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2026年8月2日日曜日

 2026年8月2日(聖霊降臨節第11主日)

ヘブライ人への12章3節~13節

                『主に従う道』

                            ヘブライ人への12章3節~13節

3:あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。

4:あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。

5:また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。

  /「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

  /主によって懲らしめられても

  /弱り果ててはならない。

6:主は愛する者を鍛え

  /子として受け入れる者を皆

  /鞭打たれるからである。」

7:あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。

8:誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。

9:さらに、私たちには、鍛えてくれる肉の父がいて、その父を敬っていました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

10:肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。

11:およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。

12:だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。

13:また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。


1.キリストの忍耐に倣う

   祖父清水安三が遺した言葉をご紹介します。

 「わが人生において学んだ一事。曰わく『忍』。」

 すなわち、忍耐こそが、人生を通じてこの一事をこそ学んだというのです。

    3:あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。

 この聖句を読んだ時に、まっさきに浮かんだ事が、祖父の遺したこの言葉でした。

 「よく考えなさい」。熟考せよという勧告です。「キリストの忍耐について熟考せよ」と命じているのです。わたしはただ親族だからという意味で祖父を敬っているのではないと自らを戒めていますが、人生の師と呼ぶ人がわたしには幾人かいます。清水安三、小野一郎、岡山孝太郎と思い浮かべるとすぐ脳裏に浮かんでくるなかの一人として、わたしは歩んできました。

 祖父の人生は、わたしのいわばロールモデルだったのです。

    ※具体的な行動や考え方のお手本となる人物のことです。仕事や人生で「あの人のようになりたい」と目標にする存在を指します。

 この方々は、いずれも牧師です。この方々の究極的な目標は、すなわち主イエス・キリストです。だから、つまりは究極的な目標は、キリスト・イエスなのです。この方々は、遠いところにいますイエス・キリストを、近くへと引き寄せてくれた人生の先輩なのでした。

 わたしたちの人生にとって、尊敬できる人生の師、先輩がいることがどんなにか大切でしょうか。

 歴史の転換点で、人生の師・先輩が、キリスト者として、いかに生きたのか。いかに主イエスに従ったか。そのことを考えずにはおれません。

 二千年前のはるか遠くにいましたもう主イエスならば、今・この時をいかに判断し、いかに行動したかを考えることには、自ずから遠さから来る限界があります。けれどももっと身近な尊敬する人生の師・先輩は、具体的な指針を与えてくれます。

 わたしたちの人生行路は生涯をかけて、キリストにならいて生きるものです。途中でやめることはゆるされません。

 ゆるされないということは、実は途中でやめることができない、不可能だという意味です。途中でやめれば罰があるとかそういう意味ではありません。その「不可能なこと」ができてしまえるとしたら、それはおそらくはじめからキリストに倣う生き方を、実はしてはいなかった、とわたしには思えるのです。つまり、キリストに倣う、キリストに従うという生き方ははじめと終わりが一つなのです。キリストに従う生き方をしようとした人は、かならず最後までキリストに従うのです。キリストはアルファでありオメガでありたもうお方だからです。

  キリストに従う、キリストにならう人生は忍耐の人生だというのです。「罪人の反抗を忍」ばれたキリストの道にならう、従う道は、「忍耐」の道です。

 裏切られ裏切られ、罵られ罵られ、憎まれ憎まれ、最後は殺される。これがキリストの道でした。この「苦難の道」こそが人類への愛そのものだったのです。

 だから、わたしたちがキリストに倣う・従う道を生きるとしたら、キリストが歩まれた道、忍耐の道を熟考し、そしてキリストが歩まれたごとくに、「苦難の道」を行く事に喜びと感謝をささげられたなら、これ以上の栄光はありません。

 「わたし」の人生にキリストが「現在」しておられるからです。

 キリスト教的人生は、主にある苦難を慕う人生なのです。


2.格闘の人生

    4:あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。

   この聖句は、古代における拳闘試合を暗示しています。試合の相手は「罪」です。「罪」が擬人化されているのです。古代ローマの剣闘士の試合は殺し合いでした。殺すか殺されるかでした。古代の拳闘試合のグラブには金属が入っていたそうですから、殴り合えば血が流れます。血みどろの試合だったようです。この聖句には、「血を流すまで」とあるのは、「罪」という相手と血みどろになって闘うイメージを呼び起こして、信仰生活上、「血を流すまで」の試練を、いまはまだあなた方は経験してはいないが、そう遠くない時期に、信仰ゆえの迫害にさらされるかもしれない。そのとき、あなたがたは、その苦痛・苦難に耐え忍ぶことを覚悟しなければならない。そういう事態に遭ったとしても、あなたがたはその時こそ、キリストの忍耐について、熟考しなければならない、と勧告しているのです。

 まさにそれは「死闘」なのですと、覚悟をもって、キリストの忍耐について熟考せよといっているのです。


3.人生の転換点・歴史の転換点

  このような決定的な出来事が、人生行路において、そうしょっちゅう起こるものではないかもしれません。他方常に限界状況におかれている人もいることでしょう。

 わたしが問題にしたいのは、ここぞという時に、キリストの苦難に倣う生き方、従う生き方を選択・決断することができるかいなかということです。

 本日は日本基督教団が定める平和聖日です。

 わたしたちにとって日常生活が平穏無事に過ごせることは何よりも幸いの証しです。日々の平安を願うことは当然です。しかし、人生には、歴史には、どうしても避けられない決定的な時があります。 

 1941年12月8日、1945年8月6日、9日、1945年8月15日・・・・。いずれも歴史の転換点です。こういう日に、わたしたちも、いま、実はいるのかもしれません。人生が、そういう決定的な日に、主イエスに倣う選択と決断がはたして、自分にできるだろうか。でもそういう具体的な事が、人の人たる「証し」なのではないだろうか。そう思ってしまいます。

  いつ人生の転換点・歴史の転換点がおとづれるか、わたしたちにはわかりません。広島や長崎で、一瞬にして消えてしまった何万もの人々も、同じだったことでしょう。

 何百キロも離れたところから飛来する爆弾が、平穏な日常を瞬時に破壊するという事態は、世界中のどこかで起きています。もし、わたしがあの時代に生きていたら、おそらく無邪気に日本の勝利を疑わなかったかもしれない。そんな事をふと考えたりします。そうであってほしくはありませんが、自分がそれほど英明だとも思いません。ただ、キリストに倣う生き方、従う生き方をしたいと願うのみです。

 

4.子に対するように

    5:また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。

    /「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

    /主によって懲らしめられても

    /弱り果ててはならない。

    6:主は愛する者を鍛え

    /子として受け入れる者を皆

    /鞭打たれるからである。」

   5節6節は箴言3章11~12節からの引用です。

 古代パレスチナ人の子育てには、「鞭打ち」があったようですが、この時代は、現代よりはるかに戦争による「死」が身近に感じられていたのだと思います。不意の襲撃に対抗するためには、日頃から闘いの訓練は欠かせなかったのだと思います。そのような危機に対応することは当然で、「鞭打ち」が子育てにとって必要だったのでしょう。日頃から苦痛に耐える力を鍛えておかねばならなかったのです。

 ただし当時の感覚を現代にそのまま適用することは誤りです。箴言の「子育て」「鍛錬」法は時代の要請であったし、こども自らが自分を守る術を鍛錬しなければならなかったからです。父親が権威をもって、こどもに「鞭打ち」などの「鍛錬」を必要としたのは、それなくしては生きられない世情があったからで、こども自らが自分を守る術を獲得しなければ、生きていけない時代であり、文化だったと考えられるのです。親が生きるための力を子に獲得させるべく「鍛錬」(パイデイア)するのは、愛の証明でもあったでのでしょう。

 

5.肉の親・霊の親 

    7:あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。

    8:誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。

  父よる「鍛錬」は、ゆえに愛からくるものとして扱われています。 ここでは「鍛錬(パイデイア)」が直接意味するのは、「苦難」です。これから遭遇するであろう迫害、苦難を、どのように受けとめ、どのように乗り越えてゆくのか。それをただ単に、「この苦しみよ早く去ってくれ」と祈るだけではない、受け止め方がある。それは、神の愛による「鍛錬」なのだよ。だから、この「鍛錬」としての「苦難」は、神が、「わたし」を子として愛してくださっている証しなのだよと、受けとめ直すならば、その苦しみをどう受けとめ、乗り越えて行けるか、まったく違ってくるというのです。「鍛錬」、パイデイアという言葉は、本来、「こども」を意味する言葉を語源としています。「こどもを教育する」という意味の言葉です。

    /「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

    /主によって懲らしめられても

    /弱り果ててはならない。

   このみことばは、神の愛による鍛錬を軽んじてはならない。主によって「懲らしめ」られる(つまり鍛錬される)ことの意味を正しく受けとめなさいという勧告なのです。肉の親でさえ、愛する子を鍛えるのであれば、霊の親であられる神はなおさらだというのです。

    10:肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。

 神が神の聖性に、わたしたちをあずからせてくださる。すなわち、キリストの聖性がわたしたちに「現在」(立ち現れる)ようにしてくださるというのです。

6.「まっすぐな道を造る」

    11:およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。

  鍛錬された霊的聖性こそ、わたしたちの人生行路の目標です。

    12:だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。

    13:また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。

 最初に申し上げたように、キリストにならう、キリストに従う(信従)は、キリストの聖性が、わたしたちの人格に立ち現れるための「道」です。キリストがアルファであり、オメガです。ゆえに、キリストに従う「道」は、はじめもキリスト、終わりもキリストなのです。そうであれば、この「道」には、「苦難」「鍛錬」は不可避です。しかし避けられないとはいえ、決して途中で挫折することは不可能なのです。なぜなら、この「道」の真の主体は、キリスト・イエスだからです。 

 たとえ、崩折れるような時があっても、たとえ足が萎えても、たとえ手が萎えても、主イエスがまっすぐにしてくださるのです。まっすぐにしてくださるというのは、足や手が、たとえ萎えても、そのままであっても、主イエス・キリストが「まっすぐにしなさい」と命じている以上は、たとえ手足が萎えたままでも、霊的聖性においては、「まっすぐに」してくださるという意味です。

 それは、「苦難」「鍛錬」の目的は、わたしたちを傷のない、汚れのない神の聖性にあずかることだからです。

 「まっすぐ」の意味を熟考し、確信して人生を走り抜きなさいと、主は命じておられるのです。

 「不自由な足が道を踏み外すことなく」というのは、教会共同体から離れてしまうことなくという意味です。

 キリストに従うことから外れることは、本来不可能なはずです。キリストこそが、わたしたちの人生行路の主体者であられるからです。しかしながら、主の主体者でられるキリストに「反抗」する「罪」が存在することもまた事実です。だから、最終的な勝利者はキリストです。

 しかし、キリストに反抗する「罪」もまた健在なのです。だからこそ「死闘」なのです。「罪との格闘」なのです。この「罪」との格闘のさなかで、わたしたちが「道」を踏み外すことがないように、「自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。」と命じられているのです。教会共同体から離れてしまわないように、「まっすぐな道を造りなさい」と言われる。

 「まっすぐな道を造る」ということは、具体的には、日々聖書を読み、祈ること。礼拝すること。自己奉献の証しを立てること(献金)。聖餐にあずかること。伝道することです。

 

7.いつ天に挙げられても

    世界の終わりは必ずきます。「わたし」の地上生活の終わりも必ず来るのです。それがいついつかかは誰にもわかりません。しかし必ず来ます。この決定的な転換点(地上生活から天上生活への転換点)は神の支配のもとにあります。このときを、パウロは待ち遠しいと言いました。キリストの聖性が彼を占領していたから言えた言葉だと思います。

 神共にいますことは、無上の喜びだと確信していたのです。

 いつおとづれるかわからないこの瞬間。戦争や地震災害でこの転換点を迎えた人々には、この瞬間すら知る事なく、転換点を迎えることでしょう。

 わたしにもこの瞬間がおとづれるときに、主イエスと相まみえる喜びを感じるいとまも、もしかするとないのかもしれません。

 たとえそうであっても、わたしは信じます。来世において、キリストと共にあることを信じます。

 こう信じる幸いを感謝します。

 いま、このとき、苦難のなかにおかれた人々、戦火のなかにある人々、被災による避難生活を余儀なくされている人々、これらすべての人々が、キリスト・イエスの「道」を見いだすことができるように祈ります。         アーメン


2026年7月25日土曜日

 2026年7月26日 (聖霊降臨節第10主日)

コリントの信徒への手紙Ⅰ12章14節~26節

『キリストの体』

                  『キリストの体』
               コリントの信徒への手紙Ⅰ12章14節~26節
14:体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15:足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
16:耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
17:もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
18:そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
19:すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
20:だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
21:目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
22:それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23:わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
24:見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
1. 奴隷制時代の術語だった「奴隷」の同義語としての「体」
     「奴隷」の同義語は、「身体」(ソーマ)である。 古代ローマの奴隷は、自らの意思で自分の身体を自由にする権利をもたない。奴隷の身体は、主人のものである。奴隷の身体は、主人の代わりに懲罰を受け、主人に名誉と利益を還元する。奴隷とは、主人の影武者のような存在であり、自分の意思の自由を持たない身体にすぎないと考えられた。『古代ローマの奴隷制とコリントの信徒への手紙一』福嶋裕子
  コリント教会の信徒には、男女の自由人と男女の奴隷の存在を認めることができるという。
 コリントは紀元前146年にローマによって滅ぼされ、紀元前44年にユリウス・カエサルがローマ植民都市(Colonia Laus Julia Corinthiensis)として再建するまで荒廃に帰していたが、クラウディウス帝の治世(41-54年)までにローマ都市の外観をもつ建築が急増し、ローマの元老院属州アカイアの首都であった。ローマは奴隷制によって社会が成り立っていたから、コリント教会の信徒たちは、一歩教会の外では、自由人と奴隷という厳重な身分の差が存在しているなかを生きていたのである。
 この時代、「奴隷」(ドウーロス)と「体」(ソーマ)は同義語であった。つまり、奴隷は奴隷所有者の「体」の一部とみなされていたのである。奴隷は、「身体」として数えられ、家の財産管理目録に記録されていたのである。

2.所有者の「体」でしかなかった「奴隷」
 古代ローマにおける奴隷の人口は、帝国全人口の15% から20% と推定されています。帝国全人口で考えると八人に一人は奴隷だったと言うのです。一般に古代の百万人都市ローマには、三十万人の奴隷がいたと言われています。古代ローマ世界は、奴隷制によって成り立っていたのです。
   奴隷を入手する方法は三つありました。第一は奴隷を「贈物、遺産相続、購入」によって獲得すること。第二は自分の所有する「女性奴隷が、子どもを産むこと」により、奴隷が増えて行くこと。第三に、これが最古の方法で、戦争により「捕虜となった者」を奴隷とすることでした。
  奴隷の立場に置かれた人々にとって、世界は苛酷だったに相違ありません。人生は暴力に常に脅かされていた日々の連続だったでしょう。奴隷は所有者の財産。モノにすぎないのです。犯されても殺されても文句一つ言えない境遇なのです。
 『グラディエーター』(原題:Gladiator)という映画あります。この作品でローマ軍団の将軍であった者でも奴隷へと落とされてしまうことが描かれていました。自由人と奴隷は移行することがあったということです。しかも自由人も系図を辿ればもとは奴隷だった人も多かった。しかし、奴隷身分から解放されるのは、所有者の意思ひとつにかかっていたので、自分から自由人になることは困難でした。
 コリントの教会には、おそらく男女の少数の自由人、解放奴隷、そして奴隷、さらには神殿娼婦だった女性も含めていたのではないかと想像されます。

3.ローマ市民はなぜ「特権」を棄てた?
   奴隷所有者の財産でしかなかった奴隷の人たち、解放されたとはiいえ蔑みの対象からは免れず差別されていたであろう解放奴隷の人々と、自由人の間には、葛藤はなかったのでしょうか。
 いやそもそも、奴隷の人々と同じ信仰共同体に自由人たちはすすんで洗礼をうけて「兄弟姉妹」として交わり、「聖徒の交わり」に加わることができたのは、どうして可能になったのでしょうか。社会的差別意識をもったままでは、それは絶対不可能だったと思います。
 自由人、自由市民と言ってもよいと思いますが、パウロ自身ローマの市民権を持っていた人でした。彼はキリスト者となったいまは、そのことを「糞土」のようだと言い放っていますが、彼自身がそのように、「特権」を完全に捨て去っていることはともかくも、パウロの福音を聴いて、ナザレのイエスを主と信じたローマ帝国市民たちが、パウロ同様に,自分たちの特権を完全に放棄して、奴隷身分の人たちと完全に同等、平等の交わりに入ろうと決断したのには、いったいどのような心の動きが、彼や彼女のなかに生起したのであろうか、わたしにはとても不思議に思えるのです。
 奴隷制度が、制度であって、約束事、暗黙の了解事項の共有によって成り立っていたことは明らかです。最も古くからある方法、つまり戦争捕虜を全部奴隷にしてしまうことによって奴隷とした。勝者が敗者を家畜同様の「モノ」」とみなしたことに始まりました。この制度は肌の色の違いは関係ありませんし、言葉の違いも文化の違いも関係ありません。ただ戦争の戦利品として人をモノとして扱ったことに始まりました。
 かつてはモノにすぎなった人、誰かの所有物でしかなった人を、自分自身のかけがえのない家族として、兄弟姉妹として愛し愛される存在と、心から信じ受け入れるようにされた。そういう出来事がローマ市民に生起したということです。
 この出来事は、人間的動機から説明できません。正義漢とか、理想主義とか、自分が善人でありたいとか、そんな動機が長続きするとは到底考えられません。ローマ市民のなかにしみついていた社会的差別意識を完全に粉砕し、融解させてしまう出来事だからです。人間的動機からはただ不可解としか言いようがない事が起こったのです。
 神の出来事としか説明できません。そう言っても説明にはならないのかもしれませんが、とにかく、人間の罪を消去する出来事が起きたことは間違いありません。だから神の出来事としか言いようがないのです。

4.被差別者に生起した赦しの出来事
   神の出来事は、差別・暴力を日常的に受け続けていた解放奴隷や奴隷身分の人々にも起こったと言わねばなりません。
 それまで、生かすも殺すも奴隷所有者の胸先三寸という暴虐を受けていた被差別者の心は、どうであったでしょうか。
 何をされても抗うことが許されない状況に置かれていた人々は、恐怖・不安が日常化していたに相違ありません。その人々が横暴をほしいままにしてきたローマ市民たちをこころの内では軽蔑し、憎んでいたのではないかとわたしには思えるのです。そんな人々が、権力者として抑圧してきた人々を、神の家族として、心から受け入れ、同じ神の子として「兄弟姉妹」の交わりを、どうしたら保てるでしょうか。
 心の中に「わだかまり」が残っていても不思議ではありません。日常的に抑圧者の立場にあった人を、簡単には受け入れられないのは当然ではないでしょうか。
 被差別者の人々が差別者を赦し、こころから愛する家族として受け入れられる出来事が生起した。この出来事が生起したのでなければ、被差別者の人々は洗礼をうけはしなかったのではないでしょうか。
 この容易ならざる全人格的な赦しの決断が生起したのことは間違いないと思います。この出来事は人間的な動機では説明できません。恨みや憎しみの感情は容易に消え去りはしないからです。だから、やはりこの人々にも「神の出来事」が起きた、としか説明できないのです。

5.抑圧者の「体」(奴隷)ではなく「キリストの体」 なる教会
  パウロは、自らをキリストの僕(奴隷)と称しました。「罪の奴隷」であった自己をキリストに買い取られた(贖われた)「キリストの奴隷」だと言ったのです。
 忌まわしい意味でしかなかった「奴隷」という言葉を、「キリストの奴隷」と言い換えることによって、「罪から真に解放」し、真実、神の前に自由にされた存在を意味する言葉に、言葉を換えたのです。
 言葉を換えれば、現実も変わるのかと言えばそうではありません。現実こそが変えられているからこそ、言葉が現実に対応するのです。
 奴隷身分の人々は奴隷所有者の財産でしかありませんでした。生殺与奪の権利を抑圧者によって握られていました。自分自身は自分自身の自由にはならない奴隷所有者の「体」=「奴隷」でした。
 しかし、主イエス・キリストによって、「罪」の縄目から解放されたという現実が、信仰によって生起したいまは、自分自身の命は、キリストの「体」となったのです。自分自身のうちには、真実の主人であられる主イエス・キリストが現存しているのです。それゆえ、「私」はもはや「私」ではなく、「私のうちにキリストが生きておられる」から、「私はキリストの体(奴隷)」なのです。キリストの奴隷は、あらゆる抑圧者にとっても、決して従属・依存しない、神の前に独立したかけがえのない尊厳をもつ存在とされているのです。この現実が現に起きているので、わたしは、地上のいかなる権力の前にも屈従する必要はもはやないのです。そうであるからこそ、地上においては、たとえ奴隷所有者であろうと、完全に人として対等・平等な存在だという確信が揺るがないのです。もはや、抑圧者を恨むことも、憎むことも必要としないのです。愛するのです。
 こういう現実が生起したと考えざるを得ないのです。

