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2026年5月31日日曜日

 2026年5月31日(聖霊降臨節第2主日)三位一体主日

ローマの信徒への手紙8章12節~17節


「『あなたは神の子』ということば」


              『神の子とする霊』

 ローマの信徒への手紙8章 12節~17節

12:それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

13:肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

14:神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

15:あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

16:この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

17:もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。


1.「あなたは神の子である」という言説

 「あなたは神の子なのだ」と、断定的に言われたとしましょう。あなたはいったいどんな気持ちになりますか?」

  ある人は、「自分のような者が『神の子』だなんて面はゆい。」と思います。

 またある人は、「そうはっきり言ってくれるとなんだか嬉しくなる。」と感じるかもしれません。」

 つまり、「神の子である」という言い方は、聞く人によっても、また聴く人の精神的態度によっても、さまざまな捉え方ができてしまうし、その影響は良い場合もあれば悪しき場合も有り得るということでしょう。

 これらは、「神の子」という言説を〈言われた側〉の問題です。これらに対して、また、〈自己意識〉として「神の子」という言説も問題となります。


2.〈自己意識〉としての「神の子という言説」

 順番は逆になりますが、まず〈自己意識〉としての「神の子という言説」について考えてみます。

 たとえば、悪しき実例をあげれば、旧統一協会の教祖の場合などは、その典型です。

 この人は、「自分は神の子だ」と、信者たちに信じこませていますが、それは統一協会の「教義」で、〈そういうことになっている〉と信じこませることに成功しているからです。教祖をよく知っていて、その感化を受けて、「この人こそ神の子だ」と信じこんだ訳では決してない。教祖の人物については実は何も知らないのに、「教義」を受けれたばかりに、信じるようになってしまったのです。自分を「神の子」だという自己意識、それがたとえ嘘だと自覚しているにせよ、あるいは自分自身もその妄想に生きているにせよ、この自己意識をもっているとしたら、どんな人間として振る舞うようになるのか。それは教祖の実人生を精緻に分析すれば、ある程度は明らかにできます。

 またこの教祖のこどもたちを見てもわかります。現実が赤裸々に示しています。自殺、家庭内暴力、不倫、賭博癖、常習的虚言(作話)、平均的な市井の人には見られないような実態が既に多くの文献で報告されています。

 「われは神の子なり」という言説が自己意識になってしまったとき、人間は、常識を超えた道徳的逸脱をするようになるという典型が、教祖一族(全員とは言いません)の中には特徴的に現れているのです。これは悪しき実例です。際限のない尊大さ、倨傲性に満ち満ちた人間を創り上げてしまいます。

 それでは逆に、自己意識としての「神の子という言説」が、良い結果を生むこともある例をあるのかどうか、考えてみましょう。良き実例を挙げますと、たとえば、きわめて厳しい逆境におかれた人が、周囲から、社会から攻撃を受けて、とことん自尊心を痛めつけるような非難・中傷を受け続けていたとしましょう。キリスト者が該当します。初代教会の信仰者たちの事を思い浮かべることができます。

 イエスをキリストとして信じるという、そのことだけで、殺される時代状況の嵐のなかで生きてゆかねばならなかった一人一人は、どのような「自己意識」を持っていたのでしょうか。

 それは本日、パウロがローマの教会の信徒にむかって語りかけた事がそれです。

    14節 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

    16節 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

  迫害は、ひとりひとりの自尊心を徹底的に痛めつけることが目的でした。その状況下で、「ああ、神の霊、聖霊さまが私を導いていてくださる。聖霊さまが、わたしたちの霊と一緒になって、わたしが神の子であることを、神さまの前に証ししていてくださるのか」と信じることは、「自分のような者はなにほどでもない」卑賤な者だという自己存在への卑下を、吹き飛ばしたことでしょう。

 文字通り、「もはやわたしが生きているのではない。わたしの内のキリストが生きているのだ」という自己意識へ変貌させたのです。そこには、自己卑下ではなく、キリスト内住の確信が充満していたことでしょう。

 これは、良い実例です。

 この自己意識は、自己と他者を比較して、他者に対する存在の優位を誇るものでは有り得ません。他者に対して憐憫でもありません。ただ天地の創り主なる神に対して、「わたしはキリスト・イエスによってあなたの子である事を聖霊さまが証ししてくださいました」と言いうる霊を与えられているということです。

 それゆえ、「わたしは、キリスト・イエスが人類に対して愛したヨウニ隣人を愛する自己とされた」という「自己意識」となったのです。自己意識としての「神の子という言説」は、隣人への優位性の誇りでも、憐憫でもなく、隣人へ愛の主体者となる自覚となったのです。

 だからこそ、良い実例なのです。


3.他者に向けての言説としての「神の子」   「神の子」という言説を〈言われた側〉の問題を考えてみましょう。またこれは〈言った側〉の問題でもあります。誰かが誰かに、「あなたは神の子です」と〈言われた場合〉と、〈言った場合〉です。

  まず、〈言われた場合〉について考えます。

 この場合にも、悪しき実例と良い実例があることでしょう。

 これも、統一協会の教祖一族、全員とは言いませんが、教祖の子に生まれてしまったがために、幼少時から「あなたは原罪のない神の血統を受け継いだ者だ。すなわち神の子なのだ」と言われ続けた子どもたちです。その結果、どのような人格に育ってしまったか、現実が証明しています。

 教祖の子どもたちだけではありません。所謂「宗教二世」の問題でもあります。この子どもたちは生まれて以来、継続的に「あなたか神の子」だと親や周囲から言い続けられます。信者以外の人間は、「非原理世界すなわちサタン世界の人間、サタンの子」だと教えられ、自分は「神の子」だと言われ続けるのです。生まれながらにして、隣人を差別するという観念をたたき込まれて育つのです。当然、信者以外の人間を、「サタンの子」だとみなすように育つことになります。

 これは、悪しき実例でしょう。

 さらには、「あなたは神の子」と言われ続けるなかで、当然、自分自身の罪を罪としてみつめる洞察力が育ってくると、現実の自己と、「言われる自己」の間にある圧倒的な齟齬に精神の混迷に陥ってしまうこともあるでしょう。統一協会二世に自殺者が多いことの原因は、教義による自己像(「あなたは神の子」)と現実との自己像とのギャップにあると言っても言いすぎでないでしょう。

 「あなたは神の子」だと〈言われる側〉としての葛藤は、本人が真面目であればなおさら深刻化せざるをえません。きわめて深刻なストレスのなかで日常的に生きなければならない苦しみを抱えるか、葛藤することを拒否して、自己欺瞞的自己を受け入れるか、つまりいい加減な生き方を選ぶかを、意識的にせよ無意識的に選択するしかなくなってしまうでしょう。

 この葛藤は、真面目であればあるほど、深刻化しますから、どんどん追い込まれてゆきます。この葛藤そのものを、あたかもないかのごとく、テキトウにイイカゲンに生きることを決断してしまうと、教義が語る「神の子」像は限りなく、絵空事、建て前になって、齟齬そのものが消えてゆきます。これは典型的な偽善です。

   これは、やはり悪しき実例でしょう。

  それでは、「あなたは神の子」だと〈言われる側〉の良き実例を考えます。

   わたしの友人に、自分は同性愛者だと、いわゆるカミングアウトした人がいます。キリスト教会は長い間、同性愛は罪だとしてきた歴史があります。『幸せの王子』という実に美しい物語を書いたオスカー・ワイルドは同性愛者として、刑罰を受けた人でした。彼の時代の英国では、「罪」だったのです。これはキリスト教が聖書の読みにおいて犯した過ちの歴史に刻まれています。友人も、聖書の記述を、批判的に解釈することなく文字通りに受けとめて苦みました。多くの同性愛キリスト者が苦しんできた歴史がありますが、彼も苦しみ抜いたのでした。そんな彼を救ったのは、やはり信仰でした。

 すべての人は、神によって創造された「神の似姿」だと聖書は語ります。そしてその「神の似姿」は、人間堕落によって完全に破壊されてしまったがゆえに、すべての人は、ひとりの例外もなく「神の似姿」を喪失している。しかし、まことの神にしてまことの神、ただお一人の主イエス・キリストこそが「神の似姿」として降臨されたので、人は主イエスにつながることによって、「神の子」とされているのである、と信ずる信仰によって、「あなたは神の子なのです」と、聖書から「言われた」のです。

 これは、「あなたは神の子」だと〈言われる側〉を、救う神の言葉でした。

 これは、良き実例というべきでしょう。

※オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(英: Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde、1854年10月16日 - 1900年11月30日)は、アイルランド出身の詩人、作家、劇作家。耽美的・退廃的・懐疑的だった時代の旗手のように語られ、多彩な文筆活動を行った。しかし、男色行為(当時のイギリスでは刑事罰を科される犯罪行為)の発覚により実刑判決を受けて服役し、出獄後に失意から回復しないままに没した。


4.「あなたは神の子です」と〈言った場合〉

   まず悪しき実例を挙げましょう。

 2023年にNHKで放映された『プレミアムドラマ仮想儀礼』とか、タケシが主演した『教祖誕生』も、どちらもインチキ宗教を起ち上げるもので、いわば詐欺師が主人公になる作品です。嘘ではじめた宗教ビジネスが意外に信者を集めてしまう物語です。面白かったのは、でっち上げの「教祖」が、だんだん自分でもなかば本気になってしまうところです。

