2026年9月13日(日)(聖霊降臨節第17主日)
コリントの信徒への手紙Ⅱ9章6節~15節
『奉仕する共同体』
東濃の三つの教会を一人の牧師が兼任しております。
2026年9月6日(聖霊降臨節第16主日)
ガラテヤの信徒への手紙1章1節~10節
『生涯のささげもの』
エドガルド・モルターラは、1851年にボローニャ(当時はローマ教皇領)のユダヤ人家庭に生まれました。乳児期に重病を患いました。その際、一家のキリスト教徒の家政婦が、彼がそのまま死ねば地獄に落ちると恐れ、秘密裏にカトリックの緊急洗礼を授けました。 その後エドガルドは回復しましたが、1858年(当時7歳)にこの洗礼の事実が教皇庁に知られることとなります。当時の教会法では「洗礼を受けた者はキリスト教徒として育てられねばならず、非キリスト教徒(ユダヤ人)の両親が育てることはできない」と定められていたため、ローマ教皇ピウス9世の命令により、エドガルドは家族から強制的に連れ去られ、ローマの修道院でカトリックとして教育されることになりました。
両親は息子を取り戻すために奮闘し、この事件は国際的なユダヤ人社会やヨーロッパ全土の世論から猛烈な非難を浴びました。しかし教皇庁は返還を拒絶し続けました。この事件はカトリック教会の絶対権力に対する反発を強め、イタリア統一運動(リソルジメント)を加速させる政治的な契機の一つとなりました。エドガルドはその後、自らの意志でカトリックの司祭となり、1940年にベルギーで88歳で亡くなるまで、家族の元へ戻ることはありませんでした。
この歴史的事件を、ステイーヴン・スピルバーグ監督が映画化しました。『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』という作品です。
わたしは、本日の聖書を読みつつ、この事件のことを思い出しました。
イタリア王国が成立する契機のひとつともなった歴史的事件です。カトリック教会法によって、ユダヤ人家庭の幼児を誘拐し、両親・家族から引き離し、カトリック信者として育てるという現代の感覚からすれば暴挙ですが、使徒パウロが創立したガラテア教会草創期において、この事件とはまるで立場が真逆のような、教会内での信仰的混迷が発生していたと思ったからでした。
2.教会内部に発生したユダヤ教への逆風
6:キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
「ほかの福音に乗り換えようとしている」と、また「わたしはあきれ果てている」とも語調を極めて批判しています。
キリストの愛と赦しの教えは、一言で言い表せば、「寛容の精神」と言えましょう。ところが、このパウロの言葉は、実に激越な「不寛容」の態度です。
パウロは、矛盾しているのでしょうか。
パウロが懸念しているガラテア教会の信仰の混迷は、圧倒的な「神の恵み・恩寵」(ただ信仰によってのみ義とされる:信仰義認)を信ずることによって、誰であっても「価なし救われる」という絶対恩寵の福音を、事実上否定することになる「律法遵守によってこそ義とされる」という「行為義認」という「ユダヤ教への逆行」に、信徒たちが惹かれていったという事態でした。
行為義認、律法を守ることによって得られる自己満足感はたしかに、自己自身の行為そのものですから、わかりやすかったのだと思います。行為は自分の感覚で、その達成感を得られるからです。
3.神の神となる行為義認の道
千日回峰行という「行」があります。
千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは、比叡山や吉野山などの険しい山々を7年間かけて延べ1,000日間歩き、心身の限界に挑む天台宗や修験道の非常に厳しい荒行です。過酷な道のりは7年間の修行で、1日約30〜40キロ、のべ約4万キロを歩き、数多くの礼拝所を巡り、行が続けられなくなった場合は自ら命を絶つための短刀や死出紐(しでのひも:首つりの紐)を携えて挑む、命がけの修行として知られています。700日を満行したあと、9日間にわたり「断食・断水・不眠・不臥(横にならない)」の状態で不動真言を唱え続ける荒行です。
こうした荒行を達成した人はごくわずかです。そして多くの人々は、「阿闍梨」と呼ばれる人を尊敬するものです。常人にはとてもできない事だからです。阿闍梨の経験した経験知はわたしたちに多くの知恵を与えてくれるものはありましょう。それを否定する必要はありません。
ただ、この荒行を達成したことによって、「悟り」の境地を得たとしても、まことに存在したもう神との関係が義とされるということなのかといえば、それは否です。人の「業」によって、神との関係が「義とされる」(義認即救い)事はありません。人の「業」によって、神と人との関係が義とされる(ただしい関係とされる)のだとすれば、その行為を行う人と神とは同等の存在、もしくは神よりも人のほうが格上の存在だと言っているのと等しいからです。このような傲慢な思想は、自分では気づかなくても、自分を神とする、もしくは神の神となるという根本動機が潜んでいるのです。
わたしたちは、天地を創造したもうた創造主なる神によって創られた被造者にすぎません。
わたしたちは、自分自身を救うことはできないのです。
4.不寛容であるべき事
さて、パウロが激越なまでに厳しく「ほかの福音」を批判・非難したのか。どうしてここまで言わねばならなかったのか。この「不寛容」の態度は、どうして出てくるのか。
これは、人類に救いをもたらす神の絶対恩寵の福音を根本から否定するものだったからです。自分たちは、アプラハム以来の天地創造の神を信じていると、主観的世界では確信しているのが、ユダヤ人ですから、ユダヤ教に逆行するからといって、創造者なる神への信仰はあるではないかと言うかも知れませんが、律法によって義が得られるという思想には、隠された神への否定が潜んでいるのです。人が人の行為によって神人関係を修復したり、確立できるとするなら、それは人が神になっている、もしくは神の神になっているからです。本人がいくら否定しても、自分自身が神に、神の神になってしまっている現実態は客観的に存在するのです。
パウロは、律法による義の思想に隠れ潜む自己神化の根本動機を見抜いていたからこそ、これこそ、まことの神への不従順、すなわち罪だと糾弾せざるを得ないのです。
「そんなに目くじらたてることはないではないか。同じ神を信じているのだから」とか、「そんな『不寛容』な態度では、教会内部がギスギスしてしまうのではないですか」とか、そんな主張をする声が聞こえてきそうです。パウロは厳格するのではないですか、とパウロの「不寛容」な態度を批判する人が出てきても不思議ではありません。
しかし、パウロの舌鋒はひるみません。「わたしはあきれ果てています。」と鋭い批判は、頂点に達します。
福音の本質・核心をないがしろにして、骨抜きにしてしまう「偽教師」の影響力を、断固として、ここで食い止めなければ、パウロがこれまで語ってきた福音が、無意味と化してしまう。ここで放置したり、黙認したりすることは、愛でも赦しでもない。罪の容認、否、罪の擁護になってしまう。パウロは信徒への激しい愛ゆえにこそ、この事態を「背信」とし断固として、ここで食い止めなければならない、そう考えたのです。
愛するがゆえに、福音を無にしてしまうことは、食い止めなければならない。これがパウロの「不寛容」な態度の動機でした。愛するがゆえに、断固として叱責しなければならなかったのです。
これぞ「牧会」です。
牧会とは魂の配慮です。信徒たちがそうとは知らずに背信の罪を犯してしまうことを食い止めることは、信徒たちを愛し、魂を救い、主イエスのもとに取り戻すことにほかなりません。そのためには、頑固として、「偽教師」たちの影響を遮断しなければならないのです。ここに一分の隙もあってはならないのです。
これが福音まもるための「不寛容」です。この不寛容こそが、神への真実な愛であり、主イエスへの真実な愛なのでした。
5.真の「寛容」の精神
どこまでも、まことの神・まことの人、主イエスへの信仰を貫きとおすことこそが、信徒の罪を赦し、永遠の命を与えるという真実の愛なのです。
