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2026年6月28日日曜日

 2026年6月28日 (聖霊降臨節第6主日)

                    神の計画(聖書日課によるタイトル)

  「聖霊による充満によらなければ、だれもイエスを主と告白することはない」

                  使徒言行録 13章13節~ 25節

13:パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。

14:パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。

15:律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。

16:そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。

17:この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。

18:神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、

19:カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。

20:これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。

21:後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、

22:それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』

23:神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。

24:ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。

25:その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』


 1. 救済史観

  パウロ一行はキプロス島の西岸パフォスを船出して、地中海をはさんで対岸のパンフィリア州のペルゲに向かいました。ここで、何があったのか、助け手として同行していたヨハネがエルサレムに帰ってしまったとあります。 一行にとっては、試練とも言える出来事だったのかもしれません。 しかし、パウロとバルナバはさらに北上してピシディア州のアンティオキアに向かいました。 ここでも、やはりユダヤ教の会堂で、主イエスの宣教を語ることになります。

 ここでパウロが語った事柄は、イスラエルの歴史でした。しかもただの歴史の説明ではなく、神の民に対する神の摂理と神の民イスラエルの態度についての解明でした。イスラエルの歴史とは、主イエス・キリストをお迎えすることこそが神がイスラエルを歴史を通じて最終的に目的とされてきたのだという「救済史」に他ならないということなのでした。


2.「史観」とアイデンティティー

  過去を、どのように捉えるかということは、現在の自己自身をどう捉えるかということと緊密につながっています。

  日本はかつて「皇国史観」という歴史認識を国民全体に、浸透させて、ついには戦争を拡大しました。他国を侵略し、他国の人々を、「皇民化」政策によって支配しようとしました。国家神道という宗教を創り、人心を支配しようとしたのです。この歴史観は、「日本人」とは何かというアイデンティティーを、天皇の赤子と位置づけました。主権は天皇にあり、国民はすべて天皇の赤子であるというのです。神話が歴史と同一視されました。

 昨今、皇国史観の復活とまでは言わずとも、「美しい日本」に期待する勢力が勃興していることを感じます。この「史観」が必然的に戦争を引き起こした過去の教訓は忘れ去られようとしています。

 これは我が国がふたたび世界から孤立し、壁をつくり、敵をつくりだす危険な兆候であることは火を見るより明らかです。

 だから、このような独善的な「史観」はアイデンティティーと安易に結びつけられてしまうがゆえに危険なのです。この危険を回避するために、わたしたちは過去の歴史の教訓を子細に検証し、平和を構築するための、まったく新たな「史観」を探求しなければなりません。


3.既得権益と侵略の正当化

  現在のイスラエルによるレバノン空爆は、イランとアメリカの停戦合意にもかかわらず継続されています。ヒズボラの殲滅が目的だというのがイスラエルの攻撃正当化の言い分ですが、無辜の市民が無差別に巻き込まれて殺されている現実は、世界中が知っています。なぜイスラエルは殺戮をやめないのでしょうか。なぜイスラエルは国際法を無視してパレスチナ占領をやめず、さらなる侵略を続けるのでしょうか。

 無論、すべてのユダヤ人がレバノン攻撃を支持している訳ではありません。アメリカ在住のユダヤ人の多くはイスラエルの戦争には反対していると聴きます。ユダヤ人という概念は宗教的概念だと言われています。ユダヤ教を信じる人がユダヤ人なのです。ユダヤ人は、旧約聖書に記されている歴史を自己自身のアイデンティティーとしている人々と言ってよいかと思います。

 つまりこの旧約の「史観」を共有している人たちをユダヤ人と言っているのです。 人種概念ではありません。黒人のユダヤ人もいれば、モンゴロイドのユダヤ人もいます。いわゆる白人のユダヤ人もいる。形態的な自己同一性ではなく、歴史を共有することで共同体の成員であることを相互に了解しあっている人々です。

 同じ「史観」を共有していながら、壁をつくり、敵を作り、殺戮を正当化する人々がいて、他方では、平和を求める人々がいる。一方では殺すことを、自国のためには辞さない。殺戮を肯定し、正当化する。他方では、かつて自分たちが殺される側にあったことを,他者に強いてはならないとするユダヤ人がいる。

 トランプ大統領は大学での「反ユダヤ主義」的な言論を放任しているとして多くの大学に圧力をかけていますが、実際は「反ユダヤ主義」を学生は批判しているのではなく、殺戮行為を批判しているだけでした。「シオニズム」と「反ユダヤ主義」はまったく別物なのです。

 「シオニズム」が、ガザ攻撃を正当化し、土地の収奪を正当化しているのです。


4.救済史観の不思議

    19:カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。

    (ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人) 

 イスラエルの歴史をひもとくとき、わたしたちは数多くの戦争がくりひろげられてきた事実を見ます。「聖絶」とか「聖戦」とか呼ばれる惨い戦争をイスラエルは戦い、ある時は勝利し、ある時は敗れるという戦争の歴史を生き抜いてきたことがことこまかに記されています。ある意味、戦争の歴史であり、戦争史観とも見えるのです。そしてこの歴史に神が介入してきたという信仰告白が綴られる。

 たしかに戦争の歴史は、イスラエルだけではなく、世界中いたるところで戦争、戦争で明け暮れてきたのが人類史ですから、とりわけイスラエルだけの事柄ではありません。 

 ただ、現代のイスラエルが、数千年前の古代人と少しも変わらないような、聖戦史観で戦争をやめないのだとすれば、 このことについて無知であってはならないし、放置してよいとは言えないでしょう。事柄は「史観」の問題であり、「史観」の危険性の問題となってくるでしょう。

 現代日本の政治家が、織田信長や豊臣秀吉のように、皆殺しをするようなことがあってよいはずはないのと、まったく同じ意味で、イスラエルの政治家が、古代イスラエルの王のように皆殺しをしてよいはずはないのです。しかし、独裁者はヒズボラの殲滅を公言してすこしもはばかりません。どんな思想の持ち主であろうが、信仰の持ち主であろうが、殺してよい人間などひとりもいないのです。

 パウロが、この戦争史観とも言えるイスラエル史を救済史として堂々とユダヤ人に語り得た、しかもそれだけではなく人々の心を打ったということに、わたしは不思議な感慨を覚えるのです。ただし、パウロの福音宣教を聴いたユダヤ人たちは、信ずる者と、信じない者との二つに分かたれました。さらに不思議なのは、割礼をいまだ受けていない異邦人が多く信じたのです。

ピシディア州のアンティオキアには、信じた者たちによって教会が成立します。このことは驚異的な出来事だったと思うのです。


5.どうして信じ得たのか

  人は信じたいものを信じるものだ、ということは一般的によく言われることです。破壊的カルトの信者の精神性は、たしかに信仰の対象が「真実」であり、「真理」であるから信じているのではなくて、結局は自分が信じたいから信じるという精神性だという人がおそらくわたしも含めてそうだと思います。たとえ嘘であっても、自分が信じたい、だから信じるという具合です。

 しかし、初代教会のパウロの宣教と、それを聴いて信じた人々は、そうであったとは、とても考えにくいのです。

 なぜなら、ルカが記したパウロの宣教には、人が信じたくなるような要素がまるでないと、わたしには見えるからです。

 それを信じれば、なにか自分にとって得するというか、得がたいなんらかの報酬系を刺激する「信じたくなるような」要素が、このパウロの言葉から感じられるでしょうか。

    17:この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。

    18:神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、

   この記述は、出エジプトの経験です。荒野の40年は、イスラエルの不信仰にもかかわらず神は決して見棄てることなく耐え忍んでくださったと言っているのです。言うなれば、先祖の不信仰とそれを耐え忍ぶ神の導きを語っているのです。たしかにその記憶は神への感謝でしかないのですが、見方を変えれば先祖の罪への告発です。

    20:これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。

   この記述も、450年もの長きにわたり、他部族への仮借のない戦争状態が続いたことを語っているのであって、戦争史観そのものでしょう。神の導きだったという理解のもとに、他民族との戦争を戦い抜いたということでしょう。会堂に居合わせたユダヤ人以外の「神を畏れる人々」(16節)は、この歴史をどう聴いたでしょうか。戦争をイスラエルが勝ち抜いたという話です。これを聴いて彼らの心に感銘が生まれたでしょうか。

 しかし、結果は多くの人が信じたからこそ、教会が生まれたのでした。わたしにはとても不思議に思えるのです。なぜなのか。


6.信じたい事を信じたのではなかった。

   異邦人にしてみれば、サウルだろうがダビデであろうが、ユダヤ人にとっての偉大な王さまだろうけれども、彼らにとっては、極端に言えば、他国の先祖のお話にしか聞こえない存在だったのではないでしょうか。ナザレのイエスが約束のダビデの子であろうがあるまいが、どうでもよかったのではないでしょうか。

 そんな彼らが、この戦争史観にまみれた歴史を、主イエス・キリストを人類にお迎えするための救済史と受けとめ、自分自身のキリスト者としてのアイデンティティーの中心・核心として受け入れたというのは、彼らが信じたいと願ったからではなく、福音を語るパウロから、「神の力」を感じとり、信じないことが不可能なまでに、聖霊に満たされたとしか考えられないのです。

