3月15日(日)〈受難節第4主日〉
〈主の変容〉
マルコによる福音書9章2節~10節
マルコによる福音書9章2節~10節
2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
1.キリストの受難予告後の神の啓示
主イエスは,ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた。その洗礼が真に意味していたものは、洗礼者ヨハネと共に、人類救済の道を開始するという「事」であった。
だからこそ、その時、聖霊が鳩のように降って「見よ、これはわが愛する子、これに聞け」と神は、天から宣言の御声があったのであった。
それゆえ、主は、言葉とふるまいによって、この道、人類救済の道、すなわち、十字架の死と復活という受苦の道を歩んでこられたのである。
主イエスの受苦への道行きは、最初から徹底していた。
しかし、この御受苦を真意を知る者は、一人の例外もなく、誰一人としていなかった。
主は、御自身の御受苦の道行きについて、そのキリストの秘密を、弟子たちには明示された。それが最初の受難予告であったのである。
だからこそ、受難予告の後、六日という象徴的な期間のあとに、主は御受苦の究極的目的点である復活の御姿を弟子たちに御顕されたのであった。
変容のキリストこそが、甦りの主、復活の主イエスの御姿なのである。
ここで、神は、主イエスこそが、独り子なる神であられることを、再び天から宣言された。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)
この神御自身による、「イエスこそが神の独り子なる神であられる」という宣言は、主イエスの御受苦の道行きを、完全な意味で、弟子たちに目撃し得る仕方でお示しになり、その事実を神御自身が認証したことを意味している。
2.モーセとエリヤを知り得たのはなぜか
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。(4節)
キリストの変容を目撃していた証人たち、すなわち「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」の3人が、この経験を後世に伝えたことになっているだから、この記述は、彼らには、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」と、確かに認識したということを意味している筈である。では生きていた時代が異なるエリヤやモーセを彼らは如何にして知り得たのか。特に、ペトロは、感動して「仮小屋」(幕屋)を建てましょうとまでイエスに申し出ているのだから、明確にエリヤとモーセを認識していた筈である。合理的認識論で言えば「謎」と言わねばならない。エリヤやモーセの容貌を弟子たちが知っていた筈はないのに、なぜ分かったのか。知らないのに知ったのはなぜなのか。
この出来事を、人間が人間を認識する方法で、彼らが認識したと考えるならば、どこまでも「謎」のままで終わるであろう。
しかし、ここで彼らが経験した出来事は、神の啓示の出来事である。神がこの出来事を、他ならぬ彼らに経験させた。これは「神の出来事」なのだ。
神の啓示は、人間的認識論では推し量ることができない。
主イエスは、彼らをのみ抜擢して「高い山」へと連れて登られた。高い山は古来タボル山と伝えられてきたが、ヘルモン山かもしれない。もはや特定は困難だ。ただ「高い山」とは神が御自身を顕現する神聖な場所を指す。
主イエスは、啓示の場へと弟子たちを、しかも彼らだけを導いた。この「場」が啓示の「場」となるためであった。
神の出来事であれば、人間的な認識による制限・限界は超越している。神御自身が、弟子たちに、認識の対象を認識すべく認識対象を与え給ふから、彼らには、自分が知らないことを知ることができた。
パウロは、生前のイエスを知らない。知らないにもかかわらず、神は甦りの主イエスをパウロの前に立ち顕された。彼は、「主よ、どなたですか?」と問うている。パウロは、目前に出現している復活の主イエスを、「主よ」として認識していた。神御自身だと、その時既に知っていたのだ。だから、「主よ、あなたはどなたですか?」と問うことができた。彼に復活の主イエスを知らしめたのは神である。神御自身が神御自身を御顕される出来事なのである。
これと同じ事が、ここでも起きていた。
弟子たちには、自分が知らないこと(エリヤやモーセの容貌)を、知らないにもかわわらず、知ることができた。それは神御自身が、信仰の認識を与え給ふたからなのである。
3.モーセとエリヤは主イエスと何を語り合ったのか
マルコによる福音書には、何を語り合ったのかは記されていないが、ルカによる福音書には記されている。
二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。(9章31節)
主イエスが、人類救済という究極的目的点(「エルサレムで遂げようとしておられる最期)について、語り合っていたのだ。ずばり、後受難の道行きについて語り合っていたのである。
二人は、旧約聖書に登場する代表的な人物である。聖書は、「律法と預言書」のことであるが、モーセこそ律法を神から授かったメシア的人物であり、エリヤこそ、預言者マラキが預言したメシア到来の前に出現するとされた預言者の代表である。すなわち、この二人は旧約預言を代表する二人なのである。
この二人は、主イエス・キリストこそが神の独り子であられるメシアであることを、旧約の成就だと証しする者なのである。主イエスが旧約の成就者であることを、二人は証ししているのだ。二人は地上で死を見ることなく天上に挙げられたと信じられていた人物であった。つまり、主イエスは、天上の人として、この二人と語り合うという姿をお示しになったことになるだ。
