2026年5月3日(日)(復活節第5主日)
ヨハネによる福音書15章1節~11節
『神の民』
2026年5月3日(日)(復活節第5主日)
ヨハネによる福音書15章1節~11節
『神の民』
2026年4月26日 (復活節第4主日)
ヨハネによる福音書13章31節~35節
『キリストの掟』
2026年4月19日 (復活節第3主日)
『まことの羊飼い』
ヨハネによる福音書10章7節~18節
1.羊の門、囲い
主イエスのこれらの言葉は、比喩で満ちている。
羊も比喩なら、門も比喩だ。
比喩が指し示しているものは、「わたしは」という主語によって、限定されてくる。羊は、弟子であり、キリスト者であり、人類をも指すという具合に広がってゆく。
さしあたって、聴き手のわたしたちは、羊とは、この「わたし」のことだと受けとめる。それでよい。
「わたしは羊の門である。」と主イエスが語られるとき、羊としての「わたし」にとって、主イエスは「救い」の「門」である主イエスの前にいるのである。
2.自己選択権ということ
「わたしは羊の門である。」と主イエスが語ってくださるとき、「わたし」には、通るべき門をはっきりと知っている。だから、そこには迷いはない。
ところが、「わたし」は通るべき「門」が主イエスではない場合があるというのだ。
その「門」は、主イエスよりも「前に来たもの」が、「門」を自称する場合の「門」だ。主イエスはその偽りの「門」を「盗人」、「強盗」と呼ぶ。この場合、「わたし」はこの「門」を通ってよいかといえば、良いわけがない。この「門」は、通ってはいけない「門」なのだ。
この偽りの「門」が「わたし」の前にあるとき、「わたし」は、選ばねばならない。
通ってはいけないが、通るか通らないかは、やはり選ばなければならないのだ。
「わたし」には、どちらかを選ぶ権利がある。自己選択権があるのだ。
善の道と悪の道がある。善の道を選ぶべきであることはわかっている。しかし、「わたし」は善の道と悪の道のどちらかを選ぶ権利があるというのだ。
創世記の堕落の物語では、エバもアダムも、神の戒めを守る道と蛇の誘惑に乗って戒めを破る道の両者が、彼らの前にはあった。彼らには自己が行くべき道を選ぶ権利があったのであった。神の戒めを守るべきことはわかっていた。しかし、彼らは神の戒めを破る道を選んだ。
この物語は、自己選択権という権利の恐るべき本質を教えている。
3.悪を選ぶ権利はあるのか
偽りの「門」、すなわち、「盗人」、「強盗」の目的は、「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」。目的は明白だ。
「盗み」、「殺人」、「滅亡」どれもが、「わたし」が願わざるゴールだ。誰もこんな目的地へ行きたいはずはない。しかし、エバもアダムもこの道を選んだ。ゆえにこそ、彼らの末裔の「わたしたち」の世界は、「盗み」、「殺人」、「滅亡」に満ち満ちているではないか。
某国は公然と他国の石油利権を盗むと公言している。ミサイル攻撃で無辜の民が死んでも平気だ。文明全体を滅ぼすとさえ言いきる。こんな世界に誰がした。根源には自己選択権がある。こんなことを決断する為政者を選んだのは、「わたしたち」に他ならない。
人は、悪の道を自由意志によって選択するかもしれない存在なのである。誰しもが願わざる悪の道を、人は選ぶかもしれない存在なのだ。
「自己選択権」は危険な陥穽(落とし穴)なのである。
自分で選ぶということは、自分では選ぶことが本来できない筈のことを、選ぶことができると錯覚することではないのか。
たとえば、わたしたちは、人のものを盗むことができるとか、人を殺すことができるとか、人を貶めて滅ぼすことができるとか・・・・。
偽りの「門」の目的は、このような事が蔓延することだ。けれどもわたしたちには、このような所業を選ぶことは、本当に「わたし」の選択の権利なのかと言えば、そんな権利が許される筈はないではないか。そんなことを選ぶ権利は本来ありえないはずではないのか。
4.羊は彼らの言うことを聞かなかった。
しかし、幸いなるかな主イエスは言われた。
「しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」と。
主はあえて、過去形で、「聞かなかった」と言われた。
そのこと(既に過去の既定の事柄だということ)が示す事は、羊が偽りの「門」を選ぶことはなかったと過去形で語ることにより、その事は、選ぶか選ばないかという選択の事柄ではなく既に決定済みの事柄なのだという意味にとれる。つまり、「選択」の問題ではないという事なのだ。「決定済み」の問題なのだと主は言われたのである。
人類にとって、アダムとエバ以来の「悪の道」は既に過ぎ去った過去のことであり、主イエスによって開闢する人類の新たな歴史においては、人は、悪の道を選ばなかったという決定的地点が既に始まっているというのである。新しいアイオーンが始まっているのだ。
換言すると、人は、善の道を選ぶか悪の道を選ぶかという自己選択権に、惑う必要はもうないということだ。人は、偽りの「門」、悪の道を選ぶ可能性は既に存在しないというのである。
なぜなら「羊すなわち人類」は、主イエスを既に知っているからだというのである。
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(14節)
5.「わたしは羊の門」=神の先行的選び
これは限りなき恵みの宣言である。
〈善の道を進むか悪の道を進むか右往左往する自己選択権という自由の苦悩〉から人は解放されたという解放の宣言だからである。
主イエスによってもたらされたイエス御自身の解放の福音のまえで、人は、ただ主イエスに従うという唯一の道を通る以外の道を選ぶ必要はなくなったのだ。
主イエスという「門」は、「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける、と言われる道である。
主イエスという「門」の前で、人は既に、主イエスという「門」」を知っていると主は言われる。
「人」がすなわち「わたし」が、主イエスを知っているのは、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と言われたとおり、主イエスが「人」を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからに他ならない。
人がイエスを発見するのではなく、主イエスが既に、人を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからこそ、「人」すなわち「わたし」は、主イエスを知っているのだ。
ここに選択肢は存在しない。ただ、神の一方的な選びがあるだけである。
「わたし」が、主イエスを知っているからではなく、主イエスが「わたし」を既に選んで知っていてくださるからこそ、「わたし」は主イエスを知っているのだ。
ゆえに、この主イエスの先行的選びによって、わたしという人間が主イエスの前にたつとき、既にわたしは主イエスに捉えられた者であるがゆえに、主イエスを知っている。
これを神の一方的な恵みといわずにおれようか。
6.雇い人
雇い人もまた何者かを比喩している。
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――(12節)
彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。(13節)
ここで深く立ち入って解釈する必要はない。
主イエスは「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる人」を引き合いに出しているのだ。
辛辣な宗教批判なのである。主イエスは、危機に瀕して逃走する人を引き合いに出して、「羊」のことを心にかけていない事実こそが、「羊飼いと雇い人の違い」だというのである。
羊の世話を委されていながら、心にかけておらず、危機に瀕すれば遁走する無責任な者を揶揄している。
厳しい宗教者批判だ。
主イエスは、どこまでも、個々の具体的な、固有な存在に固着してゆかれる。いつもいつも「一人の人」をみつめておられる。個々の固有な存在を、主はみつめておられる。
羊飼いは一頭一頭の羊の存在をこよなく大切にする。しかし雇い人はそうではない。自分だけが助かることにしか関心がない。
7.この囲いの外に 「囲い」の消滅
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(16節)
主イエスの「一方的な先行的な選び」は、「門」の中、すなわち囲いの中の「羊」たちだけが対象なのではない。囲いは「狼」のような外敵から「羊」を守る防護柵のことだ。「羊」を守るためには「囲い」が必要なのだ。
しかし、主イエスは言われた。この囲いの外にも、「羊」がいる。この「羊」もまた「一方的な先行的な選び」の対象だというのだ。
「囲い」は、防護柵なのだが、ともすると、「壁」に変質しかねない。差別のための自己正当化になりかねない。「壁」の中の人間のみを守り、外の人間を排除し、外敵化する人間の罪がそうさせる。
しかるに、主イエスは,常に「囲い」の外に、「わたしの声を聞きわける羊」に心にかけたもう。人のこころの中に蔓延る「壁」を不断に崩壊させて、遠くへ遠くへと「羊」を捜したもうのだ。主イエスは、「囲い」の中の羊を放置してでも、どこまでもどこまでも「迷える子羊」を捜し求めてゆかれるのだ。
こうして、世界中の羊は、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
この事は実現するとき、容易に「壁」に変質する「囲い」は必要なくなる。
主イエスのこの宣言は、終末論的な希望である。主イエスが神だからこそ言い得た言葉としか思えない。
ここには、世界大の共同体が、「一つの群れ」となるという理想世界実現の確証が語られている。人間の語り得る言葉ではない。神にしか語り得ない。究極的な希望の宣言だ。
8.十字架の死と復活の意志
わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。(17節)
だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(18節)
「わたしは良い羊飼いである」という宣言は、十字架の死と復活の出来事の予告であり、意志表示として理解されなければならない。
実は、人は、死ぬことができない。
人はやむなく死ぬのだが、死ぬことができるから死ぬのではない。人は死ぬことはできないのに死ぬのだ。なぜなら、死ぬ事が出来るのはただ神のみだからである。
神は死ぬことができる。なぜなら、再び生きることができるからである。神はいのちを捨てることができるし、いのちを再び甦らせることもできる。だからこそ、死ぬ事ができるのである。再び生きることができる方のみが死ぬ事ができるのである。
しかるに、人は、地上の生を終えるが、それは死ぬ事ができるという意味ではない。死ぬ事ができないのに、やむなく死なざるを得ないのだ。このやむなき地上の死は「死が支配する」だ。この「死」とは「神と人との関係喪失性」を意味する。神なき事、神喪失性こそが「死」の本質である。
この「死」(神喪失性)はキリストの「死」によって滅ぼされねばならぬ。
「死」(神喪失性)の「死」だ。実に「死」は十字架の死に呑み込まれたのである。
人は、死ぬ事ができる神によって、再び生きるいのちに与って甦る希望によって、死ぬ事ができるようになる。
人は、キリストのいのちに与って甦る希望があるとき、はじめて地上の生の終焉を迎える勇気を与えられるのである。
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(10節)
「死」の「死」、すなわち復活の希望によってこそ、人は死ぬ事ができるのである。キリスト・イエスによって「羊が命を受ける」からである。
主イエスは、明確に、「羊」すなわち「わたし」の「命」(甦りの命)を与えることを、このみことばによって確約されているのである。「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」との宣言は、羊すなわち「わたし」が「いのちを受けるため、しかも豊かに受けるための確証に他ならなかった。
主イエスは、神の独り子なる神として、全人類を「羊飼い」として、永遠のいのちを与えんがため、来られた。
その確証は、全人類にまで及んでいる。
わたしたちは、ただ主イエスの御前で、主に従うだけで、既に主イエスの「門」を通っているのである。
諦めてはならない。主イエスの前に立つとき、「わたし」は既に、主イエスに知られている。
知られている「わたし」は「主イエス」でありたもう「天国の門」を通るべく、主の御声を聴き分けることができる者と変えられている。
救いは、既に確定しているのだ。ここに迷いはない。
2026年4月12日復活節第2主日
ヨハネによる福音書20章19節~31節
『復活顕現』
1.不思議に思う事
甦りの主イエスが、突如として弟子たちの前に出現した。彼らは家の戸に鍵をかけて潜んでいたのだ。
この家の中で、わたしが不思議に思うことがある。
それは、弟子たちの「恐怖心」だ。彼らがユダヤ人たちを恐れていたのはわかる。このことが不思議なのではない。彼らはナザレのイエス、ガリラヤ人の仲間、弟子だというだけで、主イエスを殺害し狂ったように敵愾心をもって捜し回っている敵対者たちが、そら恐ろしかったのだ。この心理状態は、紛れもなく主イエスを裏切ったペトロの心理と同質のものだ。
弟子たちは、主イエスの仲間、弟子だということを隠したいのだ。自分たちも捕縛され、刑罰を受けるかもしれないという恐怖に囚われていたのだ。だから、鍵をかけて誰にも居場所を知られないように、潜んでいたのである。こういう「恐怖心」に、彼らが落ちこんでいるという事情がよく伝わって来る。
彼らは、なるべく別々に行動しないようにしていたのだろう。個別に行動して、敵対者にそのうち誰かが捕まったりしたら、ペトロがイエスを裏切ったように、仲間を裏切らないとも限らない。疑心暗鬼になりたくはないのだ。だから、なるべく一緒にいよう。捕まるときは、一蓮托生だ。みなで捕まろうではないか。そんな自暴自棄にもなっていたもかもしれない。彼らはひたすら怖かったのだ。逃げたかったのだ。
そんな彼らの前に、甦りの主イエスは、瞬時に現れたのである。わたしが「瞬時」だと思うのは、このとき、主イエスは、戸をあけて入ってきたのではなかったからだ。戸をあけて入ってきたのであれば、瞬時とは言えない。戸を開ける動作、歩く動作が必ずあるからだ。動作があれば、そこにはある程度の時間経過があるはずだ。だから、この経過時間があったのであれば、彼らはその経過時間のあいだ、主イエスを見続けていたことになる。
ところが、甦りの主イエスは戸をあけて入ってきたのではなかった。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(19節)
突如として、甦りの主イエスは、彼らの「真ん中」に立って、「シャローム」と言われたとういうのだ。
だから、このイエスの出現は、突然の出来事、瞬時の出来事だと云わねばならない。イエスは鍵がかけられていた家に鍵に触れもせず、戸を開けもせず、「来た」のである。甦りの主が、彼らの真ん中に立って、一見して彼らと少しも変わらない「身体」をもった存在として「来た」。甦りの主イエスが、「甦りの身体」をもった存在として、弟子たちの前に、現にいる。少しも変わらない身体であるのに、鍵をあけず、戸を開けもしないで、瞬時に出現したのであった。
ここに第1の不思議がある。
同じ「身体」であるにもかかわらず、同じ「身体」ではありえない「甦りの身体」として、主は今、ここにおられるのだ。不思議としか云いようがない。
そして、第2の不思議が弟子たちに起きた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(20節)
「恐怖心」でいっぱいだった弟子たちが、甦りの主の「出現」を経験して、「喜んだ」のだ。
「恐怖」から「歓喜」へと変化したのはどういうことか。不思議ではないか。あの怖れは、主イエスと仲間だと思われることが、自分の身を危うくする事から来ていた恐怖心だった筈だ。それがいま、主イエスと会って、イエスの弟子として喜んでいるのだ。恥ずかしくないのかと思ってしまう。あれほど、イエスの仲間だということを恥でもあるかのように、ひた隠ししたペトロと、まったく同じ質の恐れに落ちこんでいた彼らは、いま、イエスを会って喜んでいる。どういう心境の変化なのだろう。彼らは単に、『沈黙』に登場する「キチジロー」のような弱く卑怯な人間にすぎないのか。
2.何かが変わった
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。(22節)
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(23節)
弟子たちの「喜び」には、何かが変わったことの兆しが感じられる。そう考えなければ、この「不思議」さはただの謎に終わるだけだ。弟子たちの人格に、何かが起きたとしか考えられない。さっきまで恐怖に怯えていた彼らと、いま喜んでいる彼らとは、まったく同じ弟子たちではあっても、まったく別の人格が彼らのなかで現れ出てきたとしか考えようがないのだ。
