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2026年9月9日水曜日


 2026年9月13日(日)(聖霊降臨節第17主日)



            『奉仕する共同体』

        コリントの信徒への手紙Ⅱ9章6節~15節

6:つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。

7:各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

8:神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

9:「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。

10:種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

11:あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。

12:なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。

13:この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。

14:更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。

15:言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。



1.ボランティアの語源

  ラテン語動詞「volo(ウォロ、「欲する」「求める」「願う」の意味)」)から副詞形voluntate(ウォルンターテ「自ら進んで」)、名詞形 voluntas(ウォルンタース)を経て英語の volunteer となったといいます。日本では無償の「奉仕活動」と捉えられがちですが、本来の意味は「自発的な意志による行動」を指すのだそうです。Wikiより

 まさに本日の聖句が、ピッタリと、その本来の意義を伝えていると言っても言いすぎではないでしょう。

      7:各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

  奉仕は、英語ではサービスですが、礼拝という意味もあります。ドイツ語でもGottesdienst(ゴッテスディーンスト)と言いますが、神を意味する「Gott」と奉仕を意味する「Dienst」が合わさった言葉です。つまり、奉仕と礼拝は元来は、同じ言葉で表現されていたと考えられるのです。礼拝と奉仕は切り離し得ない結びつき、関連があるということでしょう。


2.礼拝と奉仕

  ボランティアの基本原則は自主性・無償性・社会性だと一般に言われています。自主性は、聖書におそらく起源があります。見返りを求めない無償性も神の愛・神の慈しみの愛に遡源すると言えるのではないでしょうか。

      9:「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。

  そして社会性とは、人と人との関係性を意味します。見返りを求めず他者・隣人のために、自発的に自分の財や時間を捧げることによって、目には見えない「富み」・「恵み」を受けるというのです。この「富み」・「恵み」こそは、神が賜るものです。この「恵み」によって、他者・隣人の交わりは、「思慕」・「祈り」という「言葉では言い尽くせない贈り物」を与えられるというのです。

      13:この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。

      14:更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。

      15:言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

   繰り返し、もっと平たく言います。

 すなわち、神さまこそが、限りない愛をもってわたしたちを愛してくださるがゆえに、わたしたちは、神の恵みによってすべてのことに「富む者」とされ、他者・隣人に惜しまず施すようになるというのです。

 具体的には、神さまへの献金(「わたしたち(使徒)を通じて神に対する感謝の念を引き出す」)を捧げるようになるというだけでなく、その「施し」(献金)は他者・隣人(「自分たちや他のすべての人々」)に「惜しまず施しを分ける」行為へと直結するということです。 この神から人に惜しみなく与えられる「恵み」「富み」が、人に「施し」(献金)を惜しみなく神と人とに捧げるという、この「恩寵」の「結果」こそが、「礼拝」であり、「奉仕」なのだということなのです。


3.神の恵みと富み 

      11:あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。

   ここで、わたしたちは神の恵み、賜物について、このみことばによって信ずべきことがあります。わたしたちは、「すべてのことに富む者とされて」いるということです。 この事実は、受け入れがたいと抵抗感を感じる人がいるかもしれません。ことに、逆境のさなかに置かれている場合、「すべてのことに富む者とされているですって?自分はいま、苦難のなかに置かれているではないか!」と、思わずにはおれない、そう思っても仕方ないでしょう。「このようなみことばは、すべてのことが順風満帆で何の苦労もない人はそうかもしれないけど、自分にはとてもそうは思えない」。そう感じるかもしれません。

 聖書の言葉は、ときに残酷に響くことがあります。この箇所も何の気なしに読み流してしまえば何も感じないかもしれませんが、ひどく傷つく人がいても不思議ではありません。

 しかし、聖書の読みは、そこからこそ始まるのではないでしょうか。

  神の恵み・賜物・恩寵・・・。これらは同じ内容を異なった言葉で表しています。神さまは、「恵み」を惜しみなく注がれています。この恵みは、「種」「パンの糧」という比喩で次のように表現されています。

      10:種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

 種が、わたしたちのなかで実を結ぶように成長させてくさるのは神さまによります。「成長させてくださるのは神」なのです。

 しかしながら、蒔いた種が実を結ぶとは限らない。

  教会の庭、牧師館の庭に、わたしも、種を蒔きますが、発芽するものもあれば、しないものもあります。また種の播種時期を間違えると発芽しません。種蒔く人の素養が問題なのです。前提として、種を蒔く人は、蒔く人としての経験や、知識が必要なのです。種をただ蒔くだけでは実りに結びつく訳ではないのです。パンとなれば、なおさらです。パンのもとになる小麦粉やパン種が必要です。

  「すべてのことに富む者とされている」というのは、「この奉仕の業が実際に行われた結果として」、「慈しみが結ぶ実を」結んでいる、その結果を意味するのでしょう。

 つまり、種が発芽し、成長し、実を結ぶのは、「奉仕の業が実際に行われた結果」ということになります。

 「奉仕」とは「礼拝」行為と分離し得ない関係にあると先に確認しました。むしろ「礼拝」こそが「奉仕」であり、「奉仕」こそが「礼拝」なのです。

 「奉仕」=「礼拝」を実際に行うこととは、神への礼拝と隣人への奉仕が、同時に恵みとして授与され、育まれ、「慈しみ」「施し」(献金)へと結実することを意味する事柄なのです。

 私たちが、礼拝毎に献金を捧げるのは、献身の証しなのです。献金そのものが礼拝であり、即隣人への奉仕・慈愛の証しということなのです。


4.「あなたがたに与えられたこの上なくすばらしい恵み」

   人に躓いてはいけない。教会生活をはじめたとき、このように教えられます。人は誰しもが罪人です。また時によっては不信仰に陥ることもあります。こころならずも罪を犯すこともあるものなのです。教会のなかでトラブルを起こす人も出てきます。牧師も同様です。

そんなときに、「人をみてはいけない」と諭されるものです。見つめるべきは、主イエスであり、聖霊さまであり、父なる神です。みことばです。

 種を蒔かれても、土壌が枯渇していれば種は発芽しません。いばらのなかでも、石地に落ちても同様です。

 だからこそ、見られる自分自身は、見ている「彼ら」(14節)には、神からの恵みが「この上なくすばらしい恵み」であり、見たことによって、見られる自分自身を「彼ら」が「慕い」「祈る」ようになることが信仰生活には重要なのです。

 他者から見て、わたしたち自身が「神からのこの上ない恵み」に生かされていなければ、見る人を躓かせるかもしれないのです。

 隣人が、わたしたちを見て、「慕い」「わたしたちのために祈る」ようになる、そのような恵みの証人となること、それこそ、「奉仕」であり、「礼拝」の生活なのです。


5.「すべてのことに富む」

 「すべてのこと」とは何であるのか。

 その人によって、固有な人生を、神さまは与えています。固有というのは、その人にとって、それしかないという、ほかの人とは替わることが不可能な、その人だけの人生だという意味です。

 その人の固有な人生は、かけがえのない人生であり、その人だけのものです。その人生は、神が与えた人生であって神の祝福のもとにあって生まれてきたものです。

 その固有な人生は、苦難に満ちた逆境そのもののような人もいることでしょう。誰しも苦難を避けることはできません。苦難もまた神の賜物です。

 神は、ヨブに苦難を賜りました。

 苦難に、ヨブとても苦しみ抜きます。3人の友人たちがやって来てはヨブにさまざまな心ない言葉を浴びせます。しかし、最後には、ヨブは「神は与え、神は奪いたもう」と告白し、神を賛美しました。苦難のさなかで賛美したのです。

 すべてのこととは、苦難も祝福もすべてを含むからこそ「すべて」です。

 どんな境遇に置かれたとしても、この固有な人生を、神の恩寵として受け入れるようになるために、いかに時間がかかろうと、いかに苦しみ抜いて泣き叫び、苦悶しようとも、最期の最期には、神を賛美することが赦されている。このことこそが、わたしたち信仰者の「富み」ではないでしょうか。

      15:言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

 言葉で言い尽くせない神の贈りもの。小さなこと、小さなもの、大きなもの、大きなこと、どの事柄からも、神の意志が見えてくる。聞こえてくる。

 信仰者の人生は、言葉で言い尽くせない神の贈りものに、目を凝らし、耳をすませ、魂で感じとることが赦されている。そのひとつひとつに感謝をささげることができる。これぞ、わたしたちが「すべてのことに富む者」とされている証明なのです。

 主よ、耳をすまし、目をこらして、あなたの惜しみない慈しみのプレゼントを、見いだし、聴き取ることが、今日も明日もまたできますように、心からお祈りいたします。

2026年9月6日日曜日

 2026年9月6日(聖霊降臨節第16主日)

