2025年6月29日 (聖霊降臨節第4主日)
「世の光としての使命」
フィリピの信徒への手紙2章12節~18節
「恐れおののきつつ」
徹頭徹尾、神の恵み、即ち恩寵こそが、人の「内に働いて」、神の意志(御心)ままに、「望ませ」、「行わせる」と使徒パウロは言います。
つまり、わたしたちの内に神ご自身が働いてくださり、御自身の意志を実現させたまうがゆえに、わたくしたちが「望む」ことは、神の御意志のまま「望む」という事であらねばならないというのです。その「望み」は、必ず「行う」という人の行為をも促し、実行させたもうということでなのす。
しかるに、もしもわたしたちのが、わたしたち自身の「内に」、神の御意志に反逆し、「何事に」つけ、「不平や理屈」を言い、神の御旨に反抗する邪悪な精神的態度が残すのであれば、「よこしまな曲がった時代」の子に転落し、もはや神の子とは言えなくなるのです。(申命記32:5)
わたしたちの「内に」働かれる神の恵み(恩寵)を、あえて拒むこの態度の残滓が一片だにあるとすれば、わたしたちは、真剣に自己を糾明し、みずからの「内」から、この残滓を払拭し、「従順でいて」、「恐れおののきつつ」、「自分の救いを達成するように努め」るべきなのです。
不断の自己糾明と悔い改め(方向を神に向ける決断)と、「救いの達成」に努めるならば、「とがめられるところのない清い者となり」、「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」、「命の言葉」の保持するとパウロは断言します。
この神への反逆心という罪の残滓の払拭をなし得るのは、ひとえに、わたしたとの内に働く神の恵みが神の愛によって、惜しみなく注がれているからです。
それゆえにこそ、わたしたちは、神の恵みにいっそう敏感に、繊細に、真剣に、気づかされる認識力を願い求めばければなりません。それが「恐れおののきつつ」という精神的態度なのです。
パウロの喜び キリスト者の完全
裁きの日に、キリスト・イエスによって神の子として、天上の神と共に永生すること、信徒ひとりひとりが「命の言葉」をしっかりと保ち、「世にあって」も、「星のように輝く」ことを実現することが、使徒パウロの喜びだというのです。
わたしは、この箇所を読んで、パウロが衷心から信徒に完全なるキリスト者であることを望んでいたのだろうと思った。
完全な救いを、信徒ひとりひとりが実現・成就することを心から願っていたのではないだろうか。
魂の奥底にも、ひとかけらの邪心のないことを、救いというならば、完全な救いを達成することは、はたして可能なのだろうか。そんな「理屈」をこねてしまうのは、わたしの罪でしょうが、「完全さの達成」は、どこまで努力しても、永遠に遠ざかるような、近づいても限りなきはるかかなたに、逃げ水のような事柄なのではないのだろうか。
しかし、パウロの語る達成点は、明確です。
「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」
「非のうちどころのない神の子として、星のように輝く」と言うのですから、まさしく「完全性」を、彼は確信しているように見えるのです。
パウロが観ている「完全性」は、いったいどういう事を意味しているのだろうか。
達成とは、人の評価とか価値とかではない
人は老い、やがて地上でのからだは朽ち果て、土に還ります。人の生物としての限界はあまりにも明白です。人は、それゆえ隣人を愛するという具体的な行動も、いずれは断念せざるを得なくなります。ですから、限りあるいのちの存在としては、誰しもが、神の愛のみ旨を行動にうつすことができなくなるのです。
そうであっても、キリスト者の完全を達成すべく、真剣に、衷心から努力を続けるべく「もがきあがく」べきなのでしょうか。
いやいや、そういう「達成度」は、「評価」主義、実績主義ですから、神さまは人を、そういう秤で観ることはなさらないでしょう。
では、「キリスト者の完全」とはいったいどういう事なのでしょう。
いのちのみことばをかたくたもつ
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(13節)
みことばに立ち帰って考えます。
人の内に働く神ご自身が、人に「御心のままに望ませ、行わせておられる」のです。
わたしたちは、老いようが、病に伏せようが、いかなる苦境に墜ちようが、つまり、わたしたちのからだやこころがいかようであろうとも、神の恵み(恩寵・御心)は、「神の御心のまま」なのですから、決して変わらないのです。
わたしたちが認知症になったとしても、それによって神の意志が変わるはずはありません。「神の御心」は、絶対なのです。
だから、わたしたちは、この「いのちの言葉」にかたく立つこと、「いのちの言葉」をかたく保つことは、わたしたちの限界をはるかに超えているのです。
この確信をパウロは獄中で語っている
フィリピ書を、パウロは獄中で書いていることを忘れてはなりません。彼は身体の自由を奪われた環境で、会うことのかなわぬフィリピの信徒たちに、「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」と、励ましているのです。彼には外的な環境は、なんら精神の自由に影響してはいません。
むしろ、彼は殉教すらも予感しています。
「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。」(17節)
獄中にありながら、会うことすらできないフィリピの信徒たちの従順な信仰、みことばにかたくたつ信仰、恐れおののきつつキリスト者の完全性の達成に生きることを心から喜んでいるのです。
信徒たちが神に捧げる礼拝に、パウロの殉教の血潮が注がれるという比喩を、大胆に彼は語り得ました。自分の殉教の血潮が、信徒たちの真実の信仰へと導くことが出来さえするなら、それは主イエスが人類の救いの為に死に至るまで神に服従した、その道をなぞることに他ならないがゆえに、「わたしは喜びます」というのです。「あなたがた一同と共に喜びます。」と言うのです。
苦難のさなかにありながら、会うことのできない信徒たちの信仰達成の成就を衷心から喜び、共々に喜ぶことを望むのです。ここには「苦難のアナロギア」があります。主イエスと苦難を共にし、信徒の救いのために苦難することを喜びとする「信仰のアナロギア」が成立しています。 共々に喜びましょう。
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