6.神々の妻として生きてきた神殿聖娼に起きたこと
  コリントのアクロコリントス神殿には、千人もの神殿聖娼がいたと言われます。神々に仕える女性であり、神殿で神々を崇拝する行為をしに来る不特定多数の男性と「みだらな行為」を生業としていた女性たちです。
 このような過去をもつ女性もキリスト・イエスのこどもとしてキリストの教会へと受け入れられていたとも考えられるのです。  この女性たちにも、神の出来事は生起したはずです。主イエスの福音を信じて洗礼を受ける決心をした彼女たちは、「みだらな行為」によって神々と交わるという「異教の信心」を棄てる決心をしたはずです。もはや、かかる「みだらな行為」をしなくともよいし、したくはないと彼女たちは、自分自身の「からだ」を清く保つようになったはずです。
 彼女たちは、生業を棄てました。それでその後、どうやって生きてゆこうとしたのでしょうか。聖書には、沈黙していますが、彼女らが過去の行為を心ならずも生きるために再び繰り返すことを、教会は決して望むはずはないと、わたしは考えます。
 わたしは想像するのです。彼女たちに生きる術を、教会は家族として真剣に考えたはずだと。そうであれば、そこから「福祉」という事柄の原初的な働きが生まれてきたのではないか。そう思えてくるのです。教会から、教育や福祉が始まったのは、神の家族として互いに愛し合う交わりを現実としてゆくためだったと思うのです。 愛する姉妹たちに、二度と「みだらな行為」をさせてはならない。兄弟姉妹ならば、そう考えるの当然でしょう。
 いまも、聖霊の働きは、絶えることなく継続しています。貧困に苦しむ人々、災害にあって苦難を経験する人々、戦火のなかで困難を抱えている人々を、基督の体として、すなわち私の体の一部として愛するように愛する働きが続いているのです。

2026年7月20日月曜日

 2026年7月19日(聖霊降臨節第9主日)

コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1節~10節

『神による完全な武器』


            『神による完全な武器』

コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1~10

1:わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

2:なぜなら、

  「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

3:わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、

4:あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、

5:鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

6:純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

7:真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

8:栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、

9:人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、

10:悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。


1.地上生活は「あいだ」の生

 わたしたちは、地上の生活のあいだを生きています。この世に生を受けて、肉体が朽ちて土に還るまでの「あいだ」が、わたしたちの地上生活です。

 この「あいだ」には楽もあれば苦もまたあることは誰しも避けえないものです。ただ地上にある「あいだ」は、人と衝突しても、反論することもできますし、衝突を避けることもできます。わかりあえることもあれば、距離を置くしかないこともあります。かかわることもかかわりから逃げることも可能です。

 しかし、この「あいだ」の時間は限りがあって、いつかは「あの世」「来世」へと生命を移す時がやってきます。

 その時は、ただ神さまだけが知っていて、支配してくださっている神のみこころにのみかかっている事柄です。

 わたしたちは、その「時」が、いつ起こってもよいように、準備しておかねばなりません。そういう意味で「あいだ」の時間は、その決定的な「時」を迎えるための準備期間と言えるでしょう。

 つまり、わたしたちは、やがておとずれる「時」、神のみもとへと帰還する決定的な「時」を迎えるために、準備し、覚悟してこの世の地上生活を営んでいるのです。


2. 反論できない立場

  人は、突然おとずれる「時」にむけて生きています。

 地上生活を終えてなお、非難中傷、人格攻撃を受けるということも、人には起こり得ます。「死者をむち打つ」」行為という言葉がありますが、死んでなお攻撃されるという事も、世間にはあります。むしろ死んでしまえば、いくらでも嘘偽りであっても攻撃できてしまえるので、卑劣な人は死後にデタラメで死んだ人を辱めることをしたりすることも世間にはよくあるものです。

    ※死屍に鞭打つ(ししにむちうつ)

    死者の言動や行為を非難することをいう。中国の春秋時代、楚(そ)の伍子胥(ごししよ)は父と兄を平王に殺されて呉に逃れ、呉の力を借りて報復しようとしたが、平王の没後であったため、その墓を掘り起こして死屍を鞭打ち仇(あだ)を報いたという故事による。

  そうした場合、死んでしまった人には弁明の機会がありません。「反論」しようにも不可能なのです。

 「草場の陰で泣いている」という言い方が古来ありますが、反論できない故人に変わって戒めている訳ですが、死んでしまってから、「この世」に死んだ人が登場するという思想は、聖書から引き出すことはできません。「この世」と「あの世」は、行ったり来たりできない絶対不可逆なのです。

 ということは、死んでから後に、「死者にむち打つ」ような中傷・攻撃を受けても、いっさい反論とか弁明はできないのです。それでは、いったい誰が死んで逝った人の名誉を守ることができましょう。


3.左右に偽の武器を持ち

  パウロの覚悟について考えてみましょう。「信仰即宣教」ということを、先週学びました。信じて生きるということは、準備・覚悟だということを、今日は教えられます。

 いつ神に召されても、つまりこの世の生を終えて、あの世へと旅立ったとしても、構わないという準備・覚悟をもって地上生活を送りなさいということです。

 死後において、反論できない立場になったときにも、どのような悪評、中傷、攻撃を受けたとしても、そのことに影響を受けることなく神の御許へと赴くという準備・覚悟をもちなさいということです。

 そのことを、パウロは、「真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち」と言っています。

     8:栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。

    4:あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。

  あらゆる場合ですから、この世であろうとあの世であろうと、その覚悟においては同様です。いかなる辱めにも、悪評にも、そしてそれが好評や名誉であろうと、変わることなく、「神に仕える者としてその実を示す」というのです。

 

4.栄誉だろうと辱めだろうと変わらぬ覚悟

  二千年も昔の人の言葉だと思うと、実に驚くべき自己認識です。この言葉は、「自己実現」の超克が含蓄されているからです。ここには「生きがい」とか「自己実現」とか、そのような結局は、自己願望の達成が動機として微塵も存在していません。パウロの自己認識は徹頭徹尾、「神に仕える者」なのです。「栄誉」を得たいとか「好評」を博したいという他者による賞賛を求める名誉心の達成など、眼中にないのです。そして、「辱め」を受けることも、「悪評」を浴びせられることも、彼を脅かすことはないのです。「真理の言葉」「神の力」が、「神に仕える者」の「義の武器」であり、「神の武具」なのです。神の武器、武具に守られているから、好評も悪評も、彼にとっては脅威ではあり得ないのです。


5.パウロが受けていた具体的苦難

     わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、

    9:人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、

   ここには、パウロが受けていた苦難が具体的に語られています。すなわち、パウロは「人を欺いている」と非難されていたということです。パウロは、ある人々から見た時、「欺いている」と見られていたということです。主イエスの福音を語ることが、「人を欺いている」行為と見なされたということです。彼は、その非難・悪評に直面しても、どこまでも誠実であろうとしています。これがパウロの神の武器による霊的闘いなのです。

 パウロは「人に知られていない」ことに落胆もしていませんし、宣教の「失敗」だとも思ってはいません。パウロから福音を聴いて信じる者が、たとえ皆無であっても、動揺したりしません。聞く耳のある者は聴いて信じるのです。神が聴く耳を与えるからです。神が選び分かち、パウロの語ることに耳を傾け、神は福音を信ずる者を起こしたもうから、その者には、よく「知られている」のです。その者は、パウロを通してキリスト・イエスを知っているのです。 

   パウロは、福音を語ることによって、命を奪われそうになりますが、神がパウロを生かしたもう以上は、決して殺されはしません。

 パウロを、罰しようとする者たち、迫害者たちが次々に現れても、パウロは動ずることはありません。迫害者たちを、かえってキリスト・イエスの愛をもって愛したはずです。彼らは、かつてのパウロ自身でもあるのですから、なおさらです。

 パウロは、殺されてはいませんが、死を恐れてもいません。死は神だけが与えることができると確信しているからです。


6.悲しみのなかにあって喜ぶ喜び

    10:悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。 

   パウロに悲しみがなかった訳ではありません。嘆くことも悲しむことも苦しみには伴います。

     苦難、欠乏、行き詰まり、5:鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

  これは苦難のリストです。彼が具体的に受けていた苦難です。この苦難に悲嘆がなかったはずはないのです。ところがパウロは、この苦難の経験に遭いながら、「常に喜」んでいました。この苦しみも主が味わった十字架の苦難に少しでもあやかる経験であるなら、感謝の他はないとパウロは喜んだに違いありません。

 パウロには財産というものがありません。ただ神が彼を養ってくださると信じていただけです。無所有の彼は、しかし、多くの人の財産を増大させることができたというのです。彼は貧しい人です。無一物だと自分で明言しています。ところが無一物であっても、その貧しさをもって。「すべてのものを所有している」と自覚しているというのです。

 なぜなら、一切の被造物は、神が創造したものであって、神の所有するところの「もの」です。パウロが全面的に一切無所有を貫くのであれば、逆に言えば、一切無所有は、一切が神の所有であるから、神に仕える者と確信しているパウロには、一切が神のものであれば、必要なものはすべてご存じである神は、我が身が生きながらえるに必要なものは、彼には必ず与えられる。そう信じているならば、彼は神の所有を信ずる者として、「すべての者を所有している」と表現しても罰は当たるまいということです。


7.キリストの苦難と共に生きる喜び

    6:純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

  キリスト者の喜びは、キリストとひとつの存在であることの喜びです。この喜びは、「神に仕える者としてその実を示す」喜びです。人間的な「承認欲求」ではなく、キリストと一つであることを願い求める祈りが喜びとなって実を結ぶのです。

 より、具体的には,パウロ自身がこのように表現しました。

  「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛」です。これらすべては「聖霊」による賜物です。

 「純真」ひとつとっても、この態度を貫くことは人間的動機によってはできないでしょう。ただ神の力によってこそ、「純真」は人格に反映するのです。

 「知識」、単なる好奇心はこの「知」の源にはなりません。「信仰知」です。信仰は「信仰知」を求めてやまないのです。(アンセルムス)主を信ずるからこそ、より深く主イエスを知ろうとするのです。

 「寛容」、「寛容」を貫けば、この世では「苦難」を避けられません。「寛容」は自らに罪をおかす者を赦すことを必ず伴います。赦しても罪人はまた罪を犯すかもしれないのです。そうであれば、「赦す」ことは、再び「苦難」をわたしたちにもたらすでしょう。それでも「寛容」は、キリストが限りなき「赦し」を与えてくださったゆえに、わたしたちも「寛容」の実を結ぶことができるのです。「苦難」を引き受ける覚悟・準備こそが、キリストに近づくみちなのです。

 「親切」、報いを望まずよきサマリア人の譬えのごとく、世話をすることも、覚悟・準備が必要なのです。サマリア人は、傷ついた人を助けましたが、「復讐」に狂い立つ親族は、サマリア人を襲撃する危険がありました。助けたのに助けたことによって殺されることすら、この世にはあるものです。報いを望まないだけでは親切は貫けません。親切で苦難が待ち受けているかもしれないからです。ナチスの迫害の元で、ユダヤ人を匿うことは、自分たちへの迫害を覚悟しなければ不可能でした。

 「偽りのない愛」は、愛の定義によっては起きません。愛の概念をいくら研究しても、それは無駄というものです。聖霊の働きがあってこそ、愛は偽りから決別できるのです。

 これらの「実」はすべて「神の力」「聖霊」によるのです。聖霊の実は、苦難を引き受ける準備・覚悟を必ず伴います。キリスト者の喜びは、キリスト・イエスの十字架の苦難に、いくらかでもあずかること喜ぶ喜びなのです。聖霊の降臨は、かならずそこにキリストの肢体なる教会を起こすのです。教会にしっかりとつながっていることが大事なのです。

2026年7月13日月曜日

 2026年7月12日(日)(聖霊降臨節第8主日)

テモテへの第一の手紙3章14節~16節

『信仰即宣教の現実』


              「神からの真理」」

                              Ⅰテモテ3:14~16

14:わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。

15:行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。

  神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。

16:信心の秘められた真理は確かに偉大です。

  すなわち、

  キリストは肉において現れ、

  “霊”において義とされ、

  天使たちに見られ、

  異邦人の間で宣べ伝えられ、

  世界中で信じられ、

  栄光のうちに上げられた。




1.報告と祈り

   過ぐる先週7月8日(水)、わたくしどもが愛する○○兄が神のみもとへと帰還されました。

 2日後の10日金曜日に、家族葬を執り行うことができました。生涯をひたむきにキリストの道を歩み通された兄弟の召天をこころに覚え、ひとことお祈りいたします。みなさまもこころを合わせてお祈りください。

 祈り

 恵み深い父

 主イエスの御あわれみによって、われらが愛する○○兄は意義ある生涯を送り、多くの人に良い感化を残し、その走るべき道のりを走り終えて、みもとに召されました。あなたは○○兄を恵み、その生前に主を知らしめ、み救いにあずからせ、限りなきいのちをお授けになりましたことを感謝いたします。

 主イエスのみ救いによって○○兄の霊はついに帰るべき故郷に帰り、すでに父のみふところにいだかれていることを信じ、わたしたちはその霊を恵みのみ手におゆだねいたします。 けれども、主よ、地上にあって○○兄と共に世の旅路をたどったわたしたちは、この際にあってたえがたい寂しさを禁じ得ません。とりわけ兄弟の遺族近親のその哀惜は他のなにものによってもいやされがたいものであります。

 わたしたちは、主イエスの慰めと助けが豊かにあらんことを切に祈ります。

 どうか、この世にのこされて悲しむ者をあわれみ、上よりの慰めを豊かに与えてください。また兄弟と共に信仰の道をたどってまいりましたわたしたちにも深くみずからの終わりを思わしめ、主の日のために備えをなさしめてください。み子イエス・キイストによってお願いいたします。アーメン


2.若き伝道者テモテ

  パウロは年若い青年テモテをよく愛していたようです。この短い文面もよく読んでみると、愛情がにじみ出ていて、その想いが伝わってくるような気がします。

    14:わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。

  兄弟への純粋な愛が感じられます。主にある兄弟とはなんという美しいものでしょうか。

 二千年前の人物の思いが、時と空間をはるかに超えて、ひしひしと伝わって来る。そのこと自体が奇跡のように思えます。パウロとテモテのあいだの聖霊による絆の美しさです。

  これは「恋文」ではないのです。「恋文」でもないのに、「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。」・・・・。パウロの心のうちがこの一文に溢れていると感じるのは、私だけでしょうか。

 こころはすでに、テモテを思い浮かべながら、こころのうちから浮かんでくるのは、神の家、すなわち教会のこと。

 とりわけ教会を導くことをこの青年に託そうとしているパウロには、神の家すなわちキリスト者共同体=教会とは、どのようなものか、文字通り、体現してほしいと願っているのです。 

    行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。


3.生活することとは即信仰生活

   わたしたちは生活者です。だれしもが生活者です。信仰していないと、自分で思っている人もみな生活者です。生活者であるということではみな平等です。

 病院生活を余儀なくされている人、仕事に毎日追われている人、学業に励んでいる人、みな、全員がなんらかの暮らしを立ています。普段、自分は「無信仰」だと思っている人も、生活者であることには、他の人と何も変わりません。ここから人は始めます。全員平等に生活者。ここがはじまりです。

 パウロは若き伝道者に、「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」と書いています。

 全員が生活者なのですけれども、人生経験もそれほど多くはない青年テモテに対して、これまでの「生活者」としての「生活」とは、まったく異なる「生活」があるのだよ。その「生活」というのは、「神の家」、つまり教会生活をする者として生きていくのだと言っています。ただ無自覚な「生活者」に留まることなく、これからは神の家での生活者になってほしいというのです。

 信仰者であるということは、生活のすべては信仰者としての「生活者」であることなのだと言う意味です。信仰生活は部分の生活ではないのです。

 「サンデークリスチャン」と、言葉がありますが、これは日曜日だけ、神さまのに祈りを捧げ、礼拝するけれども、月曜からは、神さまをすっかり忘れてしまう、そういう生活をしているクリスチャンを揶揄して「サンデークリスチャン」と呼んだ言葉です。だから、これは、日曜だけのキリスト者、平日は神さまとは関係しませんというような人々への揶揄であり皮肉なのです。それは違うでしょう! ということなのです。

 キリスト者にとっては、生きる事、暮らすことの全部が、信仰生活なのだよと、パウロはテモテに、信仰生活即生活であるべきことを、骨の髄まで体現してほしいというのです。


4.信仰即宣教の現実

  信仰生活は、生活の一部分だけの生活ではあり得ないというのです。パウロは聖霊の交わりにおいて愛するテモテに、信仰即生活という現実を体現してほしいと切に願っているのです。

 そして、そればかりではなく、さらに、信仰即生活の現実とは、「信仰即宣教の現実」でもあるのです。主イエスを信じるということは、福音宣教の現実だというのです。


5.教会は、真理の柱、真理の土台、

    「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」

  神の家すなわち教会は、教会共同体だけの存在でないのです。全世界、全宇宙が「神の家」となるであって、いつまでも小さな枠に中で閉じこもるような存在であってはならないと言うのです。神の家は神の家であるから、神が創造された全宇宙全体が神の家なのです。

 そういう気宇広大なスケールを考えなければなりません。

 この宇宙全体を包含する神の家を支える柱があり、土台がある。そういう家であり、神の家すなわち教会そのものが、真理の柱であり、土台なのだと、テモテによく知っておいてほしいのです。そういう気宇壮大な感覚をもっていなければ、とても神の宣教を語れないというのです。

 伝承によれば、テモテは殉教します。テモテはパウロによってエフェソスの主教(司教)に任じられ、教会の牧会者としてつかえますが、エフェソスの多神教徒によって石で打ち殺されることになります。多神教徒たちの偶像崇拝強要に対して、屈することなく従わなかったからです。

 わたしは、テモテには天地の創り主こそが、まことの神でありたもうという信仰に、骨の髄まで徹していたからこそ、被造物を神とするということなど思いも寄らなかったのだと思います。殺されようと何をされようと、神でないものを神とすることは、彼にはできなかった。不可能なのです。

 それは、神の家こそは、この宇宙全体を包括する者であり、神の家こそは、真理の柱であり、土台だということを実感していたことを意味していたのだと思っています。


6.信心に秘められた真理はたしかに偉大なり

        すなわち、

      キリストは肉において現れ、

      “霊”において義とされ、

      天使たちに見られ、

      異邦人の間で宣べ伝えられ、

      世界中で信じられ、

      栄光のうちに上げられた。

  「信心に秘められた真理」、これはいまだ福音宣教が結実する以前に、すでにパウロのなかでは、確信されていて、しかもその将来の結実は、いまは「秘められている」ということでしょう。いまはまだ、いま現在は、目に見えない現実、すなわち今はただ「ビジョン」として彼には見えていただけなのに、彼にとって、「いまだ」は、「すでに」となって確固たる現実同様であった。そういう「将来の確信」を表現していると考えられます。いまは「いまだ実現していないビジョン」だけれども、このビジョンは彼の内部にあっては「すでに」確信された「現実」として見えていたのです。

 つまり、今は「秘められている」が、すでに彼には見えている。いまは成就以前だけれども、パウロにはこのビジョンは「現実」のものとして「すでに」成就同然だったのです。パウロは愛する青年テモテに、骨の髄まで、パウロ自身と同じように、この確信をもってほしい。

 テモテに、「ほら、君にも見えるだろう。キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。このことは現実なのだよ。だからすでに「キリストは栄光のうちにあげられた」と言うのだよ。わたしは既に成就した事として君も確信してほしい」と、書き送ったのです。

 この現実を、テモテは肌感覚としても感じていたから、彼は、彼を殺す多神教徒(異邦人)にも福音は必ず「キリストは宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられる」のだと。否すでに上げられた現実が見てるではないか。パウロにもテモテにもこの確信が彼らの内部にはあり、見えていた。

 その現実が、時空を超えて、現代のわたしたちにも見えているはずなのです。だから絶望してはならない。諦めてはならない。嘆いてはならないのです。

 パウロの言葉は、テモテだけではなく、わたしたち自身に語られているのです。


2026年6月28日日曜日

 2026年6月28日 (聖霊降臨節第6主日)

                    神の計画(聖書日課によるタイトル)

  「聖霊による充満によらなければ、だれもイエスを主と告白することはない」

                  使徒言行録 13章13節~ 25節


13:パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。

14:パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。

15:律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。

16:そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。

17:この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。

18:神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、

19:カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。

20:これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。

21:後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、

22:それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』

23:神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。

24:ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。

25:その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』


 1. 救済史観

  パウロ一行はキプロス島の西岸パフォスを船出して、地中海をはさんで対岸のパンフィリア州のペルゲに向かいました。ここで、何があったのか、助け手として同行していたヨハネがエルサレムに帰ってしまったとあります。 一行にとっては、試練とも言える出来事だったのかもしれません。 しかし、パウロとバルナバはさらに北上してピシディア州のアンティオキアに向かいました。 ここでも、やはりユダヤ教の会堂で、主イエスの宣教を語ることになります。

