2026年8月9日(日)(聖霊降臨節第12主日)
エフェソの信徒への手紙5章21節~6章4節
『家族』
エフェソの信徒への手紙5章21節~6章4節
5章
21:キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
22:妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
23:キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
24:また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
25:夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
26:キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
27:しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
28:そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
29:わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
30:わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
31:「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」
32:この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
33:いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
6章
1:子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
2:「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。
3:「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
4:父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
1.古代社会の家庭訓
聖書が神の啓示を伝える書物だという信仰は、やはり堅持すべきです。ですが同時に、聖書もまた、言語という神の被造物であるという事実を忘れてはなりません。
被造物は有限なる存在ですから、無限なる神を入れる「器」あるいは「乗り物」としては自ずから限界があります。わたくしどもは常に意識しておかねばなりません。聖書イコール神の啓示という三段論法は成り立たないのです。
限界づけられた存在、特定の時代、特定の文化、特定の言語に限界づけられた書物として、そこに神の意志、神のみこころが、神の抜擢によって、啓示の出来事が生起すると信じて読むのです。
この意味で、今朝のテキストもまた、時代や文化状況に限界づけられらた「家庭訓」として、まず受け止めるべきでしょう。
つまり、ここで語られている家庭内倫理は、時を超えての普遍的・原理的な倫理ではなく、二千年前の地中海沿岸文化の社会の現実を背景に、その状況の中で、キリスト者共同体がいかに存在していたのか、いかなる家庭倫理を目標としていたのかを、示していると、受けとめることができるとすべきでしょう。脱時間的な、脱空間的な観念論ではないのです。そこに具体的な状況があり、そこには固有な個人が存在し、固有な倫理が語られていたと想定すべきなのです。だからこそ、その固有な時と場においてこそ、神の言葉の出来事が生起する、そういう言葉として、伝承されてきたと、わたしは考えています。
そうであれば、聖書の言葉を逐語霊感説のように金科玉条の不動の倫理として読むことは、明らかな誤読なのです。この時代は、家庭内に、奴隷身分の存在もいたのです。自分自身が「解放奴隷」であったり、現役「奴隷」身分の者であったり、はたまた「奴隷所有者」であったりしたのです。
2.このアナロギアをどう活かせばよいのか
キリストと教会という存在と夫と妻の存在がアナロジーで結ばれています。
23:キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
24:また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
25:夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
この「~のように」というということば、「同じような様子で」という意味ですが、これはキリストと教会の関係と同じような様子で、夫と妻の関係も「仕える」「愛する」ことを勧める言葉です。つまり、この言葉には、「類比」(アナロギア)の意味があります。
※2つ以上の事物にある似た点(類似性)を基準にして、一方の性質から他方の未知の性質を推しはかること、またはそのように例えて比べることです。英語の「アナロジー(analogy)」にあたります。
この類比は、夫婦の倫理を、キリストと教会と同じような関係となるように勧めているのですが、現代の社会通念から見るとき、この倫理観には、いわゆる家父長制的な時代的限界があるとみることができるでしょう。
キリストと教会の関係には、厳然とした格の違いがあります。キリストは神ですが教会は人間の共同体です。教会はキリストによって救われるべき存在です。キリストは救う存在です。その格の違いは明らかです。
この格の違いを前提として、夫と妻の関係を、「同じように」「仕える」「愛する」と勧めるのは、夫をキリストの立場、妻を教会の立場のようにという類比関係になりますから、自然と夫の方が格が上で、妻の方は格が下という具合に受けとめても仕方がありません。
こういう風に受けとめるなら男女の間には男性優位という格の違いを固定化します。性差による差別につながります。
ですから、この家庭訓を、そのまま現代社会に金科玉条のごとくに勧めることは、人類が営々とした歴史を通じて獲得してきた男女平等という人権感覚とは矛盾します。歴史を逆行させることはできませんから、わたしたちの聖書の読み方の「成熟」が必要となるのです。
それでは、この聖書の言葉、類比思想を、どのように現代の教会は受けとめ直せばよいのでしょうか。
3.理想と現実
おそらくこの「家庭訓」は、当時の状況のもとでのキリスト者共同体における「理想」的な家族像を、描いていると思われます。教会がキリストに仕えるように妻は夫に仕え、夫はキリストが教会を愛するように妻を愛するべきだという理想を、示そうとしているのです。
けれども、現実の信徒ひとりひとりに、キリストが教会を愛するという現実性を理解しているかと言えば、おそらく理解しているというより、「そのように信じている」各々が遙か彼方の理想を、限りなく高く追求すべしという「当為」(ゾルレン、まさになすべきこと、まさにあるべきこと)的な理想像だったのだと思うのです。というのは、神ならざる人が神が人を愛するようにと言われても、そのことを正確に知ることは不可能だからです。どこまでも、信仰においての認識に限られるからです。