 ホームレスのオジサンに「お前、これから教祖になれ」と詐欺師が命じる訳です。するとオジサンはだんだんその気になってしまう。これなどは、「あなたは神の子」ですという言葉かけは、はじめから嘘なんですけれど、そういう嘘でも第三者に影響を及ぼしてしまうという可笑しくも悲しい話です。金儲けのために嘘で人を騙すことばとして、「あなたは神の子です」と言ってみても、人は騙され信じてしまうという事があるというのです。

   詐欺師の言説です。

 これは悪しき実例の見本でしょう。はじめから嘘なんですから。嘘でも、信じる人がそれで救われるならいいじゃないかという人も出てくるでしょう。これはモラルの崩壊です。

 では、良き実例を考えてみます。

 究極の実例は、イエス受胎の告知でしょう。

 天使ガブリエルは、母マリアに言ったことば。「あなたは神の子を身ごもるでしょう。」神が神の御使いによって神の言葉を語ったのです。真実そのものです。

 神は主イエスにも、語りました。

「これはわたしの愛する子、わたしのこころに適うものである。これに聴け」と、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、天から神の言葉が語られました。まさに「あなたは神の子です。」という言説の究極的起源です。

  この実例は究極的起源の実例ですが、これは真実に神の子であられる主イエスに対して父なる神が〈言った場合〉です。これは究極の起源につながる人間の世界にも通じていると思われます。その〈言った場合〉を挙げてみましょう。人間的に、人間としてしか見ないのであれば、母マリアのイエス出産の客観的事実は、夫ヨセフの子ではな父親不在のこどもの誕生にしか見えません。この事実は、ユダヤ教社会の通例では、恐るべき事態だったと考えられます。現在でも、「名誉殺人」という因習が、法の支配にもかかわらず存在しています。

   ヨセフが密かに離縁しようとしたのは、彼の妻への配慮があったからでしたが、神がヨセフに真実(聖霊によって懐胎したこと)を伝えました。しかし、世間に理解されるものではなかったことでしょう。

    ※名誉殺人とは、女性の不道徳な行為がその家族や帰属集団(家族、親族、村落、カースト、宗教集団など)にもたらす不名誉を取り除き、名誉回復の手段として行われる暴力(殺傷事件)である。不道徳な行為とは婚前の性関係、親が認めない婚姻関係(ただし、認めない理由はさまざまである)、そして妻の不貞などである。名誉殺人はその言葉から殺人を指すが、殺人未遂や拉致など、殺人以外の暴力も含めることができる。名誉殺人は、両親の権威によって象徴される伝統的な共同体、すなわち「名誉の共同体」の秩序を揺るがす若者にたいする処罰である。

  現在でも行われる家族・親族による殺害。まして、2千年前には、イエスの生命自体が危機的だったと考えても不思議ではありません。この事実は、現代でも不遇な境遇によって、女性やその子どもが置かれる生命の危機的状況に、通じるものです。

 イエスの生命の危機に、母マリアは幼少期のイエスにどのような言葉をかけて育てたことでしょうか。

 「あなたは神の子なのです。」と語りかけたかもしれません。

 同様に、イエスが置かれた危機的状況とよく似た境遇に置かれた母子の事を思うのです。

  哀れな母親がこの世に産まざるをえずして産まれたこどもを愛するとき、この母親は、一体どういう言葉をこどもに語りかけたらよいだろうか。

 わたしは、こういう場合こそ、「あなたは神の子です」「だれがなんと言ったって、あなたはあのイエスさまと同じように誰が父親かわからなくても、あなたは神さまがわたしに与えてくださった神さまの贈りものなんだよ。だからあなたは神の子なのよ」と言いきったとしたら、それは母マリアのような立派な母親だと言えるのではないでしょうか。全世界には、イエスと同じように,客観的事情において、生命の危機に瀕した子どもたちが大勢います。この子どもたちは、貧しさのゆえに、戦争のゆえに、災害ゆえに、生命の危機に瀕しています。母親ならずとも、人類は、共に聖家族の一員として、この子たちに具体的に、現実的に、「あなたは神の子です」と断言し、家族としての責任の一端を、ほんのわずかであっても担うことができたらと思うのです。これができたとしたら、明らかに良き実例なのではないでしょうか。



2026年5月24日日曜日

 2026年5月24日 (聖霊降臨日)

『集まれなかった人々』

使徒言行録2章1節~11節


                『聖霊の賜物』(聖書日課に基づくタイトル)

2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

2:5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

2:6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

2:7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

2:8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

2:9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

2:10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

2:11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


1.集まらなかった人々、集まれなかった人々

    2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

 「一同が一人になって集まっていると」とある。この一同のなかにいる人々は、集まっていたのだが、神の恵みの導きによって、集められていた人々とみるべきでしょう。この人々は「抜擢」された人々なのです。

 ということの裏側には、集められなかった人々がいたと考えられるでしょう。この人々は、神の恵みにあずかれなかったのでしょうか。

 わたしには、「集まらなかった人々、集まれなかった人々」が気になります。この人々は「聖霊降臨」の出来事が起きたときに、その場に居合わせることができなかったからです。「集まる」という事が起きている以上は、どうしてもそこに「選び」が同時に起きていることになります。だから、「集まらなかった人々、集まれなかった人々」は、「選び」に漏れた人々ということになってしまいます。

 そして、この「集まる」という事柄が、神の「選び」の出来事であると理解するならば、「集まる」事が、いかに重要な事柄であったかを、示していることになります。


2.「集まる」ことは、神の選びのみわざだということ

 わたしたちが毎週、礼拝のために礼拝堂に「集まる」事の重要さを、改めて覚えます。

 わたしの霊的な恩師小野一郎牧師は「礼拝にははってでも来なさい」と教えてくださいました。わたしは、この言葉を忘れることができません。

 たしかに、わたしたちの全生涯、全生活、全時間は礼拝です。仕事に従事しているときも礼拝なのです。食事をしているときも礼拝です。眠っているときでさえ礼拝なのです。キリスト者のときのすべては神への礼拝の時だという理解は、正しい。礼拝の時と、礼拝でない時とは、原則的に区別はありません。すべては神への礼拝だという理解は間違いないのです。ですがしかし、とりわけ、主の復活の日、主日に守られる「礼拝」こそは、原則としてのわたしたちの全時間としての礼拝とは、区別されます。

 ほかの時間とは区別されるのです。それは神が全被造物を創造され、最後に休まれ、「安息日」と定められ、他の時間と区別されたからです。「安息日を覚え、これを聖とせよ」と神は、命じられました。この戒めは、「区別せよ」という事と同義です。

 わたしたちは、この戒めに従い、主日を守ることに、文字通り「命」をかけることを、「要求」されているのです。

 だから、わたしたちは「集まる」のです。ひとりで、洞穴のなかにひきこもるのではないのです。「集まる」ことが、こよなく重要なのです。

 この神の安息日遵守の命令に、聴き従おうという意志が、こころのうちに起こっているからこそ、人は礼拝に集まるのです。この神の誡命に聴き従おうという意志が起こされているという現実は、神のめぐみの選びが、わたしたちの魂にすでに働いている証しなのです。

 ですから、ペンテコステ・聖霊降臨の出来事が起こった、あの日あの時あの場所に、集まっていた「一同」は、決定的な聖霊降臨の出来事以前に、恵みの神の導きが、促しが、この人々には明確に存在した事は間違いないのです。彼らは間違いなく「選ばれ」ていたのです。


3. 集まらなかった人々

  ここに集められた人々が神の恵みの選びに導かれていたことの裏には、ここに「集まらなかった人々」、そして集まれなかった人々」がいた事を、どのように理解したらよいのでしょうか。再び、ここに戻ってきます。「集まらなかった人々」は、自分の意志で集まらなかった人々です。この人々のことを考えてみます。

 エルサレム入城まで主イエスにつき従ってきていた群衆は、当初はイエスに追従する人々でしたが、主イエスがユダヤ当局から死罪を要求されるという風向きの変化のなかで、イエスへの期待は急激に失望へと変わり、イエス殺害の同調者たちの陰に隠れるように身を潜めます。そしてイエスの支持者であることを隠し、むしろイエス殺害を叫ぶ民衆にのなかに紛れるかのように翻身する者までいたことでしょう。

 主イエスが復活したという証言は、エルサレム中に広まったことでしょうし、弟子たちが復活のイエスに出会ったことも知れ渡ったことでしょう。それでも、弟子たちのところに、参集して、こころを一つにして祈ることを、拒んだ人たちがいたことも想像に難くはありません。

 自分の意志で集まらなかった人々とは、「集まる」ことを「拒否」した人々です。一度は、彼らも彼らなりにですが、イエスについてきた人々です。弟子たちとも面識もあり、同じ仲間のようにふるまってきた時間もあったはずです。その彼らはなぜ、弟子たちの祈りの場に集まらなかったのか。彼らには、恵みの選びはなかったのでしょうか。

 わたしは、彼らにも神の選びはあったと思っています。神の選びは、人の目には理解できないことがあるとわたしは思っています。

 たしかに彼らは、意図して集まらなかった。なぜなのでしょうか。わたしは思うのです。

 彼らが見てしまった「景色」を、こころのなかで解決できていなかったのではないでしょうか。

 彼らは見てしまったのです。弟子たちが姿をくらます様子や、イエスを「知らない」と言って無関係を装い、イエスを公然と裏切って、行方をくらましてしまった事実を見てしまったのです。 彼らにも当然、逃げる動機は同じようにあったし、弟子たちの心理を理解しないわけではなかったでしょう。しかし、自分の事は棚に上げてせめて弟子たちには、もっと「立派」に振る舞うだけの責任を示してほしかったと思った。自分のことは棚に上げてです。「赦せない」彼らはそう感じたのではないでしょうか。

