2026年10月11日 (聖霊降臨節第21主日)
『忍 耐』
使徒言行録5章27節~42節
27:彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
28:「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
29:ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
30:わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
31:神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
32:わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
33:これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
34:ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
35:それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
36:以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
37:その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
38:そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
39:神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
40:使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
41:それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
42:毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。
1.鞭打たれて喜ぶ
およそ痛みや苦しみを喜ぶとは、わたしたちの日常生活では考える事が難しいにもかかわらず、法廷での裁きの場で、あわや殺される寸前までゆきながら、使徒たちは喜んでいます。
ガマリエルというファリサイ派の教師の弁護がなければ、死罪が宣告されるかもしれなかったのにです。使徒たちの喜びの源泉は、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされた」という事でした。
つまり、この世で「イエスの名のために辱めを受ける」という事は、苦難以外のなにものでもないのに、その苦難を受けることを喜びとしているのです。
しかし、痛みは痛みです。苦しみは苦しみです。
鞭打ちの刑罰は、肉が裂け、血がほとばしり、傷の上に更に打たれるのですから、その外傷は癒えるのに時日を要したはずです。傷が完治するまでには相当日数が必要だったと思います。
それでも、使徒言行録は、いまだ傷が癒えたとは思えないにも拘わらず、その痛みについては記述を省きます。
使徒たちは、「イエスの名によって話してはならないと命じ」られていたにもかかわらず、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」と記します。禁じられたにもかかわらず、その命令に従う気配・様子はまったくありません。
見咎められれば、再び裁きの場へとひきたてられることは必定です。それでも使徒たちを留めることはできないのです。
彼らは、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と堂々と弁明しました。幾度ひきたてられても、また同じことを語るでしょう。
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」
この弁明こそ、キリスト者が、この世において、もし信仰のゆえに福音に生きるか、福音を否定するかという「世」の圧力に選択を迫られたときに、拠って立つべき原点なのです。
『名もなき生涯』※に描かれたフランツ・イェーガーシュテッターを思い出します。
※1939年、オーストリアの美しい山あいの村。ここで農業を営む敬虔なカトリック教徒フランツは、妻ファニや3人の娘たちと穏やかな生活を送っている。
ある日、フランツの元に召集令状が届くが、彼は「罪なき人を殺せない」と言い、ヒトラーへの忠誠を拒み兵役を拒否する。
司祭は「銃殺刑になるから家族のためにも考え直せ」と言い、司教は「神が与えた自由意志、祖国への義務がある。上に立つ権威に従え」と本心を言わない。フランツの噂は村中に広まり、村人からは危険人物のように見られ、裏切り者と言われ、一家して孤立を深めていく。しかし彼の決意は固く、ファニもその意志を支える覚悟を決める。
