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2026年6月14日日曜日

 2026年6月14日 (聖霊降臨節第4主日)

          付知・田瀬教会合同礼拝

                子どもの日(花の日)



『悪霊追放』
          使徒言行録16章16節~24節

16節:わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。

17節:彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」

18節:彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

19節:ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。

20節:そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。

21節:ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」

22節:群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。

23節:そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。

24節:この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。


1.占いの霊に取り憑かれた女奴隷の叫び

   ここに一人の女性が登場します。この女性は、パウロとシラスにまとわりつくように、「うしろについて来て」は叫んでいたというのです。その叫びの内容は、 「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」というものでした。

 内容は、パウロとシラスの宣教をあたかも宣伝しているかのようなもので、パウロがどうして、彼女に向かって、「悪霊追放」を行ったのかと、疑問を抱いても不思議ではありません。

 彼女が叫んていた内容そのものは、まったく正しいからです。内容が正しいのに、パウロは、彼女を操り動かしている「霊」は、追い出すべき「霊」だと認識していたことになります。

 この事実が私たちに示している事柄は、所謂「悪霊」(悪霊とはここでは言われていませんが)の働きは、内容の正しさによって見極めるのではないということです。悪霊もまた正しい事を語るのです。だから言っている内容が正しいということは、その「霊」の働きが「悪霊」から起源するのか、そうではないのかという判断基準にはならないということです。言説の正しさは、その言説の起源が、悪霊なのか、神の霊なのかを担保しないのです。


2.「霊」を見分ける判断基準

   言説の正しさが、「霊」を見極める判断基準になり得ないとしたら、パウロはどのようにして見極めたのでしょうか。」

   「彼女がこんなことを幾日も繰り返すので」と、ルカは記しています。こんなこととは、パウロ一行にまとわりついて叫び続ける行為です。パウロには、「迷惑」行為だったことがうかがえます。外見的にみれば、宣伝してくれているようにも見えるのですが、パウロにとっては、そうなってはいなかったということでしょう。つまり、いくら言っている事が間違いとは言えないまでも、その言葉をつかう「状況(様態)」、「目的」によっては、語っている内容そのものの意味内容を台無しにしてしまうということが、現実にはあるということです。パウロの立場から言えば、彼女の行為の状況(様態)、目的は、パウロの宣教にとって、妨害行為以外の何ものでも無かったということです。 

 わたしは、福音宣教とは、信仰の対象であられる「まことの神」への信仰から、語られるというきわめて明解な事柄だと考えます。

 この女性は、「占いの霊に取り憑かれている」人でした。

 彼女は、パウロから、主イエスの福音を聞いたことはありません。聴いた事もない、すなわち彼女は自分が知りもしないのに、パウロ一行を指して、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と「宣伝」していたのです。

 彼女の状況・目的は何だったのでしょうか。彼女の状況は、福音については「無知」、目的については、今流に言えば、パウロ一行への「褒め殺し」とでも言うのでしょうか。しつこくまとわりついて、自分では知りもしないのに「いと高き神の僕」だと言い立てる訳です。聞いている人にも、彼女が「占い」をして主人をもうけさせる女奴隷だということは知れ渡っている状況ですから、彼女の状況や目的が、パウロ一行を貶める行為であることは、周囲の人々にも明らかだったであろうし、パウロにとってみても、「迷惑」でしかなかったはずです。

 わたしたちは、この事態から、何を教訓として学ぶことができるでしょうか。

 それは、福音宣教は、福音を語る人の「実存」と無関係ではありえないとうことでしょう。

 パウロは、自分自身の実存と離れたところでは、一言も語ってはいなかったはずです。

 女奴隷にとっては、彼女の実存は、実存としてかならずあるはずですが、それは主イエスとは無関係だった。

 ここで、わたしたちは、自分の実存と主イエスの実存が無関係なところでは、ひとことも福音を語れないし、語ってはならないということを知らされるのです。

3.信仰者の実存と離れた宣教は存在しない

   この女奴隷は、福音を聴いたこともなく、従って主イエスを知らないし、信じてもいません。しかし、この女性が、福音を知らないというだけでは、何の罪でもありません。このとき、世界は、パウロ一行をはじめとした圧倒的な少数者しか、主イエスを知らなかったのですから、彼女はそのなかの一人にすぎません。

 彼女はむしろ、知らされなければならない人々の一人として、福音を聴くべき者のひとりでした。言い換えれば、つまり、パウロは、彼女にこそ、福音を伝える責任を負っていたのです。

 彼女に、福音を語るということは、パウロの実存と無関係では有り得ません。

パウロ自身が、キリスト者迫害の中心にいた一人でしたから、迷惑行為によって、パウロの宣教を妨害する彼女に対して、「主イエスならどうなさったであろうか」と思わずにはおれなかったはずだと、わたしは考えます。他人事ではないのです。

 パウロの、かつて自分こそ迫害者だったという彼自身の原体験が、彼女への特別な関心と愛を、彼にもたらしたはずなのです。それがパウロの実存的な「原点」だからです。彼はいっときも自身の過去の罪との対峙なくして福音を語れなかったはずです。

 

4.「悪霊追放」・パウロの自己解放

     「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

  だから、パウロのこの「悪霊追放」の命令は、彼が彼女に向かって命令してはいるけれども、この命令は、パウロ自身の内面をえぐることなしには出て来ないはずだと、わたしは思っています。

 かつては、この女奴隷よりもはるかに罪深い迫害者だった自分が、彼女を救えるなどと思ってもみないパウロだったはずです。その彼が、どうしてこのような激越した命令を語り得たのでしょうか。

 彼は、彼女に向かって語ったけれども。「この罪深い自分には、こう命ずる権利など微塵もない」と感じていたのではないでしょうか。

 ですから、ここで命じているのは、パウロ自身でありながら、実は、彼の主イエスへの信仰ゆえに、「自分には語る資格はない。しかし主イエスご自身ならば、この命令を語るに相違ない。そうであれば、主ご自身が、命じてくださっている」、と確信していたからこそ語り得た、私はここを読むときこのように理解せざるをえないのです。

   こう命じるパウロ自身が、主イエスの「悪霊追放」の命令を受けているように感じていたのではないか。彼は主イエスが命じてくださっていると信じることによって、彼自身もまた、解放されている自己を感じていたのではないか。そう思うのです。


5.占いの霊

  さて、この一人の哀れな女性ですが、彼女の内面世界では何が起きていたのでしょうか。

    すると即座に、霊が彼女から出て行った。

  この記述は、古代人にとっての「客観的な描写」だったのだと思います。これを現代のわたしたちが、どのように理解するのかということが重要になります。

 ポール・トウルニエ博士は、来日時の質問に答えて「悪霊」の存在は否定できないと語りました。精神科医であり牧会者でもあったトウルニエ博士の言葉だけに重みがあります。ただ、存在を否定できないという事が何を意味するかは、依然として重要です。

 「悪霊」の存在を、物証的な意味で科学的に検証することは不可能です。ですから、神学的、思想的に、理解する必要があります。

 わかっていることは、パウロが語った悪霊追放によって、この女性の意識と行動には劇的な変化が見られたということです。これは否定できません。

 この変化は、彼女の内面世界においては、どのような変化があったからなのでしょうか。

 占いが金儲けのためのビジネスだったことは、彼女の主人が彼女の占い行為によって、金を稼いでいたという記述から明らかです。

      ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。

   ですから、彼女はこの職業によってお金を稼いで主人を喜ばせていたことになります。要するにお金になることをしていたのです。それには客を喜ばせる必要がありますから、この女性は、「読心術」のような特技があったと考えられます。わずかな表情の変化も見落とさずに,何を語れば客が信じたり、慰めを得たり、喜んだりするかを、瞬時に読み取る才能があったと思われます。

 そうして、話を即座に作る訳です。自分がつくった「話」を自分でも信じこんでしまう。客観的には、これは人を騙している事だけれども、それで客が満足するのであれば、金儲けは成立することになります。言うなれば、「詐欺」なのですが、訴える人はいません。なぜなら占いによって自己満足しているから訴えたりしないのです。嘘でも信じていっときでも安心できれば、「救われた」ような気分を味わえるから、感謝して客はお金を支払って帰るのです。

 彼女は、毎日毎日、人の心を読み取り、作り話を限りなくつくり、それを自分でも信じ切って、語るのです。

 そんな彼女は「作り話」に明け暮れていた人生に、彼女はいい加減疲れきっていたのではないでしょうか。虚しさを感じていたのではないでしょうか。嘘で固めた人生に彼女は耐えきれなくなっていた、内面的に限界にきていた。そんな彼女は、自分では何も知らないパウロ一行に、何かを感じたのだと思います。パウロの語る自分にとってはいまだ知らない「いと高き神」に、彼女の空虚な魂を癒す何ものかを感じとっていたのではないでしょうか。おそらくこの魂の渇望こそが、パウロ一行への「つきまとい」となって行ったのではないか、わたしにはそう思えるのです。彼女の状況(様態)・目的が、彼女の限界に来ていた虚ろな魂が、いまだ明確には知らない主イエスの救いの言葉を求めて、この「迷惑行為」を引き起こした、と思うのです。

 だからパウロにとっても、彼女は必要な人でした。

外見的には「迷惑」であったように見えますが、彼にとって、彼女は、パウロ自身、他人事ではない。彼女は主イエスと自分との関わりを想起させ、確認させる存在だったと思うのです。彼女の救いは、彼の救いと結びついていたのです。

 彼は彼女に、主イエスの福音を語ることによって、主イエスの命令すなわち全人類に福音を伝えるという命令に従うことができるからです。

 パウロは、主イエスに代わって、彼女にみことばを語ったのです。

     「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

   彼女を支配していた「霊」を、聖書記者は、彼女自身の人格とを区別しています。

 彼女の虚ろな精神世界の状況は、彼女自身の実存的な状況でしたが、その状況は彼女自身が望んで、そうなっているのではないという意味がここにはあります。魂の空虚、魂の危機、限界状況は、本来的な彼女自身の人格ではないのだという理解です。

 この区別によって、彼女の内面世界は、「手術」(オペレーション)を受けた」のです。彼女の危機は、彼女自身から切り分けられたのです。

 そして、主イエスのみことば、主イエスのみことばの力によって、切り取られた「霊」(彼女の魂の空虚、危機)」は、彼女から「追放」されたのです。

 彼女にとって、パウロの命令は、彼女には、「もう嘘をつかなくてもいいんだわ」、「もう作り話をつくらなくてもいいのだわ」という「魂の自由を獲得し得た喜び」をもたらしたことでしょう。彼女は「解放」されたのです。


6.福音宣教が引き起こした「迫害」

    そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。

    ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」

   女性の自由は、人格の自由だけではなく副作用を招きました。金づるを失った奴隷所有者はパウロ一行を高官に訴えて逮捕させます。群衆も一緒になって責め立てました。人格の解放は、社会経済への影響を免れなかったのです。社会全体が、「占いの霊」を守る側の精神世界だったから、この秩序に変化をもたらす福音を拒絶したのです。

 ローマの社会を支えていたこの精神世界を、根底から覆す力を目の当たりに見た群衆は、奴隷所有者の金ずるの喪失に、支援の同調をして、パウロ一行への懲罰を要求しました。

 福音が、人間を自由したことが、ほかの人の財産権の侵害だった。そういう社会だったのです。人間の欲望のシステムと人間解放とが衝突するとき、「迫害」という状況が生まれたということなのでした。

 人を自由にする解放のわざが、そのことによって社会全体の抑圧のシステムを根底から揺さぶった。それが「迫害」という状況だったのです。

 パウロは、人の財産を奪ったのではありません。女性の人格を彼女自身のものへと取り戻したのです。それは、奴隷所有者たちの「財産」としての価値をなくすことだったために、損害を与えたことにされたのです。それはもともと彼らが彼女から奪っていたものを失っただけなのでした。

 奪っていた者から、自由人へと解放しただけでした。

 それが、「迫害」の理由です。


7.牢獄の中のパウロたち

 パウロは、ただ主イエスへの信仰故に、主イエスの命令を、彼の人格を通して実行したまででした。

 それは、そうなさずにはおれない必然の行動でした。

 「悪霊追放」とは人格解放をもたらす福音宣教に他なりませんでした。

 それゆえ、この必然に伴う「迫害」は、神の栄光に他なりません。パウロは、外見的には投獄という苦難の状況のなかで、この苦難こそキリストへの追従として、受けとめたに相違ありません。ゆえにこの苦難を神の祝福として感謝し、次の一歩を歩み出す力に満たされていたことでしょう。

 主イエスの栄光に感謝します。  アーメン

 


2026年6月7日日曜日

 2026年6月7日 (聖霊降臨節第3主日)

使徒言行録4章13節~31節

『迫害の現場こそ宣教の場であった』


聖書の引用

13:人々は、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であることも分かった。

14:しかし、足を癒やされた人がそばに立っているのを見ては、何も言い返せなかった。

15:そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、

16:言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない。

17:しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」

18:そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。

19:しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。

20 :私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

21:そこで、彼らは二人をさらに脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を崇めていたので、人々の手前、どう処罰してよいか分からなかったからである。

22:このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。

23:さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず報告した。

24:これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声を上げて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。

25:あなたの僕であり、私たちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。/『なぜ、諸民族は騒ぎ立ち/諸国の民は空しいことを企てたのか。

26:なぜ、地上の王たちは立ち上がり/君主たちは集まって/主とそのメシアに逆らったのか。』

27:事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、諸民族やイスラエルの民と共に集まって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、

28:御手と御心があらかじめそうなるようにと定めていたことを、すべて行ったのです。

29:主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、堂々と御言葉を語れるようにしてください。

30:どうか、御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病気が癒やされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」

31:祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした。

以下 宣教の原稿

1. 神の共同体は感情の共有ではない

   被害感情から宣教の言葉は生まれません。この記録は、事実をもとにしてでなければ描き得ないものだとしか思えません。人間的な感情による情熱にうなされるような「信仰」感からは、このような記録は残せないはずです。

 もしペトロとヨハネが、ほんの少しでも人間的な感情の片鱗でも示していたならルカはこのような描き方はしなかった筈です。人間的な感情、反応というのは、攻撃されたら、敵意をもって反応する。「迫害」や「中傷」にさらされたら、傷つき被害感情を懐く。それが「普通の人」の反応です。つまりは、感情とか心情とか、人間的心理に還元される反応を人間的と思うからです。

 もしペトロとヨハネが、ごく「普通の人」として人間的な感情という反応を示していたなら、反対されたら、ただ敵を憎悪し、被害感情に浸るだけだとしたら、キリスト者共同体は、もはやキリストの肢体たる共同体ではなく、ただの傷のなめ合いのお友だちの集まりに終わっていたことでしょう。教会はもはや存在していないからです。そこにあるのは被害意識を共有するお仲間の集合体にすぎません。

2. 堂々とした態度

   ペトロとヨハネは、「堂々とした態度」でした。この状況は、反対者たちが、なんとか彼らを処罰して,福音宣教を阻止しようとしている、いわば裁きの場であり、迫害の現場でした。この状況は、社会的な力関係でいえば、弟子たちは、裁かれる立場なのですが、霊的には裁く側のサドカイ人を圧倒してます。この「堂々とした態度」という言葉が、このシーン全体を支配しています。

 ここには被害意識、被害感情、敵愾心の微塵も感じられません。

 信仰は感情とか心情とか、人間的心理の所産ではないことがよくわかります。

 ペトロとヨハネから感じられるのは、不動の意志です。

彼らの人格・個性を超えたところ、魂の内奥に存在するイエス・キリストの意志が伝わってきます。

 彼らは、表面的には「無学な普通の人」でした。それだけに、人々は驚愕したというのです。どれほど彼らの霊的な意味での圧倒的迫力に、「ものすごいもの」があったとことでしょう。人々が感じとったものは、ペトロとヨハネを通して働く神の力だったのです。


3. 足を癒された人がそばに立っていた

  ペトロとヨハネは、主イエスがなさった「しるし」、すなわち奇跡的治癒行為を、実行したのです。弟子たちは、イエスの生前、治癒行為を行おうとして、結果できなかったことがありましたが、ここでは、何の気負いも、不安もなく、実行しています。「できなかったらどうしよう」とか、「イエスさまから権能を授かったんだからできるはずだ」とか、そういう不安、気負いは、ここでの彼らからは感じられません。実に、当然のことを当然のように、淡々と、粛々と実行しているのです。もはや彼らではなく、彼らのなかのキリストが実行しているかのようです。

  この堂々たる態度に圧倒されているばかりではなく、癒された当事者がここに生き証人として立っているのです。この事実は否定しようがありません。

   ルカの記述には、この一人の癒された人の存在だけではなくて、この人以前にも奇跡的治癒行為は多々、既に行われていて癒された人が大勢存在していたと思われるのです。エレサレムの住民全体に知れ渡るほど広範囲に行われていたとあるからです。彼らの癒やしの治癒行為は「目覚ましいしるし」として住民全体に認知されていたのです。

 しかし、知れ渡っているから、「否定しようもない。」とルカは記録しているのですが、わたしはこの記述は少し変だと思います。住民全体に知れ渡っているから、否定できないというのは、少し変でしょう。否定できないのは、生き証人が現にここに立っているからでしょう。現に存在する人を否定できるはずがない。

    16:言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない。」

  文字通り受けとめれば、「エルサレムの住民全体に知れ渡っている」ということは、つまり「人の口には戸を立てられない」というような事態は、もう防ぎようがないというような意味ではないでしょうか。もういくら否定するネガテイブキャンペーンをはっても、とめようがないという意味でしょう。そうであれば、この言葉の意味は、反対する人々は、民衆の評判が急速に広まっていることに危機感を感じながらも、止めようもないと、諦めの心情を吐露しているということになります。学者先生はルカの誇張だと言いますが、それは主観にすぎず根拠はありません。反対する人々の困惑こそが、ルカの誇張だという主張を否定しています。


4.無駄な抵抗、脅しと命令

    17:しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」

  反対する人々には、もう為す術は残っていませんでした。彼らは、これ以上民衆の間に広まることを危惧しながらも、困惑しているのです。 無駄な抵抗をする他はありませんでした。

  「今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」と、脅しと命令を虚しくする他はありませんでした。

 しかも、彼らとても、内心では、ペトロとヨハネが実行する「しるし」は、二人の内奥にキリストの存在があるのだということを知っていた事が、彼らの脅しと命令によって、その事実が判明します。彼らは、キリスト・イエスの「御名」には、「力」があることを知っていたのです。だからこそ、「御名」を禁じたのです。


5.イエスの御名には「ちから」がある          

    18:そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。

   反対する人々は、「イエスの御名」に「力」があることを、信仰者ではないにも関わらず、知っていたのです。だからこそ禁じたのでした。かれらは、社会的な「力」では優位にありがら、霊的な圧力においては、彼らのほうが恐れていたのだと、わたしは思います。


6.神と人との、どちらに従うことが正しいか

  ペトロとヨハネには、反対する人々の「脅し」や「命令」は何の「力」もありませんでした。二人にとっては、「脅し」も「命令」も何ほどの権威もなかったのです。

 二人にとって、人の「脅し」「命令」に従うことと、神に従うことのあいだは、「どちらか」は、比較を絶していました。比べものにならないのです。

 この判断は、反対する人々においても、正しい判断ではないのかと、逆に問いかけています。ただ、反対する人々にとっては、二人にとっての「神」は「神」とは見なされてはいません。二人には「神」は当然「イエス・キリスト」ですが、反対する人々にとっては、「イエス」は「神」ではなかった。それを百も承知で、二人は、自分たちにとっての「神」、イエス・キリストに従うことこそ「神」に従うことなのだと、抗弁しているのです。

 「神」は、両者にとっては、「共通」存在ではなかった。それが、両者のはざまにあった現実でした。

 それでも二人は、「見た事や聴いた事を話さないではいられない」と抗弁したのです。


7.見たこと、聴いたこと、神の現実存在

   ペトロとヨハネは、反対する人にとっても、「イエス・キリスト」は「神」なのだと抗弁しました。これは、明らかに福音宣教です。そうです。二人は、迫害者・反対者・敵対者に福音を宣教しているのです。

