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2026年3月9日月曜日

 3月15日(日)〈受難節第4主日〉

〈主の変容〉

マルコによる福音書9章2節~10節


2026年3月8日日曜日

 2026年3月8日(日)(受難節第3主日)

『受難の予告』

マルコによる福音書8章27節~33節



              『受難の予告』

                  マルコによる福音書8章27節~33節

ペトロ、信仰を言い表す

                 (マタ16:13―20、ルカ9:18―21)

27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。

28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。


イエス、死と復活を予告する

               (マタ16:21―28、ルカ9:22―27)

31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。

32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。

37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」


1.主イエスの最初の質問

    主イエスは、弟子たちに問いかけた。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。

 イエスが知らないはずはない。イエスと弟子は行動を共にしている。弟子たちが知り得る情報は、イエスも同じ環境の中にいるのだから、弟子の耳に入る事ぐらいイエスの耳に届く。イエスは所謂世評を聴きたい訳でもない。イエスが村々で行っていることは誰の目にも明らかだ。そのことで人々は驚き、ある者は、イエスを崇拝しだし、ある者は、いぶかしいと怪しむ。敵視する者も現れるほど評判になっていたことは衆知の事実だった。

 人々は、洗礼者ヨハネの生まれ変わりのように感じる者もいあれば、預言者エリヤの再来だと思ったりもする。それぞれが勝手な想像をめぐらしていた。それくらいのことは、奇跡実行の当事者が知らぬはずはないのだ。

 だから、イエスは知っていて、あえて弟子に問うたのだが、その意図は何か。それが問題だ。


2.イエスの2番目の質問

  次に、イエスは弟子たち自身が師であるイエスをどのように思っているかを問うた。

 この問いもまた、イエスが知らないから問うているという事ではない。弟子はイエスに現に従ってきているのだ。イエスを信じているから行動を常に共にしているのだ。それに、弟子たちはイエスから直接召命を受けたり、師である洗礼者ヨハネが、「世の罪をとりのぞく神の子羊だ」と証言したからこそ、イエスの弟子になったのだ。彼らは、直弟子と言ってもよいのだから、イエスが「誰であるか」を知って従ってきていることは自明だ。あらためて、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問うのは、いったいどういうことか。その意図は何か。それが問題だ。


3.知りつつ問いかける意図とは何か。

  たたみかけるようにして、イエスはご自身を、第1番目には世評。2番目には、直弟子たちの認識を、知っているにもかかわらず問いただした。

 その意図は何か。

 世評もペトロも、それぞれが、自分が信ずる「イエス像」をイエスに投影している。それはそれぞれがイエスに、自分自身が思い思いに、「自分が信ずるイエス」を、イエスに、映しだしているという意味だ。自分自身のイエス像は、期待であったり、願いであったり、理想であったり、人それぞれだ。共通しているのは、現実のイエスという人自身ではないということだ。

 なるほど、さすがに第一弟子のペトロは「メシアです」と、きっぱり言いきっている。それは今日、わたしたちが信仰告白する信仰の対象である主イエス・キリストかというと、そうではない。

 ペトロは、十字架上で殺され、三日目に甦り、天に昇られたイエスをいまだ知らない。

 また、これから彼は死刑判決を受けるイエスを「知らない」と鶏が三度鳴く前に、シラをきったりもすることになる。

 ペトロが「メシアです」と言っている事の内容は、その程度の認識にすぎない。「メシアです」と言いながら、自分自身の考える「メシア像」をイエスに押しつけているだけなのだ。だから、自己が描くメシア像と現実のイエスが矛盾すると、イエスを裏切る。裏切ったつもりはないが、実際裏切っている。自分が信じたイエスと違うので、自分が裏切られたとさえ思う。御門違いも甚だしい。自分が裏切っているのに、裏切りをイエスになすりつける。


4.メシア秘密

    イエスは、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」ご自身をどのように言うのかという問いに、「メシアです」と応えたペトロに向かって、同時に居合わせた弟子たちに向かってだが、ご自分のことを「誰にも話さないようにと戒められた。

 イエスが「メシア」すなわち、「キリスト」であることは、真実である。真実なのに、なぜ、イエスは誰にも話さないようにと戒められたのかと、疑問に思うかもしれない。福音書はなぜ、このような謎めいたイエスの言葉を残したのか。

 真実を伝えるということは難しい。人の語る言葉は、神について語り得ない。わたし自身、聖書のみことばを語りつごうとしているけれでも、語る先から語り得ない困難を痛切に思わずにおれない。

 イエスが神であるということを、「イエスは神です」と語れば、語ったことになるのかと言えば、それは、やはり「人の語ることば」という限界があると言わねばならない。

 ペトロが、「メシアです」と応えた答えは、まったく正しい。まったく正しいが、正しいけれども、やはり「ペトロという人のことば」という限界があるから、正しい事柄を語ったところで、語られた「事柄」そのものの真実が伝わるということを意味してはいないのだ。

 主イエスは、正しく福音を語ることの不可能性を知っていた。ペトロが、「イエスはメシアです」と福音を人に伝えたとしても、真実な事柄は伝わらない。

 それどころか、ペトロ自身も真実な事柄を知らないのだ。知らない者に福音が伝えられることはない。

 ゆえに、イエスは福音を、ここで伝えることを封印されたのである。『イエスはキリストなり』これは紛れもない福音だ。しかし、ここで主は、この福音を語る事を禁じたもうた。それは、ここで福音を語ることが福音を伝えることにならないからだ。


5.受難の予告

 イエスは、ここでご自身の究極的目的を、はじめてお示しになった。

    「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(31節) 

 主は、人々には譬えをもって語られたが、弟子たちには、神の国の秘密を語ると言われていたが、いまこそ、秘義が語られたのだ。

 しかし、ペトロには理解できない。彼には、イエスの語り秘密が理解できないのだ。彼には、彼自身の「メシア像」がある。イエスが受難するなどと、彼には到底受け入れがたいことだったのだろう。なんと彼は師にむかって「いさめ始めた」のだ。彼にはイエスがメシア=キリストであるという事柄の秘義が、何も分かっていない。


6.振り返って弟子たちを見ながら

   主イエスは、このまるでイエスのことを理解していないペトロを最大級の,超弩弓の叱責を与えたもうた。

    「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(33節)

 ペトロの「メシア像」「メシア期待」の正体が、面と向かって暴露される。ここでイエスは苛酷なまでに非情だ。弟子に向かって「サタン,引き下がれ」と叱ったのだ。今日外見だけ見て、「パワハラ」だと非難されかねない強烈な叱責だ。しかし、主イエスがペトロを憎んで叱責しているのではない事は,明らかである。強い叱責は,強く叱責しなければならない必然があることを、知らねばならない。

 イエスは、「振り返って弟子たちを見ながら」と振る舞った。この所作から、イエスがペトロだけに、事柄を伝えようとしているのではなく、弟子たち全員に伝えようとしていることがわかる。また「振り返って」という所作には、ペトロの身の程をわきまえない「諫め」を無視して、一息ついてから、叱責を叱責として、これから大切な事柄を君たち全員に伝えるという主イエスの「構え」がうかがえる。

 ペトロは弟子たちを代表しているのだ。最も先輩格のペトロだからこそ、イエスは厳しく諭しているのだ。

 ペトロの「メシア期待」は、人間的動機であった。「メシア期待」は、期待である以上は,人間的願望・欲望を源泉としている。根本動機が、そもそも不純なのだ。

 神を信じるているということではないのだ。人間の事を思っているということは、すなわち神のことを思ってはいないことを意味していると、主イエスはきっぱりと明言されたのである。


