2026年8月30日(聖霊降臨節第15主日)
1コリント 12章27節~13章13節
『最高の道』
『最高の道』
コリントの信徒への手紙Ⅰ12章27節~31節
27:あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
28:神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
29:皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
30:皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
31: あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
愛
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
コリントの信徒への手紙Ⅰ13章
1:たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
2:たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
3:全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
4:愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5:礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6:不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7:すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8:愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9:わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10:完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
11:幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
12:わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
1.わたしたちはキリストの体の一部である
人の悪口を言うことはなぜ「悪」であるのか、という問題を考えてみます。
なぜひとは、他人のことを悪く言うのでしょうか。さまざまな事が考えられますが、そのうちに「劣位化説」という説があります。人の立場やランク(位)に焦点を当てる考えだそうです(和泉悠)。悪口を言う人は自分の優位性を確認したり証明したりするために悪口を言うというものです。いわば動機は「マウント」※をとりたいということ。
悪口がよくないのは、「人間同士に上下や優劣関係をつくることが良くないからです。」これは「現代社会の通念であり、ランキングの上下をつくってしまう悪口は、人を傷つけなくても、悪意がなくても悪い、ということになる。」
マウントを取る人の心理は、何かといえば、不安と自信のなさだといわれます。心の底では自分に自信がなく、周囲に認められたい(承認欲求)という気持ちが強いのです。また、相手より下に見られると不安になるため、攻撃することで自分を守ろうとする心理とも言えます。
※「マウントを取る」とは、会話や態度で自分が相手より優位(上)にあると示そうとする行為のこと。
要するに、自分と他者を比較して、本当は自信がないのに、優位に立つために、他人を自分より低めようという心理から悪口を言ってしまうのです。
こういう人は、自分が神人キリスト・イエスの体の一部であって、他人とはそれぞれ異なった多様な一部をなしあっているということを知らないのです。他の部分を担う他人と自分とは、異なった役割を担っていて、体は、どの部分も互いに不可欠なのだということを知っていたら、他人との優劣などを比較することはないのです。一部分が弱れば、体全体が弱るのです。だから、一部分が痛めば、他の部分も共に痛むのです。
もし、真実に、自分自身がキリストの体の一部分だと信じているなら、他人との比較で、優劣をつけて悪口を言うことなど、できなくなるはずです。
2.もっと大きな賜物を受けるよう努めなさい
「もっと大きな賜物」を受けるよう熱心に努めよとパウロは勧めています。それぞれが固有なかけがえのない賜物を既に受けています。ほかの部分を担う人とは替わることができないその人だけの賜物です。既に固有な代替不可能な賜物を受けている以上の「もっと大きな賜物」を受けるべく熱心に努めよというのです。
他人との比較ではなく、現在ただいまの自己自身をみつめ、その地点よりももっと優れた賜物へと自己自身を磨けというのです。すなわち自己自身の成熟です。自己自身の陶冶です。
自己陶冶は、どれだけ精進しても、尽きるところはありません。それは能力の向上とか、体力の増進とか、そういうことに限る必要はまったくありません。こどもにはこどもとして、青年は青年として、壮年や老人も同じです。老人には、老人なりの「もっと大きな賜物」を受けるよう熱心に努めることがあるからです。 朝、目が覚めると、わたしなどは、教会の地面の土壌改良や草刈りのことを思います。一日の作業スケジュールを紙に書き出します。大抵は半分もできませんが、ひとつひとつの仕事をなし終えると、喜びが与えられます。たったそれだけのことですが、これはやはり「もっと大きな賜物」を受けるための努力に違いありません。自分で決めたことを成し遂げたという喜びは、紛れもなく「賜物」なのです。人より優れているとかなどということとは無縁なのです。自分の心が喜んでいるということは、キリストの体全体も喜んでいることだからです。人はこの喜びを「達成感」と呼んでいますが、わたしはこの感情は、「神の喜び」に、直結していると思うのです。わたしの「喜び」が、キリスト・イエスの喜びにつながっているのです。
3.愛がなければ
13章1節から3節までは、「愛がなければ」という言葉で結ばれています。
愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