 こんな思いでいっぱいだった彼らには,弟子たちの祈りの場に、こころを一つにして集まることは不可能だったのでしょう。自分自身を振り返って内省するこころをもたずに、他者に自分が勝手に創り上げた理想像を投影して、他者がその理想像に重ならない時に、他者を一方的に裁いてしまうのです。このような心理状態だったのではないでしょうか。彼らは神ではなく自分を「裁き主」にしているのです。このままでは、彼らは神の恵みの選びのなかにあったとしても、彼らには神への思いよりも自分の思いしか見えてはこないでしょう。

 「自分の意志で集まらなかった人々」とは、結局、自分の思いへのこだわりを神への思いよりも優先したがゆえに、集まらなかったのです。


4.集まれなかった人々

 「集まれなかった人々」とは、意図せずに、集まりたくても集まれない何らかの事情に阻まれて集まれなかった人々です。この場合、この人々は集まりたかったという動機においては、集まった人々と同じだったという前提があります。つまり、この人々は、集まることを「拒否」していたのではなかったけれども、事情によって集まれなかったのです。

 この人々も、恵みの神の選びに導かれていたことを、わたしは疑いません。彼らも導かれてはいたのです。

 けれども、結果として集まれなかった。

 問題は、集まることを阻んだ何らかの事情です。この事情によっては、この人々自身にも責任があるとは思うのです。

 まったくこの人々自身には問題がない場合もあるでしょう。この人々の力の及ばない客観的な事情がある場合です。その場合は、かの人々には責任がありません。

 しかし、この人々自身の内面の問題が、阻んでいる事情となってしまう場合は、その人自身に責任があることは明らかです。たとえば、その人自身が、解決しなければ他の誰にも解決することはできない個人的な課題を抱えている場合です。

 弟子たち「一同が一つになって集まっていると」とあるように、弟子たちは、こころを一つにして集まり、祈っていたのです。ところが、かの人々は、ここに集まっている人々と、こころを一つになることができないのです。

 その場にいるある人のことを「どうしても好きになれない」とか、「一緒にいたくない」とか、そういう「好き嫌い」の類というべき個人的な心理的課題を抱えている場合です。

 この人々も、神の恵みの選びのうちに導かれていることは疑いえませんが、この人々は、神の恵みを受けながらも、自分自身にしか解決できない個人的な課題を直視することを避けているために、自ら「集まり」のなかに、入って行くことができないのです。

 この人々は口癖のように二言目には、「わたしは集まりたくても集まれないのです」と言い訳をするのが常です。自分が集まりのなかに入れないのは、集まりのなかに自分の気に入らない人物が混じっていることが嫌だというのです。これでは誰の目にもこの人々が集まれないのは、この人々自身の問題なのは明らかなのに、集まれない理由を「集まり」のせいにしているのです。

 彼らも、やはり、神の恵みの選びの導きのなかにいるはずなのですが、彼らは、神の選びに応えることをしません。そして他者に責任があると本気で考えてしまうのです。神の選びの前に、自分がいかにあるべきかを見ようとせずに、「集まり」そのものに問題があるとしか考えないのです。

 結局、「集まり」に「集まろう」とはしていないだけなのに、「集まりたくても集まれない」と主張するのです。


5.聖霊の賜物は、客観的な現実

    2:7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

    2:8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

 聖霊降臨の出来事は、「一同が一つになって集まっていると」、生起しました。わたしたちは既に、「一同が一つになって集まっている」事実に、神の恵みの選びの働きが確認できることを見てきました。少なくともここに集まっている人々は、「一つになっている」と記録されているように、すでに個人的なわだかまりとか、葛藤とかの問題は消滅していると見て取れます。ここに集まっている人々は、神の恵みの選びに応答して、ここにいることが許されているのです。

 なんのわだかまりもありません。彼らのこころは既に一つです。そしてそこに聖霊降臨の出来事が起きました。

 その結果は、ここに記録されているように、言葉の出来事でした。奇跡です。人々は、「学習」という経験を経ることなく、自分が知らずにいた言葉を自由に語るようになったのです。

 これは客観的事実でした。主観的な「思い込み」ではありません。思い込みでは自由に言葉を操ることなどできはしません。奇跡なのです。この奇跡は瞬時に起きています。言葉の出来事が、客観的事実であったことは疑いえません。

 ただ奇跡は、聖霊降臨より以前から起きていたとみるべきでしょう。

 それは、「一同が一つになって集まって」いること自体に、わたしは大いなる奇跡を見るからです。


6.遅れてきた「人々」

  わたしは、神の恵みの選びはあったと思うと語りました。神の選びは、人の目には理解しがたいとも申し上げてきました。

  聖霊降臨の日に、そこに、その場に居合わせることができなかった人々、集まりに参集しなかった人々のことを考えてきました。彼らは、結局、決定的な客観的事実としての聖霊降臨を受けなかったのですが、わたしは彼らも神の選びへの導きの中にはあったと信ずると述べてきました。

 彼らは、決定的な歴史の転換点に、ごく間近まで来ていたにもかかわらず、その時、その場に居合わせることなく、歴史の陰におきざりにされて見過ごされてきた人々です。

 彼らのことについて、必ずやいたであろう彼らの事について、聖書は何も語ってくれません。

 まさに行間を読まざるを得ません。しかし、恵みの神はほむべきかな。神は、この「集まり」に、間に合わなかったかの人々をも愛したもうお方です。神の恵みの選びは、かの人々をも救わんとしている事を、わたしは信じます。

 彼らは、「遅れてきた人々」なのです。彼らは、悔い改めるべき課題を抱えた人々ですが、その課題を解決するための、いっときの猶予が必要だったのです。

 この猶予の期間、彼らは遅れることになります。

 しかし、この猶予は、彼らには必要な期間なのです。この猶予期間に、彼らは、彼らにしかできない彼ら自身の課題を解決しなければなりません。

 神は、待っているのです。

 愛の神は忍耐の神であられます。

 こうして読んでゆくとき、神に待っていただいているのは、他ならぬ「わたし」ではないのか。そう思えてきます。待っていてくださる神に、これ以上待たせることなく、「一同こころ一つにする集まり」すなわち「キリスト者共同体(教会)」に、遅ればせながら参集したいと、こころから願わないではいられません。

2026年5月17日日曜日

 2026年5月17日 (復活節第7主日)

アジア・エキュメニカル週間(23日まで)

ヨハネによる福音書17章1節~13節

『キリストの昇天』(これは聖書日課に基づくタイトルです。)



『神の喜びの充満せる人生』

1.喜びが

    先週のみことばの学びで、信仰とは、とどのつまりは、「喜び」に他ならないと結びました。

 信仰生活は、主イエスの「喜び」が、わたしたちの「内」に満ちあふれる生活なのです。いわば「主イエスの喜びの充満」です。(13節)

 主イエスの喜び・・・。それでは具体的に、「主イエスの喜びの充満」という事柄は、いったいどのような事柄なのでしょうか。復活の主イエスに出会ったとき、弟子たちは喜びに充たされました。瞬時にです。悲しみから喜びへと、瞬時に彼らは変えられました。ですから、弟子たちは、主イエスの喜びを体感したのではないかと考えられます。復活のイエスとの接触によって、彼らは喜びの人生を歩み始めたからこそ、彼らは、苦難や迫害をただ恐れるのではなく、喜んで受け入れる人生へと変えられたのです。

 この彼らの人生の変容を想う時に、確実に彼らが復活のイエスの命を受けていたと思わざるを得ないのです。

弟子たちの一人や二人に起こった事ではないのです。全員にこの変容は起きたのです。だからこそ、迫り来る迫害の状況にもかかわらず、彼らは殉教への道へと歩んだのです。

 「主イエスの喜びの充満」という事柄は、いったいどのような事柄なのでしょうか。苦難や迫害をも恐れずに、彼らが、喜びに充たされて生き抜き、かつ殉教した事実から、「喜びの充満」がいかなる事柄であったのかを知る事ができます。

 

2.永遠の命

  それは、彼らが「永遠の命」を、確実な事として、自明な事として、揺るぎなき確信のうちに生きるようにされたということなのではないでしょうか。

  復活の主イエスに出会ったとき、彼らは彼ら自身が「死の死」を経験したのだと思います。「死」とは「神喪失性」のことです。神さまを喪った事を「死」というのです。神さまと無関係になってしまった事を「死」ということなのです。この「死」を、人は人の力で変えることは絶対できません。この「死」の前ではすべての人は無力です。すべての人は無力ゆえにまったく平等です。無力さの平等です。誰も自らを誇ることはできません。たとえ自力を吠えたとしても、所詮は無力な遠吠えなのです。この絶対的な無力が、復活の主イエスとの接触の瞬間に、神さまの方から、圧倒的な力によって、もはや「信じないことができない」存在として、神ご自身の迫りによって、「神喪失性」が「死んだ」のです。「神喪失性」という「死」が「死んだ」のです。


3.悪魔は天使を偽装する

 この出来事は、抗うことのできない神の迫りの出来事でした。とにかく「信じないことが不可能」な事態なのです。復活の主イエスとの接触は、神ご自身との接触だからです。この接触は、「一つとなる」というみことばで、主イエスは語られました。(11節)