7.群衆を弟子たちと共に呼び寄せて

  弟子たちを叱責し、不純な宗教的願望を捨てて、神さまに起源する動機へと集中させようとされたイエスは、今度は、語りの対象を「群衆と弟子」へと変更された。

 弟子たちだけでなく群衆へと向かわれたということは、ここで語られる事柄は、全人類にむかって、普遍的な戒めとして語られた事柄だということを意味する。

    「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

                    (34節)

    自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。(35節)

    人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(36節)

    自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(37節) 

    神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 (38節) 


8.福音の真実を伝えること

   福音を伝えることは、ただ人の言葉の次元で語り伝えるということによっては不可能だ。そのような饒舌をイエスは禁じられた。

 福音は、主イエスに現実として従うことによって伝える他はない。主イエスに従うことなのだ。「信従」なのだ。

 「自分を捨て」ということは、宗教的願望に起源する利己的なメシア期待、「信仰のようなもの」を捨てよということだ。

 「自分の十字架を背負って」ということは」、十字架の主に従う道を、主と共に歩むときに、自ずから己が十字架が何であるかが明確となるだろう。神と人を愛するなら、人は苦難を選ぶからだ。

 「自分の命を救いたいと思う者」とは、永遠の生命を信じることができずに、自己一身の延命を隣人の生命よりも願う者だろう。そのような利己的人間は永遠の生命を見失う。

 主イエスのため、また福音のため自分の命を失う者とは、地上の生命への拘泥を相対化し、永遠の生命を信じる者であろう。永遠の生命とはイエス・キリストを信じる事に他ならない。

 「永遠の生命」の価値は、全世界の価値と比較をすら絶している。


9.主イエスの恥とならないために

  審判は必ずある。最後の審判の時がやがて来ます。それだけではなく、いま・ここに,リアルに審判はあります。

 心から恥ずかしいと思う事が、突如として心に去来することは、誰にでもあるだろうと思う。その時こそ、いま・ここでの審判なのだと考える。

 その瞬間、神は、わたし自身の恥ずべきことを、示してくださっている。それは神の御前で、悔い改める機会を神が与えて下さっているのだと、わたしは考える。

 この機会は、悔い改めのチャンスなのである。主の来臨のときに、主イエスの恥となることのなきように、神は、いま・ここで悔い改め、新たに生き直す再出発の時なのだ。

 主イエスのみことばを、日々、繰り返し心に思い、主を偲びつつ生きることで、日々新たに生き直し生きるなら、終わりのとき、主もわたしを恥としないでくださると信じる。

 受難の主と、今週も,日々新たに、生き直して生きたいと、祈る。

 


2026年3月1日日曜日

 2026年3月1日 (受難節第2主日)

マルコによる福音書3章20節~27節

『ベルゼブル論争 負の共感力』





1.集まった人々

 ここで語られている人々は弟子たちを除くと三者に分かれる。

 最初に描かれるのは、群衆だ。イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来ていたとある群衆だ。この人々はどのような人々であったのか。ある人は病気を癒してほしいと必死な思いで家を出てきたのかもしれない。またある人は家族や友人のためにイエスにすがろうと来たのかもしれない。いずれもがイエスに助けを求めていたに相違ない人々だ。

 次には、イエスの身内の人々だ。家族や親族なのだろうが固有名はわからない。兄弟、弟妹や親戚の叔父叔母(伯父伯母)かもしれない。彼らはイエスを「取り押さえに来た」とある。穏やかではない。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

 彼らが来た理由は、一言で言えば「世間体」を気にしているということだ。主イエスがどうして「気が変になっている」と言われたのかは詳細はわからない。

 だいいち、イエスの言葉や振る舞いに、世間に迷惑をかけるような異常なものがあったとは思われない。人の病を癒し、汚れた霊を追放したり、障害を負った人々の障害を取り除いたりしてきたことが、迷惑行為だと言われるいわれはないのだ。

 それでも、「気が変になっている」との世評が身内の人々に、このような過激な行動に移らせたのは、イエスの言葉と振る舞いをよく思わない一定数の人々がいたからであろう。

 身内の人々は、その圧力に屈していたのだ。「世間様に申し訳ない」とでもいうことであろうか。「一族の恥さらしだ」というところか。彼らにはイエスに対する愛情よりもイエスの存在がもたらす世評の圧力への同調のほうが大事だったということだ。この身内には、イエスの立場を弁護したり、かばったりする者はいない。だから、この同調圧力に屈した身内の背後には、ここには言及されてはないイエスへの敵対者が存在する。

 イエスの人々への癒しの業を、精神異常者の行為だと決めつけることも、その悪意に屈する隷属的な精神の貧困さも、このイエスへの暴力的な襲撃という形として実を結んでいる。そうなのだ。まさにこれは親族のイエス襲撃の事件なのである。

 3番目に登場するのは、はるばるわざわざエルサレムから下ってきた律法学者たちだ。彼らの言い分も行動も尋常さを欠く。

    「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。(22節)

 2.内輪もめの譬え

    身内の襲撃にも、イエスは動じない。それどころかこの三様の人々を「呼び寄せて」いる。そこで語られたのが所謂「ベルゼブル論争」である。

 これは、公言だ。宣言と言い換えてもよい。イエスはこの譬えで、「内輪もめ」がもたらすものは、崩壊・滅亡でしかないと宣言したのである。

   公言であるが、この比喩が指し示してものは聴く者が、何処に立っているかという立ち位置によって意味が大きく変容する。それだけ、この譬えは意味深長なのだ。

 まず、イエスは、「内輪もめ」という事態・事柄を望んではいない。イエスの究極的目的は「和解」だからである。

 崩壊・滅亡・内紛ではなく、平和・成長・和解だ。この目的からひもとかねばならない。

     「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。

     国が内輪で争えば、その国は成り立たない。

     家が内輪で争えば、その家は成り立たない。

     同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。

  「内輪もめ」すれば、すなわちサタン同士が相争えば、自滅すると主は断言される。ゆえにサタンがサタンを追い出すことは不可能だというのである。だから、律法学者たちの言い分は成り立たないというのだ。国家も家庭も「内輪もめ」すれば崩壊するほかはない。それはサタンとても同じだなのだ。

 イエスによれば、人間もサタンも、その点では変わるところはない、というのがイエスの論理だ。

 だから、イエスと律法学者たちとの間も、イエスと身内の人々との間も、中傷や襲撃という形となって現出しているけれども、つまり、外見的には、ユダヤ教内の「内輪もめ」とか、家庭内の「内輪もめ」のようにみえているけれども、主イエスの究極的目的たるみ旨(十字架の死と復活)から見返してみるならば、「内輪もめ」なのでは決してない。

 そうではなく、神と人との「和解」と、人と人との「和解」こそが、「内輪もめの譬え」によって、指し示されているのだ。つまり「内輪もめ」は滅びへの道だが、現実に生起しているイエスの言葉と振る舞いは、滅びどころか「和解」への道だというのである。

 人は譬えの外形に拘泥していては、本質を見誤る。現実に起こっていることを忘れてはならない。主イエスは、現実として悪霊・サタンを追放しているのだ。この現実から寸分も離れてはいけない。サタンはサタンを追い出すことはできない。そんなことをしたらサタンが自滅するだけだ。だから律法学者たちの言い分は破綻している。

3.律法学者たちの論理

  彼らの言い分は二つだ。一つは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」というもので、悪霊の頭ベルゼブルがイエスの「力」の真の主体者だという理屈だ。第2は、イエスは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」というもので、イエスの「力」は「悪霊の頭」によるものだと言う理屈である。この理屈は、イエスの「力」の真の主体者はベルゼブルであり、その「力」は悪霊の頭ベルゼブルの「力」だというものである。