 ここでパウロが語った事柄は、イスラエルの歴史でした。しかもただの歴史の説明ではなく、神の民に対する神の摂理と神の民イスラエルの態度についての解明でした。イスラエルの歴史とは、主イエス・キリストをお迎えすることこそが神がイスラエルを歴史を通じて最終的に目的とされてきたのだという「救済史」に他ならないということなのでした。


2.「史観」とアイデンティティー

  過去を、どのように捉えるかということは、現在の自己自身をどう捉えるかということと緊密につながっています。

  日本はかつて「皇国史観」という歴史認識を国民全体に、浸透させて、ついには戦争を拡大しました。他国を侵略し、他国の人々を、「皇民化」政策によって支配しようとしました。国家神道という宗教を創り、人心を支配しようとしたのです。この歴史観は、「日本人」とは何かというアイデンティティーを、天皇の赤子と位置づけました。主権は天皇にあり、国民はすべて天皇の赤子であるというのです。神話が歴史と同一視されました。

 昨今、皇国史観の復活とまでは言わずとも、「美しい日本」に期待する勢力が勃興していることを感じます。この「史観」が必然的に戦争を引き起こした過去の教訓は忘れ去られようとしています。

 これは我が国がふたたび世界から孤立し、壁をつくり、敵をつくりだす危険な兆候であることは火を見るより明らかです。

 だから、このような独善的な「史観」はアイデンティティーと安易に結びつけられてしまうがゆえに危険なのです。この危険を回避するために、わたしたちは過去の歴史の教訓を子細に検証し、平和を構築するための、まったく新たな「史観」を探求しなければなりません。


3.既得権益と侵略の正当化

  現在のイスラエルによるレバノン空爆は、イランとアメリカの停戦合意にもかかわらず継続されています。ヒズボラの殲滅が目的だというのがイスラエルの攻撃正当化の言い分ですが、無辜の市民が無差別に巻き込まれて殺されている現実は、世界中が知っています。なぜイスラエルは殺戮をやめないのでしょうか。なぜイスラエルは国際法を無視してパレスチナ占領をやめず、さらなる侵略を続けるのでしょうか。

 無論、すべてのユダヤ人がレバノン攻撃を支持している訳ではありません。アメリカ在住のユダヤ人の多くはイスラエルの戦争には反対していると聴きます。ユダヤ人という概念は宗教的概念だと言われています。ユダヤ教を信じる人がユダヤ人なのです。ユダヤ人は、旧約聖書に記されている歴史を自己自身のアイデンティティーとしている人々と言ってよいかと思います。

 つまりこの旧約の「史観」を共有している人たちをユダヤ人と言っているのです。 人種概念ではありません。黒人のユダヤ人もいれば、モンゴロイドのユダヤ人もいます。いわゆる白人のユダヤ人もいる。形態的な自己同一性ではなく、歴史を共有することで共同体の成員であることを相互に了解しあっている人々です。

 同じ「史観」を共有していながら、壁をつくり、敵を作り、殺戮を正当化する人々がいて、他方では、平和を求める人々がいる。一方では殺すことを、自国のためには辞さない。殺戮を肯定し、正当化する。他方では、かつて自分たちが殺される側にあったことを,他者に強いてはならないとするユダヤ人がいる。

 トランプ大統領は大学での「反ユダヤ主義」的な言論を放任しているとして多くの大学に圧力をかけていますが、実際は「反ユダヤ主義」を学生は批判しているのではなく、殺戮行為を批判しているだけでした。「シオニズム」と「反ユダヤ主義」はまったく別物なのです。

 「シオニズム」が、ガザ攻撃を正当化し、土地の収奪を正当化しているのです。


4.救済史観の不思議

    19:カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。

    (ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人) 

 イスラエルの歴史をひもとくとき、わたしたちは数多くの戦争がくりひろげられてきた事実を見ます。「聖絶」とか「聖戦」とか呼ばれる惨い戦争をイスラエルは戦い、ある時は勝利し、ある時は敗れるという戦争の歴史を生き抜いてきたことがことこまかに記されています。ある意味、戦争の歴史であり、戦争史観とも見えるのです。そしてこの歴史に神が介入してきたという信仰告白が綴られる。

 たしかに戦争の歴史は、イスラエルだけではなく、世界中いたるところで戦争、戦争で明け暮れてきたのが人類史ですから、とりわけイスラエルだけの事柄ではありません。 

 ただ、現代のイスラエルが、数千年前の古代人と少しも変わらないような、聖戦史観で戦争をやめないのだとすれば、 このことについて無知であってはならないし、放置してよいとは言えないでしょう。事柄は「史観」の問題であり、「史観」の危険性の問題となってくるでしょう。

 現代日本の政治家が、織田信長や豊臣秀吉のように、皆殺しをするようなことがあってよいはずはないのと、まったく同じ意味で、イスラエルの政治家が、古代イスラエルの王のように皆殺しをしてよいはずはないのです。しかし、独裁者はヒズボラの殲滅を公言してすこしもはばかりません。どんな思想の持ち主であろうが、信仰の持ち主であろうが、殺してよい人間などひとりもいないのです。

 パウロが、この戦争史観とも言えるイスラエル史を救済史として堂々とユダヤ人に語り得た、しかもそれだけではなく人々の心を打ったということに、わたしは不思議な感慨を覚えるのです。ただし、パウロの福音宣教を聴いたユダヤ人たちは、信ずる者と、信じない者との二つに分かたれました。さらに不思議なのは、割礼をいまだ受けていない異邦人が多く信じたのです。

ピシディア州のアンティオキアには、信じた者たちによって教会が成立します。このことは驚異的な出来事だったと思うのです。


5.どうして信じ得たのか

  人は信じたいものを信じるものだ、ということは一般的によく言われることです。破壊的カルトの信者の精神性は、たしかに信仰の対象が「真実」であり、「真理」であるから信じているのではなくて、結局は自分が信じたいから信じるという精神性だという人がおそらくわたしも含めてそうだと思います。たとえ嘘であっても、自分が信じたい、だから信じるという具合です。

 しかし、初代教会のパウロの宣教と、それを聴いて信じた人々は、そうであったとは、とても考えにくいのです。

 なぜなら、ルカが記したパウロの宣教には、人が信じたくなるような要素がまるでないと、わたしには見えるからです。

 それを信じれば、なにか自分にとって得するというか、得がたいなんらかの報酬系を刺激する「信じたくなるような」要素が、このパウロの言葉から感じられるでしょうか。

    17:この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。

    18:神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、

   この記述は、出エジプトの経験です。荒野の40年は、イスラエルの不信仰にもかかわらず神は決して見棄てることなく耐え忍んでくださったと言っているのです。言うなれば、先祖の不信仰とそれを耐え忍ぶ神の導きを語っているのです。たしかにその記憶は神への感謝でしかないのですが、見方を変えれば先祖の罪への告発です。

    20:これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。

   この記述も、450年もの長きにわたり、他部族への仮借のない戦争状態が続いたことを語っているのであって、戦争史観そのものでしょう。神の導きだったという理解のもとに、他民族との戦争を戦い抜いたということでしょう。会堂に居合わせたユダヤ人以外の「神を畏れる人々」(16節)は、この歴史をどう聴いたでしょうか。戦争をイスラエルが勝ち抜いたという話です。これを聴いて彼らの心に感銘が生まれたでしょうか。

 しかし、結果は多くの人が信じたからこそ、教会が生まれたのでした。わたしにはとても不思議に思えるのです。なぜなのか。


6.信じたい事を信じたのではなかった。

   異邦人にしてみれば、サウルだろうがダビデであろうが、ユダヤ人にとっての偉大な王さまだろうけれども、彼らにとっては、極端に言えば、他国の先祖のお話にしか聞こえない存在だったのではないでしょうか。ナザレのイエスが約束のダビデの子であろうがあるまいが、どうでもよかったのではないでしょうか。

 そんな彼らが、この戦争史観にまみれた歴史を、主イエス・キリストを人類にお迎えするための救済史と受けとめ、自分自身のキリスト者としてのアイデンティティーの中心・核心として受け入れたというのは、彼らが信じたいと願ったからではなく、福音を語るパウロから、「神の力」を感じとり、信じないことが不可能なまでに、聖霊に満たされたとしか考えられないのです。

 人間的な価値判断だけでは、彼らにとって信ずべきなにほどの事もパウロは語ってはいません。むしろイスラエルの武功物語などお話し程度の意味しかなかったはずです。ところが、彼らは、語るパウロと同じアイデンティティーを自分自身のものと信じたのです。神の奇跡としか言いようがありません。

 彼らからすれば、自分たちの歴史(神々の歴史=異教の歴史・神話)から観れば「敵」だった民の歴史を、「われらの歴史」と受けとめ始めたのです。奇跡です。

 イスラエル、すなわちユダヤ人にしてもそうです。パウロは悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたバプテスマのヨハネをユダヤ人の王ヘロデは殺害してしまったし、バプテスマのヨハネが証ししたイエスも殺してしまったというのです。聴いているユダヤ人は、罪の弾劾に聞こえても不思議ではありません。自分たちの同胞が、ヨハネもイエスも殺してしまったという事を、彼が信じたいと思ったとは思えないのです。彼らも信じたいと願ったことを信じたのではないのです。だから、信仰は人間的願望の結果ではないのです。聖霊の力の充満が起きていたのです。


7.あなたたちが期待しているような者ではない。  真の信仰は、人間的な願望や期待の結果ではあり得ないのです。福音が宣教者によって語られるという現実の場において、生起する「奇跡」なのです。「わたし」という存在が、主イエスを主として信じる出来事が起きているという事自体が、「奇跡」にほかなりません。この奇跡が自分自身のアイデンティティーを形成します。するとそのとき、わたしたち自身のアイデンティティーと深いところでつながっているところの「史観」は、主イエス・キリストこそが「はじめ(アルファ)」であり「終わり(オメガ)」である救済史となっていることを見いだすはずです。

    また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。(黙21:6)


2026年6月21日日曜日

 2026年6月21日(日)(聖霊降臨節第5主日)

使徒言行録13章1節~12節

『宣教への派遣』(聖書日課による)



                聖霊による派遣
                    使徒言行録 13章1節~ 12節
1:アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。
2:彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
3:そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
4:聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、
5:サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。
6:島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。
7:この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。
8:魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。
9: パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、
10:言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
11今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
12:総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。

1.アンティオキア教会の人々
   ここに挙げられている人たちの多様さは驚嘆すべきものがあります。ここにはアンティオキア教会の指導者として5人の人が挙げられています。
   バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロの5人です。
 この人たちは、預言者、教師という立場の人ですから、実際はもっと多くの人たちが、このアンティオキア教会にはいたことでしょう。この6人を観ると、実に多様なのです。
 アンティオキア教会は、まず肌の色で人を差別していません。
 ①ニゲルと呼ばれるシメオンは黒人だと言われています。ニゲルというのは肌の色が黒いという意味です。また出身地のよる差別もなかった。②キレネ人のルキオは北アフリカ、現在のリビア出身ということになります。この人も黒人でしょう。③出自・階級による差別もなかった。マナエンは領主ヘロデ・アンテイパスと一緒に育ったというのであるから、幼なじみと言って良い境遇の人です。この人はユダヤ教とから迫害されているクリスチャンの道を自ら選び取ったことになります。権力者の幼なじみですから、それなりに裕福な家に育ったはずですが、個人財産を放棄して原始共産制の共同体に加わったことになります。ですから階級による差別はなかったのです。④地元の人もデイアスポラの人の差別もなかった。バルナバはキプロスの出身です。彼はサウロ(パウロ)と共に宣教へと派遣されることになりますが、派遣先はキプロスですから、地元へ向かうことになります。同行したマルコと呼ばれていたヨハネはバルナバの甥(従兄弟)らしいのでやはり出自は地元かもしれません。(「コロサイの信徒への手紙」4章10節では、マルコについて「バルナバのいとこ(従兄弟)、」という表現が用いられます。育ちはエルサレム。)様々な地から集まってきた人々が主イエスによって兄弟姉妹となっていたのです。⑤そしてサウロ、すなわちパウロです。呼び方が9節から変わっています。以後はパウロという名前で登場することになります。彼は迫害者から主イエスの弟子に変えられた人です。つまり、元は敵対者だった人ですが、そういう人を教会は受けいれただけではなく指導者、宣教者としての務めを託していたのです。
   原始キリスト教会が、このようなダイバーシテイを実現していたという事実は、驚嘆に値します。
 二千年後の現代でも、実現できないでいるのですから。

2.聖霊の啓示
   預言者といっても、旧約時代の預言者とは意味が違うとは思います。聖霊の言葉が告げられたことが記録されているので、おそらくは、この預言者は、聖霊のお告げを教会に告知するという賜物をいただいていたのでしょう。
 かしこまって、聖霊のお告げと言明していたかはわかりませんが、共同体全体が、聖霊の告知として、パウロとバルナバの派遣を認識したということは確かだったのでしょう。
  聖霊の告知内容は、パウロとバルナバを宣教者として選任せよという命令。そしてその選任は、聖霊が予め定めていたという事でした。この選任について、異論があったという記録はありません。教会は教会として決断するという手続きは踏んでいるはずですが、一貫して聖霊の意志がこの間のイニシアチブを取っているという信仰理解で貫かれています。
 そして教会は、断食してから二人に按手をして送り出しました。派遣の祝福です。派遣の主体は神である聖霊なのです。

3.宣教者・旅の人
   二人は、陸路南西の港町セレウキアに出て、そこから西へ海路を航行してキプロス島のサラミスに上陸します。  サラミスではユダヤ教の諸会堂で、宣教を開始します。マルコと呼ばれるヨハネを助手に加えて、島全体を巡回しつつ宣教を続けたようですが、各地での宣教の結果については、触れられません。およそ100キロ西へと進み、島の西岸の町パフォスにまで辿り着きます。ここで、偽預言者とめぐりあうことになりました。

4.偽預言者バルイエス、魔術師エリマ
   偽預言者とルカははっきりと表現しています。これは、パウロたちが宣教する以前の異教世界の宗教的指導者のことでしょうが、パウロらにしてみれば、ただお一人のまことの神以外の神々の世界の指導者は、おしなべて「偽預言者」とみなされていたでしょうから、そのようにルカは表現するほかはなかったのでしょう。記録すべきは、福音の使徒の言行録ですから、宣教の途上での異教世界との接触はいきおい「対決」にならざるを得ないのでしょう。
 ですので、いきなり「偽預言者」と見なされる訳です。ただバルイエスという名の意味は「イエスの子」だそうですから、なんとも紛らわしい。主イエスとは何の関係もないです。イエスという名は珍しい名前ではなかったので、「イエスの子」と言っても珍しい名でもなかったことでしょう。考えてみれば、名前というのは不思議なものです。同じ「イエス」という名前の人が当時は相当いたはずですから、こういう紛らわしさは珍しくはなかったと思います。それでもイエスの名には力があった。だから、名前は単なる音声の連続ではないということなのでしょう。信仰をもってイエスの名によって指し示されている「まことの神」さまが名前をして力あるものにしているということでしょう。
 さて、紛らわしい「バルイエス」と出会ったとありますが、そのときの「接触」はどのようなものであったことでしょうか。

5.偽預言者との接触から総督まで
   バルイエスはキプロスの地方総督と「交際」していたとあります。どういう関係性だったのか。配下として働いていたのか、あるいは時に応じて召し出されて神々の託宣を語っていたのか。「交際」の中身までは想像の域をでません。しかし、ある意味、この人物を仲立ちとしてパウロとバルナバは、地方総督セルギウス・パウルスと面会できたことになります。
 そうだとすると、最初の出会いは、そんなに険悪なものではなかったのかもしれません。バルイエスのほうでも、パウロ一行を好意的にセルギウス・パウルスに紹介したかもしれないのです。それがいったいどうした変化が両者のあいだに生まれたのでしょうか。バルイエスの方から、パウロ一行が、総督に宣教をはじめだすと、邪魔をするようになったのです。どういう心境の変化が起きたのでしょうか。自分の立場が脅かされるという脅威を感じたのでしょうか。「二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。」とルカは記しています。

6.態度急変の心理
 最初は近づけ、後になって遠ざけようとする。この態度の急変に至る心境の変化はいかなるものであったのでしょう。
 はじめのうちは、一時の旅人、同業者でも旅人として歓迎したのかもしれません。一時的な滞在だからこそ、もてなすという心理です。ところが、パウロ一行の話を総督が熱心に聞く姿勢が見え始めてみると、またその話の内容が自分の信奉する世界と真っ向から衝突するものであると理解し始めると、このような教えに総督がかぶれると自分も自分が信ずる霊的世界も否定されてしまうと危機感を抱くようになった。それで、なんとかこの二人を総督から引き離す必要がある、と感じだしたのではないか、そんな風に思うのです。

7.対決
   こうして、パウロ一行とバルイエスすなわち魔術師エリマは対立した。バルイエスすなわち魔術師エリマとは対立したのでした。先に魔術師エリマの方から、遠ざけようとするという行動に出たのです。
    9: パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、
    10:言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
    11今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
  こういう宣教もあるのかとばかり、多少びっくりしてしまいました。正面からの真っ向勝負とでも言ったらよいでしょうか。
 要するに、お前は失明するぞと言った訳です。そうしたら本当に失明してしまったという出来事です。

8.地方総督セルギウスの入信
    12:総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。
   もともと、この人物は、パウロ一行の話を聴こうという開かれた精神の持ち主だったと思いますが、彼が入信したのは、パウロの宣教の言葉を聴いた結果だったからではなく、魔術師エリマがパウロの言葉どおりに本当に失明してしまったからでした。
  こういう信仰の道への入り方ということもあるのだなと、当惑しないではおれません。驚きです。
 どう理解したらよいのか戸惑います。「主の教え」には、こういう事も含まれるのかと驚かざるをえません。
 言うなれば、福音宣教を妨害する者への直接的な懲罰を言明すると、実際に懲罰の出来事が起きてしまうというのです。恐ろしきかな宣教の威力。
 こんな恐ろしい力を発揮する出来事を目の当たりしたら、驚くのも当然です。でも、こういう宣教を毎回していたら、人々は怖れなして、かえって遠ざかってしまうのではないでしょうか。
 聖書は、この出来事もパウロが聖霊に満たされて実行したと記していますから、神の意志が働いていたことになります。神さまの意志ですから、文句は言えません。
 しかし、実際に宣教の最前線では、こういう奇跡もあったし、希望でもあったのでしょう。こういう場合も、パウロは救済の道を忘れてはいません。「時が来るまで日の光を見ないだろう。」との一言を付け加えています。これは救いです。相手のことを、赦し、愛し、いたわる言葉を忘れてはいないのです。「時が来れば」と、つまり、悔い改めのチャンスを与えているのです。
 これは猶予期間です。バルイエスは「時」を与えてもらったのです。失明は、その間、暗闇のなかで、彼は自分自身を振り返り、内面世界をみつめる猶予を与えられたのです。失明は、その意味では、彼の救いのためには恵みになるのではないしょうか。そう考えると、失明は、必ずしも単なる懲罰ではなくなります。かえって、悔い改めを促すための恵みになります。それまで見えなかった世界が闇の中で見えるようになるために。
                  アーメン

2026年6月14日日曜日

 2026年6月14日 (聖霊降臨節第4主日)

          付知・田瀬教会合同礼拝

                子どもの日(花の日)



『悪霊追放』
          使徒言行録16章16節~24節

16節:わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。

17節:彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」

18節:彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

19節:ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。

20節:そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。

21節:ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」

22節:群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。

23節:そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。

24節:この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。


1.占いの霊に取り憑かれた女奴隷の叫び

   ここに一人の女性が登場します。この女性は、パウロとシラスにまとわりつくように、「うしろについて来て」は叫んでいたというのです。その叫びの内容は、 「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」というものでした。

 内容は、パウロとシラスの宣教をあたかも宣伝しているかのようなもので、パウロがどうして、彼女に向かって、「悪霊追放」を行ったのかと、疑問を抱いても不思議ではありません。

 彼女が叫んていた内容そのものは、まったく正しいからです。内容が正しいのに、パウロは、彼女を操り動かしている「霊」は、追い出すべき「霊」だと認識していたことになります。

 この事実が私たちに示している事柄は、所謂「悪霊」(悪霊とはここでは言われていませんが)の働きは、内容の正しさによって見極めるのではないということです。悪霊もまた正しい事を語るのです。だから言っている内容が正しいということは、その「霊」の働きが「悪霊」から起源するのか、そうではないのかという判断基準にはならないということです。言説の正しさは、その言説の起源が、悪霊なのか、神の霊なのかを担保しないのです。


