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2025年6月22日日曜日

 2025年6月22日 (聖霊降臨節第3主日)

使徒言行録17章22節~34節

「悔い改めの使信」

パウロの「説得術」
 アテネの人々のまえで、パウロは路傍で伝道説教を始めました。 
「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。」

 人々の世界観、信仰観をまずは、「認めます」という語り始めでした。しかし、「パウロはアテネで二人(シラスとテモテ)を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。(16節)」とあるように、彼の内心は、アテネの偶像崇拝に、実のところは、激しい憤りを感じていたのです。

 相手に無用な反発心を生じさせるのは得策とは言えないでしょうから、内心を表には出さず、相手の立場をいったんは承認する姿勢を示すことは、対話を成り立たせるうえでは正しい選択だったとは思います。
 内心とは裏腹に、実は相手の神への信仰観や世界観を根底から覆し、まことの神信仰とは「あなたがたが信じているような事柄ではないのだ」ということを伝えようとしているのですから、本心を隠していることにはなるでしょう。
 パウロは、ある種の「説得術」を試みているのです。
 このような「説得術」は、ある意味、わたしには小賢しい方法ではないかと思わないでもありません。
 なぜなら、まことの神への真実な信仰は、人間的話術による「説得」で、生起する事ではないからです。わたしは大胆にも、使徒パウロの伝道説教を批判しました。
 パウロといえどもわたしたちと人間としての存在は、神の前に完全に平等ですから、批判もまた自由なのです。パウロもまた人間ですから、問題も抱えていて当然です。わたしはパウロが間違いをおかしたと言っているのではなく、内心を隠して相手に迎合するような「説得」には疑問ありと思っているにすぎません。真の信仰は、ただ神さまが生起せしめると私は信じているのです。
 事実パウロののこの伝道説教によって、アテネの人々はどのように反応したかというと、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。」(32節)  とあるように「あざ笑う」者あり、「いずれまた」と言って距離を置く者がいたとあるように、自らの「信仰」問題として突き詰めて考えなかったという報告をルカはしています。ただ信仰を告白する者たちもいないではなかったというのですので、反応は相半ばしたというところでしょうか。

   宗教的多元論
 ジョン・ヒックという人の提唱する宗教多元論という思想があります。パウロの説得術には、ある意味で、宗教多元論に近いものがあるように思います。つまり、パウロがアテネでみつけた「知られざる神」と刻まれた祭壇は、アテネの人々が知らずに拝んでいるが、それは「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。」と同一化しているところからも、その近接性ゆえに分かります。