 人間的な価値判断だけでは、彼らにとって信ずべきなにほどの事もパウロは語ってはいません。むしろイスラエルの武功物語などお話し程度の意味しかなかったはずです。ところが、彼らは、語るパウロと同じアイデンティティーを自分自身のものと信じたのです。神の奇跡としか言いようがありません。

 彼らからすれば、自分たちの歴史(神々の歴史=異教の歴史・神話)から観れば「敵」だった民の歴史を、「われらの歴史」と受けとめ始めたのです。奇跡です。

 イスラエル、すなわちユダヤ人にしてもそうです。パウロは悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたバプテスマのヨハネをユダヤ人の王ヘロデは殺害してしまったし、バプテスマのヨハネが証ししたイエスも殺してしまったというのです。聴いているユダヤ人は、罪の弾劾に聞こえても不思議ではありません。自分たちの同胞が、ヨハネもイエスも殺してしまったという事を、彼が信じたいと思ったとは思えないのです。彼らも信じたいと願ったことを信じたのではないのです。だから、信仰は人間的願望の結果ではないのです。聖霊の力の充満が起きていたのです。


7.あなたたちが期待しているような者ではない。  真の信仰は、人間的な願望や期待の結果ではあり得ないのです。福音が宣教者によって語られるという現実の場において、生起する「奇跡」なのです。「わたし」という存在が、主イエスを主として信じる出来事が起きているという事自体が、「奇跡」にほかなりません。この奇跡が自分自身のアイデンティティーを形成します。するとそのとき、わたしたち自身のアイデンティティーと深いところでつながっているところの「史観」は、主イエス・キリストこそが「はじめ(アルファ)」であり「終わり(オメガ)」である救済史となっていることを見いだすはずです。

    また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。(黙21:6)


2026年6月21日日曜日

 2026年6月21日(日)(聖霊降臨節第5主日)

使徒言行録13章1節~12節

『宣教への派遣』(聖書日課による)



                聖霊による派遣
                    使徒言行録 13章1節~ 12節
1:アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。
2:彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
3:そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
4:聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、
5:サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。
6:島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。
7:この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。
8:魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。
9: パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、
10:言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
11今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
12:総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。

1.アンティオキア教会の人々
   ここに挙げられている人たちの多様さは驚嘆すべきものがあります。ここにはアンティオキア教会の指導者として5人の人が挙げられています。
   バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロの5人です。
 この人たちは、預言者、教師という立場の人ですから、実際はもっと多くの人たちが、このアンティオキア教会にはいたことでしょう。この6人を観ると、実に多様なのです。
 アンティオキア教会は、まず肌の色で人を差別していません。
 ①ニゲルと呼ばれるシメオンは黒人だと言われています。ニゲルというのは肌の色が黒いという意味です。また出身地のよる差別もなかった。②キレネ人のルキオは北アフリカ、現在のリビア出身ということになります。この人も黒人でしょう。③出自・階級による差別もなかった。マナエンは領主ヘロデ・アンテイパスと一緒に育ったというのであるから、幼なじみと言って良い境遇の人です。この人はユダヤ教とから迫害されているクリスチャンの道を自ら選び取ったことになります。権力者の幼なじみですから、それなりに裕福な家に育ったはずですが、個人財産を放棄して原始共産制の共同体に加わったことになります。ですから階級による差別はなかったのです。④地元の人もデイアスポラの人の差別もなかった。バルナバはキプロスの出身です。彼はサウロ(パウロ)と共に宣教へと派遣されることになりますが、派遣先はキプロスですから、地元へ向かうことになります。同行したマルコと呼ばれていたヨハネはバルナバの甥(従兄弟)らしいのでやはり出自は地元かもしれません。(「コロサイの信徒への手紙」4章10節では、マルコについて「バルナバのいとこ(従兄弟)、」という表現が用いられます。育ちはエルサレム。)様々な地から集まってきた人々が主イエスによって兄弟姉妹となっていたのです。⑤そしてサウロ、すなわちパウロです。呼び方が9節から変わっています。以後はパウロという名前で登場することになります。彼は迫害者から主イエスの弟子に変えられた人です。つまり、元は敵対者だった人ですが、そういう人を教会は受けいれただけではなく指導者、宣教者としての務めを託していたのです。
   原始キリスト教会が、このようなダイバーシテイを実現していたという事実は、驚嘆に値します。
 二千年後の現代でも、実現できないでいるのですから。

2.聖霊の啓示
   預言者といっても、旧約時代の預言者とは意味が違うとは思います。聖霊の言葉が告げられたことが記録されているので、おそらくは、この預言者は、聖霊のお告げを教会に告知するという賜物をいただいていたのでしょう。
 かしこまって、聖霊のお告げと言明していたかはわかりませんが、共同体全体が、聖霊の告知として、パウロとバルナバの派遣を認識したということは確かだったのでしょう。
  聖霊の告知内容は、パウロとバルナバを宣教者として選任せよという命令。そしてその選任は、聖霊が予め定めていたという事でした。この選任について、異論があったという記録はありません。教会は教会として決断するという手続きは踏んでいるはずですが、一貫して聖霊の意志がこの間のイニシアチブを取っているという信仰理解で貫かれています。
 そして教会は、断食してから二人に按手をして送り出しました。派遣の祝福です。派遣の主体は神である聖霊なのです。

3.宣教者・旅の人
   二人は、陸路南西の港町セレウキアに出て、そこから西へ海路を航行してキプロス島のサラミスに上陸します。  サラミスではユダヤ教の諸会堂で、宣教を開始します。マルコと呼ばれるヨハネを助手に加えて、島全体を巡回しつつ宣教を続けたようですが、各地での宣教の結果については、触れられません。およそ100キロ西へと進み、島の西岸の町パフォスにまで辿り着きます。ここで、偽預言者とめぐりあうことになりました。

4.偽預言者バルイエス、魔術師エリマ
   偽預言者とルカははっきりと表現しています。これは、パウロたちが宣教する以前の異教世界の宗教的指導者のことでしょうが、パウロらにしてみれば、ただお一人のまことの神以外の神々の世界の指導者は、おしなべて「偽預言者」とみなされていたでしょうから、そのようにルカは表現するほかはなかったのでしょう。記録すべきは、福音の使徒の言行録ですから、宣教の途上での異教世界との接触はいきおい「対決」にならざるを得ないのでしょう。
 ですので、いきなり「偽預言者」と見なされる訳です。ただバルイエスという名の意味は「イエスの子」だそうですから、なんとも紛らわしい。主イエスとは何の関係もないです。イエスという名は珍しい名前ではなかったので、「イエスの子」と言っても珍しい名でもなかったことでしょう。考えてみれば、名前というのは不思議なものです。同じ「イエス」という名前の人が当時は相当いたはずですから、こういう紛らわしさは珍しくはなかったと思います。それでもイエスの名には力があった。だから、名前は単なる音声の連続ではないということなのでしょう。信仰をもってイエスの名によって指し示されている「まことの神」さまが名前をして力あるものにしているということでしょう。
 さて、紛らわしい「バルイエス」と出会ったとありますが、そのときの「接触」はどのようなものであったことでしょうか。

5.偽預言者との接触から総督まで
   バルイエスはキプロスの地方総督と「交際」していたとあります。どういう関係性だったのか。配下として働いていたのか、あるいは時に応じて召し出されて神々の託宣を語っていたのか。「交際」の中身までは想像の域をでません。しかし、ある意味、この人物を仲立ちとしてパウロとバルナバは、地方総督セルギウス・パウルスと面会できたことになります。
 そうだとすると、最初の出会いは、そんなに険悪なものではなかったのかもしれません。バルイエスのほうでも、パウロ一行を好意的にセルギウス・パウルスに紹介したかもしれないのです。それがいったいどうした変化が両者のあいだに生まれたのでしょうか。バルイエスの方から、パウロ一行が、総督に宣教をはじめだすと、邪魔をするようになったのです。どういう心境の変化が起きたのでしょうか。自分の立場が脅かされるという脅威を感じたのでしょうか。「二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。」とルカは記しています。

6.態度急変の心理
 最初は近づけ、後になって遠ざけようとする。この態度の急変に至る心境の変化はいかなるものであったのでしょう。
 はじめのうちは、一時の旅人、同業者でも旅人として歓迎したのかもしれません。一時的な滞在だからこそ、もてなすという心理です。ところが、パウロ一行の話を総督が熱心に聞く姿勢が見え始めてみると、またその話の内容が自分の信奉する世界と真っ向から衝突するものであると理解し始めると、このような教えに総督がかぶれると自分も自分が信ずる霊的世界も否定されてしまうと危機感を抱くようになった。それで、なんとかこの二人を総督から引き離す必要がある、と感じだしたのではないか、そんな風に思うのです。

7.対決
   こうして、パウロ一行とバルイエスすなわち魔術師エリマは対立した。バルイエスすなわち魔術師エリマとは対立したのでした。先に魔術師エリマの方から、遠ざけようとするという行動に出たのです。
    9: パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、
    10:言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
    11今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
  こういう宣教もあるのかとばかり、多少びっくりしてしまいました。正面からの真っ向勝負とでも言ったらよいでしょうか。
 要するに、お前は失明するぞと言った訳です。そうしたら本当に失明してしまったという出来事です。