 二人が「見た事や聴いた事」とは、主イエス・キリストでの出会いにおいて,彼らが経験した神の現実でした。神の現実が二人を変えました。二人は変えられた者として。「いま・ここで」生きています。イエス・キリストが、魂の内奥に内住してくださっている存在として生きているのです。

 二人は、こう語っているのです。

「あなたがたは、あなたがた自身、今はまだ、あなたがた自身をささえ、生かし、導き、共に生きておられるまことの神すなわちイエス・キリストの現実存在を知らないが、あなたがたは、このイエス・キリストによって、既に神と共にある者なのです」と。


2026年5月31日日曜日

 2026年5月31日(聖霊降臨節第2主日)三位一体主日

ローマの信徒への手紙8章12節~17節


「『あなたは神の子』ということば」


              『神の子とする霊』

 ローマの信徒への手紙8章 12節~17節

12:それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

13:肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

14:神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

15:あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

16:この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

17:もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。


1.「あなたは神の子である」という言説

 「あなたは神の子なのだ」と、断定的に言われたとしましょう。あなたはいったいどんな気持ちになりますか?」

  ある人は、「自分のような者が『神の子』だなんて面はゆい。」と思います。

 またある人は、「そうはっきり言ってくれるとなんだか嬉しくなる。」と感じるかもしれません。」

 つまり、「神の子である」という言い方は、聞く人によっても、また聴く人の精神的態度によっても、さまざまな捉え方ができてしまうし、その影響は良い場合もあれば悪しき場合も有り得るということでしょう。

 これらは、「神の子」という言説を〈言われた側〉の問題です。これらに対して、また、〈自己意識〉として「神の子」という言説も問題となります。


2.〈自己意識〉としての「神の子という言説」

 順番は逆になりますが、まず〈自己意識〉としての「神の子という言説」について考えてみます。

 たとえば、悪しき実例をあげれば、旧統一協会の教祖の場合などは、その典型です。

 この人は、「自分は神の子だ」と、信者たちに信じこませていますが、それは統一協会の「教義」で、〈そういうことになっている〉と信じこませることに成功しているからです。教祖をよく知っていて、その感化を受けて、「この人こそ神の子だ」と信じこんだ訳では決してない。教祖の人物については実は何も知らないのに、「教義」を受けれたばかりに、信じるようになってしまったのです。自分を「神の子」だという自己意識、それがたとえ嘘だと自覚しているにせよ、あるいは自分自身もその妄想に生きているにせよ、この自己意識をもっているとしたら、どんな人間として振る舞うようになるのか。それは教祖の実人生を精緻に分析すれば、ある程度は明らかにできます。

 またこの教祖のこどもたちを見てもわかります。現実が赤裸々に示しています。自殺、家庭内暴力、不倫、賭博癖、常習的虚言(作話)、平均的な市井の人には見られないような実態が既に多くの文献で報告されています。

 「われは神の子なり」という言説が自己意識になってしまったとき、人間は、常識を超えた道徳的逸脱をするようになるという典型が、教祖一族(全員とは言いません)の中には特徴的に現れているのです。これは悪しき実例です。際限のない尊大さ、倨傲性に満ち満ちた人間を創り上げてしまいます。

 それでは逆に、自己意識としての「神の子という言説」が、良い結果を生むこともある例をあるのかどうか、考えてみましょう。良き実例を挙げますと、たとえば、きわめて厳しい逆境におかれた人が、周囲から、社会から攻撃を受けて、とことん自尊心を痛めつけるような非難・中傷を受け続けていたとしましょう。キリスト者が該当します。初代教会の信仰者たちの事を思い浮かべることができます。

 イエスをキリストとして信じるという、そのことだけで、殺される時代状況の嵐のなかで生きてゆかねばならなかった一人一人は、どのような「自己意識」を持っていたのでしょうか。

 それは本日、パウロがローマの教会の信徒にむかって語りかけた事がそれです。

    14節 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

    16節 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

  迫害は、ひとりひとりの自尊心を徹底的に痛めつけることが目的でした。その状況下で、「ああ、神の霊、聖霊さまが私を導いていてくださる。聖霊さまが、わたしたちの霊と一緒になって、わたしが神の子であることを、神さまの前に証ししていてくださるのか」と信じることは、「自分のような者はなにほどでもない」卑賤な者だという自己存在への卑下を、吹き飛ばしたことでしょう。

 文字通り、「もはやわたしが生きているのではない。わたしの内のキリストが生きているのだ」という自己意識へ変貌させたのです。そこには、自己卑下ではなく、キリスト内住の確信が充満していたことでしょう。

 これは、良い実例です。

 この自己意識は、自己と他者を比較して、他者に対する存在の優位を誇るものでは有り得ません。他者に対して憐憫でもありません。ただ天地の創り主なる神に対して、「わたしはキリスト・イエスによってあなたの子である事を聖霊さまが証ししてくださいました」と言いうる霊を与えられているということです。

 それゆえ、「わたしは、キリスト・イエスが人類に対して愛したヨウニ隣人を愛する自己とされた」という「自己意識」となったのです。自己意識としての「神の子という言説」は、隣人への優位性の誇りでも、憐憫でもなく、隣人へ愛の主体者となる自覚となったのです。

 だからこそ、良い実例なのです。


3.他者に向けての言説としての「神の子」   「神の子」という言説を〈言われた側〉の問題を考えてみましょう。またこれは〈言った側〉の問題でもあります。誰かが誰かに、「あなたは神の子です」と〈言われた場合〉と、〈言った場合〉です。

  まず、〈言われた場合〉について考えます。

 この場合にも、悪しき実例と良い実例があることでしょう。

 これも、統一協会の教祖一族、全員とは言いませんが、教祖の子に生まれてしまったがために、幼少時から「あなたは原罪のない神の血統を受け継いだ者だ。すなわち神の子なのだ」と言われ続けた子どもたちです。その結果、どのような人格に育ってしまったか、現実が証明しています。

 教祖の子どもたちだけではありません。所謂「宗教二世」の問題でもあります。この子どもたちは生まれて以来、継続的に「あなたか神の子」だと親や周囲から言い続けられます。信者以外の人間は、「非原理世界すなわちサタン世界の人間、サタンの子」だと教えられ、自分は「神の子」だと言われ続けるのです。生まれながらにして、隣人を差別するという観念をたたき込まれて育つのです。当然、信者以外の人間を、「サタンの子」だとみなすように育つことになります。

 これは、悪しき実例でしょう。

 さらには、「あなたは神の子」と言われ続けるなかで、当然、自分自身の罪を罪としてみつめる洞察力が育ってくると、現実の自己と、「言われる自己」の間にある圧倒的な齟齬に精神の混迷に陥ってしまうこともあるでしょう。統一協会二世に自殺者が多いことの原因は、教義による自己像(「あなたは神の子」)と現実との自己像とのギャップにあると言っても言いすぎでないでしょう。

 「あなたは神の子」だと〈言われる側〉としての葛藤は、本人が真面目であればなおさら深刻化せざるをえません。きわめて深刻なストレスのなかで日常的に生きなければならない苦しみを抱えるか、葛藤することを拒否して、自己欺瞞的自己を受け入れるか、つまりいい加減な生き方を選ぶかを、意識的にせよ無意識的に選択するしかなくなってしまうでしょう。

 この葛藤は、真面目であればあるほど、深刻化しますから、どんどん追い込まれてゆきます。この葛藤そのものを、あたかもないかのごとく、テキトウにイイカゲンに生きることを決断してしまうと、教義が語る「神の子」像は限りなく、絵空事、建て前になって、齟齬そのものが消えてゆきます。これは典型的な偽善です。

   これは、やはり悪しき実例でしょう。

  それでは、「あなたは神の子」だと〈言われる側〉の良き実例を考えます。

   わたしの友人に、自分は同性愛者だと、いわゆるカミングアウトした人がいます。キリスト教会は長い間、同性愛は罪だとしてきた歴史があります。『幸せの王子』という実に美しい物語を書いたオスカー・ワイルドは同性愛者として、刑罰を受けた人でした。彼の時代の英国では、「罪」だったのです。これはキリスト教が聖書の読みにおいて犯した過ちの歴史に刻まれています。友人も、聖書の記述を、批判的に解釈することなく文字通りに受けとめて苦みました。多くの同性愛キリスト者が苦しんできた歴史がありますが、彼も苦しみ抜いたのでした。そんな彼を救ったのは、やはり信仰でした。

 すべての人は、神によって創造された「神の似姿」だと聖書は語ります。そしてその「神の似姿」は、人間堕落によって完全に破壊されてしまったがゆえに、すべての人は、ひとりの例外もなく「神の似姿」を喪失している。しかし、まことの神にしてまことの神、ただお一人の主イエス・キリストこそが「神の似姿」として降臨されたので、人は主イエスにつながることによって、「神の子」とされているのである、と信ずる信仰によって、「あなたは神の子なのです」と、聖書から「言われた」のです。

 これは、「あなたは神の子」だと〈言われる側〉を、救う神の言葉でした。

 これは、良き実例というべきでしょう。

※オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(英: Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde、1854年10月16日 - 1900年11月30日)は、アイルランド出身の詩人、作家、劇作家。耽美的・退廃的・懐疑的だった時代の旗手のように語られ、多彩な文筆活動を行った。しかし、男色行為(当時のイギリスでは刑事罰を科される犯罪行為)の発覚により実刑判決を受けて服役し、出獄後に失意から回復しないままに没した。


4.「あなたは神の子です」と〈言った場合〉

   まず悪しき実例を挙げましょう。

 2023年にNHKで放映された『プレミアムドラマ仮想儀礼』とか、タケシが主演した『教祖誕生』も、どちらもインチキ宗教を起ち上げるもので、いわば詐欺師が主人公になる作品です。嘘ではじめた宗教ビジネスが意外に信者を集めてしまう物語です。面白かったのは、でっち上げの「教祖」が、だんだん自分でもなかば本気になってしまうところです。

 ホームレスのオジサンに「お前、これから教祖になれ」と詐欺師が命じる訳です。するとオジサンはだんだんその気になってしまう。これなどは、「あなたは神の子」ですという言葉かけは、はじめから嘘なんですけれど、そういう嘘でも第三者に影響を及ぼしてしまうという可笑しくも悲しい話です。金儲けのために嘘で人を騙すことばとして、「あなたは神の子です」と言ってみても、人は騙され信じてしまうという事があるというのです。

   詐欺師の言説です。

 これは悪しき実例の見本でしょう。はじめから嘘なんですから。嘘でも、信じる人がそれで救われるならいいじゃないかという人も出てくるでしょう。これはモラルの崩壊です。

 では、良き実例を考えてみます。

 究極の実例は、イエス受胎の告知でしょう。

 天使ガブリエルは、母マリアに言ったことば。「あなたは神の子を身ごもるでしょう。」神が神の御使いによって神の言葉を語ったのです。真実そのものです。

 神は主イエスにも、語りました。

「これはわたしの愛する子、わたしのこころに適うものである。これに聴け」と、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、天から神の言葉が語られました。まさに「あなたは神の子です。」という言説の究極的起源です。

  この実例は究極的起源の実例ですが、これは真実に神の子であられる主イエスに対して父なる神が〈言った場合〉です。これは究極の起源につながる人間の世界にも通じていると思われます。その〈言った場合〉を挙げてみましょう。人間的に、人間としてしか見ないのであれば、母マリアのイエス出産の客観的事実は、夫ヨセフの子ではな父親不在のこどもの誕生にしか見えません。この事実は、ユダヤ教社会の通例では、恐るべき事態だったと考えられます。現在でも、「名誉殺人」という因習が、法の支配にもかかわらず存在しています。

   ヨセフが密かに離縁しようとしたのは、彼の妻への配慮があったからでしたが、神がヨセフに真実(聖霊によって懐胎したこと)を伝えました。しかし、世間に理解されるものではなかったことでしょう。

    ※名誉殺人とは、女性の不道徳な行為がその家族や帰属集団(家族、親族、村落、カースト、宗教集団など)にもたらす不名誉を取り除き、名誉回復の手段として行われる暴力(殺傷事件)である。不道徳な行為とは婚前の性関係、親が認めない婚姻関係(ただし、認めない理由はさまざまである)、そして妻の不貞などである。名誉殺人はその言葉から殺人を指すが、殺人未遂や拉致など、殺人以外の暴力も含めることができる。名誉殺人は、両親の権威によって象徴される伝統的な共同体、すなわち「名誉の共同体」の秩序を揺るがす若者にたいする処罰である。

  現在でも行われる家族・親族による殺害。まして、2千年前には、イエスの生命自体が危機的だったと考えても不思議ではありません。この事実は、現代でも不遇な境遇によって、女性やその子どもが置かれる生命の危機的状況に、通じるものです。

 イエスの生命の危機に、母マリアは幼少期のイエスにどのような言葉をかけて育てたことでしょうか。

 「あなたは神の子なのです。」と語りかけたかもしれません。

 同様に、イエスが置かれた危機的状況とよく似た境遇に置かれた母子の事を思うのです。

  哀れな母親がこの世に産まざるをえずして産まれたこどもを愛するとき、この母親は、一体どういう言葉をこどもに語りかけたらよいだろうか。

 わたしは、こういう場合こそ、「あなたは神の子です」「だれがなんと言ったって、あなたはあのイエスさまと同じように誰が父親かわからなくても、あなたは神さまがわたしに与えてくださった神さまの贈りものなんだよ。だからあなたは神の子なのよ」と言いきったとしたら、それは母マリアのような立派な母親だと言えるのではないでしょうか。全世界には、イエスと同じように,客観的事情において、生命の危機に瀕した子どもたちが大勢います。この子どもたちは、貧しさのゆえに、戦争のゆえに、災害ゆえに、生命の危機に瀕しています。母親ならずとも、人類は、共に聖家族の一員として、この子たちに具体的に、現実的に、「あなたは神の子です」と断言し、家族としての責任の一端を、ほんのわずかであっても担うことができたらと思うのです。これができたとしたら、明らかに良き実例なのではないでしょうか。



2026年5月24日日曜日

 2026年5月24日 (聖霊降臨日)

『集まれなかった人々』

使徒言行録2章1節~11節


                『聖霊の賜物』(聖書日課に基づくタイトル)

2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

2:5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

2:6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

2:7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

2:8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

2:9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

2:10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

2:11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


1.集まらなかった人々、集まれなかった人々

    2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

 「一同が一人になって集まっていると」とある。この一同のなかにいる人々は、集まっていたのだが、神の恵みの導きによって、集められていた人々とみるべきでしょう。この人々は「抜擢」された人々なのです。

 ということの裏側には、集められなかった人々がいたと考えられるでしょう。この人々は、神の恵みにあずかれなかったのでしょうか。

 わたしには、「集まらなかった人々、集まれなかった人々」が気になります。この人々は「聖霊降臨」の出来事が起きたときに、その場に居合わせることができなかったからです。「集まる」という事が起きている以上は、どうしてもそこに「選び」が同時に起きていることになります。だから、「集まらなかった人々、集まれなかった人々」は、「選び」に漏れた人々ということになってしまいます。

 そして、この「集まる」という事柄が、神の「選び」の出来事であると理解するならば、「集まる」事が、いかに重要な事柄であったかを、示していることになります。


2.「集まる」ことは、神の選びのみわざだということ

 わたしたちが毎週、礼拝のために礼拝堂に「集まる」事の重要さを、改めて覚えます。

 わたしの霊的な恩師小野一郎牧師は「礼拝にははってでも来なさい」と教えてくださいました。わたしは、この言葉を忘れることができません。

 たしかに、わたしたちの全生涯、全生活、全時間は礼拝です。仕事に従事しているときも礼拝なのです。食事をしているときも礼拝です。眠っているときでさえ礼拝なのです。キリスト者のときのすべては神への礼拝の時だという理解は、正しい。礼拝の時と、礼拝でない時とは、原則的に区別はありません。すべては神への礼拝だという理解は間違いないのです。ですがしかし、とりわけ、主の復活の日、主日に守られる「礼拝」こそは、原則としてのわたしたちの全時間としての礼拝とは、区別されます。

 ほかの時間とは区別されるのです。それは神が全被造物を創造され、最後に休まれ、「安息日」と定められ、他の時間と区別されたからです。「安息日を覚え、これを聖とせよ」と神は、命じられました。この戒めは、「区別せよ」という事と同義です。

 わたしたちは、この戒めに従い、主日を守ることに、文字通り「命」をかけることを、「要求」されているのです。

 だから、わたしたちは「集まる」のです。ひとりで、洞穴のなかにひきこもるのではないのです。「集まる」ことが、こよなく重要なのです。

 この神の安息日遵守の命令に、聴き従おうという意志が、こころのうちに起こっているからこそ、人は礼拝に集まるのです。この神の誡命に聴き従おうという意志が起こされているという現実は、神のめぐみの選びが、わたしたちの魂にすでに働いている証しなのです。

 ですから、ペンテコステ・聖霊降臨の出来事が起こった、あの日あの時あの場所に、集まっていた「一同」は、決定的な聖霊降臨の出来事以前に、恵みの神の導きが、促しが、この人々には明確に存在した事は間違いないのです。彼らは間違いなく「選ばれ」ていたのです。


3. 集まらなかった人々

  ここに集められた人々が神の恵みの選びに導かれていたことの裏には、ここに「集まらなかった人々」、そして集まれなかった人々」がいた事を、どのように理解したらよいのでしょうか。再び、ここに戻ってきます。「集まらなかった人々」は、自分の意志で集まらなかった人々です。この人々のことを考えてみます。

 エルサレム入城まで主イエスにつき従ってきていた群衆は、当初はイエスに追従する人々でしたが、主イエスがユダヤ当局から死罪を要求されるという風向きの変化のなかで、イエスへの期待は急激に失望へと変わり、イエス殺害の同調者たちの陰に隠れるように身を潜めます。そしてイエスの支持者であることを隠し、むしろイエス殺害を叫ぶ民衆にのなかに紛れるかのように翻身する者までいたことでしょう。

 主イエスが復活したという証言は、エルサレム中に広まったことでしょうし、弟子たちが復活のイエスに出会ったことも知れ渡ったことでしょう。それでも、弟子たちのところに、参集して、こころを一つにして祈ることを、拒んだ人たちがいたことも想像に難くはありません。

 自分の意志で集まらなかった人々とは、「集まる」ことを「拒否」した人々です。一度は、彼らも彼らなりにですが、イエスについてきた人々です。弟子たちとも面識もあり、同じ仲間のようにふるまってきた時間もあったはずです。その彼らはなぜ、弟子たちの祈りの場に集まらなかったのか。彼らには、恵みの選びはなかったのでしょうか。

 わたしは、彼らにも神の選びはあったと思っています。神の選びは、人の目には理解できないことがあるとわたしは思っています。

 たしかに彼らは、意図して集まらなかった。なぜなのでしょうか。わたしは思うのです。

 彼らが見てしまった「景色」を、こころのなかで解決できていなかったのではないでしょうか。

 彼らは見てしまったのです。弟子たちが姿をくらます様子や、イエスを「知らない」と言って無関係を装い、イエスを公然と裏切って、行方をくらましてしまった事実を見てしまったのです。 彼らにも当然、逃げる動機は同じようにあったし、弟子たちの心理を理解しないわけではなかったでしょう。しかし、自分の事は棚に上げてせめて弟子たちには、もっと「立派」に振る舞うだけの責任を示してほしかったと思った。自分のことは棚に上げてです。「赦せない」彼らはそう感じたのではないでしょうか。

 こんな思いでいっぱいだった彼らには,弟子たちの祈りの場に、こころを一つにして集まることは不可能だったのでしょう。自分自身を振り返って内省するこころをもたずに、他者に自分が勝手に創り上げた理想像を投影して、他者がその理想像に重ならない時に、他者を一方的に裁いてしまうのです。このような心理状態だったのではないでしょうか。彼らは神ではなく自分を「裁き主」にしているのです。このままでは、彼らは神の恵みの選びのなかにあったとしても、彼らには神への思いよりも自分の思いしか見えてはこないでしょう。