1943年3月、フランツは軍部基地に出頭し、忠誠宣誓を拒否したため直ちに収監される。司祭は「抵抗して何になる。得るものはない」と諭し、弁護士は「病院の雑用係にでも」と“形式的な妥協”を勧めるが、「過ちだと信じていることは出来ない」と頑なに拒否する。
軍事法廷で死刑の判決が出る。ファニは弁護士や司祭と共に面会し、執行猶予申請を持ち掛けるが拒否され、夫の決意の固さを知ったファニは「愛している。正義を貫いて欲しい」と受け入れる。
同年8月、刑が執行され、村には鐘の音が響き渡り村人たちは彼のために祈りを捧げた。もはや誰も彼を“裏切り者”と呼ぶことはない。
大津教会牧師であった矢部喜好牧師※は日本で最初の良心的兵役拒否者でした。
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」
この使徒の弁明は、良心的兵役拒否者を支えた神の言葉と言えましょう。人間に従うことと、神に従うこととが決定的に対峙し、対立する局面は、戦争だからです。
※「矢部喜好(1884-1935)、牧師で非戦論者。福島県生まれ。会津中学時代にキリスト教の末世福音教会に入信。退学して伝道中、日露戦争で召集を受けるが、人を殺す戦争には参加できないこと、平和は戦争による方法ではもたらされないことを理由に拒否。逮捕され禁固刑に付された。日本最初の良心的兵役拒否の主張者とみなされる。アメリカ留学後、同胞教会に転じ、帰国後は同派の教師として、滋賀県の膳所同胞教会の設立を始め、琵琶湖周辺で伝道。また21年にはフィリピンのマニラに日本人教会を設立した。非戦・平和論者として一生をつらぬくとともに、児童の宗教教育のため日曜学校の普及につくした」。
2.宣教者への殺意
最高法院という裁きの法廷で、使徒たちの弁明を聞いて、「殺意」を抱いた人々のこころのうちは、いかなるものであったのでしょう。
聴いていた人々が聴いた事は、つぎのようなものでした。 十字架刑で刑死した一人の人をめぐって、その人が甦ったこと、その甦りは、神が殺した側のイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すためであり、その人を導き手、救い主として神は、神の右にあげられたというのでした。これは「福音」文字通り、イスラエルにとって「良き知らせ」以外のなにものでもなかったはずです。
神は、殺した者たちの罪を赦すために、ひとりの人を死なせ、そして甦らせた。聴いていた人々は、まさに一人の人を殺す側に居合わせた人々と重なっていたことでしょう。その殺害の罪をも神は赦したもうというのです。彼らにとって、「良き知らせ」に違いないはずです。ところが、彼らは、これを聴いて使徒たちを殺そうというのです。
どうして「殺意」が彼らに湧くのでしょう。
なぜ殺そうとまでするのでしょう。
まずどうして彼らは、あの一人の人を殺さねばならぬほど憎んだのでしょう。そこからして不思議ではありませんか。イエスという人が、人々の病を癒し、時には死人をも甦らせた。これらの良きことをした者を殺さねばならぬ理由はいったい何であったのでしょう。
妬み嫉みでしょうか。おそらくそれもあるでしょう。でもそれが決定的だとは思えないのです。
彼らの「殺意」には、彼ら自身の「信仰」観の歪みが絡んでいると思います。イスラエルのすべてが、「殺意」の虜になったのでありませんでした。ニコデモ、アリマタヤのヨセフのような人もいたからです。
1度、信仰が歪んでしまうと、「信仰」が癒されるには、人間の側での癒やしは困難ですから、絶対に神の赦しが必要です。一人の人、イエスを殺害した人たちは、その信仰が歪んでいた。
イエスと出会ったユダヤ人たちの中にはイエスから教えを乞おうというニコデモもいた。イエスの遺体の葬りを願い出るほど愛したアリマタヤのヨセフのような人もいた。
それなのに、イエスのなした神の御業をその目で目撃しながらも、「殺意」へと収斂してゆく他ない人もいたということです。この事態を、いかに考えるべきかということです。
イエスへの「殺意」と、福音宣教者たちへの「殺意」は、同根だと思われます。理不尽という意味で同根です。
赦すと言われているに等しいのに、その告知者へ「殺意」を抱くのです。
3.演繹の神ではなく
主イエスを殺害し、そしてここで使徒たちをも殺害しようとする人たちの、怒り、憎しみ、殺意の根源にあるものは、彼らが信じているつもりでいる神への思い込みです。
彼らにとっては、主イエスは、神の子を自称する冒涜者・涜神者にしか見えなかったのです。彼らは、彼らが信じているつもりの神への信仰のゆえに、イエスを殺したのです。
彼らに共通しているものは何か。それは、神を演繹※の神として信じていたことです。
※演繹とは、普遍的なルールや一般的な前提条件をもとに、個別の論理的な結論を必然的に導き出す推論方法のことです。