2.「霊」を見分ける判断基準

   言説の正しさが、「霊」を見極める判断基準になり得ないとしたら、パウロはどのようにして見極めたのでしょうか。」

   「彼女がこんなことを幾日も繰り返すので」と、ルカは記しています。こんなこととは、パウロ一行にまとわりついて叫び続ける行為です。パウロには、「迷惑」行為だったことがうかがえます。外見的にみれば、宣伝してくれているようにも見えるのですが、パウロにとっては、そうなってはいなかったということでしょう。つまり、いくら言っている事が間違いとは言えないまでも、その言葉をつかう「状況(様態)」、「目的」によっては、語っている内容そのものの意味内容を台無しにしてしまうということが、現実にはあるということです。パウロの立場から言えば、彼女の行為の状況(様態)、目的は、パウロの宣教にとって、妨害行為以外の何ものでも無かったということです。 

 わたしは、福音宣教とは、信仰の対象であられる「まことの神」への信仰から、語られるというきわめて明解な事柄だと考えます。

 この女性は、「占いの霊に取り憑かれている」人でした。

 彼女は、パウロから、主イエスの福音を聞いたことはありません。聴いた事もない、すなわち彼女は自分が知りもしないのに、パウロ一行を指して、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と「宣伝」していたのです。

 彼女の状況・目的は何だったのでしょうか。彼女の状況は、福音については「無知」、目的については、今流に言えば、パウロ一行への「褒め殺し」とでも言うのでしょうか。しつこくまとわりついて、自分では知りもしないのに「いと高き神の僕」だと言い立てる訳です。聞いている人にも、彼女が「占い」をして主人をもうけさせる女奴隷だということは知れ渡っている状況ですから、彼女の状況や目的が、パウロ一行を貶める行為であることは、周囲の人々にも明らかだったであろうし、パウロにとってみても、「迷惑」でしかなかったはずです。

 わたしたちは、この事態から、何を教訓として学ぶことができるでしょうか。

 それは、福音宣教は、福音を語る人の「実存」と無関係ではありえないとうことでしょう。

 パウロは、自分自身の実存と離れたところでは、一言も語ってはいなかったはずです。

 女奴隷にとっては、彼女の実存は、実存としてかならずあるはずですが、それは主イエスとは無関係だった。

 ここで、わたしたちは、自分の実存と主イエスの実存が無関係なところでは、ひとことも福音を語れないし、語ってはならないということを知らされるのです。

3.信仰者の実存と離れた宣教は存在しない

   この女奴隷は、福音を聴いたこともなく、従って主イエスを知らないし、信じてもいません。しかし、この女性が、福音を知らないというだけでは、何の罪でもありません。このとき、世界は、パウロ一行をはじめとした圧倒的な少数者しか、主イエスを知らなかったのですから、彼女はそのなかの一人にすぎません。

 彼女はむしろ、知らされなければならない人々の一人として、福音を聴くべき者のひとりでした。言い換えれば、つまり、パウロは、彼女にこそ、福音を伝える責任を負っていたのです。

 彼女に、福音を語るということは、パウロの実存と無関係では有り得ません。

パウロ自身が、キリスト者迫害の中心にいた一人でしたから、迷惑行為によって、パウロの宣教を妨害する彼女に対して、「主イエスならどうなさったであろうか」と思わずにはおれなかったはずだと、わたしは考えます。他人事ではないのです。

 パウロの、かつて自分こそ迫害者だったという彼自身の原体験が、彼女への特別な関心と愛を、彼にもたらしたはずなのです。それがパウロの実存的な「原点」だからです。彼はいっときも自身の過去の罪との対峙なくして福音を語れなかったはずです。

 

4.「悪霊追放」・パウロの自己解放

     「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

  だから、パウロのこの「悪霊追放」の命令は、彼が彼女に向かって命令してはいるけれども、この命令は、パウロ自身の内面をえぐることなしには出て来ないはずだと、わたしは思っています。

 かつては、この女奴隷よりもはるかに罪深い迫害者だった自分が、彼女を救えるなどと思ってもみないパウロだったはずです。その彼が、どうしてこのような激越した命令を語り得たのでしょうか。

 彼は、彼女に向かって語ったけれども。「この罪深い自分には、こう命ずる権利など微塵もない」と感じていたのではないでしょうか。

 ですから、ここで命じているのは、パウロ自身でありながら、実は、彼の主イエスへの信仰ゆえに、「自分には語る資格はない。しかし主イエスご自身ならば、この命令を語るに相違ない。そうであれば、主ご自身が、命じてくださっている」、と確信していたからこそ語り得た、私はここを読むときこのように理解せざるをえないのです。

   こう命じるパウロ自身が、主イエスの「悪霊追放」の命令を受けているように感じていたのではないか。彼は主イエスが命じてくださっていると信じることによって、彼自身もまた、解放されている自己を感じていたのではないか。そう思うのです。


5.占いの霊

  さて、この一人の哀れな女性ですが、彼女の内面世界では何が起きていたのでしょうか。

    すると即座に、霊が彼女から出て行った。

  この記述は、古代人にとっての「客観的な描写」だったのだと思います。これを現代のわたしたちが、どのように理解するのかということが重要になります。

 ポール・トウルニエ博士は、来日時の質問に答えて「悪霊」の存在は否定できないと語りました。精神科医であり牧会者でもあったトウルニエ博士の言葉だけに重みがあります。ただ、存在を否定できないという事が何を意味するかは、依然として重要です。

 「悪霊」の存在を、物証的な意味で科学的に検証することは不可能です。ですから、神学的、思想的に、理解する必要があります。

 わかっていることは、パウロが語った悪霊追放によって、この女性の意識と行動には劇的な変化が見られたということです。これは否定できません。

 この変化は、彼女の内面世界においては、どのような変化があったからなのでしょうか。

 占いが金儲けのためのビジネスだったことは、彼女の主人が彼女の占い行為によって、金を稼いでいたという記述から明らかです。

      ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。

   ですから、彼女はこの職業によってお金を稼いで主人を喜ばせていたことになります。要するにお金になることをしていたのです。それには客を喜ばせる必要がありますから、この女性は、「読心術」のような特技があったと考えられます。わずかな表情の変化も見落とさずに,何を語れば客が信じたり、慰めを得たり、喜んだりするかを、瞬時に読み取る才能があったと思われます。

 そうして、話を即座に作る訳です。自分がつくった「話」を自分でも信じこんでしまう。客観的には、これは人を騙している事だけれども、それで客が満足するのであれば、金儲けは成立することになります。言うなれば、「詐欺」なのですが、訴える人はいません。なぜなら占いによって自己満足しているから訴えたりしないのです。嘘でも信じていっときでも安心できれば、「救われた」ような気分を味わえるから、感謝して客はお金を支払って帰るのです。

 彼女は、毎日毎日、人の心を読み取り、作り話を限りなくつくり、それを自分でも信じ切って、語るのです。

 そんな彼女は「作り話」に明け暮れていた人生に、彼女はいい加減疲れきっていたのではないでしょうか。虚しさを感じていたのではないでしょうか。嘘で固めた人生に彼女は耐えきれなくなっていた、内面的に限界にきていた。そんな彼女は、自分では何も知らないパウロ一行に、何かを感じたのだと思います。パウロの語る自分にとってはいまだ知らない「いと高き神」に、彼女の空虚な魂を癒す何ものかを感じとっていたのではないでしょうか。おそらくこの魂の渇望こそが、パウロ一行への「つきまとい」となって行ったのではないか、わたしにはそう思えるのです。彼女の状況(様態)・目的が、彼女の限界に来ていた虚ろな魂が、いまだ明確には知らない主イエスの救いの言葉を求めて、この「迷惑行為」を引き起こした、と思うのです。

 だからパウロにとっても、彼女は必要な人でした。

外見的には「迷惑」であったように見えますが、彼にとって、彼女は、パウロ自身、他人事ではない。彼女は主イエスと自分との関わりを想起させ、確認させる存在だったと思うのです。彼女の救いは、彼の救いと結びついていたのです。

 彼は彼女に、主イエスの福音を語ることによって、主イエスの命令すなわち全人類に福音を伝えるという命令に従うことができるからです。

 パウロは、主イエスに代わって、彼女にみことばを語ったのです。

     「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

   彼女を支配していた「霊」を、聖書記者は、彼女自身の人格とを区別しています。

 彼女の虚ろな精神世界の状況は、彼女自身の実存的な状況でしたが、その状況は彼女自身が望んで、そうなっているのではないという意味がここにはあります。魂の空虚、魂の危機、限界状況は、本来的な彼女自身の人格ではないのだという理解です。

 この区別によって、彼女の内面世界は、「手術」(オペレーション)を受けた」のです。彼女の危機は、彼女自身から切り分けられたのです。

 そして、主イエスのみことば、主イエスのみことばの力によって、切り取られた「霊」(彼女の魂の空虚、危機)」は、彼女から「追放」されたのです。

 彼女にとって、パウロの命令は、彼女には、「もう嘘をつかなくてもいいんだわ」、「もう作り話をつくらなくてもいいのだわ」という「魂の自由を獲得し得た喜び」をもたらしたことでしょう。彼女は「解放」されたのです。


6.福音宣教が引き起こした「迫害」

    そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。

    ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」

   女性の自由は、人格の自由だけではなく副作用を招きました。金づるを失った奴隷所有者はパウロ一行を高官に訴えて逮捕させます。群衆も一緒になって責め立てました。人格の解放は、社会経済への影響を免れなかったのです。社会全体が、「占いの霊」を守る側の精神世界だったから、この秩序に変化をもたらす福音を拒絶したのです。

 ローマの社会を支えていたこの精神世界を、根底から覆す力を目の当たりに見た群衆は、奴隷所有者の金ずるの喪失に、支援の同調をして、パウロ一行への懲罰を要求しました。

 福音が、人間を自由したことが、ほかの人の財産権の侵害だった。そういう社会だったのです。人間の欲望のシステムと人間解放とが衝突するとき、「迫害」という状況が生まれたということなのでした。

 人を自由にする解放のわざが、そのことによって社会全体の抑圧のシステムを根底から揺さぶった。それが「迫害」という状況だったのです。

 パウロは、人の財産を奪ったのではありません。女性の人格を彼女自身のものへと取り戻したのです。それは、奴隷所有者たちの「財産」としての価値をなくすことだったために、損害を与えたことにされたのです。それはもともと彼らが彼女から奪っていたものを失っただけなのでした。

 奪っていた者から、自由人へと解放しただけでした。

 それが、「迫害」の理由です。


7.牢獄の中のパウロたち

 パウロは、ただ主イエスへの信仰故に、主イエスの命令を、彼の人格を通して実行したまででした。

 それは、そうなさずにはおれない必然の行動でした。

 「悪霊追放」とは人格解放をもたらす福音宣教に他なりませんでした。

 それゆえ、この必然に伴う「迫害」は、神の栄光に他なりません。パウロは、外見的には投獄という苦難の状況のなかで、この苦難こそキリストへの追従として、受けとめたに相違ありません。ゆえにこの苦難を神の祝福として感謝し、次の一歩を歩み出す力に満たされていたことでしょう。

 主イエスの栄光に感謝します。  アーメン

 


2026年6月7日日曜日

 2026年6月7日 (聖霊降臨節第3主日)

使徒言行録4章13節~31節

『迫害の現場こそ宣教の場であった』


聖書の引用

13:人々は、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であることも分かった。

14:しかし、足を癒やされた人がそばに立っているのを見ては、何も言い返せなかった。

15:そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、

16:言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない。

17:しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」

18:そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。

19:しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。

20 :私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

21:そこで、彼らは二人をさらに脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を崇めていたので、人々の手前、どう処罰してよいか分からなかったからである。

22:このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。

23:さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず報告した。

24:これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声を上げて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。

25:あなたの僕であり、私たちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。/『なぜ、諸民族は騒ぎ立ち/諸国の民は空しいことを企てたのか。

26:なぜ、地上の王たちは立ち上がり/君主たちは集まって/主とそのメシアに逆らったのか。』

27:事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、諸民族やイスラエルの民と共に集まって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、

28:御手と御心があらかじめそうなるようにと定めていたことを、すべて行ったのです。

29:主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、堂々と御言葉を語れるようにしてください。

30:どうか、御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病気が癒やされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」

31:祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした。

以下 宣教の原稿

1. 神の共同体は感情の共有ではない

   被害感情から宣教の言葉は生まれません。この記録は、事実をもとにしてでなければ描き得ないものだとしか思えません。人間的な感情による情熱にうなされるような「信仰」感からは、このような記録は残せないはずです。

 もしペトロとヨハネが、ほんの少しでも人間的な感情の片鱗でも示していたならルカはこのような描き方はしなかった筈です。人間的な感情、反応というのは、攻撃されたら、敵意をもって反応する。「迫害」や「中傷」にさらされたら、傷つき被害感情を懐く。それが「普通の人」の反応です。つまりは、感情とか心情とか、人間的心理に還元される反応を人間的と思うからです。

 もしペトロとヨハネが、ごく「普通の人」として人間的な感情という反応を示していたなら、反対されたら、ただ敵を憎悪し、被害感情に浸るだけだとしたら、キリスト者共同体は、もはやキリストの肢体たる共同体ではなく、ただの傷のなめ合いのお友だちの集まりに終わっていたことでしょう。教会はもはや存在していないからです。そこにあるのは被害意識を共有するお仲間の集合体にすぎません。

2. 堂々とした態度

   ペトロとヨハネは、「堂々とした態度」でした。この状況は、反対者たちが、なんとか彼らを処罰して,福音宣教を阻止しようとしている、いわば裁きの場であり、迫害の現場でした。この状況は、社会的な力関係でいえば、弟子たちは、裁かれる立場なのですが、霊的には裁く側のサドカイ人を圧倒してます。この「堂々とした態度」という言葉が、このシーン全体を支配しています。

 ここには被害意識、被害感情、敵愾心の微塵も感じられません。

 信仰は感情とか心情とか、人間的心理の所産ではないことがよくわかります。

 ペトロとヨハネから感じられるのは、不動の意志です。

彼らの人格・個性を超えたところ、魂の内奥に存在するイエス・キリストの意志が伝わってきます。

 彼らは、表面的には「無学な普通の人」でした。それだけに、人々は驚愕したというのです。どれほど彼らの霊的な意味での圧倒的迫力に、「ものすごいもの」があったとことでしょう。人々が感じとったものは、ペトロとヨハネを通して働く神の力だったのです。


3. 足を癒された人がそばに立っていた

  ペトロとヨハネは、主イエスがなさった「しるし」、すなわち奇跡的治癒行為を、実行したのです。弟子たちは、イエスの生前、治癒行為を行おうとして、結果できなかったことがありましたが、ここでは、何の気負いも、不安もなく、実行しています。「できなかったらどうしよう」とか、「イエスさまから権能を授かったんだからできるはずだ」とか、そういう不安、気負いは、ここでの彼らからは感じられません。実に、当然のことを当然のように、淡々と、粛々と実行しているのです。もはや彼らではなく、彼らのなかのキリストが実行しているかのようです。

  この堂々たる態度に圧倒されているばかりではなく、癒された当事者がここに生き証人として立っているのです。この事実は否定しようがありません。

   ルカの記述には、この一人の癒された人の存在だけではなくて、この人以前にも奇跡的治癒行為は多々、既に行われていて癒された人が大勢存在していたと思われるのです。エレサレムの住民全体に知れ渡るほど広範囲に行われていたとあるからです。彼らの癒やしの治癒行為は「目覚ましいしるし」として住民全体に認知されていたのです。

 しかし、知れ渡っているから、「否定しようもない。」とルカは記録しているのですが、わたしはこの記述は少し変だと思います。住民全体に知れ渡っているから、否定できないというのは、少し変でしょう。否定できないのは、生き証人が現にここに立っているからでしょう。現に存在する人を否定できるはずがない。

    16:言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない。」

  文字通り受けとめれば、「エルサレムの住民全体に知れ渡っている」ということは、つまり「人の口には戸を立てられない」というような事態は、もう防ぎようがないというような意味ではないでしょうか。もういくら否定するネガテイブキャンペーンをはっても、とめようがないという意味でしょう。そうであれば、この言葉の意味は、反対する人々は、民衆の評判が急速に広まっていることに危機感を感じながらも、止めようもないと、諦めの心情を吐露しているということになります。学者先生はルカの誇張だと言いますが、それは主観にすぎず根拠はありません。反対する人々の困惑こそが、ルカの誇張だという主張を否定しています。


4.無駄な抵抗、脅しと命令

    17:しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」

  反対する人々には、もう為す術は残っていませんでした。彼らは、これ以上民衆の間に広まることを危惧しながらも、困惑しているのです。 無駄な抵抗をする他はありませんでした。

  「今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」と、脅しと命令を虚しくする他はありませんでした。

 しかも、彼らとても、内心では、ペトロとヨハネが実行する「しるし」は、二人の内奥にキリストの存在があるのだということを知っていた事が、彼らの脅しと命令によって、その事実が判明します。彼らは、キリスト・イエスの「御名」には、「力」があることを知っていたのです。だからこそ、「御名」を禁じたのです。


5.イエスの御名には「ちから」がある          

    18:そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。

   反対する人々は、「イエスの御名」に「力」があることを、信仰者ではないにも関わらず、知っていたのです。だからこそ禁じたのでした。かれらは、社会的な「力」では優位にありがら、霊的な圧力においては、彼らのほうが恐れていたのだと、わたしは思います。


6.神と人との、どちらに従うことが正しいか

  ペトロとヨハネには、反対する人々の「脅し」や「命令」は何の「力」もありませんでした。二人にとっては、「脅し」も「命令」も何ほどの権威もなかったのです。

 二人にとって、人の「脅し」「命令」に従うことと、神に従うことのあいだは、「どちらか」は、比較を絶していました。比べものにならないのです。

 この判断は、反対する人々においても、正しい判断ではないのかと、逆に問いかけています。ただ、反対する人々にとっては、二人にとっての「神」は「神」とは見なされてはいません。二人には「神」は当然「イエス・キリスト」ですが、反対する人々にとっては、「イエス」は「神」ではなかった。それを百も承知で、二人は、自分たちにとっての「神」、イエス・キリストに従うことこそ「神」に従うことなのだと、抗弁しているのです。

 「神」は、両者にとっては、「共通」存在ではなかった。それが、両者のはざまにあった現実でした。

 それでも二人は、「見た事や聴いた事を話さないではいられない」と抗弁したのです。


7.見たこと、聴いたこと、神の現実存在

   ペトロとヨハネは、反対する人にとっても、「イエス・キリスト」は「神」なのだと抗弁しました。これは、明らかに福音宣教です。そうです。二人は、迫害者・反対者・敵対者に福音を宣教しているのです。

 二人が「見た事や聴いた事」とは、主イエス・キリストでの出会いにおいて,彼らが経験した神の現実でした。神の現実が二人を変えました。二人は変えられた者として。「いま・ここで」生きています。イエス・キリストが、魂の内奥に内住してくださっている存在として生きているのです。

 二人は、こう語っているのです。

「あなたがたは、あなたがた自身、今はまだ、あなたがた自身をささえ、生かし、導き、共に生きておられるまことの神すなわちイエス・キリストの現実存在を知らないが、あなたがたは、このイエス・キリストによって、既に神と共にある者なのです」と。


2026年5月31日日曜日

 2026年5月31日(聖霊降臨節第2主日)三位一体主日

ローマの信徒への手紙8章12節~17節


「『あなたは神の子』ということば」


              『神の子とする霊』

 ローマの信徒への手紙8章 12節~17節

12:それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

13:肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

14:神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

15:あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

16:この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

17:もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。


1.「あなたは神の子である」という言説

 「あなたは神の子なのだ」と、断定的に言われたとしましょう。あなたはいったいどんな気持ちになりますか?」

  ある人は、「自分のような者が『神の子』だなんて面はゆい。」と思います。

 またある人は、「そうはっきり言ってくれるとなんだか嬉しくなる。」と感じるかもしれません。」

 つまり、「神の子である」という言い方は、聞く人によっても、また聴く人の精神的態度によっても、さまざまな捉え方ができてしまうし、その影響は良い場合もあれば悪しき場合も有り得るということでしょう。

 これらは、「神の子」という言説を〈言われた側〉の問題です。これらに対して、また、〈自己意識〉として「神の子」という言説も問題となります。


2.〈自己意識〉としての「神の子という言説」

 順番は逆になりますが、まず〈自己意識〉としての「神の子という言説」について考えてみます。

 たとえば、悪しき実例をあげれば、旧統一協会の教祖の場合などは、その典型です。

 この人は、「自分は神の子だ」と、信者たちに信じこませていますが、それは統一協会の「教義」で、〈そういうことになっている〉と信じこませることに成功しているからです。教祖をよく知っていて、その感化を受けて、「この人こそ神の子だ」と信じこんだ訳では決してない。教祖の人物については実は何も知らないのに、「教義」を受けれたばかりに、信じるようになってしまったのです。自分を「神の子」だという自己意識、それがたとえ嘘だと自覚しているにせよ、あるいは自分自身もその妄想に生きているにせよ、この自己意識をもっているとしたら、どんな人間として振る舞うようになるのか。それは教祖の実人生を精緻に分析すれば、ある程度は明らかにできます。

