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2026年10月4日日曜日

 2026年10月4日(日)(聖霊降臨節第20主日)

          『執り成し』

        ヘブライ人への手紙6章 4節~12節

4:一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、

5:神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、

6:その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。

7:土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。

8:しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。

9:しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。

10:神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。

11:わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。

12:あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。


1.信仰を失うことへの警告

    「愚かなおとめたち」の譬え

    1:「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

    2:そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

    3:愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

    4:賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

    5:ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

    6:真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

    7:そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。

    8:愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

    9:賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

    10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

    11:その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。

    12:しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。

    13:だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

   マタイによる福音書25章のこの「愚かなおとめたち」の譬えで、主イエスが警告されている事柄は、実に深刻です。

  ヘブライ人への手紙6章6節のこの言葉も、同様にきわめて深刻です。

    6:その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。

  長年、教会生活を続けてきていながら、途中で教会から離れてしまう人がいます。 わたしは、その消息を聞くたびに、こう思うことにしてきました。それぞれ躓きがあったのでしょうが、究極的には、「その人自身」の問題ですから、何か事情があったから躓いてしまったとは、わたしは考えません。最終的には、「神とわたし」自身の事柄ですから、最終的な責任主体は「その人自身」なのです。神さまから最終審において問われるのは、ほかの誰でもなく、「その人自身」だけなのです。ですから、わたしは、信仰から離れてしまうという事柄は、その人を躓かせた「何か」に原因があるとか、やむを得ないとか、そういう風には考えることがどうしてもできないのです。

神さまから問われるのは、「その人自身」でしかないはずなのです。

 「愚かなおとめたち」の譬えも、ヘブライ人への手紙6章6節の「再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」という言葉も、「その人自身」が最終審において責任を問われるという厳粛な裁きを告げていると言わざるをえないのです。

 

2.はじめから信仰ではなかった

  ですから、わたしは、最終的にはその人自身の永遠の生命に関する事柄は、ただ神さまにおゆだねするしかないのですから、わたしは、その人のことで一喜一憂するのはやめよう、と考えています。わたしにはどうすることもできないからです。

 ですから、せめてわたしは、その人は、実は、教会生活をはじめるその時から、主イエスを真実には信じてはいなかったのではないか、そう考えることにしているのです。

 というのは、ヘブライ人への手紙6章4節、5節には,こう書かれているからです。すなわち、

    4:一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、

    5:神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、

    6:その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。

   真実に、神さまからの「光」に照らされ、「聖霊にあずかるようになり」「神のすばらしい言葉と来るべき世の力を体験しながら」「堕落した」のであれば、「再び悔い改め」に「立ち帰ることは」できないと明確に告げられているからでう。「愚かなおとめたち」の場合は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と「花婿」(キリスト)から拒絶されてしまうからです。

 だから、はじめから、「光に照らされてはいなかった。天からの賜物を味わってもいなかった。「聖霊」にあずかってもいなかった。そう考えるようにしたのです。教会生活をはじめたとしても、それは人間的な動機にすぎなかったのではないか。そう思う事で、「悔い改め」不可能な事態ではない、まだ希望はある、そう思いたいのです。

 信仰生活が破綻したのではなく、実ははじめから「信仰のようなもの」にすぎなかったのではなかったか。そう思うことで、とりかえしのつかない「悔い改め不可能」であってほしくはない。まだチャンスはある。最後の最後、悔い改める瞬間でもいい、最期の一秒でも悔い改める機会のあることを願いたい。そういう思いから、信仰から離れる人を回心の余地を残しておいてほしいと考えているのです。

 3.審判を畏怖しない人々

   神の審判は、やがて将来到来する最後の審判をイメージするかもしれません。最期の審判は、誰にも想像すらできない出来事ですから、わたしたちの理解を超えていますし、あらゆる感性を超越していますから、それを畏怖したり、恐れおののくことすらも不可能です。審判はただ神さまがなしたもう事柄で、被造者にすぎない人の世界では感知しえません。