また、現実の信徒ひとりひとりの家庭生活は、おのおの千差万別ですから、苦境にあるものも順境にあるものも様々であったことでしょう。現実の苦境のなかで、この理想像をいかに聴いたのか、いかに聴いたらよいのか。それが課題なのです。
その課題は、現代のわたしたちにも、同じように切迫する課題として共有できるはずです。
4.現実のさなかで、キリストの愛を見いだす
実際の夫婦の結婚生活、息子や娘との生活を生きるわたしたちが、相手との関係を、どのように保ち、どのように苦楽を共に生きているかです。
さし向かいの関係において、「わたしとあなた」(我と汝)の関係に、わたしたちはあります。この存在は、代替不可能な「我と汝」の関係にありますが、その根拠は、キリストと教会の関係こそが可能根拠だということが、キリスト者にとっては信仰内容なのです。キリストが教会を愛するようにというあの「類比」は、この前提を可能根拠としているのです。
「わたし」が妻を愛することが可能とされているのは、「キリストが教会を愛していてくださるという神の存在の出来事」を根源としているということなのだというのです。
この「私」は夫として妻を愛していられるのは、キリストが私を現に愛してくださっている愛が、この「私」を「私」あらしめている神が現実を実現させてくださっているということなのだというのです。言い換えれば、現に神に愛されている原点がわたしの存在に打ち込まれているからこそ、私は妻を愛するという喜びに生きていられるというのです。妻を愛させてくださるのは神なのです。
「わたし」が妻として夫を愛し得るのは、やはり、「キリストが教会を愛していてくださるという神の存在の出来事」が生起しているからこそ、夫を愛し得るのです。だからこそ、「教会がキリストに仕えるように」夫を愛すべしというのです。「仕える」という言葉が使われていますが、「仕える」ことは愛の具体化だからです。
夫婦は仕え合う「さし向かいの存在」なのです。仕え合うことが愛し合うということなのです。
「仕え合う」という具体的行為によって、愛のあり方が示されることによって、愛の抽象化も観念化も防がれます。
そして、具体的行為の指針は、古代も現代もありません。 状況を超えるのです。もはや古代的な家父長的権力関係は、キリストと教会の愛の交流を可能として「互いに仕え合う」「互いに愛し合う」という「当為」によって、克服されるでしょう。
現代のわたしたちも、古代の信徒たちも、はるか天より愛してくださっているキリストを仰ぎ見て、このキリストに愛されているという現実性を、信じることができるからです。
5.わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
教会は、キリストの肢体だと、わたしたちは信じます。教会とは、わたしたち自身なのです。わたしたちが、キリストの一部だから、わたしたち自身が教会なのです。
この信仰に、真実生きているなら、わたしたちは決して教会から離れることはありません。わたしたちがわたしたちから離れることは不可能だからです。
最近長年、教会生活をしながら、最後に教会生活から離れたという知らせを聞くことがありました。とても残念に思う一方で、「やはり」という思いもしない訳ではありませんでした。
教会から離れることができてしまうのは、「わたしがキリストの一部」だという信仰がなかったのだと思います。教会から離れる人は、自分と教会(キリストの肢体)とは別物だと思っているから離れることができてしまうのです。残念ですが、そういう人は教会生活をしている時でも、同じように、教会をキリストの肢体とは思わず、むしろ教会を自分の意のままに動かそうとする人でした。教会に仕えるのでなく、教会を自分に仕えさせようとするのです。
教会は自己実現の場ではありません。教会は単なる人の集まりではないのです。「わたしたちはキリストの体の一部」なのです。
29:わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
「キリストが教会になさったように」。この「類比」を現実に生きる者こそが、キリスト者です。「わたし」を「愛するということ」は、わが妻を、夫を愛するということ」に等しい。これが「信仰における類比」の実現です。
28:そのように夫も、自分の体のように妻(夫)を愛さなくてはなりません。妻(夫)を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
互いに愛し合うことは、とりもなおさず「キリストを愛しているということ」とまったく同義なのです。
6.天使のような存在として
12:マタイによる福音書/ 22章 30節
復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
3:マルコによる福音書/ 12章 25節
死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
最後に、わたしたちが、甦りの命にあずかる時には、地上生活の延長として、存在するのではなく、もはや性差という生物学的な被造性とは別の存在になうと、主イエスは明言されました。
つまり、夫とか妻という関係性は、地上生活にあってはそのような性差が存在して、結婚とか家庭生活を営んでいるけれども、来世においてのキリストと共なる永遠の生命にあずかる時には、もはやそのような地上性とは別の次元の存在となるというのです。
そのことを、主イエスは「天使のようになるのだ」と言われました。
ですから、地上生活においては、夫に、妻に、そのような被造的実体を通して、キリストを見いだしていたけれども、地上生活を離れて、来世においては、わたしたちは、復活の時までは、「眠る」のです。
その眠りから覚めて、復活のキリストの復活体と等しいさまに変えられると、「天使のようになる」と、主イエスは明言されているのです。
ですから、先に天に召されたわたしたちの愛する兄弟姉妹は、復活の時に至るまでは、静かに眠りについています。
「眠り」は新しい復活の生命を迎える朝に目覚めるための「あいだ」の時です。
この静謐な時のあいだに、愛すべき兄弟姉妹はおられます。だから、わたしたちは安心して、主イエスの復活の時を、共に待つのです。
わたしたちは、この地上において待ちます。
愛すべき兄弟姉妹たちは、来世において、復活の時を待ちます。
地上と来世で、共に待つのです。
そういう意味で、信仰生活とは、「待つ生活」なのです。
「待望の生活」なのです。
やがて必ず成就する永遠の生命に与り、主イエスと等しい様に変えられる希望に生きるのです。
7.信仰生活は待望の生活
地上生活は、その希望の時を、祈りつつ待望する期間なのです。
この地上の期間、わたしたちは苦境にあろうと、順境にあろうと、目標は、復活の時なのです。
やがて天使のようになる存在に変えられる時まで、この希望を、日々待ち続けることができますように、ともどもに祈りましょう。 アーメン