2025年4月20日(復活節第1主日・復活日)14:00
坂下・東濃3教会合同礼拝
マタイによる福音書28章1節~10節
「キリストの復活」
主の復活をお慶び申し上げます。
主の復活の日が週の初まりとなったことは、人類歴史において、主の甦りが、わたしたち人類の新しい創造が開始されたことを意味します。
仏教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、ヒンズー京都であろうと、無神論者であろうと、この日が、新しい1週間のはじまりである事実は、共同的に共有しています。
すべての人が、この日から、新しい時を生きるということなのであります。
主観的には、主イエスを知る人も、知らない人も、この事実を共有して、時を旅しているのです。
まずこの現実を素直に喜びたく思います。
どうか、キリスト者以外の人々も、今日という日を、今というこの時をもって、新たに生きる決意をしようではありませんか。
さて、今日はマタイによる福音書によって、復活事件を黙想します。といいますのは、福音書によって復活の出来事の記述がさまざまだからです。
同じ現実を、福音書記者によって、その伝承・報告が異なることは、この出来事の歴史性を疑う根拠にはなりません。
同じ現実の「記憶」が人によって、また共同体によって、その信仰的な強調点が特に際立って記憶されたり、伝承されたりすることは、特に古代世界において、
訝る必要はないと考えられるからです。現代のように、記録媒体がデジタル化されて、野球の審判でも「リクエスト」で判定がひっくりかえるくらいですから、二千年前の古代世界に生きていた人々の、当然の時間世界、空間世界で、それぞれが特異な記憶を伝承してゆく過程で、遷移してゆくことは不思議なことではありません。
むしろ、遷移していて当然なのです。
ですから、福音書間での報告の相違は、むしろそのことによって、復活事件そのものが、そのような人間的な要素による相違にもかかわらず、核心となる主イエスの甦りについて、まったく一致していることこそ、この出来事の史実性の根拠とみるべきでしょう。
前置きはここまでにして、本題に入ります。
本日の主たる黙想は、復活の出来事の客観性です。
客観性とはどういうことを意味しているかといえば、それは主観性とは異なり、主観的な出来事ではない、つまり、人の主観がどうであれ、それとはまったく独立している出来事だということです。
主観から独立しているということ、そのことは、その出来事がどのように体験されているかどうかということとは、「無関係にその出来事が起きている」ということです。
まず、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともうひとりのマリアが、墓を見に行った。」(1節)とあります。
ユダヤ教の安息日は、今日でいうと土曜日になりますから、まさにその翌日の明け方ということになります。
キリスト者共同体は、この日、すなわちまさにユダヤ教の安息日の翌日を、「週の初めの日」へと変更したということが、この箇所で明らかにされています。
当時は、主イエスの弟子たちはみなユダヤ教徒で、イエス御自身もユダヤ教徒でしたから、そのユダヤ教徒にとっての「安息日」を勝手に恣意的に変更することなど絶対あり得ないことでしたから、復活事件が起きたその日をもって主の復活の日として、すなわち人類創生の開始された日として記念したことによってしか、安息日の変更の説明になりません。つまり、この1節で、主の復活事件の史実性、客観性が、すでに証明されていることになります。
次に、わたしたちは、2節から4節までの、「天使の出現」、それに対する「番兵たち」の反応を見ます。
「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(2節~4節)
「大きな地震が起こった。」 地震はなんといっても自然現象ですから、主観的な何かではまったくありません。つまり「客観的な事件」です。太陽が善人にも悪人にも等しく太陽であるのと同じで、誰にとっても地震は地震です。
ただ、誰にとっても同じ客観的事象を経験する側の人によって、主観的な経験内容は異なってきます。
「主の天使」が「天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」、「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」。これらの出来事は、自然現象とは言えない。自然現象は、自然法則に従っている事象です。つまり自然の法則性がかならずあって、その法則通りに繰り返し発生してくるものが自然現象ですから、一刻一刻と再現されつづけているので、この「天使の出現」のように、全宇宙の全時間のなかで、ただ一度だけ起こった出来事は、自然現象とは言わないのです。
言い換えれば、ここで起きたことはただ一度限り、この主の復活の日にだけ起きた出来事なのです。
ただ一度限り、起きた出来事であったことだからといって、それが主観的な経験だということにはなりません。
この出来事もまた客観的な出来事だと言わねばなりません。
なぜなら、この出来事に遭遇してしまった「番兵たち」は、「主の天使」と遭遇して、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と報告されています。
「番兵たち」ですから複数人いたことになります。
この複数人の「番兵たち」は、自分が見たいものを見たのではない。信じたいものを信じたのでもない。むしろ彼らにとっては思いもかけない対象と遭遇したのです。このことは、彼らの願望とか、彼らの信仰による幻想とか、そのような彼ら自身が生み出した心象風景という主観的な事柄ではないことを意味しています。
しかも、そのことは個人的な経験ではなく、複数人が同時に「死人のようになった」という変化を彼らにもたらした。
つまり、かれらにとっては想像もできない、恐るべき経験によって、彼らは「死人のようになった」。身体的に「死人のように」なったということです。
そしてさらには、この番兵たちの今後について、マタイによる福音書は11節から15節において、次のように報告しています。
「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」
