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2025年6月16日月曜日

 2025年6月15日 (聖霊降臨節第2主日 )  (三位一体主日)

  田瀬・付知教会合同礼拝   (内木家記念礼拝)

エフェソの信徒への手紙1章3節~14節

「あらゆるものが、キリストのもとに」


  「あらゆるものが、キリストのもとに」

         エフェソの信徒への手紙1章3節~14節

 ロシアによるウクライナ侵攻によって既に100万人もの人々が死亡したとの報道がありました。

 一人の兵士の母親が、ある神学者に尋ねたことがあります。わたしの息子は天国へ行けたでしょうか、と。

 神学者は答えました。

 わたしは、聖書に証言されている事柄を信じています。

 「あなたの質問は、まぎれもなく根源的な問いであることは間違いありません。人は死後の命運について誰しもがあなたのように問わざるを得ないのです。しかし、その答えを私が、私の責任をもって答えることはできませんし、他の誰でも同様です。その答えはただ、人に命を与え、命を取り去ることがおできになる創造主であられる神さまだけが答えることができるでしょう。造られた存在にすぎない人には、創造主の位置に置くことはできないのです。人はただ信ずること、ただ祈ることはゆるされているし、信ず祈ることはできるのです。」

  根源的な問いとは、その問いが根源的であるという意味です。そのほかの問い(自余の問い)とは区別される問いです。この問い以外の問いは、この問いの答えによってまったく意味がなくなるほどの問いです。

 人の死後の命運についての問いは、人には答えることが絶対に不可能な問いであり、かつまた根源的な問いであるゆえに、不可欠な問いなのです。問わずにはおれない問いなのです。

 この母親の問い、愛する息子の死後の命運についての問いは人の生命についての問いでした。人は人を産み育て、そして生涯を生き抜き、やがて世を去ります。生命の遺伝子は、個人の時を超えて人から人へとつながりゆきますが、個人の生命の命運はこの世のわずかな時を刻むだけのものなのであろうか。この母親の問いは、即、祈願に他なりません。

 エフェソの信徒への手紙は、ここで繰り返し「キリストにおいて」(11回)と語っています。

 人が信じ、祈ることを、創造者であり父なる神さまに、その祈りを届け、かなえてくださるのは、神と人とのただおひとりの仲保者キリスト・イエスだからです。

 キリスト・イエスは断言されました。

「23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 

         (ヨハネによる福音書16章23節~第24節)

「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」(23節)

  主イエスは、このように断言してくださいました。わたしたちは、この主の言葉を信じることができるのです。祈ることができるのです。

 神さまは、わたしたちを選んでくださった。この「選び」には、選ばれない人のことを語るために「選び」が語られているとは思えません。なぜなら、神の救いの目的が、「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(10節)とあるからです。

 「天にあるものも地にあるものも」とは、あらゆる存在を意味するからです。最後的目的がすべてのものの「統合」であるなら、その「選」にもれる「選ばれないもの」は存在するはずはありません。

 ですから、「わたしたち」は、実に、このみことばを信じ、祈る「わたしたち」です。

 神さまは、天地創造以前に、この「わたしたち」をすでに選んでくださっているというのです。

「4天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」

 わたしたちの命運は、「キリストにおいて」すでに神のお定めによって定められているというのです。

 それは、神さまがわたしたちを愛して、「イエス・キリストによって」、「聖なるもの」、「汚れのないもの」、「神の子」とするため、「御心のままに定めてくださった」というのです。

 わたしたちを、神の子とするために、神は、キリスト・イエスにおいて、「その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(7節)

   創造主なる神さまは、神の栄光、神の恵みの栄光を、わたしたちが「たたえるため」に、この選びを定めてくださった。

 ですから、あの根源的な問いの答え、すなわち「わたしたちの信じ、祈ること」は、わたしたちを、キリスト・イエスの血潮によって罪赦され、聖なるもの、汚れなきもの神の子とするという「輝く恵み(恵みの栄光)」を、たたえること(讃美すること)に直結するでしょう。

 このときすでにわたしたちは、あの「信じ、祈ること」の実現を堅く信ずることへと招かれ、ゆるされています。そのことで既に、天地創造以前からの、あの「御心」の実現を堅く信ずることへと招かれ、赦されているのです。

 このことこそが、「キリストに希望を置く」ことであり、「神の栄光をたたえる(讃美)」ことに他ならないのです。

「13あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」





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