この一事こそが、「われらに罪をおかす者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りの実践なのです。それゆえ、真の「寛容」はここにこそあるのです。罪を罪として明確に示し、その罪をわが事として受けとめなおし、我がこととして悔い改め、ひたすらその罪の赦しを祈り願うのです。ここに真の「寛容」があるのです。「寛容」とは罪の容認や放置ではないのです。
6.アナテマ(呪われるがよい)※
8:しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
※パウロ書簡のなかにも「私たちが伝えたのと異なる福音を伝えるものは呪われよ(=アナテマたるべし)」(ガラテア1:8)などとする用法がある。こうした異質なものへの「呪い」の意を承けて、カトリック教会を含む古代教会では、アナテマは共同体からの除名、すなわち「破門」を意味する語として用いられるようになった。その証拠に、ニカイア信条などキリスト教の信仰箇条には、異端の説を信奉する者に対するアナテマが付加されるものが見られる。
「呪われるがよい」とはなんという厳しい言葉であろうか。教会からの除名の根拠とされた箇所です。かつては、「破門」は地獄行きを即刻意味した極めて強い排除の術語です。今日では、先に「寛容」の意味について記したように、そのような意味よりも、悔い改めを促すための牧会的配慮の言葉として受けとめ直すべき術語ですが、それにしても激しい物言いです。
ただ注目すべきは、「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ」と、自己批判や天使への批判を含めていることです。 つまりアナテマ、呪われよという術語の対象は、相手に限らない。自分自身も天使さえも含む。人によって評価を変えるような語り方をしていません。パウロの福音(信仰義認)に反するような「ほかの福音」(キリストの福音を覆すもの)を語るようであれば、自分自身であれ、天使であれ、同様に呪われるべきだという内容・事柄に集中した術語だということです。事柄が問題だというのです。人ではないのです。
この視点は重要です。この姿勢は、相手に対して、悔い改めの猶予を与えて、方向転換したならば、直ちに戻っておいでと言っているようなものです。だから、この激しい言葉でさえ、愛の招きとなっているのです。
7.寛容は同調にあらず、承認欲求にあらず
10:こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
フランツ・イェーガーシュテッターという人のことが心に浮かびました。
フランツ・イェーガーシュテッター(Franz Jägerstätter, 1907年5月20日 - 1943年8月9日)は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによるオーストリア併合後、ヒトラーへの忠誠とドイツ軍への入隊を良心の呵責から拒否し、死刑に処されたオーストリアの農民です。彼はカトリック信者の妻の影響を受けて聖書を読むようになり、信仰者となりました。彼はひたむきに聖書のみことばに堅く立って、「ヒトラー宣誓」を最期まで拒絶し、罪に問われ、ギロチンで処刑されたのでした。司祭までもが、ナチス・ドイツへの同調を勧めましたが、彼は同調を拒んだのです。「もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」とパウロは、真理をねじまげてまでして妥協、同調をするなら、「わたしはキリストの僕」(奴隷)ではありません。」ときっぱりと、同調という態度が必然的にもつ偽善性と距離をもちました。
また、同調姿勢というものを、承認欲求と同列に語ります。承認欲求というのは、ようするに、「何とかして人の気に入ろうとあくせく」することです。
パウロの鋭い洞察力に驚きます。誰にでも承認欲求はあります。しかし、人の承認をとりつけるために何かをなすことには、神への責任よりも他人の評価を優先するという邪悪さが潜んでいることを知っているのです。他者の評価を得たいが為に何かをするとき、神への責任(信仰)的主体であるべき自己自身が崩れてしまうからです。わたしたちは他人の評価よりも、神の審判をこそ畏れ、神からの承認をこそ祈るべきなのです。もし承認欲求があるとしたら、神との関係、主イエスとの関係においてあるべきなのです。そうでないなら、「わたしはキリストのしもべ」ではないというのです。フランツ・イェーガーシュテッターはただ神への応答責任(信仰)に生きようとして、殉教の道を選んだのです。
8.生涯のささげもの
ささげものと言っても、それは「物」ではありません。わたしたちのささげものとは、私たち自身だからです。「生涯の」と言っても、それは短くも尊い人生の時間の長さのみを言っている訳ではない。フランツ・イェーガーシュテッターは反キリスト・ヒトラーへの宣誓を拒み、殉教しました。36歳の若さでした。短い生涯です。しかし、彼の殉教の瞬間は、「永遠」をたたえた「今」でした。 わたしたちの「今」「ここで」の瞬間も、「永遠」をたたえています。いま・ここで主イエスへの信従の思いをもって生きるとすれば、それは「永遠の今」であり、わたしたちは、キリストへの「生涯のささげもの」をささげているさなかなのです。
2026年8月30日(聖霊降臨節第15主日)
1コリント 12章27節~13章13節
『最高の道』
2026年8月23日 (聖霊降臨節第14主日)
使徒言行録13章44節~52節
『全ての人に対する教会の働き』
使徒言行録13章44節~52節
44:次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。
45:しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
46:そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
47:主はわたしたちにこう命じておられるからです。
『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
/あなたが、地の果てにまでも
/救いをもたらすために。』」
48:異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
49:こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。
50:ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
52:他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
1.歓迎されていたパウロとバルナバ
ピシディアのアンティオキアに到着したパウロとバルナバは、前の安息日には、ユダヤ教の会堂に招かれて、福音を語りました。(15節) 反応はすこぶるよいものです。次の安息日にも同じ話をしてほしいと、人々はしきりに願ったとあるからです。人々というのは、当然ユダヤ人です。このなかには、異教からユダヤ教に改宗したユダヤ人もいました。集会が終わってからも、パウロとバルナバについてきたので、パウロとバルナバは、彼らを牧会しています。「ひきつづき神のめぐみにとどまるように」と、説きすすめたのでした。
2.主の言葉はその地方全体に広まった
おそらくパウロとバルナバは、前週懇請されていたとおり、ユダヤ教の会堂で主イエスの福音を語るために、足を運ぼうとしていたことでしょう。
ところが、前週のユダヤ会堂でのユダヤ人たちの評判がよかったせいでしょうか、ふたりの話を聴こうとして、ほとんど全市をあげて、人々が集まってきたのです。
この描写どおりであれば、ユダヤ教会堂に収まりきれるものではありませんから、二人は会堂に入る以前に、大勢の人々に囲まれてしまったのでありましょう。
おどろくべき影響力です。この影響は、どのようにしてはじまり、伝播したのか。わたしが聖書の記述から考えられることは、前週、二人の話を聴いて感銘を受けたユダヤ人たちが、全市の住民に語り伝えたとしか思えないのです。ほかに誰がいるでしょうか。
それほどまでに、二人を歓迎しただけでなく、ついてゆこうとまでしていた人々です。ほとんど主の福音を受けいれていたと言っても言いすぎではないと思うのです。