ガラテヤの信徒への手紙1章1節~10節

『生涯のささげもの』

   


1.  エドガルド・モルターラ誘拐事件 

   エドガルド・モルターラは、1851年にボローニャ(当時はローマ教皇領)のユダヤ人家庭に生まれました。乳児期に重病を患いました。その際、一家のキリスト教徒の家政婦が、彼がそのまま死ねば地獄に落ちると恐れ、秘密裏にカトリックの緊急洗礼を授けました。 その後エドガルドは回復しましたが、1858年(当時7歳)にこの洗礼の事実が教皇庁に知られることとなります。当時の教会法では「洗礼を受けた者はキリスト教徒として育てられねばならず、非キリスト教徒(ユダヤ人)の両親が育てることはできない」と定められていたため、ローマ教皇ピウス9世の命令により、エドガルドは家族から強制的に連れ去られ、ローマの修道院でカトリックとして教育されることになりました。

  両親は息子を取り戻すために奮闘し、この事件は国際的なユダヤ人社会やヨーロッパ全土の世論から猛烈な非難を浴びました。しかし教皇庁は返還を拒絶し続けました。この事件はカトリック教会の絶対権力に対する反発を強め、イタリア統一運動(リソルジメント)を加速させる政治的な契機の一つとなりました。エドガルドはその後、自らの意志でカトリックの司祭となり、1940年にベルギーで88歳で亡くなるまで、家族の元へ戻ることはありませんでした。

 この歴史的事件を、ステイーヴン・スピルバーグ監督が映画化しました。『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』という作品です。

   わたしは、本日の聖書を読みつつ、この事件のことを思い出しました。

 イタリア王国が成立する契機のひとつともなった歴史的事件です。カトリック教会法によって、ユダヤ人家庭の幼児を誘拐し、両親・家族から引き離し、カトリック信者として育てるという現代の感覚からすれば暴挙ですが、使徒パウロが創立したガラテア教会草創期において、この事件とはまるで立場が真逆のような、教会内での信仰的混迷が発生していたと思ったからでした。

 

2.教会内部に発生したユダヤ教への逆風

     6:キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。

  「ほかの福音に乗り換えようとしている」と、また「わたしはあきれ果てている」とも語調を極めて批判しています。

 キリストの愛と赦しの教えは、一言で言い表せば、「寛容の精神」と言えましょう。ところが、このパウロの言葉は、実に激越な「不寛容」の態度です。

 パウロは、矛盾しているのでしょうか。

 パウロが懸念しているガラテア教会の信仰の混迷は、圧倒的な「神の恵み・恩寵」(ただ信仰によってのみ義とされる:信仰義認)を信ずることによって、誰であっても「価なし救われる」という絶対恩寵の福音を、事実上否定することになる「律法遵守によってこそ義とされる」という「行為義認」という「ユダヤ教への逆行」に、信徒たちが惹かれていったという事態でした。

 行為義認、律法を守ることによって得られる自己満足感はたしかに、自己自身の行為そのものですから、わかりやすかったのだと思います。行為は自分の感覚で、その達成感を得られるからです。

 

3.神の神となる行為義認の道

 千日回峰行という「行」があります。

 千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは、比叡山や吉野山などの険しい山々を7年間かけて延べ1,000日間歩き、心身の限界に挑む天台宗や修験道の非常に厳しい荒行です。過酷な道のりは7年間の修行で、1日約30〜40キロ、のべ約4万キロを歩き、数多くの礼拝所を巡り、行が続けられなくなった場合は自ら命を絶つための短刀や死出紐(しでのひも:首つりの紐)を携えて挑む、命がけの修行として知られています。700日を満行したあと、9日間にわたり「断食・断水・不眠・不臥(横にならない)」の状態で不動真言を唱え続ける荒行です。

 こうした荒行を達成した人はごくわずかです。そして多くの人々は、「阿闍梨」と呼ばれる人を尊敬するものです。常人にはとてもできない事だからです。阿闍梨の経験した経験知はわたしたちに多くの知恵を与えてくれるものはありましょう。それを否定する必要はありません。

 ただ、この荒行を達成したことによって、「悟り」の境地を得たとしても、まことに存在したもう神との関係が義とされるということなのかといえば、それは否です。人の「業」によって、神との関係が「義とされる」(義認即救い)事はありません。人の「業」によって、神と人との関係が義とされる(ただしい関係とされる)のだとすれば、その行為を行う人と神とは同等の存在、もしくは神よりも人のほうが格上の存在だと言っているのと等しいからです。このような傲慢な思想は、自分では気づかなくても、自分を神とする、もしくは神の神となるという根本動機が潜んでいるのです。 

 わたしたちは、天地を創造したもうた創造主なる神によって創られた被造者にすぎません。

 わたしたちは、自分自身を救うことはできないのです。


4.不寛容であるべき事

   さて、パウロが激越なまでに厳しく「ほかの福音」を批判・非難したのか。どうしてここまで言わねばならなかったのか。この「不寛容」の態度は、どうして出てくるのか。

 これは、人類に救いをもたらす神の絶対恩寵の福音を根本から否定するものだったからです。自分たちは、アプラハム以来の天地創造の神を信じていると、主観的世界では確信しているのが、ユダヤ人ですから、ユダヤ教に逆行するからといって、創造者なる神への信仰はあるではないかと言うかも知れませんが、律法によって義が得られるという思想には、隠された神への否定が潜んでいるのです。人が人の行為によって神人関係を修復したり、確立できるとするなら、それは人が神になっている、もしくは神の神になっているからです。本人がいくら否定しても、自分自身が神に、神の神になってしまっている現実態は客観的に存在するのです。

 パウロは、律法による義の思想に隠れ潜む自己神化の根本動機を見抜いていたからこそ、これこそ、まことの神への不従順、すなわち罪だと糾弾せざるを得ないのです。

 「そんなに目くじらたてることはないではないか。同じ神を信じているのだから」とか、「そんな『不寛容』な態度では、教会内部がギスギスしてしまうのではないですか」とか、そんな主張をする声が聞こえてきそうです。パウロは厳格するのではないですか、とパウロの「不寛容」な態度を批判する人が出てきても不思議ではありません。

 しかし、パウロの舌鋒はひるみません。「わたしはあきれ果てています。」と鋭い批判は、頂点に達します。

 福音の本質・核心をないがしろにして、骨抜きにしてしまう「偽教師」の影響力を、断固として、ここで食い止めなければ、パウロがこれまで語ってきた福音が、無意味と化してしまう。ここで放置したり、黙認したりすることは、愛でも赦しでもない。罪の容認、否、罪の擁護になってしまう。パウロは信徒への激しい愛ゆえにこそ、この事態を「背信」とし断固として、ここで食い止めなければならない、そう考えたのです。

 愛するがゆえに、福音を無にしてしまうことは、食い止めなければならない。これがパウロの「不寛容」な態度の動機でした。愛するがゆえに、断固として叱責しなければならなかったのです。

 これぞ「牧会」です。

 牧会とは魂の配慮です。信徒たちがそうとは知らずに背信の罪を犯してしまうことを食い止めることは、信徒たちを愛し、魂を救い、主イエスのもとに取り戻すことにほかなりません。そのためには、頑固として、「偽教師」たちの影響を遮断しなければならないのです。ここに一分の隙もあってはならないのです。

 これが福音まもるための「不寛容」です。この不寛容こそが、神への真実な愛であり、主イエスへの真実な愛なのでした。


5.真の「寛容」の精神

 どこまでも、まことの神・まことの人、主イエスへの信仰を貫きとおすことこそが、信徒の罪を赦し、永遠の命を与えるという真実の愛なのです。

 この一事こそが、「われらに罪をおかす者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りの実践なのです。それゆえ、真の「寛容」はここにこそあるのです。罪を罪として明確に示し、その罪をわが事として受けとめなおし、我がこととして悔い改め、ひたすらその罪の赦しを祈り願うのです。ここに真の「寛容」があるのです。「寛容」とは罪の容認や放置ではないのです。


6.アナテマ(呪われるがよい)※ 

    8:しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。

     ※パウロ書簡のなかにも「私たちが伝えたのと異なる福音を伝えるものは呪われよ(=アナテマたるべし)」(ガラテア1:8)などとする用法がある。こうした異質なものへの「呪い」の意を承けて、カトリック教会を含む古代教会では、アナテマは共同体からの除名、すなわち「破門」を意味する語として用いられるようになった。その証拠に、ニカイア信条などキリスト教の信仰箇条には、異端の説を信奉する者に対するアナテマが付加されるものが見られる。

