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2025年4月1日火曜日


2025年4月6日(日)四旬節第5主日 

マタイによる福音書20章20節~28節

「十字架の勝利なき人倫なし」


事前黙想


マルコ伝ではゼベダイの子ヤコブとヨハネが直接に、主イエスに願い出ることというエピソードですけれど、マタイ伝では、ヤコブとヨハネの母が、息子二人を側近として重用してほしいと、願い出たということになっています。

両者の相違は、大きな事柄として区別されるべきです。ヤコブとヨハネが直接に願い出たということであれば、弟子としての心根に、「権力願望」という罪があることが浮かび上がります。母親からの願い出であれば、子離れできない親の自己実現の問題が浮上してきます。

いずれも主イエスに従う信仰の道にあっては、捨ててゆくべき事柄でした。マタイ伝で、主イエスが明らかにされた信仰の道は、マルコ伝とはニュアンスが異なります。28節「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」とあり、「同じように」と主の苦難の道と人間の信仰の道のあいだに「類比」があることを明確に語っておられるからです。



事前黙想その2

マタイによる福音書20章20節~28節

「十字架の勝利なき人倫なし」

「堕落論の解明」という主張こそ罪の極み

神と人との交わりが断たれ、関係が喪失していること、これを「罪」という。

われわれ人間は神と人との関係を一望する視座を持ち得ない。

人は被造者であるから創造者と被造者の関係を一望する身分をもたないのである。

ゆえに、「罪」をわれわれは、その存在の本質からして、そもそも「認識」できない。

われわれ人間にとって、「罪」を認識すること自体が、「神」を認識することができないのと同様に、

不可能なのである。

「罪」は、ゆえに、その影のようなもの、比喩としてただ、示されるままに、知らされるのみなのである。


当然、神が授与したもうた「十戒」は、人倫において、われわれに「罪」の認識を与える。

神の誡命を守ることを神は命じられたのであるから、誡命に違反するということによって、われわれには、「罪」の認識が示されることになった。

しかし、それは神と人との関係喪失の結果を認識しているにすぎない。

「死」とは、神と人との関係喪失の事態をいう。

誡命を破ることによって、人は既に死んでいるが、死んでいることすら認識してはいないのである。


誡命に違反することによって、「罪」の認識がいくらかでも与えられるならば、それは恵みによるのである。

誡命に違反しても、「罪」の意識すら与えられないという「罪」に陥っている人は神と人との関係喪失という「死」を、

なにほどにも知ることはできない。

「死んでいること」すら認識できないのである。


罪の限定的理解は、罪を限定するという意味での罪を、既に犯している。

既述したように、人間には罪を認識する能力は存在しない。

神の誡命に違反することによって、罪意識を恵みとして与えられることはあっても、それは罪自体ではなく、罪の結果の一部にすぎないのだ。

罪を限定することは、神を概念化することを前提としている。

概念化された神は、神御自身では、もちろんありえない。


神は概念化された瞬間から、人の思考内の道具に化しているからだ。


ゆえに、「堕落論の解明」などというのは、児戯に等しい。

それにとどまらず、それ自体が罪の結果なのである。


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さて、語調を変えて、今日の聖書の箇所に話を戻しましょう。

以下聖書の引用

20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」



「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」

主イエスのこの言葉を読んだときに、わたしのあたまに二人の人物が、重なって浮かんできました。

一人は、アドルフ・ヒトラー、もう一人はドナルド・トランプ。

なぜ浮かんできたのでしょうか。

偶然、聴いたヒトラーの演説とトランプの演説が、そっくり同じようなセリフだったからかもしれません。

ヒトラーは言いました。「ドイツ国民のために」。

トランプは言いました。「アメリカ国民のために」。

 どちらも「ために生きる」と言うのです。

たしかに偶然と言えば偶然ですが、符合したのは、不思議ですがけれど、わたしのあたまには、二人がそっくり同じことを言っていると記憶されていたのです。

二人とも、主イエスの言葉どおりに、「権力を振るっています。」

ヒトラーは「救世主」を気取り、トランプは自分はクリスチャンだと言っています。

けれども、主イエスは彼らのようになってはならない。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」と命じているではありませんか。

「ために生きる」と吹聴する人は、その言葉で「権力をふるっている」のです。


しかし、主イエスは、「権力をふるう」ことを禁じておられるのです。


人が二人いるところには、しかし、力の差がいつしか生じてきて、「権力」関係がうまれてしまうのではないでしょうか、と。

権力関係は避けられないのではないかという疑問が湧いてきます。

たしかにそうです。

完全に平等という関係が望ましいけれども、たとえ水平的な人間平等という理想は尊いものです。

けれども、現実の人間関係にあっては、状況によっては必ずといってよいほどに、力の高低、大小といった「差異性」が存在してくるものです。


極端な例かもしれませんが、わたしの脳裏には、アウシュビッツの収容所が浮かんでいます。

この場に於いて、殺す側の人間と殺される側の人間という極限的な権力関係が存在していました。

この権力関係にいま、焦点をあわせるのではなく、コルベ神父とコルベ神父によって命をとりとめた人との関係に、わたしは関心があるのです。

それだけではなく、コルベ神父と生殺与奪の力をもつナチスの死刑執行人との関係もあります。

わたしは、コルベ神父は、主イエスの命令に、忠実に従った人だと思います。

わたしの脳裏に登場しているこの三者の生き方、そして死に方を想起するとき、主イエスの命令に忠実たらんとしたのは誰であったのか。

誰の目にも明らかなのではないでしょうか。

ヒトラーは、600万人の人々を毎日ガス室に送りながら、ベルクホーフの豪華な別荘で愛人と優雅に暮らしていた。

アウシュビッツ・ビルケナウで餓死室へと送られる側に、マクシミリアノ・コルベもフランツィシェク・ガヨウィニチェクもいあわせていたのです。

二人の間には、そこにただいあわせたということ以外には何の接点も交わりもありません。

しかし、まことの神、主イエスは、世界のいずこにいても、その現場に必ずいたもうのです。

ふたりの間には、主イエスの命じられた神の言葉が存在していました。


「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」


「偉くなりたい」という事柄が意味するものは、ヒトラーやトランプのような権力をふるうことでないことは明らかです。ですから、「偉くなりたい」という事柄は、主イエスが示したもう「偉大さ」への渇望でないはずはありません。