つまり、ピシディアのアンティオキアのほとんどの人々はピシディアのアンティオキアのユダヤ人社会から福音宣教の種が蒔かれたということであったはずなのです。
だからこそ、「主の言葉はその地方全体に広まった」と記録されたはずなのです。
外形的な事実をみれば、福音宣教の果実は実ったというべきでしょう。ところが、意外にも二人はこの地を去ることになるのです。
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
3.ユダヤ人の翻心
ピシディアのアンティオキア全市あげてのパウロとバルナバへの傾倒という事実は、驚異的です。この現実をもたらしたのは、他ならぬユダヤ人たちの使徒たちへの傾倒でした。
ところが、全市の大多数の非ユダヤ人すなわち「異邦人」たちの使徒への急速かつ絶大な傾倒ぶりを目の前にして、「異邦人」たちを二人に引き合わせた当の本人たちユダヤ人たちの心に異変が起きたのです。ユダヤ人の翻心です。
この事態の遷移をみるとき、「ユダヤ人の罪」とみるべきか、それとも「人間存在の罪」とみるべきか、わたしたちもまた解釈上の決断を迫られますが、わたしは、そのどちらの解釈も可能だと考えます。
パウロとバルナバの話には、「神の秩序」の変更がありました。
46:そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
神は神の民としてイスラエル(ユダヤ人)を選び、主イエスの福音は、まずは必ずユダヤ人に語られることになっているというのが、パウロたちの信仰内容だったのです。だからこそ、主イエスもパウロもまずはユダヤ人に向けて宣教を開始しました。それはユダヤ人の背信後も変わりません。
しかし、ユダヤ人たちは、「それを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」というのです。ここには「神の秩序」の変更があります。この変更は、ユダヤ人みずからが選び取ったがゆえに、やはりこの翻心の責任はユダヤ人自身に帰せられるという解釈です。これが「ユダヤ人の罪」だという解釈です。
他方、「人間存在の罪」と見る解釈も可能ですし、こちらのほうが、普遍性があります。「ユダヤ人の罪」だという特定存在に罪を負わせる解釈は、常に「差別」を生みかねない危険があるからです。「人間存在の罪」だと見るのには根拠があります。
それは、「妬み」です。
45:しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
自分たちが感じいって、パウロとバルナバへの傾倒を全市の人々に広めたのに、そのせいで、全市の人々が、パウロとバルナバへと傾倒してゆくありさまを、いざ目の前にしたときに、彼らが感じた人間的感情が「妬み」でした。
4.あまりに人間的な感情、それこそ妬み
急激な翻心の根本動機となったものは、あまりにも人間的な妬みの感情でした。妬みは憎悪と紙一重です。憎悪は殺意につながっています。あまりにも明解な人間の罪の姿です。前週は、従ってゆきたいとさえ思っていた宣教者たちに、これほどまでに憎悪を向けられるとは、人間の罪とは実に恐ろしいものです。
妬みという感情、この感情が動機を形成し、思想を形成し、行動に踏み切らせる。ここには人間の罪の本質が見られます。こう解釈すると、この醜悪な姿は、ひとり特別にユダヤ人だけのものではなく、人間存在、原罪を有する全ての人間存在に共通するものだということができます。
つまり、わたしたち自身の姿なのです。
この急激な翻心、裏切りは、わたしたちの「鏡像」に他ならないことになります。
50:ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
5.追放と門出
パウロとバルナバへのはさぞ驚いたことでしょう。二人は、つい前の週には彼らは歓迎され、招かれ、慕われていたのです。ところが1週間後には、彼らは「嫉まれ」、「口汚くののしられ」「反対」されたからです。
そして、「反対」者たちは「扇動」、「迫害」、そしてついには、「追放」したのです。
しかし、聖書には二人の驚愕については一言も記してはいません。むしろ、記述は、淡々としています。
更に言えば、二人は「喜びと聖霊に満たされていた」のです。
52:他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
なぜなら、二人が語るべき福音を語り得、福音を聴くべき人が聴き、信ずべき人々が救われたからです。「永遠の命」を保証された人々が、地方一帯に増え広がったからでした。
二人が語るべき福音とは、主イエスことが「「異邦人の光」だと神によって定められた聖書のみことばでした。
6.地の果てにまでも救いをもたらすために
47:主はわたしたちにこう命じておられるからです。
『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
/あなたが、地の果てにまでも
/救いをもたらすために。』」
さて、ユダヤ人が翻心したのは、ともすると、彼らからみれば「救われざる者」と見下していた「異邦人」が、急激かつ絶大な信頼を,二人の弟子たちに捧げるようになったからでした。本来なら、喜んでもいいはずなのに、妬みゆえに苦々しい思い、憎悪はパウロとバルナバへと向けられました。
パウロとバルナバには、ユダヤ人の翻心に、主イエスを十字架につけたエルサレムの指導者たちが二重写しに見えたことでしょう。
ここで、二人は、主イエスが甦りの主でありたもう福音を語り始めます。実に、主イエスを信じる者は、誰であれ、義とされるのだと語り始めまめるのです。
主は、一民族のためでも、まして一国家のためでもなく、全人類の救い主なんだと宣言するのでした。この結果、「異邦人」は、喜び、主の言葉を賛美したとあります。
48:異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
7.牧者が去るとき
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
二人は福音宣教の任務を完遂したのです。
福音宣教の成否、数でもなければ、権威でもありません。二人は、結果、外形をみるかぎり、迫害され、追放されるのですが、二人の話を、聴いた人がいる。たとえ、聴いた人がユダヤ人で嫉妬に狂って憎悪の人に翻心したとしても、一度は福音を信じた事実は変わりません。迫害に奔った裏切りの者たちも、イエスの救いに招かれ続けている事実は不変です。
二人の使徒に悔いはありません。憎まれても愛する思いを持ち続けていたに違いありません。
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
牧師が辞任するとき、思い起こす聖句がこの箇所です。「足の塵を払い落とし」て、新たな任地へと向かうのです。この描写には、使徒としての召命観が表出しています。
主によって示された任地を去るのは、任務の放棄ではありません。パウロとバルナバは、新たな門出に立ったのです。
臆することなく、さらなる熱情をもって、次の任地へと向かうのです。
2026年8月16日(聖霊降臨節第13主日)
エフェソの信徒への手紙4章17節~32節
『新しい人間』
『人格の更新・他者の発見』
17:そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、
18:知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。
19:そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。
20:しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。
21:キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
22:だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
23:心の底から新たにされて、
24:神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
25:だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
26:怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
27:悪魔にすきを与えてはなりません。
28:盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
29:悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。
30:神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
31:無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
32:互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
1.「異邦人」そのネガティブな意味
本日のみことばで気になることが、実はあるのです。
「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」という言葉です。
久保田早紀さんが歌った「異邦人」は当時大ヒットして、そのエキゾチックな旋律には鮮烈な印象をもちました。
サヨナラだけの手紙 迷い続けて書き
あとは哀しみをもて余す 異邦人
歌詞をじっくりと読むと、異邦人とは自分を指しているようです。どこかの外国での情景でしょうか。異国の光景が目に浮かびます。そこで出会った人との別れの思い出を歌っているようです。
「異邦人」でまた思い出すには、アルベール・カミュの作品があります。実存主義作家でノーベル文学賞を受賞した人です。
いずれも、「異邦人」に込められた意味はかなり違っていて、意義は多様性に富んでいます。この「異邦人」とは平たく言えば「外国人」ですが、この「異邦人」という術語は、聖書から広まった言葉で、元来特別な意味を持っていました。「外国人」という意味は同じでも言葉が違えば、まったく異なったニュアンスを感じさせます。
本日のエフェソ書のこの聖句で気になるのは、この「異邦人」という術語の使用文脈は、ネガティブな意味で用いられていることです。「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」とはっきりと、「異邦人」のようであることを否定しています。
2.「異邦人」とは誰か
久保田早紀さんの「異邦人」は自分自身がどこかの異国で恋をして、その好きな人と別れる一人の外国人女性の心境を歌っていますから、「異邦人」とは自分自身を指しています。自分はこの「異国」の地では「ストレンジャー」・「エトランジェ」なのだというのです。
カミュの「異邦人」は、哲学的な意味で「見知らぬ人」「異質なもの」「疎外された者」を意味しています。
人間は「生きる意味」を求めますが、世界には最初からそんな意味はないというのです。この「意味を求める人間」と「意味を持たない世界」のズレをカミュは「不条理」と呼びました。母親が死んでも何の感慨も示さない主人公ムルソーの姿に社会通念とは異質な「不条理」な「異邦人」を描いたのです。
エフェソ書が書かれた原始キリスト教会の世界宣教という状況を想像してみますと、福音を聴き、キリスト者となる以前の人々の多くは、もともとユダヤ人であった人々を除けばすべて「異邦人」です。
つまり、異邦人出身のキリスト者に向かって、「これまでの生き方を棄てよ」という意味になります。
新しい人間となったいまは、これまでの古い生き方は棄てなければならないというのです。
言葉あるいは術語というものは、人間のものですから、文脈によって意味は限りなく多様だということを、わたしたちは常に念頭においておかなければならないし、そうでなければ、過ちを犯してしまいかねません。
言葉は、悪用される危険が伴うものなのです。
「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」という言葉の断片だけを引きだして安易に用いると、この言葉はとんでもないヘイトスピーチに変わってしまいかねません。「外国人」差別につながりかねないからです。
3.「もはや異邦人のように」の特定固有な意味
言われている対象は、ユダヤ人から見ての「異邦人」であったけれども、いまはキリスト者となった「異邦人出身のキリスト者」だと想定すると、「もはや異邦人のように」という意味は、単なる「外国人」という意味ではないことになります。ここでの「異邦人」は、現代の「外国人」と言う国籍の問題ではなく、信仰上のアイデンティティーの問題です。「もはや異邦人のように」という意味は、多神教の神々を崇拝していたときの生き方を指していると考えるべきでしょう。
エフェソにはアルテミス神殿があって、かつては神殿娼婦が千人もいたとされていましたが、どうもそれは近年では俗説だったする説が有力とのことでした。ただ、エフェソには多くの商業的娼婦は多く存在してはいたようですので、「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、」と戒めているのは、港湾都市として栄えたエフェソの退廃的な状況を背景にしていると見て良いと思われます。
という次第で、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」というネガティブな表現が意味していたものは、「情欲に迷わされて、滅びに向かっている古い人」という特定固有な状況を指していると言えるのです。だから、一般的な意味での「異邦人」全体を指して、ネガティブに言っていると見るべきではないということになるでしょう。「異邦人」のすべてが「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」という状況だとは限らないからです。
なかには道徳的に立派な人もいたのではないでしょうか。パウロが言うように、律法を知らなくても、心に律法が記されている人もいたことでしょう。
「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」ロマ書2章14節~15節
4.「心の底から新たにされて」
「人格の更新」ということが語られています。大切なことは更新する主体が必ず存在するということです。
神はまことに存在したもう。
「真理がイエスの内にあるとおりに」とあります。主イエスが信徒本人に、結ばれている。結ばれているだけではなく、信者本人の「内」に存在するというのです。
神の存在が、具体的な力をもって、信者本人に結びつき、内面に存在していてくださるというのです。この神の存在の力によって、信者は「真理に基づいた正しく清い生活を送るように」なることができるのだから、そうせよというのです。可能なのです。自己自身の努力とか精進とかでは絶対不可能なことが、神の存在の力によってでならば、可能なのです。
5.「わたしたちは、互いに体の一部なのです。」
キリスト者共同体の信徒は、「互いに体が一部をなしている」というのです。これは具体的な、客観的な、人間理解として、キリスト者共同体はキリストの肢体として一つの体の一部を、互いになしているというのです。
つまり、わたしたちは分かちがたく一つとされているというのです。これは理想でも観念でもありません。具体的な現実存在だというのです。
キリスト教信仰はこの現実を指しているのです。単なる道徳律でも、行動指針でもない。現実存在だというのです。総括すると、「真理に基づいた正しく清い生活」という具体的な現実として、立ち現れるのであるから、そのようにせよと命じるのです。
6.具体的倫理の命令
1)偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
2)怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。
3悪魔にすきを与えてはなりません。
4)盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけせん。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
5. 悪い言葉を一切口にしてはなりません。
