2026年9月27日(日)(聖霊降臨節第19主日)
『苦難の共同体』
コロサイの信徒への手紙1章21節~29節
21:あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
22:しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。
23:ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。
24:今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。
25:神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。
26:世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
27:この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
28:このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。
29:このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。
1.「以前」を断罪して憚らない
21:あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
冷静に考えてみると、この言葉はかなり強烈です。面と向かってこのように言われたら、人によってはかなり怒る人も出てきても不思議ではありません。傷つく人もいるかもしれません。それでもパウロは、このように語らねばならなかった。あるいは語る事ができた。そのことの意味を考えてしまいます。
語られている異邦人たちは、それまでの人生を「神々」を信じてきた人々です。この人々が真面目に生きてこなかったということは、おそらくなかったと思います。堕落していたということでもないと思います。ただ異教の神々を信ずる信仰世界では、人身御供も「真面目に」行われていたでしょうし、神殿娼婦との儀式的な性行為も行われていたことでしょう。このような儀式的性行為を「真面目に」行っていたことに、性的欲望の達成に満足してもいたことでしょう。娼婦との交わりを通じて神々との交わるという意味を感じていたかもしれません。
このような異教の精神世界では、女性は客観的にはある意味で性の欲望のために奴隷的状況に置かれていた訳ですが、そのことを「神々」への奉仕のように考えさせられていたはずです。人身犠牲の「生贄」に選ばれた者は、男女を問わず、共同体のために殺されることを受け入れるように考えさせられていたはずです。
このような異教の精神世界に「真面目に」生きてきた異邦人(異教徒)の人々は、十字架の死によって、すべての人の罪を背負われ殺されたイエスによって、繰り返し「生贄」を殺し、殺される精神世界から、解放されたのではないでしょうか。
「神々」は繰り返し、「生贄」を要求する。そのたびに、共同体は、「生贄」を殺し続けます。「生贄」に選ばれることは,死ぬ事ですから、いくら選ばれることが家族にとって名誉なのだと教え込まれていたとしても、愛する者を殺さねばならないことに、痛みを感じない者はいなかったはずです。 「生贄」にされる者自身も辛くないはずがありません。そのような儀式が共同体存続のためには必要不可欠だと信じられている精神世界は、おそらくは恐怖と不安に満ち満ちていたのではないかと、わたしなどには想像されてしまうのです。
現代は、急速にかつての「神々」の世界に戻りつつあります。「生贄」をたえず犠牲にして共同体を守るという政治が現実に行われています。沖縄に米軍基地を集中させたり、補助金を出すことの引き換えに原発をつくったりする手法は、「神々」の世界と本質に於いては大きな違いはないと言えるでしょう。戦争でも、パンデミックでも、「コラテラル・ダメージ」だと片づけられてしまいます。。
※コラテラル・ダメージ(collateral damage)とは、軍事行動などによって意図せず発生する「巻き添え被害」や「付随的被害」を意味する言葉です。
初代教会に加わるようになった異教徒の人々は、この不安と恐怖に満ちていた「以前」の世界に見切りを付けた人々だったのかもしれません。
このように考えるならば、「以前」の人生を、強烈に否定されるとしても、怒りが湧いてくることもないし、傷つくこともないと思うのです。「以前」の世界を、いくらかでも「誇り」と感じていたり、居心地がよいと思っていたら、パウロのこの言葉を受け入れることは難しいと思います。
しかし、おそらくこの人々はパウロの強烈な「以前」すなわち異教徒だったころの人生に対する強烈な否定・断罪を、従順に受け入れていたと思われます。
むしろ、心から、「今」を感謝しているのです。
2.「しかし今や」を、「栄光」だと断言する
27:この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
