2026年9月13日(日)(聖霊降臨節第17主日)
『奉仕する共同体』
コリントの信徒への手紙Ⅱ9章6節~15節
6:つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。
7:各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
8:神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
9:「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。
10:種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
11:あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。
12:なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。
13:この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。
14:更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。
15:言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。
1.ボランティアの語源
ラテン語動詞「volo(ウォロ、「欲する」「求める」「願う」の意味)」)から副詞形voluntate(ウォルンターテ「自ら進んで」)、名詞形 voluntas(ウォルンタース)を経て英語の volunteer となったといいます。日本では無償の「奉仕活動」と捉えられがちですが、本来の意味は「自発的な意志による行動」を指すのだそうです。Wikiより
まさに本日の聖句が、ピッタリと、その本来の意義を伝えていると言っても言いすぎではないでしょう。
7:各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
奉仕は、英語ではサービスですが、礼拝という意味もあります。ドイツ語でもGottesdienst(ゴッテスディーンスト)と言いますが、神を意味する「Gott」と奉仕を意味する「Dienst」が合わさった言葉です。つまり、奉仕と礼拝は元来は、同じ言葉で表現されていたと考えられるのです。礼拝と奉仕は切り離し得ない結びつき、関連があるということでしょう。
2.礼拝と奉仕
ボランティアの基本原則は自主性・無償性・社会性だと一般に言われています。自主性は、聖書におそらく起源があります。見返りを求めない無償性も神の愛・神の慈しみの愛に遡源すると言えるのではないでしょうか。
9:「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。
そして社会性とは、人と人との関係性を意味します。見返りを求めず他者・隣人のために、自発的に自分の財や時間を捧げることによって、目には見えない「富み」・「恵み」を受けるというのです。この「富み」・「恵み」こそは、神が賜るものです。この「恵み」によって、他者・隣人の交わりは、「思慕」・「祈り」という「言葉では言い尽くせない贈り物」を与えられるというのです。
13:この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。
14:更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。
15:言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。
繰り返し、もっと平たく言います。
すなわち、神さまこそが、限りない愛をもってわたしたちを愛してくださるがゆえに、わたしたちは、神の恵みによってすべてのことに「富む者」とされ、他者・隣人に惜しまず施すようになるというのです。
具体的には、神さまへの献金(「わたしたち(使徒)を通じて神に対する感謝の念を引き出す」)を捧げるようになるというだけでなく、その「施し」(献金)は他者・隣人(「自分たちや他のすべての人々」)に「惜しまず施しを分ける」行為へと直結するということです。 この神から人に惜しみなく与えられる「恵み」「富み」が、人に「施し」(献金)を惜しみなく神と人とに捧げるという、この「恩寵」の「結果」こそが、「礼拝」であり、「奉仕」なのだということなのです。
3.神の恵みと富み
11:あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。
ここで、わたしたちは神の恵み、賜物について、このみことばによって信ずべきことがあります。わたしたちは、「すべてのことに富む者とされて」いるということです。 この事実は、受け入れがたいと抵抗感を感じる人がいるかもしれません。ことに、逆境のさなかに置かれている場合、「すべてのことに富む者とされているですって?自分はいま、苦難のなかに置かれているではないか!」と、思わずにはおれない、そう思っても仕方ないでしょう。「このようなみことばは、すべてのことが順風満帆で何の苦労もない人はそうかもしれないけど、自分にはとてもそうは思えない」。そう感じるかもしれません。