8.地方総督セルギウスの入信
    12:総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。
   もともと、この人物は、パウロ一行の話を聴こうという開かれた精神の持ち主だったと思いますが、彼が入信したのは、パウロの宣教の言葉を聴いた結果だったからではなく、魔術師エリマがパウロの言葉どおりに本当に失明してしまったからでした。
  こういう信仰の道への入り方ということもあるのだなと、当惑しないではおれません。驚きです。
 どう理解したらよいのか戸惑います。「主の教え」には、こういう事も含まれるのかと驚かざるをえません。
 言うなれば、福音宣教を妨害する者への直接的な懲罰を言明すると、実際に懲罰の出来事が起きてしまうというのです。恐ろしきかな宣教の威力。
 こんな恐ろしい力を発揮する出来事を目の当たりしたら、驚くのも当然です。でも、こういう宣教を毎回していたら、人々は怖れなして、かえって遠ざかってしまうのではないでしょうか。
 聖書は、この出来事もパウロが聖霊に満たされて実行したと記していますから、神の意志が働いていたことになります。神さまの意志ですから、文句は言えません。
 しかし、実際に宣教の最前線では、こういう奇跡もあったし、希望でもあったのでしょう。こういう場合も、パウロは救済の道を忘れてはいません。「時が来るまで日の光を見ないだろう。」との一言を付け加えています。これは救いです。相手のことを、赦し、愛し、いたわる言葉を忘れてはいないのです。「時が来れば」と、つまり、悔い改めのチャンスを与えているのです。
 これは猶予期間です。バルイエスは「時」を与えてもらったのです。失明は、その間、暗闇のなかで、彼は自分自身を振り返り、内面世界をみつめる猶予を与えられたのです。失明は、その意味では、彼の救いのためには恵みになるのではないしょうか。そう考えると、失明は、必ずしも単なる懲罰ではなくなります。かえって、悔い改めを促すための恵みになります。それまで見えなかった世界が闇の中で見えるようになるために。
                  アーメン

2026年6月14日日曜日

 2026年6月14日 (聖霊降臨節第4主日)

          付知・田瀬教会合同礼拝

                子どもの日(花の日)



『悪霊追放』
          使徒言行録16章16節~24節

16節:わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。

17節:彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」

18節:彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

19節:ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。

20節:そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。

21節:ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」

22節:群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。

23節:そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。

24節:この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。


1.占いの霊に取り憑かれた女奴隷の叫び

   ここに一人の女性が登場します。この女性は、パウロとシラスにまとわりつくように、「うしろについて来て」は叫んでいたというのです。その叫びの内容は、 「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」というものでした。

 内容は、パウロとシラスの宣教をあたかも宣伝しているかのようなもので、パウロがどうして、彼女に向かって、「悪霊追放」を行ったのかと、疑問を抱いても不思議ではありません。

 彼女が叫んていた内容そのものは、まったく正しいからです。内容が正しいのに、パウロは、彼女を操り動かしている「霊」は、追い出すべき「霊」だと認識していたことになります。

 この事実が私たちに示している事柄は、所謂「悪霊」(悪霊とはここでは言われていませんが)の働きは、内容の正しさによって見極めるのではないということです。悪霊もまた正しい事を語るのです。だから言っている内容が正しいということは、その「霊」の働きが「悪霊」から起源するのか、そうではないのかという判断基準にはならないということです。言説の正しさは、その言説の起源が、悪霊なのか、神の霊なのかを担保しないのです。


2.「霊」を見分ける判断基準

   言説の正しさが、「霊」を見極める判断基準になり得ないとしたら、パウロはどのようにして見極めたのでしょうか。」

   「彼女がこんなことを幾日も繰り返すので」と、ルカは記しています。こんなこととは、パウロ一行にまとわりついて叫び続ける行為です。パウロには、「迷惑」行為だったことがうかがえます。外見的にみれば、宣伝してくれているようにも見えるのですが、パウロにとっては、そうなってはいなかったということでしょう。つまり、いくら言っている事が間違いとは言えないまでも、その言葉をつかう「状況(様態)」、「目的」によっては、語っている内容そのものの意味内容を台無しにしてしまうということが、現実にはあるということです。パウロの立場から言えば、彼女の行為の状況(様態)、目的は、パウロの宣教にとって、妨害行為以外の何ものでも無かったということです。 

 わたしは、福音宣教とは、信仰の対象であられる「まことの神」への信仰から、語られるというきわめて明解な事柄だと考えます。

 この女性は、「占いの霊に取り憑かれている」人でした。

 彼女は、パウロから、主イエスの福音を聞いたことはありません。聴いた事もない、すなわち彼女は自分が知りもしないのに、パウロ一行を指して、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と「宣伝」していたのです。

 彼女の状況・目的は何だったのでしょうか。彼女の状況は、福音については「無知」、目的については、今流に言えば、パウロ一行への「褒め殺し」とでも言うのでしょうか。しつこくまとわりついて、自分では知りもしないのに「いと高き神の僕」だと言い立てる訳です。聞いている人にも、彼女が「占い」をして主人をもうけさせる女奴隷だということは知れ渡っている状況ですから、彼女の状況や目的が、パウロ一行を貶める行為であることは、周囲の人々にも明らかだったであろうし、パウロにとってみても、「迷惑」でしかなかったはずです。

 わたしたちは、この事態から、何を教訓として学ぶことができるでしょうか。

 それは、福音宣教は、福音を語る人の「実存」と無関係ではありえないとうことでしょう。

 パウロは、自分自身の実存と離れたところでは、一言も語ってはいなかったはずです。

 女奴隷にとっては、彼女の実存は、実存としてかならずあるはずですが、それは主イエスとは無関係だった。

 ここで、わたしたちは、自分の実存と主イエスの実存が無関係なところでは、ひとことも福音を語れないし、語ってはならないということを知らされるのです。

3.信仰者の実存と離れた宣教は存在しない

   この女奴隷は、福音を聴いたこともなく、従って主イエスを知らないし、信じてもいません。しかし、この女性が、福音を知らないというだけでは、何の罪でもありません。このとき、世界は、パウロ一行をはじめとした圧倒的な少数者しか、主イエスを知らなかったのですから、彼女はそのなかの一人にすぎません。

 彼女はむしろ、知らされなければならない人々の一人として、福音を聴くべき者のひとりでした。言い換えれば、つまり、パウロは、彼女にこそ、福音を伝える責任を負っていたのです。

 彼女に、福音を語るということは、パウロの実存と無関係では有り得ません。

パウロ自身が、キリスト者迫害の中心にいた一人でしたから、迷惑行為によって、パウロの宣教を妨害する彼女に対して、「主イエスならどうなさったであろうか」と思わずにはおれなかったはずだと、わたしは考えます。他人事ではないのです。

 パウロの、かつて自分こそ迫害者だったという彼自身の原体験が、彼女への特別な関心と愛を、彼にもたらしたはずなのです。それがパウロの実存的な「原点」だからです。彼はいっときも自身の過去の罪との対峙なくして福音を語れなかったはずです。

 

4.「悪霊追放」・パウロの自己解放

     「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

  だから、パウロのこの「悪霊追放」の命令は、彼が彼女に向かって命令してはいるけれども、この命令は、パウロ自身の内面をえぐることなしには出て来ないはずだと、わたしは思っています。

 かつては、この女奴隷よりもはるかに罪深い迫害者だった自分が、彼女を救えるなどと思ってもみないパウロだったはずです。その彼が、どうしてこのような激越した命令を語り得たのでしょうか。

 彼は、彼女に向かって語ったけれども。「この罪深い自分には、こう命ずる権利など微塵もない」と感じていたのではないでしょうか。

 ですから、ここで命じているのは、パウロ自身でありながら、実は、彼の主イエスへの信仰ゆえに、「自分には語る資格はない。しかし主イエスご自身ならば、この命令を語るに相違ない。そうであれば、主ご自身が、命じてくださっている」、と確信していたからこそ語り得た、私はここを読むときこのように理解せざるをえないのです。

   こう命じるパウロ自身が、主イエスの「悪霊追放」の命令を受けているように感じていたのではないか。彼は主イエスが命じてくださっていると信じることによって、彼自身もまた、解放されている自己を感じていたのではないか。そう思うのです。


5.占いの霊

  さて、この一人の哀れな女性ですが、彼女の内面世界では何が起きていたのでしょうか。

    すると即座に、霊が彼女から出て行った。

  この記述は、古代人にとっての「客観的な描写」だったのだと思います。これを現代のわたしたちが、どのように理解するのかということが重要になります。

 ポール・トウルニエ博士は、来日時の質問に答えて「悪霊」の存在は否定できないと語りました。精神科医であり牧会者でもあったトウルニエ博士の言葉だけに重みがあります。ただ、存在を否定できないという事が何を意味するかは、依然として重要です。

 「悪霊」の存在を、物証的な意味で科学的に検証することは不可能です。ですから、神学的、思想的に、理解する必要があります。

 わかっていることは、パウロが語った悪霊追放によって、この女性の意識と行動には劇的な変化が見られたということです。これは否定できません。

 この変化は、彼女の内面世界においては、どのような変化があったからなのでしょうか。

 占いが金儲けのためのビジネスだったことは、彼女の主人が彼女の占い行為によって、金を稼いでいたという記述から明らかです。

      ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。

   ですから、彼女はこの職業によってお金を稼いで主人を喜ばせていたことになります。要するにお金になることをしていたのです。それには客を喜ばせる必要がありますから、この女性は、「読心術」のような特技があったと考えられます。わずかな表情の変化も見落とさずに,何を語れば客が信じたり、慰めを得たり、喜んだりするかを、瞬時に読み取る才能があったと思われます。