 「自分の意志で集まらなかった人々」とは、結局、自分の思いへのこだわりを神への思いよりも優先したがゆえに、集まらなかったのです。


4.集まれなかった人々

 「集まれなかった人々」とは、意図せずに、集まりたくても集まれない何らかの事情に阻まれて集まれなかった人々です。この場合、この人々は集まりたかったという動機においては、集まった人々と同じだったという前提があります。つまり、この人々は、集まることを「拒否」していたのではなかったけれども、事情によって集まれなかったのです。

 この人々も、恵みの神の選びに導かれていたことを、わたしは疑いません。彼らも導かれてはいたのです。

 けれども、結果として集まれなかった。

 問題は、集まることを阻んだ何らかの事情です。この事情によっては、この人々自身にも責任があるとは思うのです。

 まったくこの人々自身には問題がない場合もあるでしょう。この人々の力の及ばない客観的な事情がある場合です。その場合は、かの人々には責任がありません。

 しかし、この人々自身の内面の問題が、阻んでいる事情となってしまう場合は、その人自身に責任があることは明らかです。たとえば、その人自身が、解決しなければ他の誰にも解決することはできない個人的な課題を抱えている場合です。

 弟子たち「一同が一つになって集まっていると」とあるように、弟子たちは、こころを一つにして集まり、祈っていたのです。ところが、かの人々は、ここに集まっている人々と、こころを一つになることができないのです。

 その場にいるある人のことを「どうしても好きになれない」とか、「一緒にいたくない」とか、そういう「好き嫌い」の類というべき個人的な心理的課題を抱えている場合です。

 この人々も、神の恵みの選びのうちに導かれていることは疑いえませんが、この人々は、神の恵みを受けながらも、自分自身にしか解決できない個人的な課題を直視することを避けているために、自ら「集まり」のなかに、入って行くことができないのです。

 この人々は口癖のように二言目には、「わたしは集まりたくても集まれないのです」と言い訳をするのが常です。自分が集まりのなかに入れないのは、集まりのなかに自分の気に入らない人物が混じっていることが嫌だというのです。これでは誰の目にもこの人々が集まれないのは、この人々自身の問題なのは明らかなのに、集まれない理由を「集まり」のせいにしているのです。

 彼らも、やはり、神の恵みの選びの導きのなかにいるはずなのですが、彼らは、神の選びに応えることをしません。そして他者に責任があると本気で考えてしまうのです。神の選びの前に、自分がいかにあるべきかを見ようとせずに、「集まり」そのものに問題があるとしか考えないのです。

 結局、「集まり」に「集まろう」とはしていないだけなのに、「集まりたくても集まれない」と主張するのです。


5.聖霊の賜物は、客観的な現実

    2:7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

    2:8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

 聖霊降臨の出来事は、「一同が一つになって集まっていると」、生起しました。わたしたちは既に、「一同が一つになって集まっている」事実に、神の恵みの選びの働きが確認できることを見てきました。少なくともここに集まっている人々は、「一つになっている」と記録されているように、すでに個人的なわだかまりとか、葛藤とかの問題は消滅していると見て取れます。ここに集まっている人々は、神の恵みの選びに応答して、ここにいることが許されているのです。

 なんのわだかまりもありません。彼らのこころは既に一つです。そしてそこに聖霊降臨の出来事が起きました。

 その結果は、ここに記録されているように、言葉の出来事でした。奇跡です。人々は、「学習」という経験を経ることなく、自分が知らずにいた言葉を自由に語るようになったのです。

 これは客観的事実でした。主観的な「思い込み」ではありません。思い込みでは自由に言葉を操ることなどできはしません。奇跡なのです。この奇跡は瞬時に起きています。言葉の出来事が、客観的事実であったことは疑いえません。

 ただ奇跡は、聖霊降臨より以前から起きていたとみるべきでしょう。

 それは、「一同が一つになって集まって」いること自体に、わたしは大いなる奇跡を見るからです。


6.遅れてきた「人々」

  わたしは、神の恵みの選びはあったと思うと語りました。神の選びは、人の目には理解しがたいとも申し上げてきました。

  聖霊降臨の日に、そこに、その場に居合わせることができなかった人々、集まりに参集しなかった人々のことを考えてきました。彼らは、結局、決定的な客観的事実としての聖霊降臨を受けなかったのですが、わたしは彼らも神の選びへの導きの中にはあったと信ずると述べてきました。

 彼らは、決定的な歴史の転換点に、ごく間近まで来ていたにもかかわらず、その時、その場に居合わせることなく、歴史の陰におきざりにされて見過ごされてきた人々です。

 彼らのことについて、必ずやいたであろう彼らの事について、聖書は何も語ってくれません。

 まさに行間を読まざるを得ません。しかし、恵みの神はほむべきかな。神は、この「集まり」に、間に合わなかったかの人々をも愛したもうお方です。神の恵みの選びは、かの人々をも救わんとしている事を、わたしは信じます。

 彼らは、「遅れてきた人々」なのです。彼らは、悔い改めるべき課題を抱えた人々ですが、その課題を解決するための、いっときの猶予が必要だったのです。

 この猶予の期間、彼らは遅れることになります。

 しかし、この猶予は、彼らには必要な期間なのです。この猶予期間に、彼らは、彼らにしかできない彼ら自身の課題を解決しなければなりません。

 神は、待っているのです。

 愛の神は忍耐の神であられます。

 こうして読んでゆくとき、神に待っていただいているのは、他ならぬ「わたし」ではないのか。そう思えてきます。待っていてくださる神に、これ以上待たせることなく、「一同こころ一つにする集まり」すなわち「キリスト者共同体(教会)」に、遅ればせながら参集したいと、こころから願わないではいられません。

2026年5月17日日曜日

 2026年5月17日 (復活節第7主日)

アジア・エキュメニカル週間(23日まで)

ヨハネによる福音書17章1節~13節

『キリストの昇天』(これは聖書日課に基づくタイトルです。)



『神の喜びの充満せる人生』

1.喜びが

    先週のみことばの学びで、信仰とは、とどのつまりは、「喜び」に他ならないと結びました。

 信仰生活は、主イエスの「喜び」が、わたしたちの「内」に満ちあふれる生活なのです。いわば「主イエスの喜びの充満」です。(13節)

 主イエスの喜び・・・。それでは具体的に、「主イエスの喜びの充満」という事柄は、いったいどのような事柄なのでしょうか。復活の主イエスに出会ったとき、弟子たちは喜びに充たされました。瞬時にです。悲しみから喜びへと、瞬時に彼らは変えられました。ですから、弟子たちは、主イエスの喜びを体感したのではないかと考えられます。復活のイエスとの接触によって、彼らは喜びの人生を歩み始めたからこそ、彼らは、苦難や迫害をただ恐れるのではなく、喜んで受け入れる人生へと変えられたのです。

 この彼らの人生の変容を想う時に、確実に彼らが復活のイエスの命を受けていたと思わざるを得ないのです。

弟子たちの一人や二人に起こった事ではないのです。全員にこの変容は起きたのです。だからこそ、迫り来る迫害の状況にもかかわらず、彼らは殉教への道へと歩んだのです。

 「主イエスの喜びの充満」という事柄は、いったいどのような事柄なのでしょうか。苦難や迫害をも恐れずに、彼らが、喜びに充たされて生き抜き、かつ殉教した事実から、「喜びの充満」がいかなる事柄であったのかを知る事ができます。

 

2.永遠の命

  それは、彼らが「永遠の命」を、確実な事として、自明な事として、揺るぎなき確信のうちに生きるようにされたということなのではないでしょうか。

  復活の主イエスに出会ったとき、彼らは彼ら自身が「死の死」を経験したのだと思います。「死」とは「神喪失性」のことです。神さまを喪った事を「死」というのです。神さまと無関係になってしまった事を「死」ということなのです。この「死」を、人は人の力で変えることは絶対できません。この「死」の前ではすべての人は無力です。すべての人は無力ゆえにまったく平等です。無力さの平等です。誰も自らを誇ることはできません。たとえ自力を吠えたとしても、所詮は無力な遠吠えなのです。この絶対的な無力が、復活の主イエスとの接触の瞬間に、神さまの方から、圧倒的な力によって、もはや「信じないことができない」存在として、神ご自身の迫りによって、「神喪失性」が「死んだ」のです。「神喪失性」という「死」が「死んだ」のです。


3.悪魔は天使を偽装する

 この出来事は、抗うことのできない神の迫りの出来事でした。とにかく「信じないことが不可能」な事態なのです。復活の主イエスとの接触は、神ご自身との接触だからです。この接触は、「一つとなる」というみことばで、主イエスは語られました。(11節)

 神ご自身が、復活の主イエスを仲保者として、弟子たちと「ひとつ」となったのです。これはいわゆる「神人合一」ではないこと留意すべきです。

 「神人合一」の思想は「人が神のようになる」という最悪の「罪」の言い換えとなってしまう「神秘主義」の陥穽(おとしあな)に堕する危険性をはらんでいるからです。

 最善の救いが最悪の罪と、同じ言葉で表現されるから、留意しなければならないのです。

   まさに、「悪魔は天使を偽装する」のです。(2コリント11:13-14)


4.神の喜びの充満

    「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)

  主イエスは、父なる神にこのように祈りました。「わたしたちのように、かれらも一つになるためです。」と。

 ここにも「ように」という言葉が出てきました。父なる神と子なる神=イエスが一つなる存在である「ように」、主イエスと弟子たちも一つなる存在になるために、という意味ですので、「父なる神と子なる神との関係と、子なる神と人との関係が対応」の関係になっているのです。つまり、神と人とはイエスを仲保者として、「類比」が存在するという意味です。

 ですから、「主イエスの喜びの充満」を、弟子たちに主イエスが「目的」として語っておられるのは、父なる神の喜びの充満を、弟子たちに願っているということをも意味するでしょう。

 神は、人類を神の喜びで充たしたいと望んでおられるというのです。

 このイエスの祈りは、「神の喜びの神学」と言っても過言ではありません。(J・モルトマン)


5.神の所有

 神と一つになる。主イエスと一つになる。この事を、主イエスは、「所有」という言葉でも語っておられます。わたしたち人間は、神のものだと言うのです。

    9節:彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。

    10節:わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。

   信仰は「神の喜びの充満」だと申し上げました。そして、ここでは、信仰は、人が自己自身を「神の所有」であり、「主イエスの所有」であるというアイデンティティー(自己同一性)のことだということでしょう。

 「わたしは、主イエスのものだ。したがって、わたしは神のものだ。」という自己認識に生きるということです。

 このように考えると、「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」と命じられた主イエスのみことばは明確になります。自分自身を愛するというのは、利己的な自己愛をまったく意味しないからです。自己は「神のもの」「イエスのもの」なのですから、自分自身を愛することは、神のものを愛することに他ならない訳ですから、愛さないほうがおかしい。愛さねばならない自己自身なのです。自己自身を愛する事は、神を愛し、主イエスを愛することなのです。


6.昇天後の世界

 主イエスのこの祈りは、イエスさまが天に昇られて以降の世界にむけて、主イエスが父なる神に、弟子たちを守ってくださいと願っている祈りです。

    11節:わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

  「神の名」(御名)がここで語られています。父なる神が子なる神・イエスに与えた「御名」です。

 これは、「キリスト」とか「メシア」とかの「名詞」を指しているのではないと、私には思われます。

 イエスご自身は,ご自身を「人の子」と言われました。群衆は「ラビ(先生)」と呼んだり、「主」と呼んだりもしました。しかし、このどれも、この「御名」に該当するとは思えないのです。

 神がイエスを呼んでいるのは、「これはわたしの愛する子」ですが、この事でしょうか。「これに聴け」と神は啓示されているので、これがいちばん近いかもしれません。

 ただ、「御名」には、弟子たちを守ることができる力があるとに主イエスは明確に語っているのです。

 イエスの「御名」には力があるのです。

 この「御名」の力が、神とイエス、イエスと人を一つにすると明らかに語っておられるのです。一つにするのですから、「神の喜びの充満」を人にもたらすのです。

 

7.「神の御名」

  「神とイエス、イエスと人を一つにする」力が「御名」にはあると、主イエスは明言されています。

 人間の神への合一ではなく、神さまが主イエスを仲保者として人間を「一つ」にしてくださるのです。圧倒的な、一方的な、絶対他者なる神の恵みの恩寵としての「神との合一」です。

 この「合一」こそが「神の喜び」であり、「栄光」だと言われたのです。「栄光」とは、「喜び」のことだったのです。「神の喜びの神学」は「神の栄光の神学」だったのです。

 復活の主イエスの昇天以降の世界において、世界は、人類は、主イエスは神のみもとへと帰られたからには、可視的な手段・方法によって、復活の主イエスと接触することはかなわぬものとなりました。

    12節:わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。

    13節:しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

 だからこそ、主イエスは、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と、「御名」の力を神に願っておられるのです。


8.聖霊降臨

 可視的な存在としては、復活の主イエスは、弟子たちの前から去りました。しかし、主イエスは、これまで「別の方」「弁護者」「助け主」が来られると、幾度も語ってこられました。そしてここでは、いやここでもですが、「御名」を父なる神に願っているのです。復活の主イエスの昇天以後、「神の喜びの充満」のために、「御名」によって「守ってください」と願っているのです。

 聖霊さまこそが「神の御名」なのではないかと考えざるをえないのです。アーメン



2026年5月11日月曜日

  2026年5月10日(日)(復活節第6主日)

ヨハネによる福音書16章12節~24節

『悲しみは断たれなければならない』


                                             ヨハネによる福音書16章 12節~24節

12節 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。

13節 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。

14節 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。

15節 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

16節 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

17節 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」

18節 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」

19節イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。

20節 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

21節 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。

22節 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

23節 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。

24節 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」


1.主イエスの死 切迫感のない弟子たち

  わたしたちは、自分自身もやがて死ぬ運命にあります。誰も死を免れることはできません。

 子どもの頃は、一日が長く感じられました。いまはあっというまに時は過ぎゆきます。年とともに、時間が速くすぎてゆくのは、多くの人の実感ではないでしょうか。 昔は、10年といえば、随分長いと感じたものですが、いまは50年もすぎてしまえば、一昔にすぎません。

 「時」の速さは変わるのです。

 主イエスは十字架の死への旅立ちに際して、「しばらくすると」と、時の事をお語りになりました。

    「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16節) 

  主が、十字架上で殺害されるという現実を「あなたがたはもうわたしを見なくなる」 と婉曲に語られたのでしょう。弟子たちは、受難の予告を既に聞いていたのですから、これが主イエスの死を意味していたことは、わかっていた筈なのですが、弟子たちは、聴いて知っていたとしても、本気で、主イエスがまさか本当に死んでしまうとは思ってもみなかったのでしょう。彼らには意味がわかならいのです。

    そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」

    (17節) 

    また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」(18節) 

  主イエスの「時」と、弟子たちの「時」は、その切迫度が異なっていたように見えます。

 主イエスにとって、こうして弟子たちと親しく語る時間は限られていました。自分は、「しばらくすると」、弟子たちの眼前からは「見えなくなる」からです。こうして生身の主イエスが弟子たちと対話されるのは、もうきわめてわずかしか時間が残されていないのです。

 ですから、主イエスにとっての「しばらくして」の時間感覚は、貴重な時間という意味で、きわまて重要な一瞬一瞬であった筈です。ところが、弟子たちには、この主イエスのみことばの意味が、まったく分からないのです。ですので、「しばらくして」の時間感覚には、主イエスの緊迫したものがまるで感じられていなかった。切迫感がないのです。


2.弟子たちは何を悲しんでいたのか

  ある時、お世話になっていた弁護士の方に言われたことばが忘れられません。

 福島第1原発汚染水一万トン海洋投棄の責任を追及し、余命半年と言われながら最後まで東電取材、執筆活動を続けた日隅一雄弁護士が49歳の若さで亡くなったときのことでした。共に闘ってきた同僚の弁護士の方でした。

「悲しんでいる時間がありません。」

 この一言が、こころに刺さり、忘れられないのです。

 人にとって悲しむことは大切な事柄です。人には悲しむべき時に悲しむ事はどうしても必要な事柄だと思うのです。ただし、悲しむという事柄はどうしても必要なことなのですけれども、「悲しんでいる時間がない」という「時」もあることも事実です。

 主イエスの言葉の意味を理解できないで、議論しあっていた弟子たちの思いは、一体どういう思いであったのでしょうか。

    ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。(22節)

 主イエスは、弟子たちは、悲しんでいると言われたけれども、一体何をどのように悲しんでいたのでしょうか。

 主イエスがご自分の「死」が間近であると言われた意味を、彼らは理解できなかったのですから、主イエスの「死」を、このときに悲しんでいたとするのは無理でしょう。彼らの無理解ぶりを考慮すれば、彼らはこのときには、本気で主イエスが死ぬとは思っていなかったということになるからです。

 それでは一体何を、どのように悲しんでいたのか。

 わたしは、こう考えます。

 彼らは、主イエスのみことばを本気では信じる事がいまだできてはいなかった。

 彼らの思いは、こんなものではなかったか、と思います。つまりこうです。

  「主イエスは、奇跡を数多く行ってきた。自分たちはその目撃者であり、証人でもある。主は、文字通り奇跡を行って、イスラエルが待望してきた「メシア」として劇的に、迫害や中傷という危機的な事態を変えてくださるに相違ない。自分たちはそういう王的メシアとして戴冠されることを誰よりも信じて、ここまでついてきた。それなのに、主はいっこうに奇跡を行ってはくださらない。われらの期待はいまだ実現していない。どうして、こんなときに、「見なくなる」とか、「父のもとへ行く」とか言われるのだろう。」

 弟子たちは、主イエスの「死」を確信して悲しんでいたのではなく、主イエスが「死」を選んでいることを悲しんでいるのです。

 主ご自身の「決断」ではなく、自分たちの「期待」どおりの主イエスではないことを悲しんでいた。そのような「悲しみ」は、主イエスの言葉への「無理解」そのものであるし、彼ら自身の期待するイエス像が砕かれたことが、彼らには「悲し」かったのです。

  「どうして、死ぬなどと言われるのですか。生きて生きて生き抜いて、イスラエルを救ってくださる筈ではなかったのでしょうか。」という思いではなかったのでしょうか。

 この思いは、イスカリオテのユダの思いと変わりません。ユダの思い、主イエスを裏切ったユダの思いは、他の弟子にも共通する思いでもあったのではないか、とわたしは思っています。

 つまり、この時の弟子たちの悲しみは主イエスの「死」を悲しんでいる「悲しみ」ではなく、現実の主イエスが自分たちの「期待」どおりの「イエス」ではないことを、悲しんでいる。

 ただし、主イエスは、この「悲しみ」は「喜び」に変わると断言されました。

 ただ変わるというのではなく、もっと強い意味で、「変わる」と言われたのだと思います。

 信仰は、自分の願望を「神」に投影することではありません。そういう事なら、その「神」は「自己願望の形を変えた像」ということになるからです。そのような自己願望の化身のような「神の像」は「偶像」ですから、砕かれなければならないのです。それゆえ、主は「変わる」と言われたのです。

 

3.悲しむ事に固執すること

   人は、しばしば悲しむことに固執します。悲しむ自分に固執するのです。まるで悲しむことを楽しんでいるかのように悲しみに固執するのです。

 たしかに、悲しみはひとにとって大切なこころの動きですが、悲しみは「喜び」へと「変わる」ことを忘れてはならないのです。悲しみは悲しいままで終わるのではないことを、主イエスは宣言されているではありませんか。 

 「悲しんでいる時間はないのです。」

 悲しみは中断されなければなりません。悲しみを悲しみのままにしてはいけないのです。

 人には希望が必要なのです。希望は、悲しみを哀しみのままに終わらせずに、「歓喜への希望」へと変えられねばならないのです。

 主イエスは、生きてこの世で王的メシアになる事ではなく、死ぬ事ができるお方として、かつ再び甦ることができるお方として、「再会」を約束されました。

 「十字架の死と復活」を約束されたのです。

    ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(22節) 

  「しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」

 この約束は、弟子たちに、真の信仰を与えるという事も意味しています。信仰とは、つまるところ、「喜び」なのです。


4.信仰は「喜び」にほかならない」

  キリスト教が単なる「宗教」ではないのは、キリスト・イエスの実在が、実際に弟子たちを変えたという現実が歴史として存在したからに他なりません。弟子たちが、悲嘆のどん底から現実として、「歓喜」の人生へと変えられたからです。

