2026年8月2日(聖霊降臨節第11主日)
ヘブライ人への12章3節~13節
ヘブライ人への12章3節~13節
3:あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。
4:あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。
5:また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。
/「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
/主によって懲らしめられても
/弱り果ててはならない。
6:主は愛する者を鍛え
/子として受け入れる者を皆
/鞭打たれるからである。」
7:あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。
8:誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
9:さらに、私たちには、鍛えてくれる肉の父がいて、その父を敬っていました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10:肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。
11:およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。
12:だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
13:また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。
1.キリストの忍耐に倣う
祖父清水安三が遺した言葉をご紹介します。
「わが人生において学んだ一事。曰わく『忍』。」
すなわち、忍耐こそが、人生を通じてこの一事をこそ学んだというのです。
3:あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。
この聖句を読んだ時に、まっさきに浮かんだ事が、祖父の遺したこの言葉でした。
「よく考えなさい」。熟考せよという勧告です。「キリストの忍耐について熟考せよ」と命じているのです。わたしはただ親族だからという意味で祖父を敬っているのではないと自らを戒めていますが、人生の師と呼ぶ人がわたしには幾人かいます。清水安三、小野一郎、岡山孝太郎と思い浮かべるとすぐ脳裏に浮かんでくるなかの一人として、わたしは歩んできました。
祖父の人生は、わたしのいわばロールモデルだったのです。
※具体的な行動や考え方のお手本となる人物のことです。仕事や人生で「あの人のようになりたい」と目標にする存在を指します。
この方々は、いずれも牧師です。この方々の究極的な目標は、すなわち主イエス・キリストです。だから、つまりは究極的な目標は、キリスト・イエスなのです。この方々は、遠いところにいますイエス・キリストを、近くへと引き寄せてくれた人生の先輩なのでした。
わたしたちの人生にとって、尊敬できる人生の師、先輩がいることがどんなにか大切でしょうか。
歴史の転換点で、人生の師・先輩が、キリスト者として、いかに生きたのか。いかに主イエスに従ったか。そのことを考えずにはおれません。
二千年前のはるか遠くにいましたもう主イエスならば、今・この時をいかに判断し、いかに行動したかを考えることには、自ずから遠さから来る限界があります。けれどももっと身近な尊敬する人生の師・先輩は、具体的な指針を与えてくれます。
わたしたちの人生行路は生涯をかけて、キリストにならいて生きるものです。途中でやめることはゆるされません。
ゆるされないということは、実は途中でやめることができない、不可能だという意味です。途中でやめれば罰があるとかそういう意味ではありません。その「不可能なこと」ができてしまえるとしたら、それはおそらくはじめからキリストに倣う生き方を、実はしてはいなかった、とわたしには思えるのです。つまり、キリストに倣う、キリストに従うという生き方ははじめと終わりが一つなのです。キリストに従う生き方をしようとした人は、かならず最後までキリストに従うのです。キリストはアルファでありオメガでありたもうお方だからです。
キリストに従う、キリストにならう人生は忍耐の人生だというのです。「罪人の反抗を忍」ばれたキリストの道にならう、従う道は、「忍耐」の道です。
裏切られ裏切られ、罵られ罵られ、憎まれ憎まれ、最後は殺される。これがキリストの道でした。この「苦難の道」こそが人類への愛そのものだったのです。
だから、わたしたちがキリストに倣う・従う道を生きるとしたら、キリストが歩まれた道、忍耐の道を熟考し、そしてキリストが歩まれたごとくに、「苦難の道」を行く事に喜びと感謝をささげられたなら、これ以上の栄光はありません。
「わたし」の人生にキリストが「現在」しておられるからです。