聖書の言葉は、ときに残酷に響くことがあります。この箇所も何の気なしに読み流してしまえば何も感じないかもしれませんが、ひどく傷つく人がいても不思議ではありません。
しかし、聖書の読みは、そこからこそ始まるのではないでしょうか。
神の恵み・賜物・恩寵・・・。これらは同じ内容を異なった言葉で表しています。神さまは、「恵み」を惜しみなく注がれています。この恵みは、「種」「パンの糧」という比喩で次のように表現されています。
10:種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
種が、わたしたちのなかで実を結ぶように成長させてくさるのは神さまによります。「成長させてくださるのは神」なのです。
しかしながら、蒔いた種が実を結ぶとは限らない。
教会の庭、牧師館の庭に、わたしも、種を蒔きますが、発芽するものもあれば、しないものもあります。また種の播種時期を間違えると発芽しません。種蒔く人の素養が問題なのです。前提として、種を蒔く人は、蒔く人としての経験や、知識が必要なのです。種をただ蒔くだけでは実りに結びつく訳ではないのです。パンとなれば、なおさらです。パンのもとになる小麦粉やパン種が必要です。
「すべてのことに富む者とされている」というのは、「この奉仕の業が実際に行われた結果として」、「慈しみが結ぶ実を」結んでいる、その結果を意味するのでしょう。
つまり、種が発芽し、成長し、実を結ぶのは、「奉仕の業が実際に行われた結果」ということになります。
「奉仕」とは「礼拝」行為と分離し得ない関係にあると先に確認しました。むしろ「礼拝」こそが「奉仕」であり、「奉仕」こそが「礼拝」なのです。
「奉仕」=「礼拝」を実際に行うこととは、神への礼拝と隣人への奉仕が、同時に恵みとして授与され、育まれ、「慈しみ」「施し」(献金)へと結実することを意味する事柄なのです。
私たちが、礼拝毎に献金を捧げるのは、献身の証しなのです。献金そのものが礼拝であり、即隣人への奉仕・慈愛の証しということなのです。
4.「あなたがたに与えられたこの上なくすばらしい恵み」
人に躓いてはいけない。教会生活をはじめたとき、このように教えられます。人は誰しもが罪人です。また時によっては不信仰に陥ることもあります。こころならずも罪を犯すこともあるものなのです。教会のなかでトラブルを起こす人も出てきます。牧師も同様です。
そんなときに、「人をみてはいけない」と諭されるものです。見つめるべきは、主イエスであり、聖霊さまであり、父なる神です。みことばです。
種を蒔かれても、土壌が枯渇していれば種は発芽しません。いばらのなかでも、石地に落ちても同様です。
だからこそ、見られる自分自身は、見ている「彼ら」(14節)には、神からの恵みが「この上なくすばらしい恵み」であり、見たことによって、見られる自分自身を「彼ら」が「慕い」「祈る」ようになることが信仰生活には重要なのです。
他者から見て、わたしたち自身が「神からのこの上ない恵み」に生かされていなければ、見る人を躓かせるかもしれないのです。
隣人が、わたしたちを見て、「慕い」「わたしたちのために祈る」ようになる、そのような恵みの証人となること、それこそ、「奉仕」であり、「礼拝」の生活なのです。
5.「すべてのことに富む」
「すべてのこと」とは何であるのか。
その人によって、固有な人生を、神さまは与えています。固有というのは、その人にとって、それしかないという、ほかの人とは替わることが不可能な、その人だけの人生だという意味です。
その人の固有な人生は、かけがえのない人生であり、その人だけのものです。その人生は、神が与えた人生であって神の祝福のもとにあって生まれてきたものです。
その固有な人生は、苦難に満ちた逆境そのもののような人もいることでしょう。誰しも苦難を避けることはできません。苦難もまた神の賜物です。
神は、ヨブに苦難を賜りました。
苦難に、ヨブとても苦しみ抜きます。3人の友人たちがやって来てはヨブにさまざまな心ない言葉を浴びせます。しかし、最後には、ヨブは「神は与え、神は奪いたもう」と告白し、神を賛美しました。苦難のさなかで賛美したのです。
すべてのこととは、苦難も祝福もすべてを含むからこそ「すべて」です。
どんな境遇に置かれたとしても、この固有な人生を、神の恩寵として受け入れるようになるために、いかに時間がかかろうと、いかに苦しみ抜いて泣き叫び、苦悶しようとも、最期の最期には、神を賛美することが赦されている。このことこそが、わたしたち信仰者の「富み」ではないでしょうか。
15:言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。
言葉で言い尽くせない神の贈りもの。小さなこと、小さなもの、大きなもの、大きなこと、どの事柄からも、神の意志が見えてくる。聞こえてくる。
信仰者の人生は、言葉で言い尽くせない神の贈りものに、目を凝らし、耳をすませ、魂で感じとることが赦されている。そのひとつひとつに感謝をささげることができる。これぞ、わたしたちが「すべてのことに富む者」とされている証明なのです。
主よ、耳をすまし、目をこらして、あなたの惜しみない慈しみのプレゼントを、見いだし、聴き取ることが、今日も明日もまたできますように、心からお祈りいたします。