喜んでいる彼らは、もはやさっきまでの小心者たちではない。彼らは、甦りの主イエスに出会って、別人格の存在と、既になってしまっているではないか。
3.派遣の類比
甦りの主イエスは言われた。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。
この言葉には、類比がある。
類比とは何かというと、「~のように」という言葉が意味するものを類比という。
「父なる神が主イエスを遣わしになった。」
父なる神の主イエスの派遣の出来事と「同じように」主イエスが弟子たちをお遣しになる。つまり「父なる神」の「子なる神イエス」の派遣と、「子なる神イエ」の「弟子」の派遣は、この「~ように」という関係の類比となっているのだ。
この類比の関係は、対応関係になっている。
この類比が成り立っているという事は、何を意味しているのか。
弟子たちが主イエスによって派遣されたという事実は、神とイエスの関係に対応している。主イエスの存在と弟子の存在との間には、神とイエスの関係の如き(ような)関係が生起していることになったことを意味するのである。
とんでもない事が起きていたのである。主イエスが弟子たちを派遣したという事実は、弟子たちが主イエスのごとき(ような)存在へと変えられているというのである。何かが変わったと、わたしが感じたのは、このことだ。弟子たちは、聖なる者とされたのである。
4.聖霊を受けよ
聖霊の原語はプニューマという。この言葉は「息」をも意味する。まさに主イエスは、息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたのだが、「息を受けよ」と言っているに等しい。
神の息は、生命を与える。アダムは神の息を吹き入れられて生きる者となった。キリスト・イエスの息を弟子たちは吹き入れられて生きる者となったのである。キリストの生命に生きる者となったのである。
5.聖霊の生命に変えられる「聖化」
このように考えることができると、あの「不思議」は、感嘆に変わる。そうか、それでわかった。あの主イエスを裏切った卑怯なペトロが、どうして殉教をも厭わない聖ペトロに変わったのか。合点がいった。ペトロは昔のペトロではなくなったのだ。聖なる者となったのだ。
主の派遣の命令によって、彼はまったく新しいキリストの生命のごとき生命を生きる者とされたのだ。
わたしが、感じた「不思議」体験は、主イエスのみことばによって氷解した。
6.「不信のトマス」
ディディモと呼ばれるトマス。みなさんよくご存じの「不信のトマス」の出来事が、次に登場します。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 (25節)
トマスは、仲間の証言では、甦りの主イエスの顕現を信じないという懐疑の人であった。彼は自分の認識力を信じて、仲間の証言を手放しで受け入れることを拒否する強い意志の持ち主だったようである。2千年前の古代社会にもこんな慎重な精神の人がいたことには少しく驚きを禁じ得ない。ある意味では、石橋を叩いても渡らないという慎重さは、詐欺やフェイクが横行する現代でも必要な態度とも言えそうである。
彼は他の弟子と同じだとも言える。トマスは他の弟子が先に甦りの主イエスに出会った時に、そこに居合わせなかっただけだ。他の弟子たちは、現に甦りの主イエスに出会っているから、信じるも信じないも現に会っているのだから、信じない事はできない。会っているのに会ったことを信じないとは誰も言えないからだ。でもトマスは、まだ会っていないのだ。条件としては、甦りの主イエスに出会う前の他の弟子と同じなのだ。トマスだって,実際に会ってみれば信じないということは不可能になる。他の弟子と実は条件はまったく同じなのだ。
ただ、トマスだけは、最初の主の顕現の時に,その場に居合わせなかったにすぎないのである。
だから、トマスの不信というのは、少しかわいそうな気がする。他の弟子も条件は同じなのだから。
7.「決して信じない」
トマスだけ単独行動していて、主の顕現の現場に立ち会うことがなかった理由が気になるが、それはさておくとして、彼の「決して信じない」というきっぱりとした断言には、いくぶん寂しさを感じないではない。
自分一人だけ、甦りの主イエスに会わなかったということが、彼の心の傷になったのかもしれない。他の弟子たちだって、受難の死と復活の予告を聞いていたのに、主の言葉を信じられないでいたという点では、トマスと何の差もない。頑なに「決して信じない」と言いきるのは、自分一人、置いてけぼりをくったという痛みから来ているのかもしれないのだ。そう考えてゆくと、トマスには同情できる。
8.信じない者ではなく、信じる者になりなさい。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)
「信じない者ではなく」と主は言われた。まるで、トマスが「決して信じない」と言いきったあの言葉を知っているかのようにである。
ところで、わたしにはこの主のこの言葉からは、深い愛が感じられる。寂しい彼の心のうちをすべて知っていているかのような言葉に聞こえる。
すると、トマスは、即座に答えた。「主よ、わたしの神よ」。
ここで注意すべきは、トマスは手のみ傷に指を当ててもいないし、脇腹に手を差し入れてもいないことだ。
彼は即座に、「主よ、わたしの神よ」と信仰を告白しているのだ。彼は自分の認識力による「確認行為」は何もしていない。彼にとって、そんなことは実はどうでもよかったようにしかみえない。彼はイエスの愛に触れて感動している。自分の手で触り、自分の目でみないうちは決して信じないと言っていたのに、彼は触ってもいないし、目で確かめようともしていない。彼は主に出会った瞬間、信じないではいられない存在へと変えられているのだ
9.見たから信じたのか
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)
主イエスはトマスに、このように語ったが、実はトマスにとって、認識手段による確認などもうどうでもよかった。トマスは見て信じた訳ではないのだ。イエスの愛の言葉に触れて彼は感動して、人生がひっくり返ったのだ。
だから、主のこの言葉は、トマスを「代理」としている背後の存在者である全人類に向けて語っておられたのである。
見ないのに信じる人は幸いだという言葉の意味は、トマスの背後に存在するすべての人を指し示して、言っているのだ。人類は、もう既に甦りの主イエスを肉眼で「見て信じる」ことは不可能となっている時代に生きているからだ。
さらに言えば、現代、目で見ることには、実に多くの虚偽が存在する。もう「見たら信じられる」ことは不可能なのだ。見たように信じる事は危険な時代になっているのだ。実際見るものは疑わしいのだ。
信仰とは、聴くことによる。見て信じる信仰は偽者だ。信仰は、神の言葉を聴くことによって、生起する。
だから、見るのではない。信仰は見ることによっては起こらない。見ないで信ずることが、本当の意味での信仰なのだ。見ないで信じる。それは神の宣教に聴くことによって信じる出来事が、奇跡として生起するということなのである。
ここに、教会の宣教の根拠がある。だから、教会の内部でこそ、甦りの主イエスの言葉を聴くことが、こよなく重要なのである。
10.魂の家の真中に立つ甦りの主イエス
弟子たちが隠れ潜んでいた家は、わたしたちの「魂」を比喩している。甦りの主イエスは、鍵をかけたわたしたちの「魂」の戸を開けずとも、「魂」の真中に顕現されたもうのである。
2026年4月5日(日)(復活日主日)
復活日主日
『キリストの復活』
2026年3月29日 (受難節第6主日)
棕櫚の主日(受難週4月4日まで)
1.時・場の違和感
主イエスの復活を信じられないという人々がいます。 主イエスの同時代、同一の場所で、主イエスの復活を、それぞれの固有な「場」と「時」において、生きた人々がいました。
彼らのなかには主イエスの復活を信じられない人もいたはずです。
「信じられない人々」もいれば、「信じようとしない人々」もいたことでしょう。
そして「信じないではいられない人々」もいました。
復活の「時」、「場」を共有していた固有な生を生きていた人々にとって、主イエスの復活の出来事は、やはり、ほかの「時」「場」と同じ重さでしかない「日常」の一コマだった筈です。
だからこそなのですが、わたしには、とても不思議に思えるのです。
何の変哲もない「日常」だった筈の出来事が、人類にとって、比類のない「時」と「場」であったという事実、これは人類史にとって、「愛敵」という、それまで存在しなかった愛のありようを、人類の各員に贈与したことは紛れもない事実として、この出来事以後の歴史を決定づけているという事実によって証明された事実の決定的な起点という意味での事実となっていた事が、わたしには不思議でならないのです。
これは、奇跡という意外に考えようがないのです。
2.主の十字架を担う「光栄」を賜った「キレネ人シモン」
わたしは、まず、人類にとって決定的な出来事が、当時の人々のあいだでは、「日常」でしかなかった埋もれた経験だけを生きていた人々が圧倒的多数を占めていた他方で、主イエスの十字架の死の直前に、この決定的出来事に、図らずも、強制的に関わらざるを得なかった人がいた事に感謝せざるを得ないのです。主イエスの十字架を背負った人がいたのです。彼の経験は、わたしたちにとって極めて重要な意味を持っているからです。
彼は、「田舎から出て来て通りかかった」にすぎません。まったくの偶然の遭遇でした。たまたま通りかかっただけの彼に、「兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」
神の恩寵は、人間の主観を超越しているのです。
彼の名は、「キレネ人シモン」。
彼には「アレクサンドロとルフォス」という息子がいたようです。息子の名が残されているということは、キリスト者共同体に、彼らが名を残すに値する役割を担っていたのではという推測を可能にするでしょう。
「キレネ人シモン」は、主イエス・キリストのゴルゴタへと続く坂道を、主イエスの十字架を担ぐという光栄を担うことが許された稀有な宿命を神から授かったのです。
彼は自ら願って主の十字架を担いだのではありませんでした。担ぐことを、他者から強要されたのです。
しかし、強要された事が、彼にとって、いや彼以後の全人類にとって大いなる恵みとなったのです。
神の恩寵は主観的な願望を超越しているのです。
3.「痛み」は「神の愛の痛み」に対応する
彼の肩に食い込む十字架の重量がもたらす「痛み」は、主イエスの「痛み」を彼に、否応なしに体験させました。
彼の体を痛めつける激痛は、神の「痛み」を、彼が知る縁(よすが)なったのです。
そして彼の「痛み」は、わたしたちにとって、神の「痛み」を追体験し、知るための、「光栄」として、意味深いものとなるのです。
実に、わたしたちにとって「わたしの痛み以上の神の痛み」・「神の愛の証明」として受けとめ直す契機と変わるのです。「痛み」はこのとき、「十字架の痛みの光栄(反射)」となるのです。
とはいえ、「痛み」は「痛み」です、わたしたちは誰しもが、「痛み」から解放されたいと願うのは当然です。「痛み」なのですから。
主イエスは、わたしたちの「痛みから解放されたい」という願いを無視されたりはしませんでした。
主は言われました。
「重荷を負うている者は、わたしのもとに来なさい。」と言われました。(マタイによる福音書 11章 28節)
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
「痛み」という「重荷」を、主は共に担ってくださっています。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイによる福音書 11章 29節)
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書 11章 30節)
「痛み」「重荷」を、主は、同じ軛を負うてくださっているのです。人生から「重荷」が完全になくなるということではありません。「重荷」を負うことは「責任」を担うということですから、わたしたちは「責任」を負うことで、はじめて意義ある人生を送ることができるのです。わたしどもの信仰は、重荷を放棄する、責任を放棄するということではなく、共に重荷を負うてくださる神と共に生きる信仰なのです。
4.兵士たち
言うまでもなく、このローマ兵たちにとっては、普段と変わらない日常の時間、日常の場所での振る舞いが、マルコ伝には無機質に記録されています。何の感情移入もありません。彼らには、イエスの処刑は、彼らの仕事のなかでの作業にすぎないのです。
彼らは、この人類にとって決定的な出来事に、居合わせながらも、イエスの復活について何も考えず、何も感じない、ただ主イエスを殺すという彼らの仕事に、淡々と従事しているのでした。
彼らにとっては、イエスの着ている衣服を分け合って、自分の取り分とすることだけが関心事でありました。
イエスの腕に釘を打ち込み、足の甲を合わせてやはり釘を十字架の杭に打ち込む作業を、終えると午前9時でした。
5.午前9時
午前9時に、処刑場に集まっていた人々は、野次馬もいたでしょう。嘲笑する者たち、侮辱する者たちでした。朝のこの時間に、わざわざ、忌み嫌われているこの場所へ集まるとは、彼らの、憎悪の関心度合いの激しさがわかります。
罵声、嘲笑、哄笑がその場を支配していたようにみえます。主イエス処刑の「時」と「場」は、まさに現代の縮図そのもののように思われます。
無関心なローマ兵、通りがかりの嘲笑する者たち、侮公衆に聞かせようとばかりに、代わる代わるに律法学者たちや祭司長たちが吐き捨てるように侮辱します。
「他人は救ったのに、自分は救えない。」と。
遠くから婦人たちは見守っていた。またその他にも、イエスについてきた婦人たちが大勢いたとマルコ伝は記録しています。十字架のみもとに、怖くて近寄れなかったのでしょうか。哀しみの嗚咽を彼女たちは呑み込むようにして見守るほかはなかったのです。
6.「他人は救ったのに、自分は救えない。」
「救い」とは何なのでしょうか。ここでイエスが命を永らえることなのでしょうか。主イエスは、人類を救うために命を捨てるために世に来られたのです。イエスは、この十字架につけられて殺されるために、エルサレムまで来られたのです。生きながらえることが目的ならば、エルサレムに来る必要はありませんでした。
殺されることが分かっていながら来たのです。
侮辱する者たちには、イエスを殺す事が最終目的だとことが、彼らの侮辱の言葉に明らかに示されています。
彼らは、イエスがここで死なないことが、彼らにとってが不都合だったから、「自分を救ってみろ」と侮辱できたのです。彼らには、イエスが生き続けることが不都合でした。だから殺すのです。
彼にとって、「メシア(キリスト)」は、生きてこそメシアでした。だから殺さねばならなかった。殺しさえすれば、イエスがメシアではない事が証明される、と彼らは考えていたのです。
キリスト・イエスは、十字架で死なねばならない。このことについて、彼らは完全な無知であったのです。
彼らにとって、イエス殺害こそ、最終目的であり、彼らにとっての最終的解決だったのです。
イエス殺害が最終到達点だったからこそ、「他人は救ったのに、自分は救えない。」という言葉が、「侮辱」になり得たのです。
7.それを見たら、信じてやろう
現代のわたしたちにとって、「それを見たら、信じてやろう」という精神的態度は、実に身近に存在します。
イエスの復活を、「信じられない人々」もいれば、「信じようとしない人々」もいます。
ここで、十字架上で死ぬためにイエスが世に来られたということについて完全な無知な人々は、「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と侮辱しました。
「見たら,信じてやろう」という精神的態度は、はじめから、イエスが生きながらえることが、必要不可欠なはずだという自分自身の勝手な思い込みがあったがゆえにこそ、「十字架から降りてきて、生きながらえることなどどうせできないだろう」と、そう考えたのです。だから、「自分を救えない」という言葉が、彼らにとっては「侮辱」たりえたのです。
イエスは、ここで死なねばならない使命があったことが彼らには理解出来ないのです。
このような精神的態度の人々は、現代においても、多くみられるありふれたものです。
イエスは、生きてこそ使命を果たすべきだった、という訳です。死んで花実が咲くものかという訳です。
「救い」について、根本的に違うのです。
「信じてやろう」式の「ものの考え方」は、そもそも、「絶対信じない」という態度と何も変わるところのないものです。「どうせそんなこは起こらない。やれるものならやってみろ。そうしたら信じてやる」という態度だからです。この態度は、およそ「信じる」という態度ではないからです。「信じてやる」は「決して信じない」と同根なのです。「信じるか信じないか」はこっちが決める、つまり人間が決めるというのです。
およそ、「信仰」の名に値しません。自分を神さまより上に置いているからです。これでは「自分教」です。
ここで主イエスを侮辱している人たちは、自分はイエスより「上」だと思っている人たちなのです。
8.エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。