 彼ららの悲嘆のどん底の現実は、主イエスが実際に、殺されたからこそ、生起しました。この悲嘆は、イエス生前のときの、「悲しみ」とは比較になりません。まったく意味が違います。あのときの弟子たちの「悲しみ」は、彼らがイエスをいまだ「偶像」として知らなかったときに、彼らの期待した「イエス像」をイエスが否定したから、彼らの願望が粉砕されたことによる失望感が起因する「悲しみ」でした。しかし、主イエスの十字架の「死」が現実に起きたときは、弟子たちは、本当に、主イエスはみことばどおりに死んでしまったのですから、正真正銘、彼らは主イエスの「死」を悲しんだのです。

 歴史に「もしも」はないのですけれも、もしも仮にですが、彼らが、主イエスの「死」に直面して、復活の主イエスと再会できなかったとしたら、彼らの人生にはなんの変化も起きなかったことでしょう。ただイエスの「死」を悲しみ、やがて忘れていったことでしょう。キリスト教会も存在していなかったことでしょう。

 しかし、現実に、彼らは主イエスと再会した。そして終生変わることのない不動の信仰にいきる人々と変えられたのです。彼らは命を狙われても決して怯むことなく、殉教の最期まで、主にある「歓喜」の人生を生きたのです。」


5.イエスの名によって願いなさい

    その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。(23節)

    今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(24節) 

  「その日」が意味するものは「真理の霊」すなわち「聖霊」が降臨する日です。「聖霊」によって、わたしたちは「真理をことごとく悟らせ」ていただけると、主は言われました。

    しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(13節) 

  「聖霊」の賜物を実らせることが、私たちの生涯の目的となるように、主イエスの御名によって、願い求めましょう。「そうすれば与えられ」「喜びに満たされる」と主は言われたのです。こあれほど確実な事はありません。

2026年5月3日日曜日

 2026年5月3日(日)(復活節第5主日)



ヨハネによる福音書15章1節~11節

『神の民』

            ヨハネによる福音書15章1節~11節

1.豊かに実を結ぶということ
     あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 (8節)
  わたしたちの人生において、もっとも重要な事は何でしょう。  成功を収めることでしょうか。金持ちになることでしょうか。有名になることでしょうか。いわゆる繁栄することなのでしょうか。
 主イエスは、ぶどうの木の譬えをされました。この譬えのなかでは、「実を結ぶ」ことが神に栄光をお返しすることになると語られています。実を結ぶことは神に喜ばれることなのです。逆に実を結ばないことは、主イエスにつながっていない証拠になるのです。
 つまり、わたしたちは「実を結ばなければならない」と、主は言われているということなのです。
 そこで問題になることは、実を結ぶということが、いったい何を意味するのか、ということになるでしょう。
 人生の成功者になることでしょうか。金持ちになることでしょうか。立身出世することでしょうか。いわゆる繁栄することなのでしょうか。もし、そういう事ならば、「繁栄の神学」と変わりません。繁栄の神学」は神を信じれば、貧困や病気から解放され、物質的に豊かな人生を送れると教えます。病気や貧困は「信仰が足りないから」と信徒を苦しめたりもします。主イエスが、このような人の欲望を肯定し、刺激して、その満足を得るこことのために、神の言葉を利用する教えを説いたとは、到底思えません。
 ですから、主イエスが語られる「実を結ぶ」とは、いったいどういうことを意味しているのだろうか、この事がとても重要になります。 

2.農夫なる父
    「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(1節)
   そのことを考えてゆきましょう。主イエスは、ご自身を「まことのぶどうの木」と呼び、父なる神さまを「農夫」であると呼んでおられます。
 この譬えは、遊牧生活をしていた古代ユダヤ教社会が、すでに、農耕社会になっていたことを思わせます。ということは、主イエスの家業は大工職人でしたけれども、農耕生活も営んでいたのかもしれません。ブドウ栽培もされていたのかもしれません。
      「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(2節)
    結実しない枝を剪定することや、「手入れ」することを日常的になさっていたのかもしれません。生活感のある譬えになっているからです。剪定というのは案外難しいもので、切る場所を間違えると、手入れどころか枯らすことにもなりかねません。生きものですから、木の生態を熟知しないと、剪定を誤るとかえって木を傷めてしまうのです。 ですから、主イエスは、木のことを熟知している農夫に父なる神を譬えられました。農夫はぶどうの木のことをよくご存じなのです。そしてブドウの枝のことにもよくご存じなのです。剪定して切って捨てるべき枝は「取り除かれるし」、実を結ぶ枝は、すべて「いよいよ手入れ」をされるというんです。
 ここで、「実を結ぶ」ことが意味することが、次第に鮮明になってきます。つまり、ブドウ木とは主イエスですから、主イエスを通って、樹液がすみずみにまで行き渡り、主イエスの実を結ぶことのために、神さまは剪定をされ、手入れをされるのです。「実を結ぶ」ということは、人の欲望や、自分勝手な願い事が実現することなのではないのです。枝であるわたしたち自身、主イエスという「実」を結ぶことことこそが、「実を結ぶ」ということなのです。   
3.「聴くこと」、「既に」、「清くなっている」
    「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(3節)
 わたしたちは、主イエスのみことばを聴くことによって、既に清くなっていると、主イエスは言われました。「清くなっている」というのは、「実を結ぶ」ための「樹液」が主イエスから流れ来ていることを意味しているでしょう。
 主イエスが語られたみことばを聴くことが、ぶどうの木である主イエスと「つながっている」ことを意味しているのでしょう。主イエスの語られるみことばを聴くこと、これば主イエスと「つながる」ことを意味しているのです。 繰り返しますが、主イエスのみことばに聴従することが主イエスと繋がることなのです。具体的には、聖書を読むこと、みことばの解き明かしを聴くこと、つまり礼拝することです。礼拝者として生きることが、主イエスとつながることなのです。
 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(3節)
 主イエスとつながっているとき、主イエスの生命につながれている清い存在へと変えられていると、主は言われたのです。ここで「既に」と主が言われたことは重大な意味をもちます。この言葉は、わたしたちがわたしたち自身の能力や素質、努力によって、清くなるという考え方を完全に否定することばだからです。ただただ主イエスの生命が、神のみことばによって、わたしたちに流れ来たるからこそ、わたしたちは「既に」清められているということなのです。
主イエスの圧倒的なみ恵みがわたしたちの内に基礎となって、喜びに満ちあふれるようにされる出来事が起きているということなのです。
 
4.「捨てられて枯れる」「火に焼かれる」
     「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(6節)
  主イエスにつながっていない人とは、神のみことばがその人の内にない人のことでしょう。正直、そういう人のことを考えたくはないのですが、主イエスは、このみことばで警告をされたのだと思います。
    わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていければ、実を結ぶことができない。(4節)
  なぜなら、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と言われているからです。 主イエスは、「あなたがたにつながっている」と言われているのです。しかし、けれどもつながっているにもかかわらず、つながっていなさいと命じてもおられる。主が「既に」つながっていてくださるのに、つながっていなさいと言われるのは、「つながらない」、「つながっていない」状態というものが、可能性としてあるのだからだということです。神のみことばをみずから拒絶する、そういうことが人には起きてしまうことがある。神の言葉を自由意志で、拒否するということです。そういう状態、そういう心理状態というものが、人にはありうるということを、主イエスは知っておられるのです。あえて、神を拒絶するという態度です。人は罪を犯して、神なき存在へと転落しています。罪人というのは、「神なき存在」のことを言います。あえて罪人であり続けることを選ぶことが人にはあるのです。 悪であることを知りながら、悪を正当化するということがあるのです。
 農夫は、実を結ばない枝は剪定し、火に投げ入れます。投げ入れられた枝は燃えつきて灰となり、土に還ります。そして他の木々の養分になるのです。農夫は自然の摂理を熟知していて、無駄なものはなにひとつないことを知っています。神を拒絶した人々は、火に投げ入れられ燃えて灰となって土に還り、他の存在の肥やしになる。
 このように考えるとき、神さまが焼き尽くすという、この比喩が示しているの事の意味は、この「神を拒絶し、神なき存在」を焼く尽くして、ただ「神に栄光をお返しする存在」へと、「存在のありよう」を変えたいと願っておられるのではないか、とわたしは思うのです。そう考えると、少しはホッとします。
 カトリックには「煉獄」という思想がありますが、人は死んで、直ちに天国へ行くのではなく、「煉獄」へ行くという思想です。
    ※煉獄は、カトリック教会では天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところとされ、苦罰によって罪を清められた後、天国に入るとされる。現行のカトリック教会の教義では、天国は「最高の、そして最終的な幸福の状態、地獄は「神から永遠に離れ、永遠の責め苦を受ける状態」と定義されているが、「天国の本質が神との一致にあるとすれば、それは当然のことだが、人間は必ずしも終始一貫、神に沿って生きているとはいえず、罪を犯すこともあり、そのため死後に神と一致しようとする際には、自分の内にある神と異質なものは清められることになる。これが煉獄である」と説明されている。
 プロテスタント教会は、「煉獄」の思想をとりません。けれども、このぶどうの木の譬えで、捨てられ、火に投げ入れられ燃えつきてしまう枝の命運を想う時に、その人々の救いを想わざるをえない、そういう思いにもなるのです。神さまは、神を自由意志によって拒絶する存在を救おうとはなされないのでしょうか。そう神さまに問いかけてみたくなるのです。「存在の有り様を変えてくださる」と先にわたしが解釈したように、許されざる者の救いをいかに考えたらよいだろうか、という問いです。
 
5.望むものは何でも願いなさい。
     「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(7節)
     このみことばは、あの利己的な欲望実現を願う「繁栄の神学」の意味で受けとめることは不可能です。
 なぜなら、わたしたちが真実に主イエスにつながって、主イエスの生命が流れ来て、主イエスのみことばが、わたしたちの内に「いつもあるならば」、わたしたちが願うものは何でも、主イエスが願うものに他ならないからです。主イエスと完全一致する願いをこそ、わたしたちは願うようにされているからです。それはどんな意味でも人間の欲望の実現では有り得ません。主イエスが、わたしたちの存在を通して、願うのですから、その願いは何でも、神と人への愛の実現です。 
 主は、「そうすればかなえられる」と約束してくださった。わたしたちは願わないではいられなくなるはずです。神さまから、捨てられ、火に焼き尽くされるほかなき「枝」が象徴する「神なき存在」も、神はお救いになりたいといつもいつも願っておられるのではないか。そうであれば、ご自身を殺した人々を愛された主イエスの愛をもって、神を拒絶する人々の救いをも願わないではいらなくなるのではないか。わたしにはそう思えるのです。

6.主イエスの愛にとどまる
    父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。(9節)
    わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(10節)
  主イエスにとっての「父の掟」とは、「十字架の死と復活」です。このみことばは、主が「十字架の死と復活」によって示された「愛」にとどまる「ように」(類比、一致、対応)わたしたちがこの神の「愛」にとどまる(互いに愛し合いなさい=新しい掟)ならば、わたしたちは主イエスの「愛」にとどまることになる、とのみことばです。
 そうであれば、わたしたちは主イエスが愛するように、互いに愛しあうことが可能な存在へと「清められている」のです。わたしたちが、主イエスにつながっており、神さまの愛をもって、愛する主体へと変えられているならば、そのことによって、農夫たる父なる神に「栄光」をお返しすることになると、主は言われました。
     「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(8節)
    わたしたちが、主の愛にとどまり、すなわち主イエスの新しい掟(互いに愛し合う)を実現することが、父なる神に栄光をお返しすることなのだというのです。

7.栄光在主
  わたしたちの人生の目的は、このことです。
 わたしたちが愛の主体として、主イエスの愛をもって互いに愛し合う出来事が実現することによって、父なる神さまが「栄光」をお受けになること、言い換えれば、主なる神さまに、「栄光」をお返しこと、このことなのです。
 そうであれば、棄却された人々の命運をも、主イエスは、いつもいつも胸を叩きながら神さまに祈っておられると、わたしには思えてならないのです。
 神を呪うもの、神なき者、神を意識的に否定する者たちを、神は滅ぼしたくて滅ぼしたのではないと信じるのです。彼らもまた、神が無限の愛をもって、創造した兄弟姉妹だからです。
 敵を赦し、愛された主イエスは、かならずそう願っておられると信じます。アーメン 

 8.愛・喜び
    「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(11節)
  主イエスの喜びが、わたしたちの内にあること、そして主イエスの喜びがわたしたちの内にあることがわたしたちの喜びでもあること、主イエスの喜びでわたしたちが満たされることが、主イエスの「命令」「掟」の目的だと主イエスは言われました。
  つまり、わたしたちに、ぶどうの木の生命が流れ来て、実を豊かに結ぶこととは、主イエスの「十字架の死と復活の愛」に、わたしたちが満ち満ちていることを、主は「喜び」と呼ばれたのです。
 喜びとは何か。主は示されたのです。
 喜びとは、他者を主イエスのように愛することなのです。愛することが喜びなのです。この喜びに充満しているとき、神さまもまた喜びに満たされているというのです。それこそが、「神の栄光」なのです。アーメン

2026年4月27日月曜日

 2026年4月26日 (復活節第4主日)

ヨハネによる福音書13章31節~35節

『キリストの掟』



                  キリストの掟
ヨハネによる福音書13章31節~35節
31:さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32:神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
33:子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
34:あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35:互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

1.「子なる神優位」
  福音書には、三位一体の教義自体が語られてはいません。けれでも、「三位一体」の萌芽を思わせるイエスの言葉は残されています。いや、むしろイエスの言葉を信じることによって、必然的に「神とイエスとの関係、交わり」とはいったいどう理解したらよいのだろうかと、信仰においての認識へとすすんでゆかざるを得なかったという事情なのではなないだろうか、と考えます。
 本日与えられた聖書のみことば「神も人の子によって栄光をお受けになった。」は、まるで、イエスによって神も栄光を受けたというのですから、イエスは神に栄光を与えた主体であるかのような表現です。
 わたしたちは、漠然と父なる神が子なる神イエスをこの世に送られたのであるから、父なる神が子なる神であるイエスの優位にあるお方であると思っています。
 ところが、このイエスのみことばは、子なる神イエスのほうが父なる神の優位にあるかのような表現になっている。わたしたちの漠然とした「父なる神優位」という思いを、イエスは打ち砕くかのようです。
 子なる神イエスによってこそ、父なる神も栄光をお受けになったのか、そうであれば、「子なる神優位」という意味になるではないか、ということです。
 
2.「父なる神優位」でもあり「子なる神優位」でもある?
 どちらが優位でもあることは矛盾以外の何ものでもない。論理的には成り立たない。どちらかでもあるという事は人間の論理では成り立たないことになります。
 こう考えてきて思う事は、父なる神と子なる神は、どちらが優位という捉え方をすること自体が、人間の卑小な理性の限界内では不可能だということではないか。つまり、神さまを人間が捉え得るという考え自体が不遜であり、所詮は不可能なのではないか、ということです。
 信仰の現実のなかでのみ、どちらも「優位」であるようなあり方を、主イエスはお示しになられたのでしょう。
 その在り様を、「同質」という言葉で言い換えると「父なる神」と「子なる神」は「一体」のお方であるという信仰の認識へと導かれたのではないだろうか、そう思うのです。神と子は区別されつつも、一体・同質なるお方でありたもうという信仰の認識です。
 そうであれば、たしかに三位一体の認識の萌芽と言えるでしょう。
 いくら考えても、人の理性では不可解なのです。
 
3.主イエスは、神さまを語るために御自身を語った。
 主イエスのこのみことばは、当時のユダヤ教徒たちからすれば、理解しがたいどころか、とんでもない冒涜であったはずです。「人の子」という表現で御自身を語っているという前提で考えると、イエスは御自身が「神に栄光を与える」と言っているに等しいのですから、冒涜にしか聞こえないでしょう。この一言だけで彼らにとっては「死罪」に相当すると、彼らの「正義」は正当化されたに相違ありません。
 主イエスが殺されなければならなかったのは、主イエスの言動に原因があったのです。この一言だけでも、主イエスは殺されるに十分な理由を「殺す側」に与えたことになるのです。
 どう考えても、主イエスは、殺されなければならなかった。それは実に「真理」を語ったからです。
 主イエスは、この「真理」を語ることによって、自分が十字架刑で殺されることになることを十分に理解していたと思います。
 ユダが御自身を裏切り、売り渡しに行くということを、主は知っていました。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」とあります。
 いよいよ、ご自分が弟子の裏切りによって「殺される」ことになることが、決定的になった瞬間に、御自身の「死」を、「栄光」という言葉で表現されたのです。
 イエスが言われた「栄光」は、主イエスの「死」のことなのです。
    「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(31節)
 主は、時系列では、これから御自身の十字架刑が開催される御自身の「死」を「栄光」と表現され、既に「事が成就した」こととして語られています。
 主イエスにとって「死」は、既に終わったことのように語られるほどに確定した事として語られたのです。
 主イエスにとって、「十字架の死」は「栄光」でした。
 そして、主イエスが「十字架の死」すなわち「栄光」をお受けになったことが、「父なる神」に「栄光」を与えることになったと言われたのです。
 主イエスにとって、ご自身の命運を語ることは、即ち神の「命運」を語ることでもあったのです。
 主イエスにとって、「父なる神」を語ることは、ご自身を語ることだったのです。
 ご自身を語らずしては、「父なる神」を語ることはできなかったのです。
 最初のキリスト者共同体の人々は、この主の御言葉を聞くとき、主イエスと神が「一体」の存在であり、「同一・同質」のお方だと、信じたことでしょう。

4.「栄光」が指し示すもの
    「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」(32節)
 すぐさま、主イエスは、続けて逆のことを言われました。主イエスが「父なる神」に「栄光」を与えたのであれば、「父なる神」も、主イエスに「栄光」をお与えになる、と言うのです。
 そうすると、主イエスにとって、最初の「栄光」と表現された「十字架の死」は、やはり「父なる神」が与えたというよりは、主イエスご自身が自らすすんで決断したもうた「死」だということになります。
 主イエスが自らの「意志」で、「十字架の死」を決断したことが「栄光」だったのです。主イエスが決断した「栄光」であったからこそ、主イエスは「父なる神」に「栄光」を与えることとなった。神はイエスによって、「栄光」をお受けになったのです。
 ややこしくてすみません。でも大事な事なんです。
 イエスさまによって神さまは「栄光」をお受けになられた。そうであればこそ、神さまもイエスさまに「栄光」をお与えになったというのです。ですがこの際の「栄光」は、「昇天」のことでしょう。「栄光」という言葉が指し示している「事柄」が違うのです。
 整理します。
 主イエスが自ら決断された「栄光」を「主イエスの第一の栄光」と呼びましょう。これは「十字架の死」を意味します。
 主イエスが、「主の第一の栄光」をお受けになったことにより、「父なる神」にお与えになった「栄光」を「父なる神の栄光」と呼びます。
 そして、そうであればこそ、神がご自身によって、主イエスにお与えになる「栄光」を「主イエスの第二の栄光」と呼びます。これは「イエスの昇天」を意味します。
 だから、主イエスの「栄光」は、ご自身の決断による「十字架の死」と、神によって与えられた「昇天」という二つの事柄を指し示していることになります。
 それでは、主イエスによって、神に与えられた「栄光」は「父なる神の栄光」ですが、これは何を指し示しているのでしょうか。これが問題です。