6.聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさ い。
7) むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
8)神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
9)無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
10)互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
7.神の聖霊を悲しませてはいけません。
これらの倫理的命令は、「具体的な人格更新の果実として、信徒自身に生起する出来事」です。
ここで、わたしたちは、「神との人格的な交わり」が言及されていることに注目したいと思います。
信仰生活は、現実的に神との交わりの生活なのです。だから、「聖霊を悲しませてはいけません」と言われているのです。信徒が、これらの倫理的果実を結ぶことなく、真理に基づく正しく清い生活という現実を生起させず、罪を重ねるとき、それはただちに、神さま、聖霊さま、イエスさまを悲しませることになるというのです。
信仰生活は、神の悲しみ・痛み、嘆きを、自己自身のうちにいきいきと感じる生活なのです。
8.個人は全体の体の一部
キリスト者共同体はキリストの肢体として一つの体の一部を、互いになしています。ということは、一部が痛めば全体も痛むのです。一部が悲しめば全体もまた悲しむのです。この痛み・悲しみは、ただちに神の痛み・悲しみとなるのです。神の痛み・悲しみを感得するならば、人は、人類の痛み・悲しみをも感得せざるをえなくなるでしょう。
一人の痛み・悲しみは全体の痛み・悲しみであり、神の痛み・悲しみなのです。
週報に、渡部良三氏のことを紹介しました。渡部氏の歌が今日わたしたちの目に触れることができるのは、戦争という罪深さのさなかで、キリスト者の痛み・悲しみをいまに伝え・遺されたことは、わたしたちにとって神の賜物です。これらの歌によって、わたしたちは主イエスの痛み・悲しみの片鱗に触れることができるからです。
祈れども踏むべき道は唯ひとつ殺さぬことと心決めたり
9.異邦人は、私自身のことであったと発見し、選び取る
今年も8月15日を迎えました。NHKが制作した『開戦前夜』が公開されて論議を呼んでいます。内閣直属、飯村穣中将を初代所長とする「総力戦研究所」を舞台としたNHKスペシャルドラマを映画化したものです。史実とはかけ離れているとして遺族の飯村豊元大使が飯村中将の名誉棄損を訴えておられます。
8月15日は敗戦の記憶を新たに更新する日です。なぜ、戦争をしてしまったのか。「総力戦研究所」が出した結論は、明確に戦争をすれば「敗戦」必至だというものでした。それでもなぜ、戦争をしてしまったのか。戦後81年にして、いまなお、わたしたちは真実を正確に知りません。渡部良三氏のような、人の証言はごくわずかです。
かつて同じ人間を殺戮した戦争を二度と起こさないために、「記憶を日々新たに更新」する決断を、わたしたちはすべきです。そして、「敵」だと教え込まれた人に、「神の似姿」を見つめなければなりません。力より正義を、支配より和解を、沈黙より真実を選び続ける必要があるのです。
だから、「異邦人」は、ただ外国人を指すのではなく、「わたし自身」こそが、「異邦人」に他ならないことを、発見し、選び取るときなのです。「もはや異邦人のように生きてはならない」という言葉は、「わたしこそが異邦人に他ならなかったからこそ、この異邦人たるわたしに人格の更新が起きることが確実ならば、世界のすべての人に人格の更新は必ず起きる」という意味に、「更新」されるでしょう。その選択は、一度では終わりません。世代ごとに、社会ごとに、教会ごとに、そして一人ひとりの良心の中で、何度でもなされなければならない。
八月十五日は、その決断を更新する日なのです。
2026年8月9日(日)(聖霊降臨節第12主日)
エフェソの信徒への手紙5章21節~6章4節
『家族』
21:キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
22:妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
23:キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
24:また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
25:夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
26:キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
27:しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
28:そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
29:わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
30:わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
31:「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」
32:この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
33:いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
6章
1:子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
2:「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。
3:「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。
4:父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
1.古代社会の家庭訓
聖書が神の啓示を伝える書物だという信仰は、やはり堅持すべきです。ですが同時に、聖書もまた、言語という神の被造物であるという事実を忘れてはなりません。
被造物は有限なる存在ですから、無限なる神を入れる「器」あるいは「乗り物」としては自ずから限界があります。わたくしどもは常に意識しておかねばなりません。聖書イコール神の啓示という三段論法は成り立たないのです。
限界づけられた存在、特定の時代、特定の文化、特定の言語に限界づけられた書物として、そこに神の意志、神のみこころが、神の抜擢によって、啓示の出来事が生起すると信じて読むのです。
この意味で、今朝のテキストもまた、時代や文化状況に限界づけられらた「家庭訓」として、まず受け止めるべきでしょう。
つまり、ここで語られている家庭内倫理は、時を超えての普遍的・原理的な倫理ではなく、二千年前の地中海沿岸文化の社会の現実を背景に、その状況の中で、キリスト者共同体がいかに存在していたのか、いかなる家庭倫理を目標としていたのかを、示していると、受けとめることができるとすべきでしょう。脱時間的な、脱空間的な観念論ではないのです。そこに具体的な状況があり、そこには固有な個人が存在し、固有な倫理が語られていたと想定すべきなのです。だからこそ、その固有な時と場においてこそ、神の言葉の出来事が生起する、そういう言葉として、伝承されてきたと、わたしは考えています。
そうであれば、聖書の言葉を逐語霊感説のように金科玉条の不動の倫理として読むことは、明らかな誤読なのです。この時代は、家庭内に、奴隷身分の存在もいたのです。自分自身が「解放奴隷」であったり、現役「奴隷」身分の者であったり、はたまた「奴隷所有者」であったりしたのです。
2.このアナロギアをどう活かせばよいのか
キリストと教会という存在と夫と妻の存在がアナロジーで結ばれています。
23:キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
24:また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
25:夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
この「~のように」というということば、「同じような様子で」という意味ですが、これはキリストと教会の関係と同じような様子で、夫と妻の関係も「仕える」「愛する」ことを勧める言葉です。つまり、この言葉には、「類比」(アナロギア)の意味があります。
※2つ以上の事物にある似た点(類似性)を基準にして、一方の性質から他方の未知の性質を推しはかること、またはそのように例えて比べることです。英語の「アナロジー(analogy)」にあたります。
この類比は、夫婦の倫理を、キリストと教会と同じような関係となるように勧めているのですが、現代の社会通念から見るとき、この倫理観には、いわゆる家父長制的な時代的限界があるとみることができるでしょう。
キリストと教会の関係には、厳然とした格の違いがあります。キリストは神ですが教会は人間の共同体です。教会はキリストによって救われるべき存在です。キリストは救う存在です。その格の違いは明らかです。
この格の違いを前提として、夫と妻の関係を、「同じように」「仕える」「愛する」と勧めるのは、夫をキリストの立場、妻を教会の立場のようにという類比関係になりますから、自然と夫の方が格が上で、妻の方は格が下という具合に受けとめても仕方がありません。
こういう風に受けとめるなら男女の間には男性優位という格の違いを固定化します。性差による差別につながります。
ですから、この家庭訓を、そのまま現代社会に金科玉条のごとくに勧めることは、人類が営々とした歴史を通じて獲得してきた男女平等という人権感覚とは矛盾します。歴史を逆行させることはできませんから、わたしたちの聖書の読み方の「成熟」が必要となるのです。
それでは、この聖書の言葉、類比思想を、どのように現代の教会は受けとめ直せばよいのでしょうか。
3.理想と現実
おそらくこの「家庭訓」は、当時の状況のもとでのキリスト者共同体における「理想」的な家族像を、描いていると思われます。教会がキリストに仕えるように妻は夫に仕え、夫はキリストが教会を愛するように妻を愛するべきだという理想を、示そうとしているのです。
けれども、現実の信徒ひとりひとりに、キリストが教会を愛するという現実性を理解しているかと言えば、おそらく理解しているというより、「そのように信じている」各々が遙か彼方の理想を、限りなく高く追求すべしという「当為」(ゾルレン、まさになすべきこと、まさにあるべきこと)的な理想像だったのだと思うのです。というのは、神ならざる人が神が人を愛するようにと言われても、そのことを正確に知ることは不可能だからです。どこまでも、信仰においての認識に限られるからです。
また、現実の信徒ひとりひとりの家庭生活は、おのおの千差万別ですから、苦境にあるものも順境にあるものも様々であったことでしょう。現実の苦境のなかで、この理想像をいかに聴いたのか、いかに聴いたらよいのか。それが課題なのです。
その課題は、現代のわたしたちにも、同じように切迫する課題として共有できるはずです。
4.現実のさなかで、キリストの愛を見いだす
実際の夫婦の結婚生活、息子や娘との生活を生きるわたしたちが、相手との関係を、どのように保ち、どのように苦楽を共に生きているかです。
さし向かいの関係において、「わたしとあなた」(我と汝)の関係に、わたしたちはあります。この存在は、代替不可能な「我と汝」の関係にありますが、その根拠は、キリストと教会の関係こそが可能根拠だということが、キリスト者にとっては信仰内容なのです。キリストが教会を愛するようにというあの「類比」は、この前提を可能根拠としているのです。
「わたし」が妻を愛することが可能とされているのは、「キリストが教会を愛していてくださるという神の存在の出来事」を根源としているということなのだというのです。
この「私」は夫として妻を愛していられるのは、キリストが私を現に愛してくださっている愛が、この「私」を「私」あらしめている神が現実を実現させてくださっているということなのだというのです。言い換えれば、現に神に愛されている原点がわたしの存在に打ち込まれているからこそ、私は妻を愛するという喜びに生きていられるというのです。妻を愛させてくださるのは神なのです。
「わたし」が妻として夫を愛し得るのは、やはり、「キリストが教会を愛していてくださるという神の存在の出来事」が生起しているからこそ、夫を愛し得るのです。だからこそ、「教会がキリストに仕えるように」夫を愛すべしというのです。「仕える」という言葉が使われていますが、「仕える」ことは愛の具体化だからです。
夫婦は仕え合う「さし向かいの存在」なのです。仕え合うことが愛し合うということなのです。
「仕え合う」という具体的行為によって、愛のあり方が示されることによって、愛の抽象化も観念化も防がれます。
そして、具体的行為の指針は、古代も現代もありません。 状況を超えるのです。もはや古代的な家父長的権力関係は、キリストと教会の愛の交流を可能として「互いに仕え合う」「互いに愛し合う」という「当為」によって、克服されるでしょう。
現代のわたしたちも、古代の信徒たちも、はるか天より愛してくださっているキリストを仰ぎ見て、このキリストに愛されているという現実性を、信じることができるからです。
5.わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
教会は、キリストの肢体だと、わたしたちは信じます。教会とは、わたしたち自身なのです。わたしたちが、キリストの一部だから、わたしたち自身が教会なのです。
この信仰に、真実生きているなら、わたしたちは決して教会から離れることはありません。わたしたちがわたしたちから離れることは不可能だからです。
最近長年、教会生活をしながら、最後に教会生活から離れたという知らせを聞くことがありました。とても残念に思う一方で、「やはり」という思いもしない訳ではありませんでした。
教会から離れることができてしまうのは、「わたしがキリストの一部」だという信仰がなかったのだと思います。教会から離れる人は、自分と教会(キリストの肢体)とは別物だと思っているから離れることができてしまうのです。残念ですが、そういう人は教会生活をしている時でも、同じように、教会をキリストの肢体とは思わず、むしろ教会を自分の意のままに動かそうとする人でした。教会に仕えるのでなく、教会を自分に仕えさせようとするのです。
教会は自己実現の場ではありません。教会は単なる人の集まりではないのです。「わたしたちはキリストの体の一部」なのです。
29:わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
「キリストが教会になさったように」。この「類比」を現実に生きる者こそが、キリスト者です。「わたし」を「愛するということ」は、わが妻を、夫を愛するということ」に等しい。これが「信仰における類比」の実現です。
28:そのように夫も、自分の体のように妻(夫)を愛さなくてはなりません。妻(夫)を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
互いに愛し合うことは、とりもなおさず「キリストを愛しているということ」とまったく同義なのです。
6.天使のような存在として
12:マタイによる福音書/ 22章 30節
復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
3:マルコによる福音書/ 12章 25節
死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
最後に、わたしたちが、甦りの命にあずかる時には、地上生活の延長として、存在するのではなく、もはや性差という生物学的な被造性とは別の存在になうと、主イエスは明言されました。
つまり、夫とか妻という関係性は、地上生活にあってはそのような性差が存在して、結婚とか家庭生活を営んでいるけれども、来世においてのキリストと共なる永遠の生命にあずかる時には、もはやそのような地上性とは別の次元の存在となるというのです。