神さまは、人間の頭の中の存在ではありません。神さまは、実に生きておられるお方です。すべての存在という存在を統べ治めておられるお方です。
そのお方は、わたしたちの主観を超えて、現実に生きて働いておられる方ですから、わたしたちの頭の中の基準とか思考とかから演繹されるお方では、そもそもあり得ないのです。
主イエスに出会った多くの人々は、現に生きておられるイエスという人が、現実に神の御業としか言い得ない数々のしるしを経験したり、みことばを聴いて、人生を変えられた人たちでした。このような人々は、現にある存在によって、存在を震撼せしめられているので、信じないでいることが不可能にされたのです。現実に生きて働く神さまによって、自分自身を変化せしめられた人たちでした。演繹ではないのです。
4.使徒パウロの師匠 ガマリエル
ファリサイ派の教師ガマリエルは、律法学者のなかでも格別に尊敬を集めていた人だったようです。そのことは、使徒言行録の記述からも推認できます。
34:ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
35:それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
この記述から、民衆からの尊敬、最高法院の廷吏に命令もできれば、議員たちを説諭する威厳と権威をもっていたことが分かります。
ガマリエルは、パウロの師匠だった人です。いわばこの裁きの法廷で、被告側にパウロという優秀な弟子がいて、検察側にもファリサイ派の同労者がいるという状況で、冷静かつ威厳に満ちた弁護をしたのです。
客観的にはみれば、弁護ですらありません。ただ慎重にせよと戒めているだけです。
内容的には、演繹による速断は、判断を誤ると言っているにすぎません。
5.神から出たものであれば
39:神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
40:使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
福音宣教者たちの言説が、神由来のものであれば、どんなに厳しい裁きを下しても、福音宣教者たち、キリスト者たちを滅ぼすことはできない。当然のことですが、この警句は、自分の頭のなかの「基準」で、速断するユダヤ人たちの信仰の歪みを指摘しているのです。君たちの頭の中にあるのは、律法の知識だろうが、神は昔も今も、そして未来永劫も生きておられ、われらの判断を超越しておられるのだ。
神由来。神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。かえって神に逆らう者となるかもしれないのだ、と、このように恐ろしい可能性を指摘したのです。
6.一同はこの意見に従い
議員一同は、ガマリエルの意見を受け入れました。考えてみれば当たり前のことですが、頭に血が上っていて、「殺意」の虜になっていた人々でしたから、この素直な、従順な姿には、違和感を覚えます。
「なんだ、そんなにあっさりと前言を翻すか!」と、言いたくなります。この見事な身の翻しには驚きます。しかし、これで使徒たちは命拾いしているのです。
人の命がかかっているというのに、この裁判の質の低さには愕然としますが、現代の司法制度も大差ないと、数々の冤罪事件の実態を知るにつけ、思わずにはおれないものがあります。人の裁きなど、所詮はその程度のものなのでしょう。つまり「権威」に弱いのです。
ガマリエルの権威が、影響力を発揮した場面ですが、ガマリエルは特別変わった意見を述べたわけではありません。こと、神さまに関する判断には、慎重にも慎重であるべきだという当然の「法」の支配を喚起せしめたにすぎません。
7.ノーベル平和賞
2026年のノーベル平和賞はナヴァネセム・ピレイ国際刑事裁判所(ICC)元判事(85)に授与されました。ノーベル委員会のフリードネス委員長は、国際法の制度が現在、深刻な圧力にさらされ、いわゆる「力の政治」への移行が見られるなかで、ピレイ氏の「普遍的な法の原則への献身と、揺るぎない道徳的指針は、終始一貫している」という。
同調圧力は「力の支配」の変種です。事実に基づかない演繹的速断は、偏見の固定化です。「法の支配」とは何か。頭の中の事実ではなく、現実の事実に即することです。ガマリエルの権威は、幸いにも、この「法の支配」を実践しました。この判断は、現代にも有効な判断です。
8.再度、人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
使徒たちは、ガマリエルの弁護によって、命拾いしました。そして、再び、「イエスの名によって話してはならないと命じ」られたうえ、釈放されました。
そして、大胆にも、鞭打たれて満身創痍になったでろうに、再び、主イエスの福音を毎日伝え続けたのです。
まさに、骨の髄まで神に従うのです。人の裁きには従わないで。