主イエスの、このみことばをどのように理解したらよいのか、理解に苦しんたことのない人はいないでしょう。
主イエスは、ご自分が、祭司長、律法学者たちから殺されることになっていることを三度にわたって予告してこられました。堂々と十字架の死にむかって歩んでこられました。
それなのに、なぜ、主はこのように叫ばれたのか。
わたしたちは、言葉が首尾一貫して矛盾のないことを
無意識のうちに好む傾向があるのです。ですから、主イエスのみことばも、人間らしく、首尾一貫して矛盾なく理解したいのです。
ところが、この十字架上のイエスの叫びは、死ぬことこそが神への従順であると語ってこられたイエスの言葉と矛盾しているように聞こえるのです。ここにわたしどもの無意識の美意識と齟齬が生じてしまうから、悩むのです。
しかし、実際のところ、言説というものは矛盾だらけの事のほうがはるかに多いのではないでしょうか。
わたしは、この主イエスの叫びを、文字通り、父なる神が子なる神イエスを死へと渡さなければならない神の絶対的な矛盾への子なる神としての父なる神への愛の叫びと受けとめることができると理解します。
十字架の死は、父なる神にとって、神であることを自己放棄するに他ならない絶対矛盾なのです。御子なる神イエスの死は、父なる神にとって、自己自身の死以上の死なのです。そのような父なる神に対して,子なる神イエスはその絶対矛盾をあえて遂行しなければならないこと、すなわちイエスを「捨てる」なければならぬ神に対して、イエスは、「なぜそれほどまでに、しなければならないのですか。」と神の愛の痛みを悲しんで叫んでおられる。「なぜそれほどまでに、人類を愛しておられるのですか。」この「なぜ」」は疑問詞ですが、疑問詞であって疑問詞以上の意味が込められています。
わたしは、あなたの人類への愛を受けとめます。独り子なるわたしを捨てなければならないほどに、あなたは人類を愛されているのですね。わかりました。わたしは、あなたの人類への愛をしっかりと受けとめて、その使命を完遂します。なぜそれほどまで人類を愛されるのですか。なぜそれほどまでにわたしを愛してくださっているんのですか。承知しました。わたしは、あなたの独り子なるわたしを捨てるほどまでに、人類を愛しておられるのですね。わたしは、あなたがそれほどまでに人類を愛しておられることを信じることができていることを、いまここに受けとめることができました。感謝です。
主イエスは、神の愛の痛みを、喜んで受けとめたゆえに、叫ぶことができたのではないか。
だから、この叫びは、嘆きの叫びではなく感謝の叫びなのです。勝利の雄叫びなのです。
主イエスは、殺されること、捨てられることを、感謝の雄叫びをあげるまでに受け入れたもうたのです。殺されること、捨てられることを、感謝して受け入れた人は他にいません。捨てられ、殺されることが、この方にとって「愛」することだったのです。ここに「愛」があります。アーメン
2026年3月22日 〈受難節第5主日〉
弟清水宏明兄は、医師であった父を尊敬し、医師となり、地域医療に尽くしました。東日本大震災後は、ボランティアとして福島に定期的に通い続けました。
3月15日に、69歳で天に召されました。3月19日と20日に、弟との最期の面会の日とし、多くの方の弔問をいただき、遺族一同感謝しました。
葬送の礼拝は、遺族のみの家族葬とし、22日に感謝のうちに執り行いました。
22日は、牧師は遺族のみの家族葬の司式のため、礼拝は「代読礼拝」でした。
〈十字架の勝利〉
マルコ 10:32~45
3月15日(日)〈受難節第4主日〉
〈主の変容〉
マルコによる福音書9章2節~10節
マルコによる福音書9章2節~10節
2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
1.キリストの受難予告後の神の啓示
主イエスは,ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた。その洗礼が真に意味していたものは、洗礼者ヨハネと共に、人類救済の道を開始するという「事」であった。
だからこそ、その時、聖霊が鳩のように降って「見よ、これはわが愛する子、これに聞け」と神は、天から宣言の御声があったのであった。
それゆえ、主は、言葉とふるまいによって、この道、人類救済の道、すなわち、十字架の死と復活という受苦の道を歩んでこられたのである。
主イエスの受苦への道行きは、最初から徹底していた。
しかし、この御受苦を真意を知る者は、一人の例外もなく、誰一人としていなかった。
主は、御自身の御受苦の道行きについて、そのキリストの秘密を、弟子たちには明示された。それが最初の受難予告であったのである。
だからこそ、受難予告の後、六日という象徴的な期間のあとに、主は御受苦の究極的目的点である復活の御姿を弟子たちに御顕されたのであった。
変容のキリストこそが、甦りの主、復活の主イエスの御姿なのである。
ここで、神は、主イエスこそが、独り子なる神であられることを、再び天から宣言された。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)
この神御自身による、「イエスこそが神の独り子なる神であられる」という宣言は、主イエスの御受苦の道行きを、完全な意味で、弟子たちに目撃し得る仕方でお示しになり、その事実を神御自身が認証したことを意味している。
2.モーセとエリヤを知り得たのはなぜか
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。(4節)
キリストの変容を目撃していた証人たち、すなわち「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」の3人が、この経験を後世に伝えたことになっているだから、この記述は、彼らには、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」と、確かに認識したということを意味している筈である。では生きていた時代が異なるエリヤやモーセを彼らは如何にして知り得たのか。特に、ペトロは、感動して「仮小屋」(幕屋)を建てましょうとまでイエスに申し出ているのだから、明確にエリヤとモーセを認識していた筈である。合理的認識論で言えば「謎」と言わねばならない。エリヤやモーセの容貌を弟子たちが知っていた筈はないのに、なぜ分かったのか。知らないのに知ったのはなぜなのか。
この出来事を、人間が人間を認識する方法で、彼らが認識したと考えるならば、どこまでも「謎」のままで終わるであろう。
しかし、ここで彼らが経験した出来事は、神の啓示の出来事である。神がこの出来事を、他ならぬ彼らに経験させた。これは「神の出来事」なのだ。
神の啓示は、人間的認識論では推し量ることができない。
主イエスは、彼らをのみ抜擢して「高い山」へと連れて登られた。高い山は古来タボル山と伝えられてきたが、ヘルモン山かもしれない。もはや特定は困難だ。ただ「高い山」とは神が御自身を顕現する神聖な場所を指す。
主イエスは、啓示の場へと弟子たちを、しかも彼らだけを導いた。この「場」が啓示の「場」となるためであった。
神の出来事であれば、人間的な認識による制限・限界は超越している。神御自身が、弟子たちに、認識の対象を認識すべく認識対象を与え給ふから、彼らには、自分が知らないことを知ることができた。
パウロは、生前のイエスを知らない。知らないにもかかわらず、神は甦りの主イエスをパウロの前に立ち顕された。彼は、「主よ、どなたですか?」と問うている。パウロは、目前に出現している復活の主イエスを、「主よ」として認識していた。神御自身だと、その時既に知っていたのだ。だから、「主よ、あなたはどなたですか?」と問うことができた。彼に復活の主イエスを知らしめたのは神である。神御自身が神御自身を御顕される出来事なのである。
これと同じ事が、ここでも起きていた。
弟子たちには、自分が知らないこと(エリヤやモーセの容貌)を、知らないにもかわわらず、知ることができた。それは神御自身が、信仰の認識を与え給ふたからなのである。
3.モーセとエリヤは主イエスと何を語り合ったのか
マルコによる福音書には、何を語り合ったのかは記されていないが、ルカによる福音書には記されている。
二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。(9章31節)
主イエスが、人類救済という究極的目的点(「エルサレムで遂げようとしておられる最期)について、語り合っていたのだ。ずばり、後受難の道行きについて語り合っていたのである。
二人は、旧約聖書に登場する代表的な人物である。聖書は、「律法と預言書」のことであるが、モーセこそ律法を神から授かったメシア的人物であり、エリヤこそ、預言者マラキが預言したメシア到来の前に出現するとされた預言者の代表である。すなわち、この二人は旧約預言を代表する二人なのである。
この二人は、主イエス・キリストこそが神の独り子であられるメシアであることを、旧約の成就だと証しする者なのである。主イエスが旧約の成就者であることを、二人は証ししているのだ。二人は地上で死を見ることなく天上に挙げられたと信じられていた人物であった。つまり、主イエスは、天上の人として、この二人と語り合うという姿をお示しになったことになるだ。
ペトロが、感動したのは、彼が天上の人、モーセとエリヤと主イエスが天上の世界を垣間見たことによるのではないかと考えられる。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」(5節A)
地上の人にすぎない自分たちの前に、天上の人が居合わせたことに、素直に感動しているのだ。
そこで、彼が地上の人として咄嗟に考えたことは、主イエスの究極的目的点へ向かう御受苦の道行きとは、およそかけ離れた的外れの発想だった。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(5節)
4.仮小屋(幕屋)建立が意味したもの
ペトロは、なんとおこがましくも天上の人三人の語り合いに口をはさむ。素直に感動しているのはいいとしても、口をはさむとはどういうことか。主イエスの御受苦の道行きを、彼は否定するような行為をしたのだ。
口をはさみ、そして仮小屋(幕屋)の建立を提案するのである。
一見すると、信仰深いかのような提案ではあった。仮小屋(幕屋)で、人々がそこへと礼拝することを彼は夢想していたのであろう。現代流に言い換えれば、「教会堂」を建立しましょうというような提案ではないかと考えられる。信仰深い装いをしてはいるが、主イエスの行こうとしている道行きに、教会堂や礼拝所はない。
主イエスは、人類救済の道、十字架の死と復活という道行きをこそ、語り合っていたからだ。
ペトロのこの提案は、主イエスが神の独り子として行こうとされる苦難の道行きを否定し、地上的な「宗教分派の形成へと地に落とすものでしかなかった。
主イエスへの信仰は、「宗教」にすぎない代物では断じてないのである。ペトロには、まだ主イエスの啓示の意味が分かっていなかったのだ。
ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。(6節)
ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。(ルカ9章33節)
ペトロが混乱していると、ルカはやや同情的に記してはいるが、マルコは提案そのものが口からでまかせにすぎないというような印象を与える書き方だ。無責任かつ、軽率な提案だとルカもマルコもみなしている。しかし、ペトロの軽率さも、神の自己顕現に「恐れ」を感じていたことを思えば、「恐れ」ゆえの混乱から生じたものかもしれないと言えなくもない。「弟子たちは非常に恐れていたのである。」
弟子たちの「恐れ」は、彼らが主イエスと二人に、神の顕現を見ていた証左である。弟子たちは神の啓示を経験したのだ。
これらの記述から、弟子の無理解と、それにも拘わらず弟子たちは神の啓示の出来事(主イエスとエリヤとモーセの会見)を経験したことは明らかである。
5.雲の中から声がした
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)
「雲」は神顕現の表象である。雲が弟子たちを覆うたことは、神顕現の経験が視覚・聴覚だけの認識ではなくて、身体全体を包み込むものであったことを意味するだろう。いわば神御自身の内部的な世界に、弟子たちは誘われたのだ。彼らは身体全体で、神を感じたはずだ。
彼らは、雲のなかで、雲のなかから聞こえてくる神の声をの振動を、体全体で感じたであろう。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声は、イエスが宣教の開始にあたってヨハネからバプテスマを受けた時に、天から聞こえたあの声だ。
そうだ。宣教の開始の時に神が主イエスを我が独り子として認証した神の言葉だ。
そして、今、受難予告という天国の秘密を弟子たちに語ったいま、御受苦の道行きを、まごうかたなく、すなわち間違えようのない程明確にお示しになったいま、再び、天の父なる神は、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と主イエスを我が独り子なる神と認証されたのである。
6.ただイエスだけが
弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。(8節)
身体的な神顕現のただなかでの経験のあと、突如として、エリヤもモーセも、そしておそらく雲も、消えてしまう。さて、弟子たちは、地上的な現実へと引き戻されたのだ。彼らは、主イエスと共に、旅を続行する時へと戻されたのだ。弟子たちと主イエスの時間が再び戻ってきた。
6.主の福音宣教の禁止命令ふたたび
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。(9節)
受難予告の時、「あなたはメシアです」と言ったペトロに超弩弓の福音宣教の禁止命令の叱責をされたけれども、あの時と、この時は同じメシア秘密の意味あいが異なっている。この度は、「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限があるからだ。主の受難の極みに至るまでの禁止命令なのである。
さらにもう一点異なるのは、「今見たこと」を「だれにも話してはいけない」という命令だということだ。
ペトロの叱責のときは、浅薄な人の言葉による宣教の禁止命令だったが、主の変容の経験の場合は、経験した事柄そのものを誰にも話すなと言う命令である。
今度の禁止命令は、弟子たちの浅はかさ故の禁止命令ではない。神の啓示の出来事は客観的事実だから、弟子たちの信仰の問題ではない。そこが決定的に異なる。
この禁止命令が、「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限がついていることに、禁止命令の目的が隠されているだろう。
彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。(10節)
弟子たちが 「死者の復活」について論じ合っているのは、彼には、主イエスの受難予告をいまだ真に理解することができずいることを示している。神の顕現の啓示を身体全体で聴いた弟子たちでさえ、主イエスの究極的目的点である十字架の死と復活の意味をいまだ理解できないでいるのだ。まして人々に理解できることは不可能だということは自明であった。
それゆえに、主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは」と語られたのだ。現実として、主イエスが、弟子たちの目の前に,出現するという出来事が生起して初めて、弟子たちは、受難予告の真実の意味を悟ることができるのである。主イエスは、その現実を、いまここで、あらかじめ完全に熟知していたのだ。
いまここで、彼らが経験した出来事は、「復活の日」にはじめて弟子たち自身のなかで、彼らをイエスの本当の弟子に生まれ変わらせることを、主イエスは知っていたのだ。
7.エリヤ再来預言論争
そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。(11節)
イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。(12節)
しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(13節)
エリヤ再来の預言はマラキ書にある。だからメシアが到来する前には、エリヤが来なければならない。主イエスは、既に来たと語られた。マルコによる福音書には、弟子たちは、洗礼者ヨハネがエリヤだと悟ったと記している。
そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(マルコによる福音書17章13節)
「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」(マルコによる福音書17章12節B)
主イエスは、エリヤの再来たるヨハネは「彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらった」として、御自身の命運と同じだということを明白に語ったのであった。