    「呪われるがよい」とはなんという厳しい言葉であろうか。教会からの除名の根拠とされた箇所です。かつては、「破門」は地獄行きを即刻意味した極めて強い排除の術語です。今日では、先に「寛容」の意味について記したように、そのような意味よりも、悔い改めを促すための牧会的配慮の言葉として受けとめ直すべき術語ですが、それにしても激しい物言いです。

   ただ注目すべきは、「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ」と、自己批判や天使への批判を含めていることです。 つまりアナテマ、呪われよという術語の対象は、相手に限らない。自分自身も天使さえも含む。人によって評価を変えるような語り方をしていません。パウロの福音(信仰義認)に反するような「ほかの福音」(キリストの福音を覆すもの)を語るようであれば、自分自身であれ、天使であれ、同様に呪われるべきだという内容・事柄に集中した術語だということです。事柄が問題だというのです。人ではないのです。

 この視点は重要です。この姿勢は、相手に対して、悔い改めの猶予を与えて、方向転換したならば、直ちに戻っておいでと言っているようなものです。だから、この激しい言葉でさえ、愛の招きとなっているのです。


7.寛容は同調にあらず、承認欲求にあらず

    10:こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

   フランツ・イェーガーシュテッターという人のことが心に浮かびました。

 フランツ・イェーガーシュテッター(Franz Jägerstätter, 1907年5月20日 - 1943年8月9日)は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによるオーストリア併合後、ヒトラーへの忠誠とドイツ軍への入隊を良心の呵責から拒否し、死刑に処されたオーストリアの農民です。彼はカトリック信者の妻の影響を受けて聖書を読むようになり、信仰者となりました。彼はひたむきに聖書のみことばに堅く立って、「ヒトラー宣誓」を最期まで拒絶し、罪に問われ、ギロチンで処刑されたのでした。司祭までもが、ナチス・ドイツへの同調を勧めましたが、彼は同調を拒んだのです。「もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」とパウロは、真理をねじまげてまでして妥協、同調をするなら、「わたしはキリストの僕」(奴隷)ではありません。」ときっぱりと、同調という態度が必然的にもつ偽善性と距離をもちました。

  また、同調姿勢というものを、承認欲求と同列に語ります。承認欲求というのは、ようするに、「何とかして人の気に入ろうとあくせく」することです。

 パウロの鋭い洞察力に驚きます。誰にでも承認欲求はあります。しかし、人の承認をとりつけるために何かをなすことには、神への責任よりも他人の評価を優先するという邪悪さが潜んでいることを知っているのです。他者の評価を得たいが為に何かをするとき、神への責任(信仰)的主体であるべき自己自身が崩れてしまうからです。わたしたちは他人の評価よりも、神の審判をこそ畏れ、神からの承認をこそ祈るべきなのです。もし承認欲求があるとしたら、神との関係、主イエスとの関係においてあるべきなのです。そうでないなら、「わたしはキリストのしもべ」ではないというのです。フランツ・イェーガーシュテッターはただ神への応答責任(信仰)に生きようとして、殉教の道を選んだのです。


8.生涯のささげもの

   ささげものと言っても、それは「物」ではありません。わたしたちのささげものとは、私たち自身だからです。「生涯の」と言っても、それは短くも尊い人生の時間の長さのみを言っている訳ではない。フランツ・イェーガーシュテッターは反キリスト・ヒトラーへの宣誓を拒み、殉教しました。36歳の若さでした。短い生涯です。しかし、彼の殉教の瞬間は、「永遠」をたたえた「今」でした。 わたしたちの「今」「ここで」の瞬間も、「永遠」をたたえています。いま・ここで主イエスへの信従の思いをもって生きるとすれば、それは「永遠の今」であり、わたしたちは、キリストへの「生涯のささげもの」をささげているさなかなのです。

2026年9月1日火曜日

 2026年8月30日(聖霊降臨節第15主日)

1コリント 12章27節~13章13節

『最高の道』


                  『最高の道』
       コリントの信徒への手紙Ⅰ12章27節~31節
27:あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
28:神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
29:皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
30:皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
31: あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
コリントの信徒への手紙Ⅰ13章
1:たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
2:たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
3:全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
4:愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5:礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6:不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7:すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8:愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9:わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10:完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
11:幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
12:わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。


1.わたしたちはキリストの体の一部である
  人の悪口を言うことはなぜ「悪」であるのか、という問題を考えてみます。
  なぜひとは、他人のことを悪く言うのでしょうか。さまざまな事が考えられますが、そのうちに「劣位化説」という説があります。人の立場やランク(位)に焦点を当てる考えだそうです(和泉悠)。悪口を言う人は自分の優位性を確認したり証明したりするために悪口を言うというものです。いわば動機は「マウント」※をとりたいということ。
 悪口がよくないのは、「人間同士に上下や優劣関係をつくることが良くないからです。」これは「現代社会の通念であり、ランキングの上下をつくってしまう悪口は、人を傷つけなくても、悪意がなくても悪い、ということになる。」
 マウントを取る人の心理は、何かといえば、不安と自信のなさだといわれます。心の底では自分に自信がなく、周囲に認められたい(承認欲求)という気持ちが強いのです。また、相手より下に見られると不安になるため、攻撃することで自分を守ろうとする心理とも言えます。
※「マウントを取る」とは、会話や態度で自分が相手より優位(上)にあると示そうとする行為のこと。
要するに、自分と他者を比較して、本当は自信がないのに、優位に立つために、他人を自分より低めようという心理から悪口を言ってしまうのです。
 こういう人は、自分が神人キリスト・イエスの体の一部であって、他人とはそれぞれ異なった多様な一部をなしあっているということを知らないのです。他の部分を担う他人と自分とは、異なった役割を担っていて、体は、どの部分も互いに不可欠なのだということを知っていたら、他人との優劣などを比較することはないのです。一部分が弱れば、体全体が弱るのです。だから、一部分が痛めば、他の部分も共に痛むのです。
 もし、真実に、自分自身がキリストの体の一部分だと信じているなら、他人との比較で、優劣をつけて悪口を言うことなど、できなくなるはずです。

2.もっと大きな賜物を受けるよう努めなさい
   「もっと大きな賜物」を受けるよう熱心に努めよとパウロは勧めています。それぞれが固有なかけがえのない賜物を既に受けています。ほかの部分を担う人とは替わることができないその人だけの賜物です。既に固有な代替不可能な賜物を受けている以上の「もっと大きな賜物」を受けるべく熱心に努めよというのです。
 他人との比較ではなく、現在ただいまの自己自身をみつめ、その地点よりももっと優れた賜物へと自己自身を磨けというのです。すなわち自己自身の成熟です。自己自身の陶冶です。
 自己陶冶は、どれだけ精進しても、尽きるところはありません。それは能力の向上とか、体力の増進とか、そういうことに限る必要はまったくありません。こどもにはこどもとして、青年は青年として、壮年や老人も同じです。老人には、老人なりの「もっと大きな賜物」を受けるよう熱心に努めることがあるからです。 朝、目が覚めると、わたしなどは、教会の地面の土壌改良や草刈りのことを思います。一日の作業スケジュールを紙に書き出します。大抵は半分もできませんが、ひとつひとつの仕事をなし終えると、喜びが与えられます。たったそれだけのことですが、これはやはり「もっと大きな賜物」を受けるための努力に違いありません。自分で決めたことを成し遂げたという喜びは、紛れもなく「賜物」なのです。人より優れているとかなどということとは無縁なのです。自分の心が喜んでいるということは、キリストの体全体も喜んでいることだからです。人はこの喜びを「達成感」と呼んでいますが、わたしはこの感情は、「神の喜び」に、直結していると思うのです。わたしの「喜び」が、キリスト・イエスの喜びにつながっているのです。