 だから、いたずらに恐怖したり、恐怖を煽ったりすることは無駄であるばかりではなく不遜ですらあります。

 そして、さらには、「最期の」という言葉にとらわれても審判の意味を見失います。審判は、すでの起きている事柄でもあるのです。

    17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

    18:御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

    19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。

    20:悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

   ヨハネによる福音書が語っているのは、主イエスを信じることができないでいる事自体が、裁き・審判の結果であるということです。 「信じない」、「信じていない」という主観的な状態が、審判の結果だとしたら、世界の大多数の人々は、審判の結果、そのように「信じない」、「信じていない」状態で平気で生きていることになる訳ですから、このような状態を、畏怖したりする人はいません。だから誰も、審判を恐ろしがったりしていないのです。

 そうではなくて、むしろ、「主イエスを信じられない」でいることを、自分自身、戦慄するようであれば、それはそれで、実の所は、主イエスを「信ずべき信仰の対象」であることを、知っていることになる。そうであれば、そこには「悔い改め」の兆しとして「畏怖する精神」が生まれていると言えるのです。だから、そこに救いは間近にあると言って良い。

 問題なのは、主イエスを「信じない」、「信じないでいること」に、なんの痛痒もなく平気の平左だという状態なのです。


   まさに、「光よりも闇の方を好んでいる」精神状態です。

 このような人は、神を信じない事になにほどの感慨も持ち合わせてはいません。まして神の審判を恐ろしがったりするはずもありません。


4.耕地の譬え 畏れよ、震えよとの警告

    7:土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。

    8:しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。

  「土地は」、 「耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受ける」と言われています。ここで「土地」すなわち耕地ですが、耕地が神の祝福を受けるのは、実りを実らせることによるというのです。信仰という実を結ぶならば神の祝福がある。しかし、「茨やあざみを繁茂させてしまうと、耕地に蒔かれた種は実を結ばない。すなわち、「信仰の実を結ばない。そのような「耕地」は呪われ、ついには焼かれてしまう。「信仰という実」は結実しないなら(役に立たない)、「呪われ」「焼かれる」というのです。 この比喩は、耕地が耕地としての「役に立たず、信仰の実を結ばない」ことを指し示しているのですから、この「耕地」は、信仰を放棄したキリスト者を指し示しているでしょう。その信仰離脱者は、「失われた人々」のことです。教会から去った人々です。

 この譬えもまた、厳しい内容です。

 みことばは、「救われざる堕落」に対して、決してその責任追及の矛先を緩めません。「救われざる堕落」した者を労り、励ましたりはしないのです。最期は呪われ焼かれしまうというのです。これだと、恐るべきイメージだと言えるでしょう。

 神の審判を、畏れもせず、平気な人々への審判は、実は、この平然としていられる感覚の鈍さ、ものごとを深く受けとめることのできない傲然たる態度がとれてしまえている事自体が、審判を既に受けている動かぬ証拠だと、みことばは語りました。彼らは神を畏れないのです。神を畏れない事が審判の結果でした。

 このように審判を受けている人々だからこそ、この「耕地」の譬えは、畏怖すべき結果が、この先には待ち設けているのだと強く断言せざるをえないのです。彼らこそ、神は祝福を与えもすれば、恐るべき審判を下しもされるお方なのだということを示さなければならなかったのではないでしょうか。だから容赦はないのです。ここに甘える隙は微塵もありません。


5.それにもかかわらず

    9:しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。

   ヘブライ人への手紙の書き手は、「こんなふうに話してはいても」と、語調を変えて呼びかけます。この手紙の読者たちは、教会の人々です。ここではじめて、この手紙のなか、唯一、ここだけです。「愛する人たち」と、ここで始めて、そして最後の呼びかけです。思いをこめての一言です。

 あなたがたは、信仰の破綻へと、決して堕落するようなことはないと、わたしは信じていますと確言するのです。

 先に述べたように、審判は、「神の事柄」です。神の審判はただただ真の神のみが知っておられる神の意志、神の決断なのです。だから、わたしたちは、この神の意志について、何も語り得ない者なのです。そのことをわきまえなければなりません。 だから、わたしたちにできることは、主イエスが警告したもうたという事実を伝えることだけです。わたしたちが警告するのではありません。警告は、真の神と「その人自身」の事柄について、「その人自身」に、神が問うているという事実を伝えるだけなのです。