 この理屈とイエスの論理との違いは、イエスのほうがサタンはサタンを追放することは不可能、自滅するからとしている。

 それに対して、律法学者たちはサタンはサタンでも他のサタンを追放する力をもつ頭級のサタンならば、追放できるという前提だ。サタンにも序列があるという訳だ。 なるほど、そう来るかという理屈は彼らなりに筋が通っている。

 しかし、見落としてはならないのは、この理屈の盲点は、悪霊を追放する具体的な「力」を、彼らは単にそのように解釈しているにすぎないという点である。彼らは彼らの都合で、勝手に、「決めつけ」ているにすぎない。イエスが現実に、悪霊追放の奇跡を行っている事実を、律法学者たちは勝手に悪霊の頭ベルゼブルの所業だと解釈をあてはめているだけなのだ。

 言うまでもないが、ただ「決めつけ」るだけなら、容易な事だ。容易でないのは、現実に悪霊を追放する事のほうだ。

 律法学者たちはただ自己都合で勝手な解釈、レッテルをはるだけだが、イエスは現実を動かしている。この差は無限だ。

 解釈する方はいかようにでも解釈可能だが、現実に奇跡を起こすことは、現実の「力」が働いているからこそ起きている。この力を律法学者たちは「悪霊の頭ベルゼブル」と言って、イエスを「ベルゼブルに取り憑かれている」と、「追放」しようとしているのだ。

 ここで気付く事は、まさに律法学者たちは、イエスという「悪霊の頭ベルゼブルに取り憑かれた」男を、ユダヤ教社会から「追放」(悪霊追放)しようしていることだ。つまり、彼らこそ、「悪霊追放」しようとしている当事者だということだ。

 律法学者たちはイエスを排除しようとしている。その論理はイエスが「悪霊の頭ベルゼブルに取り憑かれた男」だからとういう訳である。

 イエスは、「悪霊追放」の奇跡を、個人に対して行っただけではない。この論争の舞台そのものが、イエスを悪霊と決めつけて排除・追放しようという律法学者たちの中傷・攻撃・襲撃だったのだ。

4.「悪霊」の正体

 イエスは、ご自身が「悪霊」と同一視され、排除・追放・攻撃の対象とされているベルゼブル論争という舞台において、真の悪霊の正体とは何なのかという真理を明らかにされた。

 悪霊の正体は、単なる解釈とか決めつけによるレッテルなのではない。そうではなく、人間の内奥に隠れ潜んでいる魔物としての「共感力」なのだということであった。

 律法学者たちは何故に、イエスを悪霊とレッテルをはるのか。「気が変になっている」と身内を追い込んだ世評を、人はなぜ声高に語るのか。身内は現実に生きている生身のイエスをかばうでもなく、弁護など思いもよらず、暴力をもって襲撃さえする。何故なのか。それは彼らには、当時のユダヤ教社会の無言の圧力、言い換えれば社会に波風をたてずに平穏無事に過ごしてきたところに、主イエスが具体的・現実的な奇跡を行い続けることへの恐れと不安があった。理解できない事柄に対する動揺が社会の同質性を揺らがせているという漠然たる違和感が、共同体の紐帯を脅かしていると感じていた。それを喚起したのは、「共感する力」だ。漠然たる不安が「共感力」によって、異質な分子への根拠のない嫌悪、排除する力へと醸成されてしまう。この曖昧な差別感情が排除の論理を作り出す。決めつけがはじまる。そしてその決めつけは確信にまで増幅される。

   人々は、元来は根拠のない決めつけを負の共感力によって強化させてゆく。彼らは神への愛、ユダヤ共同体への愛着という正義の大義によって着飾られた「確信」 に満ちて、異分子の排除を正義と信じこんで、この舞台では、イエスを排除にかかったのだ。

 主イエスはご自分みずからが、具体的・現実的に神の力をもって「悪霊追放」を数限りなく行ってきた。そのことの偉大さゆえに、「負の共感力」に翻弄された人々は、熱狂的に、イエスの御業が偉大なるがゆえに、「悪霊の頭ベルゼブル」とレッテルをはって襲撃したのである。

5.受難の主

  だから、人のなかに隠れ潜むもの、人を思いやることもできれば、人を憎むこともいとわない、負の「共感力」というべき魔物のような性質を、主イエスは暗々裡に、真の悪霊だと気づかせようと、「内輪もめの譬え」を語られた。しかしイエスの究極的目的は平和であり、和解である。「内輪もめ」すれば滅ぶ他はないのだ。だから神は、徹底して攻撃され、襲撃されることを決して避けることなく引き受けたもうことによって、「内輪もめ」なのではなく、和解と平和をもたらそうと、受難の道を歩まれた。「内輪もめ」など起きてはいないのだ。主イエスは徹して襲撃されていることをやめない。それは「内輪もめ」ではないからだ。主イエスは、徹して襲撃されることによって、実は戦っておられたのだ。

6.略奪の譬え

 主の闘いとは何か。それは、完全に「強い人」を縛り上げることである。

 これは「略奪の譬え」だ。

 主の闘いは、人間内部に隠れ潜む魔物をコントロールすること他ならない。この魔物は、人間に利他的な、慈悲深い行動を促す原動力ともなるものだ。紛れもなく神が人に与えた「よいもの」だ。

 しかし、この魔物は、暴走する。思考停止を引き起こす。ときに愛国心という美名に名を変えて、敵を作り出し、人の道を踏み越えてしまうのだ。

 主イエスの闘いは、この強い人=魔物=共感する力を、人をして制御する知恵を、人に与えたもう。

 家財道具は、人の魂の内面世界の比喩であろう。主は、人を魔物の手から守るために、魔物を制御すべきことを、この譬えでお示しなった。

 われら人間は、主イエスによって内面に潜む「強い人=共感力」を縛られてこそ、自分自身の共感力という魔物を、正しく制御することができる。

 主よ、どうぞわたしたちの内面に隠れ住む魔物のような力を正しく用いて、これを人と神を愛する道具となさしめてください         主の御名により祈ります。

 

2026年2月22日日曜日

 2026年2月22日 (受難節第1主日)

マルコによる福音書1章12節~15節

『荒野の誘惑』



                  『荒野の誘惑』

マルコによる福音書1章12節~15節

マルコによる福音書 1章

12 それから、〝霊〟はイエスを荒れ野に送り出した。

13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 1. 一筋の道

   この時代はローマ帝国の属州だったユダヤ社会だった。主イエスが宣教を開始したことは、はるかローマにまで届いていたかもしれない。事実イエスの処刑についてはタキツスもヨセフスも記録している。大工の息子にすぎない一人の青年の活動が、大帝国の歴史家にも知られていたことは、それ自体が驚愕に値する。それだけイエスの宣教運動が広範囲で、多くの民衆を動員していたという証左でもあろう。

 ただし、主イエスご自身は、多大の影響力をもつことを目的としていた訳ではなかった。イエスの言葉と振る舞いが非常に大きな影響力をもったことは、結果であるとはいえ、イエスの目的ではなかった。イエスは群衆と境界線を常に引いて、一定の距離を置いておられたからだ。

 すなわち、主イエスの宣教は、ひとえに父なる神がご自身に託された人類救済という使命に向かって一筋の道を歩んでおられたのである。

2.贖いへの道

   主イエスは、宣教のはじめから終わりまで、ただひたすら一筋の道を歩まれた。寸分の狂いもない目的にむかっておられた。それはすなわち、罪の贖いのための十字架への道であった。

