2026年11月1日(降誕前第8主日)永眠者記念礼拝
『保存の契約(ノア)』
創世記9章8~17節
8:神はノアと彼の息子たちに言われた。
9:「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。
10:あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
11:わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
12:更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
13:すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
14:わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
15:わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
16:雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
17:神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」
1.契約(コヴェナント)
現代が、人間的要素においても、物理的な自然世界においても、人類始まって以来の危機の時代に突入しているという予感について、これまで語ってきました。
ヨハネの黙示録7章2節~12節での解き明かしの際にも言及しましたが、洪水審判の後にも、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」(創世記8章21節)とご自身に誓約されたように、神は、人類を審判によって滅ぼされるのではなく、人類の罪を滅ぼされるのです。
人類滅亡の危機は、神が引き起こされるのではありません。それが真に迫るものであればあるほど、それはわたしたち人類が悔い改める機会を神が与えてくださる「恵み」としての「危機」なのです。わたしたちにとって、「死」は恐るべきものではありません。恐るべきは、「神なき存在」となってしまっている「死」のことです。神の独り子なる神、主イエスと共に在るのであれば、わたしたちは「永遠の命」に既に与っているからです。
このことを神さまが、人類と、否、人類とだけではなく、あらゆる生きとし生けるものとの間に誓約してくださいました。この神の誓約(契約)を、本日のみことばは伝えているのです。
2.虹の架け橋
11:わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
12:更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
13:すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
洪水審判の後に、神が契約のしるしとして置いてくださった虹は、神と世界を結ぶ架け橋のように思えます。この虹は、あたかも弓のような形状をしていて、地上から天空へ向けての弓のようです。人間世界、地上世界の全存在が、天空の神に向けて弓を引いているようでもあり、神が被造世界に「心をとめる」架け橋のようにも思えます。
16:雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
虹が現れると、神は世界存在との約束・契約・誓約を心に留めてくださるというのですから、神の特別な世界への思い、すなわち「愛」を殊更に思い起こしてくださるというのです。
3.神の独白から、呼びかけへ
「わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」(創世記8章21節)とのみことばは、神さまご自身への約束・誓約・契約でした。独白だったのです。神さまは神さまご自身に誓約したもうたのでした。
しかし、9章のここでのみことばは、確実に「相手」がいます。すべての存在に対するみ言葉なのです。
独白には、神ご自身の強い意志が感じられます。神は神ご自身を決して裏切ることはないからです。神さまは神さまであれるのですから、ご自身への約束を破ることはできないのです。神さまなのですから。だから、神さまの独白には、比類のない権威があるのです。この独白を信じないでいることは不可能です。
呼びかけは、「相手」に対する約束・誓約・契約です。この呼びかけは、神ご自身が約束を遂行することを保証することを意味します。神さまは神さまなのですから、約束を反故にすることはなさらず、かならず約束を遂行されるのです。
また、呼びかけは、神さまが全存在に対して、かならず応答を要求しているということでもあります。それは、約束を果たす代わりに要求を呑め、という取引ではありません。
神さまが答応を要求されるのであれば、全存在は神さまの要求を受ける存在として、すでに神の支配のもとにあるという現実を知らねばならない、という要求なのです。
神さまは、神さまによって創造された全存在を、はじめから愛しておられます。昔も今もこれからも、この創造者としての愛は永遠に変わることはありません。神さまは、ご自身が創造した全存在を愛しているので、呼びかけるのです。呼びかけられたという事実そのものが、神の愛の証しなのです。
4.インマヌエルの神 イエス・キリスト
主イエスは、「インマヌエル、神われらと共にいます、と呼ばれる」と、クリスマスに天使から言われたお方です。
不可視の神さまは、わたしたち人間と同じ人間の姿をした神として、主イエスをお遣わしになりました。イエスさまご自身が、わたしたちとまったく同じように、苦しみ、悲しみ、喜ばれる生身の身体を持っておられるがゆえに、わたしたちの罪を、ご自身のものとして引き受けることができたのです。
わたしたちとまったく同じ姿で、この世に来られたのでした。この事実は、いわば、わたしたちのすべての苦悩・苦難と同様の苦悩・苦難を経験できるお方であるということです。この方が、まことの人であり、まことの神であられるがゆえに、このお方は、わたしたちと共なる存在として、この世に存在され、天上に存在され、それゆえに、常にわたしたちと共に存在してくださる方なのです。
だから、わたしたちは、存在しているだけで、神の創造による存在として、インマヌエルの神と共在する存在として、すでに、永遠の生命に与っているのです。
5.存在しているというだけで救われている
この事実は、言い換えれば、わたしたちは、神に呼びかけられている存在として、すでに存在しているという事実が、いま・ここに生起しているだけで、神さまに愛の対象とみなされ、愛されているということなのです。
主イエスは、このインマヌエルの原事実を、わたしたちに知らせてくださる仲保者です。
そう考えてゆくならば、あの虹の架け橋、あの神さまと全存在とを結びつけ、架橋しているあの「しるし」は、インマヌエルの神、主イエス・キリストの象徴のように思えてくるではありませんか。そうです。イエスさまこそ、神と被造世界を結びつける架け橋のような存在なのです。
イエスさまご自身が矢となりかわって、天空の父なる神に、全被造物の命を届けてくださる――あの虹は、その象徴であったのではないでしょうか。
6.存在するということ インマヌエルの原事実
存在しているという事実だけで、既に救われている。
そうであれば、「信仰は必要ないではないか」などと思う人が出てくるかもしれません。そう考えてしまうのも無理はないかもしれません。でも、そう考えてしまうのは、信仰という事柄を、何かしら「大変なこと」「しんどいこと」「いろいろと我慢しなければならないこと」のように捉えているからではないでしょうか。「聖書には十戒があって、神さまが戒めを守るように要求しているし、それらをまともに守れる立派な道学者先生もいるかもしれないけれど、自分にはとても無理だ」と思っているかもしれません。
それは、勘違いと言っておきましょう。
「苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが
あなたの戒めはわたしの楽しみです。」
――詩編119編 143節
詩編のこの言葉を歌った人は、神さまの掟・戒めを「楽しみ」だとして賛美しています。神の戒めを守ることは苦痛ではなく、楽しみだと言うのです。そうなのです。このような人は、戒めを守ることが楽しみに思える心が神によって与えられるという「贈与」の出来事が、神さまによって生起しているのです。「自力」ではないのです。「他力」なのです。徹頭徹尾、神の賜物であり、恩寵なのです。
神さまの呼びかけに、耳を澄まして、目を凝らして、心を研ぎ澄ますならば、神の呼びかけが、わたしたちの魂に響いてくるでしょう。
12:更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
神われらと共にいます。インマヌエルの神が、わたしの魂と共にいてくださる以上は、わたしたちは既に永遠の命に与っているのです。
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 ヨハネによる福音書 17章 3節
アーメン