3.愛がなければ
   13章1節から3節までは、「愛がなければ」という言葉で結ばれています。
  愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
  愛がなければ、無に等しい。
  愛がなければ、わたしに何の益もない。
 1節は、「人々の異言、天使たちの異言」を語ったとしても、もし 「愛がなければ」、その言葉は騒音に等しいと最大限の落としようです。 このような「相対化」※」をパウロがしているということは、コリントの教会で、起きていた「異言」現象については、認めてはいても一定の批判を持っていたことになります。(コリント人への手紙第一14章1−5節、27−28節、39節)
※相対化(そうたいか)とは、ある物事が「絶対唯一のものではない」と考え、ほかの視点や基準に照らしてその意味や位置づけを見直すこと。
    「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。」
            コリントの信徒への手紙一 14章4節
    「解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。」
           コリントの信徒への手紙一 14章28節
 つまり「異言」を語るのは、神に対し、もしくは自分自身に対して語るのであって、「解釈する者がいなければ、教会では黙って」いるべきだというのです。「解釈」なしには横の人間関係において、むやみに語るものではないというのです。
   「異言」は対人関係にあって、そのままでは「理解」できないから、教会の徳を高めることに支障をきたす怖れがあったのでしょう。
    「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。」      コリントの信徒への手紙一 14章 23節
  2節は、「預言する賜物を持ち、あらゆる神秘と知識に通じていようとも」、「山を動かす程の信仰」があっても」、もし「キリストの愛がなければ」無に等しいと言います。すなわち、「知識と信仰」です。「知識と信仰」があっても「愛」がなければ、無に等しいというのです。愛なき知識も信仰も、ただ「無」だというのです。
 「愛のない知識」の目的は自己愛にすぎません。「愛のない信仰」は、たとえ「山を動かすほどの完全」なものであっても、そこには神への愛も人への愛もありません。ただあるのは、「山を動かすほどの完全」な自己満足にすぎません。愛する対象が存在しないからです。
 この場合の「知識も信仰も」、結局、自己欲求の延長でしかないのです。
 この場合、自己はキリストの一部分ではなく、自己が自己の支配者であり、自己が完結した全体なのです。他者への愛ではなく、自己完結的なの自己愛なのです。
 しかし、「愛がなければ」というときの「愛」は、自己を愛する愛は必ず他者との絆がなければならないという「愛」です。「キリストの愛」です。他者と自己とは、互いに神=キリストの体なのですから、愛には必ず他者という対象が存在します。キリストを愛するがゆえの「知識と信仰」なのです。キリストを愛するがゆえに、さらにもっと知ろうとする。キリストを愛するがゆえに、さらにもっと信ずるのです。
  3節は、全財産を貧しい人々ために使い尽くすという他者への愛の行為においてさえも、「愛がなければ」何の益もないといいます。そして、たとえ「殉教」という状況においてでさえも、「愛がなければ」なんの益もないというのです。ここには、他者に対する「愛」の振る舞いにおいてさえも、「キリストの愛がなければ」、自己自身の魂の救いにはならないという極限的な愛の意味づけが語られています。
 まったき自己犠牲的な愛の振る舞い・行使においてさえも、純粋な愛が要求される。究極の自己犠牲である「殉教」でさえも、「キリストの愛」に充たされてこそ、「証言」なのです。

4.「愛」のふるまい
 4節から8節までは、いわば「愛の振る舞い」について語っています。「愛」という言葉を、「キリストの愛」と言い換えると、いっそう理解しやすくなります。ここで「愛」という主体は、人格をもっています。「神は愛なり」なのです。だから、「愛」を「キリスト」もしくは「キリストの愛」と置き換えて読むと、意味は明確に伝わってくるでしょう。
 どうみても、「愛」を「人」に置き換えることはできません。神=キリストだけが、わたしたちに人間に示された「愛」です。
 
5.終末論的な希望の認識
  「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」      コリントの信徒への手紙一 13章10節
    「完全なものが来たとき」とは、キリストの再臨を示唆していると思われます。 キリストが最後の審判をされた暁には、かくなるという希望が語られています。
    12:わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
    13:それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 7.信仰と、希望と、愛
    終末においてキリストが再臨されるまでの、歴史の時間を、わたしたちは生きています。この歴史的時間の途上においては、わたしたちは、互いにお互いを完全に知ることなく、「鏡におぼろに映ったものを見ている」ように見ているにすぎません。わたしたちの認識力は、それが限界なのです。いまは互いに一部しか知る事はできません。しかし、終末時には、この人間の世界は、認識的な大転換が起きると、聖書は語っています。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」というのです。
   はっきり知られているようにというのは、神によって、キリストによって知られている。わたしたちは神によって、キリストによって知られているのですが、終末時の認識的大転換が生起するとき、わたしたち自身が、キリストに知られているのとまったく同じように、知る事になると断言されているのです。
   神を見るものは死ぬ。それは旧約時代に貫かれていた信仰観でした。神は認識できないお方なのでした。
 イエスの時代、神は人となりたもうた主イエスを見るものは神を見たのです。
 終末時においては、わたしたち自身が、神、キリストに知られているごとくに、お互いを知ることができるというのです。
 この認識的な大転換に至るまでの「途上」にあって、わたしたちを導く、最も大いなるものは、信仰と、希望と、愛です。

   信仰は、信仰の真の主体者は聖霊であり、
  希望は、歴史的時間の彼方に到来するキリスト再臨の希望であり、
  この歴史的時間を生きる私たちが生きるべき「最高の道」こそ「愛」(すなわちその真の主体)なのです。


2026年8月24日月曜日

 2026年8月23日 (聖霊降臨節第14主日)

使徒言行録13章44節~52節

『全ての人に対する教会の働き』

       


  『全ての人に対する教会の働き』

       使徒言行録13章44節~52節

44:次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。

45:しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。

46:そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。

47:主はわたしたちにこう命じておられるからです。

  『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、

  /あなたが、地の果てにまでも

  /救いをもたらすために。』」

48:異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。

49:こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。

50:ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。

51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。

52:他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。


1.歓迎されていたパウロとバルナバ

   ピシディアのアンティオキアに到着したパウロとバルナバは、前の安息日には、ユダヤ教の会堂に招かれて、福音を語りました。(15節) 反応はすこぶるよいものです。次の安息日にも同じ話をしてほしいと、人々はしきりに願ったとあるからです。人々というのは、当然ユダヤ人です。このなかには、異教からユダヤ教に改宗したユダヤ人もいました。集会が終わってからも、パウロとバルナバについてきたので、パウロとバルナバは、彼らを牧会しています。「ひきつづき神のめぐみにとどまるように」と、説きすすめたのでした。

 

2.主の言葉はその地方全体に広まった

  おそらくパウロとバルナバは、前週懇請されていたとおり、ユダヤ教の会堂で主イエスの福音を語るために、足を運ぼうとしていたことでしょう。

 ところが、前週のユダヤ会堂でのユダヤ人たちの評判がよかったせいでしょうか、ふたりの話を聴こうとして、ほとんど全市をあげて、人々が集まってきたのです。

 この描写どおりであれば、ユダヤ教会堂に収まりきれるものではありませんから、二人は会堂に入る以前に、大勢の人々に囲まれてしまったのでありましょう。

 おどろくべき影響力です。この影響は、どのようにしてはじまり、伝播したのか。わたしが聖書の記述から考えられることは、前週、二人の話を聴いて感銘を受けたユダヤ人たちが、全市の住民に語り伝えたとしか思えないのです。ほかに誰がいるでしょうか。

 それほどまでに、二人を歓迎しただけでなく、ついてゆこうとまでしていた人々です。ほとんど主の福音を受けいれていたと言っても言いすぎではないと思うのです。

 つまり、ピシディアのアンティオキアのほとんどの人々はピシディアのアンティオキアのユダヤ人社会から福音宣教の種が蒔かれたということであったはずなのです。

 だからこそ、「主の言葉はその地方全体に広まった」と記録されたはずなのです。

 外形的な事実をみれば、福音宣教の果実は実ったというべきでしょう。ところが、意外にも二人はこの地を去ることになるのです。

    51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。


3.ユダヤ人の翻心

  ピシディアのアンティオキア全市あげてのパウロとバルナバへの傾倒という事実は、驚異的です。この現実をもたらしたのは、他ならぬユダヤ人たちの使徒たちへの傾倒でした。

 ところが、全市の大多数の非ユダヤ人すなわち「異邦人」たちの使徒への急速かつ絶大な傾倒ぶりを目の前にして、「異邦人」たちを二人に引き合わせた当の本人たちユダヤ人たちの心に異変が起きたのです。ユダヤ人の翻心です。

 この事態の遷移をみるとき、「ユダヤ人の罪」とみるべきか、それとも「人間存在の罪」とみるべきか、わたしたちもまた解釈上の決断を迫られますが、わたしは、そのどちらの解釈も可能だと考えます。

 パウロとバルナバの話には、「神の秩序」の変更がありました。

    46:そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。

 神は神の民としてイスラエル(ユダヤ人)を選び、主イエスの福音は、まずは必ずユダヤ人に語られることになっているというのが、パウロたちの信仰内容だったのです。だからこそ、主イエスもパウロもまずはユダヤ人に向けて宣教を開始しました。それはユダヤ人の背信後も変わりません。

 しかし、ユダヤ人たちは、「それを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」というのです。ここには「神の秩序」の変更があります。この変更は、ユダヤ人みずからが選び取ったがゆえに、やはりこの翻心の責任はユダヤ人自身に帰せられるという解釈です。これが「ユダヤ人の罪」だという解釈です。

