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2025年5月4日日曜日

 2025年5月4日(復活節第3主日)

マタイによる福音書12章38節~42節

「まさるもの」





すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。39イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。41ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。42また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 「しるし」を求める心理は、換言すれば「証明を要求する心理」です。

 証明を要求する事は、信ずるに値するかどうかについての「不安」が心理の根底に存在しているので、その「不安」を鎮めるために、何らかの補償を必要とするのです。信ずるためには、信ずる事柄について確実な「あかし」を必要とするのです。信ずるということは、信ずる事柄、信ずる対象が揺るぎなき存在であり続けるという不動性、永遠性が担保されると信じることができて初めて「信ずるに値する」という判断をするのです。そのような心理は、人間心理として当然と言えば当然なのです。

 しかし、その当然の人間心理に従って、判断するのであれば、信ずるに値するかどうかを担保するための「あかし」・「証明」・「しるし」を要求することになります。

 「なになにだから信じる」、「なになになので信ずる」、とかいうような、そこには信ずるに値するかどうかの担保となるなんらかの「原因」とか「理由」とか「根拠」とかが必然的に必要となるのです。そのような「信ずること」というのは、その「担保物件」(原因・理由・根拠)なしには、信じないという意味をも必然的にもつのです。

 「しるし」を要求する人々、この箇所では、「何人かの律法学者とファリサイ派の人々」ですが、この人々が「しるし」を主イエスに要求するとき、その事は、「しるし」がなければ信じないという意味を込めていることは明らかでした。

 さらに言えば、彼らが「しるし」を要求するのは、信じるに値する「あかし」を要求しているのではなく、むしろ、信ずるに値するための「あかし」「しるし」を、主イエスが少しも示そうとしていないことに対して、言質をとろうとしていると言ってよいでしょう。ここでは、彼らははじめから本気で「しるし」を認めてはいないのです。主イエスは数々の奇跡を行っていますが、彼らにとっては、それらは彼らにとっての「しるし」ではないのです。彼らにとっての「しるし」は、彼ら自身が信じている聖書の文脈上の「しるし」でなければなりませんでした。彼らの信仰上の「しるし」と彼らが認める限りでの「しるし」でなければ、彼らは決して認めないのです。言い方を変えればはじめから主イエスを信じる気など無いのです。

 マタイによる福音のこの箇所で、主イエスは、温厚にして穏健な言い方をされてはいません。単刀直入とさえ言ってもよいほどに直截的です。

「39イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」

  「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と、あまりにも直截的です。

 面と向かってなじっているというくらいの応答でしょう。遠回しとか婉曲的とかということとはおよそ真逆です。相手にむかって正面切って「よこしまで神に背いた時代の者たち」とはっきり断罪しています。

 彼らに対して、「よこしまで神に背いた時代の者たち」、「今の時代の者たち」と呼び方を替えて断罪しています。「この悪い時代の者たち」(45節)とも名指しています。

 そもそもわたしたちは、「荒野の誘惑」で、主イエスがサタンから何を要求されたかを観てきました。神の子なら石をかパンに変えてみよ、神殿から飛び降りてみよと、みずから神の子であることを証明してみせよと、サタンは主イエスに「しるし」を要求しました。「律法学者とファリサイ派の人々」の「しるし」の要求と、根本動機はまったく同一でした。

 主イエスは、サタンを退けたように、「律法学者とファリサイ派の人々」を、まったく同様に退けられるのです。主イエスは、ご自身が神の子でありたもう「しるし」を決してお示しにはなりません。人間心理の「不安」を鎮めるために、信じるための担保物件を示す事は、結局、主イエスが人間に「信じてもらう」事になり、信じるか信じないかの決定権を人間が握ることになるからです。神が人間に信じてもらう必要があるとすれば、その神は真の神に既に値しません。まことの神ではなく、人間の自由に委ねられた無力な概念にすぎないでしょう。 繰り返しますが、神の独り子なる神、主イエスは信じてもらうための「しるし」を決して絶対に与えないのです。

 次に、「ヨナのしるし」について考えてみましょう。

「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

  「預言者ヨナのしるし」だけが、主イエスによって「しるし」として挙げられています。

 「ヨナのしるし」は、人間心理の「不安」解消・補償のための「しるし」ではないのです。人間が信じるために要求する「しるし」という性質を「ヨナのしるし」は持ちません。

 唯一の「しるし」は、神ご自身がお示しになる主イエスの十字架の死と復活以外のなにものでもありません。主イエスの死と復活は、人間心理の補償ではありえません。人が欲する事柄ではないのです。人が欲したところで与えられる事柄ではないのです。