 神ご自身が、復活の主イエスを仲保者として、弟子たちと「ひとつ」となったのです。これはいわゆる「神人合一」ではないこと留意すべきです。

 「神人合一」の思想は「人が神のようになる」という最悪の「罪」の言い換えとなってしまう「神秘主義」の陥穽(おとしあな)に堕する危険性をはらんでいるからです。

 最善の救いが最悪の罪と、同じ言葉で表現されるから、留意しなければならないのです。

   まさに、「悪魔は天使を偽装する」のです。(2コリント11:13-14)


4.神の喜びの充満

    「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)

  主イエスは、父なる神にこのように祈りました。「わたしたちのように、かれらも一つになるためです。」と。

 ここにも「ように」という言葉が出てきました。父なる神と子なる神=イエスが一つなる存在である「ように」、主イエスと弟子たちも一つなる存在になるために、という意味ですので、「父なる神と子なる神との関係と、子なる神と人との関係が対応」の関係になっているのです。つまり、神と人とはイエスを仲保者として、「類比」が存在するという意味です。

 ですから、「主イエスの喜びの充満」を、弟子たちに主イエスが「目的」として語っておられるのは、父なる神の喜びの充満を、弟子たちに願っているということをも意味するでしょう。

 神は、人類を神の喜びで充たしたいと望んでおられるというのです。

 このイエスの祈りは、「神の喜びの神学」と言っても過言ではありません。(J・モルトマン)


5.神の所有

 神と一つになる。主イエスと一つになる。この事を、主イエスは、「所有」という言葉でも語っておられます。わたしたち人間は、神のものだと言うのです。

    9節:彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。

    10節:わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。

   信仰は「神の喜びの充満」だと申し上げました。そして、ここでは、信仰は、人が自己自身を「神の所有」であり、「主イエスの所有」であるというアイデンティティー(自己同一性)のことだということでしょう。

 「わたしは、主イエスのものだ。したがって、わたしは神のものだ。」という自己認識に生きるということです。

 このように考えると、「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」と命じられた主イエスのみことばは明確になります。自分自身を愛するというのは、利己的な自己愛をまったく意味しないからです。自己は「神のもの」「イエスのもの」なのですから、自分自身を愛することは、神のものを愛することに他ならない訳ですから、愛さないほうがおかしい。愛さねばならない自己自身なのです。自己自身を愛する事は、神を愛し、主イエスを愛することなのです。


6.昇天後の世界

 主イエスのこの祈りは、イエスさまが天に昇られて以降の世界にむけて、主イエスが父なる神に、弟子たちを守ってくださいと願っている祈りです。

    11節:わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

  「神の名」(御名)がここで語られています。父なる神が子なる神・イエスに与えた「御名」です。

 これは、「キリスト」とか「メシア」とかの「名詞」を指しているのではないと、私には思われます。

 イエスご自身は,ご自身を「人の子」と言われました。群衆は「ラビ(先生)」と呼んだり、「主」と呼んだりもしました。しかし、このどれも、この「御名」に該当するとは思えないのです。

 神がイエスを呼んでいるのは、「これはわたしの愛する子」ですが、この事でしょうか。「これに聴け」と神は啓示されているので、これがいちばん近いかもしれません。

 ただ、「御名」には、弟子たちを守ることができる力があるとに主イエスは明確に語っているのです。

 イエスの「御名」には力があるのです。

 この「御名」の力が、神とイエス、イエスと人を一つにすると明らかに語っておられるのです。一つにするのですから、「神の喜びの充満」を人にもたらすのです。

 

7.「神の御名」

  「神とイエス、イエスと人を一つにする」力が「御名」にはあると、主イエスは明言されています。

 人間の神への合一ではなく、神さまが主イエスを仲保者として人間を「一つ」にしてくださるのです。圧倒的な、一方的な、絶対他者なる神の恵みの恩寵としての「神との合一」です。

 この「合一」こそが「神の喜び」であり、「栄光」だと言われたのです。「栄光」とは、「喜び」のことだったのです。「神の喜びの神学」は「神の栄光の神学」だったのです。

 復活の主イエスの昇天以降の世界において、世界は、人類は、主イエスは神のみもとへと帰られたからには、可視的な手段・方法によって、復活の主イエスと接触することはかなわぬものとなりました。

    12節:わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。

    13節:しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

 だからこそ、主イエスは、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と、「御名」の力を神に願っておられるのです。


8.聖霊降臨

 可視的な存在としては、復活の主イエスは、弟子たちの前から去りました。しかし、主イエスは、これまで「別の方」「弁護者」「助け主」が来られると、幾度も語ってこられました。そしてここでは、いやここでもですが、「御名」を父なる神に願っているのです。復活の主イエスの昇天以後、「神の喜びの充満」のために、「御名」によって「守ってください」と願っているのです。

 聖霊さまこそが「神の御名」なのではないかと考えざるをえないのです。アーメン



2026年5月11日月曜日

  2026年5月10日(日)(復活節第6主日)

ヨハネによる福音書16章12節~24節

『悲しみは断たれなければならない』


                                             ヨハネによる福音書16章 12節~24節

12節 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。

13節 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。

14節 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。

15節 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

16節 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

17節 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」

18節 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」

19節イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。

20節 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

21節 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。

22節 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

23節 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。

24節 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」


1.主イエスの死 切迫感のない弟子たち

  わたしたちは、自分自身もやがて死ぬ運命にあります。誰も死を免れることはできません。

 子どもの頃は、一日が長く感じられました。いまはあっというまに時は過ぎゆきます。年とともに、時間が速くすぎてゆくのは、多くの人の実感ではないでしょうか。 昔は、10年といえば、随分長いと感じたものですが、いまは50年もすぎてしまえば、一昔にすぎません。

 「時」の速さは変わるのです。

 主イエスは十字架の死への旅立ちに際して、「しばらくすると」と、時の事をお語りになりました。

    「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16節) 

  主が、十字架上で殺害されるという現実を「あなたがたはもうわたしを見なくなる」 と婉曲に語られたのでしょう。弟子たちは、受難の予告を既に聞いていたのですから、これが主イエスの死を意味していたことは、わかっていた筈なのですが、弟子たちは、聴いて知っていたとしても、本気で、主イエスがまさか本当に死んでしまうとは思ってもみなかったのでしょう。彼らには意味がわかならいのです。

    そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」

    (17節) 

    また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」(18節) 

  主イエスの「時」と、弟子たちの「時」は、その切迫度が異なっていたように見えます。

 主イエスにとって、こうして弟子たちと親しく語る時間は限られていました。自分は、「しばらくすると」、弟子たちの眼前からは「見えなくなる」からです。こうして生身の主イエスが弟子たちと対話されるのは、もうきわめてわずかしか時間が残されていないのです。

 ですから、主イエスにとっての「しばらくして」の時間感覚は、貴重な時間という意味で、きわまて重要な一瞬一瞬であった筈です。ところが、弟子たちには、この主イエスのみことばの意味が、まったく分からないのです。ですので、「しばらくして」の時間感覚には、主イエスの緊迫したものがまるで感じられていなかった。切迫感がないのです。


2.弟子たちは何を悲しんでいたのか

  ある時、お世話になっていた弁護士の方に言われたことばが忘れられません。

 福島第1原発汚染水一万トン海洋投棄の責任を追及し、余命半年と言われながら最後まで東電取材、執筆活動を続けた日隅一雄弁護士が49歳の若さで亡くなったときのことでした。共に闘ってきた同僚の弁護士の方でした。

「悲しんでいる時間がありません。」

 この一言が、こころに刺さり、忘れられないのです。

 人にとって悲しむことは大切な事柄です。人には悲しむべき時に悲しむ事はどうしても必要な事柄だと思うのです。ただし、悲しむという事柄はどうしても必要なことなのですけれども、「悲しんでいる時間がない」という「時」もあることも事実です。

 主イエスの言葉の意味を理解できないで、議論しあっていた弟子たちの思いは、一体どういう思いであったのでしょうか。

    ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。(22節)

 主イエスは、弟子たちは、悲しんでいると言われたけれども、一体何をどのように悲しんでいたのでしょうか。

 主イエスがご自分の「死」が間近であると言われた意味を、彼らは理解できなかったのですから、主イエスの「死」を、このときに悲しんでいたとするのは無理でしょう。彼らの無理解ぶりを考慮すれば、彼らはこのときには、本気で主イエスが死ぬとは思っていなかったということになるからです。

 それでは一体何を、どのように悲しんでいたのか。

 わたしは、こう考えます。

 彼らは、主イエスのみことばを本気では信じる事がいまだできてはいなかった。

 彼らの思いは、こんなものではなかったか、と思います。つまりこうです。

  「主イエスは、奇跡を数多く行ってきた。自分たちはその目撃者であり、証人でもある。主は、文字通り奇跡を行って、イスラエルが待望してきた「メシア」として劇的に、迫害や中傷という危機的な事態を変えてくださるに相違ない。自分たちはそういう王的メシアとして戴冠されることを誰よりも信じて、ここまでついてきた。それなのに、主はいっこうに奇跡を行ってはくださらない。われらの期待はいまだ実現していない。どうして、こんなときに、「見なくなる」とか、「父のもとへ行く」とか言われるのだろう。」

 弟子たちは、主イエスの「死」を確信して悲しんでいたのではなく、主イエスが「死」を選んでいることを悲しんでいるのです。

 主ご自身の「決断」ではなく、自分たちの「期待」どおりの主イエスではないことを悲しんでいた。そのような「悲しみ」は、主イエスの言葉への「無理解」そのものであるし、彼ら自身の期待するイエス像が砕かれたことが、彼らには「悲し」かったのです。