 主が宣教を開始されるにあたり、霊に導かれるまま、荒野へと向かわれたことは、この受難の道行きの全行程を通じてご自身が受けとめられるあらゆる試練、誘惑のすべての本質な核となるべき事柄を明らかにするためであった。

3.神が与えたもうた「荒野の試練・誘惑」

 父なる神は、聖霊なる神として、この試練・誘惑を、独り子なる神主イエスに対して与えたのである。

 直接的には「サタン」が誘惑者として、登場するが、サタンをして、試練・誘惑をなすことを許しておられるのは、父なる神・聖霊なる神ご自身なのだ。

 「それから、〝霊〟はイエスを荒れ野に送り出した。」(12節)という聖句は、「霊」(聖霊さま)が荒野へと主イエスを送り出したというのであるから、荒野の試練・誘惑を与えているのは、神だということなのだ。なぜなら、この試練・誘惑は、人類救済の贖いの道において、主イエスに降り懸かる苦難を苦難たらしめる事柄だからである。

4.主イエスの御受難は単に苦しみなのではない

  荒野の試練・誘惑は、ただ苦しいということ、辛いという痛みを意味してはいない。たしかに主の歩まれる苦難の道行きは人間的な意味では、辛く苦しい痛みの連続であるには違いない。しかし、この神の痛みは贖いの核となる事柄ではない。

 神の痛みは人間の痛みとは違う。

 人間が侵してはならない事柄を、主イエスは御自ら受けたもうて、信仰の勝利を人間にお示しになられるためにこそ、痛まれる。そして、主が勝利された現実がわれら人間の信仰の勝利を確実に保障してくださるのである。

 われら人間は主を仰ぎ見て、サタンの試練・誘惑を退けることができるのだ。

5.主イエスの痛み

 主イエスの痛みは神の痛みだ。

 主は四十日間断食をされた。カトリック教会では、主の断食にならい、四旬節のあいだ節制に努めるという。プロテスタントではあまり聴いたことはないが、制度として採りいれるかどうかは別として、主イエスと時を共に過ごすことによって身体的な感受性を高めるという意味で、よい祈りの方法だと思う。

 しかし、主イエスの痛みは、われら人間とは違う。主にとって空腹は痛みではない。空腹は空腹だ。からだの限界まで食を断つ。食を断つことで、神への祈りに集中する。主にとっては断食は祈りに集中する方法だった。腹を満たしたいという命令を脳が発するとき、その命令より先に、神の御心を思い願うのだ。神がどれほど人類を愛したもうておられるか。ひたすら神の愛を感得することを願う祈りにこころの舵を取るのだ。

 そして、父なる神の愛を、主はご自身の愛としてもわれら人類に向けたもうのである。

 このとき、愛は痛みに変わる。主イエスには、見えるからだ。

 人類は飢えをしのぐために、どれだけ土地を奪いあってきたか。飢えをしのぐめに、どれだけ隣人を殺してきたか。どれだけ欺いてきたか。

 主イエスには人類すべて飢えによる罪業がすべて見えるのだ。これら際限のない罪業が、神のみこころをどれほど痛めつけているか、独り子なる主イエスには、痛みとして同時にうけたもうがゆえに、痛まれるのだ。

 ご自身の飢えゆえの痛みではない。人間の罪業を悲しみ、痛まれる父なる神の痛みを子として痛まずにおれないのだ。

6.父なる神の痛みをご自身に引き受けたもう独り子なる神の愛

  独り子なる神・主イエスは、人類の罪業を悲しみ心痛まれる父なる神の痛みをご自身のものとして引き受け、人類の罪業の報酬たる永遠の刑罰をご自身に課したもうのである。

 人類がこの無限の罪業の刑罰を受けなければならないとすれば、人類は永遠の刑罰ゆえに、永遠の滅び、滅び続ける滅びへと審判されざるをえない。人類を創造して、「よし」とされた神にとってこれほどの痛みはない。父なる神は人類が滅びることを決して望んではおられない。滅ぶのではなく永生してほしいと願っておられることは明らかなのだ。主イエスはこの神の愛、神の願いを、ただお一人でお引き受けたもう。人類が受ければただ滅びへと墜ちるほかなき罪業を、ご自身の命の代償を支払って、ご自身が死に給ふ道を行かれるのである。

 だから、この道は苦難の道なのである。人類の罪業をご自身に引き寄せて一身に引き受けたもう道なのである。

 荒野の試練・誘惑は、ゆえに、人類の罪業の本質をなす核となる事柄を明らかにする内容をなしているのである。

 第1に、人はパンのみにて生きるのではない。神の口からでる一言一言の言葉によって生きるのだ。人はパンの奪いあいではなく神が人を愛したように互いに愛し合い、与えあって生きるのだ。

 第2に、人は神に、おのれの願望達成の手段を求めてはならない。神は人の道具ではないのだ。神を道具化することは神を己の欲望達成のために試みることになる。

  第3は、人は自分で描く理想によって世界を支配してはならない。それはおのれを神とする事に他ならないからだ。それはサタンと取り引きするに等しい。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』。              アーメン

2026年2月12日木曜日

 2026年2月15日(日)(降誕節第8主日)

『奇跡を行うキリスト』

マルコによる福音書4章35節~41節


              『奇跡を行うキリスト』

                          マルコによる福音書4章35節~41節

35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。

36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。

37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。

38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。

39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。

40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


1.「向こう岸に渡ろう」

 象徴的な、主イエスの言葉である。

仏教には、彼岸という言葉がある。対する言葉は此岸である。

      対岸は、仏教では涅槃だという。

 「彼岸へ渡ろう」と言い換えれば、イエスの言葉の意味は想像が広がるだろう。涅槃は楽園になる。

 しかし、涅槃と楽園とでは、大きな違いがある。

 涅槃は「悟りに至るための越えるべき渇愛や煩悩の例えである川の向こう岸」であるが、他方「楽園」は、神の恵みによって招じ入れられる世界である。涅槃は、人が越えるべき「渇愛や煩悩」の向こう岸であるが、楽園は、神が人を招き入れる向こう岸だ。人の「悟り」と神による「救い」の違いと言ってもいいかもしれない。「自力」と「他力」と言い換えられるかもしれない。


2.「群衆を後に残し」

 群衆は、言うなれば見捨てられたという見方もできる。群衆はイエスの一行についてきた人々の群れである。余暇のあいまに物見遊山に来ているのではない。それぞれが意を決して犠牲を払ってでもイエスに期待を寄せてここまでついてきた。真剣だったはずだ。

 彼らは岸に置いておかれ、イエスの一行が舟に乗って遠ざかってゆくのを、どのような思いで見ていたであろうか。見捨てられたという思いをもったとしてもなんら不思議ではない。

 その意味で「向こう岸へ渡ろう」と言われた主イエスの言葉は、彼岸への号令であったけれども、その号令には、群衆を置き去りするという人情を断ち切る非情さがあったと見ることができよう。

  号令に従って、イエスを舟に乗せた弟子たちも非情だ。群衆がどれだけ、イエスを慕い、期待してついてきたか、彼らは身近に知っていたであろう。しかし、彼らは非情なイエスに従順に従うだけだ。


3.この非情さは

  信仰の世界は不可解なところがある。ここに見られるイエスの号令に暗示される非情さも不可解だ。神の愛を説くイエスの非情さは不可解だ。癒していただきたいとの一心な思いでついてきた群衆を置き去りにする。どのように理解したらよいのか。