 人間が欲せざるところのもの、それはキリストの死に他なりません。キリストは人も神も決して願わない「死」、「十字架の死」の道を行かれました。

 主イエスの「死」は、人間心理の不安の補償によるところのメシア期待とは完全に相容れない出来事です。したがっていかなる意味でも、人が求める「しるし」ではないのです。

 ゆえに、主イエスの「十字架の死と復活」は、人が決して要求しえないがゆえに、かかる「しるし」ではないのです。

 「ヨナのしるし」が、かかる人間心理の所産である「しるし」要求に基礎をおく「しるし」ではまったくないところの、「唯一のしるし」であるのは、唯一の神の啓示の出来事である「十字架の死と復活」の「しるし」だからです。

「40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」

 主イエスの十字架の死と復活という「唯一のしるし」の「しるし」こそが、唯一の「しるし」なのでした。

  主は、最後の審判について「ヨナのしるし」と「南の国の女王」を例に出して語られました。

 最期の審判について、この箇所のすぐ前の「木とその実」の譬えのなかで、「裁き」の思想が語られていました。つまり「責任」が問われるという思想です。人は、神によって裁かれます。たしかに審判の主はただ神お一人です。ただし、神に問われ、裁かれるのは、一人一人の人なのです。

33「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。34蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。35善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。36言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。37あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

 この主イエスのみことばは、「裁きの日には責任を問われる」とおっしゃっいました。
「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」と言われたのです。
 「ヨナのしるし」では、「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた」からこそ、「ニネベの人々は」、「今の時代の人々」が裁きの日に裁きの座に引き出されるときに、「罪に定める」のだというのです。「ニネベの人々」はヨナが語る神の言葉を聴いて「悔い改めた」。だから、彼らは裁かれる立場ではなく、裁く立場に立つのだというのです。裁く立場というのは審判するという意味ではありません。神に問われるべき自分たちの責任を彼らは自らに問うてすでに「悔い改め」ている。だから、悔い改めることのない「今の時代の人々」と決定的にそこが違うというのです。だから「ニネベの人々」の「悔い改め」は、「悔い改めることのない人々」を裁く立場に立つということなのです。

 「南の国の女王」の例はどうかというと、「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである」と主は言われました。
 ここで語られている範例は、「35善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」という主イエスのみことばが基準となるでしょう。
 「南の国の女王」は、「ソロモンの知恵を聞くために、地の果てからきた」というその姿勢こそが、みずからの「倉」に「良いものを入れ」「良いものを取り出す」ことなのだということなのだと私は思います。言い換えれば飽くことなく執拗にどんな労苦もいとわずただ神の知恵(キリスト)を求めてやまない姿勢の隠喩となっているのです。
 このような姿勢を示した「南の国の女王」が、神の真理の深奥を求めず、自分自身のなかに固定化されたコンテキスト(文脈)を基準に、「しるし」を要求する「今の時代の人々」の責任を問うというのです。
 ヨナの宣教によって悔い改めた「ニネベの人々」や「南の国の女王」が、裁きの時に、「悔い改めない」「今の時代の者たち」(律法学者とファリサイ派の人々)を「罪に定めるだろう」(有罪判決)というのです。

 しかし、いまここには、さらなる権威をもって佇立するものがいる。

「ここに、ヨナにまさるものがある。」

「ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 「まさるもの」とは、ご自身を暗々裡に自己を啓示したもう主イエスご自身に他なりません。 

 「ヨナのしるし」を示したもう主イエスこそ、唯一の神のしるしであり給ふのです。ここで、主イエスは、ご自身をヨナのしるしが指し示している「十字架の死と復活」を、「ヨナのしるし」を通して予示し、宣言しておられるのです。この深刻な裁きのみことばは、「今の時代の人々」の頑なさを弾劾しているのです。主の弾劾は主の救いへの招きです。弾劾によって、悔い改める(方向転換)猶予を与えていてくださっているのです。

 「今の時代の人々」悔い改めることができない人々は、このときこの場の人々というより、実はいつの時代の人々と言い換えるべきでしょう。すなわち、主イエスの弾劾は、実は他の誰かではない、実にこのわたし自身なのではないか、と自らの責任を問うことこそが大切なのです。

 主イエスの弾劾こそが、救いへの招きだからです。アーメン

 



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