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2025年4月10日木曜日

 2025年4月13日(四旬節第6主日) 棕梠の主日(受難週19日まで)

◎田瀬・付知合同 14:00 四月十三日は付知教会で礼拝をします。

◎坂下教会    10:00 

『主イエスは十字架上で殺害されるために来られた』


宣教は、実際には、原稿を見ずに語ります。いわば即興「ライブ」です。事前の原稿にはないこと、また事前の原稿にあることが省かれることが多々あります。

事前黙想原稿

『主イエスは十字架上で殺害されるために来られた』

マタイによる福音書27章32節~56節

    32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

    33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、

    34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。

    35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、

    36そこに座って見張りをしていた。

    37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

    38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。

    39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

    40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

    41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。

    42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。

    43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

    44一緒に十字架につけられた強盗たちたちも、同じようにイエスをののしった。

    45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

    46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

    47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。

    48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。

    49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。

    50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

    51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、

    52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。

    53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。

    54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

    55またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。

    56その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 この十字架の出来事に登場する人々を見てみましょう。

      ①兵士たち(32節)、

      ②キレネ人シモン(32節)、

      ③二人の強盗(38節)、

      ④十字架の前を通りかかった人々(39節)、

      ⑤祭司長たちや律法学者と長老たち(41節)、

      ⑥十字架上の主イエスが叫ばれたとき、そこに居合わせた人々(47節)、

      ⑦そのうちの一人(48節)、

      ⑧他の人々(49節)、

      ⑨眠りについていた多くの聖なる者たち(52節)、

      ⑩眠りについていた多くの聖なる者たちが墓から出てきたときに、それを目撃した多くの人びと(53節)、

      ⑪百人隊長やイエスの見張りをしていた人たち(54節)、

      ⑫遠くから見守っていた大勢の婦人たち(55節)、

      ⑬マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母(56節)

 重なる人物もいますが、登場する人々はざっと13のキャラクターが挙げられます。

  (主イエスに対する態度によって色分けしています。)

   こうして俯瞰してみると、主イエスに対する態度が、登場する場面が展開してゆくとともに、大きな変化がみられます。

   44節までの人々は、キレネ人シモンを除けば、主イエスへの罵倒・中傷・試み・嘲笑の態度・発言をしています。

 しかし、午後三時をすぎて、主が父なる神にむかって叫ばれたときの描写に登場する人々は、主イエスに対して宗教的な関心を寄せていたり、まさに死んでゆくイエスへの気遣いを見せていたりしています。つまりイエスの十字架上の死を境目に、人々の態度の変容が窺われるのです。

 イエスを嘲笑する人々がすべて変容したのかどうか、詳細は不明です。たしかに嘲笑・中傷する人々のなかには、イエスの死後も相変わらずイエスへの態度を頑なに変えない人々も、あるいはいたかもしれません。

 しかし、この変容の描写の展開を見ると、主イエスを嘲笑し、憎悪と言っても過言ではないような態度を示していた兵士たちが、54節で描かれている「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちと同じ人々であったという可能性は、否定しきれない、とわたしには思えるのです。

 つまり、イエスを憎悪していた者たちが、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」

可能性です。

 極端な言い方をすれば、イエスを殺す側で、この処刑場で立ち会っていた処刑人たちが、主イエスの死の時に、起きた出来事を目撃して突如として信仰告白に至ったということを読みとることができるのです。

 この劇的な出来事というものが、あったからこそ、初代教会の信徒たちが、殉教をも超えてゆく信仰告白を支える「神の死の記憶」として、魂のささえとすることができたのではないか、わたしにはそう思えるのです。

 まさに、主イエスを殺害した当時者たちが回心した出来事がここに起こったのでした。

 この事実は、初代教会のなかでの回心の証言として存在し続けたはずです。この出来事は、初代教会の信徒たちの中では、イエス殺害に関わった処刑人でさえもが、証言者として、兄弟姉妹として受け入れられていた!ということを意味しています。

