2025年5月11日 (復活節第4主日) 母の日
ヨハネによる福音書11章17節~27節
イエスは復活と命
17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
主イエスの生前、死者を甦らせたという伝承は、このラザロの復活の出来事のほかにも、多くあって、初代教会では、広く伝えられ続けていたと思われますが、このラザロの復活についてだけは、共観福音書にはなく、第四福音書(ヨハネ)にのみ記録されています。
ラザロという名の意味は「神たすけたもう」というそうですが、ルカ福音書に同名の人物が主イエスの譬えのなかで登場しています。「金持ちとラザロ」の話です。
その名の由来が示しているように、神がたすけたもう者の、いわば代名詞のような名前です。金持ちの家の門前で、物乞いをしていたあの貧しいラザロが「アブラハムの食卓」(神の国)に召された一方で、金持ちは炎熱の陰府へとおとされます。ラザロはこの世で、貧しかったが故に救われ、金持ちはこの世で裕福だったので陰府へとおとされたという主イエスの譬えでした。この譬えは、この世で苦難のなかで生きた者が救われ、この世で安逸を貪る者が裁かれるという「救い」の本質を語ったものです。
ラザロは善行を積んだから救われた訳ではありません。ただ貧しかっただけです。金持ちは悪行を重ねていた訳ではありません。ただ、この世で、富んでいただけなのです。
金持ちは、残酷な事に、天上のラザロが天国にいるのを観ることができるのですが、どうしても天国に行けません。金持ちとラザロのあいだには、渡ることができない深淵があるからです。金持ちは生きている兄弟たちに、自分のようにならないようにラザロを遣わして言い聞かせてやってくださいと、アブラハムにお願いします。
アブラハムは答えました。
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
ルカ福音書16章29節~30節
この世では一度死んだラザロが天国から甦って来て、モーセと預言者(旧約聖書のこと)に耳を傾けないなら、「『たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」というのです。厳しい言葉です。つまり聖書に傾聴しないなら、たとえ死者(ラザロ)が復活してきても、この言葉に傾聴しないだろうというのです。
逆に言えば、聖書に傾聴するならば、たとえ死者が甦ってこなくても、聖書に傾聴していればよいのだということです。
この主イエスの譬えに登場する「ラザロ」は譬えの中の登場人物ですので、ベタニアのマリアとマルタの兄弟であるラザロとは別の人格です。けれども、この譬えには「ラザロの甦り」という事柄が譬えのなかで重要な意味を持っています。
ベタニアのラザロは、特定の人物ですので、譬えの登場人物とはもちろん違いますが、「甦る」という点で、共通しています。
ベタニアのラザロは、本当に甦ってしまうのです。そして主イエスの譬えどおりに、ラザロが甦ってきても、信じない者はやはり信じないのです。それどころか主イエスもろともラザロさえも殺してしまおうとするのです。
さて、「神たすけたもう」という名をもつこの人は、わたしたちの代表のような存在ではないかと思うのです。
主イエスによって救われるべき人類の「さきがけ」として、ラザロは救われた、ということなのではないでしょうか。
主は、人類を救うということはいったいどういう事情で救いなのであるか、ということを、ラザロを復活させたもう出来事を通してお示しになったということなのではないでしょうか。
マリアとマルタは人を遣わせて主イエスに病気のラザロの治癒を願いますが、主イエスはなぜでしょう、「なお二日間同じところに滞在され」ました。三日目にようやく出発されます。まるで、ラザロが既に死んでしまったことを知っていて、その死を待っていたかのような振る舞いです。
当時、パレスチナでは、確実に死亡したか、それとも仮死状態なのかを三日後に確認するということが通常行われていたようです。そういう意味では、ラザロが確実に死んでいるかどうかの確認後に、ベタニアに到着するように主イエスは、出発を遅らせたのかもしれません。
主イエスが、ベタニアについたときには、ラザロの葬送は終わっており、既に四日もたっていたとありますので、死亡確認は終わっていたことになります。
生物としての死は、死んでまもなく死後硬直が起こり、時間の経過とともに腐敗が進行します。主イエスが墓石を取りのけるように言われると、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。腐敗臭です。物理的には既に完全な遺体となっていたのです。
多くのユダヤ人が、ラザロのことで、マリヤとマルタを慰めに来ていました。彼らはラザロたちの友人なのでしょうか。死者を悼み、遺族を慰めようと集まっているのですから、善意の人たちであったことでしょう。実際、彼らの多くは「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」のです。しかし、「中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」とあります。この告げ口によって、イエス殺害計画が進められてゆくことになります。
死者ラザロを甦らせた主イエスの行いを目撃しながらも、その出来事が神の業であることを読み取ろうとはせずに、イエス殺害の加担者となった人々もいたということです。おそらく彼らも善意の人であった筈です。けれども、彼らにとって「告げ口」には悪意はなかったかもしれません。しかし、その「悪意」のない些細な行為が、イエス殺害計画へと発展させることになったのです。人の行いという事が、どこでどう動いて、ごく些細なことに見えることであっても、とんでもない恐ろしい悪事につながってゆくかもしれない、そういう恐ろしさを感じます。
21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
マルタもマリアも、同じように、ラザロの生前、病床に主イエスがいてくださったら、ラザロは治癒したに違いない、そんな恨み言の一つも言ってしまいたい、いささか主イエスに対する不満というか「お恨み申します」というところでしょう。一言言っていまいます。
ただ、主イエスは、ラザロの死を、離れた地に滞在していたとき既に知っておられたし、ラザロ葬送後の死亡確認をまって出発されたのですから、「治癒奇跡」によってラザロを蘇生させることは、はじめから意図されてはおられなかったのです。
そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16
マルタは、一言恨み言を言いはしましたが、すぐに主イエスを「信頼」する姿勢を立て直します。
22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
そしてここから、主イエスとマルタのあいだに、「復活」問答が始まります。
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
ここで主イエスが明言されていることは、わたしたちの「復活」の希望です。
主イエスを信じるものは、たとい死んでも生きるという希望です。そして、生きていて主イエスを信じる者はだれでも、決して死ぬことはないという希望です。
ラザロの復活は、この主イエスの救いのみわざを、人類に明示し、人類が信じるようになるための御業なのです。
15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。
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