 そうして、話を即座に作る訳です。自分がつくった「話」を自分でも信じこんでしまう。客観的には、これは人を騙している事だけれども、それで客が満足するのであれば、金儲けは成立することになります。言うなれば、「詐欺」なのですが、訴える人はいません。なぜなら占いによって自己満足しているから訴えたりしないのです。嘘でも信じていっときでも安心できれば、「救われた」ような気分を味わえるから、感謝して客はお金を支払って帰るのです。

 彼女は、毎日毎日、人の心を読み取り、作り話を限りなくつくり、それを自分でも信じ切って、語るのです。

 そんな彼女は「作り話」に明け暮れていた人生に、彼女はいい加減疲れきっていたのではないでしょうか。虚しさを感じていたのではないでしょうか。嘘で固めた人生に彼女は耐えきれなくなっていた、内面的に限界にきていた。そんな彼女は、自分では何も知らないパウロ一行に、何かを感じたのだと思います。パウロの語る自分にとってはいまだ知らない「いと高き神」に、彼女の空虚な魂を癒す何ものかを感じとっていたのではないでしょうか。おそらくこの魂の渇望こそが、パウロ一行への「つきまとい」となって行ったのではないか、わたしにはそう思えるのです。彼女の状況(様態)・目的が、彼女の限界に来ていた虚ろな魂が、いまだ明確には知らない主イエスの救いの言葉を求めて、この「迷惑行為」を引き起こした、と思うのです。

 だからパウロにとっても、彼女は必要な人でした。

外見的には「迷惑」であったように見えますが、彼にとって、彼女は、パウロ自身、他人事ではない。彼女は主イエスと自分との関わりを想起させ、確認させる存在だったと思うのです。彼女の救いは、彼の救いと結びついていたのです。

 彼は彼女に、主イエスの福音を語ることによって、主イエスの命令すなわち全人類に福音を伝えるという命令に従うことができるからです。

 パウロは、主イエスに代わって、彼女にみことばを語ったのです。

     「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

   彼女を支配していた「霊」を、聖書記者は、彼女自身の人格とを区別しています。

 彼女の虚ろな精神世界の状況は、彼女自身の実存的な状況でしたが、その状況は彼女自身が望んで、そうなっているのではないという意味がここにはあります。魂の空虚、魂の危機、限界状況は、本来的な彼女自身の人格ではないのだという理解です。

 この区別によって、彼女の内面世界は、「手術」(オペレーション)を受けた」のです。彼女の危機は、彼女自身から切り分けられたのです。

 そして、主イエスのみことば、主イエスのみことばの力によって、切り取られた「霊」(彼女の魂の空虚、危機)」は、彼女から「追放」されたのです。

 彼女にとって、パウロの命令は、彼女には、「もう嘘をつかなくてもいいんだわ」、「もう作り話をつくらなくてもいいのだわ」という「魂の自由を獲得し得た喜び」をもたらしたことでしょう。彼女は「解放」されたのです。


6.福音宣教が引き起こした「迫害」

    そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。

    ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」

   女性の自由は、人格の自由だけではなく副作用を招きました。金づるを失った奴隷所有者はパウロ一行を高官に訴えて逮捕させます。群衆も一緒になって責め立てました。人格の解放は、社会経済への影響を免れなかったのです。社会全体が、「占いの霊」を守る側の精神世界だったから、この秩序に変化をもたらす福音を拒絶したのです。

 ローマの社会を支えていたこの精神世界を、根底から覆す力を目の当たりに見た群衆は、奴隷所有者の金ずるの喪失に、支援の同調をして、パウロ一行への懲罰を要求しました。

 福音が、人間を自由したことが、ほかの人の財産権の侵害だった。そういう社会だったのです。人間の欲望のシステムと人間解放とが衝突するとき、「迫害」という状況が生まれたということなのでした。

 人を自由にする解放のわざが、そのことによって社会全体の抑圧のシステムを根底から揺さぶった。それが「迫害」という状況だったのです。

 パウロは、人の財産を奪ったのではありません。女性の人格を彼女自身のものへと取り戻したのです。それは、奴隷所有者たちの「財産」としての価値をなくすことだったために、損害を与えたことにされたのです。それはもともと彼らが彼女から奪っていたものを失っただけなのでした。

 奪っていた者から、自由人へと解放しただけでした。

 それが、「迫害」の理由です。


7.牢獄の中のパウロたち

 パウロは、ただ主イエスへの信仰故に、主イエスの命令を、彼の人格を通して実行したまででした。

 それは、そうなさずにはおれない必然の行動でした。

 「悪霊追放」とは人格解放をもたらす福音宣教に他なりませんでした。

 それゆえ、この必然に伴う「迫害」は、神の栄光に他なりません。パウロは、外見的には投獄という苦難の状況のなかで、この苦難こそキリストへの追従として、受けとめたに相違ありません。ゆえにこの苦難を神の祝福として感謝し、次の一歩を歩み出す力に満たされていたことでしょう。

 主イエスの栄光に感謝します。  アーメン

 


2026年6月7日日曜日

 2026年6月7日 (聖霊降臨節第3主日)

使徒言行録4章13節~31節

『迫害の現場こそ宣教の場であった』


聖書の引用

13:人々は、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であることも分かった。

14:しかし、足を癒やされた人がそばに立っているのを見ては、何も言い返せなかった。

15:そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、

16:言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない。

17:しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」

18:そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。

19:しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。

20 :私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

21:そこで、彼らは二人をさらに脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を崇めていたので、人々の手前、どう処罰してよいか分からなかったからである。

22:このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。

23:さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず報告した。

24:これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声を上げて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。

25:あなたの僕であり、私たちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。/『なぜ、諸民族は騒ぎ立ち/諸国の民は空しいことを企てたのか。

26:なぜ、地上の王たちは立ち上がり/君主たちは集まって/主とそのメシアに逆らったのか。』

27:事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、諸民族やイスラエルの民と共に集まって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、

28:御手と御心があらかじめそうなるようにと定めていたことを、すべて行ったのです。

29:主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、堂々と御言葉を語れるようにしてください。

30:どうか、御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病気が癒やされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」

31:祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした。

以下 宣教の原稿

1. 神の共同体は感情の共有ではない

   被害感情から宣教の言葉は生まれません。この記録は、事実をもとにしてでなければ描き得ないものだとしか思えません。人間的な感情による情熱にうなされるような「信仰」感からは、このような記録は残せないはずです。

 もしペトロとヨハネが、ほんの少しでも人間的な感情の片鱗でも示していたならルカはこのような描き方はしなかった筈です。人間的な感情、反応というのは、攻撃されたら、敵意をもって反応する。「迫害」や「中傷」にさらされたら、傷つき被害感情を懐く。それが「普通の人」の反応です。つまりは、感情とか心情とか、人間的心理に還元される反応を人間的と思うからです。

 もしペトロとヨハネが、ごく「普通の人」として人間的な感情という反応を示していたなら、反対されたら、ただ敵を憎悪し、被害感情に浸るだけだとしたら、キリスト者共同体は、もはやキリストの肢体たる共同体ではなく、ただの傷のなめ合いのお友だちの集まりに終わっていたことでしょう。教会はもはや存在していないからです。そこにあるのは被害意識を共有するお仲間の集合体にすぎません。

2. 堂々とした態度

   ペトロとヨハネは、「堂々とした態度」でした。この状況は、反対者たちが、なんとか彼らを処罰して,福音宣教を阻止しようとしている、いわば裁きの場であり、迫害の現場でした。この状況は、社会的な力関係でいえば、弟子たちは、裁かれる立場なのですが、霊的には裁く側のサドカイ人を圧倒してます。この「堂々とした態度」という言葉が、このシーン全体を支配しています。

 ここには被害意識、被害感情、敵愾心の微塵も感じられません。

 信仰は感情とか心情とか、人間的心理の所産ではないことがよくわかります。

 ペトロとヨハネから感じられるのは、不動の意志です。

彼らの人格・個性を超えたところ、魂の内奥に存在するイエス・キリストの意志が伝わってきます。

 彼らは、表面的には「無学な普通の人」でした。それだけに、人々は驚愕したというのです。どれほど彼らの霊的な意味での圧倒的迫力に、「ものすごいもの」があったとことでしょう。人々が感じとったものは、ペトロとヨハネを通して働く神の力だったのです。


3. 足を癒された人がそばに立っていた

  ペトロとヨハネは、主イエスがなさった「しるし」、すなわち奇跡的治癒行為を、実行したのです。弟子たちは、イエスの生前、治癒行為を行おうとして、結果できなかったことがありましたが、ここでは、何の気負いも、不安もなく、実行しています。「できなかったらどうしよう」とか、「イエスさまから権能を授かったんだからできるはずだ」とか、そういう不安、気負いは、ここでの彼らからは感じられません。実に、当然のことを当然のように、淡々と、粛々と実行しているのです。もはや彼らではなく、彼らのなかのキリストが実行しているかのようです。