 まさに仇敵、怨讐ともいうべき主イエス殺害の当時者たちを、キリスト者共同体は、主イエスにある兄弟姉妹として受け入れ、証言者として尊敬し、伝承してきたのです。

 それでは、逆に「背信者・棄教者」の存在に対しては、わたしたちはいかに振る舞うべきでしょうか。

 その根源的な問いを遠藤周作は『沈黙』のなかで、キチジローという「裏切り者」への赦しというテーマで浮かび上がらせました。

 キチジローの密告によって、ロドリゴは捕縛されます。まさにユダそのものです。しかし、教会はこの弱きもの、信仰薄きものを赦します。

 背信者・棄教者に対して私たちがとるべき態度、心的な態度は、キリストを殺害した者を、主イエス御自身が愛したもうたという、神の慈愛に満ちた態度こそに、唯一の模範を求めるのです。

 なぜなら、主イエスは御自らを殺害した者の赦しを、神に懇願されましたからです。

 この愛敵の態度こそ、背信者・棄教者への唯一の根源です。

 愛敵なのです。敵愾心ではなく愛敵の心なのです。


 主イエスを殺害した兵士たち、見張りの者たち、百人隊長らが、同時に「回心」したのは、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れて」のことでした。その「いろいろな出来事」とは、52節、53節に語られている死人復活の出来事を指しています。

 つまり、主イエスが復活した後、死人の甦りがただちに起きているというのです。

 わたしたちは、ここでも、自分の自然的理性が納得出来ない場合には、そのことには蓋をして、合理的な説明、たとえば、神話的表象とか、古代人の信仰による福音書記者の想像とかで自分を納得させようとすることは避けます。なぜなら、福音書記者の「創作」などということであれば、当時主イエスの処刑の現場に「居合わせた人びと」が現に存命している時代ですから、その人たち(イエスの死の証人たち)が、なにゆえに、嘲笑する者から、「本当に、この人は神の子だった」と信仰告白するという者へという劇的な人格変容が起きたのか、説明がまったくつかないからです。初代教会に存命中の当時者たちが、マタイが作り話を書いているのなら、許すはずはありません。

 彼らが回心した現実が作り話だということになりますし、何より彼らが回心した原点である、現実にその出来事(死人の復活)が起きたからこそ、「恐れた」という心的な激変が起こったのにもかかわらず、その重大な事件が実際は何もなかったことになってしまうからです。それこそ非合理的です。

 そればかりか、ここで甦った人たちの出現は、イエス殺害者の当時者の回心を呼び起こすという直接の出来事だっただけではないはずです。復活者イエスが弟子たちに、何度も御自身をお顕しになられたけでなく、「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」のですから、この「聖なる者たち」はただ出現したに留まっていた筈はありません。この甦った人たちもまた、初代教会の構成員として、兄弟姉妹、さらには指導者として霊的な牧会を担ったことでしょう。

 つまり初代教会には、死者のなかから甦った人びとが多数存在していて、現世を今生きている信徒と共に生きていた、そういう時代が教会にはかつて存在していたということです。

 この十字架の出来事、甦りの出来事を、わたしたちは真剣に受けとめる必要があります。

 つまみ食いのように、お気に入りのところは受け入れるけれども、納得できない部分は、蓋をする式の「信仰」は、むしろ非合理的なのです。神さまにはできないことは何一つありません。

 神さまのなさる出来事は、科学的に検証可能な領域をはるかに超えた異次元の世界です。信仰は科学とは何一つ矛盾はしません。科学が対象とする領域は、神さまの領域とは異なるのです。神さまが創造したもう被造物の世界は、限りなく科学の対象として存在します。しかし、被造物の世界は、神さま御自身ではないのです。

 神の独り子なる神の十字架の死と復活の出来事は、科学的検証の領域ではないのです。ただし信仰の対象を科学的に、理性的に受けとめて祈りをもって考え抜き、その事情を知ろうとすることは、それ自体は神学的サイエンスそのものです。

 墓から復活者たちが出現し、多くの人に現れた。その出来事に出会い、恐れ、主イエスへの信仰告白「回心」が起きた、この一連の出来事を徹底して科学的に考究することは、信仰の認識の深化に他なりません。

 ゆえに、わたしたちは、身体の甦りを、真剣に受けとめ、祈りの内に考えぬかねばならないのです。

 







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