 他方、「人間存在の罪」と見る解釈も可能ですし、こちらのほうが、普遍性があります。「ユダヤ人の罪」だという特定存在に罪を負わせる解釈は、常に「差別」を生みかねない危険があるからです。「人間存在の罪」だと見るのには根拠があります。 

 それは、「妬み」です。

    45:しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。

 自分たちが感じいって、パウロとバルナバへの傾倒を全市の人々に広めたのに、そのせいで、全市の人々が、パウロとバルナバへと傾倒してゆくありさまを、いざ目の前にしたときに、彼らが感じた人間的感情が「妬み」でした。


4.あまりに人間的な感情、それこそ妬み

  急激な翻心の根本動機となったものは、あまりにも人間的な妬みの感情でした。妬みは憎悪と紙一重です。憎悪は殺意につながっています。あまりにも明解な人間の罪の姿です。前週は、従ってゆきたいとさえ思っていた宣教者たちに、これほどまでに憎悪を向けられるとは、人間の罪とは実に恐ろしいものです。

 妬みという感情、この感情が動機を形成し、思想を形成し、行動に踏み切らせる。ここには人間の罪の本質が見られます。こう解釈すると、この醜悪な姿は、ひとり特別にユダヤ人だけのものではなく、人間存在、原罪を有する全ての人間存在に共通するものだということができます。

 つまり、わたしたち自身の姿なのです。

 この急激な翻心、裏切りは、わたしたちの「鏡像」に他ならないことになります。

    50:ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。


5.追放と門出

    パウロとバルナバへのはさぞ驚いたことでしょう。二人は、つい前の週には彼らは歓迎され、招かれ、慕われていたのです。ところが1週間後には、彼らは「嫉まれ」、「口汚くののしられ」「反対」されたからです。

 そして、「反対」者たちは「扇動」、「迫害」、そしてついには、「追放」したのです。

 しかし、聖書には二人の驚愕については一言も記してはいません。むしろ、記述は、淡々としています。

 更に言えば、二人は「喜びと聖霊に満たされていた」のです。

    52:他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 なぜなら、二人が語るべき福音を語り得、福音を聴くべき人が聴き、信ずべき人々が救われたからです。「永遠の命」を保証された人々が、地方一帯に増え広がったからでした。

 二人が語るべき福音とは、主イエスことが「「異邦人の光」だと神によって定められた聖書のみことばでした。


6.地の果てにまでも救いをもたらすために

    47:主はわたしたちにこう命じておられるからです。

    『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、

    /あなたが、地の果てにまでも

    /救いをもたらすために。』」

  さて、ユダヤ人が翻心したのは、ともすると、彼らからみれば「救われざる者」と見下していた「異邦人」が、急激かつ絶大な信頼を,二人の弟子たちに捧げるようになったからでした。本来なら、喜んでもいいはずなのに、妬みゆえに苦々しい思い、憎悪はパウロとバルナバへと向けられました。

 パウロとバルナバには、ユダヤ人の翻心に、主イエスを十字架につけたエルサレムの指導者たちが二重写しに見えたことでしょう。

 ここで、二人は、主イエスが甦りの主でありたもう福音を語り始めます。実に、主イエスを信じる者は、誰であれ、義とされるのだと語り始めまめるのです。

 主は、一民族のためでも、まして一国家のためでもなく、全人類の救い主なんだと宣言するのでした。この結果、「異邦人」は、喜び、主の言葉を賛美したとあります。

    48:異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。


7.牧者が去るとき

    51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。

  二人は福音宣教の任務を完遂したのです。

 福音宣教の成否、数でもなければ、権威でもありません。二人は、結果、外形をみるかぎり、迫害され、追放されるのですが、二人の話を、聴いた人がいる。たとえ、聴いた人がユダヤ人で嫉妬に狂って憎悪の人に翻心したとしても、一度は福音を信じた事実は変わりません。迫害に奔った裏切りの者たちも、イエスの救いに招かれ続けている事実は不変です。

 二人の使徒に悔いはありません。憎まれても愛する思いを持ち続けていたに違いありません。

    51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。

  牧師が辞任するとき、思い起こす聖句がこの箇所です。「足の塵を払い落とし」て、新たな任地へと向かうのです。この描写には、使徒としての召命観が表出しています。

 主によって示された任地を去るのは、任務の放棄ではありません。パウロとバルナバは、新たな門出に立ったのです。

 臆することなく、さらなる熱情をもって、次の任地へと向かうのです。

2026年8月18日火曜日

 2026年8月16日(聖霊降臨節第13主日)

エフェソの信徒への手紙4章17節~32節

 『新しい人間』


『人格の更新・他者の発見』

 17:そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、

18:知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。

19:そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。

20:しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。

 21:キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。

22:だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、

23:心の底から新たにされて、

24:神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

25:だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。

26:怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。

27:悪魔にすきを与えてはなりません。

28:盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。

29:悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

30:神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。

31:無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。

32:互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

 1.「異邦人」そのネガティブな意味

   本日のみことばで気になることが、実はあるのです。

 「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」という言葉です。

 久保田早紀さんが歌った「異邦人」は当時大ヒットして、そのエキゾチックな旋律には鮮烈な印象をもちました。

サヨナラだけの手紙 迷い続けて書き

あとは哀しみをもて余す 異邦人

  歌詞をじっくりと読むと、異邦人とは自分を指しているようです。どこかの外国での情景でしょうか。異国の光景が目に浮かびます。そこで出会った人との別れの思い出を歌っているようです。

 「異邦人」でまた思い出すには、アルベール・カミュの作品があります。実存主義作家でノーベル文学賞を受賞した人です。

 いずれも、「異邦人」に込められた意味はかなり違っていて、意義は多様性に富んでいます。この「異邦人」とは平たく言えば「外国人」ですが、この「異邦人」という術語は、聖書から広まった言葉で、元来特別な意味を持っていました。「外国人」という意味は同じでも言葉が違えば、まったく異なったニュアンスを感じさせます。

 本日のエフェソ書のこの聖句で気になるのは、この「異邦人」という術語の使用文脈は、ネガティブな意味で用いられていることです。「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」とはっきりと、「異邦人」のようであることを否定しています。 


2.「異邦人」とは誰か

  久保田早紀さんの「異邦人」は自分自身がどこかの異国で恋をして、その好きな人と別れる一人の外国人女性の心境を歌っていますから、「異邦人」とは自分自身を指しています。自分はこの「異国」の地では「ストレンジャー」・「エトランジェ」なのだというのです。

 カミュの「異邦人」は、哲学的な意味で「見知らぬ人」「異質なもの」「疎外された者」を意味しています。

人間は「生きる意味」を求めますが、世界には最初からそんな意味はないというのです。この「意味を求める人間」と「意味を持たない世界」のズレをカミュは「不条理」と呼びました。母親が死んでも何の感慨も示さない主人公ムルソーの姿に社会通念とは異質な「不条理」な「異邦人」を描いたのです。

 エフェソ書が書かれた原始キリスト教会の世界宣教という状況を想像してみますと、福音を聴き、キリスト者となる以前の人々の多くは、もともとユダヤ人であった人々を除けばすべて「異邦人」です。

 つまり、異邦人出身のキリスト者に向かって、「これまでの生き方を棄てよ」という意味になります。

 新しい人間となったいまは、これまでの古い生き方は棄てなければならないというのです。

 言葉あるいは術語というものは、人間のものですから、文脈によって意味は限りなく多様だということを、わたしたちは常に念頭においておかなければならないし、そうでなければ、過ちを犯してしまいかねません。

 言葉は、悪用される危険が伴うものなのです。

 「もはや、異邦人のように歩んではなりません。」という言葉の断片だけを引きだして安易に用いると、この言葉はとんでもないヘイトスピーチに変わってしまいかねません。「外国人」差別につながりかねないからです。


3.「もはや異邦人のように」の特定固有な意味

 言われている対象は、ユダヤ人から見ての「異邦人」であったけれども、いまはキリスト者となった「異邦人出身のキリスト者」だと想定すると、「もはや異邦人のように」という意味は、単なる「外国人」という意味ではないことになります。ここでの「異邦人」は、現代の「外国人」と言う国籍の問題ではなく、信仰上のアイデンティティーの問題です。「もはや異邦人のように」という意味は、多神教の神々を崇拝していたときの生き方を指していると考えるべきでしょう。

 エフェソにはアルテミス神殿があって、かつては神殿娼婦が千人もいたとされていましたが、どうもそれは近年では俗説だったする説が有力とのことでした。ただ、エフェソには多くの商業的娼婦は多く存在してはいたようですので、「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、」と戒めているのは、港湾都市として栄えたエフェソの退廃的な状況を背景にしていると見て良いと思われます。