 わたしはこの非情さが神の独り子としての愛から起源するものだと考える。愛には「境界線」がある。

 群衆の一心さ、一途さの根底には「依存心」がある。依存心は、人格の成長を妨げてしまう力がある。主イエスは群衆をご自身に依存させようとはされなかった。主イエスは神の愛によって、人格を解放し、成長を促すことを願っておられたのだ。

当時の人々にとって、病も障害も罪の結果だと考えられていた。癒されることは、すなわち罪からの解放を意味していた。しかし、主イエスは病も障害も、罪の結果なのではないと、人々の癒しを行いながら宣言し、実現されていた。たとえ病であるとか障害であるとか、人がそのことで苦しんでいたとしても、それは罪のせいではない。神の栄光が顕れんがためだと諭された。病や障害を癒すことで、人々に依存心を起こすことのないように、距離を置かれていた。

 ここで、「彼岸への号令」をかけられた主イエスの行為は、群衆が依存心に固執することのないように、距離を置くためであった。人々はイエスに見棄てられたと思うかもしれない。しかしそれこそが依存心の現れなのだ。主イエスは、人々に、病も障害も、罪の結果なのではなく、神の業が我が身に顕れている現実をまっすぐに見つめ直す猶予を与えているのである。

 信仰は、人格の成長を意味する。人格の成長は、自分自身をまっすぐに見つめ直し、幸も不幸も正しく受けとめ、生き直す力だ。

 主イエスは、群衆にその機会を与えている。ご自身と人々のあいだに、心情を交わし合うことが愛なのではない。神と人とを的確に愛する方法を身に着けることを促されているのである。


4.激しい突風が起こり舟は波をかぶって、水浸しに

 湖とはいえ、激しい突風によって転覆や破船が起こらないとは言えなかったようだ。弟子たちは主イエスに向かって救助(?)を求めている。

 イエスは艫のほうで眠っていた。

 嵐の中でのゆうゆうと眠るイエスの姿には、神の権能が顕れているが、弟子たちには、そうは見えていなかったようだ。

 助けを求めているようでもあるが、窮状を訴えているようにも見える。嵐のなかで、弟子たちが今にも遭難するような状況なのに、それにも拘わらず眠っていることへの非難にも見える。おそらくそれらのどれもが混じった気持ちだったのだろう。

   40節の「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とのみことばは、嵐を鎮めたあとの言葉とされているけれども、わたしには、このときの言葉のほうが相応しいように思える。弟子たちは、暴風のなかでゆうゆうと眠っておられる主イエスをみて、その姿に神の権能を見なければならなかった。それなのに、イエスの姿を見て、むしろイエスを非難しているからだ。

   38節が弟子たちの非難をよく示している。「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。」

 これはおかしなことを言うものだ。弟子たちだけが溺れ死ぬかのような言い草である。舟が遭難すれば溺死の危険性は、乗船している全員にあるはずだ。そうであればまっさきに自分たちの師である主イエスのことを心配してもよさそうなものなのに、自分たちの危険だけを訴えている。もうこれで弟子不合格だろう。


5.「激しい突風」「水浸しの船内」が象徴するもの

   嵐を静めるイエスの姿は、ただ自然を統べ治める権能者としての神性を顕すという出来事にとどまらない。たしかにここで主イエスは神の全能性を明確に示された。この出来事を人間の想像の産物に落とし込む人も多くいることであろうが、わたしには、それこそが知的怠慢ではないかと思うのだ。

 この出来事が虚構ではないことは、わたしには自明に思われるのだ。この出来事には、弟子たちという当事者が存在する。弟子たちの固有名は省かれている。古代教会の礼拝のなかで、マルコの記述に結実するまでに史実として伝承されてきた時間がある。その時間はそれほど長くはない。長くはないその歴史時間に、弟子たちの不信仰な言葉を含めての伝承が伝承され続けてきたことを考えると、核となる出来事がまったくの人の想像の産物であったことはおよそ考えられない。しかもその時代は、迫害がもっとも激しい時代だったはずである。

 信仰するだけで生命の危険がある時代に、誰かの想像の産物を命がけで信じ伝えてゆくことに、誰がかけたであろうか。わたしにはあり得ないと考える他はない。

 そうなのだ。この出来事の伝承を教会が礼拝ごとに暗唱し、繰り返し伝え続けた時代こそ、信仰者たちが時代の「嵐」のなかに放り投げ込まれていた時代だった。マルコは、その嵐の中のキリスト者共同体そのものが、この出来事のなかでの水浸しの船内そのものと,共時的に体感していたのだ。彼は、幾人もの兄弟姉妹が処刑されてゆく時代状況のなかで、全能者として堂々たるイエスを、畏敬の念をもって想起していたに相違ないのだ。

 そして現代のわたしたちもまた、時代の暴風にさらされている。パレスチナで、ウクライナで、ミャンマーで、神の子たちが、殺されつづけているからだ。

 この世に生をうけたすべての人は、神の子だ。信ずる宗教とかイデオロギーとか、そのような表層的なもので人を分かち、隔てることは主イエスの願いではない。ムスリムであろうと、ブッデイストであろうと、コミュニストであろうと、神の創られた神の子なのだ。

 神の子たちが、今も嵐の中で命の危険にさらされ続けている。


7.起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」

  主は起き上がる。風を叱る。この行為は激しくわたしたちを鼓舞してやまない。神はわたしたちの困難な世界で、起き上がってくださるというのだ。そして、吹き荒れる脅威の世界に対して叱ってくださるというのだ。

 私たちは、主イエスの起き上がってくださるときを待ち望んでいる。主を起き上がってくださいと。主よ世界を脅かす脅威を叱り飛ばしてくださいと。願わずにおれません。

 わたしたちは、あの出来事を体験した弟子たちのように恐れたりはしません。むしろあなたの恐るべき力を待望します。

 世界の、いま起きている嵐をしずめてください。あなたならおできになるのですから、みこころならばお願いします。もしそれがみこころでないのなら、この世界の脅威に立ち向かう誠実さを私たち人類にお与えください。


2026年2月8日日曜日

 2026年2月8日(日)(降誕節第7主日)

マルコによる福音書2章1節~12節

『いやすキリスト』




              『いやすキリスト』

                          マルコによる福音書2章1節~12節

1.数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、

2.大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、

3.四人の男が中風の人を運んで来た。

4.しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

5.イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

6.ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。

7.「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

8.イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。

9.中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。

11.「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

12.その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

1.信仰心がないような人から感じる恐さ

   最近、年齢のせいなのかどうかわかりませんが、神さまへの信仰心がないなあという感じがする人と接すると、心にダメージを受けるというか、しばらく心が痛めつけられたような感覚に陥るのです。

 本人は、人を傷つけているつもりは、おそらくまったくないと自分では思っていると思います。けれど、信仰心について、ほとんど関心もなければ、場合によっては見下しているような感じが、そのことばづかい、その表情からにじみ出てくるものが、痛いのです。

 こんなことでは伝道などできないなあ、と思うのですが、たぶん伝道という事柄は、そういう痛みを受けとめて、逆に主イエスの愛をもって愛し返してゆくことなのだろうと、意を決して歩き出さないといけない。そんなことを考えている今日この頃です。

2.主イエスの愛の道は痛みの道

   苦難の道行きをされる主イエスは、ご自分に従ってきている「大勢の人たち」がやがては、主イエスを十字架につけ殺してしまう人たちのなかに紛れ込み、結果として主イエスを見殺しにする、裏切るということを熟知しながら、この「大勢の人」たちをみつめておられたのだと思うと、主のこころの痛みがなんだか、いっそう伝わってくるような気がします。