これらの記述から、主イエスと洗礼者ヨハネは、ともに、苦難の僕(イザヤ53章)として、「人々から苦しめられることになる」命運であったことがわかる。
原始キリスト教会において、エリヤが洗礼者ヨハネであり、イエスの苦難においても先駆者であったことが、重要な信仰内容であったことは、これらの記述からも伺い知ることができるであろう。
8.わたしたちの信仰との関係
この「キリストの変容」の出来事の記録が、わたしたちの信仰にとって、どのような意義があるのか。考察したい。
最も重要な信仰的事柄は、イエス・キリストが、「神の独り子なる神」であるという神の宣明(declaration)である。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)
これによって、人間が神となったという主張は完全に否定されるのである。これは旧統一協会や新天地をはじめとする、「自称再臨のキリス」はすべて、偽り者であることを、神御自身が完全に宣明していることを、わたしたちは知る。
そして、イエス・キリストは、人類の罪からの解放のために、「受難予告」の通り、十字架の死と復活を成し遂げられ得るお方であることを、わたしたちは知る。
「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてある。」(12節)
主イエスは、死ぬためにこの世に来られたのである。このことを否定する者は、すべては偽り者なのである。
第三に、人類救済のこの苦難の道行きは、旧約預言の成就者として、洗礼者ヨハネとナザレのイエスが、共働的に歩まれた道であったことである。
洗礼者ヨハネは、エリヤの再来だったことは、イエス御自身が明言しているからだ。ヨハネ自身の自己意識に、たとえ揺らぎがあってとしても、神の独り子が明言している以上は、ヨハネはエリヤなのである。
そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(マタイによる福音書17章13節)
それゆえ、わたしたちの信仰道程、すなわちわたしたちの地上での全生涯は、主イエスの道行きを慕い、辿る道であるから、わたしたちの魂の視線の焦点は、主イエスの十字架の死と復活であることを知る。
朝起きて目覚める。今日も地上の生活を送ることが許されていることを、神に感謝する。
食事をいただくとき、身体を支える肉の糧を得ること以上に、神の言葉という霊の糧を魂にいただくことを感謝する。
歩くとき、主イエス・キリストの苦難の道行きを想い、感謝する。
人を愛する刻、主イエス・キリストがわたしのために十字架上で死んでくださった事を感謝する。そして、わたしも人を愛する刻、苦難を引き受ける愛を主イエスから恵みとして与えられていることを感謝する。
眠りにつく時、神は御自身をお示しになられる事を感謝する。主はわたしたちの魂が眠っていても、わたしたちと共におられるのだ。
ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。(ルカによる福音書9章32節)
わたしたちは、この限りない恩寵のなかに生きている。この確実な保証を神は、この出来事で与えてくださったのである。ただ感謝の他はない。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 (7節)
2026年3月8日(日)(受難節第3主日)
『受難の予告』
『受難の予告』
マルコによる福音書8章27節~33節
ペトロ、信仰を言い表す
(マタ16:13―20、ルカ9:18―21)
27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
イエス、死と復活を予告する
(マタ16:21―28、ルカ9:22―27)
31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
1.主イエスの最初の質問
主イエスは、弟子たちに問いかけた。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。
イエスが知らないはずはない。イエスと弟子は行動を共にしている。弟子たちが知り得る情報は、イエスも同じ環境の中にいるのだから、弟子の耳に入る事ぐらいイエスの耳に届く。イエスは所謂世評を聴きたい訳でもない。イエスが村々で行っていることは誰の目にも明らかだ。そのことで人々は驚き、ある者は、イエスを崇拝しだし、ある者は、いぶかしいと怪しむ。敵視する者も現れるほど評判になっていたことは衆知の事実だった。
人々は、洗礼者ヨハネの生まれ変わりのように感じる者もいあれば、預言者エリヤの再来だと思ったりもする。それぞれが勝手な想像をめぐらしていた。それくらいのことは、奇跡実行の当事者が知らぬはずはないのだ。
だから、イエスは知っていて、あえて弟子に問うたのだが、その意図は何か。それが問題だ。
2.イエスの2番目の質問
次に、イエスは弟子たち自身が師であるイエスをどのように思っているかを問うた。
この問いもまた、イエスが知らないから問うているという事ではない。弟子はイエスに現に従ってきているのだ。イエスを信じているから行動を常に共にしているのだ。それに、弟子たちはイエスから直接召命を受けたり、師である洗礼者ヨハネが、「世の罪をとりのぞく神の子羊だ」と証言したからこそ、イエスの弟子になったのだ。彼らは、直弟子と言ってもよいのだから、イエスが「誰であるか」を知って従ってきていることは自明だ。あらためて、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問うのは、いったいどういうことか。その意図は何か。それが問題だ。
3.知りつつ問いかける意図とは何か。
たたみかけるようにして、イエスはご自身を、第1番目には世評。2番目には、直弟子たちの認識を、知っているにもかかわらず問いただした。
その意図は何か。
世評もペトロも、それぞれが、自分が信ずる「イエス像」をイエスに投影している。それはそれぞれがイエスに、自分自身が思い思いに、「自分が信ずるイエス」を、イエスに、映しだしているという意味だ。自分自身のイエス像は、期待であったり、願いであったり、理想であったり、人それぞれだ。共通しているのは、現実のイエスという人自身ではないということだ。
なるほど、さすがに第一弟子のペトロは「メシアです」と、きっぱり言いきっている。それは今日、わたしたちが信仰告白する信仰の対象である主イエス・キリストかというと、そうではない。
ペトロは、十字架上で殺され、三日目に甦り、天に昇られたイエスをいまだ知らない。
また、これから彼は死刑判決を受けるイエスを「知らない」と鶏が三度鳴く前に、シラをきったりもすることになる。
ペトロが「メシアです」と言っている事の内容は、その程度の認識にすぎない。「メシアです」と言いながら、自分自身の考える「メシア像」をイエスに押しつけているだけなのだ。だから、自己が描くメシア像と現実のイエスが矛盾すると、イエスを裏切る。裏切ったつもりはないが、実際裏切っている。自分が信じたイエスと違うので、自分が裏切られたとさえ思う。御門違いも甚だしい。自分が裏切っているのに、裏切りをイエスになすりつける。
4.メシア秘密
イエスは、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」ご自身をどのように言うのかという問いに、「メシアです」と応えたペトロに向かって、同時に居合わせた弟子たちに向かってだが、ご自分のことを「誰にも話さないようにと戒められた。
イエスが「メシア」すなわち、「キリスト」であることは、真実である。真実なのに、なぜ、イエスは誰にも話さないようにと戒められたのかと、疑問に思うかもしれない。福音書はなぜ、このような謎めいたイエスの言葉を残したのか。
真実を伝えるということは難しい。人の語る言葉は、神について語り得ない。わたし自身、聖書のみことばを語りつごうとしているけれでも、語る先から語り得ない困難を痛切に思わずにおれない。
イエスが神であるということを、「イエスは神です」と語れば、語ったことになるのかと言えば、それは、やはり「人の語ることば」という限界があると言わねばならない。
ペトロが、「メシアです」と応えた答えは、まったく正しい。まったく正しいが、正しいけれども、やはり「ペトロという人のことば」という限界があるから、正しい事柄を語ったところで、語られた「事柄」そのものの真実が伝わるということを意味してはいないのだ。
主イエスは、正しく福音を語ることの不可能性を知っていた。ペトロが、「イエスはメシアです」と福音を人に伝えたとしても、真実な事柄は伝わらない。
それどころか、ペトロ自身も真実な事柄を知らないのだ。知らない者に福音が伝えられることはない。
ゆえに、イエスは福音を、ここで伝えることを封印されたのである。『イエスはキリストなり』これは紛れもない福音だ。しかし、ここで主は、この福音を語る事を禁じたもうた。それは、ここで福音を語ることが福音を伝えることにならないからだ。
5.受難の予告
イエスは、ここでご自身の究極的目的を、はじめてお示しになった。
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(31節)
主は、人々には譬えをもって語られたが、弟子たちには、神の国の秘密を語ると言われていたが、いまこそ、秘義が語られたのだ。
しかし、ペトロには理解できない。彼には、イエスの語る秘密が理解できないのだ。彼には、彼自身の「メシア像」がある。イエスが受難するなどと、彼には到底受け入れがたいことだったのだろう。なんと彼は師にむかって「いさめ始めた」のだ。彼にはイエスがメシア=キリストであるという事柄の秘義が、何も分かっていない。
6.振り返って弟子たちを見ながら
主イエスは、このまるでイエスのことを理解していないペトロを最大級の,超弩弓の叱責を与えたもうた。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(33節)
ペトロの「メシア像」「メシア期待」の正体が、面と向かって暴露される。ここでイエスは苛酷なまでに非情だ。弟子に向かって「サタン,引き下がれ」と叱ったのだ。今日外見だけ見て、「パワハラ」だと非難されかねない強烈な叱責だ。しかし、主イエスがペトロを憎んで叱責しているのではない事は、明らかである。強い叱責は,強く叱責しなければならない必然があることを、知らねばならない。
イエスは、「振り返って弟子たちを見ながら」と振る舞った。この所作から、イエスがペトロだけに、事柄を伝えようとしているのではなく、弟子たち全員に伝えようとしていることがわかる。
また「振り返って」という所作には、ペトロの身の程をわきまえない「諫め」を無視して、一息ついてから、叱責を叱責として、これから大切な事柄を君たち全員に伝えるという主イエスの「構え」がうかがえる。
ペトロは弟子たちを代表しているのだ。最も先輩格のペトロだからこそ、イエスは厳しく諭しているのだ。
ペトロの「メシア期待」は、人間的動機であった。「メシア期待」は、期待である以上は,人間的願望・欲望を源泉としている。根本動機が、そもそも不純なのだ。
それは神を信じるているということではないのだ。人間の事を思っているということは、すなわち神のことを思ってはいないことを意味していると、主イエスはきっぱりと明言されたのである。
7.群衆を弟子たちと共に呼び寄せて
弟子たちを叱責し、不純な宗教的願望を捨てて、神さまに起源する動機へと集中させようとされたイエスは、今度は、語りの対象を「群衆と弟子」へと変更された。
弟子たちだけでなく群衆へと向かわれたということは、ここで語られる事柄は、全人類にむかって、普遍的な戒めとして語られた事柄だということを意味する。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
(34節)
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。(35節)
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(36節)
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(37節)
神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 (38節)
8.福音の真実を伝えること
福音を伝えることは、ただ人の言葉の次元で語り伝えるということによっては不可能だ。そのような饒舌をイエスは禁じられた。
福音は、主イエスに現実として従うことによって伝える他はない。主イエスに従うことなのだ。「信従」なのだ。
「自分を捨て」ということは、宗教的願望に起源する利己的なメシア期待、「信仰のようなもの」を捨てよということだ。
「自分の十字架を背負って」ということは」、十字架の主に従う道を、主と共に歩むときに、自ずから己が十字架が何であるかが明確となるだろう。神と人を愛するなら、人は苦難を選ぶからだ。
「自分の命を救いたいと思う者」とは、永遠の生命を信じることができずに、自己一身の延命を隣人の生命よりも願う者だろう。そのような利己的人間は永遠の生命を見失う。
主イエスのため、また福音のため自分の命を失う者とは、地上の生命への拘泥を相対化し、永遠の生命を信じる者であろう。永遠の生命とはイエス・キリストを信じる事に他ならない。
「永遠の生命」の価値は、全世界の価値と比較する事をすら絶している。
9.主イエスの恥とならないために
審判は必ずある。最後の審判の時がやがて来る。それだけではなく、いま・ここに,リアルに審判はある。
心から恥ずかしいと思う事が、突如として心に去来することは、誰にでもあるだろうと思う。その時こそ、いま・ここでの審判なのだと考える。
その瞬間、神は、わたし自身の恥ずべきことを、示してくださっている。それは神の御前で、悔い改める機会を神が与えて下さっているのだと、わたしは考える。
この機会は、悔い改めのチャンスなのである。主の来臨のときに、主イエスの恥となることのなきように、神は、いま・ここで悔い改め、新たに生き直す再出発の時なのだ。
主イエスのみことばを、日々、繰り返し心に思い、主を偲びつつ生きることで、日々新たに生き直し生きるなら、終わりのとき、主もわたしを恥としないでくださると信じる。
受難の主と、今週も,日々新たに、生き直して生きたいと、祈る。
2026年3月1日 (受難節第2主日)
マルコによる福音書3章20節~27節
『ベルゼブル論争 負の共感力』
1.集まった人々
ここで語られている人々は弟子たちを除くと三者に分かれる。
最初に描かれるのは、群衆だ。イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来ていたとある群衆だ。この人々はどのような人々であったのか。ある人は病気を癒してほしいと必死な思いで家を出てきたのかもしれない。またある人は家族や友人のためにイエスにすがろうと来たのかもしれない。いずれもがイエスに助けを求めていたに相違ない人々だ。
次には、イエスの身内の人々だ。家族や親族なのだろうが固有名はわからない。兄弟、弟妹や親戚の叔父叔母(伯父伯母)かもしれない。彼らはイエスを「取り押さえに来た」とある。穏やかではない。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
彼らが来た理由は、一言で言えば「世間体」を気にしているということだ。主イエスがどうして「気が変になっている」と言われたのかは詳細はわからない。
だいいち、イエスの言葉や振る舞いに、世間に迷惑をかけるような異常なものがあったとは思われない。人の病を癒し、汚れた霊を追放したり、障害を負った人々の障害を取り除いたりしてきたことが、迷惑行為だと言われるいわれはないのだ。
それでも、「気が変になっている」との世評が身内の人々に、このような過激な行動に移らせたのは、イエスの言葉と振る舞いをよく思わない一定数の人々がいたからであろう。
身内の人々は、その圧力に屈していたのだ。「世間様に申し訳ない」とでもいうことであろうか。「一族の恥さらしだ」というところか。彼らにはイエスに対する愛情よりもイエスの存在がもたらす世評の圧力への同調のほうが大事だったということだ。この身内には、イエスの立場を弁護したり、かばったりする者はいない。だから、この同調圧力に屈した身内の背後には、ここには言及されてはないイエスへの敵対者が存在する。
イエスの人々への癒しの業を、精神異常者の行為だと決めつけることも、その悪意に屈する隷属的な精神の貧困さも、このイエスへの暴力的な襲撃という形として実を結んでいる。そうなのだ。まさにこれは親族のイエス襲撃の事件なのである。
3番目に登場するのは、はるばるわざわざエルサレムから下ってきた律法学者たちだ。彼らの言い分も行動も尋常さを欠く。
「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。(22節)
2.内輪もめの譬え
身内の襲撃にも、イエスは動じない。それどころかこの三様の人々を「呼び寄せて」いる。そこで語られたのが所謂「ベルゼブル論争」である。
これは、公言だ。宣言と言い換えてもよい。イエスはこの譬えで、「内輪もめ」がもたらすものは、崩壊・滅亡でしかないと宣言したのである。