愛がなければ、無に等しい。
愛がなければ、わたしに何の益もない。
1節は、「人々の異言、天使たちの異言」を語ったとしても、もし 「愛がなければ」、その言葉は騒音に等しいと最大限の落としようです。 このような「相対化」※」をパウロがしているということは、コリントの教会で、起きていた「異言」現象については、認めてはいても一定の批判を持っていたことになります。(コリント人への手紙第一14章1−5節、27−28節、39節)
※相対化(そうたいか)とは、ある物事が「絶対唯一のものではない」と考え、ほかの視点や基準に照らしてその意味や位置づけを見直すこと。
「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。」
コリントの信徒への手紙一 14章4節
「解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。」
コリントの信徒への手紙一 14章28節
つまり「異言」を語るのは、神に対し、もしくは自分自身に対して語るのであって、「解釈する者がいなければ、教会では黙って」いるべきだというのです。「解釈」なしには横の人間関係において、むやみに語るものではないというのです。
「異言」は対人関係にあって、そのままでは「理解」できないから、教会の徳を高めることに支障をきたす怖れがあったのでしょう。
「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。」 コリントの信徒への手紙一 14章 23節
2節は、「預言する賜物を持ち、あらゆる神秘と知識に通じていようとも」、「山を動かす程の信仰」があっても」、もし「キリストの愛がなければ」無に等しいと言います。すなわち、「知識と信仰」です。「知識と信仰」があっても「愛」がなければ、無に等しいというのです。愛なき知識も信仰も、ただ「無」だというのです。
「愛のない知識」の目的は自己愛にすぎません。「愛のない信仰」は、たとえ「山を動かすほどの完全」なものであっても、そこには神への愛も人への愛もありません。ただあるのは、「山を動かすほどの完全」な自己満足にすぎません。愛する対象が存在しないからです。
この場合の「知識も信仰も」、結局、自己欲求の延長でしかないのです。
この場合、自己はキリストの一部分ではなく、自己が自己の支配者であり、自己が完結した全体なのです。他者への愛ではなく、自己完結的なの自己愛なのです。
しかし、「愛がなければ」というときの「愛」は、自己を愛する愛は必ず他者との絆がなければならないという「愛」です。「キリストの愛」です。他者と自己とは、互いに神=キリストの体なのですから、愛には必ず他者という対象が存在します。キリストを愛するがゆえの「知識と信仰」なのです。キリストを愛するがゆえに、さらにもっと知ろうとする。キリストを愛するがゆえに、さらにもっと信ずるのです。
3節は、全財産を貧しい人々ために使い尽くすという他者への愛の行為においてさえも、「愛がなければ」何の益もないといいます。そして、たとえ「殉教」という状況においてでさえも、「愛がなければ」なんの益もないというのです。ここには、他者に対する「愛」の振る舞いにおいてさえも、「キリストの愛がなければ」、自己自身の魂の救いにはならないという極限的な愛の意味づけが語られています。
まったき自己犠牲的な愛の振る舞い・行使においてさえも、純粋な愛が要求される。究極の自己犠牲である「殉教」でさえも、「キリストの愛」に充たされてこそ、「証言」なのです。
4.「愛」のふるまい
4節から8節までは、いわば「愛の振る舞い」について語っています。「愛」という言葉を、「キリストの愛」と言い換えると、いっそう理解しやすくなります。ここで「愛」という主体は、人格をもっています。「神は愛なり」なのです。だから、「愛」を「キリスト」もしくは「キリストの愛」と置き換えて読むと、意味は明確に伝わってくるでしょう。
どうみても、「愛」を「人」に置き換えることはできません。神=キリストだけが、わたしたちに人間に示された「愛」です。
5.終末論的な希望の認識
「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」 コリントの信徒への手紙一 13章10節
「完全なものが来たとき」とは、キリストの再臨を示唆していると思われます。 キリストが最後の審判をされた暁には、かくなるという希望が語られています。
12:わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
7.信仰と、希望と、愛
終末においてキリストが再臨されるまでの、歴史の時間を、わたしたちは生きています。この歴史的時間の途上においては、わたしたちは、互いにお互いを完全に知ることなく、「鏡におぼろに映ったものを見ている」ように見ているにすぎません。わたしたちの認識力は、それが限界なのです。いまは互いに一部しか知る事はできません。しかし、終末時には、この人間の世界は、認識的な大転換が起きると、聖書は語っています。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」というのです。
はっきり知られているようにというのは、神によって、キリストによって知られている。わたしたちは神によって、キリストによって知られているのですが、終末時の認識的大転換が生起するとき、わたしたち自身が、キリストに知られているのとまったく同じように、知る事になると断言されているのです。
神を見るものは死ぬ。それは旧約時代に貫かれていた信仰観でした。神は認識できないお方なのでした。
イエスの時代、神は人となりたもうた主イエスを見るものは神を見たのです。
終末時においては、わたしたち自身が、神、キリストに知られているごとくに、お互いを知ることができるというのです。
この認識的な大転換に至るまでの「途上」にあって、わたしたちを導く、最も大いなるものは、信仰と、希望と、愛です。
信仰は、信仰の真の主体者は聖霊であり、
希望は、歴史的時間の彼方に到来するキリスト再臨の希望であり、
この歴史的時間を生きる私たちが生きるべき「最高の道」こそ「愛」(すなわちその真の主体)なのです。
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