 肌感覚で、痛くなります。

 主イエスの苦難の道行きは愛する痛みの道なのだと実感します。

  愛するということは痛むことなのだということが、主イエスから感じられてくるのです。

3.四人の男が中風の人を運んで来た。

   「四人の男が中風の人を運んで来た。」しばし、この四人の男tたちに思いをはせよう。

 四人の男たちは集まった。友人であろう中風の人をイエスのもとへ連れてゆこうと、お互いに思いをひとつにしたのだ。

 彼らにも暮らしがある。仕事もあれば家庭もあったかもしれない。けれども、彼らは友人のためになんとかしたいと思い立ったのだ。一人が他のひとりに話した。そしてもう一人にもさらにもう一人にも話した。あの方のところへ彼を連れて行けば癒していただけるのではないか。四人の考えは、主イエスなら友人を癒してくださるという期待・願いで一つにまとまった。それで、彼らは普段通りの暮らしを中断することにした。仕事を休もう。他の用事もいったん棚上げにとすることにしよう。

 彼らには、中風の友人のため、彼らの暮らしを中断するという小さな犠牲を払うことになんの躊躇いもなかった。

 これくらいの犠牲はなんともないさ。大切な友人が癒されるならば、そんな嬉しいことはないからと。彼らは行動を共にした。

 中風の友人は嬉しかったに違いない。みんなありがとう。わたしのためにそこまでしてくれるんだね。有り難う。

4.道を阻まれて

 他にも、イエスの噂を聴き知って、カファルナウムに、再び帰ってくれたイエスなら、数々の癒やしの奇跡をされたあの方ならきっと癒していただけると期待した人は大勢いた。

 大勢の人が集まったために、戸口の辺りまですきまもないほどになった。皆が癒していただきたいという期待・願いでいっぱいいっぱいだった。われ先にとすし詰め状態になっていた。

 とても中風の人を連れて戸口のところまで行けそうにない。道をゆずってくれる人もいなかった。道は阻まれていたのである。

5.われ先にと道を阻む「信仰」は真の信仰か

 他人に道をゆずらないこの熱心さは、自分の期待・願いを他人のそれに優先させるという熱心さだ。我先の熱心さだ。

 ほかの誰よりもわたしはあなたを慕っています。ほかの誰よりも、わたしはあなたを信じていますから、癒してください・・・。

 こういう「われ先にの信仰」は、主イエスに真実従う道ではないことは、こうして説明すると、誰の目にも明らかである。

 こういう信仰観は、実績主義なのである。競走主義なのである。信仰を量と考えているのである。自分の信仰の量を競い合っている。「実績なき信仰はない」という考えなのだ。こういう考えは,自分がどれだけ大きな信仰を、つまり量的に大きな信仰をもって、一歩でも先に、他人を押しのけてでも先に、神に近づくことが「信仰の勝利」だという考えなのである。

 この考えは、神との関係を自分が決めるという考えとなって実を結ぶ。つまり神が自分を救うのではなく、救う神を自分が決めるのである。自分が先に近づけば神は自分を救わねばならないという考えに落ちて行くのだ。そういう神は、自分の思いのままの神だということになる。それでは本当の神ではない。

5.屋根をはがして穴をあけ

  四人の男たちのこの大胆な共同行動は、一見するとあまりにも豪胆な方法に見えます。大胆すぎます。屋根をはがして穴をあけるとは、なんという迷惑な行為であろう。この家の家人は、イエスに泊まる場所を提供したばかりに、家を壊されてしまったのです。家人の反応は聖書には記されていないが、この光景を観ていた家人は、さぞかし驚いたことであろう。そして怒ったのではないか。イエスに宿を提供することには、こんな被害もあるものだと覚悟のうえならともかく、はじめての経験だとしたら、やはり当惑しないほうがおかしい。

6.イエスはその人たちの信仰を見て

  ところが主イエスは、そんな家人の当惑をよそに、この大胆不敵な無謀な共同行動をやってしまった男たち四人を見て、連れられてきた中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのでした。

 ここで気づくことは、主イエスが見たその信仰とは、四人の男たちを見てとマルコは書いているのであって、中風の人の信仰を見たとは書いていないことです。

 主イエスの見ている先には、あの四人の男たちの大胆な共同行動があった。そこに主イエスは「信仰」を見たのです。

  主イエスは、家人からすれば迷惑行為とも言えるような大胆不敵な四人の共同行動に「信仰」を見ておられたということです。

  傍目からみれば、迷惑行為ともなるようなこの傍若無人な共同行動を、主イエスはあきらかに「信仰」の発露を見ておられた。

 「大勢の人々」「群衆」の「われ先にの信仰」とは違った、真実な信仰が、彼らの共同行動にはあると、主は見ていたもう。

 それは、どういうことなのであるか。


7.聖霊が起こしたもう「切迫」が人を動かす 

   四人の男たちは、思い立った。あの方ならば中風の友人を癒すことがおできになる。この思いには,不純な動機が微塵もない。ひとかけらの打算もない。友人との交わり・絆には純粋に友情以外の何ものもなかった。そしてこの思いは、一人ではなかった。四人が殆ど同時に語り合い一つとなって、それぞれの事情を克服し、犠牲を惜しまずに、ためらうことなく即座に、共同の共同を起こしている。

 そして、群衆に行く手を阻まれても、くさることもなく、即座に大胆かつ迅速な共同行動にもためらいがなかった。

 その決断は、素早くかつ大胆だった。ここに緊急事態にこそ、彼らのなかに働いている動機が、聖霊が生起せしめる切迫感にみちた「促迫であったことが、主イエスには見えていたのだ。

 彼らを突き動かしているのは、神である。聖霊なのであると、主イエスには見えていた。

 彼らには人間的諸事情を乗り越えるべき「時」には、即座に決断しなければならない事があり得るということは、当然のことのように感じられていたに相違ない。

 その決断は、瞬間の決断なのだということを彼らは感じていたのだ。『塩狩峠』の長野政雄さんは、今この瞬間しかない。今自分の体で列車をとめなれば、次の瞬間ではもう遅いのだ。そういう瞬間に自分の体を犠牲にするという決断を一瞬でくだした。

 その瞬間は、神が促した聖霊による「促迫」ではないかと、わたしは考えている。

 四人の男たちのこの瞬時の決断も、聖霊による「促迫」だったのだ。主イエスは、彼らの信仰が神の恵みに促されていることを見たのだ。

8.「子よ、あなたの罪は赦される」

  主イエスは、四人の男たちに向かってではなく、中風の人に罪の赦しの宣言をされた。

 この出来事が教えていることは、「信仰」の共同性である。

  四人の男たちの罪を主イエスは問題にされてはいない。罪の赦しは中風の人にむかってなされている。

 あの四人の男たちは自分の足でイエスのもとに来られるからだ。

 しかし、主がこの四人の男たちの信仰を見て、とあるのだから、彼らの信仰と中風の友人の罪の赦しは、明らかに関係しているはずである。四人の男たちの信仰と中風の友人の罪の赦し。両者の関係はいかなるものか。

 信仰は個人のものだと、言われて育ってきましたが、ここに示されているのは、信仰はただ個人のものではないということであろう。

信仰には、共同性がある。中風の友人には、イエスのもとに来るだけの身体的条件がない。自力では歩いてこれないのだ。彼がイエスのもとに来るには、どうしてもあの四人の男たちの共同行動(信仰)が必要だった。あの四人の男たちの信仰は、中風の友人をイエスのもとに連れて来くることができた。この協働の行動が、両者をイエスのもとに連れてきたと言ってよいのだ。だから、四人の男たちの信仰は中風の友人の罪の赦しの宣言に直結しているのである。