公言であるが、この比喩が指し示してものは聴く者が、何処に立っているかという立ち位置によって意味が大きく変容する。それだけ、この譬えは意味深長なのだ。
まず、イエスは、「内輪もめ」という事態・事柄を望んではいない。イエスの究極的目的は「和解」だからである。
崩壊・滅亡・内紛ではなく、平和・成長・和解だ。この目的からひもとかねばならない。
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
「内輪もめ」すれば、すなわちサタン同士が相争えば、自滅すると主は断言される。ゆえにサタンがサタンを追い出すことは不可能だというのである。だから、律法学者たちの言い分は成り立たないというのだ。国家も家庭も「内輪もめ」すれば崩壊するほかはない。それはサタンとても同じだなのだ。
イエスによれば、人間もサタンも、その点では変わるところはない、というのがイエスの論理だ。
だから、イエスと律法学者たちとの間も、イエスと身内の人々との間も、中傷や襲撃という形となって現出しているけれども、つまり、外見的には、ユダヤ教内の「内輪もめ」とか、家庭内の「内輪もめ」のようにみえているけれども、主イエスの究極的目的たるみ旨(十字架の死と復活)から見返してみるならば、「内輪もめ」なのでは決してない。
そうではなく、神と人との「和解」と、人と人との「和解」こそが、「内輪もめの譬え」によって、指し示されているのだ。つまり「内輪もめ」は滅びへの道だが、現実に生起しているイエスの言葉と振る舞いは、滅びどころか「和解」への道だというのである。
人は譬えの外形に拘泥していては、本質を見誤る。現実に起こっていることを忘れてはならない。主イエスは、現実として悪霊・サタンを追放しているのだ。この現実から寸分も離れてはいけない。サタンはサタンを追い出すことはできない。そんなことをしたらサタンが自滅するだけだ。だから律法学者たちの言い分は破綻している。
3.律法学者たちの論理
彼らの言い分は二つだ。一つは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」というもので、悪霊の頭ベルゼブルがイエスの「力」の真の主体者だという理屈だ。第2は、イエスは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」というもので、イエスの「力」は「悪霊の頭」によるものだと言う理屈である。この理屈は、イエスの「力」の真の主体者はベルゼブルであり、その「力」は悪霊の頭ベルゼブルの「力」だというものである。
この理屈とイエスの論理との違いは、イエスのほうがサタンはサタンを追放することは不可能、自滅するからとしている。
それに対して、律法学者たちはサタンはサタンでも他のサタンを追放する力をもつ頭級のサタンならば、追放できるという前提だ。サタンにも序列があるという訳だ。 なるほど、そう来るかという理屈は彼らなりに筋が通っている。
しかし、見落としてはならないのは、この理屈の盲点は、悪霊を追放する具体的な「力」を、彼らは単にそのように解釈しているにすぎないという点である。彼らは彼らの都合で、勝手に、「決めつけ」ているにすぎない。イエスが現実に、悪霊追放の奇跡を行っている事実を、律法学者たちは勝手に悪霊の頭ベルゼブルの所業だと解釈をあてはめているだけなのだ。
言うまでもないが、ただ「決めつけ」るだけなら、容易な事だ。容易でないのは、現実に悪霊を追放する事のほうだ。
律法学者たちはただ自己都合で勝手な解釈、レッテルをはるだけだが、イエスは現実を動かしている。この差は無限だ。
解釈する方はいかようにでも解釈可能だが、現実に奇跡を起こすことは、現実の「力」が働いているからこそ起きている。この力を律法学者たちは「悪霊の頭ベルゼブル」と言って、イエスを「ベルゼブルに取り憑かれている」と、「追放」しようとしているのだ。
ここで気付く事は、まさに律法学者たちは、イエスという「悪霊の頭ベルゼブルに取り憑かれた」男を、ユダヤ教社会から「追放」(悪霊追放)しようしていることだ。つまり、彼らこそ、「悪霊追放」しようとしている当事者だということだ。
律法学者たちはイエスを排除しようとしている。その論理はイエスが「悪霊の頭ベルゼブルに取り憑かれた男」だからとういう訳である。
イエスは、「悪霊追放」の奇跡を、個人に対して行っただけではない。この論争の舞台そのものが、イエスを悪霊と決めつけて排除・追放しようという律法学者たちの中傷・攻撃・襲撃だったのだ。
4.「悪霊」の正体
イエスは、ご自身が「悪霊」と同一視され、排除・追放・攻撃の対象とされているベルゼブル論争という舞台において、真の悪霊の正体とは何なのかという真理を明らかにされた。
悪霊の正体は、単なる解釈とか決めつけによるレッテルなのではない。そうではなく、人間の内奥に隠れ潜んでいる魔物としての「共感力」なのだということであった。
律法学者たちは何故に、イエスを悪霊とレッテルをはるのか。「気が変になっている」と身内を追い込んだ世評を、人はなぜ声高に語るのか。身内は現実に生きている生身のイエスをかばうでもなく、弁護など思いもよらず、暴力をもって襲撃さえする。何故なのか。それは彼らには、当時のユダヤ教社会の無言の圧力、言い換えれば社会に波風をたてずに平穏無事に過ごしてきたところに、主イエスが具体的・現実的な奇跡を行い続けることへの恐れと不安があった。理解できない事柄に対する動揺が社会の同質性を揺らがせているという漠然たる違和感が、共同体の紐帯を脅かしていると感じていた。それを喚起したのは、「共感する力」だ。漠然たる不安が「共感力」によって、異質な分子への根拠のない嫌悪、排除する力へと醸成されてしまう。この曖昧な差別感情が排除の論理を作り出す。決めつけがはじまる。そしてその決めつけは確信にまで増幅される。
人々は、元来は根拠のない決めつけを負の共感力によって強化させてゆく。彼らは神への愛、ユダヤ共同体への愛着という正義の大義によって着飾られた「確信」 に満ちて、異分子の排除を正義と信じこんで、この舞台では、イエスを排除にかかったのだ。
主イエスはご自分みずからが、具体的・現実的に神の力をもって「悪霊追放」を数限りなく行ってきた。そのことの偉大さゆえに、「負の共感力」に翻弄された人々は、熱狂的に、イエスの御業が偉大なるがゆえに、「悪霊の頭ベルゼブル」とレッテルをはって襲撃したのである。
5.受難の主
だから、人のなかに隠れ潜むもの、人を思いやることもできれば、人を憎むこともいとわない、負の「共感力」というべき魔物のような性質を、主イエスは暗々裡に、真の悪霊だと気づかせようと、「内輪もめの譬え」を語られた。しかしイエスの究極的目的は平和であり、和解である。「内輪もめ」すれば滅ぶ他はないのだ。だから神は、徹底して攻撃され、襲撃されることを決して避けることなく引き受けたもうことによって、「内輪もめ」なのではなく、和解と平和をもたらそうと、受難の道を歩まれた。「内輪もめ」など起きてはいないのだ。主イエスは徹して襲撃されていることをやめない。それは「内輪もめ」ではないからだ。主イエスは、徹して襲撃されることによって、実は戦っておられたのだ。
6.略奪の譬え
主の闘いとは何か。それは、完全に「強い人」を縛り上げることである。
これは「略奪の譬え」だ。
主の闘いは、人間内部に隠れ潜む魔物をコントロールすること他ならない。この魔物は、人間に利他的な、慈悲深い行動を促す原動力ともなるものだ。紛れもなく神が人に与えた「よいもの」だ。
しかし、この魔物は、暴走する。思考停止を引き起こす。ときに愛国心という美名に名を変えて、敵を作り出し、人の道を踏み越えてしまうのだ。
主イエスの闘いは、この強い人=魔物=共感する力を、人をして制御する知恵を、人に与えたもう。
家財道具は、人の魂の内面世界の比喩であろう。主は、人を魔物の手から守るために、魔物を制御すべきことを、この譬えでお示しなった。
われら人間は、主イエスによって内面に潜む「強い人=共感力」を縛られてこそ、自分自身の共感力という魔物を、正しく制御することができる。
主よ、どうぞわたしたちの内面に隠れ住む魔物のような力を正しく用いて、これを人と神を愛する道具となさしめてください 主の御名により祈ります。
2026年2月22日 (受難節第1主日)
マルコによる福音書1章12節~15節
『荒野の誘惑』
『荒野の誘惑』
マルコによる福音書1章12節~15節
マルコによる福音書 1章
12 それから、〝霊〟はイエスを荒れ野に送り出した。
13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
1. 一筋の道
この時代はローマ帝国の属州だったユダヤ社会だった。主イエスが宣教を開始したことは、はるかローマにまで届いていたかもしれない。事実イエスの処刑についてはタキツスもヨセフスも記録している。大工の息子にすぎない一人の青年の活動が、大帝国の歴史家にも知られていたことは、それ自体が驚愕に値する。それだけイエスの宣教運動が広範囲で、多くの民衆を動員していたという証左でもあろう。
ただし、主イエスご自身は、多大の影響力をもつことを目的としていた訳ではなかった。イエスの言葉と振る舞いが非常に大きな影響力をもったことは、結果であるとはいえ、イエスの目的ではなかった。イエスは群衆と境界線を常に引いて、一定の距離を置いておられたからだ。
すなわち、主イエスの宣教は、ひとえに父なる神がご自身に託された人類救済という使命に向かって一筋の道を歩んでおられたのである。
2.贖いへの道
主イエスは、宣教のはじめから終わりまで、ただひたすら一筋の道を歩まれた。寸分の狂いもない目的にむかっておられた。それはすなわち、罪の贖いのための十字架への道であった。
主が宣教を開始されるにあたり、霊に導かれるまま、荒野へと向かわれたことは、この受難の道行きの全行程を通じてご自身が受けとめられるあらゆる試練、誘惑のすべての本質な核となるべき事柄を明らかにするためであった。
3.神が与えたもうた「荒野の試練・誘惑」
父なる神は、聖霊なる神として、この試練・誘惑を、独り子なる神主イエスに対して与えたのである。
直接的には「サタン」が誘惑者として、登場するが、サタンをして、試練・誘惑をなすことを許しておられるのは、父なる神・聖霊なる神ご自身なのだ。
「それから、〝霊〟はイエスを荒れ野に送り出した。」(12節)という聖句は、「霊」(聖霊さま)が荒野へと主イエスを送り出したというのであるから、荒野の試練・誘惑を与えているのは、神だということなのだ。なぜなら、この試練・誘惑は、人類救済の贖いの道において、主イエスに降り懸かる苦難を苦難たらしめる事柄だからである。
4.主イエスの御受難は単に苦しみなのではない
荒野の試練・誘惑は、ただ苦しいということ、辛いという痛みを意味してはいない。たしかに主の歩まれる苦難の道行きは人間的な意味では、辛く苦しい痛みの連続であるには違いない。しかし、この神の痛みは贖いの核となる事柄ではない。
神の痛みは人間の痛みとは違う。
人間が侵してはならない事柄を、主イエスは御自ら受けたもうて、信仰の勝利を人間にお示しになられるためにこそ、痛まれる。そして、主が勝利された現実がわれら人間の信仰の勝利を確実に保障してくださるのである。
われら人間は主を仰ぎ見て、サタンの試練・誘惑を退けることができるのだ。
5.主イエスの痛み
主イエスの痛みは神の痛みだ。
主は四十日間断食をされた。カトリック教会では、主の断食にならい、四旬節のあいだ節制に努めるという。プロテスタントではあまり聴いたことはないが、制度として採りいれるかどうかは別として、主イエスと時を共に過ごすことによって身体的な感受性を高めるという意味で、よい祈りの方法だと思う。
しかし、主イエスの痛みは、われら人間とは違う。主にとって空腹は痛みではない。空腹は空腹だ。からだの限界まで食を断つ。食を断つことで、神への祈りに集中する。主にとっては断食は祈りに集中する方法だった。腹を満たしたいという命令を脳が発するとき、その命令より先に、神の御心を思い願うのだ。神がどれほど人類を愛したもうておられるか。ひたすら神の愛を感得することを願う祈りにこころの舵を取るのだ。
そして、父なる神の愛を、主はご自身の愛としてもわれら人類に向けたもうのである。
このとき、愛は痛みに変わる。主イエスには、見えるからだ。
人類は飢えをしのぐために、どれだけ土地を奪いあってきたか。飢えをしのぐめに、どれだけ隣人を殺してきたか。どれだけ欺いてきたか。
主イエスには人類すべて飢えによる罪業がすべて見えるのだ。これら際限のない罪業が、神のみこころをどれほど痛めつけているか、独り子なる主イエスには、痛みとして同時にうけたもうがゆえに、痛まれるのだ。
ご自身の飢えゆえの痛みではない。人間の罪業を悲しみ、痛まれる父なる神の痛みを子として痛まずにおれないのだ。
6.父なる神の痛みをご自身に引き受けたもう独り子なる神の愛
独り子なる神・主イエスは、人類の罪業を悲しみ心痛まれる父なる神の痛みをご自身のものとして引き受け、人類の罪業の報酬たる永遠の刑罰をご自身に課したもうのである。
人類がこの無限の罪業の刑罰を受けなければならないとすれば、人類は永遠の刑罰ゆえに、永遠の滅び、滅び続ける滅びへと審判されざるをえない。人類を創造して、「よし」とされた神にとってこれほどの痛みはない。父なる神は人類が滅びることを決して望んではおられない。滅ぶのではなく永生してほしいと願っておられることは明らかなのだ。主イエスはこの神の愛、神の願いを、ただお一人でお引き受けたもう。人類が受ければただ滅びへと墜ちるほかなき罪業を、ご自身の命の代償を支払って、ご自身が死に給ふ道を行かれるのである。
だから、この道は苦難の道なのである。人類の罪業をご自身に引き寄せて一身に引き受けたもう道なのである。
荒野の試練・誘惑は、ゆえに、人類の罪業の本質をなす核となる事柄を明らかにする内容をなしているのである。
第1に、人はパンのみにて生きるのではない。神の口からでる一言一言の言葉によって生きるのだ。人はパンの奪いあいではなく神が人を愛したように互いに愛し合い、与えあって生きるのだ。
第2に、人は神に、おのれの願望達成の手段を求めてはならない。神は人の道具ではないのだ。神を道具化することは神を己の欲望達成のために試みることになる。
第3は、人は自分で描く理想によって世界を支配してはならない。それはおのれを神とする事に他ならないからだ。それはサタンと取り引きするに等しい。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』。 アーメン
2026年2月15日(日)(降誕節第8主日)
『奇跡を行うキリスト』
マルコによる福音書4章35節~41節
『奇跡を行うキリスト』
マルコによる福音書4章35節~41節
35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
1.「向こう岸に渡ろう」
象徴的な、主イエスの言葉である。
仏教には、彼岸という言葉がある。対する言葉は此岸である。
対岸は、仏教では涅槃だという。
「彼岸へ渡ろう」と言い換えれば、イエスの言葉の意味は想像が広がるだろう。涅槃は楽園になる。
しかし、涅槃と楽園とでは、大きな違いがある。
涅槃は「悟りに至るための越えるべき渇愛や煩悩の例えである川の向こう岸」であるが、他方「楽園」は、神の恵みによって招じ入れられる世界である。涅槃は、人が越えるべき「渇愛や煩悩」の向こう岸であるが、楽園は、神が人を招き入れる向こう岸だ。人の「悟り」と神による「救い」の違いと言ってもいいかもしれない。「自力」と「他力」と言い換えられるかもしれない。
2.「群衆を後に残し」
群衆は、言うなれば見捨てられたという見方もできる。群衆はイエスの一行についてきた人々の群れである。余暇のあいまに物見遊山に来ているのではない。それぞれが意を決して犠牲を払ってでもイエスに期待を寄せてここまでついてきた。真剣だったはずだ。
彼らは岸に置いておかれ、イエスの一行が舟に乗って遠ざかってゆくのを、どのような思いで見ていたであろうか。見捨てられたという思いをもったとしてもなんら不思議ではない。
その意味で「向こう岸へ渡ろう」と言われた主イエスの言葉は、彼岸への号令であったけれども、その号令には、群衆を置き去りするという人情を断ち切る非情さがあったと見ることができよう。
号令に従って、イエスを舟に乗せた弟子たちも非情だ。群衆がどれだけ、イエスを慕い、期待してついてきたか、彼らは身近に知っていたであろう。しかし、彼らは非情なイエスに従順に従うだけだ。
3.この非情さは
信仰の世界は不可解なところがある。ここに見られるイエスの号令に暗示される非情さも不可解だ。神の愛を説くイエスの非情さは不可解だ。癒していただきたいとの一心な思いでついてきた群衆を置き去りにする。どのように理解したらよいのか。
わたしはこの非情さが神の独り子としての愛から起源するものだと考える。愛には「境界線」がある。
群衆の一心さ、一途さの根底には「依存心」がある。依存心は、人格の成長を妨げてしまう力がある。主イエスは群衆をご自身に依存させようとはされなかった。主イエスは神の愛によって、人格を解放し、成長を促すことを願っておられたのだ。