  「どうして、死ぬなどと言われるのですか。生きて生きて生き抜いて、イスラエルを救ってくださる筈ではなかったのでしょうか。」という思いではなかったのでしょうか。

 この思いは、イスカリオテのユダの思いと変わりません。ユダの思い、主イエスを裏切ったユダの思いは、他の弟子にも共通する思いでもあったのではないか、とわたしは思っています。

 つまり、この時の弟子たちの悲しみは主イエスの「死」を悲しんでいる「悲しみ」ではなく、現実の主イエスが自分たちの「期待」どおりの「イエス」ではないことを、悲しんでいる。

 ただし、主イエスは、この「悲しみ」は「喜び」に変わると断言されました。

 ただ変わるというのではなく、もっと強い意味で、「変わる」と言われたのだと思います。

 信仰は、自分の願望を「神」に投影することではありません。そういう事なら、その「神」は「自己願望の形を変えた像」ということになるからです。そのような自己願望の化身のような「神の像」は「偶像」ですから、砕かれなければならないのです。それゆえ、主は「変わる」と言われたのです。

 

3.悲しむ事に固執すること

   人は、しばしば悲しむことに固執します。悲しむ自分に固執するのです。まるで悲しむことを楽しんでいるかのように悲しみに固執するのです。

 たしかに、悲しみはひとにとって大切なこころの動きですが、悲しみは「喜び」へと「変わる」ことを忘れてはならないのです。悲しみは悲しいままで終わるのではないことを、主イエスは宣言されているではありませんか。 

 「悲しんでいる時間はないのです。」

 悲しみは中断されなければなりません。悲しみを悲しみのままにしてはいけないのです。

 人には希望が必要なのです。希望は、悲しみを哀しみのままに終わらせずに、「歓喜への希望」へと変えられねばならないのです。

 主イエスは、生きてこの世で王的メシアになる事ではなく、死ぬ事ができるお方として、かつ再び甦ることができるお方として、「再会」を約束されました。

 「十字架の死と復活」を約束されたのです。

    ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(22節) 

  「しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」

 この約束は、弟子たちに、真の信仰を与えるという事も意味しています。信仰とは、つまるところ、「喜び」なのです。


4.信仰は「喜び」にほかならない」

  キリスト教が単なる「宗教」ではないのは、キリスト・イエスの実在が、実際に弟子たちを変えたという現実が歴史として存在したからに他なりません。弟子たちが、悲嘆のどん底から現実として、「歓喜」の人生へと変えられたからです。

 彼ららの悲嘆のどん底の現実は、主イエスが実際に、殺されたからこそ、生起しました。この悲嘆は、イエス生前のときの、「悲しみ」とは比較になりません。まったく意味が違います。あのときの弟子たちの「悲しみ」は、彼らがイエスをいまだ「偶像」として知らなかったときに、彼らの期待した「イエス像」をイエスが否定したから、彼らの願望が粉砕されたことによる失望感が起因する「悲しみ」でした。しかし、主イエスの十字架の「死」が現実に起きたときは、弟子たちは、本当に、主イエスはみことばどおりに死んでしまったのですから、正真正銘、彼らは主イエスの「死」を悲しんだのです。

 歴史に「もしも」はないのですけれも、もしも仮にですが、彼らが、主イエスの「死」に直面して、復活の主イエスと再会できなかったとしたら、彼らの人生にはなんの変化も起きなかったことでしょう。ただイエスの「死」を悲しみ、やがて忘れていったことでしょう。キリスト教会も存在していなかったことでしょう。

 しかし、現実に、彼らは主イエスと再会した。そして終生変わることのない不動の信仰にいきる人々と変えられたのです。彼らは命を狙われても決して怯むことなく、殉教の最期まで、主にある「歓喜」の人生を生きたのです。」


5.イエスの名によって願いなさい

    その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。(23節)

    今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(24節) 

  「その日」が意味するものは「真理の霊」すなわち「聖霊」が降臨する日です。「聖霊」によって、わたしたちは「真理をことごとく悟らせ」ていただけると、主は言われました。

    しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(13節) 

  「聖霊」の賜物を実らせることが、私たちの生涯の目的となるように、主イエスの御名によって、願い求めましょう。「そうすれば与えられ」「喜びに満たされる」と主は言われたのです。こあれほど確実な事はありません。

2026年5月3日日曜日

 2026年5月3日(日)(復活節第5主日)



ヨハネによる福音書15章1節~11節

『神の民』

            ヨハネによる福音書15章1節~11節

1.豊かに実を結ぶということ
     あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 (8節)
  わたしたちの人生において、もっとも重要な事は何でしょう。  成功を収めることでしょうか。金持ちになることでしょうか。有名になることでしょうか。いわゆる繁栄することなのでしょうか。
 主イエスは、ぶどうの木の譬えをされました。この譬えのなかでは、「実を結ぶ」ことが神に栄光をお返しすることになると語られています。実を結ぶことは神に喜ばれることなのです。逆に実を結ばないことは、主イエスにつながっていない証拠になるのです。
 つまり、わたしたちは「実を結ばなければならない」と、主は言われているということなのです。
 そこで問題になることは、実を結ぶということが、いったい何を意味するのか、ということになるでしょう。
 人生の成功者になることでしょうか。金持ちになることでしょうか。立身出世することでしょうか。いわゆる繁栄することなのでしょうか。もし、そういう事ならば、「繁栄の神学」と変わりません。繁栄の神学」は神を信じれば、貧困や病気から解放され、物質的に豊かな人生を送れると教えます。病気や貧困は「信仰が足りないから」と信徒を苦しめたりもします。主イエスが、このような人の欲望を肯定し、刺激して、その満足を得るこことのために、神の言葉を利用する教えを説いたとは、到底思えません。
 ですから、主イエスが語られる「実を結ぶ」とは、いったいどういうことを意味しているのだろうか、この事がとても重要になります。 

2.農夫なる父
    「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(1節)
   そのことを考えてゆきましょう。主イエスは、ご自身を「まことのぶどうの木」と呼び、父なる神さまを「農夫」であると呼んでおられます。
 この譬えは、遊牧生活をしていた古代ユダヤ教社会が、すでに、農耕社会になっていたことを思わせます。ということは、主イエスの家業は大工職人でしたけれども、農耕生活も営んでいたのかもしれません。ブドウ栽培もされていたのかもしれません。
      「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(2節)
    結実しない枝を剪定することや、「手入れ」することを日常的になさっていたのかもしれません。生活感のある譬えになっているからです。剪定というのは案外難しいもので、切る場所を間違えると、手入れどころか枯らすことにもなりかねません。生きものですから、木の生態を熟知しないと、剪定を誤るとかえって木を傷めてしまうのです。 ですから、主イエスは、木のことを熟知している農夫に父なる神を譬えられました。農夫はぶどうの木のことをよくご存じなのです。そしてブドウの枝のことにもよくご存じなのです。剪定して切って捨てるべき枝は「取り除かれるし」、実を結ぶ枝は、すべて「いよいよ手入れ」をされるというんです。
 ここで、「実を結ぶ」ことが意味することが、次第に鮮明になってきます。つまり、ブドウ木とは主イエスですから、主イエスを通って、樹液がすみずみにまで行き渡り、主イエスの実を結ぶことのために、神さまは剪定をされ、手入れをされるのです。「実を結ぶ」ということは、人の欲望や、自分勝手な願い事が実現することなのではないのです。枝であるわたしたち自身、主イエスという「実」を結ぶことことこそが、「実を結ぶ」ということなのです。   
3.「聴くこと」、「既に」、「清くなっている」
    「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(3節)
 わたしたちは、主イエスのみことばを聴くことによって、既に清くなっていると、主イエスは言われました。「清くなっている」というのは、「実を結ぶ」ための「樹液」が主イエスから流れ来ていることを意味しているでしょう。
 主イエスが語られたみことばを聴くことが、ぶどうの木である主イエスと「つながっている」ことを意味しているのでしょう。主イエスの語られるみことばを聴くこと、これば主イエスと「つながる」ことを意味しているのです。 繰り返しますが、主イエスのみことばに聴従することが主イエスと繋がることなのです。具体的には、聖書を読むこと、みことばの解き明かしを聴くこと、つまり礼拝することです。礼拝者として生きることが、主イエスとつながることなのです。
 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(3節)
 主イエスとつながっているとき、主イエスの生命につながれている清い存在へと変えられていると、主は言われたのです。ここで「既に」と主が言われたことは重大な意味をもちます。この言葉は、わたしたちがわたしたち自身の能力や素質、努力によって、清くなるという考え方を完全に否定することばだからです。ただただ主イエスの生命が、神のみことばによって、わたしたちに流れ来たるからこそ、わたしたちは「既に」清められているということなのです。
主イエスの圧倒的なみ恵みがわたしたちの内に基礎となって、喜びに満ちあふれるようにされる出来事が起きているということなのです。
 