 またこの教祖のこどもたちを見てもわかります。現実が赤裸々に示しています。自殺、家庭内暴力、不倫、賭博癖、常習的虚言(作話)、平均的な市井の人には見られないような実態が既に多くの文献で報告されています。

 「われは神の子なり」という言説が自己意識になってしまったとき、人間は、常識を超えた道徳的逸脱をするようになるという典型が、教祖一族(全員とは言いません)の中には特徴的に現れているのです。これは悪しき実例です。際限のない尊大さ、倨傲性に満ち満ちた人間を創り上げてしまいます。

 それでは逆に、自己意識としての「神の子という言説」が、良い結果を生むこともある例をあるのかどうか、考えてみましょう。良き実例を挙げますと、たとえば、きわめて厳しい逆境におかれた人が、周囲から、社会から攻撃を受けて、とことん自尊心を痛めつけるような非難・中傷を受け続けていたとしましょう。キリスト者が該当します。初代教会の信仰者たちの事を思い浮かべることができます。

 イエスをキリストとして信じるという、そのことだけで、殺される時代状況の嵐のなかで生きてゆかねばならなかった一人一人は、どのような「自己意識」を持っていたのでしょうか。

 それは本日、パウロがローマの教会の信徒にむかって語りかけた事がそれです。

    14節 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

    16節 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

  迫害は、ひとりひとりの自尊心を徹底的に痛めつけることが目的でした。その状況下で、「ああ、神の霊、聖霊さまが私を導いていてくださる。聖霊さまが、わたしたちの霊と一緒になって、わたしが神の子であることを、神さまの前に証ししていてくださるのか」と信じることは、「自分のような者はなにほどでもない」卑賤な者だという自己存在への卑下を、吹き飛ばしたことでしょう。

 文字通り、「もはやわたしが生きているのではない。わたしの内のキリストが生きているのだ」という自己意識へ変貌させたのです。そこには、自己卑下ではなく、キリスト内住の確信が充満していたことでしょう。

 これは、良い実例です。

 この自己意識は、自己と他者を比較して、他者に対する存在の優位を誇るものでは有り得ません。他者に対して憐憫でもありません。ただ天地の創り主なる神に対して、「わたしはキリスト・イエスによってあなたの子である事を聖霊さまが証ししてくださいました」と言いうる霊を与えられているということです。

 それゆえ、「わたしは、キリスト・イエスが人類に対して愛したヨウニ隣人を愛する自己とされた」という「自己意識」となったのです。自己意識としての「神の子という言説」は、隣人への優位性の誇りでも、憐憫でもなく、隣人へ愛の主体者となる自覚となったのです。

 だからこそ、良い実例なのです。


3.他者に向けての言説としての「神の子」   「神の子」という言説を〈言われた側〉の問題を考えてみましょう。またこれは〈言った側〉の問題でもあります。誰かが誰かに、「あなたは神の子です」と〈言われた場合〉と、〈言った場合〉です。

  まず、〈言われた場合〉について考えます。

 この場合にも、悪しき実例と良い実例があることでしょう。

 これも、統一協会の教祖一族、全員とは言いませんが、教祖の子に生まれてしまったがために、幼少時から「あなたは原罪のない神の血統を受け継いだ者だ。すなわち神の子なのだ」と言われ続けた子どもたちです。その結果、どのような人格に育ってしまったか、現実が証明しています。

 教祖の子どもたちだけではありません。所謂「宗教二世」の問題でもあります。この子どもたちは生まれて以来、継続的に「あなたか神の子」だと親や周囲から言い続けられます。信者以外の人間は、「非原理世界すなわちサタン世界の人間、サタンの子」だと教えられ、自分は「神の子」だと言われ続けるのです。生まれながらにして、隣人を差別するという観念をたたき込まれて育つのです。当然、信者以外の人間を、「サタンの子」だとみなすように育つことになります。

 これは、悪しき実例でしょう。

 さらには、「あなたは神の子」と言われ続けるなかで、当然、自分自身の罪を罪としてみつめる洞察力が育ってくると、現実の自己と、「言われる自己」の間にある圧倒的な齟齬に精神の混迷に陥ってしまうこともあるでしょう。統一協会二世に自殺者が多いことの原因は、教義による自己像(「あなたは神の子」)と現実との自己像とのギャップにあると言っても言いすぎでないでしょう。

 「あなたは神の子」だと〈言われる側〉としての葛藤は、本人が真面目であればなおさら深刻化せざるをえません。きわめて深刻なストレスのなかで日常的に生きなければならない苦しみを抱えるか、葛藤することを拒否して、自己欺瞞的自己を受け入れるか、つまりいい加減な生き方を選ぶかを、意識的にせよ無意識的に選択するしかなくなってしまうでしょう。

 この葛藤は、真面目であればあるほど、深刻化しますから、どんどん追い込まれてゆきます。この葛藤そのものを、あたかもないかのごとく、テキトウにイイカゲンに生きることを決断してしまうと、教義が語る「神の子」像は限りなく、絵空事、建て前になって、齟齬そのものが消えてゆきます。これは典型的な偽善です。

   これは、やはり悪しき実例でしょう。

  それでは、「あなたは神の子」だと〈言われる側〉の良き実例を考えます。

   わたしの友人に、自分は同性愛者だと、いわゆるカミングアウトした人がいます。キリスト教会は長い間、同性愛は罪だとしてきた歴史があります。『幸せの王子』という実に美しい物語を書いたオスカー・ワイルドは同性愛者として、刑罰を受けた人でした。彼の時代の英国では、「罪」だったのです。これはキリスト教が聖書の読みにおいて犯した過ちの歴史に刻まれています。友人も、聖書の記述を、批判的に解釈することなく文字通りに受けとめて苦みました。多くの同性愛キリスト者が苦しんできた歴史がありますが、彼も苦しみ抜いたのでした。そんな彼を救ったのは、やはり信仰でした。

 すべての人は、神によって創造された「神の似姿」だと聖書は語ります。そしてその「神の似姿」は、人間堕落によって完全に破壊されてしまったがゆえに、すべての人は、ひとりの例外もなく「神の似姿」を喪失している。しかし、まことの神にしてまことの神、ただお一人の主イエス・キリストこそが「神の似姿」として降臨されたので、人は主イエスにつながることによって、「神の子」とされているのである、と信ずる信仰によって、「あなたは神の子なのです」と、聖書から「言われた」のです。

 これは、「あなたは神の子」だと〈言われる側〉を、救う神の言葉でした。

 これは、良き実例というべきでしょう。

※オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(英: Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde、1854年10月16日 - 1900年11月30日)は、アイルランド出身の詩人、作家、劇作家。耽美的・退廃的・懐疑的だった時代の旗手のように語られ、多彩な文筆活動を行った。しかし、男色行為(当時のイギリスでは刑事罰を科される犯罪行為)の発覚により実刑判決を受けて服役し、出獄後に失意から回復しないままに没した。


4.「あなたは神の子です」と〈言った場合〉

   まず悪しき実例を挙げましょう。

 2023年にNHKで放映された『プレミアムドラマ仮想儀礼』とか、タケシが主演した『教祖誕生』も、どちらもインチキ宗教を起ち上げるもので、いわば詐欺師が主人公になる作品です。嘘ではじめた宗教ビジネスが意外に信者を集めてしまう物語です。面白かったのは、でっち上げの「教祖」が、だんだん自分でもなかば本気になってしまうところです。

 ホームレスのオジサンに「お前、これから教祖になれ」と詐欺師が命じる訳です。するとオジサンはだんだんその気になってしまう。これなどは、「あなたは神の子」ですという言葉かけは、はじめから嘘なんですけれど、そういう嘘でも第三者に影響を及ぼしてしまうという可笑しくも悲しい話です。金儲けのために嘘で人を騙すことばとして、「あなたは神の子です」と言ってみても、人は騙され信じてしまうという事があるというのです。

   詐欺師の言説です。

 これは悪しき実例の見本でしょう。はじめから嘘なんですから。嘘でも、信じる人がそれで救われるならいいじゃないかという人も出てくるでしょう。これはモラルの崩壊です。

 では、良き実例を考えてみます。

 究極の実例は、イエス受胎の告知でしょう。

 天使ガブリエルは、母マリアに言ったことば。「あなたは神の子を身ごもるでしょう。」神が神の御使いによって神の言葉を語ったのです。真実そのものです。

 神は主イエスにも、語りました。

「これはわたしの愛する子、わたしのこころに適うものである。これに聴け」と、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、天から神の言葉が語られました。まさに「あなたは神の子です。」という言説の究極的起源です。

  この実例は究極的起源の実例ですが、これは真実に神の子であられる主イエスに対して父なる神が〈言った場合〉です。これは究極の起源につながる人間の世界にも通じていると思われます。その〈言った場合〉を挙げてみましょう。人間的に、人間としてしか見ないのであれば、母マリアのイエス出産の客観的事実は、夫ヨセフの子ではな父親不在のこどもの誕生にしか見えません。この事実は、ユダヤ教社会の通例では、恐るべき事態だったと考えられます。現在でも、「名誉殺人」という因習が、法の支配にもかかわらず存在しています。

   ヨセフが密かに離縁しようとしたのは、彼の妻への配慮があったからでしたが、神がヨセフに真実(聖霊によって懐胎したこと)を伝えました。しかし、世間に理解されるものではなかったことでしょう。

    ※名誉殺人とは、女性の不道徳な行為がその家族や帰属集団(家族、親族、村落、カースト、宗教集団など)にもたらす不名誉を取り除き、名誉回復の手段として行われる暴力(殺傷事件)である。不道徳な行為とは婚前の性関係、親が認めない婚姻関係(ただし、認めない理由はさまざまである)、そして妻の不貞などである。名誉殺人はその言葉から殺人を指すが、殺人未遂や拉致など、殺人以外の暴力も含めることができる。名誉殺人は、両親の権威によって象徴される伝統的な共同体、すなわち「名誉の共同体」の秩序を揺るがす若者にたいする処罰である。

  現在でも行われる家族・親族による殺害。まして、2千年前には、イエスの生命自体が危機的だったと考えても不思議ではありません。この事実は、現代でも不遇な境遇によって、女性やその子どもが置かれる生命の危機的状況に、通じるものです。

 イエスの生命の危機に、母マリアは幼少期のイエスにどのような言葉をかけて育てたことでしょうか。

 「あなたは神の子なのです。」と語りかけたかもしれません。

 同様に、イエスが置かれた危機的状況とよく似た境遇に置かれた母子の事を思うのです。

  哀れな母親がこの世に産まざるをえずして産まれたこどもを愛するとき、この母親は、一体どういう言葉をこどもに語りかけたらよいだろうか。

 わたしは、こういう場合こそ、「あなたは神の子です」「だれがなんと言ったって、あなたはあのイエスさまと同じように誰が父親かわからなくても、あなたは神さまがわたしに与えてくださった神さまの贈りものなんだよ。だからあなたは神の子なのよ」と言いきったとしたら、それは母マリアのような立派な母親だと言えるのではないでしょうか。全世界には、イエスと同じように,客観的事情において、生命の危機に瀕した子どもたちが大勢います。この子どもたちは、貧しさのゆえに、戦争のゆえに、災害ゆえに、生命の危機に瀕しています。母親ならずとも、人類は、共に聖家族の一員として、この子たちに具体的に、現実的に、「あなたは神の子です」と断言し、家族としての責任の一端を、ほんのわずかであっても担うことができたらと思うのです。これができたとしたら、明らかに良き実例なのではないでしょうか。



2026年5月24日日曜日

 2026年5月24日 (聖霊降臨日)

『集まれなかった人々』

使徒言行録2章1節~11節


                『聖霊の賜物』(聖書日課に基づくタイトル)

2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

2:5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

2:6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

2:7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

2:8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

2:9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

2:10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

2:11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


1.集まらなかった人々、集まれなかった人々

    2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

 「一同が一人になって集まっていると」とある。この一同のなかにいる人々は、集まっていたのだが、神の恵みの導きによって、集められていた人々とみるべきでしょう。この人々は「抜擢」された人々なのです。

 ということの裏側には、集められなかった人々がいたと考えられるでしょう。この人々は、神の恵みにあずかれなかったのでしょうか。

 わたしには、「集まらなかった人々、集まれなかった人々」が気になります。この人々は「聖霊降臨」の出来事が起きたときに、その場に居合わせることができなかったからです。「集まる」という事が起きている以上は、どうしてもそこに「選び」が同時に起きていることになります。だから、「集まらなかった人々、集まれなかった人々」は、「選び」に漏れた人々ということになってしまいます。

 そして、この「集まる」という事柄が、神の「選び」の出来事であると理解するならば、「集まる」事が、いかに重要な事柄であったかを、示していることになります。


2.「集まる」ことは、神の選びのみわざだということ

 わたしたちが毎週、礼拝のために礼拝堂に「集まる」事の重要さを、改めて覚えます。

 わたしの霊的な恩師小野一郎牧師は「礼拝にははってでも来なさい」と教えてくださいました。わたしは、この言葉を忘れることができません。

 たしかに、わたしたちの全生涯、全生活、全時間は礼拝です。仕事に従事しているときも礼拝なのです。食事をしているときも礼拝です。眠っているときでさえ礼拝なのです。キリスト者のときのすべては神への礼拝の時だという理解は、正しい。礼拝の時と、礼拝でない時とは、原則的に区別はありません。すべては神への礼拝だという理解は間違いないのです。ですがしかし、とりわけ、主の復活の日、主日に守られる「礼拝」こそは、原則としてのわたしたちの全時間としての礼拝とは、区別されます。

 ほかの時間とは区別されるのです。それは神が全被造物を創造され、最後に休まれ、「安息日」と定められ、他の時間と区別されたからです。「安息日を覚え、これを聖とせよ」と神は、命じられました。この戒めは、「区別せよ」という事と同義です。

 わたしたちは、この戒めに従い、主日を守ることに、文字通り「命」をかけることを、「要求」されているのです。

 だから、わたしたちは「集まる」のです。ひとりで、洞穴のなかにひきこもるのではないのです。「集まる」ことが、こよなく重要なのです。

 この神の安息日遵守の命令に、聴き従おうという意志が、こころのうちに起こっているからこそ、人は礼拝に集まるのです。この神の誡命に聴き従おうという意志が起こされているという現実は、神のめぐみの選びが、わたしたちの魂にすでに働いている証しなのです。

 ですから、ペンテコステ・聖霊降臨の出来事が起こった、あの日あの時あの場所に、集まっていた「一同」は、決定的な聖霊降臨の出来事以前に、恵みの神の導きが、促しが、この人々には明確に存在した事は間違いないのです。彼らは間違いなく「選ばれ」ていたのです。


3. 集まらなかった人々

  ここに集められた人々が神の恵みの選びに導かれていたことの裏には、ここに「集まらなかった人々」、そして集まれなかった人々」がいた事を、どのように理解したらよいのでしょうか。再び、ここに戻ってきます。「集まらなかった人々」は、自分の意志で集まらなかった人々です。この人々のことを考えてみます。

 エルサレム入城まで主イエスにつき従ってきていた群衆は、当初はイエスに追従する人々でしたが、主イエスがユダヤ当局から死罪を要求されるという風向きの変化のなかで、イエスへの期待は急激に失望へと変わり、イエス殺害の同調者たちの陰に隠れるように身を潜めます。そしてイエスの支持者であることを隠し、むしろイエス殺害を叫ぶ民衆にのなかに紛れるかのように翻身する者までいたことでしょう。

 主イエスが復活したという証言は、エルサレム中に広まったことでしょうし、弟子たちが復活のイエスに出会ったことも知れ渡ったことでしょう。それでも、弟子たちのところに、参集して、こころを一つにして祈ることを、拒んだ人たちがいたことも想像に難くはありません。

 自分の意志で集まらなかった人々とは、「集まる」ことを「拒否」した人々です。一度は、彼らも彼らなりにですが、イエスについてきた人々です。弟子たちとも面識もあり、同じ仲間のようにふるまってきた時間もあったはずです。その彼らはなぜ、弟子たちの祈りの場に集まらなかったのか。彼らには、恵みの選びはなかったのでしょうか。

 わたしは、彼らにも神の選びはあったと思っています。神の選びは、人の目には理解できないことがあるとわたしは思っています。

 たしかに彼らは、意図して集まらなかった。なぜなのでしょうか。わたしは思うのです。

 彼らが見てしまった「景色」を、こころのなかで解決できていなかったのではないでしょうか。

 彼らは見てしまったのです。弟子たちが姿をくらます様子や、イエスを「知らない」と言って無関係を装い、イエスを公然と裏切って、行方をくらましてしまった事実を見てしまったのです。 彼らにも当然、逃げる動機は同じようにあったし、弟子たちの心理を理解しないわけではなかったでしょう。しかし、自分の事は棚に上げてせめて弟子たちには、もっと「立派」に振る舞うだけの責任を示してほしかったと思った。自分のことは棚に上げてです。「赦せない」彼らはそう感じたのではないでしょうか。

 こんな思いでいっぱいだった彼らには,弟子たちの祈りの場に、こころを一つにして集まることは不可能だったのでしょう。自分自身を振り返って内省するこころをもたずに、他者に自分が勝手に創り上げた理想像を投影して、他者がその理想像に重ならない時に、他者を一方的に裁いてしまうのです。このような心理状態だったのではないでしょうか。彼らは神ではなく自分を「裁き主」にしているのです。このままでは、彼らは神の恵みの選びのなかにあったとしても、彼らには神への思いよりも自分の思いしか見えてはこないでしょう。

 「自分の意志で集まらなかった人々」とは、結局、自分の思いへのこだわりを神への思いよりも優先したがゆえに、集まらなかったのです。


4.集まれなかった人々

 「集まれなかった人々」とは、意図せずに、集まりたくても集まれない何らかの事情に阻まれて集まれなかった人々です。この場合、この人々は集まりたかったという動機においては、集まった人々と同じだったという前提があります。つまり、この人々は、集まることを「拒否」していたのではなかったけれども、事情によって集まれなかったのです。

 この人々も、恵みの神の選びに導かれていたことを、わたしは疑いません。彼らも導かれてはいたのです。

 けれども、結果として集まれなかった。

 問題は、集まることを阻んだ何らかの事情です。この事情によっては、この人々自身にも責任があるとは思うのです。

 まったくこの人々自身には問題がない場合もあるでしょう。この人々の力の及ばない客観的な事情がある場合です。その場合は、かの人々には責任がありません。

 しかし、この人々自身の内面の問題が、阻んでいる事情となってしまう場合は、その人自身に責任があることは明らかです。たとえば、その人自身が、解決しなければ他の誰にも解決することはできない個人的な課題を抱えている場合です。

 弟子たち「一同が一つになって集まっていると」とあるように、弟子たちは、こころを一つにして集まり、祈っていたのです。ところが、かの人々は、ここに集まっている人々と、こころを一つになることができないのです。

 その場にいるある人のことを「どうしても好きになれない」とか、「一緒にいたくない」とか、そういう「好き嫌い」の類というべき個人的な心理的課題を抱えている場合です。

 この人々も、神の恵みの選びのうちに導かれていることは疑いえませんが、この人々は、神の恵みを受けながらも、自分自身にしか解決できない個人的な課題を直視することを避けているために、自ら「集まり」のなかに、入って行くことができないのです。

 この人々は口癖のように二言目には、「わたしは集まりたくても集まれないのです」と言い訳をするのが常です。自分が集まりのなかに入れないのは、集まりのなかに自分の気に入らない人物が混じっていることが嫌だというのです。これでは誰の目にもこの人々が集まれないのは、この人々自身の問題なのは明らかなのに、集まれない理由を「集まり」のせいにしているのです。

 彼らも、やはり、神の恵みの選びの導きのなかにいるはずなのですが、彼らは、神の選びに応えることをしません。そして他者に責任があると本気で考えてしまうのです。神の選びの前に、自分がいかにあるべきかを見ようとせずに、「集まり」そのものに問題があるとしか考えないのです。

 結局、「集まり」に「集まろう」とはしていないだけなのに、「集まりたくても集まれない」と主張するのです。


5.聖霊の賜物は、客観的な現実

    2:7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

    2:8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

 聖霊降臨の出来事は、「一同が一つになって集まっていると」、生起しました。わたしたちは既に、「一同が一つになって集まっている」事実に、神の恵みの選びの働きが確認できることを見てきました。少なくともここに集まっている人々は、「一つになっている」と記録されているように、すでに個人的なわだかまりとか、葛藤とかの問題は消滅していると見て取れます。ここに集まっている人々は、神の恵みの選びに応答して、ここにいることが許されているのです。

 なんのわだかまりもありません。彼らのこころは既に一つです。そしてそこに聖霊降臨の出来事が起きました。

 その結果は、ここに記録されているように、言葉の出来事でした。奇跡です。人々は、「学習」という経験を経ることなく、自分が知らずにいた言葉を自由に語るようになったのです。