当時の人々にとって、病も障害も罪の結果だと考えられていた。癒されることは、すなわち罪からの解放を意味していた。しかし、主イエスは病も障害も、罪の結果なのではないと、人々の癒しを行いながら宣言し、実現されていた。たとえ病であるとか障害であるとか、人がそのことで苦しんでいたとしても、それは罪のせいではない。神の栄光が顕れんがためだと諭された。病や障害を癒すことで、人々に依存心を起こすことのないように、距離を置かれていた。
ここで、「彼岸への号令」をかけられた主イエスの行為は、群衆が依存心に固執することのないように、距離を置くためであった。人々はイエスに見棄てられたと思うかもしれない。しかしそれこそが依存心の現れなのだ。主イエスは、人々に、病も障害も、罪の結果なのではなく、神の業が我が身に顕れている現実をまっすぐに見つめ直す猶予を与えているのである。
信仰は、人格の成長を意味する。人格の成長は、自分自身をまっすぐに見つめ直し、幸も不幸も正しく受けとめ、生き直す力だ。
主イエスは、群衆にその機会を与えている。ご自身と人々のあいだに、心情を交わし合うことが愛なのではない。神と人とを的確に愛する方法を身に着けることを促されているのである。
4.激しい突風が起こり舟は波をかぶって、水浸しに
湖とはいえ、激しい突風によって転覆や破船が起こらないとは言えなかったようだ。弟子たちは主イエスに向かって救助(?)を求めている。
イエスは艫のほうで眠っていた。
嵐の中でのゆうゆうと眠るイエスの姿には、神の権能が顕れているが、弟子たちには、そうは見えていなかったようだ。
助けを求めているようでもあるが、窮状を訴えているようにも見える。嵐のなかで、弟子たちが今にも遭難するような状況なのに、それにも拘わらず眠っていることへの非難にも見える。おそらくそれらのどれもが混じった気持ちだったのだろう。
40節の「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とのみことばは、嵐を鎮めたあとの言葉とされているけれども、わたしには、このときの言葉のほうが相応しいように思える。弟子たちは、暴風のなかでゆうゆうと眠っておられる主イエスをみて、その姿に神の権能を見なければならなかった。それなのに、イエスの姿を見て、むしろイエスを非難しているからだ。
38節が弟子たちの非難をよく示している。「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。」
これはおかしなことを言うものだ。弟子たちだけが溺れ死ぬかのような言い草である。舟が遭難すれば溺死の危険性は、乗船している全員にあるはずだ。そうであればまっさきに自分たちの師である主イエスのことを心配してもよさそうなものなのに、自分たちの危険だけを訴えている。もうこれで弟子不合格だろう。
5.「激しい突風」「水浸しの船内」が象徴するもの
嵐を静めるイエスの姿は、ただ自然を統べ治める権能者としての神性を顕すという出来事にとどまらない。たしかにここで主イエスは神の全能性を明確に示された。この出来事を人間の想像の産物に落とし込む人も多くいることであろうが、わたしには、それこそが知的怠慢ではないかと思うのだ。
この出来事が虚構ではないことは、わたしには自明に思われるのだ。この出来事には、弟子たちという当事者が存在する。弟子たちの固有名は省かれている。古代教会の礼拝のなかで、マルコの記述に結実するまでに史実として伝承されてきた時間がある。その時間はそれほど長くはない。長くはないその歴史時間に、弟子たちの不信仰な言葉を含めての伝承が伝承され続けてきたことを考えると、核となる出来事がまったくの人の想像の産物であったことはおよそ考えられない。しかもその時代は、迫害がもっとも激しい時代だったはずである。
信仰するだけで生命の危険がある時代に、誰かの想像の産物を命がけで信じ伝えてゆくことに、誰がかけたであろうか。わたしにはあり得ないと考える他はない。
そうなのだ。この出来事の伝承を教会が礼拝ごとに暗唱し、繰り返し伝え続けた時代こそ、信仰者たちが時代の「嵐」のなかに放り投げ込まれていた時代だった。マルコは、その嵐の中のキリスト者共同体そのものが、この出来事のなかでの水浸しの船内そのものと,共時的に体感していたのだ。彼は、幾人もの兄弟姉妹が処刑されてゆく時代状況のなかで、全能者として堂々たるイエスを、畏敬の念をもって想起していたに相違ないのだ。
そして現代のわたしたちもまた、時代の暴風にさらされている。パレスチナで、ウクライナで、ミャンマーで、神の子たちが、殺されつづけているからだ。
この世に生をうけたすべての人は、神の子だ。信ずる宗教とかイデオロギーとか、そのような表層的なもので人を分かち、隔てることは主イエスの願いではない。ムスリムであろうと、ブッデイストであろうと、コミュニストであろうと、神の創られた神の子なのだ。
神の子たちが、今も嵐の中で命の危険にさらされ続けている。
7.起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」
主は起き上がる。風を叱る。この行為は激しくわたしたちを鼓舞してやまない。神はわたしたちの困難な世界で、起き上がってくださるというのだ。そして、吹き荒れる脅威の世界に対して叱ってくださるというのだ。
私たちは、主イエスの起き上がってくださるときを待ち望んでいる。主を起き上がってくださいと。主よ世界を脅かす脅威を叱り飛ばしてくださいと。願わずにおれません。
わたしたちは、あの出来事を体験した弟子たちのように恐れたりはしません。むしろあなたの恐るべき力を待望します。
世界の、いま起きている嵐をしずめてください。あなたならおできになるのですから、みこころならばお願いします。もしそれがみこころでないのなら、この世界の脅威に立ち向かう誠実さを私たち人類にお与えください。
2026年2月8日(日)(降誕節第7主日)
マルコによる福音書2章1節~12節
『いやすキリスト』
『いやすキリスト』
マルコによる福音書2章1節~12節
1.数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2.大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
3.四人の男が中風の人を運んで来た。
4.しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
5.イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
6.ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
7.「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
8.イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
9.中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
11.「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
12.その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
1.信仰心がないような人から感じる恐さ
最近、年齢のせいなのかどうかわかりませんが、神さまへの信仰心がないなあという感じがする人と接すると、心にダメージを受けるというか、しばらく心が痛めつけられたような感覚に陥るのです。
本人は、人を傷つけているつもりは、おそらくまったくないと自分では思っていると思います。けれど、信仰心について、ほとんど関心もなければ、場合によっては見下しているような感じが、そのことばづかい、その表情からにじみ出てくるものが、痛いのです。
こんなことでは伝道などできないなあ、と思うのですが、たぶん伝道という事柄は、そういう痛みを受けとめて、逆に主イエスの愛をもって愛し返してゆくことなのだろうと、意を決して歩き出さないといけない。そんなことを考えている今日この頃です。
2.主イエスの愛の道は痛みの道
苦難の道行きをされる主イエスは、ご自分に従ってきている「大勢の人たち」がやがては、主イエスを十字架につけ殺してしまう人たちのなかに紛れ込み、結果として主イエスを見殺しにする、裏切るということを熟知しながら、この「大勢の人」たちをみつめておられたのだと思うと、主のこころの痛みがなんだか、いっそう伝わってくるような気がします。
肌感覚で、痛くなります。
主イエスの苦難の道行きは愛する痛みの道なのだと実感します。
愛するということは痛むことなのだということが、主イエスから感じられてくるのです。
3.四人の男が中風の人を運んで来た。
「四人の男が中風の人を運んで来た。」しばし、この四人の男tたちに思いをはせよう。
四人の男たちは集まった。友人であろう中風の人をイエスのもとへ連れてゆこうと、お互いに思いをひとつにしたのだ。
彼らにも暮らしがある。仕事もあれば家庭もあったかもしれない。けれども、彼らは友人のためになんとかしたいと思い立ったのだ。一人が他のひとりに話した。そしてもう一人にもさらにもう一人にも話した。あの方のところへ彼を連れて行けば癒していただけるのではないか。四人の考えは、主イエスなら友人を癒してくださるという期待・願いで一つにまとまった。それで、彼らは普段通りの暮らしを中断することにした。仕事を休もう。他の用事もいったん棚上げにとすることにしよう。
彼らには、中風の友人のため、彼らの暮らしを中断するという小さな犠牲を払うことになんの躊躇いもなかった。
これくらいの犠牲はなんともないさ。大切な友人が癒されるならば、そんな嬉しいことはないからと。彼らは行動を共にした。
中風の友人は嬉しかったに違いない。みんなありがとう。わたしのためにそこまでしてくれるんだね。有り難う。
4.道を阻まれて
他にも、イエスの噂を聴き知って、カファルナウムに、再び帰ってくれたイエスなら、数々の癒やしの奇跡をされたあの方ならきっと癒していただけると期待した人は大勢いた。
大勢の人が集まったために、戸口の辺りまですきまもないほどになった。皆が癒していただきたいという期待・願いでいっぱいいっぱいだった。われ先にとすし詰め状態になっていた。
とても中風の人を連れて戸口のところまで行けそうにない。道をゆずってくれる人もいなかった。道は阻まれていたのである。
5.われ先にと道を阻む「信仰」は真の信仰か
他人に道をゆずらないこの熱心さは、自分の期待・願いを他人のそれに優先させるという熱心さだ。我先の熱心さだ。
ほかの誰よりもわたしはあなたを慕っています。ほかの誰よりも、わたしはあなたを信じていますから、癒してください・・・。
こういう「われ先にの信仰」は、主イエスに真実従う道ではないことは、こうして説明すると、誰の目にも明らかである。
こういう信仰観は、実績主義なのである。競走主義なのである。信仰を量と考えているのである。自分の信仰の量を競い合っている。「実績なき信仰はない」という考えなのだ。こういう考えは,自分がどれだけ大きな信仰を、つまり量的に大きな信仰をもって、一歩でも先に、他人を押しのけてでも先に、神に近づくことが「信仰の勝利」だという考えなのである。
この考えは、神との関係を自分が決めるという考えとなって実を結ぶ。つまり神が自分を救うのではなく、救う神を自分が決めるのである。自分が先に近づけば神は自分を救わねばならないという考えに落ちて行くのだ。そういう神は、自分の思いのままの神だということになる。それでは本当の神ではない。
5.屋根をはがして穴をあけ
四人の男たちのこの大胆な共同行動は、一見するとあまりにも豪胆な方法に見えます。大胆すぎます。屋根をはがして穴をあけるとは、なんという迷惑な行為であろう。この家の家人は、イエスに泊まる場所を提供したばかりに、家を壊されてしまったのです。家人の反応は聖書には記されていないが、この光景を観ていた家人は、さぞかし驚いたことであろう。そして怒ったのではないか。イエスに宿を提供することには、こんな被害もあるものだと覚悟のうえならともかく、はじめての経験だとしたら、やはり当惑しないほうがおかしい。
6.イエスはその人たちの信仰を見て
ところが主イエスは、そんな家人の当惑をよそに、この大胆不敵な無謀な共同行動をやってしまった男たち四人を見て、連れられてきた中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのでした。
ここで気づくことは、主イエスが見たその信仰とは、四人の男たちを見てとマルコは書いているのであって、中風の人の信仰を見たとは書いていないことです。
主イエスの見ている先には、あの四人の男たちの大胆な共同行動があった。そこに主イエスは「信仰」を見たのです。
主イエスは、家人からすれば迷惑行為とも言えるような大胆不敵な四人の共同行動に「信仰」を見ておられたということです。
傍目からみれば、迷惑行為ともなるようなこの傍若無人な共同行動を、主イエスはあきらかに「信仰」の発露を見ておられた。
「大勢の人々」「群衆」の「われ先にの信仰」とは違った、真実な信仰が、彼らの共同行動にはあると、主は見ていたもう。
それは、どういうことなのであるか。
7.聖霊が起こしたもう「切迫」が人を動かす
四人の男たちは、思い立った。あの方ならば中風の友人を癒すことがおできになる。この思いには,不純な動機が微塵もない。ひとかけらの打算もない。友人との交わり・絆には純粋に友情以外の何ものもなかった。そしてこの思いは、一人ではなかった。四人が殆ど同時に語り合い一つとなって、それぞれの事情を克服し、犠牲を惜しまずに、ためらうことなく即座に、共同の共同を起こしている。
そして、群衆に行く手を阻まれても、くさることもなく、即座に大胆かつ迅速な共同行動にもためらいがなかった。
その決断は、素早くかつ大胆だった。ここに緊急事態にこそ、彼らのなかに働いている動機が、聖霊が生起せしめる切迫感にみちた「促迫であったことが、主イエスには見えていたのだ。
彼らを突き動かしているのは、神である。聖霊なのであると、主イエスには見えていた。
彼らには人間的諸事情を乗り越えるべき「時」には、即座に決断しなければならない事があり得るということは、当然のことのように感じられていたに相違ない。
その決断は、瞬間の決断なのだということを彼らは感じていたのだ。『塩狩峠』の長野政雄さんは、今この瞬間しかない。今自分の体で列車をとめなれば、次の瞬間ではもう遅いのだ。そういう瞬間に自分の体を犠牲にするという決断を一瞬でくだした。
その瞬間は、神が促した聖霊による「促迫」ではないかと、わたしは考えている。
四人の男たちのこの瞬時の決断も、聖霊による「促迫」だったのだ。主イエスは、彼らの信仰が神の恵みに促されていることを見たのだ。
8.「子よ、あなたの罪は赦される」
主イエスは、四人の男たちに向かってではなく、中風の人に罪の赦しの宣言をされた。
この出来事が教えていることは、「信仰」の共同性である。
四人の男たちの罪を主イエスは問題にされてはいない。罪の赦しは中風の人にむかってなされている。
あの四人の男たちは自分の足でイエスのもとに来られるからだ。
しかし、主がこの四人の男たちの信仰を見て、とあるのだから、彼らの信仰と中風の友人の罪の赦しは、明らかに関係しているはずである。四人の男たちの信仰と中風の友人の罪の赦し。両者の関係はいかなるものか。
信仰は個人のものだと、言われて育ってきましたが、ここに示されているのは、信仰はただ個人のものではないということであろう。
信仰には、共同性がある。中風の友人には、イエスのもとに来るだけの身体的条件がない。自力では歩いてこれないのだ。彼がイエスのもとに来るには、どうしてもあの四人の男たちの共同行動(信仰)が必要だった。あの四人の男たちの信仰は、中風の友人をイエスのもとに連れて来くることができた。この協働の行動が、両者をイエスのもとに連れてきたと言ってよいのだ。だから、四人の男たちの信仰は中風の友人の罪の赦しの宣言に直結しているのである。
具体的に考えてみよう。
足の不自由な人を教会に連れて来ることは、連れて来る人と連れて来られる人の協働の信仰だというべきだということである。
連れて来る人にとっても、連れて来られる人にとっても、両者の協働の信仰が、ここで罪の赦しとして,主イエスによって宣言されているということなのである。
9.そこに律法学者が数人座っていて、心の中で
7.「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
律法学者も神を信じている。そしてイエスが神の独り子なる神ではなくて、ただの人にすぎないのであれば、律法学者の考えは正しい。神以外に罪を赦すことはできない。正論だ。
ところが、主イエスはただの人でない。神の独り子である。そのことを律法学者は知らない。知らないのだから、仕方がないと言えばそうだ。彼らにとってイエスはただの人にすぎないのだから。
しかし、主イエスにとって、律法学者のこの「無知」は、聞き捨てならないことであった。
イエスは強い口調であっただろう。詰問する。
8.イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
9.中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
主イエスはなぜ?と問われた。
ここに表出しているのはきわめて鋭い裁きである。