宗教多元主義が誤りだというつもりはありません。わたしたち被造者が神について語ることには、自ずから限界がありますから、語る資格はそもそもないからです。
 わたしたちが語りうるのは、せいぜい「私はかく神を信じている」ということに制限されるでしょう。
 パウロもまた、事情はわたしたちと変わりません。
「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(23節b~24節)
  彼は、明らかに彼自身が信じている「神についての教説」を述べています。すなわち、「われは天地の創り主たる神を信じず」という信仰内容です。
「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(25節)
つぎには、また十戒の第一戒と第二戒「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。」」(出エジプト記20章3~4節)という禁止命令を伝えます。偶像崇拝の禁止です。この禁止命令こそが、アテネの人々の魂に届くかどうか。パウロの真意はここにあります。直接、「神はかく語りたもう」という表現はとらず、「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。」と婉曲に神の神性の不可侵性を伝えています。
 「ギリシア人にはギリシャ人のように」というパウロの姿勢がここに示されています。
 わたしは、安直な「迎合」には、抵抗を感じるのですが、このような姿勢は、相手に対する深い愛から生まれるもので、「迎合」とはいえないと思っています。「婉曲」表現と「迎合」表現とは区別すべきなのです。
「あなたの神信仰も正しい。正しいけれど、実は間違っている」というのであれば「迎合」でしょう。「あなたの神信仰も正しい」と「迎合」しているからです。「迎合」しながら、相手の信仰は間違っているというのは、「看板に偽りあり」です。
 けれども、「あなたがこれまで知らずにいたでしょうから、あなたのその神信仰は、その意味で認めるべきです。知らずに信じていたからです。しかしあなたが心底求めていたはずの神は、あなたは知らなかったでしょうが、実は天地の創造者であり、人間がつくりあげたモノではなく、生きとし生けるものに命を与える方なのです。」というのは、神の神性の「婉曲」表現でしょう。こういう事を宗教多元主義というのであれば、これ自体はあり得る立場だと言えましょう。
 ただし「あの神OK、この神もOK」というような多元主義は、聖書を通してご自身を啓示したもう神への信仰からすれば、あり得ません。まことの神は偶像崇拝を明らかに禁じているからです。
 「神は近くにいましたもう」 
 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」(27節)
   神は創造主であり、人は被造者です。天は天であり、地は地です。被造者である人と創造者でありたもう神との間には、「無限の質的な差異」があります。それゆえ、人は限りなく神と遠く、神は限りなく人と遠いのです。しかし、パウロは、ここで「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」と宣言します。偶像は人の近くにいつもいます。なぜなら人がその偶像の神を創っるのですから、人の願望や都合で祭り上げることはたやすいはずです。まことの神はそうはいきません。神が人を創造し、命を与えたのです。人の都合で神を動かすことはできないし、あってはならないのです。だから人のおもいのままにはならないのが、まことの神であられます。だから人の思いをはるかに超えた方こそがまことの神であられます。ですから、人から神は限りなく遠い存在なのです。
 ところがパウロは、神は近くにいましたもうというのです。
 アテネの人々にとって、「天地の創り主なるまことの神」が無限の彼方の遠き存在であられるのに、「近くにいましたもう」という神への信仰を、パウロを通して初めて知ったことでしょう。
 このはじめて聴いた神の存在に、激しく魂を揺さぶられた人々もいました。この人々は、単にパウロの説得術によって説得されたのではないはずです。まことの神の存在に感動したのです。魂の震撼を得させた方は、神ご自身なのです。
「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。」(34節)
   悔い改めの使信
  パウロは、ギリシャ神話の別の文脈とは言え、旧約聖書の人類創生の出来事を前提として、人はみなすべからく神の子孫(「神の似姿」(創世記1章26節)だと言って、「神の子孫」という共通術語によって、人の起源を「神の似姿」だという人間論を宣言します。つまり人は、「神の似姿」という本来的な自己を神によって創造されているという、人の自己像を極限にまで高めるのです。
 だからこそ、「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」(29節)と、神を人の「つくりもの」とする偶像崇拝を捨て去らねばならないと、勧めることができたのです。神を人の「つくりもの」にすることなどあってはならないと。
 神は、そんな人の「つくりもの」ではないのに、神を人の従属物に貶めてしまうようなことが平気でできてしまえるのは、まことの神への「無知」から生じていると、パウロは断罪していることになります。
 まさしく「断罪」なのですが、「婉曲」表現で、人は「神の子孫」なのだから、「神である方を」、人の「つくりもの」と「同じものと考えてはなりません」と、愛をもって、婉曲に、しかし本質的には、厳格な禁止命令によって「断罪」しているのです。
 こうして観て行くとき、このパウロの伝道説教は、人間的な話術、説得術とみるよりも、婉曲表現による弾劾宣教であるとみるべきだということがわかります。
 それゆえ、アテネの人々にむかって、「悔い改め」を迫ることができました。
  「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」(30節)
  婉曲表現ですから、言葉使いは優しく、柔らかいですが、内容は、極めて深刻な罪の弾劾なのです。
 弾劾であることによって、罪の赦し、贖いの主イエス・キリストこそ、信ずべき神の独り子であることを宣教するのです。
「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」(31節)
    罪の裁きの日こそが、救いの成就の日
  「この世を正しく裁く日をお定めになった」。
 「審判」の日が定められたということが、「罪の赦し」が確実になったことを意味しています。真実な裁きなき、真実な救いもないのです。ゆえに人は、真実な裁きがおのれにくだされることを、魂の奥底では願っているのです。
 おのれの罪が裁かれ、その裁きの報いを、独り子なる神イエス・キリストがすべて負ってくださり、その贖いによって、人はおのれが、罪なき本来の「神の子」として、神に迎えいれられることを、キリスト・イエスの十字架の死と甦りが確証してくださったからです。 
 わたしたちの近くにいましたもう救い主キリスト・イエスの現臨を感謝します。 アーメン

 

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