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2025年6月7日土曜日

 2025年6月8日 (聖霊降臨日) 14:00

          東濃3教会聖霊降臨日合同礼拝        こどもの日・花の日



 「聖霊降臨の出来事」

                  使徒言行録2章1節~11節
1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

宣教事前黙想

 復活者イエスの出現の記録は、「甦り」の主が、「からだの甦り」の主でありたもう事実を示していたことは明らかです。
 しかしながら、その「甦りのからだ」の「身体性」は、自余の被造物のような「身体」でなかったこともまた明らかでした。復活者イエスの「甦りのからだ」は、閉じられた戸を開けずにとも、突如として弟子たちの真ん中に出現できたし、焼き魚を弟子たちの前で食べたりもされた。被造者のごとき様相を示していながらも、被造者であることを完全に超越した存在として、弟子たちに出現されていたのです。
 復活の主イエスの「身体性」は、人類の永遠の命、アブラハムの懐(ふところ)で、人類が授与される永遠の身体がいかなる存在となるのかを主イエスみずからお示しになられたところの「身体」だったといえましょう。
 復活者イエスと等しい身体とされることが、人類の、わたしたちの希望なのです。

 ヴィットゲンシュタインという哲学者の有名な言葉があります。
「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」
" Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.
           『論理哲学論考』

 死後の世界は語ることができなしいし、沈黙すべき事柄 

 いわゆる「死後」の生命については、「語りえない」事柄です。哲学者は、語りえない死後の生命については、人は沈黙せねばならないというのです。

 言語もまた人間世界の事柄ですから、被造者的な限界を持っています。ですから、言語で、被造者的限界を超えた「神の存在」を語ることはできないということになりましょう。

 聖書が証言している「聖霊降臨」の出来事も、言語の出来事としては「不可解」なものとなっているのは、言語の被造者的限界のなかで、神の存在、神の啓示の出来事を書き記すことが本来不可能だという現実に起因しているのではないしょうか。

 言語は、この聖霊降臨の証言において、ただ指し示す言語、比喩としての言語の範囲内に留まらざるをえないことが、不可解のもととなっているのではないでしょうか。

 たとえば、「炎のような舌」という表象が証言には記されていますが、「炎」も、「舌」も比喩的にしか理解することができません。 

 「炎」は神顕現の比喩であり、「舌」は言語の出来事を示す比喩です。

 視覚的な表象ですが、後世の画家も、「炎のような舌」を視覚的に表現することに困難を感じたのでしょうか、「舌」そのものを描かない絵画もあります。言語的にも視覚的にも神の啓示の出来事として表現することが困難なのです。有名なエル・グレコの「聖霊降臨」を見ても、「舌」のようには見えません。「舌」は、「言葉」を意味している用語ですのです。言葉を視覚的に表現することは、そもそも困難です。 

 霊の甦りではなく、からだの甦り

 初代教会は、復活者イエスとの出会いによって、甦りの希望を与えられました。
 しかし、当初から、主イエスの甦りは、「霊的な出現」であったと主張する人々が存在し、教会の信仰を脅かしていたようです。仮現論(ドケティズム)という異端は早くから存在していたのでしょうが、このような理解は、わかりやすいので、伝播力は凄まじいものがあります。わかりやすいというのは、想像しやすいからなのです。そもそも「霊的」という場合、その意味内容は、この用語を用いる人の考えの深浅に左右されます。つまり、使う人によって、勝手に想像のまま使うことができるのです。現代に「スピリチュアリズム」が流行するのも、人によって勝手にイメージをその人その人が創り出しているからなのです。
 「死後の世界」と呼んだり、「霊界」と呼んだり、「スピリチュアル・ワールド」などと、手を替え、品を替えて安易な使い方をしていますが、それらの用語の概念は、それぞれ別ものなのに、人は安易に「同一視」し、勝手に意味づけをしています。
 さらには、「霊界」と通信できるなどという事を言い出します。
 古来から、「口寄せ」とか「霊媒」とかの職業的な霊界と交流できると自称・他称の「巫女」「巫覡(ふげき)」は存在していました。旧約聖書は、このような存在を神への冒涜として厳しく禁止していますが、本来知り得ない、語り得ない死後の世界とか霊界と交流できると言い得る能力をもつという思想は、まことの神以外に知り得ない、語り得ない事柄を、知っている、語り得ると言うに等しいからです。言い換えれば、神の立場に自分を立たせていることに他ならないからでした。(レビ記 19:31、申命記 18章9節~14節)
注記 口寄せ(くちよせ)とは、霊を自分に降霊(憑依)させて、霊の代わりにその意志などを語ることができるとされる術。または、それを行う人である。

巫(ふ、かんなぎ)は、巫覡(ふげき)とも言い、神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指す。女性は「巫」、男性の場合は「覡」、「祝」と云った。「神和(かんな)ぎ」の意。

