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2025年10月13日月曜日

 2025年10月12日 (聖霊降臨節第19主日)

2テサロニケの信徒への手紙3章6節~13節

『労働の意味』

今回は、youtube配信をお休みします。
替わりに、原稿(メモ)を掲載を以下に掲載します。

                  『労働の意味』
                  2テサロニケの信徒への手紙3章6節~13節
6 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。
7あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。
8また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
9援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
10実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
11ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
13そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
1.再び「倣うこと」
  ここでも「倣う」ことが奨励されています。信仰生活は、つまりは、信仰の先達、とりわけ使徒、さらに究極的にはキリスト御自身に「倣う」ことに他ならないということでしょう。
 「倣う」ことは、他律的な行為なのか。一見、倣うだけでは自主性や主体性が乏しいのではないかと思われるかもしれません。決してそうではない。
 使徒やキリストに倣うには、必ず探求が伴います。探求なしには何をどう、どのように倣うのか見いだす事はできないからです。たゆむことなく、祈り、学ぶことなしに、倣うことはできないのです。
 アウグスティヌスは『修道士の労働』や『アウグスティヌスの修道規則』でも修道士の労働を重視し、修道士の労働を推奨してもいます。『修道士の労働』では、まさに本日のテキスト『テサロニケ人の信徒への手紙二』第三章一〇節「働きたくない者は食べてはならない」の解釈を中心に議論が進められています。
 当時のカルタゴには福音書の記述を根拠に労働せず、施しで生計を立てる修道士たちがおり、それを支持する人々と反対する人々のあいだに不和が起こっていて、これを憂いたカルタゴ司教アウレリウスがアウグスティヌスに執筆を依頼したものが、『修道士の労働』でした。労働を忌避する修道士の聖書解釈の誤りを指摘し、労働を忌避する修道士を批判したのです。
 修道院での生活は、「働くことは祈ることだ」というべきものでした。祈り、学び、労働で一日は規則正しく律せられていました。
 使徒やキリストは、いかにしてその宣教の日々を送られたのか。 倣うためには、その事柄をひたすらに祈り求める必要がどうしてもあります。働きつつ、祈り、祈りつつ学ぶのです。
2.対極にあるもの
   わたしは、ラ・グランド・シャルトルーズ修道院 の「大いなる沈黙」という映画が大好きです。静謐な修道士たちの暮らしを見ていると、自然とこころが癒されます。そして私自身も、このような生活を求めている自分を発見します。
  さて、ラ・グランド・シャルトルーズ修道院には 『シャルトルーズ修道院慣習律』という修道院内での聖務日課などを詳しく記した書物が定められています。例を挙げれば、第四一章で「この場所の居住者は荒野の境界外に何も所有してはならないと定めた。すなわち畑地、葡萄園、庭、教会、墓地、贈り物、十分の一税、そのようなものすべてである」とするのは、境界で囲われた空間のそとに飛び地や権利を一切持たず、荒野の空間のなかで生きることを定めたと考えられます。
  洗礼者ヨハネが荒野に入ったように、修道院境内地の中でのみ自給自足で共住する修道院です。
 この暮らしの対極にあるものが怠惰です。閑暇を弄ぶことです。
    8 また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
   この使徒パウロの自負は、兄弟姉妹に「倣う」ようにという促しのために、「むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。」という自発的で、明確な目的をもっていました。「だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して」働いたのは、兄弟姉妹への愛から発する自発的かつ積極的な目的があったからでした。自分のためだけではなくて、兄弟姉妹の自発性を信じて、促す「苦労」だったのです。
   すなわち、教会共同体の兄弟姉妹に「倣う」ことができるようにという隣人・兄弟姉妹のためのなした証しの労働でした。つまり労働は、他者への愛が動機となっていたのです。
 この兄弟姉妹への愛、しかも自発的に「倣う」ことができるように促す、いざなうからこそ発出している労働なのです。この対極にあるのが、「怠惰」であり、「閑暇をもてあそぶこと」でした。
3.労働は祈り
 わたしは朝起きたとき、よく作業の段取りを思い浮かべます。 思い浮かべると、なぜでしょうか。不思議に落ち着くのです。作業すること自体が、祈りではないかとよく思います。汗をかきながら、土を掘り起こしたり,運んだり、草を刈ったりと。
 体を動かしながら、つれづれにいろいろな事を思いめぐらすのです。こんな時間は喜びの時間だと思います。すこしも苦労だとは思いません。動きつつの祈りです。
4.動けない。働けないことは怠惰でも閑暇でもない。
 『レナードの朝』(原題:Awakenings)という作品があります。「1920年代に流行した嗜眠性脳炎によって、30年間、半昏睡状態のレナードは、意識はあっても話すことも身動きもできない。彼に強い関心を抱いた勇気ある新任ドクターのセイヤーは、レナードに試験的な新薬(Lドバ)を投与し、機能回復を試みる。そしてある朝、レナードは奇跡的な"目覚め"を迎えた・・・。」