  この堂々たる態度に圧倒されているばかりではなく、癒された当事者がここに生き証人として立っているのです。この事実は否定しようがありません。

   ルカの記述には、この一人の癒された人の存在だけではなくて、この人以前にも奇跡的治癒行為は多々、既に行われていて癒された人が大勢存在していたと思われるのです。エレサレムの住民全体に知れ渡るほど広範囲に行われていたとあるからです。彼らの癒やしの治癒行為は「目覚ましいしるし」として住民全体に認知されていたのです。

 しかし、知れ渡っているから、「否定しようもない。」とルカは記録しているのですが、わたしはこの記述は少し変だと思います。住民全体に知れ渡っているから、否定できないというのは、少し変でしょう。否定できないのは、生き証人が現にここに立っているからでしょう。現に存在する人を否定できるはずがない。

    16:言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない。」

  文字通り受けとめれば、「エルサレムの住民全体に知れ渡っている」ということは、つまり「人の口には戸を立てられない」というような事態は、もう防ぎようがないというような意味ではないでしょうか。もういくら否定するネガテイブキャンペーンをはっても、とめようがないという意味でしょう。そうであれば、この言葉の意味は、反対する人々は、民衆の評判が急速に広まっていることに危機感を感じながらも、止めようもないと、諦めの心情を吐露しているということになります。学者先生はルカの誇張だと言いますが、それは主観にすぎず根拠はありません。反対する人々の困惑こそが、ルカの誇張だという主張を否定しています。


4.無駄な抵抗、脅しと命令

    17:しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」

  反対する人々には、もう為す術は残っていませんでした。彼らは、これ以上民衆の間に広まることを危惧しながらも、困惑しているのです。 無駄な抵抗をする他はありませんでした。

  「今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」と、脅しと命令を虚しくする他はありませんでした。

 しかも、彼らとても、内心では、ペトロとヨハネが実行する「しるし」は、二人の内奥にキリストの存在があるのだということを知っていた事が、彼らの脅しと命令によって、その事実が判明します。彼らは、キリスト・イエスの「御名」には、「力」があることを知っていたのです。だからこそ、「御名」を禁じたのです。


5.イエスの御名には「ちから」がある          

    18:そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。

   反対する人々は、「イエスの御名」に「力」があることを、信仰者ではないにも関わらず、知っていたのです。だからこそ禁じたのでした。かれらは、社会的な「力」では優位にありがら、霊的な圧力においては、彼らのほうが恐れていたのだと、わたしは思います。


6.神と人との、どちらに従うことが正しいか

  ペトロとヨハネには、反対する人々の「脅し」や「命令」は何の「力」もありませんでした。二人にとっては、「脅し」も「命令」も何ほどの権威もなかったのです。

 二人にとって、人の「脅し」「命令」に従うことと、神に従うことのあいだは、「どちらか」は、比較を絶していました。比べものにならないのです。

 この判断は、反対する人々においても、正しい判断ではないのかと、逆に問いかけています。ただ、反対する人々にとっては、二人にとっての「神」は「神」とは見なされてはいません。二人には「神」は当然「イエス・キリスト」ですが、反対する人々にとっては、「イエス」は「神」ではなかった。それを百も承知で、二人は、自分たちにとっての「神」、イエス・キリストに従うことこそ「神」に従うことなのだと、抗弁しているのです。

 「神」は、両者にとっては、「共通」存在ではなかった。それが、両者のはざまにあった現実でした。

 それでも二人は、「見た事や聴いた事を話さないではいられない」と抗弁したのです。


7.見たこと、聴いたこと、神の現実存在

   ペトロとヨハネは、反対する人にとっても、「イエス・キリスト」は「神」なのだと抗弁しました。これは、明らかに福音宣教です。そうです。二人は、迫害者・反対者・敵対者に福音を宣教しているのです。

 二人が「見た事や聴いた事」とは、主イエス・キリストでの出会いにおいて,彼らが経験した神の現実でした。神の現実が二人を変えました。二人は変えられた者として。「いま・ここで」生きています。イエス・キリストが、魂の内奥に内住してくださっている存在として生きているのです。

 二人は、こう語っているのです。

「あなたがたは、あなたがた自身、今はまだ、あなたがた自身をささえ、生かし、導き、共に生きておられるまことの神すなわちイエス・キリストの現実存在を知らないが、あなたがたは、このイエス・キリストによって、既に神と共にある者なのです」と。


2026年5月31日日曜日

 2026年5月31日(聖霊降臨節第2主日)三位一体主日

ローマの信徒への手紙8章12節~17節


「『あなたは神の子』ということば」


              『神の子とする霊』

 ローマの信徒への手紙8章 12節~17節

12:それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

13:肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

14:神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

15:あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

16:この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

17:もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。


1.「あなたは神の子である」という言説

 「あなたは神の子なのだ」と、断定的に言われたとしましょう。あなたはいったいどんな気持ちになりますか?」

  ある人は、「自分のような者が『神の子』だなんて面はゆい。」と思います。

 またある人は、「そうはっきり言ってくれるとなんだか嬉しくなる。」と感じるかもしれません。」

 つまり、「神の子である」という言い方は、聞く人によっても、また聴く人の精神的態度によっても、さまざまな捉え方ができてしまうし、その影響は良い場合もあれば悪しき場合も有り得るということでしょう。

 これらは、「神の子」という言説を〈言われた側〉の問題です。これらに対して、また、〈自己意識〉として「神の子」という言説も問題となります。


2.〈自己意識〉としての「神の子という言説」

 順番は逆になりますが、まず〈自己意識〉としての「神の子という言説」について考えてみます。

 たとえば、悪しき実例をあげれば、旧統一協会の教祖の場合などは、その典型です。

 この人は、「自分は神の子だ」と、信者たちに信じこませていますが、それは統一協会の「教義」で、〈そういうことになっている〉と信じこませることに成功しているからです。教祖をよく知っていて、その感化を受けて、「この人こそ神の子だ」と信じこんだ訳では決してない。教祖の人物については実は何も知らないのに、「教義」を受けれたばかりに、信じるようになってしまったのです。自分を「神の子」だという自己意識、それがたとえ嘘だと自覚しているにせよ、あるいは自分自身もその妄想に生きているにせよ、この自己意識をもっているとしたら、どんな人間として振る舞うようになるのか。それは教祖の実人生を精緻に分析すれば、ある程度は明らかにできます。

 またこの教祖のこどもたちを見てもわかります。現実が赤裸々に示しています。自殺、家庭内暴力、不倫、賭博癖、常習的虚言(作話)、平均的な市井の人には見られないような実態が既に多くの文献で報告されています。

 「われは神の子なり」という言説が自己意識になってしまったとき、人間は、常識を超えた道徳的逸脱をするようになるという典型が、教祖一族(全員とは言いません)の中には特徴的に現れているのです。これは悪しき実例です。際限のない尊大さ、倨傲性に満ち満ちた人間を創り上げてしまいます。

 それでは逆に、自己意識としての「神の子という言説」が、良い結果を生むこともある例をあるのかどうか、考えてみましょう。良き実例を挙げますと、たとえば、きわめて厳しい逆境におかれた人が、周囲から、社会から攻撃を受けて、とことん自尊心を痛めつけるような非難・中傷を受け続けていたとしましょう。キリスト者が該当します。初代教会の信仰者たちの事を思い浮かべることができます。

 イエスをキリストとして信じるという、そのことだけで、殺される時代状況の嵐のなかで生きてゆかねばならなかった一人一人は、どのような「自己意識」を持っていたのでしょうか。

 それは本日、パウロがローマの教会の信徒にむかって語りかけた事がそれです。

    14節 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

    16節 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

  迫害は、ひとりひとりの自尊心を徹底的に痛めつけることが目的でした。その状況下で、「ああ、神の霊、聖霊さまが私を導いていてくださる。聖霊さまが、わたしたちの霊と一緒になって、わたしが神の子であることを、神さまの前に証ししていてくださるのか」と信じることは、「自分のような者はなにほどでもない」卑賤な者だという自己存在への卑下を、吹き飛ばしたことでしょう。

 文字通り、「もはやわたしが生きているのではない。わたしの内のキリストが生きているのだ」という自己意識へ変貌させたのです。そこには、自己卑下ではなく、キリスト内住の確信が充満していたことでしょう。

 これは、良い実例です。

 この自己意識は、自己と他者を比較して、他者に対する存在の優位を誇るものでは有り得ません。他者に対して憐憫でもありません。ただ天地の創り主なる神に対して、「わたしはキリスト・イエスによってあなたの子である事を聖霊さまが証ししてくださいました」と言いうる霊を与えられているということです。

 それゆえ、「わたしは、キリスト・イエスが人類に対して愛したヨウニ隣人を愛する自己とされた」という「自己意識」となったのです。自己意識としての「神の子という言説」は、隣人への優位性の誇りでも、憐憫でもなく、隣人へ愛の主体者となる自覚となったのです。

 だからこそ、良い実例なのです。


3.他者に向けての言説としての「神の子」   「神の子」という言説を〈言われた側〉の問題を考えてみましょう。またこれは〈言った側〉の問題でもあります。誰かが誰かに、「あなたは神の子です」と〈言われた場合〉と、〈言った場合〉です。

  まず、〈言われた場合〉について考えます。

 この場合にも、悪しき実例と良い実例があることでしょう。

 これも、統一協会の教祖一族、全員とは言いませんが、教祖の子に生まれてしまったがために、幼少時から「あなたは原罪のない神の血統を受け継いだ者だ。すなわち神の子なのだ」と言われ続けた子どもたちです。その結果、どのような人格に育ってしまったか、現実が証明しています。