「番兵たち」は、主の天使と思いも寄らない遭遇でしたのに、ただちに「この出来事をすべて祭司長たちに報告」しています。そして、命じられるまま、虚偽の風説を拡散させたのです。彼らは、神の啓示の出来事に遭遇していながら、イエスの復活を知りながら、彼らには、イエスへの信仰のかけらも感じられません。それどころか主イエスの復活事件を、弟子たちによる死体の窃盗事件だという虚偽の発信者となったのです。
この番兵たち数人は、神の啓示に遭遇していながら、そのことによって彼らの主観においては、実際に経験した出来事を深く熟考することよりも、地上の権威にすぎない祭司長に従うことのほうが優先的な事柄だったのです。彼らにはイエスへの信仰は生起していないし、神への信仰への深い祈りも熟考もありません。これが彼らの主観です。
したがって、「天使の出現」というただ一度限りの啓示の出来事は、啓示の出来事として客観的な出来事であったことが、「番兵たち」の反応によって、逆説的に証明されているのです。
彼らは、「主の天使」に遭遇し、そのメッセージを聞いています。空虚な墓の事実を知ります。しかし、彼らは、「主の天使」の使信内容を知りながらも、そのことには蓋をして、イエスの死体がなくなっている「空虚な墓」の現実を祭司長たちに報告したのです。
神の啓示に遭遇しながら、「番兵たち」には信仰は生起せず、「マグダラのマリアともうひとりのマリア」には信仰が生起しています。
この両者の相違と区別が、主の復活事件の客観性を担保していることになるのです。
第三の論点に行きましょう。8節から9節までを見てみましょう。ここには「からだの甦り」という事実が報告されています。
「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」
婦人たちは、「恐れながらも大いに喜び」即座に「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」と報告されています。
初代教会の時代から、主イエスのからだの甦りの報告を信じられない人は、多くいました。弟子でさえも、湖上を歩かれた主イエスを「幽霊」だと勘違いしたくらいなので、何も不思議ではありません。番兵たちが主の天使と遭遇し、身体的に病態を呈するほどの衝撃を受けていながら、その体験を封じ込めたくらいです。甦りの主イエスとじかに出会って時を共に、食事をも共にしていても、まだ「わきばらに手を差し入れなければ信じない」という者もいたくらいです。
甦りの主イエスと出会ったという婦人たちの報告を、信じない弟子たちがいても不思議ではないし、婦人たちが出会ったのは、「主イエスの霊」だなどと、自分勝手な想像に封じ込める人たちがいても不思議ではありません。
古代世界でも現代世界でも、事情はまったく同じです。
「主イエスの甦りは、主イエスの霊の出現なのだ」と、自分の頭の中で理解可能な解釈、「そういうことなら信じられるが、からだが甦ったなどとはとても信じられない」という人々は、たくさんいます。そういう人々は「霊」的な出現ならば信じるというのですが、そういう信じ方をすれば、いくらでも「作り話」ができるので、似たような「作り話」を信じこませることに成功した人は、信者を獲得します。あらたな「宗教」を起こしします。「新興宗教」が星の数ほど出てくることになります。
しかし、聖書の報告は、そのような「霊的出現」「「霊的に復活」した」などとはまったく語っていません。
婦人たちは、主の天使の使信をまっすぐに信じました。
「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。』」
天使たちが言ったことは、「かねて言われていた通り、復活なさったのだ。」という事です。
「9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」
婦人たちは、復活の主にであったときに、主のみあしにすがりついています。「霊的出現」ならば足に抱きつくことは不可能です。「身体」だからこそすがりつけるのです。「霊的出現」ならば、そもそも「復活」とは言えません。
「霊的出現」は、時も所もを選ばず、イエスの意志によって自由自在に、いつでもどこでも起こらねばなりません。
「霊的出現」ならば、「遺体の置いてあった場所を見なさい」と語る必要はありません。物体としての「遺体」は墓に存在していたはずです。しかし実際は、「遺体」はなかったのです。だからこそ、「遺体のあった場所を見なさい」と天使は命じたのです。天使の命令は主イエスの身体の復活が起きたのだということを、示しているのです。
そして、天使は、弟子たちに、告げるように命じます。「ガリラヤで、主イエスにお目にかかれる」と。主イエスが出現される場所を指定しています。
「霊的出現」ならば、場所の指定は無意味です。
場所の指定は、復活の主イエスの「身体」の出現の指定です。
この「身体」は、わたしたちの「身体」とは、まったく異なる「復活のみ身体」であることを明示しています。
「主イエスの復活の御身体」は、地上で死なれた時までの「み身体」とは、決定的に異なっていることが示されているのです。
主イエスの復活の御身体は、わたしたちの「身体」とは異なる「身体」なのです。
特定の時と場所に出現された「復活の主イエス」確かに、「身体」をもっておられたもうた。
その復活の主イエスの御身体は、弟子たちに出現し、天に昇り、神の右に座したもうた。特定の時と場所に出現した時は、この特定の時と場以外にはありません。
その後は、主は聖霊降臨の出来事によって、キリストの御身体を、聖霊として地上に現臨されています。
だから、わたしたちキリスト者共同体は、主イエスの地上における、復活の御身体の写しであらねばなりません。
わたしたちは、復活の主の御身体の一部であり、「影」なのです。
「影」にすぎないわたしたちは、やがて、主の最期の審判によって、正しい裁きを受けて、
主の復活の御身体と等しいさまに変えられる希望を与えられています。
そのとき、わたしたちは、身も心もすべてが新たにされ、主の甦りの御身体とひとつにされるのです。
この希望のものとに、わたしたちはあるのです。
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