4.「捨てられて枯れる」「火に焼かれる」
     「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(6節)
  主イエスにつながっていない人とは、神のみことばがその人の内にない人のことでしょう。正直、そういう人のことを考えたくはないのですが、主イエスは、このみことばで警告をされたのだと思います。
    わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていければ、実を結ぶことができない。(4節)
  なぜなら、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と言われているからです。 主イエスは、「あなたがたにつながっている」と言われているのです。しかし、けれどもつながっているにもかかわらず、つながっていなさいと命じてもおられる。主が「既に」つながっていてくださるのに、つながっていなさいと言われるのは、「つながらない」、「つながっていない」状態というものが、可能性としてあるのだからだということです。神のみことばをみずから拒絶する、そういうことが人には起きてしまうことがある。神の言葉を自由意志で、拒否するということです。そういう状態、そういう心理状態というものが、人にはありうるということを、主イエスは知っておられるのです。あえて、神を拒絶するという態度です。人は罪を犯して、神なき存在へと転落しています。罪人というのは、「神なき存在」のことを言います。あえて罪人であり続けることを選ぶことが人にはあるのです。 悪であることを知りながら、悪を正当化するということがあるのです。
 農夫は、実を結ばない枝は剪定し、火に投げ入れます。投げ入れられた枝は燃えつきて灰となり、土に還ります。そして他の木々の養分になるのです。農夫は自然の摂理を熟知していて、無駄なものはなにひとつないことを知っています。神を拒絶した人々は、火に投げ入れられ燃えて灰となって土に還り、他の存在の肥やしになる。
 このように考えるとき、神さまが焼き尽くすという、この比喩が示しているの事の意味は、この「神を拒絶し、神なき存在」を焼く尽くして、ただ「神に栄光をお返しする存在」へと、「存在のありよう」を変えたいと願っておられるのではないか、とわたしは思うのです。そう考えると、少しはホッとします。
 カトリックには「煉獄」という思想がありますが、人は死んで、直ちに天国へ行くのではなく、「煉獄」へ行くという思想です。
    ※煉獄は、カトリック教会では天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところとされ、苦罰によって罪を清められた後、天国に入るとされる。現行のカトリック教会の教義では、天国は「最高の、そして最終的な幸福の状態、地獄は「神から永遠に離れ、永遠の責め苦を受ける状態」と定義されているが、「天国の本質が神との一致にあるとすれば、それは当然のことだが、人間は必ずしも終始一貫、神に沿って生きているとはいえず、罪を犯すこともあり、そのため死後に神と一致しようとする際には、自分の内にある神と異質なものは清められることになる。これが煉獄である」と説明されている。
 プロテスタント教会は、「煉獄」の思想をとりません。けれども、このぶどうの木の譬えで、捨てられ、火に投げ入れられ燃えつきてしまう枝の命運を想う時に、その人々の救いを想わざるをえない、そういう思いにもなるのです。神さまは、神を自由意志によって拒絶する存在を救おうとはなされないのでしょうか。そう神さまに問いかけてみたくなるのです。「存在の有り様を変えてくださる」と先にわたしが解釈したように、許されざる者の救いをいかに考えたらよいだろうか、という問いです。
 
5.望むものは何でも願いなさい。
     「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(7節)
     このみことばは、あの利己的な欲望実現を願う「繁栄の神学」の意味で受けとめることは不可能です。
 なぜなら、わたしたちが真実に主イエスにつながって、主イエスの生命が流れ来て、主イエスのみことばが、わたしたちの内に「いつもあるならば」、わたしたちが願うものは何でも、主イエスが願うものに他ならないからです。主イエスと完全一致する願いをこそ、わたしたちは願うようにされているからです。それはどんな意味でも人間の欲望の実現では有り得ません。主イエスが、わたしたちの存在を通して、願うのですから、その願いは何でも、神と人への愛の実現です。 
 主は、「そうすればかなえられる」と約束してくださった。わたしたちは願わないではいられなくなるはずです。神さまから、捨てられ、火に焼き尽くされるほかなき「枝」が象徴する「神なき存在」も、神はお救いになりたいといつもいつも願っておられるのではないか。そうであれば、ご自身を殺した人々を愛された主イエスの愛をもって、神を拒絶する人々の救いをも願わないではいらなくなるのではないか。わたしにはそう思えるのです。

6.主イエスの愛にとどまる
    父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。(9節)
    わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(10節)
  主イエスにとっての「父の掟」とは、「十字架の死と復活」です。このみことばは、主が「十字架の死と復活」によって示された「愛」にとどまる「ように」(類比、一致、対応)わたしたちがこの神の「愛」にとどまる(互いに愛し合いなさい=新しい掟)ならば、わたしたちは主イエスの「愛」にとどまることになる、とのみことばです。
 そうであれば、わたしたちは主イエスが愛するように、互いに愛しあうことが可能な存在へと「清められている」のです。わたしたちが、主イエスにつながっており、神さまの愛をもって、愛する主体へと変えられているならば、そのことによって、農夫たる父なる神に「栄光」をお返しすることになると、主は言われました。
     「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(8節)
    わたしたちが、主の愛にとどまり、すなわち主イエスの新しい掟(互いに愛し合う)を実現することが、父なる神に栄光をお返しすることなのだというのです。

7.栄光在主
  わたしたちの人生の目的は、このことです。
 わたしたちが愛の主体として、主イエスの愛をもって互いに愛し合う出来事が実現することによって、父なる神さまが「栄光」をお受けになること、言い換えれば、主なる神さまに、「栄光」をお返しこと、このことなのです。
 そうであれば、棄却された人々の命運をも、主イエスは、いつもいつも胸を叩きながら神さまに祈っておられると、わたしには思えてならないのです。
 神を呪うもの、神なき者、神を意識的に否定する者たちを、神は滅ぼしたくて滅ぼしたのではないと信じるのです。彼らもまた、神が無限の愛をもって、創造した兄弟姉妹だからです。
 敵を赦し、愛された主イエスは、かならずそう願っておられると信じます。アーメン 

 8.愛・喜び
    「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(11節)
  主イエスの喜びが、わたしたちの内にあること、そして主イエスの喜びがわたしたちの内にあることがわたしたちの喜びでもあること、主イエスの喜びでわたしたちが満たされることが、主イエスの「命令」「掟」の目的だと主イエスは言われました。
  つまり、わたしたちに、ぶどうの木の生命が流れ来て、実を豊かに結ぶこととは、主イエスの「十字架の死と復活の愛」に、わたしたちが満ち満ちていることを、主は「喜び」と呼ばれたのです。
 喜びとは何か。主は示されたのです。
 喜びとは、他者を主イエスのように愛することなのです。愛することが喜びなのです。この喜びに充満しているとき、神さまもまた喜びに満たされているというのです。それこそが、「神の栄光」なのです。アーメン

2026年4月27日月曜日

 2026年4月26日 (復活節第4主日)

ヨハネによる福音書13章31節~35節

『キリストの掟』



                  キリストの掟
ヨハネによる福音書13章31節~35節
31:さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32:神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
33:子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
34:あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35:互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

1.「子なる神優位」
  福音書には、三位一体の教義自体が語られてはいません。けれでも、「三位一体」の萌芽を思わせるイエスの言葉は残されています。いや、むしろイエスの言葉を信じることによって、必然的に「神とイエスとの関係、交わり」とはいったいどう理解したらよいのだろうかと、信仰においての認識へとすすんでゆかざるを得なかったという事情なのではなないだろうか、と考えます。
 本日与えられた聖書のみことば「神も人の子によって栄光をお受けになった。」は、まるで、イエスによって神も栄光を受けたというのですから、イエスは神に栄光を与えた主体であるかのような表現です。
 わたしたちは、漠然と父なる神が子なる神イエスをこの世に送られたのであるから、父なる神が子なる神であるイエスの優位にあるお方であると思っています。
 ところが、このイエスのみことばは、子なる神イエスのほうが父なる神の優位にあるかのような表現になっている。わたしたちの漠然とした「父なる神優位」という思いを、イエスは打ち砕くかのようです。
 子なる神イエスによってこそ、父なる神も栄光をお受けになったのか、そうであれば、「子なる神優位」という意味になるではないか、ということです。
 
2.「父なる神優位」でもあり「子なる神優位」でもある?
 どちらが優位でもあることは矛盾以外の何ものでもない。論理的には成り立たない。どちらかでもあるという事は人間の論理では成り立たないことになります。
 こう考えてきて思う事は、父なる神と子なる神は、どちらが優位という捉え方をすること自体が、人間の卑小な理性の限界内では不可能だということではないか。つまり、神さまを人間が捉え得るという考え自体が不遜であり、所詮は不可能なのではないか、ということです。
 信仰の現実のなかでのみ、どちらも「優位」であるようなあり方を、主イエスはお示しになられたのでしょう。
 その在り様を、「同質」という言葉で言い換えると「父なる神」と「子なる神」は「一体」のお方であるという信仰の認識へと導かれたのではないだろうか、そう思うのです。神と子は区別されつつも、一体・同質なるお方でありたもうという信仰の認識です。
 そうであれば、たしかに三位一体の認識の萌芽と言えるでしょう。
 いくら考えても、人の理性では不可解なのです。
 