 教祖の子どもたちだけではありません。所謂「宗教二世」の問題でもあります。この子どもたちは生まれて以来、継続的に「あなたか神の子」だと親や周囲から言い続けられます。信者以外の人間は、「非原理世界すなわちサタン世界の人間、サタンの子」だと教えられ、自分は「神の子」だと言われ続けるのです。生まれながらにして、隣人を差別するという観念をたたき込まれて育つのです。当然、信者以外の人間を、「サタンの子」だとみなすように育つことになります。

 これは、悪しき実例でしょう。

 さらには、「あなたは神の子」と言われ続けるなかで、当然、自分自身の罪を罪としてみつめる洞察力が育ってくると、現実の自己と、「言われる自己」の間にある圧倒的な齟齬に精神の混迷に陥ってしまうこともあるでしょう。統一協会二世に自殺者が多いことの原因は、教義による自己像(「あなたは神の子」)と現実との自己像とのギャップにあると言っても言いすぎでないでしょう。

 「あなたは神の子」だと〈言われる側〉としての葛藤は、本人が真面目であればなおさら深刻化せざるをえません。きわめて深刻なストレスのなかで日常的に生きなければならない苦しみを抱えるか、葛藤することを拒否して、自己欺瞞的自己を受け入れるか、つまりいい加減な生き方を選ぶかを、意識的にせよ無意識的に選択するしかなくなってしまうでしょう。

 この葛藤は、真面目であればあるほど、深刻化しますから、どんどん追い込まれてゆきます。この葛藤そのものを、あたかもないかのごとく、テキトウにイイカゲンに生きることを決断してしまうと、教義が語る「神の子」像は限りなく、絵空事、建て前になって、齟齬そのものが消えてゆきます。これは典型的な偽善です。

   これは、やはり悪しき実例でしょう。

  それでは、「あなたは神の子」だと〈言われる側〉の良き実例を考えます。

   わたしの友人に、自分は同性愛者だと、いわゆるカミングアウトした人がいます。キリスト教会は長い間、同性愛は罪だとしてきた歴史があります。『幸せの王子』という実に美しい物語を書いたオスカー・ワイルドは同性愛者として、刑罰を受けた人でした。彼の時代の英国では、「罪」だったのです。これはキリスト教が聖書の読みにおいて犯した過ちの歴史に刻まれています。友人も、聖書の記述を、批判的に解釈することなく文字通りに受けとめて苦みました。多くの同性愛キリスト者が苦しんできた歴史がありますが、彼も苦しみ抜いたのでした。そんな彼を救ったのは、やはり信仰でした。

 すべての人は、神によって創造された「神の似姿」だと聖書は語ります。そしてその「神の似姿」は、人間堕落によって完全に破壊されてしまったがゆえに、すべての人は、ひとりの例外もなく「神の似姿」を喪失している。しかし、まことの神にしてまことの神、ただお一人の主イエス・キリストこそが「神の似姿」として降臨されたので、人は主イエスにつながることによって、「神の子」とされているのである、と信ずる信仰によって、「あなたは神の子なのです」と、聖書から「言われた」のです。

 これは、「あなたは神の子」だと〈言われる側〉を、救う神の言葉でした。

 これは、良き実例というべきでしょう。

※オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(英: Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde、1854年10月16日 - 1900年11月30日)は、アイルランド出身の詩人、作家、劇作家。耽美的・退廃的・懐疑的だった時代の旗手のように語られ、多彩な文筆活動を行った。しかし、男色行為(当時のイギリスでは刑事罰を科される犯罪行為)の発覚により実刑判決を受けて服役し、出獄後に失意から回復しないままに没した。


4.「あなたは神の子です」と〈言った場合〉

   まず悪しき実例を挙げましょう。

 2023年にNHKで放映された『プレミアムドラマ仮想儀礼』とか、タケシが主演した『教祖誕生』も、どちらもインチキ宗教を起ち上げるもので、いわば詐欺師が主人公になる作品です。嘘ではじめた宗教ビジネスが意外に信者を集めてしまう物語です。面白かったのは、でっち上げの「教祖」が、だんだん自分でもなかば本気になってしまうところです。

 ホームレスのオジサンに「お前、これから教祖になれ」と詐欺師が命じる訳です。するとオジサンはだんだんその気になってしまう。これなどは、「あなたは神の子」ですという言葉かけは、はじめから嘘なんですけれど、そういう嘘でも第三者に影響を及ぼしてしまうという可笑しくも悲しい話です。金儲けのために嘘で人を騙すことばとして、「あなたは神の子です」と言ってみても、人は騙され信じてしまうという事があるというのです。

   詐欺師の言説です。

 これは悪しき実例の見本でしょう。はじめから嘘なんですから。嘘でも、信じる人がそれで救われるならいいじゃないかという人も出てくるでしょう。これはモラルの崩壊です。

 では、良き実例を考えてみます。

 究極の実例は、イエス受胎の告知でしょう。

 天使ガブリエルは、母マリアに言ったことば。「あなたは神の子を身ごもるでしょう。」神が神の御使いによって神の言葉を語ったのです。真実そのものです。

 神は主イエスにも、語りました。

「これはわたしの愛する子、わたしのこころに適うものである。これに聴け」と、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、天から神の言葉が語られました。まさに「あなたは神の子です。」という言説の究極的起源です。

  この実例は究極的起源の実例ですが、これは真実に神の子であられる主イエスに対して父なる神が〈言った場合〉です。これは究極の起源につながる人間の世界にも通じていると思われます。その〈言った場合〉を挙げてみましょう。人間的に、人間としてしか見ないのであれば、母マリアのイエス出産の客観的事実は、夫ヨセフの子ではな父親不在のこどもの誕生にしか見えません。この事実は、ユダヤ教社会の通例では、恐るべき事態だったと考えられます。現在でも、「名誉殺人」という因習が、法の支配にもかかわらず存在しています。

   ヨセフが密かに離縁しようとしたのは、彼の妻への配慮があったからでしたが、神がヨセフに真実(聖霊によって懐胎したこと)を伝えました。しかし、世間に理解されるものではなかったことでしょう。

    ※名誉殺人とは、女性の不道徳な行為がその家族や帰属集団(家族、親族、村落、カースト、宗教集団など)にもたらす不名誉を取り除き、名誉回復の手段として行われる暴力(殺傷事件)である。不道徳な行為とは婚前の性関係、親が認めない婚姻関係(ただし、認めない理由はさまざまである)、そして妻の不貞などである。名誉殺人はその言葉から殺人を指すが、殺人未遂や拉致など、殺人以外の暴力も含めることができる。名誉殺人は、両親の権威によって象徴される伝統的な共同体、すなわち「名誉の共同体」の秩序を揺るがす若者にたいする処罰である。

  現在でも行われる家族・親族による殺害。まして、2千年前には、イエスの生命自体が危機的だったと考えても不思議ではありません。この事実は、現代でも不遇な境遇によって、女性やその子どもが置かれる生命の危機的状況に、通じるものです。

 イエスの生命の危機に、母マリアは幼少期のイエスにどのような言葉をかけて育てたことでしょうか。

 「あなたは神の子なのです。」と語りかけたかもしれません。

 同様に、イエスが置かれた危機的状況とよく似た境遇に置かれた母子の事を思うのです。

  哀れな母親がこの世に産まざるをえずして産まれたこどもを愛するとき、この母親は、一体どういう言葉をこどもに語りかけたらよいだろうか。

 わたしは、こういう場合こそ、「あなたは神の子です」「だれがなんと言ったって、あなたはあのイエスさまと同じように誰が父親かわからなくても、あなたは神さまがわたしに与えてくださった神さまの贈りものなんだよ。だからあなたは神の子なのよ」と言いきったとしたら、それは母マリアのような立派な母親だと言えるのではないでしょうか。全世界には、イエスと同じように,客観的事情において、生命の危機に瀕した子どもたちが大勢います。この子どもたちは、貧しさのゆえに、戦争のゆえに、災害ゆえに、生命の危機に瀕しています。母親ならずとも、人類は、共に聖家族の一員として、この子たちに具体的に、現実的に、「あなたは神の子です」と断言し、家族としての責任の一端を、ほんのわずかであっても担うことができたらと思うのです。これができたとしたら、明らかに良き実例なのではないでしょうか。



2026年5月24日日曜日

 2026年5月24日 (聖霊降臨日)

『集まれなかった人々』

使徒言行録2章1節~11節


                『聖霊の賜物』(聖書日課に基づくタイトル)

2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

2:5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

2:6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

2:7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

2:8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

2:9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

2:10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

2:11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


1.集まらなかった人々、集まれなかった人々

    2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

 「一同が一人になって集まっていると」とある。この一同のなかにいる人々は、集まっていたのだが、神の恵みの導きによって、集められていた人々とみるべきでしょう。この人々は「抜擢」された人々なのです。

 ということの裏側には、集められなかった人々がいたと考えられるでしょう。この人々は、神の恵みにあずかれなかったのでしょうか。

 わたしには、「集まらなかった人々、集まれなかった人々」が気になります。この人々は「聖霊降臨」の出来事が起きたときに、その場に居合わせることができなかったからです。「集まる」という事が起きている以上は、どうしてもそこに「選び」が同時に起きていることになります。だから、「集まらなかった人々、集まれなかった人々」は、「選び」に漏れた人々ということになってしまいます。