  具体的に考えてみよう。

 足の不自由な人を教会に連れて来ることは、連れて来る人と連れて来られる人の協働の信仰だというべきだということである。

 連れて来る人にとっても、連れて来られる人にとっても、両者の協働の信仰が、ここで罪の赦しとして,主イエスによって宣言されているということなのである。

9.そこに律法学者が数人座っていて、心の中で

    7.「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

   律法学者も神を信じている。そしてイエスが神の独り子なる神ではなくて、ただの人にすぎないのであれば、律法学者の考えは正しい。神以外に罪を赦すことはできない。正論だ。

 ところが、主イエスはただの人でない。神の独り子である。そのことを律法学者は知らない。知らないのだから、仕方がないと言えばそうだ。彼らにとってイエスはただの人にすぎないのだから。

 しかし、主イエスにとって、律法学者のこの「無知」は、聞き捨てならないことであった。

  イエスは強い口調であっただろう。詰問する。

    8.イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。

    9.中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

  主イエスはなぜ?と問われた。

 ここに表出しているのはきわめて鋭い裁きである。

 主イエスがなされる御業、しるし、所謂奇跡は、人間の力によるものではないことは、律法学者とて認めざるをえなかったほどに、驚愕と衝撃をカファルナウムの人々に与えてきたからである。律法学者も知らないわけがない。第1、彼らがここに居合わせる事事態が、イエスのなしたもう行為が神の力によっていることを認めていたからに他ならないはずだ。

 ところが、彼らは奇跡を目撃・経験しても、そして驚き、神の御業と認めていても、彼らはなお、かたくなにイエスが神の人であることを完全には受け入れてはいなかった。それゆえ、心の中で、「神を冒涜している」等と思ってしまったのだ。

 それに対してイエスは、「なぜ?そんな考えを心に抱くのか」と厳しい裁きを下される。

   神の奇跡を目の当たりにしてもなお、心が塞がれている。神の人を神として受け入れようとしない。主イエスは、彼らの心のなかの呟きを痛いほど感じておられたであろう。十字架上の槍のように主イエスに突き刺さってきたに相違ない。

10.地上で罪を赦す権威

    10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。

 槍のようにイエスに突き刺さる不信仰の言葉は、十字架の痛み同様に、主イエスを苦しめていたのではないか。すでに、もう主イエスは、十字架への道を苦しみ痛みつつ歩まれている。

 律法学者の槍のような言葉に耐えながら、主はなおも信仰について、重要な事柄を開示された。

 神の御業は、単に意味表示するにすぎない言葉と、神の力が現実に働いている言葉との区別である。

 主イエスの言葉は無論後者である。しかし人の言葉は前者にすぎない。前者は信仰がなくても語る事ができる。無神論者でも同じ言葉を語ることができる。しかしそこには神の力が働いてはいない。

 主イエスが、あなたの罪は赦されると言われれば、現実に赦されるのだ。主イエスが「起きて、床を担いで歩け」と言われれば、現実に起きて歩きだすのである。

 信仰なしにでも言える言葉は語るに易しい。しかし実際に、起きて、歩きだすようになる神の言葉は神の力なくては語ることはできない。

 だから、主イエスは、ここで、みをもって、実際に神の力によって語られたことを、お示しになられたのだ。

    10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。

    11.「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

    12.その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。

  主は現実に神の力をもって、中風の人を起き上がらせた。主イエスが語る言葉が、神の独り子なる神の言葉であることが、ここで実際に証明されたのである。これは、律法学者たちの不信仰が律法学者自身にとっても明らかなることであったはずあった。

11.人々は主イエスに神を見ることができたのか

     人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

  この神の御業を目撃し、経験した人々は、ここでも驚愕した。

「このようなことは、今まで見たことがない」と驚愕しているのだ。しかし、この驚愕は、はたして主イエスのうちに神の力が働いていると完全に受け入れることを意味したのだろうか疑問が残る。人々はイエスに神が働いていることを完全に信じたのか。「神を讃美した」と結ばれていることが気にかかる。

 人々は、たしかにこのしるしをみて神の力を実感したはずだ。だから神を讃美した。しかし、神を讃美したが、彼らは、その神の力が主イエスの言葉に宿っていると本当に実感したのであろうか。イエスを神の人だと、ここで信じたのだろうか。

 神を讃美はしたが、主イエスを神の子の権能をお持ちの方だと信じたのか。もしかすると、中風の人を癒やしたのは神の業だと認めつつも、

イエスを神の人だとは区別して、いまだ完全には受け入れなかったのではないか。

 いくばくかの疑問が残るのである。驚愕しかつ神を讃美した群衆は、主イエスをやがて殺す側に豹変してゆく。主イエスはこの讃美を痛みと感じたのではないかと、わたしは懸念しているのだ。


2026年2月1日日曜日

 2026年2月1日 (降誕節第6主日) 

『教えるキリスト』

マルコによる福音書4章1節~9節



              『教えるキリスト』

マルコによる福音書4章1節~9節

4

1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。

2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。

3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。

6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」

9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。


1.おびただしい群衆の動機の真面目さと危うさ

   主イエスは町々で数多くの奇跡を行い,人々は驚嘆し、生業を放棄してまでして、イエスの一行に従ってきたことが窺わせる記述である。

 しかし、われわれは既に、マタイ11章で主イエスが、「悔い改め」という実を結ばない町々を叱ったという事実を知っている。

 イエスのあとを追って集まって来た「おびただしい群衆」は、イエスにつき従ってはいても、この人々もまた、イエスの叱責を受けた人々なのである。

 この群衆は、エルサレムまでついていった人々もいたであろう。そうではなくて、途中で家に戻った者もいたかもしれない。それでも、この「おびただしい群衆」が、イエスに、彼らなりに真剣に、真面目に、信じてついてきたことは間違いない。彼らの真剣さ、真面目さは疑いの余地がないのだ。彼らは彼らとして純粋な動機でイエスについてきているのである。

 しかし、これまで黙想してきたように、彼らは主イエスから叱責の対象でもあった事も厳然たる事実であった。

 イエスが行ってきた「奇跡」(ユダヤ教でいう「しるし」)を直接目撃し、経験したことによって引き起こされた衝撃や、驚愕が彼らを、イエスにつき従うという行動へと向かわせたことは間違いない。

 しかしながら、奇跡の目撃・経験がイエスへの追従を引き起こしたとしても、それがただちに、主イエスへの真正な信仰告白であったかと言えば、必ずしもそうではなかった。その「事柄」が、主イエスの「叱責」によって明らかとなっていた。彼らの動機・彼らの追従は、主イエスの十字架の死の極みにおいて、実に鮮明に「裏切り」へと変わる。イエスの追従者が、イエスを殺す側へと、変貌したのだ。


2.舟に乗って腰を下ろした湖上のイエス 

 イメージとして思い描いてみますと、「おびただしい群衆」と主イエスとの間には、「湖上」と「湖畔」」という隔たりがある光景が浮かび上がる。

 この隔たりは、主イエスが群衆との間に設定したものと考えられる。主イエスは、追従する人々から、しばしばみずから距離をとられたからだ。一人祈りに山に向かわれたこともあった。ここでも、主イエスは群衆から、あえて距離をとって舟に乗られたと見るべきだろう。

 湖上から、湖畔の群衆に向かって、「種まきの譬え」を語り始められた。


3.「種まきの譬え」

   この譬えは、「種」は神の言葉、直接には主イエスの言葉を指し示す。神の言葉を聴いた者が、はたして真実な信仰告白に至るのかどうか、至らずに終わる者の三様を3番目の譬えまでで示し、最後の4番目の譬えが真実な信仰告白をした者として、祝福するという譬えだとして知られる。