5.父なる神の栄光
 主イエスおん自ら決断したもうた「十字架の死」と「復活」(ここでは復活も含めましょう)によって、神も「栄光」をお受けになった。その「栄光」とはいかなるものであるか。之が問題でした。
 わたしは思うのです。
 子なる神たる人の子主イエスが、呪われた十字架刑に処せられ、無残に死んでゆかれた事をもって、主イエスは「栄光」という言葉を用いられました。
 地上的な価値観からみると、もっとも「栄光」とはほど遠い惨い死です。この主イエスの無残極まりない「死」をもっとも高貴な価値を示す「栄光」と言われたイエスの「もののみえかた」こそが、このことと深くかかわってくるでしょう。
 神にとって「栄光」とはいったい何だったのか。
 ご自身と等しい子なる神を「死」なせなければならない「父なる神」にとって、主イエスの「栄光」はもっとも受け入れがたい事柄であり、ご自身の「死」よりも受け入れがたい事柄ではなかったか。神にとってイエスの「栄光」は、受け入れがたい「断念」だったのではないでしょうか。父なる神は、子なる神イエスを被造者である人類とは比ぶべくもない最愛の存在であった筈です。ご自身と一体、同一同質の存在のイエスが自ら死へと向かわれることほど、神にとっての「苦難」は他にあり得ない筈ではなかったでしょうか。人類が滅亡するよりももっともっと受け入れがたい事ではなかったでしょうか。
 それでも子なる神イエスは、父なる神が創造したもうた人類という父なる神にとっては、離れてしまった「こどもら」をもまた、ご自身同様に愛しておられることを、他の誰よりも,否、主イエスのみが、もっともよく知り給ふていたのです。神が愛する人類を、再び神の子どもらとして父のみもとへと送りとどけることを、主イエスは、神のため、人類のために決断したもうたのです。この決断は、だから、父を愛する子として主ご自身が決断したもうた事でした。父なる神は、この決断に苦しみたもうた。子を喪うことほど親にとって辛く苦しいことはありません。父なる神は、この苦しみを黙って見守り続けるしかなかったのです。親として子が親を思い決断した事です。どんなに辛く苦しくとも見守るほかはない痛みを神は耐え続けました。
 この痛みは、人類をわがもとへと送り届けようとする子の愛をよく知るがゆえに、耐えねばなりません。
 この神の痛み、苦しみ、忍耐こそが、神の愛のしるしです。この愛のしるしをこそ、「父なる神の栄光」と呼ぶほかはない、わたしには、このように思われてならないのです。

6.神の愛 苦難に耐える意志
    「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(34節)
    互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(35節)
   主イエスは、人類に、わたしたちに「掟」を授け給いました。
 この掟でも、「類比」が語られます。「~のように」という言葉が、「類比」を意味します。
 主イエスが、わたしたちを「愛されたように」と言われたからには、わたしたが「互いに愛し合う」ためには、どうしても、主イエスがわたしたちを愛された、その現実を私たちが知る必要があるということです。知らなければ、主イエスが私たちをどのようにして愛されたのかわからないのですから、主がわたしたちを「愛されたように」愛し合うことができません。
 ですから、わたしたちは、この「類比」を成就するためには、主イエスがわたしたちをどのよう愛しておられたのか,研究しなければならないのです。
 主イエスは、わたしたちを愛した、そのことはすべて十字架の死という主イエスご自身を、捧げたもうた一事にかかっています。主はわたしたちを父なる神のみもとへと送り届けるために、命を捨てたもうたのでした。「人、その友のために命を捨てる。これよりも大きな愛はない」と、主イエスは言われました。
 そうなのです。究極的な愛の実相は、友の為に命を捨てることです。犠牲の愛です。互いに互いのために命を捨てることを主は「掟」として授け給いました。
 では、日常の暮らしのなかで、具体的には、この犠牲の愛はどのように実践できるのでしょうか。
 実は、このことがいちばん大切なことです。
主が身をもって決断された「犠牲の愛」を、わたしたちは普段のありふれた暮らしのなかで、どのように実践してゆくのか。それは、なにか原則が示されているわけではありません。暮らしのなかの時間は刻一刻と移り変わります。状況は毎日変わります。具体的な状況のなかで、わたしたちも、決断を日々下す連続のなかに生きています。
 ひとつの提案をしたいと思います。
「主イエスなら、いま、ここでの状況で、どのように決断されるだろうか」と、ほんの少しでも考えてみる。そして、こころなかで、主イエスならば、このようになさるのではないかと浮かび上がってくる事を実践するようにしたらどうであろうか。主のみこころを尋ねながら個々の状況のなかで決断するということです。


2026年4月20日月曜日

 2026年4月19日 (復活節第3主日)

『まことの羊飼い』

ヨハネによる福音書10章7節~18節


1.羊の門、囲い

  主イエスのこれらの言葉は、比喩で満ちている。

  羊も比喩なら、門も比喩だ。

 比喩が指し示しているものは、「わたしは」という主語によって、限定されてくる。羊は、弟子であり、キリスト者であり、人類をも指すという具合に広がってゆく。

 さしあたって、聴き手のわたしたちは、羊とは、この「わたし」のことだと受けとめる。それでよい。

  「わたしは羊の門である。」と主イエスが語られるとき、羊としての「わたし」にとって、主イエスは「救い」の「門」である主イエスの前にいるのである。


2.自己選択権ということ

  「わたしは羊の門である。」と主イエスが語ってくださるとき、「わたし」には、通るべき門をはっきりと知っている。だから、そこには迷いはない。

 ところが、「わたし」は通るべき「門」が主イエスではない場合があるというのだ。

 その「門」は、主イエスよりも「前に来たもの」が、「門」を自称する場合の「門」だ。主イエスはその偽りの「門」を「盗人」、「強盗」と呼ぶ。この場合、「わたし」はこの「門」を通ってよいかといえば、良いわけがない。この「門」は、通ってはいけない「門」なのだ。

 この偽りの「門」が「わたし」の前にあるとき、「わたし」は、選ばねばならない。

 通ってはいけないが、通るか通らないかは、やはり選ばなければならないのだ。

 「わたし」には、どちらかを選ぶ権利がある。自己選択権があるのだ。

 善の道と悪の道がある。善の道を選ぶべきであることはわかっている。しかし、「わたし」は善の道と悪の道のどちらかを選ぶ権利があるというのだ。

 創世記の堕落の物語では、エバもアダムも、神の戒めを守る道と蛇の誘惑に乗って戒めを破る道の両者が、彼らの前にはあった。彼らには自己が行くべき道を選ぶ権利があったのであった。神の戒めを守るべきことはわかっていた。しかし、彼らは神の戒めを破る道を選んだ。

 この物語は、自己選択権という権利の恐るべき本質を教えている。


3.悪を選ぶ権利はあるのか

  偽りの「門」、すなわち、「盗人」、「強盗」の目的は、「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」。目的は明白だ。

 「盗み」、「殺人」、「滅亡」どれもが、「わたし」が願わざるゴールだ。誰もこんな目的地へ行きたいはずはない。しかし、エバもアダムもこの道を選んだ。ゆえにこそ、彼らの末裔の「わたしたち」の世界は、「盗み」、「殺人」、「滅亡」に満ち満ちているではないか。

 某国は公然と他国の石油利権を盗むと公言している。ミサイル攻撃で無辜の民が死んでも平気だ。文明全体を滅ぼすとさえ言いきる。こんな世界に誰がした。根源には自己選択権がある。こんなことを決断する為政者を選んだのは、「わたしたち」に他ならない。

 人は、悪の道を自由意志によって選択するかもしれない存在なのである。誰しもが願わざる悪の道を、人は選ぶかもしれない存在なのだ。

 「自己選択権」は危険な陥穽(落とし穴)なのである。

 自分で選ぶということは、自分では選ぶことが本来できない筈のことを、選ぶことができると錯覚することではないのか。

 たとえば、わたしたちは、人のものを盗むことができるとか、人を殺すことができるとか、人を貶めて滅ぼすことができるとか・・・・。

 偽りの「門」の目的は、このような事が蔓延することだ。けれどもわたしたちには、このような所業を選ぶことは、本当に「わたし」の選択の権利なのかと言えば、そんな権利が許される筈はないではないか。そんなことを選ぶ権利は本来ありえないはずではないのか。


4.羊は彼らの言うことを聞かなかった。

  しかし、幸いなるかな主イエスは言われた。

 「しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」と。

 主はあえて、過去形で、「聞かなかった」と言われた。

 そのこと(既に過去の既定の事柄だということ)が示す事は、羊が偽りの「門」を選ぶことはなかったと過去形で語ることにより、その事は、選ぶか選ばないかという選択の事柄ではなく既に決定済みの事柄なのだという意味にとれる。つまり、「選択」の問題ではないという事なのだ。「決定済み」の問題なのだと主は言われたのである。

 人類にとって、アダムとエバ以来の「悪の道」は既に過ぎ去った過去のことであり、主イエスによって開闢する人類の新たな歴史においては、人は、悪の道を選ばなかったという決定的地点が既に始まっているというのである。新しいアイオーンが始まっているのだ。

 換言すると、人は、善の道を選ぶか悪の道を選ぶかという自己選択権に、惑う必要はもうないということだ。人は、偽りの「門」、悪の道を選ぶ可能性は既に存在しないというのである。

 なぜなら「羊すなわち人類」は、主イエスを既に知っているからだというのである。

    わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(14節)


5.「わたしは羊の門」=神の先行的選び

  これは限りなき恵みの宣言である。

 〈善の道を進むか悪の道を進むか右往左往する自己選択権という自由の苦悩〉から人は解放されたという解放の宣言だからである。

 主イエスによってもたらされたイエス御自身の解放の福音のまえで、人は、ただ主イエスに従うという唯一の道を通る以外の道を選ぶ必要はなくなったのだ。

 主イエスという「門」は、「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける、と言われる道である。

 主イエスという「門」の前で、人は既に、主イエスという「門」」を知っていると主は言われる。

 「人」がすなわち「わたし」が、主イエスを知っているのは、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と言われたとおり、主イエスが「人」を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからに他ならない。

 人がイエスを発見するのではなく、主イエスが既に、人を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからこそ、「人」すなわち「わたし」は、主イエスを知っているのだ。

 ここに選択肢は存在しない。ただ、神の一方的な選びがあるだけである。

 「わたし」が、主イエスを知っているからではなく、主イエスが「わたし」を既に選んで知っていてくださるからこそ、「わたし」は主イエスを知っているのだ。

 ゆえに、この主イエスの先行的選びによって、わたしという人間が主イエスの前にたつとき、既にわたしは主イエスに捉えられた者であるがゆえに、主イエスを知っている。

 これを神の一方的な恵みといわずにおれようか。


6.雇い人

 雇い人もまた何者かを比喩している。

    羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――(12節)

    彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。(13節)

    ここで深く立ち入って解釈する必要はない。

 主イエスは「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる人」を引き合いに出しているのだ。

 辛辣な宗教批判なのである。主イエスは、危機に瀕して逃走する人を引き合いに出して、「羊」のことを心にかけていない事実こそが、「羊飼いと雇い人の違い」だというのである。

 羊の世話を委されていながら、心にかけておらず、危機に瀕すれば遁走する無責任な者を揶揄している。

 厳しい宗教者批判だ。

 主イエスは、どこまでも、個々の具体的な、固有な存在に固着してゆかれる。いつもいつも「一人の人」をみつめておられる。個々の固有な存在を、主はみつめておられる。

 羊飼いは一頭一頭の羊の存在をこよなく大切にする。しかし雇い人はそうではない。自分だけが助かることにしか関心がない。


7.この囲いの外に   「囲い」の消滅

    わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(16節)

  主イエスの「一方的な先行的な選び」は、「門」の中、すなわち囲いの中の「羊」たちだけが対象なのではない。囲いは「狼」のような外敵から「羊」を守る防護柵のことだ。「羊」を守るためには「囲い」が必要なのだ。

 しかし、主イエスは言われた。この囲いの外にも、「羊」がいる。この「羊」もまた「一方的な先行的な選び」の対象だというのだ。

 「囲い」は、防護柵なのだが、ともすると、「壁」に変質しかねない。差別のための自己正当化になりかねない。「壁」の中の人間のみを守り、外の人間を排除し、外敵化する人間の罪がそうさせる。

 しかるに、主イエスは,常に「囲い」の外に、「わたしの声を聞きわける羊」に心にかけたもう。人のこころの中に蔓延る「壁」を不断に崩壊させて、遠くへ遠くへと「羊」を捜したもうのだ。主イエスは、「囲い」の中の羊を放置してでも、どこまでもどこまでも「迷える子羊」を捜し求めてゆかれるのだ。

 こうして、世界中の羊は、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

 この事は実現するとき、容易に「壁」に変質する「囲い」は必要なくなる。

 主イエスのこの宣言は、終末論的な希望である。主イエスが神だからこそ言い得た言葉としか思えない。

 ここには、世界大の共同体が、「一つの群れ」となるという理想世界実現の確証が語られている。人間の語り得る言葉ではない。神にしか語り得ない。究極的な希望の宣言だ。


8.十字架の死と復活の意志 

    わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。(17節)

    だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(18節)

 「わたしは良い羊飼いである」という宣言は、十字架の死と復活の出来事の予告であり、意志表示として理解されなければならない。

 実は、人は、死ぬことができない。

 人はやむなく死ぬのだが、死ぬことができるから死ぬのではない。人は死ぬことはできないのに死ぬのだ。なぜなら、死ぬ事が出来るのはただ神のみだからである。

 神は死ぬことができる。なぜなら、再び生きることができるからである。神はいのちを捨てることができるし、いのちを再び甦らせることもできる。だからこそ、死ぬ事ができるのである。再び生きることができる方のみが死ぬ事ができるのである。

 しかるに、人は、地上の生を終えるが、それは死ぬ事ができるという意味ではない。死ぬ事ができないのに、やむなく死なざるを得ないのだ。このやむなき地上の死は「死が支配する」だ。この「死」とは「神と人との関係喪失性」を意味する。神なき事、神喪失性こそが「死」の本質である。

 この「死」(神喪失性)はキリストの「死」によって滅ぼされねばならぬ。

 「死」(神喪失性)の「死」だ。実に「死」は十字架の死に呑み込まれたのである。

 人は、死ぬ事ができる神によって、再び生きるいのちに与って甦る希望によって、死ぬ事ができるようになる。

 人は、キリストのいのちに与って甦る希望があるとき、はじめて地上の生の終焉を迎える勇気を与えられるのである。

    わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(10節)

  「死」の「死」、すなわち復活の希望によってこそ、人は死ぬ事ができるのである。キリスト・イエスによって「羊が命を受ける」からである。

 主イエスは、明確に、「羊」すなわち「わたし」の「命」(甦りの命)を与えることを、このみことばによって確約されているのである。「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」との宣言は、羊すなわち「わたし」が「いのちを受けるため、しかも豊かに受けるための確証に他ならなかった。

 主イエスは、神の独り子なる神として、全人類を「羊飼い」として、永遠のいのちを与えんがため、来られた。

 その確証は、全人類にまで及んでいる。

 わたしたちは、ただ主イエスの御前で、主に従うだけで、既に主イエスの「門」を通っているのである。

 諦めてはならない。主イエスの前に立つとき、「わたし」は既に、主イエスに知られている。

 知られている「わたし」は「主イエス」でありたもう「天国の門」を通るべく、主の御声を聴き分けることができる者と変えられている。

 救いは、既に確定しているのだ。ここに迷いはない。


2026年4月6日月曜日

 2026年4月12日復活節第2主日

ヨハネによる福音書20章19節~31節

『復活顕現』



1.不思議に思う事

 甦りの主イエスが、突如として弟子たちの前に出現した。彼らは家の戸に鍵をかけて潜んでいたのだ。

 この家の中で、わたしが不思議に思うことがある。

 それは、弟子たちの「恐怖心」だ。彼らがユダヤ人たちを恐れていたのはわかる。このことが不思議なのではない。彼らはナザレのイエス、ガリラヤ人の仲間、弟子だというだけで、主イエスを殺害し狂ったように敵愾心をもって捜し回っている敵対者たちが、そら恐ろしかったのだ。この心理状態は、紛れもなく主イエスを裏切ったペトロの心理と同質のものだ。

 弟子たちは、主イエスの仲間、弟子だということを隠したいのだ。自分たちも捕縛され、刑罰を受けるかもしれないという恐怖に囚われていたのだ。だから、鍵をかけて誰にも居場所を知られないように、潜んでいたのである。こういう「恐怖心」に、彼らが落ちこんでいるという事情がよく伝わって来る。

 彼らは、なるべく別々に行動しないようにしていたのだろう。個別に行動して、敵対者にそのうち誰かが捕まったりしたら、ペトロがイエスを裏切ったように、仲間を裏切らないとも限らない。疑心暗鬼になりたくはないのだ。だから、なるべく一緒にいよう。捕まるときは、一蓮托生だ。みなで捕まろうではないか。そんな自暴自棄にもなっていたもかもしれない。彼らはひたすら怖かったのだ。逃げたかったのだ。

 そんな彼らの前に、甦りの主イエスは、瞬時に現れたのである。わたしが「瞬時」だと思うのは、このとき、主イエスは、戸をあけて入ってきたのではなかったからだ。戸をあけて入ってきたのであれば、瞬時とは言えない。戸を開ける動作、歩く動作が必ずあるからだ。動作があれば、そこにはある程度の時間経過があるはずだ。だから、この経過時間があったのであれば、彼らはその経過時間のあいだ、主イエスを見続けていたことになる。

 ところが、甦りの主イエスは戸をあけて入ってきたのではなかった。

     そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(19節)

   突如として、甦りの主イエスは、彼らの「真ん中」に立って、「シャローム」と言われたとういうのだ。

 だから、このイエスの出現は、突然の出来事、瞬時の出来事だと云わねばならない。イエスは鍵がかけられていた家に鍵に触れもせず、戸を開けもせず、「来た」のである。甦りの主が、彼らの真ん中に立って、一見して彼らと少しも変わらない「身体」をもった存在として「来た」。甦りの主イエスが、「甦りの身体」をもった存在として、弟子たちの前に、現にいる。少しも変わらない身体であるのに、鍵をあけず、戸を開けもしないで、瞬時に出現したのであった。

 ここに第1の不思議がある。

 同じ「身体」であるにもかかわらず、同じ「身体」ではありえない「甦りの身体」として、主は今、ここにおられるのだ。不思議としか云いようがない。

 そして、第2の不思議が弟子たちに起きた。

    そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(20節)

 「恐怖心」でいっぱいだった弟子たちが、甦りの主の「出現」を経験して、「喜んだ」のだ。

 「恐怖」から「歓喜」へと変化したのはどういうことか。不思議ではないか。あの怖れは、主イエスと仲間だと思われることが、自分の身を危うくする事から来ていた恐怖心だった筈だ。それがいま、主イエスと会って、イエスの弟子として喜んでいるのだ。恥ずかしくないのかと思ってしまう。あれほど、イエスの仲間だということを恥でもあるかのように、ひた隠ししたペトロと、まったく同じ質の恐れに落ちこんでいた彼らは、いま、イエスを会って喜んでいる。どういう心境の変化なのだろう。彼らは単に、『沈黙』に登場する「キチジロー」のような弱く卑怯な人間にすぎないのか。


2.何かが変わった

    イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)

    そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。(22節)

    だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(23節)

  弟子たちの「喜び」には、何かが変わったことの兆しが感じられる。そう考えなければ、この「不思議」さはただの謎に終わるだけだ。弟子たちの人格に、何かが起きたとしか考えられない。さっきまで恐怖に怯えていた彼らと、いま喜んでいる彼らとは、まったく同じ弟子たちではあっても、まったく別の人格が彼らのなかで現れ出てきたとしか考えようがないのだ。

 喜んでいる彼らは、もはやさっきまでの小心者たちではない。彼らは、甦りの主イエスに出会って、別人格の存在と、既になってしまっているではないか。


3.派遣の類比

   甦りの主イエスは言われた。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。 

 この言葉には、類比がある。

 類比とは何かというと、「~のように」という言葉が意味するものを類比という。

 「父なる神が主イエスを遣わしになった。」

 父なる神の主イエスの派遣の出来事と「同じように」主イエスが弟子たちをお遣しになる。つまり「父なる神」の「子なる神イエス」の派遣と、「子なる神イエ」の「弟子」の派遣は、この「~ように」という関係の類比となっているのだ。

 この類比の関係は、対応関係になっている。

 この類比が成り立っているという事は、何を意味しているのか。

 弟子たちが主イエスによって派遣されたという事実は、神とイエスの関係に対応している。主イエスの存在と弟子の存在との間には、神とイエスの関係の如き(ような)関係が生起していることになったことを意味するのである。

 とんでもない事が起きていたのである。主イエスが弟子たちを派遣したという事実は、弟子たちが主イエスのごとき(ような)存在へと変えられているというのである。何かが変わったと、わたしが感じたのは、このことだ。弟子たちは、聖なる者とされたのである。

 

