2026年8月16日(聖霊降臨節第13主日)
エフェソの信徒への手紙4章17節~32節
『新しい人間』
『人格の更新・他者の発見』
17:そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、
18:知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。
19:そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。
20:しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。
21:キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
22:だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
23:心の底から新たにされて、
24:神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
25:だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
26:怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
27:悪魔にすきを与えてはなりません。
28:盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
29:悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。
30:神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
31:無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
32:互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
1.「異邦人」そのネガティブな意味
本日のみことばで気になることが、実はあるのです。
「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」という言葉です。
久保田早紀さんが歌った「異邦人」は当時大ヒットして、そのエキゾチックな旋律には鮮烈な印象をもちました。
サヨナラだけの手紙 迷い続けて書き
あとは哀しみをもて余す 異邦人
歌詞をじっくりと読むと、異邦人とは自分を指しているようです。どこかの外国での情景でしょうか。異国の光景が目に浮かびます。そこで出会った人との別れの思い出を歌っているようです。
「異邦人」でまた思い出すには、アルベール・カミュの作品があります。実存主義作家でノーベル文学賞を受賞した人です。
いずれも、「異邦人」に込められた意味はかなり違っていて、意義は多様性に富んでいます。この「異邦人」とは平たく言えば「外国人」ですが、この「異邦人」という術語は、聖書から広まった言葉で、元来特別な意味を持っていました。「外国人」という意味は同じでも言葉が違えば、まったく異なったニュアンスを感じさせます。
本日のエフェソ書のこの聖句で気になるのは、この「異邦人」という術語の使用文脈は、ネガティブな意味で用いられていることです。「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」とはっきりと、「異邦人」のようであることを否定しています。
2.「異邦人」とは誰か
久保田早紀さんの「異邦人」は自分自身がどこかの異国で恋をして、その好きな人と別れる一人の外国人女性の心境を歌っていますから、「異邦人」とは自分自身を指しています。自分はこの「異国」の地では「ストレンジャー」・「エトランジェ」なのだというのです。
カミュの「異邦人」は、哲学的な意味で「見知らぬ人」「異質なもの」「疎外された者」を意味しています。
人間は「生きる意味」を求めますが、世界には最初からそんな意味はないというのです。この「意味を求める人間」と「意味を持たない世界」のズレをカミュは「不条理」と呼びました。母親が死んでも何の感慨も示さない主人公ムルソーの姿に社会通念とは異質な「不条理」な「異邦人」を描いたのです。
エフェソ書が書かれた原始キリスト教会の世界宣教という状況を想像してみますと、福音を聴き、キリスト者となる以前の人々の多くは、もともとユダヤ人であった人々を除けばすべて「異邦人」です。
つまり、異邦人出身のキリスト者に向かって、「これまでの生き方を棄てよ」という意味になります。
新しい人間となったいまは、これまでの古い生き方は棄てなければならないというのです。
言葉あるいは術語というものは、人間のものですから、文脈によって意味は限りなく多様だということを、わたしたちは常に念頭においておかなければならないし、そうでなければ、過ちを犯してしまいかねません。
言葉は、悪用される危険が伴うものなのです。
「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」という言葉の断片だけを引きだして安易に用いると、この言葉はとんでもないヘイトスピーチに変わってしまいかねません。「外国人」差別につながりかねないからです。
3.「もはや異邦人のように」の特定固有な意味
言われている対象は、ユダヤ人から見ての「異邦人」であったけれども、いまはキリスト者となった「異邦人出身のキリスト者」だと想定すると、「もはや異邦人のように」という意味は、単なる「外国人」という意味ではないことになります。ここでの「異邦人」は、現代の「外国人」と言う国籍の問題ではなく、信仰上のアイデンティティーの問題です。「もはや異邦人のように」という意味は、多神教の神々を崇拝していたときの生き方を指していると考えるべきでしょう。
エフェソにはアルテミス神殿があって、かつては神殿娼婦が千人もいたとされていましたが、どうもそれは近年では俗説だったする説が有力とのことでした。ただ、エフェソには多くの商業的娼婦は多く存在してはいたようですので、「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、」と戒めているのは、港湾都市として栄えたエフェソの退廃的な状況を背景にしていると見て良いと思われます。
という次第で、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」というネガティブな表現が意味していたものは、「情欲に迷わされて、滅びに向かっている古い人」という特定固有な状況を指していると言えるのです。だから、一般的な意味での「異邦人」全体を指して、ネガティブに言っていると見るべきではないということになるでしょう。「異邦人」のすべてが「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」という状況だとは限らないからです。