 そして、この「集まる」という事柄が、神の「選び」の出来事であると理解するならば、「集まる」事が、いかに重要な事柄であったかを、示していることになります。


2.「集まる」ことは、神の選びのみわざだということ

 わたしたちが毎週、礼拝のために礼拝堂に「集まる」事の重要さを、改めて覚えます。

 わたしの霊的な恩師小野一郎牧師は「礼拝にははってでも来なさい」と教えてくださいました。わたしは、この言葉を忘れることができません。

 たしかに、わたしたちの全生涯、全生活、全時間は礼拝です。仕事に従事しているときも礼拝なのです。食事をしているときも礼拝です。眠っているときでさえ礼拝なのです。キリスト者のときのすべては神への礼拝の時だという理解は、正しい。礼拝の時と、礼拝でない時とは、原則的に区別はありません。すべては神への礼拝だという理解は間違いないのです。ですがしかし、とりわけ、主の復活の日、主日に守られる「礼拝」こそは、原則としてのわたしたちの全時間としての礼拝とは、区別されます。

 ほかの時間とは区別されるのです。それは神が全被造物を創造され、最後に休まれ、「安息日」と定められ、他の時間と区別されたからです。「安息日を覚え、これを聖とせよ」と神は、命じられました。この戒めは、「区別せよ」という事と同義です。

 わたしたちは、この戒めに従い、主日を守ることに、文字通り「命」をかけることを、「要求」されているのです。

 だから、わたしたちは「集まる」のです。ひとりで、洞穴のなかにひきこもるのではないのです。「集まる」ことが、こよなく重要なのです。

 この神の安息日遵守の命令に、聴き従おうという意志が、こころのうちに起こっているからこそ、人は礼拝に集まるのです。この神の誡命に聴き従おうという意志が起こされているという現実は、神のめぐみの選びが、わたしたちの魂にすでに働いている証しなのです。

 ですから、ペンテコステ・聖霊降臨の出来事が起こった、あの日あの時あの場所に、集まっていた「一同」は、決定的な聖霊降臨の出来事以前に、恵みの神の導きが、促しが、この人々には明確に存在した事は間違いないのです。彼らは間違いなく「選ばれ」ていたのです。


3. 集まらなかった人々

  ここに集められた人々が神の恵みの選びに導かれていたことの裏には、ここに「集まらなかった人々」、そして集まれなかった人々」がいた事を、どのように理解したらよいのでしょうか。再び、ここに戻ってきます。「集まらなかった人々」は、自分の意志で集まらなかった人々です。この人々のことを考えてみます。

 エルサレム入城まで主イエスにつき従ってきていた群衆は、当初はイエスに追従する人々でしたが、主イエスがユダヤ当局から死罪を要求されるという風向きの変化のなかで、イエスへの期待は急激に失望へと変わり、イエス殺害の同調者たちの陰に隠れるように身を潜めます。そしてイエスの支持者であることを隠し、むしろイエス殺害を叫ぶ民衆にのなかに紛れるかのように翻身する者までいたことでしょう。

 主イエスが復活したという証言は、エルサレム中に広まったことでしょうし、弟子たちが復活のイエスに出会ったことも知れ渡ったことでしょう。それでも、弟子たちのところに、参集して、こころを一つにして祈ることを、拒んだ人たちがいたことも想像に難くはありません。

 自分の意志で集まらなかった人々とは、「集まる」ことを「拒否」した人々です。一度は、彼らも彼らなりにですが、イエスについてきた人々です。弟子たちとも面識もあり、同じ仲間のようにふるまってきた時間もあったはずです。その彼らはなぜ、弟子たちの祈りの場に集まらなかったのか。彼らには、恵みの選びはなかったのでしょうか。

 わたしは、彼らにも神の選びはあったと思っています。神の選びは、人の目には理解できないことがあるとわたしは思っています。

 たしかに彼らは、意図して集まらなかった。なぜなのでしょうか。わたしは思うのです。

 彼らが見てしまった「景色」を、こころのなかで解決できていなかったのではないでしょうか。

 彼らは見てしまったのです。弟子たちが姿をくらます様子や、イエスを「知らない」と言って無関係を装い、イエスを公然と裏切って、行方をくらましてしまった事実を見てしまったのです。 彼らにも当然、逃げる動機は同じようにあったし、弟子たちの心理を理解しないわけではなかったでしょう。しかし、自分の事は棚に上げてせめて弟子たちには、もっと「立派」に振る舞うだけの責任を示してほしかったと思った。自分のことは棚に上げてです。「赦せない」彼らはそう感じたのではないでしょうか。

 こんな思いでいっぱいだった彼らには,弟子たちの祈りの場に、こころを一つにして集まることは不可能だったのでしょう。自分自身を振り返って内省するこころをもたずに、他者に自分が勝手に創り上げた理想像を投影して、他者がその理想像に重ならない時に、他者を一方的に裁いてしまうのです。このような心理状態だったのではないでしょうか。彼らは神ではなく自分を「裁き主」にしているのです。このままでは、彼らは神の恵みの選びのなかにあったとしても、彼らには神への思いよりも自分の思いしか見えてはこないでしょう。

 「自分の意志で集まらなかった人々」とは、結局、自分の思いへのこだわりを神への思いよりも優先したがゆえに、集まらなかったのです。


4.集まれなかった人々

 「集まれなかった人々」とは、意図せずに、集まりたくても集まれない何らかの事情に阻まれて集まれなかった人々です。この場合、この人々は集まりたかったという動機においては、集まった人々と同じだったという前提があります。つまり、この人々は、集まることを「拒否」していたのではなかったけれども、事情によって集まれなかったのです。

 この人々も、恵みの神の選びに導かれていたことを、わたしは疑いません。彼らも導かれてはいたのです。

 けれども、結果として集まれなかった。

 問題は、集まることを阻んだ何らかの事情です。この事情によっては、この人々自身にも責任があるとは思うのです。

 まったくこの人々自身には問題がない場合もあるでしょう。この人々の力の及ばない客観的な事情がある場合です。その場合は、かの人々には責任がありません。

 しかし、この人々自身の内面の問題が、阻んでいる事情となってしまう場合は、その人自身に責任があることは明らかです。たとえば、その人自身が、解決しなければ他の誰にも解決することはできない個人的な課題を抱えている場合です。

 弟子たち「一同が一つになって集まっていると」とあるように、弟子たちは、こころを一つにして集まり、祈っていたのです。ところが、かの人々は、ここに集まっている人々と、こころを一つになることができないのです。

 その場にいるある人のことを「どうしても好きになれない」とか、「一緒にいたくない」とか、そういう「好き嫌い」の類というべき個人的な心理的課題を抱えている場合です。

 この人々も、神の恵みの選びのうちに導かれていることは疑いえませんが、この人々は、神の恵みを受けながらも、自分自身にしか解決できない個人的な課題を直視することを避けているために、自ら「集まり」のなかに、入って行くことができないのです。

 この人々は口癖のように二言目には、「わたしは集まりたくても集まれないのです」と言い訳をするのが常です。自分が集まりのなかに入れないのは、集まりのなかに自分の気に入らない人物が混じっていることが嫌だというのです。これでは誰の目にもこの人々が集まれないのは、この人々自身の問題なのは明らかなのに、集まれない理由を「集まり」のせいにしているのです。

 彼らも、やはり、神の恵みの選びの導きのなかにいるはずなのですが、彼らは、神の選びに応えることをしません。そして他者に責任があると本気で考えてしまうのです。神の選びの前に、自分がいかにあるべきかを見ようとせずに、「集まり」そのものに問題があるとしか考えないのです。

 結局、「集まり」に「集まろう」とはしていないだけなのに、「集まりたくても集まれない」と主張するのです。


5.聖霊の賜物は、客観的な現実

    2:7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

    2:8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

 聖霊降臨の出来事は、「一同が一つになって集まっていると」、生起しました。わたしたちは既に、「一同が一つになって集まっている」事実に、神の恵みの選びの働きが確認できることを見てきました。少なくともここに集まっている人々は、「一つになっている」と記録されているように、すでに個人的なわだかまりとか、葛藤とかの問題は消滅していると見て取れます。ここに集まっている人々は、神の恵みの選びに応答して、ここにいることが許されているのです。

 なんのわだかまりもありません。彼らのこころは既に一つです。そしてそこに聖霊降臨の出来事が起きました。

 その結果は、ここに記録されているように、言葉の出来事でした。奇跡です。人々は、「学習」という経験を経ることなく、自分が知らずにいた言葉を自由に語るようになったのです。

 これは客観的事実でした。主観的な「思い込み」ではありません。思い込みでは自由に言葉を操ることなどできはしません。奇跡なのです。この奇跡は瞬時に起きています。言葉の出来事が、客観的事実であったことは疑いえません。

 ただ奇跡は、聖霊降臨より以前から起きていたとみるべきでしょう。

 それは、「一同が一つになって集まって」いること自体に、わたしは大いなる奇跡を見るからです。


6.遅れてきた「人々」

  わたしは、神の恵みの選びはあったと思うと語りました。神の選びは、人の目には理解しがたいとも申し上げてきました。

  聖霊降臨の日に、そこに、その場に居合わせることができなかった人々、集まりに参集しなかった人々のことを考えてきました。彼らは、結局、決定的な客観的事実としての聖霊降臨を受けなかったのですが、わたしは彼らも神の選びへの導きの中にはあったと信ずると述べてきました。