4.聖霊を受けよ

   聖霊の原語はプニューマという。この言葉は「息」をも意味する。まさに主イエスは、息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたのだが、「息を受けよ」と言っているに等しい。

 神の息は、生命を与える。アダムは神の息を吹き入れられて生きる者となった。キリスト・イエスの息を弟子たちは吹き入れられて生きる者となったのである。キリストの生命に生きる者となったのである。

 

5.聖霊の生命に変えられる「聖化」

   このように考えることができると、あの「不思議」は、感嘆に変わる。そうか、それでわかった。あの主イエスを裏切った卑怯なペトロが、どうして殉教をも厭わない聖ペトロに変わったのか。合点がいった。ペトロは昔のペトロではなくなったのだ。聖なる者となったのだ。

 主の派遣の命令によって、彼はまったく新しいキリストの生命のごとき生命を生きる者とされたのだ。

 わたしが、感じた「不思議」体験は、主イエスのみことばによって氷解した。

                 

6.「不信のトマス」

   ディディモと呼ばれるトマス。みなさんよくご存じの「不信のトマス」の出来事が、次に登場します。

    そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」         (25節)

 トマスは、仲間の証言では、甦りの主イエスの顕現を信じないという懐疑の人であった。彼は自分の認識力を信じて、仲間の証言を手放しで受け入れることを拒否する強い意志の持ち主だったようである。2千年前の古代社会にもこんな慎重な精神の人がいたことには少しく驚きを禁じ得ない。ある意味では、石橋を叩いても渡らないという慎重さは、詐欺やフェイクが横行する現代でも必要な態度とも言えそうである。

 彼は他の弟子と同じだとも言える。トマスは他の弟子が先に甦りの主イエスに出会った時に、そこに居合わせなかっただけだ。他の弟子たちは、現に甦りの主イエスに出会っているから、信じるも信じないも現に会っているのだから、信じない事はできない。会っているのに会ったことを信じないとは誰も言えないからだ。でもトマスは、まだ会っていないのだ。条件としては、甦りの主イエスに出会う前の他の弟子と同じなのだ。トマスだって,実際に会ってみれば信じないということは不可能になる。他の弟子と実は条件はまったく同じなのだ。

 ただ、トマスだけは、最初の主の顕現の時に,その場に居合わせなかったにすぎないのである。

 だから、トマスの不信というのは、少しかわいそうな気がする。他の弟子も条件は同じなのだから。

 

7.「決して信じない」

  トマスだけ単独行動していて、主の顕現の現場に立ち会うことがなかった理由が気になるが、それはさておくとして、彼の「決して信じない」というきっぱりとした断言には、いくぶん寂しさを感じないではない。

 自分一人だけ、甦りの主イエスに会わなかったということが、彼の心の傷になったのかもしれない。他の弟子たちだって、受難の死と復活の予告を聞いていたのに、主の言葉を信じられないでいたという点では、トマスと何の差もない。頑なに「決して信じない」と言いきるのは、自分一人、置いてけぼりをくったという痛みから来ているのかもしれないのだ。そう考えてゆくと、トマスには同情できる。


8.信じない者ではなく、信じる者になりなさい。

    それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)

   「信じない者ではなく」と主は言われた。まるで、トマスが「決して信じない」と言いきったあの言葉を知っているかのようにである。

 ところで、わたしにはこの主のこの言葉からは、深い愛が感じられる。寂しい彼の心のうちをすべて知っていているかのような言葉に聞こえる。

 すると、トマスは、即座に答えた。「主よ、わたしの神よ」。

 ここで注意すべきは、トマスは手のみ傷に指を当ててもいないし、脇腹に手を差し入れてもいないことだ。

 彼は即座に、「主よ、わたしの神よ」と信仰を告白しているのだ。彼は自分の認識力による「確認行為」は何もしていない。彼にとって、そんなことは実はどうでもよかったようにしかみえない。彼はイエスの愛に触れて感動している。自分の手で触り、自分の目でみないうちは決して信じないと言っていたのに、彼は触ってもいないし、目で確かめようともしていない。彼は主に出会った瞬間、信じないではいられない存在へと変えられているのだ

 

9.見たから信じたのか

    イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)

 主イエスはトマスに、このように語ったが、実はトマスにとって、認識手段による確認などもうどうでもよかった。トマスは見て信じた訳ではないのだ。イエスの愛の言葉に触れて彼は感動して、人生がひっくり返ったのだ。

 だから、主のこの言葉は、トマスを「代理」としている背後の存在者である全人類に向けて語っておられたのである。

 見ないのに信じる人は幸いだという言葉の意味は、トマスの背後に存在するすべての人を指し示して、言っているのだ。人類は、もう既に甦りの主イエスを肉眼で「見て信じる」ことは不可能となっている時代に生きているからだ。

 さらに言えば、現代、目で見ることには、実に多くの虚偽が存在する。もう「見たら信じられる」ことは不可能なのだ。見たように信じる事は危険な時代になっているのだ。実際見るものは疑わしいのだ。

  信仰とは、聴くことによる。見て信じる信仰は偽者だ。信仰は、神の言葉を聴くことによって、生起する。

 だから、見るのではない。信仰は見ることによっては起こらない。見ないで信ずることが、本当の意味での信仰なのだ。見ないで信じる。それは神の宣教に聴くことによって信じる出来事が、奇跡として生起するということなのである。 

 ここに、教会の宣教の根拠がある。だから、教会の内部でこそ、甦りの主イエスの言葉を聴くことが、こよなく重要なのである。

 

10.魂の家の真中に立つ甦りの主イエス

   弟子たちが隠れ潜んでいた家は、わたしたちの「魂」を比喩している。甦りの主イエスは、鍵をかけたわたしたちの「魂」の戸を開けずとも、「魂」の真中に顕現されたもうのである。

2026年4月4日土曜日

 2026年4月5日(日)(復活日主日)

   復活日主日

『キリストの復活』

マルコによる福音書16章1節~8節

主イエスはここにおられない。


マルコによる福音書16章1節~8節
1:安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエ
    スに油を塗りに行くために香料を買った。
2:そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
3:彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」
    と話し合っていた。
4:ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に
    大きかったのである。
5:墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたの
    で、婦人たちはひどく驚いた。
6:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ
    のイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられな
    い。御覧なさい。お納めした場所である。
7:さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたよ
    り先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかか
    れる』と。」
8:婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、
    だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


1.弟への想い
    先月15日に、わたしの弟は、わたしより先に天へと旅立ちました。弟はエンバーミングという処理をされて、死後1週間後の主日に、わたしの司式で、家族に囲まれながら最期の告別式を迎えました。
  エンバーミングとは、遺体は死後硬直のあと、急速に腐敗するので、全身の血液を防腐剤と入れ替え灌流固定することを云うそうです。この処置によって、死後の自己融解を最小限に抑え生きた状態に近い形態を保持することができるということでした。
 遺体となった弟は、驚くほど母に似ていました。やがて、私自身もこのように看取られる日が来るのだなと思いつつ、幼き日からの彼との思い出が、走馬灯のように思い起こされるのでした。
 そして、思ったものです。弟も主イエスに愛されていたなと。神から愛されたからこそ、人々を愛する医師という仕事をこよなく愛したのだと。
 そんな弟が、神のみもとへと旅立ったのだと、わたしは心から願い祈りました。
2.イエスの死後も大祭司は恐れていた
   主イエスが十字架上で絶命された翌日から、ユダヤ教の安息日だったので、イエスの葬りは慌ただしく執り行う必要がありました。最高法院の議員でもあったアリマタヤのヨセフが、許可を得て、主イエスの遺体を引き取り、しかるべく丁重に葬りました。墓は大きな岩をくり抜いた大きなものだったようです。入口は大きな石で塞がれ、ローマの封印がなされたことでしょう。遺体
が盗まれることを恐れたのです。墓場には見張りが配置されるほどに用心深く警護されたのは、イエスが復活すると予言していたからです。
 大祭司カイアファらは、主イエスを神の冒涜者として殺害すべしと目論んでいた反面、イエスの死後も、イエスの存在に脅威を感じていたのです。
 本当に復活したとしても、弟子たちによって遺体が盗まれたにせよ、どちらであろうと、イエスの影響力が雲散霧消するとは思えなかったのです。
 死人を甦らせたイエスだ。自分自身が甦らないとは限らない。心の片隅では、イエスの復活をなかば信じ、なかば恐れていたのです。だから厳重な警備を要請したのです。
 事柄上、それゆえ、甦りが信じられるか信じられないかという問題ではなかったのです。ファリサイ人は死後の復活を信じていました。イエスは復活するかもしれない。
 そう彼らが半ば本気で信じていたと、わたしには思えるのです。けれども、イエスが復活したとしても彼らにとっては、イエスがキリストであるという信仰の告白には至らない。復活の主イエスに出会ったからといって、即信仰に至らない者も実際にはいました。だから、復活が信じられるか信じられないか
は、敵対者たちには問題とならない。もし、本当に復活したのであれば、それはイエスの弟子たちの隠謀論だと噂を流せばよい、そう彼らは考えたからです。
 敵対者たちが、主イエスをキリスト(メシア)と信じるようになるためには、神御自身の選びの御業をたまわる出来事が生起しなければなりません。そして、その出来事が起こらないとも限らないのです。現実に、敵対者であったサウロは、復活の主に出会い、瞬時に信じる者へと変えられたのです。
3.油を塗るために
 厳重に見張られていた主イエスの墓に、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメらが、週の初めの朝早く、向かいました。
      彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。(3節)
  女性の力では、到底重い石をどかせることはできませせん。彼女たちは入口を塞いでいる大きな石をどかす算段など何も考えずに、ともかく入口まで行ったということになります。思慮が足りない。助けのあてもないのにも関わらず、駆けつけたという風情です。混乱していたのです。
 香料も買ったようですが、決して安価なものではないはずなので、彼女らにとってイエスがどれほど慕わしい存在であったかをうかがわせます。それにしても婦人たちの行動力には驚かされます。決して思慮深いとは言えませんが、その即座の行動の素早さは、彼女らの思いの深さ、強さを感じます。
 それにしても、入口の石をどうやって動かすつもりだったのでしょうか。もし石を動かす助けがいなかったら、彼女にはどうすることもできないでしょうに。あとさきを考えず、ともかく行こうではないか、という行動には無謀さすら感じます。
   内臓は死後6時間後には既に腐敗が始まり、48時間後には自己融解する
と言われます。主イエスも死後48時間をゆうに経過しているので、自己融解し、遺体ならば、強烈な腐敗臭や血液が漏出している状態になっていても不思議ではありません。
 どんなに高価な香料でも、強烈な腐敗臭を防ぐ事は困難だったろうと思います。焼け石に水です。それでも、彼女らは、ご遺体に一目会いたいとう思いで墓に来た。
  それにしても、なぜ男の弟子たちは動かなかったのか。まだ恐れていたのか。婦人たちの決然とした行動力とは、あまりも対照的な男の弟子たちの姿です。
4.転がされていた入口の非常に大きな石
      ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。(4節)
   「目を上げてみると」とあるので、墓は小高い丘の中腹にあったのでしょうか。
 あるいはもっと象徴的な意義を表象しているのでしょうか。つまり、彼女らは、「上」を仰いでいるのです。彼女らは、ただの石の移動後の状況を見たのではなく、神の大きな力を見たということです。彼女らは自力では到底動かせる筈もない大きな石であったにも拘わらず、途轍もなく大きな力が、この状況下で人力をはるかに超えた力が働いて、非常に大きな石が転がされているという驚くべき現実をみたというのです。
 既に、封印が解かれて入口から大きな石は転がされていました。
   彼女らは、神の啓示の出来事を、ここで既に経験しはじめていたというべきです。なぜなら、入口の石は、神の力でしか転がすことは不可能だということは、彼女たちは知っているからです。墓の中に入ること自体が奇跡なのです。
5.白い長い衣を着た若者
      墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。(5節)
  わたしたちはあえてマルコによる福音書の記述だけを通じて、神の啓示の出来事を黙想しましょう。
 墓の中に、彼女たちは入って行きます。
 ここに遺体独特の腐敗臭の痕跡すら書かれていません。それどころか、主イエスのご遺体は影も形もありません。すなわち、主イエスはここにはおられないのです。
 そればかりか、彼女たちを驚かせたのは、白い長い衣を着た若者が右手に座っていたのです。
 その若者が一体誰なのか彼女らにはわかりません。
 見た目の姿形によっては、若者が誰であるか分からないのです。この正体不明の若者が「長い白い衣」を着ているのは、あの基督の変貌の時の、主イエスを彷彿とさせますが、主イエスその人ではないことは明らかのようです。姿形が主イエスであれば、彼女らは、「主だ」とわかるはずだからです。ただ彼女たちにとって、この長い白い衣を着た若者が「神の使い」「天使」のような存在だということを感じとるには充分だったようです。彼女らの驚きは、「神の使い」を間近に見たという驚きだったのです。
 婦人たちは、この若者と出会ったことで、神の使いと出会ったと感じたということなのです。
6.あの方は復活なさって、ここにはおられない。
      若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。(6節)
   わたしたちは、この「若者」をあえて、「天使」と呼びましょう。婦人たちも、おそらくそう感じたと思うからです。
 最初に「若者」が告げた言葉は、第1には、婦人たちが主イエスを捜し求めているという事実。第2には、「主イエスは復活されて、ここにはおられない」という事実。第3は、この墓の中に、十字架で殺害されたイエスの遺体が安置された場所で間違いないという事実の三つでした。
 天使の告知は、主イエスの、この墓の中にはおられないという主イエスの不在がイエスの復活を意味しているのだという内容だったのです。「空虚な墓」の事実でした。
7.「空虚な墓」が意味するもの
    マルコによる福音書の「復活」証言は、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」という「イエス不在の告知」でした。復活の主イエスとの直接の遭遇は、マルコによる福音書においては記述されてはいないのです。他の福音書では、明確に復活の主との出会いは記録されているのに、マルコによる福音書だけは、「不在」がイエスの復活を指し示しているのです。そして、
次に天使が告げた事は「ガリラヤ」へ行けという命令でした。復活の主イエスとの実際的な出会いは、「ガリラヤ」で生起するという予言でもありました。
 先に述べたように、わたしたちは、マルコによる福音書に即して、婦人たちと復活の主イエスとの出会いを黙想しています。
 この「空虚な墓」での出来事は、まぎれもなく神の啓示の出来事の経験でした。彼女らは「上」を見仰いで、墓の入口の非常に大きな石が転がされている奇跡を経験しました。そして、墓の中に入り、本来遺体が安置されているはずの場所には、主イエスは不在であった事実に出会ったのです。
 神の啓示の出来事の内部で、神の不在を経験したのです。
   しかも、彼女らが主イエスを捜し求めているはてに、主イエスの不在を告知されるのです。なんという逆説( 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現)でしょう。捜し求めている先に、神と出会うという筋書きならば、それはそうだろうと納得できそうなものなのに、そうはいかないのです。しかも、この不在との遭遇は、彼女らが圧倒的な
神の奇跡の真っ只中で遭遇するのですから、複雑です。
 どう言ったらよいでしょうか。
 人は求道心の結果として神と出会うということでは、どうもないらしいというのです。そうではなくて、人はいかに浅慮短慮であっても、遮二無二に、神を思慕する決然たる一歩を踏み出してゆく時に、神が大きな石を転がしてくださったように、神はその時自らを開示してくださるというのです。しかし、それでも、その神の自己開示という奇跡の真っ只中で、人が遭遇するのは、「神の不在」という啓示だというのです。さらにもう一度しかし、この「神の不在」こそ、未来の「ガリラヤ」で、復活の主御自身を相まみえるというのです。つまり、復活の主イエスとの出会いは、たとえ、今・ここでかなわないとしても、やがて来る将来において(ガリラヤ)、必ずや復活の主イエスは、御自身と出会ってくださるということなのです。かかる意味において、女性たちこそが、人類ではじめて復活の主イエスに出会った人々だったのです。



2026年3月30日月曜日

 2026年3月29日 (受難節第6主日) 

棕櫚の主日(受難週4月4日まで)

マルコによる福音書15章21節~41節

『十字架への道』


1.時・場の違和感

 主イエスの復活を信じられないという人々がいます。 主イエスの同時代、同一の場所で、主イエスの復活を、それぞれの固有な「場」と「時」において、生きた人々がいました。

 彼らのなかには主イエスの復活を信じられない人もいたはずです。

 「信じられない人々」もいれば、「信じようとしない人々」もいたことでしょう。

 そして「信じないではいられない人々」もいました。

 復活の「時」、「場」を共有していた固有な生を生きていた人々にとって、主イエスの復活の出来事は、やはり、ほかの「時」「場」と同じ重さでしかない「日常」の一コマだった筈です。

 だからこそなのですが、わたしには、とても不思議に思えるのです。

 何の変哲もない「日常」だった筈の出来事が、人類にとって、比類のない「時」と「場」であったという事実、これは人類史にとって、「愛敵」という、それまで存在しなかった愛のありようを、人類の各員に贈与したことは紛れもない事実として、この出来事以後の歴史を決定づけているという事実によって証明された事実の決定的な起点という意味での事実となっていた事が、わたしには不思議でならないのです。

 これは、奇跡という意外に考えようがないのです。


2.主の十字架を担う「光栄」を賜った「キレネ人シモン」

 わたしは、まず、人類にとって決定的な出来事が、当時の人々のあいだでは、「日常」でしかなかった埋もれた経験だけを生きていた人々が圧倒的多数を占めていた他方で、主イエスの十字架の死の直前に、この決定的出来事に、図らずも、強制的に関わらざるを得なかった人がいた事に感謝せざるを得ないのです。主イエスの十字架を背負った人がいたのです。彼の経験は、わたしたちにとって極めて重要な意味を持っているからです。

 彼は、「田舎から出て来て通りかかった」にすぎません。まったくの偶然の遭遇でした。たまたま通りかかっただけの彼に、「兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」

 神の恩寵は、人間の主観を超越しているのです。

 彼の名は、「キレネ人シモン」。

 彼には「アレクサンドロとルフォス」という息子がいたようです。息子の名が残されているということは、キリスト者共同体に、彼らが名を残すに値する役割を担っていたのではという推測を可能にするでしょう。

 「キレネ人シモン」は、主イエス・キリストのゴルゴタへと続く坂道を、主イエスの十字架を担ぐという光栄を担うことが許された稀有な宿命を神から授かったのです。

 彼は自ら願って主の十字架を担いだのではありませんでした。担ぐことを、他者から強要されたのです。

 しかし、強要された事が、彼にとって、いや彼以後の全人類にとって大いなる恵みとなったのです。

 神の恩寵は主観的な願望を超越しているのです。

 

3.「痛み」は「神の愛の痛み」に対応する

 彼の肩に食い込む十字架の重量がもたらす「痛み」は、主イエスの「痛み」を彼に、否応なしに体験させました。

 彼の体を痛めつける激痛は、神の「痛み」を、彼が知る縁(よすが)なったのです。

 そして彼の「痛み」は、わたしたちにとって、神の「痛み」を追体験し、知るための、「光栄」として、意味深いものとなるのです。

 実に、わたしたちにとって「わたしの痛み以上の神の痛み」・「神の愛の証明」として受けとめ直す契機と変わるのです。「痛み」はこのとき、「十字架の痛みの光栄(反射)」となるのです。

 とはいえ、「痛み」は「痛み」です、わたしたちは誰しもが、「痛み」から解放されたいと願うのは当然です。「痛み」なのですから。

 主イエスは、わたしたちの「痛みから解放されたい」という願いを無視されたりはしませんでした。

 主は言われました。

 「重荷を負うている者は、わたしのもとに来なさい。」と言われました。(マタイによる福音書 11章 28節)

    疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

「痛み」という「重荷」を、主は共に担ってくださっています。

    わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイによる福音書 11章 29節)

    わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書 11章 30節)

 「痛み」「重荷」を、主は、同じ軛を負うてくださっているのです。人生から「重荷」が完全になくなるということではありません。「重荷」を負うことは「責任」を担うということですから、わたしたちは「責任」を負うことで、はじめて意義ある人生を送ることができるのです。わたしどもの信仰は、重荷を放棄する、責任を放棄するということではなく、共に重荷を負うてくださる神と共に生きる信仰なのです。