なかには道徳的に立派な人もいたのではないでしょうか。パウロが言うように、律法を知らなくても、心に律法が記されている人もいたことでしょう。
「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」ロマ書2章14節~15節
4.「心の底から新たにされて」
「人格の更新」ということが語られています。大切なことは更新する主体が必ず存在するということです。
神はまことに存在したもう。
「真理がイエスの内にあるとおりに」とあります。主イエスが信徒本人に、結ばれている。結ばれているだけではなく、信者本人の「内」に存在するというのです。
神の存在が、具体的な力をもって、信者本人に結びつき、内面に存在していてくださるというのです。この神の存在の力によって、信者は「真理に基づいた正しく清い生活を送るように」なることができるのだから、そうせよというのです。可能なのです。自己自身の努力とか精進とかでは絶対不可能なことが、神の存在の力によってでならば、可能なのです。
5.「わたしたちは、互いに体の一部なのです。」
キリスト者共同体の信徒は、「互いに体が一部をなしている」というのです。これは具体的な、客観的な、人間理解として、キリスト者共同体はキリストの肢体として一つの体の一部を、互いになしているというのです。
つまり、わたしたちは分かちがたく一つとされているというのです。これは理想でも観念でもありません。具体的な現実存在だというのです。
キリスト教信仰はこの現実を指しているのです。単なる道徳律でも、行動指針でもない。現実存在だというのです。総括すると、「真理に基づいた正しく清い生活」という具体的な現実として、立ち現れるのであるから、そのようにせよと命じるのです。
6.具体的倫理の命令
1)偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
2)怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。
3悪魔にすきを与えてはなりません。
4)盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけせん。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
5. 悪い言葉を一切口にしてはなりません。
6.聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさ い。
7) むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
8)神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
9)無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
10)互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
7.神の聖霊を悲しませてはいけません。
これらの倫理的命令は、「具体的な人格更新の果実として、信徒自身に生起する出来事」です。
ここで、わたしたちは、「神との人格的な交わり」が言及されていることに注目したいと思います。
信仰生活は、現実的に神との交わりの生活なのです。だから、「聖霊を悲しませてはいけません」と言われているのです。信徒が、これらの倫理的果実を結ぶことなく、真理に基づく正しく清い生活という現実を生起させず、罪を重ねるとき、それはただちに、神さま、聖霊さま、イエスさまを悲しませることになるというのです。
信仰生活は、神の悲しみ・痛み、嘆きを、自己自身のうちにいきいきと感じる生活なのです。
8.個人は全体の体の一部
キリスト者共同体はキリストの肢体として一つの体の一部を、互いになしています。ということは、一部が痛めば全体も痛むのです。一部が悲しめば全体もまた悲しむのです。この痛み・悲しみは、ただちに神の痛み・悲しみとなるのです。神の痛み・悲しみを感得するならば、人は、人類の痛み・悲しみをも感得せざるをえなくなるでしょう。
一人の痛み・悲しみは全体の痛み・悲しみであり、神の痛み・悲しみなのです。
週報に、渡部良三氏のことを紹介しました。渡部氏の歌が今日わたしたちの目に触れることができるのは、戦争という罪深さのさなかで、キリスト者の痛み・悲しみをいまに伝え・遺されたことは、わたしたちにとって神の賜物です。これらの歌によって、わたしたちは主イエスの痛み・悲しみの片鱗に触れることができるからです。
祈れども踏むべき道は唯ひとつ殺さぬことと心決めたり
9.異邦人は、私自身のことであったと発見し、選び取る
今年も8月15日を迎えました。NHKが制作した『開戦前夜』が公開されて論議を呼んでいます。内閣直属、飯村穣中将を初代所長とする「総力戦研究所」を舞台としたNHKスペシャルドラマを映画化したものです。史実とはかけ離れているとして遺族の飯村豊元大使が飯村中将の名誉棄損を訴えておられます。
8月15日は敗戦の記憶を新たに更新する日です。なぜ、戦争をしてしまったのか。「総力戦研究所」が出した結論は、明確に戦争をすれば「敗戦」必至だというものでした。それでもなぜ、戦争をしてしまったのか。戦後81年にして、いまなお、わたしたちは真実を正確に知りません。渡部良三氏のような、人の証言はごくわずかです。
かつて同じ人間を殺戮した戦争を二度と起こさないために、「記憶を日々新たに更新」する決断を、わたしたちはすべきです。そして、「敵」だと教え込まれた人に、「神の似姿」を見つめなければなりません。力より正義を、支配より和解を、沈黙より真実を選び続ける必要があるのです。
だから、「異邦人」は、ただ外国人を指すのではなく、「わたし自身」こそが、「異邦人」に他ならないことを、発見し、選び取るときなのです。「もはや異邦人のように生きてはならない」という言葉は、「わたしこそが異邦人に他ならなかったからこそ、この異邦人たるわたしに人格の更新が起きることが確実ならば、世界のすべての人に人格の更新は必ず起きる」という意味に、「更新」されるでしょう。その選択は、一度では終わりません。世代ごとに、社会ごとに、教会ごとに、そして一人ひとりの良心の中で、何度でもなされなければならない。
八月十五日は、その決断を更新する日なのです。
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