 彼らは、決定的な歴史の転換点に、ごく間近まで来ていたにもかかわらず、その時、その場に居合わせることなく、歴史の陰におきざりにされて見過ごされてきた人々です。

 彼らのことについて、必ずやいたであろう彼らの事について、聖書は何も語ってくれません。

 まさに行間を読まざるを得ません。しかし、恵みの神はほむべきかな。神は、この「集まり」に、間に合わなかったかの人々をも愛したもうお方です。神の恵みの選びは、かの人々をも救わんとしている事を、わたしは信じます。

 彼らは、「遅れてきた人々」なのです。彼らは、悔い改めるべき課題を抱えた人々ですが、その課題を解決するための、いっときの猶予が必要だったのです。

 この猶予の期間、彼らは遅れることになります。

 しかし、この猶予は、彼らには必要な期間なのです。この猶予期間に、彼らは、彼らにしかできない彼ら自身の課題を解決しなければなりません。

 神は、待っているのです。

 愛の神は忍耐の神であられます。

 こうして読んでゆくとき、神に待っていただいているのは、他ならぬ「わたし」ではないのか。そう思えてきます。待っていてくださる神に、これ以上待たせることなく、「一同こころ一つにする集まり」すなわち「キリスト者共同体(教会)」に、遅ればせながら参集したいと、こころから願わないではいられません。

2026年5月17日日曜日

 2026年5月17日 (復活節第7主日)

アジア・エキュメニカル週間(23日まで)

ヨハネによる福音書17章1節~13節

『キリストの昇天』(これは聖書日課に基づくタイトルです。)



『神の喜びの充満せる人生』

1.喜びが

    先週のみことばの学びで、信仰とは、とどのつまりは、「喜び」に他ならないと結びました。

 信仰生活は、主イエスの「喜び」が、わたしたちの「内」に満ちあふれる生活なのです。いわば「主イエスの喜びの充満」です。(13節)

 主イエスの喜び・・・。それでは具体的に、「主イエスの喜びの充満」という事柄は、いったいどのような事柄なのでしょうか。復活の主イエスに出会ったとき、弟子たちは喜びに充たされました。瞬時にです。悲しみから喜びへと、瞬時に彼らは変えられました。ですから、弟子たちは、主イエスの喜びを体感したのではないかと考えられます。復活のイエスとの接触によって、彼らは喜びの人生を歩み始めたからこそ、彼らは、苦難や迫害をただ恐れるのではなく、喜んで受け入れる人生へと変えられたのです。

 この彼らの人生の変容を想う時に、確実に彼らが復活のイエスの命を受けていたと思わざるを得ないのです。

弟子たちの一人や二人に起こった事ではないのです。全員にこの変容は起きたのです。だからこそ、迫り来る迫害の状況にもかかわらず、彼らは殉教への道へと歩んだのです。

 「主イエスの喜びの充満」という事柄は、いったいどのような事柄なのでしょうか。苦難や迫害をも恐れずに、彼らが、喜びに充たされて生き抜き、かつ殉教した事実から、「喜びの充満」がいかなる事柄であったのかを知る事ができます。

 

2.永遠の命

  それは、彼らが「永遠の命」を、確実な事として、自明な事として、揺るぎなき確信のうちに生きるようにされたということなのではないでしょうか。

  復活の主イエスに出会ったとき、彼らは彼ら自身が「死の死」を経験したのだと思います。「死」とは「神喪失性」のことです。神さまを喪った事を「死」というのです。神さまと無関係になってしまった事を「死」ということなのです。この「死」を、人は人の力で変えることは絶対できません。この「死」の前ではすべての人は無力です。すべての人は無力ゆえにまったく平等です。無力さの平等です。誰も自らを誇ることはできません。たとえ自力を吠えたとしても、所詮は無力な遠吠えなのです。この絶対的な無力が、復活の主イエスとの接触の瞬間に、神さまの方から、圧倒的な力によって、もはや「信じないことができない」存在として、神ご自身の迫りによって、「神喪失性」が「死んだ」のです。「神喪失性」という「死」が「死んだ」のです。


3.悪魔は天使を偽装する

 この出来事は、抗うことのできない神の迫りの出来事でした。とにかく「信じないことが不可能」な事態なのです。復活の主イエスとの接触は、神ご自身との接触だからです。この接触は、「一つとなる」というみことばで、主イエスは語られました。(11節)

 神ご自身が、復活の主イエスを仲保者として、弟子たちと「ひとつ」となったのです。これはいわゆる「神人合一」ではないこと留意すべきです。

 「神人合一」の思想は「人が神のようになる」という最悪の「罪」の言い換えとなってしまう「神秘主義」の陥穽(おとしあな)に堕する危険性をはらんでいるからです。

 最善の救いが最悪の罪と、同じ言葉で表現されるから、留意しなければならないのです。

   まさに、「悪魔は天使を偽装する」のです。(2コリント11:13-14)


4.神の喜びの充満

    「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)

  主イエスは、父なる神にこのように祈りました。「わたしたちのように、かれらも一つになるためです。」と。

 ここにも「ように」という言葉が出てきました。父なる神と子なる神=イエスが一つなる存在である「ように」、主イエスと弟子たちも一つなる存在になるために、という意味ですので、「父なる神と子なる神との関係と、子なる神と人との関係が対応」の関係になっているのです。つまり、神と人とはイエスを仲保者として、「類比」が存在するという意味です。

 ですから、「主イエスの喜びの充満」を、弟子たちに主イエスが「目的」として語っておられるのは、父なる神の喜びの充満を、弟子たちに願っているということをも意味するでしょう。

 神は、人類を神の喜びで充たしたいと望んでおられるというのです。

 このイエスの祈りは、「神の喜びの神学」と言っても過言ではありません。(J・モルトマン)


5.神の所有

 神と一つになる。主イエスと一つになる。この事を、主イエスは、「所有」という言葉でも語っておられます。わたしたち人間は、神のものだと言うのです。

    9節:彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。

    10節:わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。

   信仰は「神の喜びの充満」だと申し上げました。そして、ここでは、信仰は、人が自己自身を「神の所有」であり、「主イエスの所有」であるというアイデンティティー(自己同一性)のことだということでしょう。

 「わたしは、主イエスのものだ。したがって、わたしは神のものだ。」という自己認識に生きるということです。

 このように考えると、「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」と命じられた主イエスのみことばは明確になります。自分自身を愛するというのは、利己的な自己愛をまったく意味しないからです。自己は「神のもの」「イエスのもの」なのですから、自分自身を愛することは、神のものを愛することに他ならない訳ですから、愛さないほうがおかしい。愛さねばならない自己自身なのです。自己自身を愛する事は、神を愛し、主イエスを愛することなのです。


6.昇天後の世界

 主イエスのこの祈りは、イエスさまが天に昇られて以降の世界にむけて、主イエスが父なる神に、弟子たちを守ってくださいと願っている祈りです。

    11節:わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

  「神の名」(御名)がここで語られています。父なる神が子なる神・イエスに与えた「御名」です。

 これは、「キリスト」とか「メシア」とかの「名詞」を指しているのではないと、私には思われます。

 イエスご自身は,ご自身を「人の子」と言われました。群衆は「ラビ(先生)」と呼んだり、「主」と呼んだりもしました。しかし、このどれも、この「御名」に該当するとは思えないのです。

 神がイエスを呼んでいるのは、「これはわたしの愛する子」ですが、この事でしょうか。「これに聴け」と神は啓示されているので、これがいちばん近いかもしれません。

 ただ、「御名」には、弟子たちを守ることができる力があるとに主イエスは明確に語っているのです。

 イエスの「御名」には力があるのです。

 この「御名」の力が、神とイエス、イエスと人を一つにすると明らかに語っておられるのです。一つにするのですから、「神の喜びの充満」を人にもたらすのです。

 

7.「神の御名」

  「神とイエス、イエスと人を一つにする」力が「御名」にはあると、主イエスは明言されています。

 人間の神への合一ではなく、神さまが主イエスを仲保者として人間を「一つ」にしてくださるのです。圧倒的な、一方的な、絶対他者なる神の恵みの恩寵としての「神との合一」です。

 この「合一」こそが「神の喜び」であり、「栄光」だと言われたのです。「栄光」とは、「喜び」のことだったのです。「神の喜びの神学」は「神の栄光の神学」だったのです。

 復活の主イエスの昇天以降の世界において、世界は、人類は、主イエスは神のみもとへと帰られたからには、可視的な手段・方法によって、復活の主イエスと接触することはかなわぬものとなりました。

    12節:わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。

    13節:しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

 だからこそ、主イエスは、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と、「御名」の力を神に願っておられるのです。


8.聖霊降臨

 可視的な存在としては、復活の主イエスは、弟子たちの前から去りました。しかし、主イエスは、これまで「別の方」「弁護者」「助け主」が来られると、幾度も語ってこられました。そしてここでは、いやここでもですが、「御名」を父なる神に願っているのです。復活の主イエスの昇天以後、「神の喜びの充満」のために、「御名」によって「守ってください」と願っているのです。

 聖霊さまこそが「神の御名」なのではないかと考えざるをえないのです。アーメン