた男」がいて、叫んだという。
まずこの男が、会堂にいたということをどう理解すべきかということが気になる。イエスが登壇する前には、会衆は静かに礼拝を守るこころの準備をしていたことであろう。そのときには、この男は他の会衆のなかにいたはずであるけれども、おとなしくしていたのだろう。他の人となんら変わりなく、「汚れた霊にとりつかれた男」だとは誰も考えなかったと、わたしは考える。つまり、人に対しての迷惑行為をするようには、見られてはいなかった。
イエスが「権威ある者として」語り始めると、会衆はその神的な権威に驚愕し始めた。その男は、イエスの神的な権威と、それに衝迫を受けた会衆の反応に呼応するかのように、突如として反応したのだ。
この男の叫んだ言葉は、イエスが神的権威をもって語り出すと同時に、この男の中の「汚れた霊」が、この男をして語らせたのである。叫んでいるのはこの男にとりついた汚れた霊なのだ。ゆえに、この男自身が語っているのではまったくない。彼に取り憑いている「汚れた霊」が語っているのだ。
7.「汚れた霊」の挑戦とその目的
24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
「汚れた霊」は、イエスのことを知っていた。「ナザレのイエス」と呼んでいることからわかる。相手の名を知っているということを相手に知らせることで、彼はイエスに挑戦しているのだ。「こっちはお前の正体を知っているぞ」とばかりに優位な立場に立とうとしているのだ。
会衆が大勢いるなかで、彼のみが「イエスが誰であるか」を知っていた。彼は自分がイエスよりも上であると他の会衆にアピールしたのである。
「みんな、この新顔のラビをきどっている若造は『ナザレのイエス』だ。オレはこの男を知っている。正体はこのオレには分かっている。『神の聖者』だ。」
「汚れた霊」は、イエスに向かって叫んでいるが、その内容はそこに居合わせた会衆にも聴かせていたのである。
「汚れた霊」の正体が、この「叫び」によって露見した。「イエスの正体」を暴露することで、彼の目的が吐露された。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」
汚れた霊の動機と目的は、内容からして明白だった。
それは、「関係の断絶」である。
イエスが神的権威をもつ『神の聖者』だということを彼はよく知っていて、そして、それゆえにこそ交わりを断ちたいということが彼の根本動機だということなのであった。神との関係を持ちたくないのである。これこそが、「霊の汚れ」の内容なのである。イエスが『神の聖者』だからこそ、関係したくないのだ。この動機を、彼は会衆にもアピールしている。
さらに彼は、イエス到来の意味、すなわち神がイエスをこの世に遣わされた目的をも知っていた。「我々を滅ぼしに来たのか」という言葉がそれを示している。
神が人類を救おうとされていることを彼は知っている。神との完全な交わりを、イエスは人類にもたらそうとしている。それは「神との関係断絶」という事態を、「神との関係回復」へと完全にかえることであり、「人間」から「汚れ」(すなわち神との関係断絶)をとりのぞくことである。
ゆえに、この「汚れた霊」は、ただこの気の毒な男に取り憑いているというだけの存在ではない。人類の「汚れ」を代表している「霊」なのである。
彼の狙いは、会衆を神との関係断絶を「感染」させることだった。だからこそのアピールなのだ。
8.主イエスの命令
「汚れた霊」の「叫び」を聴いていた会衆は、イエスの教えに驚愕し、震撼を覚えたけれども、「汚れた霊」の「根本動機」は、彼らにとっても、同罪の動機が心の奥底にはあるので、「汚れた霊」の言葉に、彼らも共感していたと、わたしは考える。「汚れた霊」は、この哀れな「取り憑かれた男」だけのものではなく、会衆ひとりひとりにも共通している罪と、深いところで通じ合っていた筈だ。この「汚れた霊」に取り憑かれた男は、居合わせたひとりのひとりの「鏡」だったのだ。他人事ではないのだ。
だから、主イエスの叱責は、直接にはひとりの男に向けられていたが、実は、居合わせた会衆ひとりひとりにも神は語りかけておられたと理解すべきなのである。それどころか、ひいては、全人類にむけての叱責なのだ。イエスは、自分自身の内奥に潜む神との交わりを拒否するという根本動機を、自分自身から引き離せ!と命じておれるのである。
25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
9.悪霊追放を目撃した会衆の「驚き」と「議論」
27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
「汚れた霊」の挑発は失敗に終わった。
主イエスの命令は、あくまで神との交わりを拒否しようとする人間の罪を、人間自身から引き離し、追放する命令だった。
この命令には実効力が伴っていた。悪霊は男に痙攣をおこさせ、退散したのだ。このありさまを目撃、経験した会衆は、再度改めて驚愕した。そして互いに論じ合った。彼らはイエスとの今後の交わりを、どうすればよいか「相互に」議論をするようになった。