 という次第で、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」というネガティブな表現が意味していたものは、「情欲に迷わされて、滅びに向かっている古い人」という特定固有な状況を指していると言えるのです。だから、一般的な意味での「異邦人」全体を指して、ネガティブに言っていると見るべきではないということになるでしょう。「異邦人」のすべてが「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」という状況だとは限らないからです。

 なかには道徳的に立派な人もいたのではないでしょうか。パウロが言うように、律法を知らなくても、心に律法が記されている人もいたことでしょう。

    「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」ロマ書2章14節~15節


4.「心の底から新たにされて」

  「人格の更新」ということが語られています。大切なことは更新する主体が必ず存在するということです。

 神はまことに存在したもう。

 「真理がイエスの内にあるとおりに」とあります。主イエスが信徒本人に、結ばれている。結ばれているだけではなく、信者本人の「内」に存在するというのです。

 神の存在が、具体的な力をもって、信者本人に結びつき、内面に存在していてくださるというのです。この神の存在の力によって、信者は「真理に基づいた正しく清い生活を送るように」なることができるのだから、そうせよというのです。可能なのです。自己自身の努力とか精進とかでは絶対不可能なことが、神の存在の力によってでならば、可能なのです。


5.「わたしたちは、互いに体の一部なのです。」

 キリスト者共同体の信徒は、「互いに体が一部をなしている」というのです。これは具体的な、客観的な、人間理解として、キリスト者共同体はキリストの肢体として一つの体の一部を、互いになしているというのです。

 つまり、わたしたちは分かちがたく一つとされているというのです。これは理想でも観念でもありません。具体的な現実存在だというのです。

 キリスト教信仰はこの現実を指しているのです。単なる道徳律でも、行動指針でもない。現実存在だというのです。総括すると、「真理に基づいた正しく清い生活」という具体的な現実として、立ち現れるのであるから、そのようにせよと命じるのです。

 

6.具体的倫理の命令

    1)偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。

    2)怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。

    3悪魔にすきを与えてはなりません。

    4)盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけせん。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。

    5. 悪い言葉を一切口にしてはなりません。

    6.聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさ い。

    7) むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。

    8)神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。

    9)無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。

  10)互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

    

7.神の聖霊を悲しませてはいけません。

 これらの倫理的命令は、「具体的な人格更新の果実として、信徒自身に生起する出来事」です。

 ここで、わたしたちは、「神との人格的な交わり」が言及されていることに注目したいと思います。

 信仰生活は、現実的に神との交わりの生活なのです。だから、「聖霊を悲しませてはいけません」と言われているのです。信徒が、これらの倫理的果実を結ぶことなく、真理に基づく正しく清い生活という現実を生起させず、罪を重ねるとき、それはただちに、神さま、聖霊さま、イエスさまを悲しませることになるというのです。

 信仰生活は、神の悲しみ・痛み、嘆きを、自己自身のうちにいきいきと感じる生活なのです。


8.個人は全体の体の一部

 キリスト者共同体はキリストの肢体として一つの体の一部を、互いになしています。ということは、一部が痛めば全体も痛むのです。一部が悲しめば全体もまた悲しむのです。この痛み・悲しみは、ただちに神の痛み・悲しみとなるのです。神の痛み・悲しみを感得するならば、人は、人類の痛み・悲しみをも感得せざるをえなくなるでしょう。

 一人の痛み・悲しみは全体の痛み・悲しみであり、神の痛み・悲しみなのです。

 週報に、渡部良三氏のことを紹介しました。渡部氏の歌が今日わたしたちの目に触れることができるのは、戦争という罪深さのさなかで、キリスト者の痛み・悲しみをいまに伝え・遺されたことは、わたしたちにとって神の賜物です。これらの歌によって、わたしたちは主イエスの痛み・悲しみの片鱗に触れることができるからです。


 祈れども踏むべき道は唯ひとつ殺さぬことと心決めたり


9.異邦人は、私自身のことであったと発見し、選び取る

 今年も8月15日を迎えました。NHKが制作した『開戦前夜』が公開されて論議を呼んでいます。内閣直属、飯村穣中将を初代所長とする「総力戦研究所」を舞台としたNHKスペシャルドラマを映画化したものです。史実とはかけ離れているとして遺族の飯村豊元大使が飯村中将の名誉棄損を訴えておられます。

 8月15日は敗戦の記憶を新たに更新する日です。なぜ、戦争をしてしまったのか。「総力戦研究所」が出した結論は、明確に戦争をすれば「敗戦」必至だというものでした。それでもなぜ、戦争をしてしまったのか。戦後81年にして、いまなお、わたしたちは真実を正確に知りません。渡部良三氏のような、人の証言はごくわずかです。

 かつて同じ人間を殺戮した戦争を二度と起こさないために、「記憶を日々新たに更新」する決断を、わたしたちはすべきです。そして、「敵」だと教え込まれた人に、「神の似姿」を見つめなければなりません。力より正義を、支配より和解を、沈黙より真実を選び続ける必要があるのです。

 だから、「異邦人」は、ただ外国人を指すのではなく、「わたし自身」こそが、「異邦人」に他ならないことを、発見し、選び取るときなのです。「もはや異邦人のように生きてはならない」という言葉は、「わたしこそが異邦人に他ならなかったからこそ、この異邦人たるわたしに人格の更新が起きることが確実ならば、世界のすべての人に人格の更新は必ず起きる」という意味に、「更新」されるでしょう。その選択は、一度では終わりません。世代ごとに、社会ごとに、教会ごとに、そして一人ひとりの良心の中で、何度でもなされなければならない。

八月十五日は、その決断を更新する日なのです。

2026年8月8日土曜日

 2026年8月9日(日)(聖霊降臨節第12主日)

エフェソの信徒への手紙5章21節~6章4節

                    『家族』




21:キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

22:妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。

23:キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。

24:また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。

25:夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。

26:キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、

27:しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。

28:そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。

29:わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。

30:わたしたちは、キリストの体の一部なのです。

31:「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」

32:この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。

33:いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

6章

1:子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。

2:「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。

3:「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。

4:父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。


1.古代社会の家庭訓

 聖書が神の啓示を伝える書物だという信仰は、やはり堅持すべきです。ですが同時に、聖書もまた、言語という神の被造物であるという事実を忘れてはなりません。

 被造物は有限なる存在ですから、無限なる神を入れる「器」あるいは「乗り物」としては自ずから限界があります。わたくしどもは常に意識しておかねばなりません。聖書イコール神の啓示という三段論法は成り立たないのです。

 限界づけられた存在、特定の時代、特定の文化、特定の言語に限界づけられた書物として、そこに神の意志、神のみこころが、神の抜擢によって、啓示の出来事が生起すると信じて読むのです。

 この意味で、今朝のテキストもまた、時代や文化状況に限界づけられらた「家庭訓」として、まず受け止めるべきでしょう。

 つまり、ここで語られている家庭内倫理は、時を超えての普遍的・原理的な倫理ではなく、二千年前の地中海沿岸文化の社会の現実を背景に、その状況の中で、キリスト者共同体がいかに存在していたのか、いかなる家庭倫理を目標としていたのかを、示していると、受けとめることができるとすべきでしょう。脱時間的な、脱空間的な観念論ではないのです。そこに具体的な状況があり、そこには固有な個人が存在し、固有な倫理が語られていたと想定すべきなのです。だからこそ、その固有な時と場においてこそ、神の言葉の出来事が生起する、そういう言葉として、伝承されてきたと、わたしは考えています。

 そうであれば、聖書の言葉を逐語霊感説のように金科玉条の不動の倫理として読むことは、明らかな誤読なのです。この時代は、家庭内に、奴隷身分の存在もいたのです。自分自身が「解放奴隷」であったり、現役「奴隷」身分の者であったり、はたまた「奴隷所有者」であったりしたのです。


2.このアナロギアをどう活かせばよいのか

  キリストと教会という存在と夫と妻の存在がアナロジーで結ばれています。

    23:キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。

    24:また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。

    25:夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。

    この「~のように」というということば、「同じような様子で」という意味ですが、これはキリストと教会の関係と同じような様子で、夫と妻の関係も「仕える」「愛する」ことを勧める言葉です。つまり、この言葉には、「類比」(アナロギア)の意味があります。

    ※2つ以上の事物にある似た点(類似性)を基準にして、一方の性質から他方の未知の性質を推しはかること、またはそのように例えて比べることです。英語の「アナロジー(analogy)」にあたります。

 この類比は、夫婦の倫理を、キリストと教会と同じような関係となるように勧めているのですが、現代の社会通念から見るとき、この倫理観には、いわゆる家父長制的な時代的限界があるとみることができるでしょう。