 主イエスの甦りを、単なる人間の能力の範囲内で想像し得る「霊的なよみがえり」だという主張は、「巫覡」と、質的に同一の前提が、その思想の根底にあるのです。

 霊的な甦りだという主張は、イエスの十字架の死の贖罪はどうなるのか

 論理的に考えてみよう。
 霊的に復活したという思想の前提には、通俗的な「霊魂不滅論」があります。人は死ぬと、肉体から霊魂のみが離れるというのです。イエスの「霊魂」が弟子たちに現れたという理解です。そうだとすると、イエスの十字架の死が、神の御子という代贖という意味はなくなってしまいます。イエスがただの人として殺されただけという意味になってしまうのです。「神の独り子の死」ではなくなるのです。主イエスは、死んで「よみにくだり」という意味もなくなります。死んでしまって、肉体は土に還ってしまっただけになります。このような「霊魂不滅論」を前提とした「霊的復活」しただけの「甦り」だとすると、主イエスの死は、ただの人の死にすぎなくなります。神ではないということになります。
 また、このようなイエスの死の理解であるなら、イエスは神ではなくただの人にすぎないだけではなく、イエスによる救いもまた存在しなくなります。イエスの「霊魂」を信じるということはどういうことを結果するでしょうか。ただの人にすぎない「イエスという男」を信じると言うことによっては、神と人間とが離反してしまった「神喪失性」(死)は、そのままになります。つまりこのような「イエスという男」の「霊魂」を信じても、「罪の贖い」はないことになります。このような「信じ方」によっては、治癒奇跡行為者イエス、すぐれた道徳的教師を信じたにすぎなくなります。これではもはや、キリスト教信仰とは別物です。「霊的復活」だという主張は、罪の裁きなきものです。それゆえ、裁きなきところに救いもあり得ないのです。
 

 キリストの昇天を礼拝した弟子たちは祈りつつ待っていた

 復活者イエスが弟子たちを祝福しながら昇天してゆくありさまを、弟子たちは礼拝しました。このとき、彼らははじめて、この時、復活者イエスを「まことの神」ご自身であられると、はっきりと認識したからこそ、神を礼拝したのです。
 復活者イエスは、まことの神であられる。
 まことの神の独り子なる神であられる。
 この神認識を、彼らはイエスの祝福と使命委任によって贈与されたのでした。
 この主の昇天は、事実として生起したことは疑いようがありません。
 なぜなら、弟子たちは「大喜び」で、主の命じたまま、エルサレムへと向かい、主がおくりたもう助けぬし、すなわち聖霊降臨を祈りつつ待ったからです。
 弟子たちのこの共同的な喜び、共同的な祈り、共同的な待望は、主の昇天を、彼ら全員が共同的に体験したという事実によってしか、説明できません。
 主の昇天の出来事は、ただ神の出来事としてのみ理解する他はない出来事なのです。主の昇天の出来事は、人間の経験則によっては、いかなる意味でも承認しがたい出来事です。人間の自然の認識力を超えている出来事なのです。
 ただの「霊魂」の昇天であるなら、「昇天」の必要すらなかったでしょう。
 ただの「霊魂」であるなら、共同的な体験として、同時に生起する必要すらなかったでしょう。否、弟子たちに出現する必要すらなかったことでしょう。
 ただの「霊魂」にすぎないのであれば、人間の頭脳の中で想像しさえすればよいからです。
 「キリストの昇天」は、ただ神の啓示の出来事として理解するときにのみ、了解されるのです。いかなる意味でも、自然現象のような事象として理解することは不可能な、そしてかつ具体的な出来事だったのです。
 

 聖霊降臨は神顕現の出来事であり、共同的にして個人的な派遣の出来事

 神の啓示の出来事は、人間的事件とはまったく別次元の出来事です。
 人間の言語では表現することはできないのです。その不可能な事柄を、不可能でありながら、その出来事を表現しなければならないとき、福音書記者は視覚的なイメージで、その人間にとっては不可解な出来事を不可解なままに記録にとどめてくれたのです。それが聖霊降臨の出来事でした。
 この啓示の出来事は、主イエスの派遣の予言の成就として生起しました。
 独り子なる神・復活者イエスによる聖霊さまの派遣の出来事なのです。
 聖霊さまの派遣は、祈りつつ待望していた弟子たちの共同体に生起しました。
すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(4節)

  「一同は聖霊に満たされ」という言葉が、この出来事が、弟子たちという集団に、共同的に生起したことを示しています。

 共同的な派遣の出来事だということと同時に、この出来事が、まったく個人的な次元においても生起していることが示されています。 

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。(3節)
 共同的にして個人的な派遣なのです。
 

 聖霊降臨は言葉の出来事

 聖霊は、教会共同体に派遣されたということが、教会という存在を、わたしたちがいかに認識するかということの基礎です。
 すなわち、教会・キリスト者共同体は、「聖霊の共同体」だということなのです。
わたしたちは、使徒信条において告白します。
   我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
  罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン

「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と告白します。つまり聖霊を信ずるということは、教会を信ずる信仰なのです。聖徒の交わりを信ずる信仰なのです。

 信仰は人が語りえぬことを、神が語りたまうことして信ずること

 身体のよみがえりを、わたしたちは信じます。キリストがわたしたちに与えてくださる永遠の生命を信じます。「身体のよみがえり」も、「永遠の生命」も、被造者にすぎない人間には決して語り得ぬ事柄です。絶対に語ってはならない事柄です。

 ただ、まことの神ご自身がお示しになる他はないからです。

 聖霊降臨の出来事によって、わたしたちは語るべき言葉を、聖霊さまご自身が語らせるままに語るべき使命を、主イエスより使命を委任されました。それゆえに、わたしたちは、世界のすべての人びとに、主が語り給ふ救いの福音を宣べ伝えなければなりません。

 いまや、人が語りえぬ事柄を、神ご自身が語らせるように語るべき者とされたのです。

                            アーメン


 


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