主イエスがなされる御業、しるし、所謂奇跡は、人間の力によるものではないことは、律法学者とて認めざるをえなかったほどに、驚愕と衝撃をカファルナウムの人々に与えてきたからである。律法学者も知らないわけがない。第1、彼らがここに居合わせる事事態が、イエスのなしたもう行為が神の力によっていることを認めていたからに他ならないはずだ。
ところが、彼らは奇跡を目撃・経験しても、そして驚き、神の御業と認めていても、彼らはなお、かたくなにイエスが神の人であることを完全には受け入れてはいなかった。それゆえ、心の中で、「神を冒涜している」等と思ってしまったのだ。
それに対してイエスは、「なぜ?そんな考えを心に抱くのか」と厳しい裁きを下される。
神の奇跡を目の当たりにしてもなお、心が塞がれている。神の人を神として受け入れようとしない。主イエスは、彼らの心のなかの呟きを痛いほど感じておられたであろう。十字架上の槍のように主イエスに突き刺さってきたに相違ない。
10.地上で罪を赦す権威
10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
槍のようにイエスに突き刺さる不信仰の言葉は、十字架の痛み同様に、主イエスを苦しめていたのではないか。すでに、もう主イエスは、十字架への道を苦しみ痛みつつ歩まれている。
律法学者の槍のような言葉に耐えながら、主はなおも信仰について、重要な事柄を開示された。
神の御業は、単に意味表示するにすぎない言葉と、神の力が現実に働いている言葉との区別である。
主イエスの言葉は無論後者である。しかし人の言葉は前者にすぎない。前者は信仰がなくても語る事ができる。無神論者でも同じ言葉を語ることができる。しかしそこには神の力が働いてはいない。
主イエスが、あなたの罪は赦されると言われれば、現実に赦されるのだ。主イエスが「起きて、床を担いで歩け」と言われれば、現実に起きて歩きだすのである。
信仰なしにでも言える言葉は語るに易しい。しかし実際に、起きて、歩きだすようになる神の言葉は神の力なくては語ることはできない。
だから、主イエスは、ここで、みをもって、実際に神の力によって語られたことを、お示しになられたのだ。
10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
11.「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
12.その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。
主は現実に神の力をもって、中風の人を起き上がらせた。主イエスが語る言葉が、神の独り子なる神の言葉であることが、ここで実際に証明されたのである。これは、律法学者たちの不信仰が律法学者自身にとっても明らかなることであったはずあった。
11.人々は主イエスに神を見ることができたのか
人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
この神の御業を目撃し、経験した人々は、ここでも驚愕した。
「このようなことは、今まで見たことがない」と驚愕しているのだ。しかし、この驚愕は、はたして主イエスのうちに神の力が働いていると完全に受け入れることを意味したのだろうか疑問が残る。人々はイエスに神が働いていることを完全に信じたのか。「神を讃美した」と結ばれていることが気にかかる。
人々は、たしかにこのしるしをみて神の力を実感したはずだ。だから神を讃美した。しかし、神を讃美したが、彼らは、その神の力が主イエスの言葉に宿っていると本当に実感したのであろうか。イエスを神の人だと、ここで信じたのだろうか。
神を讃美はしたが、主イエスを神の子の権能をお持ちの方だと信じたのか。もしかすると、中風の人を癒やしたのは神の業だと認めつつも、
イエスを神の人だとは区別して、いまだ完全には受け入れなかったのではないか。
いくばくかの疑問が残るのである。驚愕しかつ神を讃美した群衆は、主イエスをやがて殺す側に豹変してゆく。主イエスはこの讃美を痛みと感じたのではないかと、わたしは懸念しているのだ。
2026年2月1日 (降誕節第6主日)
『教えるキリスト』
マルコによる福音書4章1節~9節
『教えるキリスト』
マルコによる福音書4章1節~9節
4
1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
1.おびただしい群衆の動機の真面目さと危うさ
主イエスは町々で数多くの奇跡を行い,人々は驚嘆し、生業を放棄してまでして、イエスの一行に従ってきたことが窺わせる記述である。
しかし、われわれは既に、マタイ11章で主イエスが、「悔い改め」という実を結ばない町々を叱ったという事実を知っている。
イエスのあとを追って集まって来た「おびただしい群衆」は、イエスにつき従ってはいても、この人々もまた、イエスの叱責を受けた人々なのである。
この群衆は、エルサレムまでついていった人々もいたであろう。そうではなくて、途中で家に戻った者もいたかもしれない。それでも、この「おびただしい群衆」が、イエスに、彼らなりに真剣に、真面目に、信じてついてきたことは間違いない。彼らの真剣さ、真面目さは疑いの余地がないのだ。彼らは彼らとして純粋な動機でイエスについてきているのである。
しかし、これまで黙想してきたように、彼らは主イエスから叱責の対象でもあった事も厳然たる事実であった。
イエスが行ってきた「奇跡」(ユダヤ教でいう「しるし」)を直接目撃し、経験したことによって引き起こされた衝撃や、驚愕が彼らを、イエスにつき従うという行動へと向かわせたことは間違いない。
しかしながら、奇跡の目撃・経験がイエスへの追従を引き起こしたとしても、それがただちに、主イエスへの真正な信仰告白であったかと言えば、必ずしもそうではなかった。その「事柄」が、主イエスの「叱責」によって明らかとなっていた。彼らの動機・彼らの追従は、主イエスの十字架の死の極みにおいて、実に鮮明に「裏切り」へと変わる。イエスの追従者が、イエスを殺す側へと、変貌したのだ。
2.舟に乗って腰を下ろした湖上のイエス
イメージとして思い描いてみますと、「おびただしい群衆」と主イエスとの間には、「湖上」と「湖畔」」という隔たりがある光景が浮かび上がる。
この隔たりは、主イエスが群衆との間に設定したものと考えられる。主イエスは、追従する人々から、しばしばみずから距離をとられたからだ。一人祈りに山に向かわれたこともあった。ここでも、主イエスは群衆から、あえて距離をとって舟に乗られたと見るべきだろう。
湖上から、湖畔の群衆に向かって、「種まきの譬え」を語り始められた。
3.「種まきの譬え」
この譬えは、「種」は神の言葉、直接には主イエスの言葉を指し示す。神の言葉を聴いた者が、はたして真実な信仰告白に至るのかどうか、至らずに終わる者の三様を3番目の譬えまでで示し、最後の4番目の譬えが真実な信仰告白をした者として、祝福するという譬えだとして知られる。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」
「種を蒔く人」は、究極的には主イエスのことだ。主イエスが神の言葉を宣教したという譬えの文言だ。神の言葉の宣教は、神の使命として、イエスは言葉と行為という形で宣教されたと、神の主体的な人への関わりが確認される。
4.「蒔いている間に、落ちた」
しかしながら、種蒔きという主体的なイエスの行為が強調されているの、最初の三者三様は、すべて「蒔いている間に、落ちた」と書かれている。このことから、これらの場合は、「蒔いた」のではなく、すべて主体的な宣教の対象としてではなく、「蒔いている間に、落ちた」という偶発的な出来事にすぎないことが対照的に浮かび上がる。
すなわち、最初の三者三様の場合は、そもそも宣教の対象として選ばれていないという偶発的な「場合」だということが暗示されているのだ。「落ちた」という言葉にそれがよく表されている。「蒔いている間に、落ちた」のであって、その地に最初から、そこをめがけて種を蒔こうとしたのではないということなのである。
5.三者三様の地に、「落ちた」
(1)「道端に落ち」
→「鳥が来て食べてしまった。」
(2)「石だらけで土の少ない所に落ち」
→「そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」
(3)「茨の中に落ちた」
→「すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」
①「道端に落ち」た種は「鳥が来て食べてしまった。」という譬えは、「サタンが来て神の言葉を奪い取ってしまう」ことを意味している。神の言葉が奪い取られる者だというのだ。この場合、その地には「種」は消滅する。
②「石だらけで土の少ない所に落ちた」場合は、「そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」という。この場合は「神の言葉を聴いて、すぐに受け入れるが「根」がない。だから艱難や迫害が起こるとすぐにつまづいてしまう」者だというのである。
土地そのものが石だらけで土がないから根を地中深くはることができない。これは御言葉を継続して受け続けるという神の言葉を不断に、繰り返し学び、その学びを継続するという意思が問題となっている。根付かない場合とは、継続して神の言葉を聞き続ける意思がない者の譬えとなっているだ。
③「茨の中に落ちた」種は神の言葉が成長してゆくために必要な「光」がとどかないために、「すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」という譬えだ。
「この世の思い煩いや富みの誘惑が心に入り込み、御言葉をふさいで実らない」という意味である。
「茨」が、「光」を遮るというのである。「茨」は「この世の思い煩いや富みの誘惑」だというのである。
つまり、人間の欲望こそが、神の言葉の成長を阻害する「茨」だというのだ。
6.「良い土地に落ちた」種
4番目の「種」も「落ちた」となっているが、この「落ちた」の意味は、3番目までのあの三者三様の場合とはわけが違う。種は発芽し、根をはり、実を実らせる。この種は「よい地」に「落ちた」のである。種を蒔く人が種を蒔くという目的に一致している地なのである。目的を達成する地なのだ。この地は、そもそも目的の地なのであり、種はその地に偶然こぼれ落ちたのではない。まさに意図・目的をもって「蒔いた」のである。決して偶然こぼれ「落ちた」のではない。目的の地に「蒔いた」。「落ちた」とマルコは最初の三者と同じように、記したが、「落ちた」のでない。あくまでも「蒔いた」。
あえて同じ「落ちた」と記したのはなぜか。
選ばれていない地と選ばれた地が、あえて同一の「落ちた」で示されたことが意味する者は何であるか。
7.①消滅、②枯死、③徒花(あだばな)
三者三様の選ばれなかった地の比喩には、主イエスの宣教を聴く人々の、神の言葉に対して向き合う態度という現実が背景にあるだろう。いずれもが、主イエスへの「信従という実」を結ばない態度が反映しているのだ。これまでの群衆の魂の態度のことである。
そして、「これまでの態度」の反映だけではない。「これからの態度」の行く末についての将来の予言の比喩でもある。むしろ、将来の態度(「これからの態度」)の予言としての比喩のほうが、重要なのだ。
なぜなら、この三者三様の①消滅、②枯死、③徒花(あだばな)とでもいうような精神的態度は、これからの主イエスの苦難の道行きにおいて、イエスを苦難へと追いつめるのは、これらの精神的態度(霊の動き)だからである。この霊的動きこそ、イエスを十字架に追いやるのである。
8.選ばれなかった地の人々の選びは?
通例は、この選ばれなかった地のような精神的態度を反面教師として、このような者にならないように、自省し、選ばれた地として、神の言葉をみずからのうちで「芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなる」ようにしましょうという具合に、警句でもあり奨励でもあるような理解をする。
それはそれでよい。確かに自省のための警句として充分な比喩であり、奨励としてみずからの信仰(精神的態度)を鼓舞する比喩として受けとめてよいとは思う。
ただ、「それでは、選ばれなかった地でしかなかった人々、『おびただしい群衆』の命運はどうなってしまうのか」という必然的な問いが胸に去来することを、われわれは、禁じ得ない。
イエスを十字架に追いやった「おびただしい群衆」の命運はどうなってしまうというのか。
通常読み込まれなかった行間から生起する問いかけ、これがこの比喩が、本日われわれにとっての最重要事なのである。
三者三様の、いずれもが、「不信仰」に終わる人々、これらの人々に「救い」はあるのか。
神は、イエスは、救われざる人々を放置し、「滅び」へと落としてしまうのか。神は愛の神であれるのではないか。そうであれば、この不信仰な人々を見棄てたもうのか。
棄却された人の命運は愛の神の対象となり得るのか。「救いと」と「滅び」を人間的にわけて、ひたすら「救われるように」と鼓舞するだけが、この比喩の意図するものなのか。
これはキリスト信仰にとって、きわめて根源的な問いであろう。
9.神学的な「問い」と「答え」
愛の神は、救われない人々を永遠の滅びへと棄却するのか。それを「神の愛の愛」と主は言われるのか。
この「問い」は人類にとって最重要な「問い」のひとつだろう、とわたしは思う。
「永遠の滅び」への恐怖を煽り立てることで、選択肢をなくし、一定方向へと導くことが神の愛なのか。
「愛」と「棄却される人の命運を定める神の行為」は相容れない矛盾に見える。単純な三段論法では、愛の神と永遠の滅びへと定める行為は、結びつかない。
「永遠の滅び」、「救われない人々の命運」を神は本当に望まれるのか。論理的には結びつかないではないか。
この根源的「問い」の「答え」は、主イエスがなぜ十字架の死を死なねばならなかったのかにかかっている。
なぜ神は人なりたもうたのか。
なぜ神の子が死なねばならなかったのか。
なぜ神の子は殺されるために宣教したのか。
なぜ神の子は甦られたのか。
なぜ神の子は天に昇られたのか。
なぜ主イエスは、「不信仰な人々」に殺されなければならなかったのか。「答え」は、神の子主イエスは、この「不信仰な人々」の救いのために、殺されなければならなかった。「神の愛」は「不信仰な人々」を救うために、「不信仰な人々」によって殺されなければならなかった。神の愛は、そのままでは「永遠の滅び」へと定められねばならない人々を救うために、独り子なる神の子を犠牲の羊、贖いとされたのである。この贖罪によって、「永遠の滅び」が永遠に滅ぼされることを神は望んでおられる。ここに神の愛がある。「滅びの滅び」である。
神は愛の方である。おびただしい群衆の「不信仰」を滅ぼし、人々を救うために御子を遣わされたのだ。
すべての人は罪人である。神のこの愛により、罪人にして、義人とされるのである。「義人にして罪人」なのだ。
2026年1月25日(日)(降誕節第5主日)
マルコによる福音書1章21節~28節
『宣教の開始』
『宣教の開始』
マルコによる福音書1章21節~28節
21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
1.カファルナウムという町
イエスは故郷ナザレではなく、カファルナウムという町を「わたしの町」と呼んでいた。ここでペトロをはじめとした弟子たちを呼び出した。ペトロの家もみつかっている。イエスはペトロの家に滞在していたかもしれない。この町でイエスは多くの奇跡を行った。本日は、この町の会堂での出来事である。
2.安息日に会堂に入って
会堂、それはユダヤ教のシナゴーグと呼ばれる会堂である。主イエスは、ここ会堂で聴衆を得ている。このことは、主イエスがユダヤ教社会のなかで、福音宣教を開始されたことを意味する。堂々と会堂に、しかも安息日に「教え始められた」のである。聴衆は、すべてユダヤ教徒だ。聴衆であるユダヤ教徒は、イエスを、「教え」を説く者として受け入れていたのである。
安息日は、律法学者たちが教えを説く場となっていた。聴衆、会衆は礼拝をしに集まっていたのだから、イエスが教えを語り始めたときには、会衆は律法の解釈を語るものだとばかり思っていたはずではないかと考えられる。はじめから、驚くべき教えを語ることを期待していた筈はない。
会衆は、いつものように律法のすぐれた解釈を,静かに聴こうと待機していたに違いない。イエスは、彼らにとってはラビとしては新顔だけれども、あくまでユダヤ教のラビとして受け入れていたと考えるべきだろう。
3.人々の驚き
ところが、会衆がこの新顔の青年の口から語られた「教え」を聴いたとき、彼らは「非常に驚いた」のであった。その理由は、彼らが聴いた言葉は、どうみても「人に見える」この青年の語る言葉は、人の口から語られたものとは到底思えなかったからだった。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とマタイは記述した。「権威ある者として」というのは、人の権威をはるかに超えた「神的な権威」を意味するからだ。
この「人々の驚き」は、しかし、会衆がイエスを、メシア、キリストと信じたという信仰告白にまで至る「驚き」ではなかった。
4.「驚き」は直ちに信仰告白の次元ではない。