4.兵士たち

  言うまでもなく、このローマ兵たちにとっては、普段と変わらない日常の時間、日常の場所での振る舞いが、マルコ伝には無機質に記録されています。何の感情移入もありません。彼らには、イエスの処刑は、彼らの仕事のなかでの作業にすぎないのです。

 彼らは、この人類にとって決定的な出来事に、居合わせながらも、イエスの復活について何も考えず、何も感じない、ただ主イエスを殺すという彼らの仕事に、淡々と従事しているのでした。

 彼らにとっては、イエスの着ている衣服を分け合って、自分の取り分とすることだけが関心事でありました。

 イエスの腕に釘を打ち込み、足の甲を合わせてやはり釘を十字架の杭に打ち込む作業を、終えると午前9時でした。


5.午前9時

 午前9時に、処刑場に集まっていた人々は、野次馬もいたでしょう。嘲笑する者たち、侮辱する者たちでした。朝のこの時間に、わざわざ、忌み嫌われているこの場所へ集まるとは、彼らの、憎悪の関心度合いの激しさがわかります。

 罵声、嘲笑、哄笑がその場を支配していたようにみえます。主イエス処刑の「時」と「場」は、まさに現代の縮図そのもののように思われます。

 無関心なローマ兵、通りがかりの嘲笑する者たち、侮公衆に聞かせようとばかりに、代わる代わるに律法学者たちや祭司長たちが吐き捨てるように侮辱します。

「他人は救ったのに、自分は救えない。」と。

 遠くから婦人たちは見守っていた。またその他にも、イエスについてきた婦人たちが大勢いたとマルコ伝は記録しています。十字架のみもとに、怖くて近寄れなかったのでしょうか。哀しみの嗚咽を彼女たちは呑み込むようにして見守るほかはなかったのです。


6.「他人は救ったのに、自分は救えない。」

  「救い」とは何なのでしょうか。ここでイエスが命を永らえることなのでしょうか。主イエスは、人類を救うために命を捨てるために世に来られたのです。イエスは、この十字架につけられて殺されるために、エルサレムまで来られたのです。生きながらえることが目的ならば、エルサレムに来る必要はありませんでした。

 殺されることが分かっていながら来たのです。

 侮辱する者たちには、イエスを殺す事が最終目的だとことが、彼らの侮辱の言葉に明らかに示されています。

 彼らは、イエスがここで死なないことが、彼らにとってが不都合だったから、「自分を救ってみろ」と侮辱できたのです。彼らには、イエスが生き続けることが不都合でした。だから殺すのです。

 彼にとって、「メシア(キリスト)」は、生きてこそメシアでした。だから殺さねばならなかった。殺しさえすれば、イエスがメシアではない事が証明される、と彼らは考えていたのです。

 キリスト・イエスは、十字架で死なねばならない。このことについて、彼らは完全な無知であったのです。

 彼らにとって、イエス殺害こそ、最終目的であり、彼らにとっての最終的解決だったのです。

 イエス殺害が最終到達点だったからこそ、「他人は救ったのに、自分は救えない。」という言葉が、「侮辱」になり得たのです。

7.それを見たら、信じてやろう

  現代のわたしたちにとって、「それを見たら、信じてやろう」という精神的態度は、実に身近に存在します。

  イエスの復活を、「信じられない人々」もいれば、「信じようとしない人々」もいます。

 ここで、十字架上で死ぬためにイエスが世に来られたということについて完全な無知な人々は、「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と侮辱しました。

 「見たら,信じてやろう」という精神的態度は、はじめから、イエスが生きながらえることが、必要不可欠なはずだという自分自身の勝手な思い込みがあったがゆえにこそ、「十字架から降りてきて、生きながらえることなどどうせできないだろう」と、そう考えたのです。だから、「自分を救えない」という言葉が、彼らにとっては「侮辱」たりえたのです。

 イエスは、ここで死なねばならない使命があったことが彼らには理解出来ないのです。

 このような精神的態度の人々は、現代においても、多くみられるありふれたものです。

 イエスは、生きてこそ使命を果たすべきだった、という訳です。死んで花実が咲くものかという訳です。

 「救い」について、根本的に違うのです。

 「信じてやろう」式の「ものの考え方」は、そもそも、「絶対信じない」という態度と何も変わるところのないものです。「どうせそんなこは起こらない。やれるものならやってみろ。そうしたら信じてやる」という態度だからです。この態度は、およそ「信じる」という態度ではないからです。「信じてやる」は「決して信じない」と同根なのです。「信じるか信じないか」はこっちが決める、つまり人間が決めるというのです。

 およそ、「信仰」の名に値しません。自分を神さまより上に置いているからです。これでは「自分教」です。

   ここで主イエスを侮辱している人たちは、自分はイエスより「上」だと思っている人たちなのです。

 

8.エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。

   主イエスの、このみことばをどのように理解したらよいのか、理解に苦しんたことのない人はいないでしょう。

 主イエスは、ご自分が、祭司長、律法学者たちから殺されることになっていることを三度にわたって予告してこられました。堂々と十字架の死にむかって歩んでこられました。

 それなのに、なぜ、主はこのように叫ばれたのか。

 わたしたちは、言葉が首尾一貫して矛盾のないことを

無意識のうちに好む傾向があるのです。ですから、主イエスのみことばも、人間らしく、首尾一貫して矛盾なく理解したいのです。

 ところが、この十字架上のイエスの叫びは、死ぬことこそが神への従順であると語ってこられたイエスの言葉と矛盾しているように聞こえるのです。ここにわたしどもの無意識の美意識と齟齬が生じてしまうから、悩むのです。

 しかし、実際のところ、言説というものは矛盾だらけの事のほうがはるかに多いのではないでしょうか。

 わたしは、この主イエスの叫びを、文字通り、父なる神が子なる神イエスを死へと渡さなければならない神の絶対的な矛盾への子なる神としての父なる神への愛の叫びと受けとめることができると理解します。

 十字架の死は、父なる神にとって、神であることを自己放棄するに他ならない絶対矛盾なのです。御子なる神イエスの死は、父なる神にとって、自己自身の死以上の死なのです。そのような父なる神に対して,子なる神イエスはその絶対矛盾をあえて遂行しなければならないこと、すなわちイエスを「捨てる」なければならぬ神に対して、イエスは、「なぜそれほどまでに、しなければならないのですか。」と神の愛の痛みを悲しんで叫んでおられる。「なぜそれほどまでに、人類を愛しておられるのですか。」この「なぜ」」は疑問詞ですが、疑問詞であって疑問詞以上の意味が込められています。

 わたしは、あなたの人類への愛を受けとめます。独り子なるわたしを捨てなければならないほどに、あなたは人類を愛されているのですね。わかりました。わたしは、あなたの人類への愛をしっかりと受けとめて、その使命を完遂します。なぜそれほどまで人類を愛されるのですか。なぜそれほどまでにわたしを愛してくださっているんのですか。承知しました。わたしは、あなたの独り子なるわたしを捨てるほどまでに、人類を愛しておられるのですね。わたしは、あなたがそれほどまでに人類を愛しておられることを信じることができていることを、いまここに受けとめることができました。感謝です。

 主イエスは、神の愛の痛みを、喜んで受けとめたゆえに、叫ぶことができたのではないか。

 だから、この叫びは、嘆きの叫びではなく感謝の叫びなのです。勝利の雄叫びなのです。

 主イエスは、殺されること、捨てられることを、感謝の雄叫びをあげるまでに受け入れたもうたのです。殺されること、捨てられることを、感謝して受け入れた人は他にいません。捨てられ、殺されることが、この方にとって「愛」することだったのです。ここに「愛」があります。アーメン




2026年3月16日月曜日

 2026年3月22日 〈受難節第5主日〉

  弟清水宏明兄は、医師であった父を尊敬し、医師となり、地域医療に尽くしました。東日本大震災後は、ボランティアとして福島に定期的に通い続けました。

 3月15日に、69歳で天に召されました。3月19日と20日に、弟との最期の面会の日とし、多くの方の弔問をいただき、遺族一同感謝しました。

 葬送の礼拝は、遺族のみの家族葬とし、22日に感謝のうちに執り行いました。

22日は、牧師は遺族のみの家族葬の司式のため、礼拝は「代読礼拝」でした。

  〈十字架の勝利〉

  マルコ 10:32~45




イエス、三度自分の死と復活を予告する
          (マタ20:17―19、ルカ18:31―34)
32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

ヤコブとヨハネの願い(マタ20:20―28)
35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めるこ とではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

1.  苦難へと先頭に立ち、向かう主イエス
   主イエス・キリストは、栄光の御姿を、ペトロ、ヤコブ、ヨハネに見せてくださった。その御姿は、甦りの主の栄光に輝いていた。その時、雲の中から、父なる神は、宣教の開始の時と、同じみことばをもって、主イエスが神の独り子なる神であられることを宣言してくださったのであった。
 弟子たちは、この啓示の内部にいながら、神の宣言を聞いたことになる。
 エリヤとモーセと主イエスは、これから向かうエルサレムへの道、十字架の極みへと至る苦難の道程について、語り合っておられたのだった。主はこの啓示の体験を誰にも話してはならないという禁止命令をくだされた。
 それは、主の甦り(復活)の出来事を彼らが体験することにならない間は、彼ら自身にも理解不可能だったからに他ならない。だから、弟子たちは、「この言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」のであった。
 彼らには、依然として「受難の予告」の真の意味を悟らずにいたのである。
 弟子たちの無理解にもかかわらず、主イエスは、人類救済のみ旨へと向かって、堂々と歩まれる。その悠々たる勇姿を、マルコは伝える。
    一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。(32節) 
 この主イエスの御姿に、弟子たちは「驚き」かつ「恐れた」のである。」主イエスは、自分がエルサレムへと行けば、必ず律法学者や祭司長らに殺される命運が待ち設けていると語った言葉は、言葉の上では聴いて理解してはいた。その真の意味について、深い神の経綸については悟り得ずとも、意味表示のレベルでは聞いて知っていた。だからこそ、主イエスのこの悠然と、かつ堂々と先頭を行く御姿に驚愕と恐怖を隠せなかったのだ。それほどまでに、主イエスの揺るぎのないみ旨に対する意志は堅固そのものだったのである。人類を罪の奴隷から解放する愛に全身から溢れていたのだ。愛は愛する者ために、苦難をみずから負うという真理を主イエスは体現されていたのだ。

2. 三度目の受難予告
    イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。(32節)
  主イエスは、三度目の受難予告を12弟子に話される。 彼らは、言葉の上では、単なる意味表示のレベルでは、理解していた。しかし、真の意味、神の深い経綸については悟ってはいなかった。それでも、主イエスは、彼らの胸深くに、たとえ意味表示のレベルであったとしても、刻みつけるように、御自身が殺されるためにエルサレムへと向かっているのだと諭されたのであった。
愛するということは、苦難を負うということなのだ。主イエスは、神の愛を、われら人間に、具体的にお示しになられたのである。二千年前に、ひとりの青年が、このような姿を示すことがなかったのであれば、人類はいまだ愛するというこが、どのようなものであるか知ることはなかったであろう。

3.ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願い
   ヤコブとヨハネの懇願は、決して権力欲から出ているものではないと、わたしは考える。「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」(41節)とあるのは、他の10人の目には、「抜け駆け」のように映ったからだろうが、それは誤解だ。弟子として重用され、他の弟子よりも「偉くなりたい」という発想で、ヤコブとヨハネはイエスに懇願していると、彼らは思ったのであろう。が、それは見損なっている。ヤコブとヨセフは、主イエスが「栄光をうけるとき」のことを考えているからだ。たしかに、二人は主イエスが語る「栄光」については何も知らない。何も知らないというのは、主イエス御自身が言われたことから分かる。
    イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(38節)
  主イエスの「栄光」に輝く変容を目撃したからこそ、二人には、「栄光」こそが彼らの願いとなった。そう考えると、彼らの願いが、人間的な権力闘争と同じ次元の願望とは質が異なることは、明らかであろう。
 彼らは、主イエスが「神の独り子なる神」でありたもう御姿を見たのだから、彼らには、神の栄光を顕すイエスの御傍に侍りたいと願うのは、神との接近を願う事に他ならないだろう。そう言う意味で、この願望「宗教的願望」とは言える。二人は真面目な信仰者として願っているのだ。
 だが、その願望、宗教的な願望もまた、主イエスからすれば、「あなたがたは、自分で何を願っているか。分かっていない。」ことにすぎないのである。
 
4.主が飲む杯、主が受ける洗礼
    イエスは言われた。「(中略)このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(38節)
  二人が決定的に分かっていないことは何か。主イエスの栄光は、苦難を通してこそ栄光に入るという十字架の死と復活ということが、彼らにはまるで分かっていないことだ。彼らが願っているのは「栄光」の主であっても、その栄光は、受難の死を通る道であることが、二人にはまるで分かっていないのだ。
 それゆえ、主イエスは、苦難の死を意味する「杯」「洗礼」を語るのである。「杯」は主イエスの「苦難と死」を意味し、「洗礼」は「死」を意味する。主は、二人に、御自身と同じ道、すなわち、苦難と死の道を行くことができるかを問うているのである。
 苦難の死を通過しないままで「栄光」の神に近づくことはできない。主は、真の「栄光」への道こそを、二人に問うているのだ。

5.殉教の預言
     彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。(39節)
  ゼベダイの子ヤコブについては、主イエスがここで「確かに」と言われたごとく、西暦44年頃、ヘロデ・アグリッパによって殺されることになる。(使徒12:2)殉教の預言を主がなさったとみなされている箇所ある。ただ、ヨハネについては、殉教にあいそうになりながらも生きのびたようである。
 しかし、彼も主の「杯」「洗礼」に近いような苦難を受けたと言われてはいる。
 結局は、この二人は、甦りの主イエスとの出会いの後には、聖霊によって生まれ変わって、主イエスの辿ったのと同じような苦難の道程を歩む人に変えられることになった。
 ここで、これだけ、無理解な弟子であったにもかかわらず、復活の主の命に与って、まったき新生を経験することになった。イエスは、すべてを見透していたことがわかる。

6.神による定め
    しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」(40節)
  主は、「神のさだめ」について語る。ここで語られるのは、父なる神の定めと主イエスの職務との区別である。父なる神とと子なる神とは異なる人格であることが明確に語られていると言える。三位一体の神は、この区別がはっきいとありつつ、唯一なる神だという信仰だ。区別されつつ分離し得ない神であられるのである。
 主には右もあれば左もなるのだから、右に座る者、左に座る者は、たしかに「誰か」ではある。しかし、主は「誰か」をお決めにはならないという。それを定めるのは父なる神だというのである。その定めに、主はまったく介入しない。であれば、人は右も左も、主イエスに願うことは虚しいことになるというものだ。主は、たとえ、「宗教的な願望」「信仰動機」によるものだとしても、主イエスとの「距離」や「位置」を願う動機や目的を、徹底して無視されるのだということを語られたのである。そのような動機には、根底に人間的欲望が隠れ潜んでいるからだ。
 
7.真逆の世界
    しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
    いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。(43節~44節)
   二千年前もそうだったようだが、主イエスの世界についての観察は、まったくと言って良いほど、現代世界と同じである。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」というのだ。
 「偉い人たち」が誰かと言えば、誰もが思い浮かべることができるだろう。この「偉い人たち」は、「権力を振るっている。」というのだ。強い立場にある者たちは、支配欲をほしいままにしている。
 キリスト者の共同体は、そのような世界とは「真逆」の世界だというのだ。それは支配欲を根本動機とするこの世界とは、まったく逆の方向性、すなわち仕えること、奉仕することを生の根本動機とする世界だというのである。
 主が語る「いちばん上」というのは、「いちばん下」を意味するというのだ。
 すべての人の僕になりなさいというのは、すべての人の奴隷になりさないと言っていることだ。僕は奴隷を意味する言葉だからである。マルチン・ルターの言葉を思い出す。「キリスト者はすべての人の王であり、すべての人の僕である。」(『キリスト者の自由』)
 「キリスト者はすべての者の中で最も自由な主人であり、誰にも従属しない。キリスト者はすべての者の中で最も忠実な僕であり、すべての人に従属する。」

8.主は仕えるために、命を捧げるために来た。
    「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(45節)
   主イエスは、その御生涯を、人類救済のために、身代金(贖い)として、命を捧げる(捨てる)ために来た。
 われら人間は、キリストの命という代償によって、贖いとられたがゆえに、「すべての人の王となり、すべての人の奴隷となる」自由を得た。
 主は、全生涯を、この「下降へと昇る」という受難の道行くに徹して歩まれた。
 われら人間は、このキリストの死を身に着けて、キリストの武具をまとい、「下降へと昇る」道に続きたいものである。




2026年3月9日月曜日

 3月15日(日)〈受難節第4主日〉

〈主の変容〉

マルコによる福音書9章2節~10節



                    マルコによる福音書9章2節~10節

2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。

13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

1.キリストの受難予告後の神の啓示

 主イエスは,ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた。その洗礼が真に意味していたものは、洗礼者ヨハネと共に、人類救済の道を開始するという「事」であった。

 だからこそ、その時、聖霊が鳩のように降って「見よ、これはわが愛する子、これに聞け」と神は、天から宣言の御声があったのであった。

 それゆえ、主は、言葉とふるまいによって、この道、人類救済の道、すなわち、十字架の死と復活という受苦の道を歩んでこられたのである。

 主イエスの受苦への道行きは、最初から徹底していた。

 しかし、この御受苦を真意を知る者は、一人の例外もなく、誰一人としていなかった。

 主は、御自身の御受苦の道行きについて、そのキリストの秘密を、弟子たちには明示された。それが最初の受難予告であったのである。

 だからこそ、受難予告の後、六日という象徴的な期間のあとに、主は御受苦の究極的目的点である復活の御姿を弟子たちに御顕されたのであった。

 変容のキリストこそが、甦りの主、復活の主イエスの御姿なのである。

 ここで、神は、主イエスこそが、独り子なる神であられることを、再び天から宣言された。

      すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)

 この神御自身による、「イエスこそが神の独り子なる神であられる」という宣言は、主イエスの御受苦の道行きを、完全な意味で、弟子たちに目撃し得る仕方でお示しになり、その事実を神御自身が認証したことを意味している。

2.モーセとエリヤを知り得たのはなぜか

      エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。(4節)

 キリストの変容を目撃していた証人たち、すなわち「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」の3人が、この経験を後世に伝えたことになっているだから、この記述は、彼らには、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」と、確かに認識したということを意味している筈である。では生きていた時代が異なるエリヤやモーセを彼らは如何にして知り得たのか。特に、ペトロは、感動して「仮小屋」(幕屋)を建てましょうとまでイエスに申し出ているのだから、明確にエリヤとモーセを認識していた筈である。合理的認識論で言えば「謎」と言わねばならない。エリヤやモーセの容貌を弟子たちが知っていた筈はないのに、なぜ分かったのか。知らないのに知ったのはなぜなのか。

 この出来事を、人間が人間を認識する方法で、彼らが認識したと考えるならば、どこまでも「謎」のままで終わるであろう。

 しかし、ここで彼らが経験した出来事は、神の啓示の出来事である。神がこの出来事を、他ならぬ彼らに経験させた。これは「神の出来事」なのだ。

 神の啓示は、人間的認識論では推し量ることができない。

 主イエスは、彼らをのみ抜擢して「高い山」へと連れて登られた。高い山は古来タボル山と伝えられてきたが、ヘルモン山かもしれない。もはや特定は困難だ。ただ「高い山」とは神が御自身を顕現する神聖な場所を指す。

 主イエスは、啓示の場へと弟子たちを、しかも彼らだけを導いた。この「場」が啓示の「場」となるためであった。  

  神の出来事であれば、人間的な認識による制限・限界は超越している。神御自身が、弟子たちに、認識の対象を認識すべく認識対象を与え給ふから、彼らには、自分が知らないことを知ることができた。

 パウロは、生前のイエスを知らない。知らないにもかかわらず、神は甦りの主イエスをパウロの前に立ち顕された。彼は、「主よ、どなたですか?」と問うている。パウロは、目前に出現している復活の主イエスを、「主よ」として認識していた。神御自身だと、その時既に知っていたのだ。だから、「主よ、あなたはどなたですか?」と問うことができた。彼に復活の主イエスを知らしめたのは神である。神御自身が神御自身を御顕される出来事なのである。 