 わたしたちは、ですから、神の厳粛な恐るべき審判を、あえて告げなければならない神の愛を確信し、すべて人に隔てなく、伝えねばなりません。

 神は真の裁き主でありたもうお方です、と。ゆえに、人よ、畏れなければなりません、と。あなたは戸口にたって、あけてくださいと、あのおとめたちのように懇願しても、「あなたのことは知らない」と言われぬように、油を準備してください、と。油の準備とは、11節、12節で示されているように、信仰の熱心さであり、怠けず、信仰と忍耐をもって、審判の日を、畏れつつ待ち、待ちつつ救いを確信し望むことです。

 神の審判は必ずあります。それは恐るべき事です。それにもかかわらず、神は愛なるお方です。


6.神はあなたを見捨てない。

    10:神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。

  ヘブライ人たりが、「以前も今も」、「聖なる者たち」、すなわち使徒たち、福音伝道者たちのことでしょうが、かの人々ん、「仕えた」という具体的な愛の行為が、ここで言及されています。その詳細については不明ですが、それは間違いなく、「神の名のために」人々が「示したあの愛」の行為・実践のことでしょう。神は、この具体的な愛の実践を、どれ一つとして「お忘れになうようなことはありません。」神は愛のお方です。具体的な、小さなことでも、神は不義なるお方ではないから、決して忘れないお方なのです。

 ここに愛とは何かが示されています。

 どんなに小さな愛の実践であっても神は、お忘れにはならないのです。必ず神は、報いてくださるというのです。人が二かするので報いてくださるのではありません。報いを望まず、愛する実践を人がするとき、それは自分を促したもう神の愛の促迫があるがゆえなのです。その促迫に応えることこそ、信仰なのです。だから、神はご自身がわたしたちに投げかけてくださった愛の運動を、人がそれに応じて愛の実践をするという響き合いを神は喜んでくださるのです。その響き合いは、神はあなたがたが「堕落」の危険のなかで滅びることを、決して許さないという断固たる意志を示してくださる。これが神の愛です。これが神がわたしたちに報いてくださる恵みです。神は言われます。

 「わたしはあなたを決して見捨てない。」


7.信仰を受け継ぐ人たちに倣いなさい

    12:あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。

    キリスト教信仰は怠惰を戒めます。怠けてはいけないのです。無論のこと、休みは必要です。休みは怠けずにいるために休むのです。リクリエーションというのは文字通り訳せば「再創造」です。神さまによって、新しい自分に再創造していただくことをリクリエーションと言うわけです。だから休息は、再創造のために必要な創造のときなだから休むのです。怠けないためにこそ休むのです。

 信仰と忍耐は、分かちがたく結びいています。信仰することには、必ず忍耐が伴うからです。「約束されたものを受け継ぐ人たち」の先祖は、アブラハムです。

 アブラハムこそ、信仰と忍耐の人でした。わたしたちは、信仰するにあたって、かならず見倣うべき人をみつめ、見倣うのです。だから聖書を読むということがどれだけ大事か。それは歴史を学ぶということは、信仰の先達を見倣う為に絶対に必要だからです。


8.最後まで希望を

    11:わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。

 せんだって、わたしは信仰の友を天に送りました。神さまは、最後の時を、共に祈ることを許してくださいました。感謝のほかはありません。

 友は、最後の最後までみことばのときつぎを怠りませんでした。教会の宣教のために原稿を用意していましたが、体調がすぐれずそのまま8月30日、みずから入院されました。

 わたしたち夫婦は翌日一緒に食事でもしようかと思い、連絡すると、思いがけず見舞いとなりました。2週間後に、友は天上の人になりました。

 文字通り、最後まで希望を持ち続けて逝きました。

   わたしたちは、最後まで希望を失ってはなりません。

 友を思いつつ、わたしも自身の信仰を正す機会が与えられ感謝でした。自らの使命・課題を忠実に遂行できるように、日々新たにすごし、残りのときを、怠らず熱心に、信仰と忍耐をもって歩んで行きたいと思います。



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