   「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」

 「種を蒔く人」は、究極的には主イエスのことだ。主イエスが神の言葉を宣教したという譬えの文言だ。神の言葉の宣教は、神の使命として、イエスは言葉と行為という形で宣教されたと、神の主体的な人への関わりが確認される。 


4.「蒔いている間に、落ちた」

 しかしながら、種蒔きという主体的なイエスの行為が強調されているの、最初の三者三様は、すべて「蒔いている間に、落ちた」と書かれている。このことから、これらの場合は、「蒔いた」のではなく、すべて主体的な宣教の対象としてではなく、「蒔いている間に、落ちた」という偶発的な出来事にすぎないことが対照的に浮かび上がる。 

 すなわち、最初の三者三様の場合は、そもそも宣教の対象として選ばれていないという偶発的な「場合」だということが暗示されているのだ。「落ちた」という言葉にそれがよく表されている。「蒔いている間に、落ちた」のであって、その地に最初から、そこをめがけて種を蒔こうとしたのではないということなのである。


5.三者三様の地に、「落ちた」

(1)「道端に落ち」

    →「鳥が来て食べてしまった。」

(2)「石だらけで土の少ない所に落ち」

    →「そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」

(3)「茨の中に落ちた」

    →「すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」

①「道端に落ち」た種は「鳥が来て食べてしまった。」という譬えは、「サタンが来て神の言葉を奪い取ってしまう」ことを意味している。神の言葉が奪い取られる者だというのだ。この場合、その地には「種」は消滅する。

②「石だらけで土の少ない所に落ちた」場合は、「そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」という。この場合は「神の言葉を聴いて、すぐに受け入れるが「根」がない。だから艱難や迫害が起こるとすぐにつまづいてしまう」者だというのである。

  土地そのものが石だらけで土がないから根を地中深くはることができない。これは御言葉を継続して受け続けるという神の言葉を不断に、繰り返し学び、その学びを継続するという意思が問題となっている。根付かない場合とは、継続して神の言葉を聞き続ける意思がない者の譬えとなっているだ。

③「茨の中に落ちた」種は神の言葉が成長してゆくために必要な「光」がとどかないために、「すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」という譬えだ。

    「この世の思い煩いや富みの誘惑が心に入り込み、御言葉をふさいで実らない」という意味である。

     「茨」が、「光」を遮るというのである。「茨」は「この世の思い煩いや富みの誘惑」だというのである。

    つまり、人間の欲望こそが、神の言葉の成長を阻害する「茨」だというのだ。


6.「良い土地に落ちた」種

   4番目の「種」も「落ちた」となっているが、この「落ちた」の意味は、3番目までのあの三者三様の場合とはわけが違う。種は発芽し、根をはり、実を実らせる。この種は「よい地」に「落ちた」のである。種を蒔く人が種を蒔くという目的に一致している地なのである。目的を達成する地なのだ。この地は、そもそも目的の地なのであり、種はその地に偶然こぼれ落ちたのではない。まさに意図・目的をもって「蒔いた」のである。決して偶然こぼれ「落ちた」のではない。目的の地に「蒔いた」。「落ちた」とマルコは最初の三者と同じように、記したが、「落ちた」のでない。あくまでも「蒔いた」。

 あえて同じ「落ちた」と記したのはなぜか。

 選ばれていない地と選ばれた地が、あえて同一の「落ちた」で示されたことが意味する者は何であるか。


7.①消滅、②枯死、③徒花(あだばな)

   三者三様の選ばれなかった地の比喩には、主イエスの宣教を聴く人々の、神の言葉に対して向き合う態度という現実が背景にあるだろう。いずれもが、主イエスへの「信従という実」を結ばない態度が反映しているのだ。これまでの群衆の魂の態度のことである。

 そして、「これまでの態度」の反映だけではない。「これからの態度」の行く末についての将来の予言の比喩でもある。むしろ、将来の態度(「これからの態度」)の予言としての比喩のほうが、重要なのだ。

 なぜなら、この三者三様の①消滅、②枯死、③徒花(あだばな)とでもいうような精神的態度は、これからの主イエスの苦難の道行きにおいて、イエスを苦難へと追いつめるのは、これらの精神的態度(霊の動き)だからである。この霊的動きこそ、イエスを十字架に追いやるのである。

 

8.選ばれなかった地の人々の選びは?  

  通例は、この選ばれなかった地のような精神的態度を反面教師として、このような者にならないように、自省し、選ばれた地として、神の言葉をみずからのうちで「芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなる」ようにしましょうという具合に、警句でもあり奨励でもあるような理解をする。

 それはそれでよい。確かに自省のための警句として充分な比喩であり、奨励としてみずからの信仰(精神的態度)を鼓舞する比喩として受けとめてよいとは思う。

 ただ、「それでは、選ばれなかった地でしかなかった人々、『おびただしい群衆』の命運はどうなってしまうのか」という必然的な問いが胸に去来することを、われわれは、禁じ得ない。

 イエスを十字架に追いやった「おびただしい群衆」の命運はどうなってしまうというのか。

  通常読み込まれなかった行間から生起する問いかけ、これがこの比喩が、本日われわれにとっての最重要事なのである。

 三者三様の、いずれもが、「不信仰」に終わる人々、これらの人々に「救い」はあるのか。

   神は、イエスは、救われざる人々を放置し、「滅び」へと落としてしまうのか。神は愛の神であれるのではないか。そうであれば、この不信仰な人々を見棄てたもうのか。

 棄却された人の命運は愛の神の対象となり得るのか。「救いと」と「滅び」を人間的にわけて、ひたすら「救われるように」と鼓舞するだけが、この比喩の意図するものなのか。

 これはキリスト信仰にとって、きわめて根源的な問いであろう。

 

9.神学的な「問い」と「答え」

  愛の神は、救われない人々を永遠の滅びへと棄却するのか。それを「神の愛の愛」と主は言われるのか。

 この「問い」は人類にとって最重要な「問い」のひとつだろう、とわたしは思う。

 「永遠の滅び」への恐怖を煽り立てることで、選択肢をなくし、一定方向へと導くことが神の愛なのか。

「愛」と「棄却される人の命運を定める神の行為」は相容れない矛盾に見える。単純な三段論法では、愛の神と永遠の滅びへと定める行為は、結びつかない。

 「永遠の滅び」、「救われない人々の命運」を神は本当に望まれるのか。論理的には結びつかないではないか。

 この根源的「問い」の「答え」は、主イエスがなぜ十字架の死を死なねばならなかったのかにかかっている。

 なぜ神は人なりたもうたのか。

 なぜ神の子が死なねばならなかったのか。

 なぜ神の子は殺されるために宣教したのか。

 なぜ神の子は甦られたのか。

 なぜ神の子は天に昇られたのか。

 なぜ主イエスは、「不信仰な人々」に殺されなければならなかったのか。「答え」は、神の子主イエスは、この「不信仰な人々」の救いのために、殺されなければならなかった。「神の愛」は「不信仰な人々」を救うために、「不信仰な人々」によって殺されなければならなかった。神の愛は、そのままでは「永遠の滅び」へと定められねばならない人々を救うために、独り子なる神の子を犠牲の羊、贖いとされたのである。この贖罪によって、「永遠の滅び」が永遠に滅ぼされることを神は望んでおられる。ここに神の愛がある。「滅びの滅び」である。

 神は愛の方である。おびただしい群衆の「不信仰」を滅ぼし、人々を救うために御子を遣わされたのだ。

 すべての人は罪人である。神のこの愛により、罪人にして、義人とされるのである。「義人にして罪人」なのだ。