2025年6月1日 (復活節第7主日)アジア・エキュメニカル週間(7日まで)
宣教黙想
「キリストの昇天」
ルカによる福音書24章44節~53節
イエスは言われた。
44「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48あなたがたはこれらのことの証人となる。
49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
天に上げられる(マコ1619―20、使徒19―11)
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
エマオ途上
エマオ途上で主イエスに出会った弟子たちが、エマオでの食事に際して、「眼が開け、イエスだと分かった」が、たちまち、主イエスの姿が見えなくなったという経験をして、「時を移さず出発して」、彼らはエルサレムへと戻りました。
彼らが、エマオへ向かっていたのには、何らかの目的があった筈ですが、主イエスとの出会いの経験をしたことによって、まったく彼らの当初の目的などはどこかへ雲散霧消してしまっていたようです。
彼らは、「時を移さず、エルサレムへと戻った」のです。
この二人の弟子の行動の変化を見ると、主イエスとの出会いの現実性がわかるような気がいたします。彼らは、主イエスだと「分かる」以前、エマオ途上の時から、「聖書を説明してくださったとき、心が燃えていた」 のですから、眼前のお方が、主イエスだと「分かった」瞬間から、彼らの心は、いっそう激しく感動していたと思われるのです。
彼らの当初の目的などは、もう眼中にありません。彼らはもう、いてもたってもいられない強い感動に充たされていたに違いありません。
エルサレムに戻ってみると、「11人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」のでした。そして二人の弟子もまた、「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」とあります。
このような語り合いの最中のことです。
ルカは、「こういうことを話していると」と、エルサレムでの、弟子たちの語り合いの場面での出来事だという説明をします。
復活者イエスの出現
その場に、主イエスがご自身を現されるのです。復活者イエスの出現です。
この出現によって、主イエスご自身が、ご自身の「身体」をお示しになられた事が大切な意味をもちます。弟子たちは、はじめ目の前に出現したイエスをみて、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」からです。つまり、彼らには、死んでいるイエスが亡霊となって現れたと咄嗟に思ったというのです。主が復活してシモン・ペトロに現れたということや、エマオ途上で主イエスを旅の道中を共にした弟子たちもいたのにもかかわらず、現に目の前にいるイエスが甦った主だとはにわかに認識することができなかったということです。
彼らが咄嗟に思ったのは、古来ヘレニズム世界では通俗的に信じられていた「霊魂不滅」の「共通感覚」で理解したのです。 人は死んで霊魂だけが肉体を離れて「霊界」に住むという考えです。「霊界」からこの世へと、出てきた幽霊とか亡霊とかという形で出てきたのだと、彼らの脳裏には浮かんだのでしょう。こういう考え方は、古来から現代に至るまで、多くの人びと漠然と受け入れている考えです。
復活者イエスが弟子たちに出現したときに、主はこのような考えを木っ端微塵に粉砕する御言葉を語られました。
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足をみなさい。まさしくわたしだ。触ってよくみなさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり。わたしにはそれがある。」
「まさしくわたしだ」と主は言われました。十字架上で殺され、三日目に甦ったところのまさしく「わたしだ」と断言されたのです。すなわち亡霊・幽霊の類の存在ではないことをお示しになったのです。(38節~39節)
主の復活を、「霊的に復活した」などという考えを主イエスは粉砕したのです。「霊魂不滅」論と同様に、「仮現論」(ドケテイズム)*1という思想を否定されたのです。
弟子たちは、それでも「喜びのあまりまだ信じられず。不思議がっているので」と、彼らの「不信仰」は依然としてそのままでした。復活の主イエスだと言われているのに、まだ「不思議がっている」というのは、復活者イエスの「身体性」を、いまだ受け入れられないということでしょう。彼らの認識能力の限界をはるかに超えた現実だったのです。
人間は、手持ちの認識の道具(理性や知識)でしか、認識することはできないものです。わたしたちは、「神」を認識することはできないのです。たとえ、神ご自身であられる復活者が目の前にいたとしても、「神」と認識することは不可能なのです。
主イエスが、「なぜ、うろたえているのか」と叱責されたとしても、無理なものは無理なのです。人間の側からは認識できないのです。ただ神さまご自身の自己贈与という出来事が起こるときにのみ、わたしたちに授与された神の力によって、いわば神さまだけが神さまを認識できるのです。
まだこの場での弟子たちには、「否定の方法」によってしか、復活者イエスを知ることができない状態だったのです。
主はなおも、ご自身の「身体性」をお示しになられました。
「ここに何か食べものがあるか}と言われ、焼き魚を、彼ら前でムシャムシャと食べられたのです。幽霊が物体である焼き魚を食べるはずはないのです。「そんなことはありえない」という方法で、弟子たちにも「分かる仕方」で、ご自身の「身体性」を否定できない仕方でおしめになられたのでした。「幽霊」が物体を食べることは出来ないから、幽霊ではないという仕方です。
聖書に書いてある事柄は必ず実現する
エマオ途上での聖書の解き明かしと同じことが、主イエスによって語られました。
44「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
聖書は、実に主イエス・キリストををこそ予言した神の言葉なのです。
主イエスによる、聖書全体の総括的な要約とみいうべき御言葉が示されます。
45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
46言われた。
「次のように書いてある。
『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
ここにきて、復活者イエスの神の力によって、神の力の自己贈与の出来事が起きました。 「彼らの心の目を開い」たのです。
弟子たちの「心の目を開い」たということは、神ご自身が、神として、神の力により、神の力(認識力) を弟子たちに賜ったということです。
そして言われた。「あなたがたは、これらのことの証人となる」と。
49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
主が、弟子たちに、神の力の自己贈与によって、ご自身が、神の独り子なる神として、十字架において死にたまい、三日目に甦った、人類への愛の道を、いま弟子たちにも、その道を辿るべき使命の委任をされたのです。
主の昇天
主イエスは、弟子たちをエルサレム近郊のベタニアまで連れてゆき、祝福されました。
この祝福は特別な意味をもちます。この祝福を受けた弟子たちは、今までとは違った意味で、主イエスを「伏し拝む」ことになったからです。これまでの主イエスへの敬愛、尊敬というような意味での伏拝ではないのです。彼らはこの時はじめて、主イエスを、「神」として礼拝したからです。
彼らが主イエスに命じられたように、エルサレムへと帰りますが、彼らは「大喜びで」とあります。そして、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と命じられた通りに、ペンテコステの出来事が起こるまで、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」というのです。
わたしは、彼らの「大喜び」を黙想するのですが、弟子たちのこの「喜ぶ」姿は、まさしく彼らが共同の体験として、復活の主イエスの出現を経験し、それだけではなく、主イエスの力を身に受けて、主イエスが歩まれた愛の道を行くようにされた、その現実が、この「大きな喜び」なのではないだろうか、と思えるのです。
だから、この主の証人たちは、貧しい漁師だったり徴税人だったりの小さき者にすぎなかったのに、いまや彼らは、主イエスの力を充満させて、主の使命委任のみことばを実際に生きるものとされるのです。
47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48あなたがたはこれらのことの証人となる。
彼らは、主の祝福のこの時から、あらゆる国の人びとに、「福音」を宣べ伝えるものとされたのでした。わたしたちの信仰は、この主の昇天によって、弟子たちが主との別離の瞬間から、主が彼らと共なる存在といて、生きるようになった、そのことを同じ事が、わたしたちにも起きている、そのことなのです。
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