 これは客観的事実でした。主観的な「思い込み」ではありません。思い込みでは自由に言葉を操ることなどできはしません。奇跡なのです。この奇跡は瞬時に起きています。言葉の出来事が、客観的事実であったことは疑いえません。

 ただ奇跡は、聖霊降臨より以前から起きていたとみるべきでしょう。

 それは、「一同が一つになって集まって」いること自体に、わたしは大いなる奇跡を見るからです。


6.遅れてきた「人々」

  わたしは、神の恵みの選びはあったと思うと語りました。神の選びは、人の目には理解しがたいとも申し上げてきました。

  聖霊降臨の日に、そこに、その場に居合わせることができなかった人々、集まりに参集しなかった人々のことを考えてきました。彼らは、結局、決定的な客観的事実としての聖霊降臨を受けなかったのですが、わたしは彼らも神の選びへの導きの中にはあったと信ずると述べてきました。

 彼らは、決定的な歴史の転換点に、ごく間近まで来ていたにもかかわらず、その時、その場に居合わせることなく、歴史の陰におきざりにされて見過ごされてきた人々です。

 彼らのことについて、必ずやいたであろう彼らの事について、聖書は何も語ってくれません。

 まさに行間を読まざるを得ません。しかし、恵みの神はほむべきかな。神は、この「集まり」に、間に合わなかったかの人々をも愛したもうお方です。神の恵みの選びは、かの人々をも救わんとしている事を、わたしは信じます。

 彼らは、「遅れてきた人々」なのです。彼らは、悔い改めるべき課題を抱えた人々ですが、その課題を解決するための、いっときの猶予が必要だったのです。

 この猶予の期間、彼らは遅れることになります。

 しかし、この猶予は、彼らには必要な期間なのです。この猶予期間に、彼らは、彼らにしかできない彼ら自身の課題を解決しなければなりません。

 神は、待っているのです。

 愛の神は忍耐の神であられます。

 こうして読んでゆくとき、神に待っていただいているのは、他ならぬ「わたし」ではないのか。そう思えてきます。待っていてくださる神に、これ以上待たせることなく、「一同こころ一つにする集まり」すなわち「キリスト者共同体(教会)」に、遅ればせながら参集したいと、こころから願わないではいられません。

2026年5月17日日曜日

 2026年5月17日 (復活節第7主日)

アジア・エキュメニカル週間(23日まで)

ヨハネによる福音書17章1節~13節

『キリストの昇天』(これは聖書日課に基づくタイトルです。)



『神の喜びの充満せる人生』

1.喜びが

    先週のみことばの学びで、信仰とは、とどのつまりは、「喜び」に他ならないと結びました。

 信仰生活は、主イエスの「喜び」が、わたしたちの「内」に満ちあふれる生活なのです。いわば「主イエスの喜びの充満」です。(13節)

 主イエスの喜び・・・。それでは具体的に、「主イエスの喜びの充満」という事柄は、いったいどのような事柄なのでしょうか。復活の主イエスに出会ったとき、弟子たちは喜びに充たされました。瞬時にです。悲しみから喜びへと、瞬時に彼らは変えられました。ですから、弟子たちは、主イエスの喜びを体感したのではないかと考えられます。復活のイエスとの接触によって、彼らは喜びの人生を歩み始めたからこそ、彼らは、苦難や迫害をただ恐れるのではなく、喜んで受け入れる人生へと変えられたのです。

 この彼らの人生の変容を想う時に、確実に彼らが復活のイエスの命を受けていたと思わざるを得ないのです。

弟子たちの一人や二人に起こった事ではないのです。全員にこの変容は起きたのです。だからこそ、迫り来る迫害の状況にもかかわらず、彼らは殉教への道へと歩んだのです。

 「主イエスの喜びの充満」という事柄は、いったいどのような事柄なのでしょうか。苦難や迫害をも恐れずに、彼らが、喜びに充たされて生き抜き、かつ殉教した事実から、「喜びの充満」がいかなる事柄であったのかを知る事ができます。

 

2.永遠の命

  それは、彼らが「永遠の命」を、確実な事として、自明な事として、揺るぎなき確信のうちに生きるようにされたということなのではないでしょうか。

  復活の主イエスに出会ったとき、彼らは彼ら自身が「死の死」を経験したのだと思います。「死」とは「神喪失性」のことです。神さまを喪った事を「死」というのです。神さまと無関係になってしまった事を「死」ということなのです。この「死」を、人は人の力で変えることは絶対できません。この「死」の前ではすべての人は無力です。すべての人は無力ゆえにまったく平等です。無力さの平等です。誰も自らを誇ることはできません。たとえ自力を吠えたとしても、所詮は無力な遠吠えなのです。この絶対的な無力が、復活の主イエスとの接触の瞬間に、神さまの方から、圧倒的な力によって、もはや「信じないことができない」存在として、神ご自身の迫りによって、「神喪失性」が「死んだ」のです。「神喪失性」という「死」が「死んだ」のです。


3.悪魔は天使を偽装する

 この出来事は、抗うことのできない神の迫りの出来事でした。とにかく「信じないことが不可能」な事態なのです。復活の主イエスとの接触は、神ご自身との接触だからです。この接触は、「一つとなる」というみことばで、主イエスは語られました。(11節)

 神ご自身が、復活の主イエスを仲保者として、弟子たちと「ひとつ」となったのです。これはいわゆる「神人合一」ではないこと留意すべきです。

 「神人合一」の思想は「人が神のようになる」という最悪の「罪」の言い換えとなってしまう「神秘主義」の陥穽(おとしあな)に堕する危険性をはらんでいるからです。

 最善の救いが最悪の罪と、同じ言葉で表現されるから、留意しなければならないのです。

   まさに、「悪魔は天使を偽装する」のです。(2コリント11:13-14)


4.神の喜びの充満

    「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)

  主イエスは、父なる神にこのように祈りました。「わたしたちのように、かれらも一つになるためです。」と。

 ここにも「ように」という言葉が出てきました。父なる神と子なる神=イエスが一つなる存在である「ように」、主イエスと弟子たちも一つなる存在になるために、という意味ですので、「父なる神と子なる神との関係と、子なる神と人との関係が対応」の関係になっているのです。つまり、神と人とはイエスを仲保者として、「類比」が存在するという意味です。

 ですから、「主イエスの喜びの充満」を、弟子たちに主イエスが「目的」として語っておられるのは、父なる神の喜びの充満を、弟子たちに願っているということをも意味するでしょう。

 神は、人類を神の喜びで充たしたいと望んでおられるというのです。

 このイエスの祈りは、「神の喜びの神学」と言っても過言ではありません。(J・モルトマン)


5.神の所有

 神と一つになる。主イエスと一つになる。この事を、主イエスは、「所有」という言葉でも語っておられます。わたしたち人間は、神のものだと言うのです。

    9節:彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。

    10節:わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。

   信仰は「神の喜びの充満」だと申し上げました。そして、ここでは、信仰は、人が自己自身を「神の所有」であり、「主イエスの所有」であるというアイデンティティー(自己同一性)のことだということでしょう。

 「わたしは、主イエスのものだ。したがって、わたしは神のものだ。」という自己認識に生きるということです。

 このように考えると、「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」と命じられた主イエスのみことばは明確になります。自分自身を愛するというのは、利己的な自己愛をまったく意味しないからです。自己は「神のもの」「イエスのもの」なのですから、自分自身を愛することは、神のものを愛することに他ならない訳ですから、愛さないほうがおかしい。愛さねばならない自己自身なのです。自己自身を愛する事は、神を愛し、主イエスを愛することなのです。


6.昇天後の世界

 主イエスのこの祈りは、イエスさまが天に昇られて以降の世界にむけて、主イエスが父なる神に、弟子たちを守ってくださいと願っている祈りです。

    11節:わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

  「神の名」(御名)がここで語られています。父なる神が子なる神・イエスに与えた「御名」です。

 これは、「キリスト」とか「メシア」とかの「名詞」を指しているのではないと、私には思われます。

 イエスご自身は,ご自身を「人の子」と言われました。群衆は「ラビ(先生)」と呼んだり、「主」と呼んだりもしました。しかし、このどれも、この「御名」に該当するとは思えないのです。

 神がイエスを呼んでいるのは、「これはわたしの愛する子」ですが、この事でしょうか。「これに聴け」と神は啓示されているので、これがいちばん近いかもしれません。

 ただ、「御名」には、弟子たちを守ることができる力があるとに主イエスは明確に語っているのです。

 イエスの「御名」には力があるのです。

 この「御名」の力が、神とイエス、イエスと人を一つにすると明らかに語っておられるのです。一つにするのですから、「神の喜びの充満」を人にもたらすのです。

 

7.「神の御名」

  「神とイエス、イエスと人を一つにする」力が「御名」にはあると、主イエスは明言されています。

 人間の神への合一ではなく、神さまが主イエスを仲保者として人間を「一つ」にしてくださるのです。圧倒的な、一方的な、絶対他者なる神の恵みの恩寵としての「神との合一」です。

 この「合一」こそが「神の喜び」であり、「栄光」だと言われたのです。「栄光」とは、「喜び」のことだったのです。「神の喜びの神学」は「神の栄光の神学」だったのです。

 復活の主イエスの昇天以降の世界において、世界は、人類は、主イエスは神のみもとへと帰られたからには、可視的な手段・方法によって、復活の主イエスと接触することはかなわぬものとなりました。

    12節:わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。

    13節:しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

 だからこそ、主イエスは、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と、「御名」の力を神に願っておられるのです。


8.聖霊降臨

 可視的な存在としては、復活の主イエスは、弟子たちの前から去りました。しかし、主イエスは、これまで「別の方」「弁護者」「助け主」が来られると、幾度も語ってこられました。そしてここでは、いやここでもですが、「御名」を父なる神に願っているのです。復活の主イエスの昇天以後、「神の喜びの充満」のために、「御名」によって「守ってください」と願っているのです。

 聖霊さまこそが「神の御名」なのではないかと考えざるをえないのです。アーメン



2026年5月11日月曜日

  2026年5月10日(日)(復活節第6主日)

ヨハネによる福音書16章12節~24節

『悲しみは断たれなければならない』


                                             ヨハネによる福音書16章 12節~24節

12節 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。

13節 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。

14節 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。

15節 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

16節 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

17節 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」

18節 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」

19節イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。

20節 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

21節 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。

22節 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

23節 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。

24節 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」


1.主イエスの死 切迫感のない弟子たち

  わたしたちは、自分自身もやがて死ぬ運命にあります。誰も死を免れることはできません。

 子どもの頃は、一日が長く感じられました。いまはあっというまに時は過ぎゆきます。年とともに、時間が速くすぎてゆくのは、多くの人の実感ではないでしょうか。 昔は、10年といえば、随分長いと感じたものですが、いまは50年もすぎてしまえば、一昔にすぎません。

 「時」の速さは変わるのです。

 主イエスは十字架の死への旅立ちに際して、「しばらくすると」と、時の事をお語りになりました。

    「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16節) 

  主が、十字架上で殺害されるという現実を「あなたがたはもうわたしを見なくなる」 と婉曲に語られたのでしょう。弟子たちは、受難の予告を既に聞いていたのですから、これが主イエスの死を意味していたことは、わかっていた筈なのですが、弟子たちは、聴いて知っていたとしても、本気で、主イエスがまさか本当に死んでしまうとは思ってもみなかったのでしょう。彼らには意味がわかならいのです。

    そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」

    (17節) 

    また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」(18節) 

  主イエスの「時」と、弟子たちの「時」は、その切迫度が異なっていたように見えます。

 主イエスにとって、こうして弟子たちと親しく語る時間は限られていました。自分は、「しばらくすると」、弟子たちの眼前からは「見えなくなる」からです。こうして生身の主イエスが弟子たちと対話されるのは、もうきわめてわずかしか時間が残されていないのです。

 ですから、主イエスにとっての「しばらくして」の時間感覚は、貴重な時間という意味で、きわまて重要な一瞬一瞬であった筈です。ところが、弟子たちには、この主イエスのみことばの意味が、まったく分からないのです。ですので、「しばらくして」の時間感覚には、主イエスの緊迫したものがまるで感じられていなかった。切迫感がないのです。


2.弟子たちは何を悲しんでいたのか

  ある時、お世話になっていた弁護士の方に言われたことばが忘れられません。

 福島第1原発汚染水一万トン海洋投棄の責任を追及し、余命半年と言われながら最後まで東電取材、執筆活動を続けた日隅一雄弁護士が49歳の若さで亡くなったときのことでした。共に闘ってきた同僚の弁護士の方でした。

「悲しんでいる時間がありません。」

 この一言が、こころに刺さり、忘れられないのです。

 人にとって悲しむことは大切な事柄です。人には悲しむべき時に悲しむ事はどうしても必要な事柄だと思うのです。ただし、悲しむという事柄はどうしても必要なことなのですけれども、「悲しんでいる時間がない」という「時」もあることも事実です。

 主イエスの言葉の意味を理解できないで、議論しあっていた弟子たちの思いは、一体どういう思いであったのでしょうか。

    ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。(22節)

 主イエスは、弟子たちは、悲しんでいると言われたけれども、一体何をどのように悲しんでいたのでしょうか。

 主イエスがご自分の「死」が間近であると言われた意味を、彼らは理解できなかったのですから、主イエスの「死」を、このときに悲しんでいたとするのは無理でしょう。彼らの無理解ぶりを考慮すれば、彼らはこのときには、本気で主イエスが死ぬとは思っていなかったということになるからです。

 それでは一体何を、どのように悲しんでいたのか。

 わたしは、こう考えます。

 彼らは、主イエスのみことばを本気では信じる事がいまだできてはいなかった。

 彼らの思いは、こんなものではなかったか、と思います。つまりこうです。

  「主イエスは、奇跡を数多く行ってきた。自分たちはその目撃者であり、証人でもある。主は、文字通り奇跡を行って、イスラエルが待望してきた「メシア」として劇的に、迫害や中傷という危機的な事態を変えてくださるに相違ない。自分たちはそういう王的メシアとして戴冠されることを誰よりも信じて、ここまでついてきた。それなのに、主はいっこうに奇跡を行ってはくださらない。われらの期待はいまだ実現していない。どうして、こんなときに、「見なくなる」とか、「父のもとへ行く」とか言われるのだろう。」

 弟子たちは、主イエスの「死」を確信して悲しんでいたのではなく、主イエスが「死」を選んでいることを悲しんでいるのです。

 主ご自身の「決断」ではなく、自分たちの「期待」どおりの主イエスではないことを悲しんでいた。そのような「悲しみ」は、主イエスの言葉への「無理解」そのものであるし、彼ら自身の期待するイエス像が砕かれたことが、彼らには「悲し」かったのです。

  「どうして、死ぬなどと言われるのですか。生きて生きて生き抜いて、イスラエルを救ってくださる筈ではなかったのでしょうか。」という思いではなかったのでしょうか。

 この思いは、イスカリオテのユダの思いと変わりません。ユダの思い、主イエスを裏切ったユダの思いは、他の弟子にも共通する思いでもあったのではないか、とわたしは思っています。

 つまり、この時の弟子たちの悲しみは主イエスの「死」を悲しんでいる「悲しみ」ではなく、現実の主イエスが自分たちの「期待」どおりの「イエス」ではないことを、悲しんでいる。

 ただし、主イエスは、この「悲しみ」は「喜び」に変わると断言されました。

 ただ変わるというのではなく、もっと強い意味で、「変わる」と言われたのだと思います。

 信仰は、自分の願望を「神」に投影することではありません。そういう事なら、その「神」は「自己願望の形を変えた像」ということになるからです。そのような自己願望の化身のような「神の像」は「偶像」ですから、砕かれなければならないのです。それゆえ、主は「変わる」と言われたのです。

 

3.悲しむ事に固執すること

   人は、しばしば悲しむことに固執します。悲しむ自分に固執するのです。まるで悲しむことを楽しんでいるかのように悲しみに固執するのです。

 たしかに、悲しみはひとにとって大切なこころの動きですが、悲しみは「喜び」へと「変わる」ことを忘れてはならないのです。悲しみは悲しいままで終わるのではないことを、主イエスは宣言されているではありませんか。 

 「悲しんでいる時間はないのです。」

 悲しみは中断されなければなりません。悲しみを悲しみのままにしてはいけないのです。

 人には希望が必要なのです。希望は、悲しみを哀しみのままに終わらせずに、「歓喜への希望」へと変えられねばならないのです。

 主イエスは、生きてこの世で王的メシアになる事ではなく、死ぬ事ができるお方として、かつ再び甦ることができるお方として、「再会」を約束されました。

 「十字架の死と復活」を約束されたのです。

    ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(22節) 

  「しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」

 この約束は、弟子たちに、真の信仰を与えるという事も意味しています。信仰とは、つまるところ、「喜び」なのです。


4.信仰は「喜び」にほかならない」

  キリスト教が単なる「宗教」ではないのは、キリスト・イエスの実在が、実際に弟子たちを変えたという現実が歴史として存在したからに他なりません。弟子たちが、悲嘆のどん底から現実として、「歓喜」の人生へと変えられたからです。

 彼ららの悲嘆のどん底の現実は、主イエスが実際に、殺されたからこそ、生起しました。この悲嘆は、イエス生前のときの、「悲しみ」とは比較になりません。まったく意味が違います。あのときの弟子たちの「悲しみ」は、彼らがイエスをいまだ「偶像」として知らなかったときに、彼らの期待した「イエス像」をイエスが否定したから、彼らの願望が粉砕されたことによる失望感が起因する「悲しみ」でした。しかし、主イエスの十字架の「死」が現実に起きたときは、弟子たちは、本当に、主イエスはみことばどおりに死んでしまったのですから、正真正銘、彼らは主イエスの「死」を悲しんだのです。

 歴史に「もしも」はないのですけれも、もしも仮にですが、彼らが、主イエスの「死」に直面して、復活の主イエスと再会できなかったとしたら、彼らの人生にはなんの変化も起きなかったことでしょう。ただイエスの「死」を悲しみ、やがて忘れていったことでしょう。キリスト教会も存在していなかったことでしょう。

 しかし、現実に、彼らは主イエスと再会した。そして終生変わることのない不動の信仰にいきる人々と変えられたのです。彼らは命を狙われても決して怯むことなく、殉教の最期まで、主にある「歓喜」の人生を生きたのです。」


5.イエスの名によって願いなさい

    その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。(23節)

    今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(24節) 

  「その日」が意味するものは「真理の霊」すなわち「聖霊」が降臨する日です。「聖霊」によって、わたしたちは「真理をことごとく悟らせ」ていただけると、主は言われました。

    しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(13節) 

  「聖霊」の賜物を実らせることが、私たちの生涯の目的となるように、主イエスの御名によって、願い求めましょう。「そうすれば与えられ」「喜びに満たされる」と主は言われたのです。こあれほど確実な事はありません。

2026年5月3日日曜日

 2026年5月3日(日)(復活節第5主日)



ヨハネによる福音書15章1節~11節

『神の民』

            ヨハネによる福音書15章1節~11節

1.豊かに実を結ぶということ
     あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 (8節)
  わたしたちの人生において、もっとも重要な事は何でしょう。  成功を収めることでしょうか。金持ちになることでしょうか。有名になることでしょうか。いわゆる繁栄することなのでしょうか。
 主イエスは、ぶどうの木の譬えをされました。この譬えのなかでは、「実を結ぶ」ことが神に栄光をお返しすることになると語られています。実を結ぶことは神に喜ばれることなのです。逆に実を結ばないことは、主イエスにつながっていない証拠になるのです。
 つまり、わたしたちは「実を結ばなければならない」と、主は言われているということなのです。
 そこで問題になることは、実を結ぶということが、いったい何を意味するのか、ということになるでしょう。
 人生の成功者になることでしょうか。金持ちになることでしょうか。立身出世することでしょうか。いわゆる繁栄することなのでしょうか。もし、そういう事ならば、「繁栄の神学」と変わりません。繁栄の神学」は神を信じれば、貧困や病気から解放され、物質的に豊かな人生を送れると教えます。病気や貧困は「信仰が足りないから」と信徒を苦しめたりもします。主イエスが、このような人の欲望を肯定し、刺激して、その満足を得るこことのために、神の言葉を利用する教えを説いたとは、到底思えません。
 ですから、主イエスが語られる「実を結ぶ」とは、いったいどういうことを意味しているのだろうか、この事がとても重要になります。 