そのことを、主イエスは「天使のようになるのだ」と言われました。
ですから、地上生活においては、夫に、妻に、そのような被造的実体を通して、キリストを見いだしていたけれども、地上生活を離れて、来世においては、わたしたちは、復活の時までは、「眠る」のです。
その眠りから覚めて、復活のキリストの復活体と等しいさまに変えられると、「天使のようになる」と、主イエスは明言されているのです。
ですから、先に天に召されたわたしたちの愛する兄弟姉妹は、復活の時に至るまでは、静かに眠りについています。
「眠り」は新しい復活の生命を迎える朝に目覚めるための「あいだ」の時です。
この静謐な時のあいだに、愛すべき兄弟姉妹はおられます。だから、わたしたちは安心して、主イエスの復活の時を、共に待つのです。
わたしたちは、この地上において待ちます。
愛すべき兄弟姉妹たちは、来世において、復活の時を待ちます。
地上と来世で、共に待つのです。
そういう意味で、信仰生活とは、「待つ生活」なのです。
「待望の生活」なのです。
やがて必ず成就する永遠の生命に与り、主イエスと等しい様に変えられる希望に生きるのです。
7.信仰生活は待望の生活
地上生活は、その希望の時を、祈りつつ待望する期間なのです。
この地上の期間、わたしたちは苦境にあろうと、順境にあろうと、目標は、復活の時なのです。
やがて天使のようになる存在に変えられる時まで、この希望を、日々待ち続けることができますように、ともどもに祈りましょう。 アーメン
ヘブライ人への12章3節~13節
ヘブライ人への12章3節~13節
3:あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。
4:あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。
5:また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。
/「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
/主によって懲らしめられても
/弱り果ててはならない。
6:主は愛する者を鍛え
/子として受け入れる者を皆
/鞭打たれるからである。」
7:あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。
8:誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
9:さらに、私たちには、鍛えてくれる肉の父がいて、その父を敬っていました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10:肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。
11:およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。
12:だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
13:また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。
1.キリストの忍耐に倣う
祖父清水安三が遺した言葉をご紹介します。
「わが人生において学んだ一事。曰わく『忍』。」
すなわち、忍耐こそが、人生を通じてこの一事をこそ学んだというのです。
3:あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。
この聖句を読んだ時に、まっさきに浮かんだ事が、祖父の遺したこの言葉でした。
「よく考えなさい」。熟考せよという勧告です。「キリストの忍耐について熟考せよ」と命じているのです。わたしはただ親族だからという意味で祖父を敬っているのではないと自らを戒めていますが、人生の師と呼ぶ人がわたしには幾人かいます。清水安三、小野一郎、岡山孝太郎と思い浮かべるとすぐ脳裏に浮かんでくるなかの一人として、わたしは歩んできました。
祖父の人生は、わたしのいわばロールモデルだったのです。
※具体的な行動や考え方のお手本となる人物のことです。仕事や人生で「あの人のようになりたい」と目標にする存在を指します。
この方々は、いずれも牧師です。この方々の究極的な目標は、すなわち主イエス・キリストです。だから、つまりは究極的な目標は、キリスト・イエスなのです。この方々は、遠いところにいますイエス・キリストを、近くへと引き寄せてくれた人生の先輩なのでした。
わたしたちの人生にとって、尊敬できる人生の師、先輩がいることがどんなにか大切でしょうか。
歴史の転換点で、人生の師・先輩が、キリスト者として、いかに生きたのか。いかに主イエスに従ったか。そのことを考えずにはおれません。
二千年前のはるか遠くにいましたもう主イエスならば、今・この時をいかに判断し、いかに行動したかを考えることには、自ずから遠さから来る限界があります。けれどももっと身近な尊敬する人生の師・先輩は、具体的な指針を与えてくれます。
わたしたちの人生行路は生涯をかけて、キリストにならいて生きるものです。途中でやめることはゆるされません。
ゆるされないということは、実は途中でやめることができない、不可能だという意味です。途中でやめれば罰があるとかそういう意味ではありません。その「不可能なこと」ができてしまえるとしたら、それはおそらくはじめからキリストに倣う生き方を、実はしてはいなかった、とわたしには思えるのです。つまり、キリストに倣う、キリストに従うという生き方ははじめと終わりが一つなのです。キリストに従う生き方をしようとした人は、かならず最後までキリストに従うのです。キリストはアルファでありオメガでありたもうお方だからです。
キリストに従う、キリストにならう人生は忍耐の人生だというのです。「罪人の反抗を忍」ばれたキリストの道にならう、従う道は、「忍耐」の道です。
裏切られ裏切られ、罵られ罵られ、憎まれ憎まれ、最後は殺される。これがキリストの道でした。この「苦難の道」こそが人類への愛そのものだったのです。
だから、わたしたちがキリストに倣う・従う道を生きるとしたら、キリストが歩まれた道、忍耐の道を熟考し、そしてキリストが歩まれたごとくに、「苦難の道」を行く事に喜びと感謝をささげられたなら、これ以上の栄光はありません。
「わたし」の人生にキリストが「現在」しておられるからです。
キリスト教的人生は、主にある苦難を慕う人生なのです。
2.格闘の人生
4:あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。
この聖句は、古代における拳闘試合を暗示しています。試合の相手は「罪」です。「罪」が擬人化されているのです。古代ローマの剣闘士の試合は殺し合いでした。殺すか殺されるかでした。古代の拳闘試合のグラブには金属が入っていたそうですから、殴り合えば血が流れます。血みどろの試合だったようです。この聖句には、「血を流すまで」とあるのは、「罪」という相手と血みどろになって闘うイメージを呼び起こして、信仰生活上、「血を流すまで」の試練を、いまはまだあなた方は経験してはいないが、そう遠くない時期に、信仰ゆえの迫害にさらされるかもしれない。そのとき、あなたがたは、その苦痛・苦難に耐え忍ぶことを覚悟しなければならない。そういう事態に遭ったとしても、あなたがたはその時こそ、キリストの忍耐について、熟考しなければならない、と勧告しているのです。
まさにそれは「死闘」なのですと、覚悟をもって、キリストの忍耐について熟考せよといっているのです。
3.人生の転換点・歴史の転換点
このような決定的な出来事が、人生行路において、そうしょっちゅう起こるものではないかもしれません。他方常に限界状況におかれている人もいることでしょう。
わたしが問題にしたいのは、ここぞという時に、キリストの苦難に倣う生き方、従う生き方を選択・決断することができるかいなかということです。
本日は日本基督教団が定める平和聖日です。
わたしたちにとって日常生活が平穏無事に過ごせることは何よりも幸いの証しです。日々の平安を願うことは当然です。しかし、人生には、歴史には、どうしても避けられない決定的な時があります。