「偉くなりたい」という願いは、権力をふるうことを禁じておられるのですから、権力を否定した意味でなければなりません。

具体的には、「仕える者」になり、「皆の僕(奴隷)」となることを意味していました。

二人の間に、力の関係が、不可避なのだとすれば、その力の関係において、「仕える者」「僕(奴隷)」となることを、「偉くなる」と言われたのです。

しかも、その「仕える者」「僕(奴隷)」という身分、立場に身を置くということは、さらに具体的に、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」ということを意味していました。

 「人の子」主イエスが、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(贖い)として自分の命を献げるために来た」すなわち、十字架の死をもって、人類の贖い(身代金)となって「自分の命を捧げる」ために受肉されたという「贖罪の死」こそが、人の行くべき道の範であると示されているのです。

 ここには、明らかな「類比」が存在します。

 主イエスの十字架の道と人倫の道とのあいだには、明らかな「類比」があるのだと主イエスは語られたのです。

 そえは「同じように」という連結のことばによって示されています。


 あなた方が「偉くなりたい」のであれば、人倫において、主の十字架の犠牲の道と、「同じように」、「仕える者」「僕(奴隷)」となりなさい、と命じておられるのです。

 コルベ神父とフランツィシェク・ガヨウィニチェク(コルベ神父が身代わりのなって命を救われた人)のあいだには、この主イエスの命令がたしかに存在していたのです。

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母には、主イエスが、いかなる道を歩んでおられるのか、まったく理解することができなかったのでしょう。彼女が主に願い出た望みは、この世でいうところの「立身出世」「栄達」願望と言ってもいいくらいの、「欲望」なのでした。息子二人も母親の陰に隠れているように見えますが、まったく同じ「欲望」の虜にすぎません。

 ですから、

 「イエスはお答えになった。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』」と。

 主イエス御自身が、今十字架の死に向かって、歩んでいると言うことを、既に弟子たちに告知していたにもかかわらず、最初から従ってきていた弟子にすら、理解されてはいなかったのです。弟子たちに信仰がなかったということではありません。信仰はあるのです。忠誠心もあるのです。思慕もあるのです。尊敬心もあるのです。

 けれども、主イエスの目的を、正確に理解することは、まったくできでいなかったということが、この彼らの願い出によって、明らかになってしまったのです。

 「弟子の無理解」は、主イエスの十字架の極みにおいてすらも、継続してゆくのです。そして、そのこと自体が主の十字架の苦難の内容でもあるのです。

 主は最愛の弟子にすら理解されずに、最期を迎えねばなりません。それもまた苦難の内容そのものをなしています。

 主イエスの孤独、最期まで主イエスは、たった一人、誰からもキリストとしての聖なる使命を理解されないままに、死にたもうたのでした。


 『このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』

 この杯が何を意味しているか、明らかでしょう。十字架の「苦杯」以外の何でしょうか。

 「できます」と即座に答える弟子に、「苦杯」の意味が理解できているはずもありません。


 しかし、主は続けます。

 「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」

 

「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」

 主は、弟子たちが、いまここではまったく理解できていない「苦杯」を、弟子たちは「飲むことになる」と言われました。これは予言なのです。

 弟子たちが、今はまったく理解できない「十字架の死」という「主の杯」を、理解しないままに「できます」と答えているのにもかかわらず、「わたしの杯を飲むことになる」と主は言われました。

 理解できない弟子たちが、将来において、主イエスと「同じように」「十字架の死(殉教)」という苦杯」を飲むことが出来る日が来ると、主は予言されたのです。

 いまの弟子たちには、このみことばの意味は、おそらく「謎」にしか聞こえていないことでしょう。

 

「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」

 他の10人が憤慨したのは、この弟子たちも、二人の弟子とまったく同罪であったということを示しています。彼らも、主の十字架の道行きについて、無理解のまま、主イエスに対して、「この人についてゆけば栄達の道が開ける」という自己欲望達成の道具にしているにすぎないのです。

 

 このエピソードが確かな希望をわたしたちに与えている事柄がみえてきます。

  いかに、弟子たちすべてが、ただの一人も主イエスを理解していないとしても、主イエスは、この無理解な弟子たちを決して見棄てたまわなかった。

それどころか、この無理解な弟子たちに、福音宣教のすべてを、託されたのです。

 人は理解できるからこそ、従えるのか、いやそうではないと聖書は事実をもって伝えているのです。

 人は理解して信ずるのではありません。

 信ずる魂は、人の主観、経験、体験という限界をはるかに超えた神の力の賜物なのです。

 信ずる魂を、神が与えたもうのです。

 神が与えたもう魂は、みずからの自己欲望を捨てることができ、主イエスが歩まれた道と「同じように」行くことが可能にされるのです。

 コルベ神父は、神から与えられた魂を、主イエスの御声をままに聴き、従いました。

 決して、コルベ神父は、自己の欲望達成のために、身代わりの死を歩んだのではないのです。

 

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