3.主イエスは、神さまを語るために御自身を語った。
 主イエスのこのみことばは、当時のユダヤ教徒たちからすれば、理解しがたいどころか、とんでもない冒涜であったはずです。「人の子」という表現で御自身を語っているという前提で考えると、イエスは御自身が「神に栄光を与える」と言っているに等しいのですから、冒涜にしか聞こえないでしょう。この一言だけで彼らにとっては「死罪」に相当すると、彼らの「正義」は正当化されたに相違ありません。
 主イエスが殺されなければならなかったのは、主イエスの言動に原因があったのです。この一言だけでも、主イエスは殺されるに十分な理由を「殺す側」に与えたことになるのです。
 どう考えても、主イエスは、殺されなければならなかった。それは実に「真理」を語ったからです。
 主イエスは、この「真理」を語ることによって、自分が十字架刑で殺されることになることを十分に理解していたと思います。
 ユダが御自身を裏切り、売り渡しに行くということを、主は知っていました。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」とあります。
 いよいよ、ご自分が弟子の裏切りによって「殺される」ことになることが、決定的になった瞬間に、御自身の「死」を、「栄光」という言葉で表現されたのです。
 イエスが言われた「栄光」は、主イエスの「死」のことなのです。
    「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(31節)
 主は、時系列では、これから御自身の十字架刑が開催される御自身の「死」を「栄光」と表現され、既に「事が成就した」こととして語られています。
 主イエスにとって「死」は、既に終わったことのように語られるほどに確定した事として語られたのです。
 主イエスにとって、「十字架の死」は「栄光」でした。
 そして、主イエスが「十字架の死」すなわち「栄光」をお受けになったことが、「父なる神」に「栄光」を与えることになったと言われたのです。
 主イエスにとって、ご自身の命運を語ることは、即ち神の「命運」を語ることでもあったのです。
 主イエスにとって、「父なる神」を語ることは、ご自身を語ることだったのです。
 ご自身を語らずしては、「父なる神」を語ることはできなかったのです。
 最初のキリスト者共同体の人々は、この主の御言葉を聞くとき、主イエスと神が「一体」の存在であり、「同一・同質」のお方だと、信じたことでしょう。

4.「栄光」が指し示すもの
    「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」(32節)
 すぐさま、主イエスは、続けて逆のことを言われました。主イエスが「父なる神」に「栄光」を与えたのであれば、「父なる神」も、主イエスに「栄光」をお与えになる、と言うのです。
 そうすると、主イエスにとって、最初の「栄光」と表現された「十字架の死」は、やはり「父なる神」が与えたというよりは、主イエスご自身が自らすすんで決断したもうた「死」だということになります。
 主イエスが自らの「意志」で、「十字架の死」を決断したことが「栄光」だったのです。主イエスが決断した「栄光」であったからこそ、主イエスは「父なる神」に「栄光」を与えることとなった。神はイエスによって、「栄光」をお受けになったのです。
 ややこしくてすみません。でも大事な事なんです。
 イエスさまによって神さまは「栄光」をお受けになられた。そうであればこそ、神さまもイエスさまに「栄光」をお与えになったというのです。ですがこの際の「栄光」は、「昇天」のことでしょう。「栄光」という言葉が指し示している「事柄」が違うのです。
 整理します。
 主イエスが自ら決断された「栄光」を「主イエスの第一の栄光」と呼びましょう。これは「十字架の死」を意味します。
 主イエスが、「主の第一の栄光」をお受けになったことにより、「父なる神」にお与えになった「栄光」を「父なる神の栄光」と呼びます。
 そして、そうであればこそ、神がご自身によって、主イエスにお与えになる「栄光」を「主イエスの第二の栄光」と呼びます。これは「イエスの昇天」を意味します。
 だから、主イエスの「栄光」は、ご自身の決断による「十字架の死」と、神によって与えられた「昇天」という二つの事柄を指し示していることになります。
 それでは、主イエスによって、神に与えられた「栄光」は「父なる神の栄光」ですが、これは何を指し示しているのでしょうか。これが問題です。

5.父なる神の栄光
 主イエスおん自ら決断したもうた「十字架の死」と「復活」(ここでは復活も含めましょう)によって、神も「栄光」をお受けになった。その「栄光」とはいかなるものであるか。之が問題でした。
 わたしは思うのです。
 子なる神たる人の子主イエスが、呪われた十字架刑に処せられ、無残に死んでゆかれた事をもって、主イエスは「栄光」という言葉を用いられました。
 地上的な価値観からみると、もっとも「栄光」とはほど遠い惨い死です。この主イエスの無残極まりない「死」をもっとも高貴な価値を示す「栄光」と言われたイエスの「もののみえかた」こそが、このことと深くかかわってくるでしょう。
 神にとって「栄光」とはいったい何だったのか。
 ご自身と等しい子なる神を「死」なせなければならない「父なる神」にとって、主イエスの「栄光」はもっとも受け入れがたい事柄であり、ご自身の「死」よりも受け入れがたい事柄ではなかったか。神にとってイエスの「栄光」は、受け入れがたい「断念」だったのではないでしょうか。父なる神は、子なる神イエスを被造者である人類とは比ぶべくもない最愛の存在であった筈です。ご自身と一体、同一同質の存在のイエスが自ら死へと向かわれることほど、神にとっての「苦難」は他にあり得ない筈ではなかったでしょうか。人類が滅亡するよりももっともっと受け入れがたい事ではなかったでしょうか。
 それでも子なる神イエスは、父なる神が創造したもうた人類という父なる神にとっては、離れてしまった「こどもら」をもまた、ご自身同様に愛しておられることを、他の誰よりも,否、主イエスのみが、もっともよく知り給ふていたのです。神が愛する人類を、再び神の子どもらとして父のみもとへと送りとどけることを、主イエスは、神のため、人類のために決断したもうたのです。この決断は、だから、父を愛する子として主ご自身が決断したもうた事でした。父なる神は、この決断に苦しみたもうた。子を喪うことほど親にとって辛く苦しいことはありません。父なる神は、この苦しみを黙って見守り続けるしかなかったのです。親として子が親を思い決断した事です。どんなに辛く苦しくとも見守るほかはない痛みを神は耐え続けました。
 この痛みは、人類をわがもとへと送り届けようとする子の愛をよく知るがゆえに、耐えねばなりません。
 この神の痛み、苦しみ、忍耐こそが、神の愛のしるしです。この愛のしるしをこそ、「父なる神の栄光」と呼ぶほかはない、わたしには、このように思われてならないのです。

6.神の愛 苦難に耐える意志
    「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(34節)
    互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(35節)
   主イエスは、人類に、わたしたちに「掟」を授け給いました。
 この掟でも、「類比」が語られます。「~のように」という言葉が、「類比」を意味します。
 主イエスが、わたしたちを「愛されたように」と言われたからには、わたしたが「互いに愛し合う」ためには、どうしても、主イエスがわたしたちを愛された、その現実を私たちが知る必要があるということです。知らなければ、主イエスが私たちをどのようにして愛されたのかわからないのですから、主がわたしたちを「愛されたように」愛し合うことができません。
 ですから、わたしたちは、この「類比」を成就するためには、主イエスがわたしたちをどのよう愛しておられたのか,研究しなければならないのです。
 主イエスは、わたしたちを愛した、そのことはすべて十字架の死という主イエスご自身を、捧げたもうた一事にかかっています。主はわたしたちを父なる神のみもとへと送り届けるために、命を捨てたもうたのでした。「人、その友のために命を捨てる。これよりも大きな愛はない」と、主イエスは言われました。
 そうなのです。究極的な愛の実相は、友の為に命を捨てることです。犠牲の愛です。互いに互いのために命を捨てることを主は「掟」として授け給いました。
 では、日常の暮らしのなかで、具体的には、この犠牲の愛はどのように実践できるのでしょうか。
 実は、このことがいちばん大切なことです。
主が身をもって決断された「犠牲の愛」を、わたしたちは普段のありふれた暮らしのなかで、どのように実践してゆくのか。それは、なにか原則が示されているわけではありません。暮らしのなかの時間は刻一刻と移り変わります。状況は毎日変わります。具体的な状況のなかで、わたしたちも、決断を日々下す連続のなかに生きています。
 ひとつの提案をしたいと思います。
「主イエスなら、いま、ここでの状況で、どのように決断されるだろうか」と、ほんの少しでも考えてみる。そして、こころなかで、主イエスならば、このようになさるのではないかと浮かび上がってくる事を実践するようにしたらどうであろうか。主のみこころを尋ねながら個々の状況のなかで決断するということです。


2026年4月20日月曜日

 2026年4月19日 (復活節第3主日)

『まことの羊飼い』

ヨハネによる福音書10章7節~18節


1.羊の門、囲い

  主イエスのこれらの言葉は、比喩で満ちている。

  羊も比喩なら、門も比喩だ。

 比喩が指し示しているものは、「わたしは」という主語によって、限定されてくる。羊は、弟子であり、キリスト者であり、人類をも指すという具合に広がってゆく。

 さしあたって、聴き手のわたしたちは、羊とは、この「わたし」のことだと受けとめる。それでよい。

  「わたしは羊の門である。」と主イエスが語られるとき、羊としての「わたし」にとって、主イエスは「救い」の「門」である主イエスの前にいるのである。


2.自己選択権ということ

  「わたしは羊の門である。」と主イエスが語ってくださるとき、「わたし」には、通るべき門をはっきりと知っている。だから、そこには迷いはない。

 ところが、「わたし」は通るべき「門」が主イエスではない場合があるというのだ。

 その「門」は、主イエスよりも「前に来たもの」が、「門」を自称する場合の「門」だ。主イエスはその偽りの「門」を「盗人」、「強盗」と呼ぶ。この場合、「わたし」はこの「門」を通ってよいかといえば、良いわけがない。この「門」は、通ってはいけない「門」なのだ。