 これと同じ事が、ここでも起きていた。

 弟子たちには、自分が知らないこと(エリヤやモーセの容貌)を、知らないにもかわわらず、知ることができた。それは神御自身が、信仰の認識を与え給ふたからなのである。

3.モーセとエリヤは主イエスと何を語り合ったのか

   マルコによる福音書には、何を語り合ったのかは記されていないが、ルカによる福音書には記されている。

      二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。(9章31節)

  主イエスが、人類救済という究極的目的点(「エルサレムで遂げようとしておられる最期)について、語り合っていたのだ。ずばり、後受難の道行きについて語り合っていたのである。

  二人は、旧約聖書に登場する代表的な人物である。聖書は、「律法と預言書」のことであるが、モーセこそ律法を神から授かったメシア的人物であり、エリヤこそ、預言者マラキが預言したメシア到来の前に出現するとされた預言者の代表である。すなわち、この二人は旧約預言を代表する二人なのである。

 この二人は、主イエス・キリストこそが神の独り子であられるメシアであることを、旧約の成就だと証しする者なのである。主イエスが旧約の成就者であることを、二人は証ししているのだ。二人は地上で死を見ることなく天上に挙げられたと信じられていた人物であった。つまり、主イエスは、天上の人として、この二人と語り合うという姿をお示しになったことになるだ。

 ペトロが、感動したのは、彼が天上の人、モーセとエリヤと主イエスが天上の世界を垣間見たことによるのではないかと考えられる。

      「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」(5節A)

  地上の人にすぎない自分たちの前に、天上の人が居合わせたことに、素直に感動しているのだ。

 そこで、彼が地上の人として咄嗟に考えたことは、主イエスの究極的目的点へ向かう御受苦の道行きとは、およそかけ離れた的外れの発想だった。

      ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(5節)

4.仮小屋(幕屋)建立が意味したもの

    ペトロは、なんとおこがましくも天上の人三人の語り合いに口をはさむ。素直に感動しているのはいいとしても、口をはさむとはどういうことか。主イエスの御受苦の道行きを、彼は否定するような行為をしたのだ。

 口をはさみ、そして仮小屋(幕屋)の建立を提案するのである。

 一見すると、信仰深いかのような提案ではあった。仮小屋(幕屋)で、人々がそこへと礼拝することを彼は夢想していたのであろう。現代流に言い換えれば、「教会堂」を建立しましょうというような提案ではないかと考えられる。信仰深い装いをしてはいるが、主イエスの行こうとしている道行きに、教会堂や礼拝所はない。

 主イエスは、人類救済の道、十字架の死と復活という道行きをこそ、語り合っていたからだ。

 ペトロのこの提案は、主イエスが神の独り子として行こうとされる苦難の道行きを否定し、地上的な「宗教分派の形成へと地に落とすものでしかなかった。

 主イエスへの信仰は、「宗教」にすぎない代物では断じてないのである。ペトロには、まだ主イエスの啓示の意味が分かっていなかったのだ。

      ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。(6節)

      ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。(ルカ9章33節)

  ペトロが混乱していると、ルカはやや同情的に記してはいるが、マルコは提案そのものが口からでまかせにすぎないというような印象を与える書き方だ。無責任かつ、軽率な提案だとルカもマルコもみなしている。しかし、ペトロの軽率さも、神の自己顕現に「恐れ」を感じていたことを思えば、「恐れ」ゆえの混乱から生じたものかもしれないと言えなくもない。「弟子たちは非常に恐れていたのである。」

 弟子たちの「恐れ」は、彼らが主イエスと二人に、神の顕現を見ていた証左である。弟子たちは神の啓示を経験したのだ。

 これらの記述から、弟子の無理解と、それにも拘わらず弟子たちは神の啓示の出来事(主イエスとエリヤとモーセの会見)を経験したことは明らかである。

5.雲の中から声がした

      すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)

   「雲」は神顕現の表象である。雲が弟子たちを覆うたことは、神顕現の経験が視覚・聴覚だけの認識ではなくて、身体全体を包み込むものであったことを意味するだろう。いわば神御自身の内部的な世界に、弟子たちは誘われたのだ。彼らは身体全体で、神を感じたはずだ。

 彼らは、雲のなかで、雲のなかから聞こえてくる神の声をの振動を、体全体で感じたであろう。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声は、イエスが宣教の開始にあたってヨハネからバプテスマを受けた時に、天から聞こえたあの声だ。

 そうだ。宣教の開始の時に神が主イエスを我が独り子として認証した神の言葉だ。

 そして、今、受難予告という天国の秘密を弟子たちに語ったいま、御受苦の道行きを、まごうかたなく、すなわち間違えようのない程明確にお示しになったいま、再び、天の父なる神は、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と主イエスを我が独り子なる神と認証されたのである。

6.ただイエスだけが

      弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。(8節)

  身体的な神顕現のただなかでの経験のあと、突如として、エリヤもモーセも、そしておそらく雲も、消えてしまう。さて、弟子たちは、地上的な現実へと引き戻されたのだ。彼らは、主イエスと共に、旅を続行する時へと戻されたのだ。弟子たちと主イエスの時間が再び戻ってきた。

6.主の福音宣教の禁止命令ふたたび

      一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。(9節)

  受難予告の時、「あなたはメシアです」と言ったペトロに超弩弓の福音宣教の禁止命令の叱責をされたけれども、あの時と、この時は同じメシア秘密の意味あいが異なっている。この度は、「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限があるからだ。主の受難の極みに至るまでの禁止命令なのである。

 さらにもう一点異なるのは、「今見たこと」を「だれにも話してはいけない」という命令だということだ。

 ペトロの叱責のときは、浅薄な人の言葉による宣教の禁止命令だったが、主の変容の経験の場合は、経験した事柄そのものを誰にも話すなと言う命令である。

 今度の禁止命令は、弟子たちの浅はかさ故の禁止命令ではない。神の啓示の出来事は客観的事実だから、弟子たちの信仰の問題ではない。そこが決定的に異なる。

 この禁止命令が、「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限がついていることに、禁止命令の目的が隠されているだろう。

      彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。(10節)

  弟子たちが 「死者の復活」について論じ合っているのは、彼には、主イエスの受難予告をいまだ真に理解することができずいることを示している。神の顕現の啓示を身体全体で聴いた弟子たちでさえ、主イエスの究極的目的点である十字架の死と復活の意味をいまだ理解できないでいるのだ。まして人々に理解できることは不可能だということは自明であった。

 それゆえに、主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは」と語られたのだ。現実として、主イエスが、弟子たちの目の前に,出現するという出来事が生起して初めて、弟子たちは、受難予告の真実の意味を悟ることができるのである。主イエスは、その現実を、いまここで、あらかじめ完全に熟知していたのだ。

 いまここで、彼らが経験した出来事は、「復活の日」にはじめて弟子たち自身のなかで、彼らをイエスの本当の弟子に生まれ変わらせることを、主イエスは知っていたのだ。

 7.エリヤ再来預言論争

      そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。(11節)

      イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。(12節)

      しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(13節)

  エリヤ再来の預言はマラキ書にある。だからメシアが到来する前には、エリヤが来なければならない。主イエスは、既に来たと語られた。マルコによる福音書には、弟子たちは、洗礼者ヨハネがエリヤだと悟ったと記している。

      そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(マルコによる福音書17章13節) 

      「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」(マルコによる福音書17章12節B)

  主イエスは、エリヤの再来たるヨハネは「彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらった」として、御自身の命運と同じだということを明白に語ったのであった。

 これらの記述から、主イエスと洗礼者ヨハネは、ともに、苦難の僕(イザヤ53章)として、「人々から苦しめられることになる」命運であったことがわかる。

 原始キリスト教会において、エリヤが洗礼者ヨハネであり、イエスの苦難においても先駆者であったことが、重要な信仰内容であったことは、これらの記述からも伺い知ることができるであろう。

8.わたしたちの信仰との関係

   この「キリストの変容」の出来事の記録が、わたしたちの信仰にとって、どのような意義があるのか。考察したい。

 最も重要な信仰的事柄は、イエス・キリストが、「神の独り子なる神」であるという神の宣明(declaration)である。

      「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7節)

 これによって、人間が神となったという主張は完全に否定されるのである。これは旧統一協会や新天地をはじめとする、「自称再臨のキリス」はすべて、偽り者であることを、神御自身が完全に宣明していることを、わたしたちは知る。

 そして、イエス・キリストは、人類の罪からの解放のために、「受難予告」の通り、十字架の死と復活を成し遂げられ得るお方であることを、わたしたちは知る。

      「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてある。」(12節)

  主イエスは、死ぬためにこの世に来られたのである。このことを否定する者は、すべては偽り者なのである。

 第三に、人類救済のこの苦難の道行きは、旧約預言の成就者として、洗礼者ヨハネとナザレのイエスが、共働的に歩まれた道であったことである。

 洗礼者ヨハネは、エリヤの再来だったことは、イエス御自身が明言しているからだ。ヨハネ自身の自己意識に、たとえ揺らぎがあってとしても、神の独り子が明言している以上は、ヨハネはエリヤなのである。

      そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(マタイによる福音書17章13節) 

 それゆえ、わたしたちの信仰道程、すなわちわたしたちの地上での全生涯は、主イエスの道行きを慕い、辿る道であるから、わたしたちの魂の視線の焦点は、主イエスの十字架の死と復活であることを知る。

 朝起きて目覚める。今日も地上の生活を送ることが許されていることを、神に感謝する。

 食事をいただくとき、身体を支える肉の糧を得ること以上に、神の言葉という霊の糧を魂にいただくことを感謝する。

 歩くとき、主イエス・キリストの苦難の道行きを想い、感謝する。

 人を愛する刻、主イエス・キリストがわたしのために十字架上で死んでくださった事を感謝する。そして、わたしも人を愛する刻、苦難を引き受ける愛を主イエスから恵みとして与えられていることを感謝する。

 眠りにつく時、神は御自身をお示しになられる事を感謝する。主はわたしたちの魂が眠っていても、わたしたちと共におられるのだ。

      ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。(ルカによる福音書9章32節)

  わたしたちは、この限りない恩寵のなかに生きている。この確実な保証を神は、この出来事で与えてくださったのである。ただ感謝の他はない。

      すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」                    (7節)



2026年3月8日日曜日

 2026年3月8日(日)(受難節第3主日)

『受難の予告』

マルコによる福音書8章27節~33節



              『受難の予告』

                  マルコによる福音書8章27節~33節

ペトロ、信仰を言い表す

                 (マタ16:13―20、ルカ9:18―21)

27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。

28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。


イエス、死と復活を予告する

               (マタ16:21―28、ルカ9:22―27)

31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。

32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。

37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」


1.主イエスの最初の質問

    主イエスは、弟子たちに問いかけた。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。

 イエスが知らないはずはない。イエスと弟子は行動を共にしている。弟子たちが知り得る情報は、イエスも同じ環境の中にいるのだから、弟子の耳に入る事ぐらいイエスの耳に届く。イエスは所謂世評を聴きたい訳でもない。イエスが村々で行っていることは誰の目にも明らかだ。そのことで人々は驚き、ある者は、イエスを崇拝しだし、ある者は、いぶかしいと怪しむ。敵視する者も現れるほど評判になっていたことは衆知の事実だった。

 人々は、洗礼者ヨハネの生まれ変わりのように感じる者もいあれば、預言者エリヤの再来だと思ったりもする。それぞれが勝手な想像をめぐらしていた。それくらいのことは、奇跡実行の当事者が知らぬはずはないのだ。

 だから、イエスは知っていて、あえて弟子に問うたのだが、その意図は何か。それが問題だ。


2.イエスの2番目の質問

  次に、イエスは弟子たち自身が師であるイエスをどのように思っているかを問うた。

 この問いもまた、イエスが知らないから問うているという事ではない。弟子はイエスに現に従ってきているのだ。イエスを信じているから行動を常に共にしているのだ。それに、弟子たちはイエスから直接召命を受けたり、師である洗礼者ヨハネが、「世の罪をとりのぞく神の子羊だ」と証言したからこそ、イエスの弟子になったのだ。彼らは、直弟子と言ってもよいのだから、イエスが「誰であるか」を知って従ってきていることは自明だ。あらためて、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問うのは、いったいどういうことか。その意図は何か。それが問題だ。


3.知りつつ問いかける意図とは何か。

  たたみかけるようにして、イエスはご自身を、第1番目には世評。2番目には、直弟子たちの認識を、知っているにもかかわらず問いただした。

 その意図は何か。

 世評もペトロも、それぞれが、自分が信ずる「イエス像」をイエスに投影している。それはそれぞれがイエスに、自分自身が思い思いに、「自分が信ずるイエス」を、イエスに、映しだしているという意味だ。自分自身のイエス像は、期待であったり、願いであったり、理想であったり、人それぞれだ。共通しているのは、現実のイエスという人自身ではないということだ。

 なるほど、さすがに第一弟子のペトロは「メシアです」と、きっぱり言いきっている。それは今日、わたしたちが信仰告白する信仰の対象である主イエス・キリストかというと、そうではない。

 ペトロは、十字架上で殺され、三日目に甦り、天に昇られたイエスをいまだ知らない。

 また、これから彼は死刑判決を受けるイエスを「知らない」と鶏が三度鳴く前に、シラをきったりもすることになる。

 ペトロが「メシアです」と言っている事の内容は、その程度の認識にすぎない。「メシアです」と言いながら、自分自身の考える「メシア像」をイエスに押しつけているだけなのだ。だから、自己が描くメシア像と現実のイエスが矛盾すると、イエスを裏切る。裏切ったつもりはないが、実際裏切っている。自分が信じたイエスと違うので、自分が裏切られたとさえ思う。御門違いも甚だしい。自分が裏切っているのに、裏切りをイエスになすりつける。


4.メシア秘密

    イエスは、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」ご自身をどのように言うのかという問いに、「メシアです」と応えたペトロに向かって、同時に居合わせた弟子たちに向かってだが、ご自分のことを「誰にも話さないようにと戒められた。

 イエスが「メシア」すなわち、「キリスト」であることは、真実である。真実なのに、なぜ、イエスは誰にも話さないようにと戒められたのかと、疑問に思うかもしれない。福音書はなぜ、このような謎めいたイエスの言葉を残したのか。

 真実を伝えるということは難しい。人の語る言葉は、神について語り得ない。わたし自身、聖書のみことばを語りつごうとしているけれでも、語る先から語り得ない困難を痛切に思わずにおれない。

 イエスが神であるということを、「イエスは神です」と語れば、語ったことになるのかと言えば、それは、やはり「人の語ることば」という限界があると言わねばならない。

 ペトロが、「メシアです」と応えた答えは、まったく正しい。まったく正しいが、正しいけれども、やはり「ペトロという人のことば」という限界があるから、正しい事柄を語ったところで、語られた「事柄」そのものの真実が伝わるということを意味してはいないのだ。

 主イエスは、正しく福音を語ることの不可能性を知っていた。ペトロが、「イエスはメシアです」と福音を人に伝えたとしても、真実な事柄は伝わらない。

 それどころか、ペトロ自身も真実な事柄を知らないのだ。知らない者に福音が伝えられることはない。

 ゆえに、イエスは福音を、ここで伝えることを封印されたのである。『イエスはキリストなり』これは紛れもない福音だ。しかし、ここで主は、この福音を語る事を禁じたもうた。それは、ここで福音を語ることが福音を伝えることにならないからだ。


5.受難の予告

 イエスは、ここでご自身の究極的目的を、はじめてお示しになった。

    「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(31節) 

 主は、人々には譬えをもって語られたが、弟子たちには、神の国の秘密を語ると言われていたが、いまこそ、秘義が語られたのだ。

 しかし、ペトロには理解できない。彼には、イエスの語る秘密が理解できないのだ。彼には、彼自身の「メシア像」がある。イエスが受難するなどと、彼には到底受け入れがたいことだったのだろう。なんと彼は師にむかって「いさめ始めた」のだ。彼にはイエスがメシア=キリストであるという事柄の秘義が、何も分かっていない。


6.振り返って弟子たちを見ながら

   主イエスは、このまるでイエスのことを理解していないペトロを最大級の,超弩弓の叱責を与えたもうた。

    「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(33節)

 ペトロの「メシア像」「メシア期待」の正体が、面と向かって暴露される。ここでイエスは苛酷なまでに非情だ。弟子に向かって「サタン,引き下がれ」と叱ったのだ。今日外見だけ見て、「パワハラ」だと非難されかねない強烈な叱責だ。しかし、主イエスがペトロを憎んで叱責しているのではない事は、明らかである。強い叱責は,強く叱責しなければならない必然があることを、知らねばならない。

 イエスは、「振り返って弟子たちを見ながら」と振る舞った。この所作から、イエスがペトロだけに、事柄を伝えようとしているのではなく、弟子たち全員に伝えようとしていることがわかる。

 また「振り返って」という所作には、ペトロの身の程をわきまえない「諫め」を無視して、一息ついてから、叱責を叱責として、これから大切な事柄を君たち全員に伝えるという主イエスの「構え」がうかがえる。

 ペトロは弟子たちを代表しているのだ。最も先輩格のペトロだからこそ、イエスは厳しく諭しているのだ。

 ペトロの「メシア期待」は、人間的動機であった。「メシア期待」は、期待である以上は,人間的願望・欲望を源泉としている。根本動機が、そもそも不純なのだ。

 それは神を信じるているということではないのだ。人間の事を思っているということは、すなわち神のことを思ってはいないことを意味していると、主イエスはきっぱりと明言されたのである。


7.群衆を弟子たちと共に呼び寄せて

  弟子たちを叱責し、不純な宗教的願望を捨てて、神さまに起源する動機へと集中させようとされたイエスは、今度は、語りの対象を「群衆と弟子」へと変更された。

 弟子たちだけでなく群衆へと向かわれたということは、ここで語られる事柄は、全人類にむかって、普遍的な戒めとして語られた事柄だということを意味する。

    「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

                    (34節)

    自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。(35節)

    人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(36節)

    自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(37節) 

    神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 (38節) 


8.福音の真実を伝えること

   福音を伝えることは、ただ人の言葉の次元で語り伝えるということによっては不可能だ。そのような饒舌をイエスは禁じられた。

 福音は、主イエスに現実として従うことによって伝える他はない。主イエスに従うことなのだ。「信従」なのだ。

 「自分を捨て」ということは、宗教的願望に起源する利己的なメシア期待、「信仰のようなもの」を捨てよということだ。

 「自分の十字架を背負って」ということは」、十字架の主に従う道を、主と共に歩むときに、自ずから己が十字架が何であるかが明確となるだろう。神と人を愛するなら、人は苦難を選ぶからだ。

 「自分の命を救いたいと思う者」とは、永遠の生命を信じることができずに、自己一身の延命を隣人の生命よりも願う者だろう。そのような利己的人間は永遠の生命を見失う。

 主イエスのため、また福音のため自分の命を失う者とは、地上の生命への拘泥を相対化し、永遠の生命を信じる者であろう。永遠の生命とはイエス・キリストを信じる事に他ならない。

 「永遠の生命」の価値は、全世界の価値と比較する事をすら絶している。


9.主イエスの恥とならないために

  審判は必ずある。最後の審判の時がやがて来る。それだけではなく、いま・ここに,リアルに審判はある。

 心から恥ずかしいと思う事が、突如として心に去来することは、誰にでもあるだろうと思う。その時こそ、いま・ここでの審判なのだと考える。

 その瞬間、神は、わたし自身の恥ずべきことを、示してくださっている。それは神の御前で、悔い改める機会を神が与えて下さっているのだと、わたしは考える。

 この機会は、悔い改めのチャンスなのである。主の来臨のときに、主イエスの恥となることのなきように、神は、いま・ここで悔い改め、新たに生き直す再出発の時なのだ。

 主イエスのみことばを、日々、繰り返し心に思い、主を偲びつつ生きることで、日々新たに生き直し生きるなら、終わりのとき、主もわたしを恥としないでくださると信じる。

 受難の主と、今週も,日々新たに、生き直して生きたいと、祈る。