ペトロが、感動したのは、彼が天上の人、モーセとエリヤと主イエスが天上の世界を垣間見たことによるのではないかと考えられる。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」(5節A)
地上の人にすぎない自分たちの前に、天上の人が居合わせたことに、素直に感動しているのだ。
そこで、彼が地上の人として咄嗟に考えたことは、主イエスの究極的目的点へ向かう御受苦の道行きとは、およそかけ離れた的外れの発想だった。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(5節)
4.仮小屋(幕屋)建立が意味したもの
ペトロは、なんとおこがましくも天上の人三人の語り合いに口をはさむ。素直に感動しているのはいいとしても、口をはさむとはどういうことか。主イエスの御受苦の道行きを、彼は否定するような行為をしたのだ。
口をはさみ、そして仮小屋(幕屋)の建立を提案するのである。
一見すると、信仰深いかのような提案ではあった。仮小屋(幕屋)で、人々がそこへと礼拝することを彼は夢想していたのであろう。現代流に言い換えれば、「教会堂」を建立しましょうというような提案ではないかと考えられる。信仰深い装いをしてはいるが、主イエスの行こうとしている道行きに、教会堂や礼拝所はない。
主イエスは、人類救済の道、十字架の死と復活という道行きをこそ、語り合っていたからだ。
ペトロのこの提案は、主イエスが神の独り子として行こうとされる苦難の道行きを否定し、地上的な「宗教分派の形成へと地に落とすものでしかなかった。
主イエスへの信仰は、「宗教」にすぎない代物では断じてないのである。ペトロには、まだ主イエスの啓示の意味が分かっていなかったのだ。
ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。(6節)
ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。(ルカ9章33節)
ペトロが混乱していると、ルカはやや同情的に記してはいるが、マルコは提案そのものが口からでまかせにすぎないというような印象を与える書き方だ。無責任かつ、軽率な提案だとルカもマルコもみなしている。しかし、ペトロの軽率さも、神の自己顕現に「恐れ」を感じていたことを思えば、「恐れ」ゆえの混乱から生じたものかもしれないと言えなくもない。「弟子たちは非常に恐れていたのである。」
弟子たちの「恐れ」は、彼らが主イエスと二人に、神の顕現を見ていた証左である。弟子たちは神の啓示を経験したのだ。
これらの記述から、弟子の無理解と、それにも拘わらず弟子たちは神の啓示の出来事(主イエスとエリヤとモーセの会見)を経験したことは明らかである。
5.雲の中から声がした
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)
「雲」は神顕現の表象である。雲が弟子たちを覆うたことは、神顕現の経験が視覚・聴覚だけの認識ではなくて、身体全体を包み込むものであったことを意味するだろう。いわば神御自身の内部的な世界に、弟子たちは誘われたのだ。彼らは身体全体で、神を感じたはずだ。
彼らは、雲のなかで、雲のなかから聞こえてくる神の声をの振動を、体全体で感じたであろう。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声は、イエスが宣教の開始にあたってヨハネからバプテスマを受けた時に、天から聞こえたあの声だ。
そうだ。宣教の開始の時に神が主イエスを我が独り子として認証した神の言葉だ。
そして、今、受難予告という天国の秘密を弟子たちに語ったいま、御受苦の道行きを、まごうかたなく、すなわち間違えようのない程明確にお示しになったいま、再び、天の父なる神は、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と主イエスを我が独り子なる神と認証されたのである。
6.ただイエスだけが
弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。(8節)
身体的な神顕現のただなかでの経験のあと、突如として、エリヤもモーセも、そしておそらく雲も、消えてしまう。さて、弟子たちは、地上的な現実へと引き戻されたのだ。彼らは、主イエスと共に、旅を続行する時へと戻されたのだ。弟子たちと主イエスの時間が再び戻ってきた。
6.主の福音宣教の禁止命令ふたたび
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。(9節)
受難予告の時、「あなたはメシアです」と言ったペトロに超弩弓の福音宣教の禁止命令の叱責をされたけれども、あの時と、この時は同じメシア秘密の意味あいが異なっている。この度は、「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限があるからだ。主の受難の極みに至るまでの禁止命令なのである。
さらにもう一点異なるのは、「今見たこと」を「だれにも話してはいけない」という命令だということだ。
ペトロの叱責のときは、浅薄な人の言葉による宣教の禁止命令だったが、主の変容の経験の場合は、経験した事柄そのものを誰にも話すなと言う命令である。
今度の禁止命令は、弟子たちの浅はかさ故の禁止命令ではない。神の啓示の出来事は客観的事実だから、弟子たちの信仰の問題ではない。そこが決定的に異なる。
この禁止命令が、「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限がついていることに、禁止命令の目的が隠されているだろう。
彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。(10節)
弟子たちが 「死者の復活」について論じ合っているのは、彼には、主イエスの受難予告をいまだ真に理解することができずいることを示している。神の顕現の啓示を身体全体で聴いた弟子たちでさえ、主イエスの究極的目的点である十字架の死と復活の意味をいまだ理解できないでいるのだ。まして人々に理解できることは不可能だということは自明であった。
それゆえに、主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは」と語られたのだ。現実として、主イエスが、弟子たちの目の前に,出現するという出来事が生起して初めて、弟子たちは、受難予告の真実の意味を悟ることができるのである。主イエスは、その現実を、いまここで、あらかじめ完全に熟知していたのだ。
いまここで、彼らが経験した出来事は、「復活の日」にはじめて弟子たち自身のなかで、彼らをイエスの本当の弟子に生まれ変わらせることを、主イエスは知っていたのだ。
7.エリヤ再来預言論争
そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。(11節)
イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。(12節)
しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(13節)
エリヤ再来の預言はマラキ書にある。だからメシアが到来する前には、エリヤが来なければならない。主イエスは、既に来たと語られた。マルコによる福音書には、弟子たちは、洗礼者ヨハネがエリヤだと悟ったと記している。
そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(マルコによる福音書17章13節)
「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」(マルコによる福音書17章12節B)
主イエスは、エリヤの再来たるヨハネは「彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらった」として、御自身の命運と同じだということを明白に語ったのであった。
これらの記述から、主イエスと洗礼者ヨハネは、ともに、苦難の僕(イザヤ53章)として、「人々から苦しめられることになる」命運であったことがわかる。
原始キリスト教会において、エリヤが洗礼者ヨハネであり、イエスの苦難においても先駆者であったことが、重要な信仰内容であったことは、これらの記述からも伺い知ることができるであろう。
8.わたしたちの信仰との関係
この「キリストの変容」の出来事の記録が、わたしたちの信仰にとって、どのような意義があるのか。考察したい。
最も重要な信仰的事柄は、イエス・キリストが、「神の独り子なる神」であるという神の宣明(declaration)である。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)
これによって、人間が神となったという主張は完全に否定されるのである。これは旧統一協会や新天地をはじめとする、「自称再臨のキリス」はすべて、偽り者であることを、神御自身が完全に宣明していることを、わたしたちは知る。
そして、イエス・キリストは、人類の罪からの解放のために、「受難予告」の通り、十字架の死と復活を成し遂げられ得るお方であることを、わたしたちは知る。
「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてある。」(12節)
主イエスは、死ぬためにこの世に来られたのである。このことを否定する者は、すべては偽り者なのである。
第三に、人類救済のこの苦難の道行きは、旧約預言の成就者として、洗礼者ヨハネとナザレのイエスが、共働的に歩まれた道であったことである。
洗礼者ヨハネは、エリヤの再来だったことは、イエス御自身が明言しているからだ。ヨハネ自身の自己意識に、たとえ揺らぎがあってとしても、神の独り子が明言している以上は、ヨハネはエリヤなのである。
そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(マタイによる福音書17章13節)
それゆえ、わたしたちの信仰道程、すなわちわたしたちの地上での全生涯は、主イエスの道行きを慕い、辿る道であるから、わたしたちの魂の視線の焦点は、主イエスの十字架の死と復活であることを知る。
朝起きて目覚める。今日も地上の生活を送ることが許されていることを、神に感謝する。
食事をいただくとき、身体を支える肉の糧を得ること以上に、神の言葉という霊の糧を魂にいただくことを感謝する。
歩くとき、主イエス・キリストの苦難の道行きを想い、感謝する。
人を愛する刻、主イエス・キリストがわたしのために十字架上で死んでくださった事を感謝する。そして、わたしも人を愛する刻、苦難を引き受ける愛を主イエスから恵みとして与えられていることを感謝する。
眠りにつく時、神は御自身をお示しになられる事を感謝する。主はわたしたちの魂が眠っていても、わたしたちと共におられるのだ。
ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。(ルカによる福音書9章32節)
わたしたちは、この限りない恩寵のなかに生きている。この確実な保証を神は、この出来事で与えてくださったのである。ただ感謝の他はない。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 (7節)