会衆は、イエスの言葉に、たしかに神的な権威を感じたし、聴いた。しかし、人は神の権威を感じたとしても、そのことから直ちにイエスへの信仰告白の次元へと飛躍することはないということを、わたしたちは、ここでの会衆のことを黙想するとき、認めざるをえない。彼らはたしかに衝撃をうけた筈だ。驚愕した筈なのだ。しかし、彼らの人格内部に彼らの全人格を完全に動かすという「動き」にはならなかったからだ。
この町の住人は、1500人ほどだったようだ。この町からイエスに従う弟子の共同体が生まれたのは事実である。しかし、弟子たちのあとに続く弟子の共同体が生まれ、弟子たちと同じ歩みをはじめたとは書かれていない。「悔い改め」はついに起きなかったのだ。マタイによる福音書11章の以下の記述に注目したい。
20それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
23また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
24しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」わたしのもとに来なさい。
人は、神によって選ばれたならば、人の力には関係なく、信仰は生起する。がしかし、そこに神の選びがないのならば、いかに神の圧倒的な「権威」や「奇跡」を経験しても、信仰は生起しないのだ。
わたしたちは、「人々の驚き」の現実をみて、主イエスの「宣教」、主イエスの「伝道」が、ただちに実を結ぶことはなかったという現実を見る。
実に神がなさる業は、人の思いを超えているのだ。
5.「神の選び」は「悔い改め」を結実する
「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」とマタイは記している。
カファルナウムは、主イエスに愛された町であった。
人々は数多くの奇跡を目撃・経験したが、ついに悔い改めなかったために、強く叱責を受けたのだ。
だから、わたしたちは、カファルナウムの轍を踏むことなく、自らを常にみつめ直して、「悔い改め」ることが、必要なのである。これを「自己糾明」とイグナチオ・デ・ロヨラは呼んだ。(『霊操』)
6.汚れた霊に取りつかれた男のこと
なぜだろう。礼拝に来ている会衆になかに、「汚れた霊にとりつかれた男」がいて、叫んだという。
まずこの男が、会堂にいたということをどう理解すべきかということが気になる。イエスが登壇する前には、会衆は静かに礼拝を守るこころの準備をしていたことであろう。そのときには、この男は他の会衆のなかにいたはずであるけれども、おとなしくしていたのだろう。他の人となんら変わりなく、「汚れた霊にとりつかれた男」だとは誰も考えなかったと、わたしは考える。つまり、人に対しての迷惑行為をするようには、見られてはいなかった。
イエスが「権威ある者として」語り始めると、会衆はその神的な権威に驚愕し始めた。その男は、イエスの神的な権威と、それに衝迫を受けた会衆の反応に呼応するかのように、突如として反応したのだ。
この男の叫んだ言葉は、イエスが神的権威をもって語り出すと同時に、この男の中の「汚れた霊」が、この男をして語らせたのである。叫んでいるのはこの男にとりついた汚れた霊なのだ。ゆえに、この男自身が語っているのではまったくない。彼に取り憑いている「汚れた霊」が語っているのだ。
7.「汚れた霊」の挑戦とその目的
24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
「汚れた霊」は、イエスのことを知っていた。「ナザレのイエス」と呼んでいることからわかる。相手の名を知っているということを相手に知らせることで、彼はイエスに挑戦しているのだ。「こっちはお前の正体を知っているぞ」とばかりに優位な立場に立とうとしているのだ。
会衆が大勢いるなかで、彼のみが「イエスが誰であるか」を知っていた。彼は自分がイエスよりも上であると他の会衆にアピールしたのである。
「みんな、この新顔のラビをきどっている若造は『ナザレのイエス』だ。オレはこの男を知っている。正体はこのオレには分かっている。『神の聖者』だ。」
「汚れた霊」は、イエスに向かって叫んでいるが、その内容はそこに居合わせた会衆にも聴かせていたのである。
「汚れた霊」の正体が、この「叫び」によって露見した。「イエスの正体」を暴露することで、彼の目的が吐露された。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」
汚れた霊の動機と目的は、内容からして明白だった。
それは、「関係の断絶」である。
イエスが神的権威をもつ『神の聖者』だということを彼はよく知っていて、そして、それゆえにこそ交わりを断ちたいということが彼の根本動機だということなのであった。神との関係を持ちたくないのである。これこそが、「霊の汚れ」の内容なのである。イエスが『神の聖者』だからこそ、関係したくないのだ。この動機を、彼は会衆にもアピールしている。
さらに彼は、イエス到来の意味、すなわち神がイエスをこの世に遣わされた目的をも知っていた。「我々を滅ぼしに来たのか」という言葉がそれを示している。
神が人類を救おうとされていることを彼は知っている。神との完全な交わりを、イエスは人類にもたらそうとしている。それは「神との関係断絶」という事態を、「神との関係回復」へと完全にかえることであり、「人間」から「汚れ」(すなわち神との関係断絶)をとりのぞくことである。
ゆえに、この「汚れた霊」は、ただこの気の毒な男に取り憑いているというだけの存在ではない。人類の「汚れ」を代表している「霊」なのである。
彼の狙いは、会衆を神との関係断絶を「感染」させることだった。だからこそのアピールなのだ。
8.主イエスの命令
「汚れた霊」の「叫び」を聴いていた会衆は、イエスの教えに驚愕し、震撼を覚えたけれども、「汚れた霊」の「根本動機」は、彼らにとっても、同罪の動機が心の奥底にはあるので、「汚れた霊」の言葉に、彼らも共感していたと、わたしは考える。「汚れた霊」は、この哀れな「取り憑かれた男」だけのものではなく、会衆ひとりひとりにも共通している罪と、深いところで通じ合っていた筈だ。この「汚れた霊」に取り憑かれた男は、居合わせたひとりのひとりの「鏡」だったのだ。他人事ではないのだ。
だから、主イエスの叱責は、直接にはひとりの男に向けられていたが、実は、居合わせた会衆ひとりひとりにも神は語りかけておられたと理解すべきなのである。それどころか、ひいては、全人類にむけての叱責なのだ。イエスは、自分自身の内奥に潜む神との交わりを拒否するという根本動機を、自分自身から引き離せ!と命じておれるのである。
25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
9.悪霊追放を目撃した会衆の「驚き」と「議論」
27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
「汚れた霊」の挑発は失敗に終わった。
主イエスの命令は、あくまで神との交わりを拒否しようとする人間の罪を、人間自身から引き離し、追放する命令だった。
この命令には実効力が伴っていた。悪霊は男に痙攣をおこさせ、退散したのだ。このありさまを目撃、経験した会衆は、再度改めて驚愕した。そして互いに論じ合った。彼らはイエスとの今後の交わりを、どうすればよいか「相互に」議論をするようになった。
彼らはイエスの神的な現実性を経験している。そして「悪霊追放」の事件をどう理解したらよいのか、決めかねているし、「権威ある新しい教えだ。」と、イエスの教えを受け入れてもいるようだ。
ただ先に確認したように、イエスとの今後の交わりを、どうすればよいか「相互に」 議論をするようになった。
衝撃・驚愕・震撼を彼らは経験しつつも、あの男をどこかで、他人事として距離をおいて見ている。自分の問題とは受けとめていない。あの「男」は会衆全員の「鏡」なのに、彼らは「「鏡」を見ようともしない。
10.評判
28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
「イエスの評判」は、速い速度で、ガリラヤ地方の隅々になるまで、広まった。
しかし、この「評判」は、ついに「悔い改め」という果実を実らせることはなかった。最初の宣教は、真実な信仰告白を告白する人々を生み出すことはなかったのである。そのことはマタイ11章20節以下に示されているように、イエスは「悔い改めない」カファルナウムを厳しく叱責していることでわかる。
神の奇跡を間近に経験しながら、カファルナウムの人々は、「悔い改めの」の実を結ばなかった。イエスについて行った者達も、結局最後は、ゴルゴタの丘で、主イエスを嘲笑する側に身を隠したのだ。
しかし、この現実こそ、すべての人に捨てられ、非難・中傷に晒され、十字架の死へと向かうという独り子イエスの贖い主としての使命にとって、必要な「果実」であったのである。
主イエスは、「殺す側の論理」によって「殺される側」となるため、この道を歩んでおられるのだ。
この主イエスの御苦難と、同道することこそが弟子たるわたしたちの道なのである。
主よ、あなたの御苦しみを、偲ばせてください。アーメン
2026年1月18日(日)(降誕節第4主日)
『最初の弟子たち』
マルコによる福音書1章14節~20節
『最初の弟子たち』
マルコによる福音書1章14節~20節
坂下教会での宣教です。(午前)
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
18 二人はすぐに網を捨てて従った。
19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
以下は宣教原稿です。(あくまでもメモです。)
1.献身
マルコにおける最初の弟子たちの召命は、「献身」とはいかなるものであるかを、きわめて端的に示している。
キリスト者はすべからく「献身」者である。わたしたちは献身しているのだ。その自覚をもって生きている。
だから、この弟子たちの召命から、「献身」とはいかなるものなのか、深く学ぶところがあるのである。
2.神からの接近
「献身」は、無論のこと、自らの意志で、文字通り身を捧げるのであるが、矛盾するようだが、自分からすすんで「献身」しているようであっても、実の所は、自分のその献身の意志というものは、神ご自身が、まずもって接近してくださり、わたしたちの魂を選び、捉えてくださっているがゆえに、「献身」しないではおれない自己とされているということなのである。 わたしが神を選んだのではない。神がわたしを選んでくださった。選ばれたがゆえに、自ずから神に従おうとする心が内心に沸き起こり、その心に忠実に従っているだけなのである。
「シモンとシモンの兄弟アンデレ」もそうだった。彼らが主イエスを見いだしたのではなかった。彼らは彼らの仕事にうちこんでいた。そこにはなんの不満も悩みもない。職業人として誇りをもって仕事に励んでいたのだ。彼らにとって、「漁師」という仕事はかけがえのないものだったはずだ。
そこに、主イエスが突如として現れた。
16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
主イエスがシモンとアンデレを「ご覧になった」のである。
17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
18 二人はすぐに網を捨てて従った。
3.信従
主ご自身が、まずはじめにシモンとアンデレをご覧になって、命じたもうたのである。神からの呼びかけが先行しているのである。人が神を選んで信従するのではない。神がまずもって呼びかけてくださったのだ。信仰、信従は、人間の側の求道心とか宗教心とか、人間内部にそなわっている何かに起源するものではないということを、わたしたちははっきりと知らねばならない。
シモンとアンデレが、イエスを知って、その偉大さに感動・感銘をうけて、「この人なら信頼できる」と考えたので従ったのではまったくないのだ。信仰・信従は、人の側に選択の権利があって、その権利を行使して始まる、という事柄ではまったくない。神を選ぶ権利は人にはない。神は偶像ではないのだ。
偶像は原則、人が選ぶことができる。なぜなら偶像は人が創ったものだからだ。自分が創ったものは自分で毀すことも、選ぶことも容易い。しかるに神は人がつくった偶像ではない。神は神なのだ。神は人を創造されたお方であって、創り主なる神は人を選び、人を呼び求めてくださった。
主イエスがシモンとアンデレをご覧になって、呼ばわったように、わたしたちにも主イエスが呼ばわってくださったからこそ、わたしたちは主を、神を慕い、愛し、従おうとする魂が揺り動かされるのだ。
4. 二人はすぐに網を捨てて従った。すぐに。
主イエスから呼びかけられた「二人」は「すぐに」網を捨てて従った。二人は、主から、網を捨てるようにと明じられた訳ではない。二人の判断は同時的に起きた。示し合わせた訳ではないし、何か高邁な議論をして結論を出したという事ではさらにない。二人同時的に生起したこの一連の行為は、信仰・信従の原形とも言うべきものだ。
「網を捨てて・・・」。この行為が含意する事柄は重大である。彼らは財産を捨てたのであり、生業の道具を捨てた。彼らはこれからの「日々の糧」はどうしようかなどという算段は何もなかった。必要なものは神が与えてくださるというイエスの教えも、彼らはまだ知らない。
知らないにもかかわらず、二人は、そのような「生きるすべ」をも考えず、ただ主イエスの命じられたまま、「従った」のである。ここには、「献身」の原形がある。
「すぐに」。この「即座に」行動が生起する「動き」には、信仰・信従の特質を観ることができる。信仰・信従とは「動き」なのである。信仰・信従は「人格の運動」なのだ。
5.超俗・献身
19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも、まず主ご自身がご覧になり、そしてすぐに呼ばわった。彼らも、シモンとアンデレ同様に、モビリテイ(すぐに,即座に)が描かれている。
彼らも、シモンとアンデレ同様に、「行き先を知らずに」従った。主イエスの呼びかけを、神ご自身の呼びかけと信じたとしか見えない。やはり、「行き先を知らずに」、「すぐに」という彼らの動きには「献身」、「超俗」という事柄が示されている。
6.主イエスの明確な俊敏さ
19 すぐに彼らをお呼びになった
この「すぐに」は、主イエスの行動の俊敏さを示している。
ここには「迷い」がない。弟子たちがただちに従ってゆくありさまを想像すると、この確信に満ちた主イエスの行動の比類の無さ、俊敏さには驚かざるをえない。確信に満ちた「動き」だ。なんのためらいもない。
弟子たちの主の召命に応答する俊敏さにも驚きを禁じ得ないが、より以上に主イエスご自身の驚異的な俊敏さから、福音宣教を開始した主イエスの強固な意志を感じないわけにはいかない。実に堂々たる、確固たる旅姿であろうか。
7.洗礼者ヨハネの命運に伴う強固な意志
わたしたちは、主イエスの俊敏な行動から、そして弟子たちの俊敏な信仰・信従・献身の行動からも、開始された主イエスの宣教への不動の意志を察することができる。
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
洗礼者ヨハネのところで、主イエスはヨハネから洗礼をお受けになられたときに、言われたことばを忘れてはならない。
「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マルコ1:16)
主が、「われわれにふさわしいこと」と言われた「正しいことすべて」とは、主イエスの公生涯全体が意味する事柄、すなわち、子なる神として人類を救うために、十字架の道を行く事であった、そのことをはっきりと知ることができる。
洗礼者ヨハネが獄に捉えられたということは、洗礼者ヨハネが、主イエスの歩まれる十字架の死への道に、先だって、つまり先駆者として、罪なきにもかかわわらず死なねばならないという命運を意味していた。
主イエスの先駆者として、いまやヨハネの死が確定的になったことを知り、主イエスは、ヨハネに代わって、ヨハネと同一の道を、ヨハネと共に歩んでゆくというご自身の宣教の道を、歩み始められた。
だからこそ、主は、この苦難への道を、堂々と、弟子たちを呼び集めつつ、その足を進めたのである。
8.ためらいなき足取り
その宣教の道を歩まれる主イエスにはなんの迷いも躊躇いもない。だからこそ、弟子たちを呼ばわる言葉、行動は俊敏極まりない。ここには、主イエスご自身の「献身」の姿がある。 この主イエスの呼びかけに、シモンとアンデレも、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも、実に「即座に」、同時的に、超俗し、主イエスに、信仰・信従した。ここにわたしたちが倣うべき「献身」の姿がある。
主よ、わたしたちは、すでに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」との御言葉を賜っています。主の呼びかけをわたしたちは聞きました。しかし、主よ、今一度、いまここで、くださった御言葉を、あらたにわたしたちの魂の奥底に、響き渡らせてください。そしてかの弟子たちと共に、主と共に歩ませてください。 アーメン