2.農夫なる父
    「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(1節)
   そのことを考えてゆきましょう。主イエスは、ご自身を「まことのぶどうの木」と呼び、父なる神さまを「農夫」であると呼んでおられます。
 この譬えは、遊牧生活をしていた古代ユダヤ教社会が、すでに、農耕社会になっていたことを思わせます。ということは、主イエスの家業は大工職人でしたけれども、農耕生活も営んでいたのかもしれません。ブドウ栽培もされていたのかもしれません。
      「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(2節)
    結実しない枝を剪定することや、「手入れ」することを日常的になさっていたのかもしれません。生活感のある譬えになっているからです。剪定というのは案外難しいもので、切る場所を間違えると、手入れどころか枯らすことにもなりかねません。生きものですから、木の生態を熟知しないと、剪定を誤るとかえって木を傷めてしまうのです。 ですから、主イエスは、木のことを熟知している農夫に父なる神を譬えられました。農夫はぶどうの木のことをよくご存じなのです。そしてブドウの枝のことにもよくご存じなのです。剪定して切って捨てるべき枝は「取り除かれるし」、実を結ぶ枝は、すべて「いよいよ手入れ」をされるというんです。
 ここで、「実を結ぶ」ことが意味することが、次第に鮮明になってきます。つまり、ブドウ木とは主イエスですから、主イエスを通って、樹液がすみずみにまで行き渡り、主イエスの実を結ぶことのために、神さまは剪定をされ、手入れをされるのです。「実を結ぶ」ということは、人の欲望や、自分勝手な願い事が実現することなのではないのです。枝であるわたしたち自身、主イエスという「実」を結ぶことことこそが、「実を結ぶ」ということなのです。   
3.「聴くこと」、「既に」、「清くなっている」
    「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(3節)
 わたしたちは、主イエスのみことばを聴くことによって、既に清くなっていると、主イエスは言われました。「清くなっている」というのは、「実を結ぶ」ための「樹液」が主イエスから流れ来ていることを意味しているでしょう。
 主イエスが語られたみことばを聴くことが、ぶどうの木である主イエスと「つながっている」ことを意味しているのでしょう。主イエスの語られるみことばを聴くこと、これば主イエスと「つながる」ことを意味しているのです。 繰り返しますが、主イエスのみことばに聴従することが主イエスと繋がることなのです。具体的には、聖書を読むこと、みことばの解き明かしを聴くこと、つまり礼拝することです。礼拝者として生きることが、主イエスとつながることなのです。
 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(3節)
 主イエスとつながっているとき、主イエスの生命につながれている清い存在へと変えられていると、主は言われたのです。ここで「既に」と主が言われたことは重大な意味をもちます。この言葉は、わたしたちがわたしたち自身の能力や素質、努力によって、清くなるという考え方を完全に否定することばだからです。ただただ主イエスの生命が、神のみことばによって、わたしたちに流れ来たるからこそ、わたしたちは「既に」清められているということなのです。
主イエスの圧倒的なみ恵みがわたしたちの内に基礎となって、喜びに満ちあふれるようにされる出来事が起きているということなのです。
 
4.「捨てられて枯れる」「火に焼かれる」
     「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(6節)
  主イエスにつながっていない人とは、神のみことばがその人の内にない人のことでしょう。正直、そういう人のことを考えたくはないのですが、主イエスは、このみことばで警告をされたのだと思います。
    わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていければ、実を結ぶことができない。(4節)
  なぜなら、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と言われているからです。 主イエスは、「あなたがたにつながっている」と言われているのです。しかし、けれどもつながっているにもかかわらず、つながっていなさいと命じてもおられる。主が「既に」つながっていてくださるのに、つながっていなさいと言われるのは、「つながらない」、「つながっていない」状態というものが、可能性としてあるのだからだということです。神のみことばをみずから拒絶する、そういうことが人には起きてしまうことがある。神の言葉を自由意志で、拒否するということです。そういう状態、そういう心理状態というものが、人にはありうるということを、主イエスは知っておられるのです。あえて、神を拒絶するという態度です。人は罪を犯して、神なき存在へと転落しています。罪人というのは、「神なき存在」のことを言います。あえて罪人であり続けることを選ぶことが人にはあるのです。 悪であることを知りながら、悪を正当化するということがあるのです。
 農夫は、実を結ばない枝は剪定し、火に投げ入れます。投げ入れられた枝は燃えつきて灰となり、土に還ります。そして他の木々の養分になるのです。農夫は自然の摂理を熟知していて、無駄なものはなにひとつないことを知っています。神を拒絶した人々は、火に投げ入れられ燃えて灰となって土に還り、他の存在の肥やしになる。
 このように考えるとき、神さまが焼き尽くすという、この比喩が示しているの事の意味は、この「神を拒絶し、神なき存在」を焼く尽くして、ただ「神に栄光をお返しする存在」へと、「存在のありよう」を変えたいと願っておられるのではないか、とわたしは思うのです。そう考えると、少しはホッとします。
 カトリックには「煉獄」という思想がありますが、人は死んで、直ちに天国へ行くのではなく、「煉獄」へ行くという思想です。
    ※煉獄は、カトリック教会では天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところとされ、苦罰によって罪を清められた後、天国に入るとされる。現行のカトリック教会の教義では、天国は「最高の、そして最終的な幸福の状態、地獄は「神から永遠に離れ、永遠の責め苦を受ける状態」と定義されているが、「天国の本質が神との一致にあるとすれば、それは当然のことだが、人間は必ずしも終始一貫、神に沿って生きているとはいえず、罪を犯すこともあり、そのため死後に神と一致しようとする際には、自分の内にある神と異質なものは清められることになる。これが煉獄である」と説明されている。
 プロテスタント教会は、「煉獄」の思想をとりません。けれども、このぶどうの木の譬えで、捨てられ、火に投げ入れられ燃えつきてしまう枝の命運を想う時に、その人々の救いを想わざるをえない、そういう思いにもなるのです。神さまは、神を自由意志によって拒絶する存在を救おうとはなされないのでしょうか。そう神さまに問いかけてみたくなるのです。「存在の有り様を変えてくださる」と先にわたしが解釈したように、許されざる者の救いをいかに考えたらよいだろうか、という問いです。
 
5.望むものは何でも願いなさい。
     「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(7節)
     このみことばは、あの利己的な欲望実現を願う「繁栄の神学」の意味で受けとめることは不可能です。
 なぜなら、わたしたちが真実に主イエスにつながって、主イエスの生命が流れ来て、主イエスのみことばが、わたしたちの内に「いつもあるならば」、わたしたちが願うものは何でも、主イエスが願うものに他ならないからです。主イエスと完全一致する願いをこそ、わたしたちは願うようにされているからです。それはどんな意味でも人間の欲望の実現では有り得ません。主イエスが、わたしたちの存在を通して、願うのですから、その願いは何でも、神と人への愛の実現です。 
 主は、「そうすればかなえられる」と約束してくださった。わたしたちは願わないではいられなくなるはずです。神さまから、捨てられ、火に焼き尽くされるほかなき「枝」が象徴する「神なき存在」も、神はお救いになりたいといつもいつも願っておられるのではないか。そうであれば、ご自身を殺した人々を愛された主イエスの愛をもって、神を拒絶する人々の救いをも願わないではいらなくなるのではないか。わたしにはそう思えるのです。

6.主イエスの愛にとどまる
    父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。(9節)
    わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(10節)
  主イエスにとっての「父の掟」とは、「十字架の死と復活」です。このみことばは、主が「十字架の死と復活」によって示された「愛」にとどまる「ように」(類比、一致、対応)わたしたちがこの神の「愛」にとどまる(互いに愛し合いなさい=新しい掟)ならば、わたしたちは主イエスの「愛」にとどまることになる、とのみことばです。
 そうであれば、わたしたちは主イエスが愛するように、互いに愛しあうことが可能な存在へと「清められている」のです。わたしたちが、主イエスにつながっており、神さまの愛をもって、愛する主体へと変えられているならば、そのことによって、農夫たる父なる神に「栄光」をお返しすることになると、主は言われました。
     「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(8節)
    わたしたちが、主の愛にとどまり、すなわち主イエスの新しい掟(互いに愛し合う)を実現することが、父なる神に栄光をお返しすることなのだというのです。

7.栄光在主
  わたしたちの人生の目的は、このことです。
 わたしたちが愛の主体として、主イエスの愛をもって互いに愛し合う出来事が実現することによって、父なる神さまが「栄光」をお受けになること、言い換えれば、主なる神さまに、「栄光」をお返しこと、このことなのです。
 そうであれば、棄却された人々の命運をも、主イエスは、いつもいつも胸を叩きながら神さまに祈っておられると、わたしには思えてならないのです。
 神を呪うもの、神なき者、神を意識的に否定する者たちを、神は滅ぼしたくて滅ぼしたのではないと信じるのです。彼らもまた、神が無限の愛をもって、創造した兄弟姉妹だからです。
 敵を赦し、愛された主イエスは、かならずそう願っておられると信じます。アーメン 

 8.愛・喜び
    「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(11節)
  主イエスの喜びが、わたしたちの内にあること、そして主イエスの喜びがわたしたちの内にあることがわたしたちの喜びでもあること、主イエスの喜びでわたしたちが満たされることが、主イエスの「命令」「掟」の目的だと主イエスは言われました。
  つまり、わたしたちに、ぶどうの木の生命が流れ来て、実を豊かに結ぶこととは、主イエスの「十字架の死と復活の愛」に、わたしたちが満ち満ちていることを、主は「喜び」と呼ばれたのです。
 喜びとは何か。主は示されたのです。
 喜びとは、他者を主イエスのように愛することなのです。愛することが喜びなのです。この喜びに充満しているとき、神さまもまた喜びに満たされているというのです。それこそが、「神の栄光」なのです。アーメン

2026年4月27日月曜日

 2026年4月26日 (復活節第4主日)

ヨハネによる福音書13章31節~35節

『キリストの掟』



                  キリストの掟
ヨハネによる福音書13章31節~35節
31:さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32:神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
33:子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
34:あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35:互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

1.「子なる神優位」
  福音書には、三位一体の教義自体が語られてはいません。けれでも、「三位一体」の萌芽を思わせるイエスの言葉は残されています。いや、むしろイエスの言葉を信じることによって、必然的に「神とイエスとの関係、交わり」とはいったいどう理解したらよいのだろうかと、信仰においての認識へとすすんでゆかざるを得なかったという事情なのではなないだろうか、と考えます。
 本日与えられた聖書のみことば「神も人の子によって栄光をお受けになった。」は、まるで、イエスによって神も栄光を受けたというのですから、イエスは神に栄光を与えた主体であるかのような表現です。
 わたしたちは、漠然と父なる神が子なる神イエスをこの世に送られたのであるから、父なる神が子なる神であるイエスの優位にあるお方であると思っています。
 ところが、このイエスのみことばは、子なる神イエスのほうが父なる神の優位にあるかのような表現になっている。わたしたちの漠然とした「父なる神優位」という思いを、イエスは打ち砕くかのようです。
 子なる神イエスによってこそ、父なる神も栄光をお受けになったのか、そうであれば、「子なる神優位」という意味になるではないか、ということです。
 
2.「父なる神優位」でもあり「子なる神優位」でもある?
 どちらが優位でもあることは矛盾以外の何ものでもない。論理的には成り立たない。どちらかでもあるという事は人間の論理では成り立たないことになります。
 こう考えてきて思う事は、父なる神と子なる神は、どちらが優位という捉え方をすること自体が、人間の卑小な理性の限界内では不可能だということではないか。つまり、神さまを人間が捉え得るという考え自体が不遜であり、所詮は不可能なのではないか、ということです。
 信仰の現実のなかでのみ、どちらも「優位」であるようなあり方を、主イエスはお示しになられたのでしょう。
 その在り様を、「同質」という言葉で言い換えると「父なる神」と「子なる神」は「一体」のお方であるという信仰の認識へと導かれたのではないだろうか、そう思うのです。神と子は区別されつつも、一体・同質なるお方でありたもうという信仰の認識です。
 そうであれば、たしかに三位一体の認識の萌芽と言えるでしょう。
 いくら考えても、人の理性では不可解なのです。
 
3.主イエスは、神さまを語るために御自身を語った。
 主イエスのこのみことばは、当時のユダヤ教徒たちからすれば、理解しがたいどころか、とんでもない冒涜であったはずです。「人の子」という表現で御自身を語っているという前提で考えると、イエスは御自身が「神に栄光を与える」と言っているに等しいのですから、冒涜にしか聞こえないでしょう。この一言だけで彼らにとっては「死罪」に相当すると、彼らの「正義」は正当化されたに相違ありません。
 主イエスが殺されなければならなかったのは、主イエスの言動に原因があったのです。この一言だけでも、主イエスは殺されるに十分な理由を「殺す側」に与えたことになるのです。
 どう考えても、主イエスは、殺されなければならなかった。それは実に「真理」を語ったからです。
 主イエスは、この「真理」を語ることによって、自分が十字架刑で殺されることになることを十分に理解していたと思います。
 ユダが御自身を裏切り、売り渡しに行くということを、主は知っていました。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」とあります。
 いよいよ、ご自分が弟子の裏切りによって「殺される」ことになることが、決定的になった瞬間に、御自身の「死」を、「栄光」という言葉で表現されたのです。
 イエスが言われた「栄光」は、主イエスの「死」のことなのです。
    「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(31節)
 主は、時系列では、これから御自身の十字架刑が開催される御自身の「死」を「栄光」と表現され、既に「事が成就した」こととして語られています。
 主イエスにとって「死」は、既に終わったことのように語られるほどに確定した事として語られたのです。
 主イエスにとって、「十字架の死」は「栄光」でした。
 そして、主イエスが「十字架の死」すなわち「栄光」をお受けになったことが、「父なる神」に「栄光」を与えることになったと言われたのです。
 主イエスにとって、ご自身の命運を語ることは、即ち神の「命運」を語ることでもあったのです。
 主イエスにとって、「父なる神」を語ることは、ご自身を語ることだったのです。
 ご自身を語らずしては、「父なる神」を語ることはできなかったのです。
 最初のキリスト者共同体の人々は、この主の御言葉を聞くとき、主イエスと神が「一体」の存在であり、「同一・同質」のお方だと、信じたことでしょう。

4.「栄光」が指し示すもの
    「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」(32節)
 すぐさま、主イエスは、続けて逆のことを言われました。主イエスが「父なる神」に「栄光」を与えたのであれば、「父なる神」も、主イエスに「栄光」をお与えになる、と言うのです。
 そうすると、主イエスにとって、最初の「栄光」と表現された「十字架の死」は、やはり「父なる神」が与えたというよりは、主イエスご自身が自らすすんで決断したもうた「死」だということになります。
 主イエスが自らの「意志」で、「十字架の死」を決断したことが「栄光」だったのです。主イエスが決断した「栄光」であったからこそ、主イエスは「父なる神」に「栄光」を与えることとなった。神はイエスによって、「栄光」をお受けになったのです。
 ややこしくてすみません。でも大事な事なんです。
 イエスさまによって神さまは「栄光」をお受けになられた。そうであればこそ、神さまもイエスさまに「栄光」をお与えになったというのです。ですがこの際の「栄光」は、「昇天」のことでしょう。「栄光」という言葉が指し示している「事柄」が違うのです。
 整理します。
 主イエスが自ら決断された「栄光」を「主イエスの第一の栄光」と呼びましょう。これは「十字架の死」を意味します。
 主イエスが、「主の第一の栄光」をお受けになったことにより、「父なる神」にお与えになった「栄光」を「父なる神の栄光」と呼びます。
 そして、そうであればこそ、神がご自身によって、主イエスにお与えになる「栄光」を「主イエスの第二の栄光」と呼びます。これは「イエスの昇天」を意味します。
 だから、主イエスの「栄光」は、ご自身の決断による「十字架の死」と、神によって与えられた「昇天」という二つの事柄を指し示していることになります。
 それでは、主イエスによって、神に与えられた「栄光」は「父なる神の栄光」ですが、これは何を指し示しているのでしょうか。これが問題です。

5.父なる神の栄光
 主イエスおん自ら決断したもうた「十字架の死」と「復活」(ここでは復活も含めましょう)によって、神も「栄光」をお受けになった。その「栄光」とはいかなるものであるか。之が問題でした。
 わたしは思うのです。
 子なる神たる人の子主イエスが、呪われた十字架刑に処せられ、無残に死んでゆかれた事をもって、主イエスは「栄光」という言葉を用いられました。
 地上的な価値観からみると、もっとも「栄光」とはほど遠い惨い死です。この主イエスの無残極まりない「死」をもっとも高貴な価値を示す「栄光」と言われたイエスの「もののみえかた」こそが、このことと深くかかわってくるでしょう。
 神にとって「栄光」とはいったい何だったのか。
 ご自身と等しい子なる神を「死」なせなければならない「父なる神」にとって、主イエスの「栄光」はもっとも受け入れがたい事柄であり、ご自身の「死」よりも受け入れがたい事柄ではなかったか。神にとってイエスの「栄光」は、受け入れがたい「断念」だったのではないでしょうか。父なる神は、子なる神イエスを被造者である人類とは比ぶべくもない最愛の存在であった筈です。ご自身と一体、同一同質の存在のイエスが自ら死へと向かわれることほど、神にとっての「苦難」は他にあり得ない筈ではなかったでしょうか。人類が滅亡するよりももっともっと受け入れがたい事ではなかったでしょうか。
 それでも子なる神イエスは、父なる神が創造したもうた人類という父なる神にとっては、離れてしまった「こどもら」をもまた、ご自身同様に愛しておられることを、他の誰よりも,否、主イエスのみが、もっともよく知り給ふていたのです。神が愛する人類を、再び神の子どもらとして父のみもとへと送りとどけることを、主イエスは、神のため、人類のために決断したもうたのです。この決断は、だから、父を愛する子として主ご自身が決断したもうた事でした。父なる神は、この決断に苦しみたもうた。子を喪うことほど親にとって辛く苦しいことはありません。父なる神は、この苦しみを黙って見守り続けるしかなかったのです。親として子が親を思い決断した事です。どんなに辛く苦しくとも見守るほかはない痛みを神は耐え続けました。
 この痛みは、人類をわがもとへと送り届けようとする子の愛をよく知るがゆえに、耐えねばなりません。
 この神の痛み、苦しみ、忍耐こそが、神の愛のしるしです。この愛のしるしをこそ、「父なる神の栄光」と呼ぶほかはない、わたしには、このように思われてならないのです。

6.神の愛 苦難に耐える意志
    「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(34節)
    互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(35節)
   主イエスは、人類に、わたしたちに「掟」を授け給いました。
 この掟でも、「類比」が語られます。「~のように」という言葉が、「類比」を意味します。
 主イエスが、わたしたちを「愛されたように」と言われたからには、わたしたが「互いに愛し合う」ためには、どうしても、主イエスがわたしたちを愛された、その現実を私たちが知る必要があるということです。知らなければ、主イエスが私たちをどのようにして愛されたのかわからないのですから、主がわたしたちを「愛されたように」愛し合うことができません。
 ですから、わたしたちは、この「類比」を成就するためには、主イエスがわたしたちをどのよう愛しておられたのか,研究しなければならないのです。
 主イエスは、わたしたちを愛した、そのことはすべて十字架の死という主イエスご自身を、捧げたもうた一事にかかっています。主はわたしたちを父なる神のみもとへと送り届けるために、命を捨てたもうたのでした。「人、その友のために命を捨てる。これよりも大きな愛はない」と、主イエスは言われました。
 そうなのです。究極的な愛の実相は、友の為に命を捨てることです。犠牲の愛です。互いに互いのために命を捨てることを主は「掟」として授け給いました。
 では、日常の暮らしのなかで、具体的には、この犠牲の愛はどのように実践できるのでしょうか。
 実は、このことがいちばん大切なことです。
主が身をもって決断された「犠牲の愛」を、わたしたちは普段のありふれた暮らしのなかで、どのように実践してゆくのか。それは、なにか原則が示されているわけではありません。暮らしのなかの時間は刻一刻と移り変わります。状況は毎日変わります。具体的な状況のなかで、わたしたちも、決断を日々下す連続のなかに生きています。
 ひとつの提案をしたいと思います。
「主イエスなら、いま、ここでの状況で、どのように決断されるだろうか」と、ほんの少しでも考えてみる。そして、こころなかで、主イエスならば、このようになさるのではないかと浮かび上がってくる事を実践するようにしたらどうであろうか。主のみこころを尋ねながら個々の状況のなかで決断するということです。


2026年4月20日月曜日

 2026年4月19日 (復活節第3主日)

『まことの羊飼い』

ヨハネによる福音書10章7節~18節


1.羊の門、囲い

  主イエスのこれらの言葉は、比喩で満ちている。

  羊も比喩なら、門も比喩だ。

 比喩が指し示しているものは、「わたしは」という主語によって、限定されてくる。羊は、弟子であり、キリスト者であり、人類をも指すという具合に広がってゆく。

 さしあたって、聴き手のわたしたちは、羊とは、この「わたし」のことだと受けとめる。それでよい。

  「わたしは羊の門である。」と主イエスが語られるとき、羊としての「わたし」にとって、主イエスは「救い」の「門」である主イエスの前にいるのである。


2.自己選択権ということ

  「わたしは羊の門である。」と主イエスが語ってくださるとき、「わたし」には、通るべき門をはっきりと知っている。だから、そこには迷いはない。

 ところが、「わたし」は通るべき「門」が主イエスではない場合があるというのだ。

 その「門」は、主イエスよりも「前に来たもの」が、「門」を自称する場合の「門」だ。主イエスはその偽りの「門」を「盗人」、「強盗」と呼ぶ。この場合、「わたし」はこの「門」を通ってよいかといえば、良いわけがない。この「門」は、通ってはいけない「門」なのだ。