彼らはイエスの神的な現実性を経験している。そして「悪霊追放」の事件をどう理解したらよいのか、決めかねているし、「権威ある新しい教えだ。」と、イエスの教えを受け入れてもいるようだ。
ただ先に確認したように、イエスとの今後の交わりを、どうすればよいか「相互に」 議論をするようになった。
衝撃・驚愕・震撼を彼らは経験しつつも、あの男をどこかで、他人事として距離をおいて見ている。自分の問題とは受けとめていない。あの「男」は会衆全員の「鏡」なのに、彼らは「「鏡」を見ようともしない。
10.評判
28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
「イエスの評判」は、速い速度で、ガリラヤ地方の隅々になるまで、広まった。
しかし、この「評判」は、ついに「悔い改め」という果実を実らせることはなかった。最初の宣教は、真実な信仰告白を告白する人々を生み出すことはなかったのである。そのことはマタイ11章20節以下に示されているように、イエスは「悔い改めない」カファルナウムを厳しく叱責していることでわかる。
神の奇跡を間近に経験しながら、カファルナウムの人々は、「悔い改めの」の実を結ばなかった。イエスについて行った者達も、結局最後は、ゴルゴタの丘で、主イエスを嘲笑する側に身を隠したのだ。
しかし、この現実こそ、すべての人に捨てられ、非難・中傷に晒され、十字架の死へと向かうという独り子イエスの贖い主としての使命にとって、必要な「果実」であったのである。
主イエスは、「殺す側の論理」によって「殺される側」となるため、この道を歩んでおられるのだ。
この主イエスの御苦難と、同道することこそが弟子たるわたしたちの道なのである。
主よ、あなたの御苦しみを、偲ばせてください。アーメン
2026年1月18日(日)(降誕節第4主日)
『最初の弟子たち』
マルコによる福音書1章14節~20節
『最初の弟子たち』
マルコによる福音書1章14節~20節
坂下教会での宣教です。(午前)
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
18 二人はすぐに網を捨てて従った。
19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
以下は宣教原稿です。(あくまでもメモです。)
1.献身
マルコにおける最初の弟子たちの召命は、「献身」とはいかなるものであるかを、きわめて端的に示している。
キリスト者はすべからく「献身」者である。わたしたちは献身しているのだ。その自覚をもって生きている。
だから、この弟子たちの召命から、「献身」とはいかなるものなのか、深く学ぶところがあるのである。
2.神からの接近
「献身」は、無論のこと、自らの意志で、文字通り身を捧げるのであるが、矛盾するようだが、自分からすすんで「献身」しているようであっても、実の所は、自分のその献身の意志というものは、神ご自身が、まずもって接近してくださり、わたしたちの魂を選び、捉えてくださっているがゆえに、「献身」しないではおれない自己とされているということなのである。 わたしが神を選んだのではない。神がわたしを選んでくださった。選ばれたがゆえに、自ずから神に従おうとする心が内心に沸き起こり、その心に忠実に従っているだけなのである。
「シモンとシモンの兄弟アンデレ」もそうだった。彼らが主イエスを見いだしたのではなかった。彼らは彼らの仕事にうちこんでいた。そこにはなんの不満も悩みもない。職業人として誇りをもって仕事に励んでいたのだ。彼らにとって、「漁師」という仕事はかけがえのないものだったはずだ。
そこに、主イエスが突如として現れた。
16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
主イエスがシモンとアンデレを「ご覧になった」のである。
17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
18 二人はすぐに網を捨てて従った。
3.信従
主ご自身が、まずはじめにシモンとアンデレをご覧になって、命じたもうたのである。神からの呼びかけが先行しているのである。人が神を選んで信従するのではない。神がまずもって呼びかけてくださったのだ。信仰、信従は、人間の側の求道心とか宗教心とか、人間内部にそなわっている何かに起源するものではないということを、わたしたちははっきりと知らねばならない。
シモンとアンデレが、イエスを知って、その偉大さに感動・感銘をうけて、「この人なら信頼できる」と考えたので従ったのではまったくないのだ。信仰・信従は、人の側に選択の権利があって、その権利を行使して始まる、という事柄ではまったくない。神を選ぶ権利は人にはない。神は偶像ではないのだ。
偶像は原則、人が選ぶことができる。なぜなら偶像は人が創ったものだからだ。自分が創ったものは自分で毀すことも、選ぶことも容易い。しかるに神は人がつくった偶像ではない。神は神なのだ。神は人を創造されたお方であって、創り主なる神は人を選び、人を呼び求めてくださった。