 この偽りの「門」が「わたし」の前にあるとき、「わたし」は、選ばねばならない。

 通ってはいけないが、通るか通らないかは、やはり選ばなければならないのだ。

 「わたし」には、どちらかを選ぶ権利がある。自己選択権があるのだ。

 善の道と悪の道がある。善の道を選ぶべきであることはわかっている。しかし、「わたし」は善の道と悪の道のどちらかを選ぶ権利があるというのだ。

 創世記の堕落の物語では、エバもアダムも、神の戒めを守る道と蛇の誘惑に乗って戒めを破る道の両者が、彼らの前にはあった。彼らには自己が行くべき道を選ぶ権利があったのであった。神の戒めを守るべきことはわかっていた。しかし、彼らは神の戒めを破る道を選んだ。

 この物語は、自己選択権という権利の恐るべき本質を教えている。


3.悪を選ぶ権利はあるのか

  偽りの「門」、すなわち、「盗人」、「強盗」の目的は、「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」。目的は明白だ。

 「盗み」、「殺人」、「滅亡」どれもが、「わたし」が願わざるゴールだ。誰もこんな目的地へ行きたいはずはない。しかし、エバもアダムもこの道を選んだ。ゆえにこそ、彼らの末裔の「わたしたち」の世界は、「盗み」、「殺人」、「滅亡」に満ち満ちているではないか。

 某国は公然と他国の石油利権を盗むと公言している。ミサイル攻撃で無辜の民が死んでも平気だ。文明全体を滅ぼすとさえ言いきる。こんな世界に誰がした。根源には自己選択権がある。こんなことを決断する為政者を選んだのは、「わたしたち」に他ならない。

 人は、悪の道を自由意志によって選択するかもしれない存在なのである。誰しもが願わざる悪の道を、人は選ぶかもしれない存在なのだ。

 「自己選択権」は危険な陥穽(落とし穴)なのである。

 自分で選ぶということは、自分では選ぶことが本来できない筈のことを、選ぶことができると錯覚することではないのか。

 たとえば、わたしたちは、人のものを盗むことができるとか、人を殺すことができるとか、人を貶めて滅ぼすことができるとか・・・・。

 偽りの「門」の目的は、このような事が蔓延することだ。けれどもわたしたちには、このような所業を選ぶことは、本当に「わたし」の選択の権利なのかと言えば、そんな権利が許される筈はないではないか。そんなことを選ぶ権利は本来ありえないはずではないのか。


4.羊は彼らの言うことを聞かなかった。

  しかし、幸いなるかな主イエスは言われた。

 「しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」と。

 主はあえて、過去形で、「聞かなかった」と言われた。

 そのこと(既に過去の既定の事柄だということ)が示す事は、羊が偽りの「門」を選ぶことはなかったと過去形で語ることにより、その事は、選ぶか選ばないかという選択の事柄ではなく既に決定済みの事柄なのだという意味にとれる。つまり、「選択」の問題ではないという事なのだ。「決定済み」の問題なのだと主は言われたのである。

 人類にとって、アダムとエバ以来の「悪の道」は既に過ぎ去った過去のことであり、主イエスによって開闢する人類の新たな歴史においては、人は、悪の道を選ばなかったという決定的地点が既に始まっているというのである。新しいアイオーンが始まっているのだ。

 換言すると、人は、善の道を選ぶか悪の道を選ぶかという自己選択権に、惑う必要はもうないということだ。人は、偽りの「門」、悪の道を選ぶ可能性は既に存在しないというのである。

 なぜなら「羊すなわち人類」は、主イエスを既に知っているからだというのである。

    わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(14節)


5.「わたしは羊の門」=神の先行的選び

  これは限りなき恵みの宣言である。

 〈善の道を進むか悪の道を進むか右往左往する自己選択権という自由の苦悩〉から人は解放されたという解放の宣言だからである。

 主イエスによってもたらされたイエス御自身の解放の福音のまえで、人は、ただ主イエスに従うという唯一の道を通る以外の道を選ぶ必要はなくなったのだ。

 主イエスという「門」は、「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける、と言われる道である。

 主イエスという「門」の前で、人は既に、主イエスという「門」」を知っていると主は言われる。

 「人」がすなわち「わたし」が、主イエスを知っているのは、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と言われたとおり、主イエスが「人」を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからに他ならない。

 人がイエスを発見するのではなく、主イエスが既に、人を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからこそ、「人」すなわち「わたし」は、主イエスを知っているのだ。

 ここに選択肢は存在しない。ただ、神の一方的な選びがあるだけである。

 「わたし」が、主イエスを知っているからではなく、主イエスが「わたし」を既に選んで知っていてくださるからこそ、「わたし」は主イエスを知っているのだ。

 ゆえに、この主イエスの先行的選びによって、わたしという人間が主イエスの前にたつとき、既にわたしは主イエスに捉えられた者であるがゆえに、主イエスを知っている。

 これを神の一方的な恵みといわずにおれようか。


6.雇い人

 雇い人もまた何者かを比喩している。

    羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――(12節)

    彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。(13節)

    ここで深く立ち入って解釈する必要はない。

 主イエスは「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる人」を引き合いに出しているのだ。

 辛辣な宗教批判なのである。主イエスは、危機に瀕して逃走する人を引き合いに出して、「羊」のことを心にかけていない事実こそが、「羊飼いと雇い人の違い」だというのである。

 羊の世話を委されていながら、心にかけておらず、危機に瀕すれば遁走する無責任な者を揶揄している。

 厳しい宗教者批判だ。

 主イエスは、どこまでも、個々の具体的な、固有な存在に固着してゆかれる。いつもいつも「一人の人」をみつめておられる。個々の固有な存在を、主はみつめておられる。

 羊飼いは一頭一頭の羊の存在をこよなく大切にする。しかし雇い人はそうではない。自分だけが助かることにしか関心がない。


7.この囲いの外に   「囲い」の消滅

    わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(16節)

  主イエスの「一方的な先行的な選び」は、「門」の中、すなわち囲いの中の「羊」たちだけが対象なのではない。囲いは「狼」のような外敵から「羊」を守る防護柵のことだ。「羊」を守るためには「囲い」が必要なのだ。

 しかし、主イエスは言われた。この囲いの外にも、「羊」がいる。この「羊」もまた「一方的な先行的な選び」の対象だというのだ。

 「囲い」は、防護柵なのだが、ともすると、「壁」に変質しかねない。差別のための自己正当化になりかねない。「壁」の中の人間のみを守り、外の人間を排除し、外敵化する人間の罪がそうさせる。

 しかるに、主イエスは,常に「囲い」の外に、「わたしの声を聞きわける羊」に心にかけたもう。人のこころの中に蔓延る「壁」を不断に崩壊させて、遠くへ遠くへと「羊」を捜したもうのだ。主イエスは、「囲い」の中の羊を放置してでも、どこまでもどこまでも「迷える子羊」を捜し求めてゆかれるのだ。

 こうして、世界中の羊は、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

 この事は実現するとき、容易に「壁」に変質する「囲い」は必要なくなる。

 主イエスのこの宣言は、終末論的な希望である。主イエスが神だからこそ言い得た言葉としか思えない。

 ここには、世界大の共同体が、「一つの群れ」となるという理想世界実現の確証が語られている。人間の語り得る言葉ではない。神にしか語り得ない。究極的な希望の宣言だ。


8.十字架の死と復活の意志 

    わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。(17節)

    だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(18節)

 「わたしは良い羊飼いである」という宣言は、十字架の死と復活の出来事の予告であり、意志表示として理解されなければならない。

 実は、人は、死ぬことができない。

 人はやむなく死ぬのだが、死ぬことができるから死ぬのではない。人は死ぬことはできないのに死ぬのだ。なぜなら、死ぬ事が出来るのはただ神のみだからである。

 神は死ぬことができる。なぜなら、再び生きることができるからである。神はいのちを捨てることができるし、いのちを再び甦らせることもできる。だからこそ、死ぬ事ができるのである。再び生きることができる方のみが死ぬ事ができるのである。

 しかるに、人は、地上の生を終えるが、それは死ぬ事ができるという意味ではない。死ぬ事ができないのに、やむなく死なざるを得ないのだ。このやむなき地上の死は「死が支配する」だ。この「死」とは「神と人との関係喪失性」を意味する。神なき事、神喪失性こそが「死」の本質である。

 この「死」(神喪失性)はキリストの「死」によって滅ぼされねばならぬ。

 「死」(神喪失性)の「死」だ。実に「死」は十字架の死に呑み込まれたのである。

 人は、死ぬ事ができる神によって、再び生きるいのちに与って甦る希望によって、死ぬ事ができるようになる。

 人は、キリストのいのちに与って甦る希望があるとき、はじめて地上の生の終焉を迎える勇気を与えられるのである。

    わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(10節)

  「死」の「死」、すなわち復活の希望によってこそ、人は死ぬ事ができるのである。キリスト・イエスによって「羊が命を受ける」からである。

 主イエスは、明確に、「羊」すなわち「わたし」の「命」(甦りの命)を与えることを、このみことばによって確約されているのである。「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」との宣言は、羊すなわち「わたし」が「いのちを受けるため、しかも豊かに受けるための確証に他ならなかった。

 主イエスは、神の独り子なる神として、全人類を「羊飼い」として、永遠のいのちを与えんがため、来られた。

 その確証は、全人類にまで及んでいる。

 わたしたちは、ただ主イエスの御前で、主に従うだけで、既に主イエスの「門」を通っているのである。

 諦めてはならない。主イエスの前に立つとき、「わたし」は既に、主イエスに知られている。

 知られている「わたし」は「主イエス」でありたもう「天国の門」を通るべく、主の御声を聴き分けることができる者と変えられている。

 救いは、既に確定しているのだ。ここに迷いはない。