 この偽りの「門」が「わたし」の前にあるとき、「わたし」は、選ばねばならない。

 通ってはいけないが、通るか通らないかは、やはり選ばなければならないのだ。

 「わたし」には、どちらかを選ぶ権利がある。自己選択権があるのだ。

 善の道と悪の道がある。善の道を選ぶべきであることはわかっている。しかし、「わたし」は善の道と悪の道のどちらかを選ぶ権利があるというのだ。

 創世記の堕落の物語では、エバもアダムも、神の戒めを守る道と蛇の誘惑に乗って戒めを破る道の両者が、彼らの前にはあった。彼らには自己が行くべき道を選ぶ権利があったのであった。神の戒めを守るべきことはわかっていた。しかし、彼らは神の戒めを破る道を選んだ。

 この物語は、自己選択権という権利の恐るべき本質を教えている。


3.悪を選ぶ権利はあるのか

  偽りの「門」、すなわち、「盗人」、「強盗」の目的は、「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」。目的は明白だ。

 「盗み」、「殺人」、「滅亡」どれもが、「わたし」が願わざるゴールだ。誰もこんな目的地へ行きたいはずはない。しかし、エバもアダムもこの道を選んだ。ゆえにこそ、彼らの末裔の「わたしたち」の世界は、「盗み」、「殺人」、「滅亡」に満ち満ちているではないか。

 某国は公然と他国の石油利権を盗むと公言している。ミサイル攻撃で無辜の民が死んでも平気だ。文明全体を滅ぼすとさえ言いきる。こんな世界に誰がした。根源には自己選択権がある。こんなことを決断する為政者を選んだのは、「わたしたち」に他ならない。

 人は、悪の道を自由意志によって選択するかもしれない存在なのである。誰しもが願わざる悪の道を、人は選ぶかもしれない存在なのだ。

 「自己選択権」は危険な陥穽(落とし穴)なのである。

 自分で選ぶということは、自分では選ぶことが本来できない筈のことを、選ぶことができると錯覚することではないのか。

 たとえば、わたしたちは、人のものを盗むことができるとか、人を殺すことができるとか、人を貶めて滅ぼすことができるとか・・・・。

 偽りの「門」の目的は、このような事が蔓延することだ。けれどもわたしたちには、このような所業を選ぶことは、本当に「わたし」の選択の権利なのかと言えば、そんな権利が許される筈はないではないか。そんなことを選ぶ権利は本来ありえないはずではないのか。


4.羊は彼らの言うことを聞かなかった。

  しかし、幸いなるかな主イエスは言われた。

 「しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」と。

 主はあえて、過去形で、「聞かなかった」と言われた。

 そのこと(既に過去の既定の事柄だということ)が示す事は、羊が偽りの「門」を選ぶことはなかったと過去形で語ることにより、その事は、選ぶか選ばないかという選択の事柄ではなく既に決定済みの事柄なのだという意味にとれる。つまり、「選択」の問題ではないという事なのだ。「決定済み」の問題なのだと主は言われたのである。

 人類にとって、アダムとエバ以来の「悪の道」は既に過ぎ去った過去のことであり、主イエスによって開闢する人類の新たな歴史においては、人は、悪の道を選ばなかったという決定的地点が既に始まっているというのである。新しいアイオーンが始まっているのだ。

 換言すると、人は、善の道を選ぶか悪の道を選ぶかという自己選択権に、惑う必要はもうないということだ。人は、偽りの「門」、悪の道を選ぶ可能性は既に存在しないというのである。

 なぜなら「羊すなわち人類」は、主イエスを既に知っているからだというのである。

    わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(14節)


5.「わたしは羊の門」=神の先行的選び

  これは限りなき恵みの宣言である。

 〈善の道を進むか悪の道を進むか右往左往する自己選択権という自由の苦悩〉から人は解放されたという解放の宣言だからである。

 主イエスによってもたらされたイエス御自身の解放の福音のまえで、人は、ただ主イエスに従うという唯一の道を通る以外の道を選ぶ必要はなくなったのだ。

 主イエスという「門」は、「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける、と言われる道である。

 主イエスという「門」の前で、人は既に、主イエスという「門」」を知っていると主は言われる。

 「人」がすなわち「わたし」が、主イエスを知っているのは、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と言われたとおり、主イエスが「人」を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからに他ならない。

 人がイエスを発見するのではなく、主イエスが既に、人を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからこそ、「人」すなわち「わたし」は、主イエスを知っているのだ。

 ここに選択肢は存在しない。ただ、神の一方的な選びがあるだけである。

 「わたし」が、主イエスを知っているからではなく、主イエスが「わたし」を既に選んで知っていてくださるからこそ、「わたし」は主イエスを知っているのだ。

 ゆえに、この主イエスの先行的選びによって、わたしという人間が主イエスの前にたつとき、既にわたしは主イエスに捉えられた者であるがゆえに、主イエスを知っている。

 これを神の一方的な恵みといわずにおれようか。


6.雇い人

 雇い人もまた何者かを比喩している。

    羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――(12節)

    彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。(13節)

    ここで深く立ち入って解釈する必要はない。

 主イエスは「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる人」を引き合いに出しているのだ。

 辛辣な宗教批判なのである。主イエスは、危機に瀕して逃走する人を引き合いに出して、「羊」のことを心にかけていない事実こそが、「羊飼いと雇い人の違い」だというのである。

 羊の世話を委されていながら、心にかけておらず、危機に瀕すれば遁走する無責任な者を揶揄している。

 厳しい宗教者批判だ。

 主イエスは、どこまでも、個々の具体的な、固有な存在に固着してゆかれる。いつもいつも「一人の人」をみつめておられる。個々の固有な存在を、主はみつめておられる。

 羊飼いは一頭一頭の羊の存在をこよなく大切にする。しかし雇い人はそうではない。自分だけが助かることにしか関心がない。


7.この囲いの外に   「囲い」の消滅

    わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(16節)

  主イエスの「一方的な先行的な選び」は、「門」の中、すなわち囲いの中の「羊」たちだけが対象なのではない。囲いは「狼」のような外敵から「羊」を守る防護柵のことだ。「羊」を守るためには「囲い」が必要なのだ。

 しかし、主イエスは言われた。この囲いの外にも、「羊」がいる。この「羊」もまた「一方的な先行的な選び」の対象だというのだ。

 「囲い」は、防護柵なのだが、ともすると、「壁」に変質しかねない。差別のための自己正当化になりかねない。「壁」の中の人間のみを守り、外の人間を排除し、外敵化する人間の罪がそうさせる。

 しかるに、主イエスは,常に「囲い」の外に、「わたしの声を聞きわける羊」に心にかけたもう。人のこころの中に蔓延る「壁」を不断に崩壊させて、遠くへ遠くへと「羊」を捜したもうのだ。主イエスは、「囲い」の中の羊を放置してでも、どこまでもどこまでも「迷える子羊」を捜し求めてゆかれるのだ。

 こうして、世界中の羊は、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

 この事は実現するとき、容易に「壁」に変質する「囲い」は必要なくなる。

 主イエスのこの宣言は、終末論的な希望である。主イエスが神だからこそ言い得た言葉としか思えない。

 ここには、世界大の共同体が、「一つの群れ」となるという理想世界実現の確証が語られている。人間の語り得る言葉ではない。神にしか語り得ない。究極的な希望の宣言だ。


8.十字架の死と復活の意志 

    わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。(17節)

    だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(18節)

 「わたしは良い羊飼いである」という宣言は、十字架の死と復活の出来事の予告であり、意志表示として理解されなければならない。

 実は、人は、死ぬことができない。

 人はやむなく死ぬのだが、死ぬことができるから死ぬのではない。人は死ぬことはできないのに死ぬのだ。なぜなら、死ぬ事が出来るのはただ神のみだからである。

 神は死ぬことができる。なぜなら、再び生きることができるからである。神はいのちを捨てることができるし、いのちを再び甦らせることもできる。だからこそ、死ぬ事ができるのである。再び生きることができる方のみが死ぬ事ができるのである。

 しかるに、人は、地上の生を終えるが、それは死ぬ事ができるという意味ではない。死ぬ事ができないのに、やむなく死なざるを得ないのだ。このやむなき地上の死は「死が支配する」だ。この「死」とは「神と人との関係喪失性」を意味する。神なき事、神喪失性こそが「死」の本質である。

 この「死」(神喪失性)はキリストの「死」によって滅ぼされねばならぬ。

 「死」(神喪失性)の「死」だ。実に「死」は十字架の死に呑み込まれたのである。

 人は、死ぬ事ができる神によって、再び生きるいのちに与って甦る希望によって、死ぬ事ができるようになる。

 人は、キリストのいのちに与って甦る希望があるとき、はじめて地上の生の終焉を迎える勇気を与えられるのである。

    わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(10節)

  「死」の「死」、すなわち復活の希望によってこそ、人は死ぬ事ができるのである。キリスト・イエスによって「羊が命を受ける」からである。

 主イエスは、明確に、「羊」すなわち「わたし」の「命」(甦りの命)を与えることを、このみことばによって確約されているのである。「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」との宣言は、羊すなわち「わたし」が「いのちを受けるため、しかも豊かに受けるための確証に他ならなかった。

 主イエスは、神の独り子なる神として、全人類を「羊飼い」として、永遠のいのちを与えんがため、来られた。

 その確証は、全人類にまで及んでいる。

 わたしたちは、ただ主イエスの御前で、主に従うだけで、既に主イエスの「門」を通っているのである。

 諦めてはならない。主イエスの前に立つとき、「わたし」は既に、主イエスに知られている。

 知られている「わたし」は「主イエス」でありたもう「天国の門」を通るべく、主の御声を聴き分けることができる者と変えられている。

 救いは、既に確定しているのだ。ここに迷いはない。


2026年4月6日月曜日

 2026年4月12日復活節第2主日

ヨハネによる福音書20章19節~31節

『復活顕現』



1.不思議に思う事

 甦りの主イエスが、突如として弟子たちの前に出現した。彼らは家の戸に鍵をかけて潜んでいたのだ。

 この家の中で、わたしが不思議に思うことがある。

 それは、弟子たちの「恐怖心」だ。彼らがユダヤ人たちを恐れていたのはわかる。このことが不思議なのではない。彼らはナザレのイエス、ガリラヤ人の仲間、弟子だというだけで、主イエスを殺害し狂ったように敵愾心をもって捜し回っている敵対者たちが、そら恐ろしかったのだ。この心理状態は、紛れもなく主イエスを裏切ったペトロの心理と同質のものだ。

 弟子たちは、主イエスの仲間、弟子だということを隠したいのだ。自分たちも捕縛され、刑罰を受けるかもしれないという恐怖に囚われていたのだ。だから、鍵をかけて誰にも居場所を知られないように、潜んでいたのである。こういう「恐怖心」に、彼らが落ちこんでいるという事情がよく伝わって来る。

 彼らは、なるべく別々に行動しないようにしていたのだろう。個別に行動して、敵対者にそのうち誰かが捕まったりしたら、ペトロがイエスを裏切ったように、仲間を裏切らないとも限らない。疑心暗鬼になりたくはないのだ。だから、なるべく一緒にいよう。捕まるときは、一蓮托生だ。みなで捕まろうではないか。そんな自暴自棄にもなっていたもかもしれない。彼らはひたすら怖かったのだ。逃げたかったのだ。

 そんな彼らの前に、甦りの主イエスは、瞬時に現れたのである。わたしが「瞬時」だと思うのは、このとき、主イエスは、戸をあけて入ってきたのではなかったからだ。戸をあけて入ってきたのであれば、瞬時とは言えない。戸を開ける動作、歩く動作が必ずあるからだ。動作があれば、そこにはある程度の時間経過があるはずだ。だから、この経過時間があったのであれば、彼らはその経過時間のあいだ、主イエスを見続けていたことになる。

 ところが、甦りの主イエスは戸をあけて入ってきたのではなかった。

     そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(19節)

   突如として、甦りの主イエスは、彼らの「真ん中」に立って、「シャローム」と言われたとういうのだ。

 だから、このイエスの出現は、突然の出来事、瞬時の出来事だと云わねばならない。イエスは鍵がかけられていた家に鍵に触れもせず、戸を開けもせず、「来た」のである。甦りの主が、彼らの真ん中に立って、一見して彼らと少しも変わらない「身体」をもった存在として「来た」。甦りの主イエスが、「甦りの身体」をもった存在として、弟子たちの前に、現にいる。少しも変わらない身体であるのに、鍵をあけず、戸を開けもしないで、瞬時に出現したのであった。

 ここに第1の不思議がある。

 同じ「身体」であるにもかかわらず、同じ「身体」ではありえない「甦りの身体」として、主は今、ここにおられるのだ。不思議としか云いようがない。

 そして、第2の不思議が弟子たちに起きた。

    そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(20節)

 「恐怖心」でいっぱいだった弟子たちが、甦りの主の「出現」を経験して、「喜んだ」のだ。

 「恐怖」から「歓喜」へと変化したのはどういうことか。不思議ではないか。あの怖れは、主イエスと仲間だと思われることが、自分の身を危うくする事から来ていた恐怖心だった筈だ。それがいま、主イエスと会って、イエスの弟子として喜んでいるのだ。恥ずかしくないのかと思ってしまう。あれほど、イエスの仲間だということを恥でもあるかのように、ひた隠ししたペトロと、まったく同じ質の恐れに落ちこんでいた彼らは、いま、イエスを会って喜んでいる。どういう心境の変化なのだろう。彼らは単に、『沈黙』に登場する「キチジロー」のような弱く卑怯な人間にすぎないのか。


2.何かが変わった

    イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)

    そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。(22節)

    だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(23節)

  弟子たちの「喜び」には、何かが変わったことの兆しが感じられる。そう考えなければ、この「不思議」さはただの謎に終わるだけだ。弟子たちの人格に、何かが起きたとしか考えられない。さっきまで恐怖に怯えていた彼らと、いま喜んでいる彼らとは、まったく同じ弟子たちではあっても、まったく別の人格が彼らのなかで現れ出てきたとしか考えようがないのだ。

 喜んでいる彼らは、もはやさっきまでの小心者たちではない。彼らは、甦りの主イエスに出会って、別人格の存在と、既になってしまっているではないか。


3.派遣の類比

   甦りの主イエスは言われた。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。 

 この言葉には、類比がある。

 類比とは何かというと、「~のように」という言葉が意味するものを類比という。

 「父なる神が主イエスを遣わしになった。」

 父なる神の主イエスの派遣の出来事と「同じように」主イエスが弟子たちをお遣しになる。つまり「父なる神」の「子なる神イエス」の派遣と、「子なる神イエ」の「弟子」の派遣は、この「~ように」という関係の類比となっているのだ。

 この類比の関係は、対応関係になっている。

 この類比が成り立っているという事は、何を意味しているのか。

 弟子たちが主イエスによって派遣されたという事実は、神とイエスの関係に対応している。主イエスの存在と弟子の存在との間には、神とイエスの関係の如き(ような)関係が生起していることになったことを意味するのである。

 とんでもない事が起きていたのである。主イエスが弟子たちを派遣したという事実は、弟子たちが主イエスのごとき(ような)存在へと変えられているというのである。何かが変わったと、わたしが感じたのは、このことだ。弟子たちは、聖なる者とされたのである。

 

4.聖霊を受けよ

   聖霊の原語はプニューマという。この言葉は「息」をも意味する。まさに主イエスは、息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたのだが、「息を受けよ」と言っているに等しい。

 神の息は、生命を与える。アダムは神の息を吹き入れられて生きる者となった。キリスト・イエスの息を弟子たちは吹き入れられて生きる者となったのである。キリストの生命に生きる者となったのである。

 

5.聖霊の生命に変えられる「聖化」

   このように考えることができると、あの「不思議」は、感嘆に変わる。そうか、それでわかった。あの主イエスを裏切った卑怯なペトロが、どうして殉教をも厭わない聖ペトロに変わったのか。合点がいった。ペトロは昔のペトロではなくなったのだ。聖なる者となったのだ。

 主の派遣の命令によって、彼はまったく新しいキリストの生命のごとき生命を生きる者とされたのだ。

 わたしが、感じた「不思議」体験は、主イエスのみことばによって氷解した。

                 

6.「不信のトマス」

   ディディモと呼ばれるトマス。みなさんよくご存じの「不信のトマス」の出来事が、次に登場します。

    そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」         (25節)

 トマスは、仲間の証言では、甦りの主イエスの顕現を信じないという懐疑の人であった。彼は自分の認識力を信じて、仲間の証言を手放しで受け入れることを拒否する強い意志の持ち主だったようである。2千年前の古代社会にもこんな慎重な精神の人がいたことには少しく驚きを禁じ得ない。ある意味では、石橋を叩いても渡らないという慎重さは、詐欺やフェイクが横行する現代でも必要な態度とも言えそうである。

 彼は他の弟子と同じだとも言える。トマスは他の弟子が先に甦りの主イエスに出会った時に、そこに居合わせなかっただけだ。他の弟子たちは、現に甦りの主イエスに出会っているから、信じるも信じないも現に会っているのだから、信じない事はできない。会っているのに会ったことを信じないとは誰も言えないからだ。でもトマスは、まだ会っていないのだ。条件としては、甦りの主イエスに出会う前の他の弟子と同じなのだ。トマスだって,実際に会ってみれば信じないということは不可能になる。他の弟子と実は条件はまったく同じなのだ。

 ただ、トマスだけは、最初の主の顕現の時に,その場に居合わせなかったにすぎないのである。

 だから、トマスの不信というのは、少しかわいそうな気がする。他の弟子も条件は同じなのだから。

 

7.「決して信じない」

  トマスだけ単独行動していて、主の顕現の現場に立ち会うことがなかった理由が気になるが、それはさておくとして、彼の「決して信じない」というきっぱりとした断言には、いくぶん寂しさを感じないではない。

 自分一人だけ、甦りの主イエスに会わなかったということが、彼の心の傷になったのかもしれない。他の弟子たちだって、受難の死と復活の予告を聞いていたのに、主の言葉を信じられないでいたという点では、トマスと何の差もない。頑なに「決して信じない」と言いきるのは、自分一人、置いてけぼりをくったという痛みから来ているのかもしれないのだ。そう考えてゆくと、トマスには同情できる。


8.信じない者ではなく、信じる者になりなさい。

    それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)

   「信じない者ではなく」と主は言われた。まるで、トマスが「決して信じない」と言いきったあの言葉を知っているかのようにである。

 ところで、わたしにはこの主のこの言葉からは、深い愛が感じられる。寂しい彼の心のうちをすべて知っていているかのような言葉に聞こえる。

 すると、トマスは、即座に答えた。「主よ、わたしの神よ」。

 ここで注意すべきは、トマスは手のみ傷に指を当ててもいないし、脇腹に手を差し入れてもいないことだ。

 彼は即座に、「主よ、わたしの神よ」と信仰を告白しているのだ。彼は自分の認識力による「確認行為」は何もしていない。彼にとって、そんなことは実はどうでもよかったようにしかみえない。彼はイエスの愛に触れて感動している。自分の手で触り、自分の目でみないうちは決して信じないと言っていたのに、彼は触ってもいないし、目で確かめようともしていない。彼は主に出会った瞬間、信じないではいられない存在へと変えられているのだ

 

9.見たから信じたのか

    イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)

 主イエスはトマスに、このように語ったが、実はトマスにとって、認識手段による確認などもうどうでもよかった。トマスは見て信じた訳ではないのだ。イエスの愛の言葉に触れて彼は感動して、人生がひっくり返ったのだ。

 だから、主のこの言葉は、トマスを「代理」としている背後の存在者である全人類に向けて語っておられたのである。

 見ないのに信じる人は幸いだという言葉の意味は、トマスの背後に存在するすべての人を指し示して、言っているのだ。人類は、もう既に甦りの主イエスを肉眼で「見て信じる」ことは不可能となっている時代に生きているからだ。

 さらに言えば、現代、目で見ることには、実に多くの虚偽が存在する。もう「見たら信じられる」ことは不可能なのだ。見たように信じる事は危険な時代になっているのだ。実際見るものは疑わしいのだ。

  信仰とは、聴くことによる。見て信じる信仰は偽者だ。信仰は、神の言葉を聴くことによって、生起する。

 だから、見るのではない。信仰は見ることによっては起こらない。見ないで信ずることが、本当の意味での信仰なのだ。見ないで信じる。それは神の宣教に聴くことによって信じる出来事が、奇跡として生起するということなのである。 

 ここに、教会の宣教の根拠がある。だから、教会の内部でこそ、甦りの主イエスの言葉を聴くことが、こよなく重要なのである。

 

10.魂の家の真中に立つ甦りの主イエス

   弟子たちが隠れ潜んでいた家は、わたしたちの「魂」を比喩している。甦りの主イエスは、鍵をかけたわたしたちの「魂」の戸を開けずとも、「魂」の真中に顕現されたもうのである。