主イエスがシモンとアンデレをご覧になって、呼ばわったように、わたしたちにも主イエスが呼ばわってくださったからこそ、わたしたちは主を、神を慕い、愛し、従おうとする魂が揺り動かされるのだ。
4. 二人はすぐに網を捨てて従った。すぐに。
主イエスから呼びかけられた「二人」は「すぐに」網を捨てて従った。二人は、主から、網を捨てるようにと明じられた訳ではない。二人の判断は同時的に起きた。示し合わせた訳ではないし、何か高邁な議論をして結論を出したという事ではさらにない。二人同時的に生起したこの一連の行為は、信仰・信従の原形とも言うべきものだ。
「網を捨てて・・・」。この行為が含意する事柄は重大である。彼らは財産を捨てたのであり、生業の道具を捨てた。彼らはこれからの「日々の糧」はどうしようかなどという算段は何もなかった。必要なものは神が与えてくださるというイエスの教えも、彼らはまだ知らない。
知らないにもかかわらず、二人は、そのような「生きるすべ」をも考えず、ただ主イエスの命じられたまま、「従った」のである。ここには、「献身」の原形がある。
「すぐに」。この「即座に」行動が生起する「動き」には、信仰・信従の特質を観ることができる。信仰・信従とは「動き」なのである。信仰・信従は「人格の運動」なのだ。
5.超俗・献身
19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも、まず主ご自身がご覧になり、そしてすぐに呼ばわった。彼らも、シモンとアンデレ同様に、モビリテイ(すぐに,即座に)が描かれている。
彼らも、シモンとアンデレ同様に、「行き先を知らずに」従った。主イエスの呼びかけを、神ご自身の呼びかけと信じたとしか見えない。やはり、「行き先を知らずに」、「すぐに」という彼らの動きには「献身」、「超俗」という事柄が示されている。
6.主イエスの明確な俊敏さ
19 すぐに彼らをお呼びになった
この「すぐに」は、主イエスの行動の俊敏さを示している。
ここには「迷い」がない。弟子たちがただちに従ってゆくありさまを想像すると、この確信に満ちた主イエスの行動の比類の無さ、俊敏さには驚かざるをえない。確信に満ちた「動き」だ。なんのためらいもない。
弟子たちの主の召命に応答する俊敏さにも驚きを禁じ得ないが、より以上に主イエスご自身の驚異的な俊敏さから、福音宣教を開始した主イエスの強固な意志を感じないわけにはいかない。実に堂々たる、確固たる旅姿であろうか。
7.洗礼者ヨハネの命運に伴う強固な意志
わたしたちは、主イエスの俊敏な行動から、そして弟子たちの俊敏な信仰・信従・献身の行動からも、開始された主イエスの宣教への不動の意志を察することができる。
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
洗礼者ヨハネのところで、主イエスはヨハネから洗礼をお受けになられたときに、言われたことばを忘れてはならない。
「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マルコ1:16)
主が、「われわれにふさわしいこと」と言われた「正しいことすべて」とは、主イエスの公生涯全体が意味する事柄、すなわち、子なる神として人類を救うために、十字架の道を行く事であった、そのことをはっきりと知ることができる。
洗礼者ヨハネが獄に捉えられたということは、洗礼者ヨハネが、主イエスの歩まれる十字架の死への道に、先だって、つまり先駆者として、罪なきにもかかわわらず死なねばならないという命運を意味していた。
主イエスの先駆者として、いまやヨハネの死が確定的になったことを知り、主イエスは、ヨハネに代わって、ヨハネと同一の道を、ヨハネと共に歩んでゆくというご自身の宣教の道を、歩み始められた。
だからこそ、主は、この苦難への道を、堂々と、弟子たちを呼び集めつつ、その足を進めたのである。
8.ためらいなき足取り
その宣教の道を歩まれる主イエスにはなんの迷いも躊躇いもない。だからこそ、弟子たちを呼ばわる言葉、行動は俊敏極まりない。ここには、主イエスご自身の「献身」の姿がある。 この主イエスの呼びかけに、シモンとアンデレも、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも、実に「即座に」、同時的に、超俗し、主イエスに、信仰・信従した。ここにわたしたちが倣うべき「献身」の姿がある。
主よ、わたしたちは、すでに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」との御言葉を賜っています。主の呼びかけをわたしたちは聞きました。しかし、主よ、今一度、いまここで、くださった御言葉を、あらたにわたしたちの魂の奥底に、響き渡らせてください。そしてかの弟子たちと共に、主と共に歩ませてください。 アーメン
2026年1月11日(降誕節第3主日)
マルコによる福音書1章9節~11節
『イエスの洗礼』
2026年1月4日 (降誕節第2主日)
ルカによる福音書2章41節~52節
『エルサレム訪問』