 この作品が衝撃的だったのは、30年もの間、眠ったままの状態でベッドに横たわったままだったレナードが、劇的に眠りから覚めるということもさることながら、わたしにとって、この30年間レナードを見守り続けた家族は、どんな思いでこの30年間を過ごしたのだろうかということでした。
 レナードは、薬の耐性ができてくると、再び深い眠りにつきました。その後の彼を家族は再び見守り続けることになりました。
レナードは、労働することができない。動けないのです。彼を「怠惰」とか「閑暇」とかで評することは誰にもできないでしょう。彼は原因不明のいまだ治療方法もない嗜眠性脳炎という難病に罹患している患者です。神さまは、彼にこの途方もない試練を与えたもうたのです。彼だけではなくて、彼の家族にもです。
 こんな彼と彼の家族に、このみことばを投げかけるのはあまりにも酷ではないでしょうか。「働きたくない者は、食べてはならない」と、どうして言えるでしょうか。彼は働きたくないのではないのです。働きたいとも働きたくないとも、語ることも動くこともできない境遇なのです。
 神さまどうして彼をこのような境遇に置かれたのでしょう。でも神さまがこのような境遇へと彼を置いている以上は、この境遇の彼に、神さまが置かれたたもうたと、そのみこころを受け入れざるを得ません。このような彼が現に存在している以上は、動けない、語れない、ただ眠り続ける彼と共に家族も社会も生きてゆく他はありません。そうであれば、労働することは、誰にとっても普遍的な、喜び、祈りだと、十把一絡げに言いきることには躊躇いを覚えない訳にはいきません。働かない、働きたくないという以前に、働く事は彼には不可能なのですから。このような彼にと、神さまが決めておられるのだから、この彼にとっての、彼の家族にとっての、喜び、祈り、哀しみ、辛さを、彼も家族も社会も、教会も、わたしたちも、考え、祈り、思いめぐらし、そしてまた祈り、待つことが、彼の近くで、また遠くでいる人に、多かれ少なかれ課題としての恵みがあるはずです。
5.対象限定の命令だった
    11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
    12 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
  「働きたくない者は、食べてはならない」というパウロの、いくらか激した命令語調の、この言葉は、特定の人たちに向けられた「状況」に応じた言葉だということは、「そのような者たちに」という対象を特定していることで分かります。つまり、具体的に特定の人々にむかって、限定された状況に相対して語られた言葉なのです。アウグスティヌスの『修道士の労働』も同様です。特定の労働を忌避する修道士に向かって書いています。パウロもテサロニケ教会の特定の人々に、限定された状況に向けての「命令」だったのです。それゆえ、普遍的な倫理・道徳のような一般的な言葉ではなく、「怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者」たちに向かって語っている。
6.働くことは、キリストに結ばれた現実のなかで
    13そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
   「自分で得たパンを食べるように」という勧めは、他者の働きに依存・寄生・搾取してパンを食べることが、人間関係を破壊するという意味を含み持ちます。
 むかしの「不在地主」というのは、小作農民の労働に依存・寄生・搾取して「怠惰」・「閑暇を貪って」いた人々でした。そういう関係は、やがては人間関係に不信と軋轢を生み出します。
 「労働を忌避する修道士たち」は、どのような修道士だったのか。第二八章三六節には「彼らは委託なしに、定まった住所なく、根無し草の放浪者のように、いろいろな地方を回っています。あるものは殉教者たちの、いわゆる殉教者たちの遺物を売っています。他のものは、(聖句の入った)小箱を大きくしたり、(自分の衣服の)房を長くしています。また他のものは彼らが聞いたところの両親や親せきについて、彼らはどこそこに住んでいるが、私は彼らを訪ねる途中であると嘘を並べます。そしてこれらの人はみな彼らの都合にいい貧しさのための寄付を求め、またその偽善的な聖さに対する代償を要求します」。とあるように、放浪して詐欺まがいの口舌で、喜捨を求めていたというのです。依存・寄生・搾取して「怠惰」・「閑暇を貪って」いたとも言える状態でした。ですから、「自分で得たパンを食べる」ことは、そのことで、隣人に余計な負担を負わせないという意味を持つのです。働いて、その実りを自ら刈り取ることは、隣人との共生の条件となるのです。
7.動けず、語れず、働けない存在が共生の交わりを形成する
   レナードのように、動けず、語れず、働けない存在が、人と人との交わりを、慈愛の関係へと形成してゆくことを、わたしたちは知っています。
 人間社会は動物の世界のような弱肉強食の世界ではありません。赤ちゃん、こども、学生、老人、病者、貧困者、難民などなど、この世界には、弱い人、助けを必要とする人が多数存在します。この愛されるべき人々との繋がり、絆のなかで、わたしたちは生きる力を与えられつつ、苦しみつつ、喜びつつ、感謝しつつ生きています。
 動けず、語れず、働けない存在がわたしたちの社会を、苦悩しつつも温かな社会へと築いているのではないでしょうか。
 このように、思いめぐらせてゆくとき、「働きたくない者は、食べてはならない」「自分で得たパンを食べるように」という命令は、働けるから価値があるとか、働けないから価値がないとか、そういう人を人とも思わない「生産性」「効率性」でしか人を観ない人間観を、根底から覆す観点をもっているのです。
8.人はみな、それぞれが固有な存在として、神に愛されている
 かえって、どんな人も、人として、誰一人として、神さまから愛されていない人などいないのだ。人はみな、神さまの前で、等しく尊い存在なのだという意味で語られているのです。 
 参考文献:杉崎泰一郎.『修道院の歴史_聖アントニオスからイエズス会まで』
上智大学中世思想研究所. 『中世思想原典集成 精選3 ラテン中世の興隆1』

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