パウロの強烈な断罪を、心から従順に受け入れたということは、「以前」の自分の人生を悔い改めていたということを意味します。「悔い改め」というのは「方向転換」を意味します。文字通り「方向転換」が彼らには起きていた証拠です。証拠というのは彼ら自身の「今」の現実です。異教徒自身が劇的に人生のあり方を変えているのです。かつては人身犠牲や性的儀式を良しとしていた人生を、それらの神事を、「今や」まことの神に敵対する悪事だと感じているのです。この「感性の革新の出来事」が起きているということはそれ自体が「奇跡」です。
つまり、わたしにはこの強烈な否定・断罪の言葉が語られ、受け入れられているという現実そのものが「奇跡」以外のなにものでもないと思われるのです。それと同時に、否定・断罪と同時に、「今や」として語られるのは、「栄光」に満ちたものであるという断言でした。
かくのごとく「栄光充満の断言」が語られる現実それ自体も、「奇跡」以外のなにものでもないのです。
3.苦難を喜びとする
24:今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。
わたしはキリスト教信仰のどういうところが素晴らしいのかというとき、世の「宗教」というものは、おしなべて、幸福追求という自分の願望を保証してもらえるという御利益信仰が多いのではないかと思うのですが、キリスト教信仰は、イエス・キリストの存在が、自己自身の真の主体性だということを信じる信仰だということです。言い換えると、私自身の「内にキリストがおられる」「キリストの栄光」が私たち自身の「内に」存在する希望であるということです。
27:この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
キリスト・イエスがわが「内に」住んでおられる。わたしはもはや「わたし」という罪深い存在なのではなく、わが内におられるキリストこそが真実の「わたし」だと言い得ることこそが、素晴らしいと思うのです。
わが内なるキリストは、自己一身の安寧を求めず、むしろ他者・隣人のために苦しまれたキリストのごとく、他者・隣人のために苦しむことを喜ぶようにされているというのです。この利他的な人格への方向転換が起きていることが素晴らしいと思うのです。
4.キリスト者の完全
子どもの頃、「人間は完全ではない」とよく言われて育ちました。みなさんもそうなのではないでしょうか。「完全な人などいない。みな罪人なのだ」と。
しかしパウロはあえて「完全」という術語をここで使います。どういうことなのでしょうか。考えてみます。
「完全」であるというのは、なにも他人からみて完全無欠な、どこからみても高潔至極な「評価」を得るようなということなのか。わたしは、それは他己評価を視点としたものだと思うのです。人から見て、どう見えるかというなら、人によって見方も価値基準もまちまちですから、誰からみても「完全無欠」の評価を受けることは不可能です。だから、その意味では「完全な人はいない」のです。それは当然です。
しかし、ここでパウロとて、そのくらいのことは子どもでもわかるはずなのですから、そういう他者の視点からの「完全」などという意味で、この言葉を使っているのでないことは明らかでしょう。
パウロは「キリスト者の完全」について語っているのです。他者が彼らをどうのように見るかなどということは、パウロにはどうでもよいのです。そういう価値観そのものをキリスト者は捨ててしまっているからです。パウロにとっての「完全性」とは、「キリストに結ばれて完全な者となる」ことこそが重要なのです。
5.わたしの内に力強く、キリストの力によって
すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、パウロは「知恵を尽くして」、「すべての人を諭し」「教えているのです。」と語ります。パウロの目的が明確に語られます。彼はコロサイ教会の異邦人出身のキリスト者に、向かって語っているのです。このためには労苦を惜しみません。そのことを成し遂げる推進力となっているのは、彼の「内に」にある「キリストの力」でした。
「キリスト者の完全」とは、他者評価の問題ではなく。いつにかかって神がキリストの贖いのめぐみによって、人を神と和解させ、「きずのない者」「とめがめるところのない者」とされているという事態のこというのです。キリスト・イエスとの一体性なのです。これこそ「キリスト者の完全」なのです。パウロはコロサイ教会の信徒一人一人に、キリスト・イエスが立ち現れてくる、そのために労苦を惜しまないのです。その労苦そのものはキリストの力によるのであり、キリストと共なる存在の労苦だからです。
キリストの苦しみの欠けたところを身をもって充たす苦しみを恵みとしてたまわっているという「喜び」。この喜びを喜ぶことが許され、賜っていることこそ、キリスト教信仰がこの世の宗教と決定的に、質的に異なることなのです。
この他者のために苦しむことを喜ぶ信仰が、わたしたちの信仰だというのです。 アーメン