1941年12月8日、1945年8月6日、9日、1945年8月15日・・・・。いずれも歴史の転換点です。こういう日に、わたしたちも、いま、実はいるのかもしれません。人生が、そういう決定的な日に、主イエスに倣う選択と決断がはたして、自分にできるだろうか。でもそういう具体的な事が、人の人たる「証し」なのではないだろうか。そう思ってしまいます。
いつ人生の転換点・歴史の転換点がおとづれるか、わたしたちにはわかりません。広島や長崎で、一瞬にして消えてしまった何万もの人々も、同じだったことでしょう。
何百キロも離れたところから飛来する爆弾が、平穏な日常を瞬時に破壊するという事態は、世界中のどこかで起きています。もし、わたしがあの時代に生きていたら、おそらく無邪気に日本の勝利を疑わなかったかもしれない。そんな事をふと考えたりします。そうであってほしくはありませんが、自分がそれほど英明だとも思いません。ただ、キリストに倣う生き方、従う生き方をしたいと願うのみです。
4.子に対するように
5:また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。
/「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
/主によって懲らしめられても
/弱り果ててはならない。
6:主は愛する者を鍛え
/子として受け入れる者を皆
/鞭打たれるからである。」
5節6節は箴言3章11~12節からの引用です。
古代パレスチナ人の子育てには、「鞭打ち」があったようですが、この時代は、現代よりはるかに戦争による「死」が身近に感じられていたのだと思います。不意の襲撃に対抗するためには、日頃から闘いの訓練は欠かせなかったのだと思います。そのような危機に対応することは当然で、「鞭打ち」が子育てにとって必要だったのでしょう。日頃から苦痛に耐える力を鍛えておかねばならなかったのです。
ただし当時の感覚を現代にそのまま適用することは誤りです。箴言の「子育て」「鍛錬」法は時代の要請であったし、こども自らが自分を守る術を鍛錬しなければならなかったからです。父親が権威をもって、こどもに「鞭打ち」などの「鍛錬」を必要としたのは、それなくしては生きられない世情があったからで、こども自らが自分を守る術を獲得しなければ、生きていけない時代であり、文化だったと考えられるのです。親が生きるための力を子に獲得させるべく「鍛錬」(パイデイア)するのは、愛の証明でもあったでのでしょう。
5.肉の親・霊の親
7:あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。
8:誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
父よる「鍛錬」は、ゆえに愛からくるものとして扱われています。 ここでは「鍛錬(パイデイア)」が直接意味するのは、「苦難」です。これから遭遇するであろう迫害、苦難を、どのように受けとめ、どのように乗り越えてゆくのか。それをただ単に、「この苦しみよ早く去ってくれ」と祈るだけではない、受け止め方がある。それは、神の愛による「鍛錬」なのだよ。だから、この「鍛錬」としての「苦難」は、神が、「わたし」を子として愛してくださっている証しなのだよと、受けとめ直すならば、その苦しみをどう受けとめ、乗り越えて行けるか、まったく違ってくるというのです。「鍛錬」、パイデイアという言葉は、本来、「こども」を意味する言葉を語源としています。「こどもを教育する」という意味の言葉です。
/「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
/主によって懲らしめられても
/弱り果ててはならない。
このみことばは、神の愛による鍛錬を軽んじてはならない。主によって「懲らしめ」られる(つまり鍛錬される)ことの意味を正しく受けとめなさいという勧告なのです。肉の親でさえ、愛する子を鍛えるのであれば、霊の親であられる神はなおさらだというのです。
10:肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。
神が神の聖性に、わたしたちをあずからせてくださる。すなわち、キリストの聖性がわたしたちに「現在」(立ち現れる)ようにしてくださるというのです。
6.「まっすぐな道を造る」
11:およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。
鍛錬された霊的聖性こそ、わたしたちの人生行路の目標です。
12:だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
13:また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。
最初に申し上げたように、キリストにならう、キリストに従う(信従)は、キリストの聖性が、わたしたちの人格に立ち現れるための「道」です。キリストがアルファであり、オメガです。ゆえに、キリストに従う「道」は、はじめもキリスト、終わりもキリストなのです。そうであれば、この「道」には、「苦難」「鍛錬」は不可避です。しかし避けられないとはいえ、決して途中で挫折することは不可能なのです。なぜなら、この「道」の真の主体は、キリスト・イエスだからです。
たとえ、崩折れるような時があっても、たとえ足が萎えても、たとえ手が萎えても、主イエスがまっすぐにしてくださるのです。まっすぐにしてくださるというのは、足や手が、たとえ萎えても、そのままであっても、主イエス・キリストが「まっすぐにしなさい」と命じている以上は、たとえ手足が萎えたままでも、霊的聖性においては、「まっすぐに」してくださるという意味です。
それは、「苦難」「鍛錬」の目的は、わたしたちを傷のない、汚れのない神の聖性にあずかることだからです。
「まっすぐ」の意味を熟考し、確信して人生を走り抜きなさいと、主は命じておられるのです。
「不自由な足が道を踏み外すことなく」というのは、教会共同体から離れてしまうことなくという意味です。
キリストに従うことから外れることは、本来不可能なはずです。キリストこそが、わたしたちの人生行路の主体者であられるからです。しかしながら、主の主体者でられるキリストに「反抗」する「罪」が存在することもまた事実です。だから、最終的な勝利者はキリストです。
しかし、キリストに反抗する「罪」もまた健在なのです。だからこそ「死闘」なのです。「罪との格闘」なのです。この「罪」との格闘のさなかで、わたしたちが「道」を踏み外すことがないように、「自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。」と命じられているのです。教会共同体から離れてしまわないように、「まっすぐな道を造りなさい」と言われる。
「まっすぐな道を造る」ということは、具体的には、日々聖書を読み、祈ること。礼拝すること。自己奉献の証しを立てること(献金)。聖餐にあずかること。伝道することです。
7.いつ天に挙げられても
世界の終わりは必ずきます。「わたし」の地上生活の終わりも必ず来るのです。それがいついつかかは誰にもわかりません。しかし必ず来ます。この決定的な転換点(地上生活から天上生活への転換点)は神の支配のもとにあります。このときを、パウロは待ち遠しいと言いました。キリストの聖性が彼を占領していたから言えた言葉だと思います。
神共にいますことは、無上の喜びだと確信していたのです。
いつおとづれるかわからないこの瞬間。戦争や地震災害でこの転換点を迎えた人々には、この瞬間すら知る事なく、転換点を迎えることでしょう。
わたしにもこの瞬間がおとづれるときに、主イエスと相まみえる喜びを感じるいとまも、もしかするとないのかもしれません。
たとえそうであっても、わたしは信じます。来世において、キリストと共にあることを信じます。
こう信じる幸いを感謝します。
いま、このとき、苦難のなかにおかれた人々、戦火のなかにある人々、被災による避難生活を余儀なくされている人々、これらすべての人々が、キリスト・イエスの「道」を見いだすことができるように祈ります。 アーメン