キリスト教的人生は、主にある苦難を慕う人生なのです。
2.格闘の人生
4:あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。
この聖句は、古代における拳闘試合を暗示しています。試合の相手は「罪」です。「罪」が擬人化されているのです。古代ローマの剣闘士の試合は殺し合いでした。殺すか殺されるかでした。古代の拳闘試合のグラブには金属が入っていたそうですから、殴り合えば血が流れます。血みどろの試合だったようです。この聖句には、「血を流すまで」とあるのは、「罪」という相手と血みどろになって闘うイメージを呼び起こして、信仰生活上、「血を流すまで」の試練を、いまはまだあなた方は経験してはいないが、そう遠くない時期に、信仰ゆえの迫害にさらされるかもしれない。そのとき、あなたがたは、その苦痛・苦難に耐え忍ぶことを覚悟しなければならない。そういう事態に遭ったとしても、あなたがたはその時こそ、キリストの忍耐について、熟考しなければならない、と勧告しているのです。
まさにそれは「死闘」なのですと、覚悟をもって、キリストの忍耐について熟考せよといっているのです。
3.人生の転換点・歴史の転換点
このような決定的な出来事が、人生行路において、そうしょっちゅう起こるものではないかもしれません。他方常に限界状況におかれている人もいることでしょう。
わたしが問題にしたいのは、ここぞという時に、キリストの苦難に倣う生き方、従う生き方を選択・決断することができるかいなかということです。
本日は日本基督教団が定める平和聖日です。
わたしたちにとって日常生活が平穏無事に過ごせることは何よりも幸いの証しです。日々の平安を願うことは当然です。しかし、人生には、歴史には、どうしても避けられない決定的な時があります。
1941年12月8日、1945年8月6日、9日、1945年8月15日・・・・。いずれも歴史の転換点です。こういう日に、わたしたちも、いま、実はいるのかもしれません。人生が、そういう決定的な日に、主イエスに倣う選択と決断がはたして、自分にできるだろうか。でもそういう具体的な事が、人の人たる「証し」なのではないだろうか。そう思ってしまいます。
いつ人生の転換点・歴史の転換点がおとづれるか、わたしたちにはわかりません。広島や長崎で、一瞬にして消えてしまった何万もの人々も、同じだったことでしょう。
何百キロも離れたところから飛来する爆弾が、平穏な日常を瞬時に破壊するという事態は、世界中のどこかで起きています。もし、わたしがあの時代に生きていたら、おそらく無邪気に日本の勝利を疑わなかったかもしれない。そんな事をふと考えたりします。そうであってほしくはありませんが、自分がそれほど英明だとも思いません。ただ、キリストに倣う生き方、従う生き方をしたいと願うのみです。
4.子に対するように
5:また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。
/「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
/主によって懲らしめられても
/弱り果ててはならない。
6:主は愛する者を鍛え
/子として受け入れる者を皆
/鞭打たれるからである。」
5節6節は箴言3章11~12節からの引用です。
古代パレスチナ人の子育てには、「鞭打ち」があったようですが、この時代は、現代よりはるかに戦争による「死」が身近に感じられていたのだと思います。不意の襲撃に対抗するためには、日頃から闘いの訓練は欠かせなかったのだと思います。そのような危機に対応することは当然で、「鞭打ち」が子育てにとって必要だったのでしょう。日頃から苦痛に耐える力を鍛えておかねばならなかったのです。
ただし当時の感覚を現代にそのまま適用することは誤りです。箴言の「子育て」「鍛錬」法は時代の要請であったし、こども自らが自分を守る術を鍛錬しなければならなかったからです。父親が権威をもって、こどもに「鞭打ち」などの「鍛錬」を必要としたのは、それなくしては生きられない世情があったからで、こども自らが自分を守る術を獲得しなければ、生きていけない時代であり、文化だったと考えられるのです。親が生きるための力を子に獲得させるべく「鍛錬」(パイデイア)するのは、愛の証明でもあったでのでしょう。
5.肉の親・霊の親
7:あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。
8:誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
父よる「鍛錬」は、ゆえに愛からくるものとして扱われています。 ここでは「鍛錬(パイデイア)」が直接意味するのは、「苦難」です。これから遭遇するであろう迫害、苦難を、どのように受けとめ、どのように乗り越えてゆくのか。それをただ単に、「この苦しみよ早く去ってくれ」と祈るだけではない、受け止め方がある。それは、神の愛による「鍛錬」なのだよ。だから、この「鍛錬」としての「苦難」は、神が、「わたし」を子として愛してくださっている証しなのだよと、受けとめ直すならば、その苦しみをどう受けとめ、乗り越えて行けるか、まったく違ってくるというのです。「鍛錬」、パイデイアという言葉は、本来、「こども」を意味する言葉を語源としています。「こどもを教育する」という意味の言葉です。
/「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
/主によって懲らしめられても
/弱り果ててはならない。
このみことばは、神の愛による鍛錬を軽んじてはならない。主によって「懲らしめ」られる(つまり鍛錬される)ことの意味を正しく受けとめなさいという勧告なのです。肉の親でさえ、愛する子を鍛えるのであれば、霊の親であられる神はなおさらだというのです。
10:肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。
神が神の聖性に、わたしたちをあずからせてくださる。すなわち、キリストの聖性がわたしたちに「現在」(立ち現れる)ようにしてくださるというのです。
6.「まっすぐな道を造る」
11:およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。
鍛錬された霊的聖性こそ、わたしたちの人生行路の目標です。
12:だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
13:また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。
最初に申し上げたように、キリストにならう、キリストに従う(信従)は、キリストの聖性が、わたしたちの人格に立ち現れるための「道」です。キリストがアルファであり、オメガです。ゆえに、キリストに従う「道」は、はじめもキリスト、終わりもキリストなのです。そうであれば、この「道」には、「苦難」「鍛錬」は不可避です。しかし避けられないとはいえ、決して途中で挫折することは不可能なのです。なぜなら、この「道」の真の主体は、キリスト・イエスだからです。
たとえ、崩折れるような時があっても、たとえ足が萎えても、たとえ手が萎えても、主イエスがまっすぐにしてくださるのです。まっすぐにしてくださるというのは、足や手が、たとえ萎えても、そのままであっても、主イエス・キリストが「まっすぐにしなさい」と命じている以上は、たとえ手足が萎えたままでも、霊的聖性においては、「まっすぐに」してくださるという意味です。
それは、「苦難」「鍛錬」の目的は、わたしたちを傷のない、汚れのない神の聖性にあずかることだからです。
「まっすぐ」の意味を熟考し、確信して人生を走り抜きなさいと、主は命じておられるのです。
「不自由な足が道を踏み外すことなく」というのは、教会共同体から離れてしまうことなくという意味です。
キリストに従うことから外れることは、本来不可能なはずです。キリストこそが、わたしたちの人生行路の主体者であられるからです。しかしながら、主の主体者でられるキリストに「反抗」する「罪」が存在することもまた事実です。だから、最終的な勝利者はキリストです。
しかし、キリストに反抗する「罪」もまた健在なのです。だからこそ「死闘」なのです。「罪との格闘」なのです。この「罪」との格闘のさなかで、わたしたちが「道」を踏み外すことがないように、「自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。」と命じられているのです。教会共同体から離れてしまわないように、「まっすぐな道を造りなさい」と言われる。
「まっすぐな道を造る」ということは、具体的には、日々聖書を読み、祈ること。礼拝すること。自己奉献の証しを立てること(献金)。聖餐にあずかること。伝道することです。
7.いつ天に挙げられても
世界の終わりは必ずきます。「わたし」の地上生活の終わりも必ず来るのです。それがいついつかかは誰にもわかりません。しかし必ず来ます。この決定的な転換点(地上生活から天上生活への転換点)は神の支配のもとにあります。このときを、パウロは待ち遠しいと言いました。キリストの聖性が彼を占領していたから言えた言葉だと思います。
神共にいますことは、無上の喜びだと確信していたのです。
いつおとづれるかわからないこの瞬間。戦争や地震災害でこの転換点を迎えた人々には、この瞬間すら知る事なく、転換点を迎えることでしょう。
わたしにもこの瞬間がおとづれるときに、主イエスと相まみえる喜びを感じるいとまも、もしかするとないのかもしれません。
たとえそうであっても、わたしは信じます。来世において、キリストと共にあることを信じます。
こう信じる幸いを感謝します。
いま、このとき、苦難のなかにおかれた人々、戦火のなかにある人々、被災による避難生活を余儀なくされている人々、これらすべての人々が、キリスト・イエスの「道」を見いだすことができるように祈ります。 アーメン