 キリストと教会の関係には、厳然とした格の違いがあります。キリストは神ですが教会は人間の共同体です。教会はキリストによって救われるべき存在です。キリストは救う存在です。その格の違いは明らかです。

 この格の違いを前提として、夫と妻の関係を、「同じように」「仕える」「愛する」と勧めるのは、夫をキリストの立場、妻を教会の立場のようにという類比関係になりますから、自然と夫の方が格が上で、妻の方は格が下という具合に受けとめても仕方がありません。

 こういう風に受けとめるなら男女の間には男性優位という格の違いを固定化します。性差による差別につながります。

 ですから、この家庭訓を、そのまま現代社会に金科玉条のごとくに勧めることは、人類が営々とした歴史を通じて獲得してきた男女平等という人権感覚とは矛盾します。歴史を逆行させることはできませんから、わたしたちの聖書の読み方の「成熟」が必要となるのです。

 それでは、この聖書の言葉、類比思想を、どのように現代の教会は受けとめ直せばよいのでしょうか。


3.理想と現実

   おそらくこの「家庭訓」は、当時の状況のもとでのキリスト者共同体における「理想」的な家族像を、描いていると思われます。教会がキリストに仕えるように妻は夫に仕え、夫はキリストが教会を愛するように妻を愛するべきだという理想を、示そうとしているのです。

 けれども、現実の信徒ひとりひとりに、キリストが教会を愛するという現実性を理解しているかと言えば、おそらく理解しているというより、「そのように信じている」各々が遙か彼方の理想を、限りなく高く追求すべしという「当為」(ゾルレン、まさになすべきこと、まさにあるべきこと)的な理想像だったのだと思うのです。というのは、神ならざる人が神が人を愛するようにと言われても、そのことを正確に知ることは不可能だからです。どこまでも、信仰においての認識に限られるからです。

 また、現実の信徒ひとりひとりの家庭生活は、おのおの千差万別ですから、苦境にあるものも順境にあるものも様々であったことでしょう。現実の苦境のなかで、この理想像をいかに聴いたのか、いかに聴いたらよいのか。それが課題なのです。

 その課題は、現代のわたしたちにも、同じように切迫する課題として共有できるはずです。


4.現実のさなかで、キリストの愛を見いだす

 実際の夫婦の結婚生活、息子や娘との生活を生きるわたしたちが、相手との関係を、どのように保ち、どのように苦楽を共に生きているかです。

 さし向かいの関係において、「わたしとあなた」(我と汝)の関係に、わたしたちはあります。この存在は、代替不可能な「我と汝」の関係にありますが、その根拠は、キリストと教会の関係こそが可能根拠だということが、キリスト者にとっては信仰内容なのです。キリストが教会を愛するようにというあの「類比」は、この前提を可能根拠としているのです。

 「わたし」が妻を愛することが可能とされているのは、「キリストが教会を愛していてくださるという神の存在の出来事」を根源としているということなのだというのです。

 この「私」は夫として妻を愛していられるのは、キリストが私を現に愛してくださっている愛が、この「私」を「私」あらしめている神が現実を実現させてくださっているということなのだというのです。言い換えれば、現に神に愛されている原点がわたしの存在に打ち込まれているからこそ、私は妻を愛するという喜びに生きていられるというのです。妻を愛させてくださるのは神なのです。

 「わたし」が妻として夫を愛し得るのは、やはり、「キリストが教会を愛していてくださるという神の存在の出来事」が生起しているからこそ、夫を愛し得るのです。だからこそ、「教会がキリストに仕えるように」夫を愛すべしというのです。「仕える」という言葉が使われていますが、「仕える」ことは愛の具体化だからです。

 夫婦は仕え合う「さし向かいの存在」なのです。仕え合うことが愛し合うということなのです。

 「仕え合う」という具体的行為によって、愛のあり方が示されることによって、愛の抽象化も観念化も防がれます。

 そして、具体的行為の指針は、古代も現代もありません。 状況を超えるのです。もはや古代的な家父長的権力関係は、キリストと教会の愛の交流を可能として「互いに仕え合う」「互いに愛し合う」という「当為」によって、克服されるでしょう。

 現代のわたしたちも、古代の信徒たちも、はるか天より愛してくださっているキリストを仰ぎ見て、このキリストに愛されているという現実性を、信じることができるからです。

 

5.わたしたちは、キリストの体の一部なのです。

   教会は、キリストの肢体だと、わたしたちは信じます。教会とは、わたしたち自身なのです。わたしたちが、キリストの一部だから、わたしたち自身が教会なのです。

 この信仰に、真実生きているなら、わたしたちは決して教会から離れることはありません。わたしたちがわたしたちから離れることは不可能だからです。

   最近長年、教会生活をしながら、最後に教会生活から離れたという知らせを聞くことがありました。とても残念に思う一方で、「やはり」という思いもしない訳ではありませんでした。

 教会から離れることができてしまうのは、「わたしがキリストの一部」だという信仰がなかったのだと思います。教会から離れる人は、自分と教会(キリストの肢体)とは別物だと思っているから離れることができてしまうのです。残念ですが、そういう人は教会生活をしている時でも、同じように、教会をキリストの肢体とは思わず、むしろ教会を自分の意のままに動かそうとする人でした。教会に仕えるのでなく、教会を自分に仕えさせようとするのです。

 教会は自己実現の場ではありません。教会は単なる人の集まりではないのです。「わたしたちはキリストの体の一部」なのです。

    29:わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。

 「キリストが教会になさったように」。この「類比」を現実に生きる者こそが、キリスト者です。「わたし」を「愛するということ」は、わが妻を、夫を愛するということ」に等しい。これが「信仰における類比」の実現です。

    28:そのように夫も、自分の体のように妻(夫)を愛さなくてはなりません。妻(夫)を愛する人は、自分自身を愛しているのです。

   互いに愛し合うことは、とりもなおさず「キリストを愛しているということ」とまったく同義なのです。

6.天使のような存在として

     12:マタイによる福音書/ 22章 30節

    復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

     3:マルコによる福音書/ 12章 25節

    死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

  最後に、わたしたちが、甦りの命にあずかる時には、地上生活の延長として、存在するのではなく、もはや性差という生物学的な被造性とは別の存在になうと、主イエスは明言されました。

 つまり、夫とか妻という関係性は、地上生活にあってはそのような性差が存在して、結婚とか家庭生活を営んでいるけれども、来世においてのキリストと共なる永遠の生命にあずかる時には、もはやそのような地上性とは別の次元の存在となるというのです。

 そのことを、主イエスは「天使のようになるのだ」と言われました。

 ですから、地上生活においては、夫に、妻に、そのような被造的実体を通して、キリストを見いだしていたけれども、地上生活を離れて、来世においては、わたしたちは、復活の時までは、「眠る」のです。

 その眠りから覚めて、復活のキリストの復活体と等しいさまに変えられると、「天使のようになる」と、主イエスは明言されているのです。

 ですから、先に天に召されたわたしたちの愛する兄弟姉妹は、復活の時に至るまでは、静かに眠りについています。

 「眠り」は新しい復活の生命を迎える朝に目覚めるための「あいだ」の時です。 

 この静謐な時のあいだに、愛すべき兄弟姉妹はおられます。だから、わたしたちは安心して、主イエスの復活の時を、共に待つのです。

 わたしたちは、この地上において待ちます。

 愛すべき兄弟姉妹たちは、来世において、復活の時を待ちます。 

 地上と来世で、共に待つのです。

 そういう意味で、信仰生活とは、「待つ生活」なのです。

 「待望の生活」なのです。

 やがて必ず成就する永遠の生命に与り、主イエスと等しい様に変えられる希望に生きるのです。


7.信仰生活は待望の生活

 地上生活は、その希望の時を、祈りつつ待望する期間なのです。

 この地上の期間、わたしたちは苦境にあろうと、順境にあろうと、目標は、復活の時なのです。

 やがて天使のようになる存在に変えられる時まで、この希望を、日々待ち続けることができますように、ともどもに祈りましょう。                         アーメン

2026年8月2日日曜日


 2026年8月2日(聖霊降臨節第11主日)

ヘブライ人への12章3節~13節

                『主に従う道』

                            ヘブライ人への12章3節~13節

3:あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。

4:あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。

5:また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。

  /「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

  /主によって懲らしめられても

  /弱り果ててはならない。

6:主は愛する者を鍛え

  /子として受け入れる者を皆

  /鞭打たれるからである。」

7:あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。

8:誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。

9:さらに、私たちには、鍛えてくれる肉の父がいて、その父を敬っていました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

10:肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。

11:およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。

12:だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。

13:また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。


1.キリストの忍耐に倣う

   祖父清水安三が遺した言葉をご紹介します。

 「わが人生において学んだ一事。曰わく『忍』。」

 すなわち、忍耐こそが、人生を通じてこの一事をこそ学んだというのです。

    3:あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。

 この聖句を読んだ時に、まっさきに浮かんだ事が、祖父の遺したこの言葉でした。

 「よく考えなさい」。熟考せよという勧告です。「キリストの忍耐について熟考せよ」と命じているのです。わたしはただ親族だからという意味で祖父を敬っているのではないと自らを戒めていますが、人生の師と呼ぶ人がわたしには幾人かいます。清水安三、小野一郎、岡山孝太郎と思い浮かべるとすぐ脳裏に浮かんでくるなかの一人として、わたしは歩んできました。

 祖父の人生は、わたしのいわばロールモデルだったのです。

    ※具体的な行動や考え方のお手本となる人物のことです。仕事や人生で「あの人のようになりたい」と目標にする存在を指します。

 この方々は、いずれも牧師です。この方々の究極的な目標は、すなわち主イエス・キリストです。だから、つまりは究極的な目標は、キリスト・イエスなのです。この方々は、遠いところにいますイエス・キリストを、近くへと引き寄せてくれた人生の先輩なのでした。

 わたしたちの人生にとって、尊敬できる人生の師、先輩がいることがどんなにか大切でしょうか。

 歴史の転換点で、人生の師・先輩が、キリスト者として、いかに生きたのか。いかに主イエスに従ったか。そのことを考えずにはおれません。

 二千年前のはるか遠くにいましたもう主イエスならば、今・この時をいかに判断し、いかに行動したかを考えることには、自ずから遠さから来る限界があります。けれどももっと身近な尊敬する人生の師・先輩は、具体的な指針を与えてくれます。

 わたしたちの人生行路は生涯をかけて、キリストにならいて生きるものです。途中でやめることはゆるされません。

 ゆるされないということは、実は途中でやめることができない、不可能だという意味です。途中でやめれば罰があるとかそういう意味ではありません。その「不可能なこと」ができてしまえるとしたら、それはおそらくはじめからキリストに倣う生き方を、実はしてはいなかった、とわたしには思えるのです。つまり、キリストに倣う、キリストに従うという生き方ははじめと終わりが一つなのです。キリストに従う生き方をしようとした人は、かならず最後までキリストに従うのです。キリストはアルファでありオメガでありたもうお方だからです。

  キリストに従う、キリストにならう人生は忍耐の人生だというのです。「罪人の反抗を忍」ばれたキリストの道にならう、従う道は、「忍耐」の道です。

 裏切られ裏切られ、罵られ罵られ、憎まれ憎まれ、最後は殺される。これがキリストの道でした。この「苦難の道」こそが人類への愛そのものだったのです。

 だから、わたしたちがキリストに倣う・従う道を生きるとしたら、キリストが歩まれた道、忍耐の道を熟考し、そしてキリストが歩まれたごとくに、「苦難の道」を行く事に喜びと感謝をささげられたなら、これ以上の栄光はありません。

 「わたし」の人生にキリストが「現在」しておられるからです。

 キリスト教的人生は、主にある苦難を慕う人生なのです。


2.格闘の人生

    4:あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。

   この聖句は、古代における拳闘試合を暗示しています。試合の相手は「罪」です。「罪」が擬人化されているのです。古代ローマの剣闘士の試合は殺し合いでした。殺すか殺されるかでした。古代の拳闘試合のグラブには金属が入っていたそうですから、殴り合えば血が流れます。血みどろの試合だったようです。この聖句には、「血を流すまで」とあるのは、「罪」という相手と血みどろになって闘うイメージを呼び起こして、信仰生活上、「血を流すまで」の試練を、いまはまだあなた方は経験してはいないが、そう遠くない時期に、信仰ゆえの迫害にさらされるかもしれない。そのとき、あなたがたは、その苦痛・苦難に耐え忍ぶことを覚悟しなければならない。そういう事態に遭ったとしても、あなたがたはその時こそ、キリストの忍耐について、熟考しなければならない、と勧告しているのです。

 まさにそれは「死闘」なのですと、覚悟をもって、キリストの忍耐について熟考せよといっているのです。


3.人生の転換点・歴史の転換点

  このような決定的な出来事が、人生行路において、そうしょっちゅう起こるものではないかもしれません。他方常に限界状況におかれている人もいることでしょう。

 わたしが問題にしたいのは、ここぞという時に、キリストの苦難に倣う生き方、従う生き方を選択・決断することができるかいなかということです。

 本日は日本基督教団が定める平和聖日です。

 わたしたちにとって日常生活が平穏無事に過ごせることは何よりも幸いの証しです。日々の平安を願うことは当然です。しかし、人生には、歴史には、どうしても避けられない決定的な時があります。 

 1941年12月8日、1945年8月6日、9日、1945年8月15日・・・・。いずれも歴史の転換点です。こういう日に、わたしたちも、いま、実はいるのかもしれません。人生が、そういう決定的な日に、主イエスに倣う選択と決断がはたして、自分にできるだろうか。でもそういう具体的な事が、人の人たる「証し」なのではないだろうか。そう思ってしまいます。

  いつ人生の転換点・歴史の転換点がおとづれるか、わたしたちにはわかりません。広島や長崎で、一瞬にして消えてしまった何万もの人々も、同じだったことでしょう。

 何百キロも離れたところから飛来する爆弾が、平穏な日常を瞬時に破壊するという事態は、世界中のどこかで起きています。もし、わたしがあの時代に生きていたら、おそらく無邪気に日本の勝利を疑わなかったかもしれない。そんな事をふと考えたりします。そうであってほしくはありませんが、自分がそれほど英明だとも思いません。ただ、キリストに倣う生き方、従う生き方をしたいと願うのみです。

 

4.子に対するように

    5:また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。

    /「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

    /主によって懲らしめられても

    /弱り果ててはならない。

    6:主は愛する者を鍛え

    /子として受け入れる者を皆

    /鞭打たれるからである。」

   5節6節は箴言3章11~12節からの引用です。

 古代パレスチナ人の子育てには、「鞭打ち」があったようですが、この時代は、現代よりはるかに戦争による「死」が身近に感じられていたのだと思います。不意の襲撃に対抗するためには、日頃から闘いの訓練は欠かせなかったのだと思います。そのような危機に対応することは当然で、「鞭打ち」が子育てにとって必要だったのでしょう。日頃から苦痛に耐える力を鍛えておかねばならなかったのです。

 ただし当時の感覚を現代にそのまま適用することは誤りです。箴言の「子育て」「鍛錬」法は時代の要請であったし、こども自らが自分を守る術を鍛錬しなければならなかったからです。父親が権威をもって、こどもに「鞭打ち」などの「鍛錬」を必要としたのは、それなくしては生きられない世情があったからで、こども自らが自分を守る術を獲得しなければ、生きていけない時代であり、文化だったと考えられるのです。親が生きるための力を子に獲得させるべく「鍛錬」(パイデイア)するのは、愛の証明でもあったでのでしょう。

 

5.肉の親・霊の親 

    7:あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。

    8:誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。

  父よる「鍛錬」は、ゆえに愛からくるものとして扱われています。 ここでは「鍛錬(パイデイア)」が直接意味するのは、「苦難」です。これから遭遇するであろう迫害、苦難を、どのように受けとめ、どのように乗り越えてゆくのか。それをただ単に、「この苦しみよ早く去ってくれ」と祈るだけではない、受け止め方がある。それは、神の愛による「鍛錬」なのだよ。だから、この「鍛錬」としての「苦難」は、神が、「わたし」を子として愛してくださっている証しなのだよと、受けとめ直すならば、その苦しみをどう受けとめ、乗り越えて行けるか、まったく違ってくるというのです。「鍛錬」、パイデイアという言葉は、本来、「こども」を意味する言葉を語源としています。「こどもを教育する」という意味の言葉です。

    /「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

    /主によって懲らしめられても

    /弱り果ててはならない。

   このみことばは、神の愛による鍛錬を軽んじてはならない。主によって「懲らしめ」られる(つまり鍛錬される)ことの意味を正しく受けとめなさいという勧告なのです。肉の親でさえ、愛する子を鍛えるのであれば、霊の親であられる神はなおさらだというのです。

    10:肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。

 神が神の聖性に、わたしたちをあずからせてくださる。すなわち、キリストの聖性がわたしたちに「現在」(立ち現れる)ようにしてくださるというのです。

6.「まっすぐな道を造る」

    11:およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。

  鍛錬された霊的聖性こそ、わたしたちの人生行路の目標です。

    12:だから、萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。

    13:また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。

 最初に申し上げたように、キリストにならう、キリストに従う(信従)は、キリストの聖性が、わたしたちの人格に立ち現れるための「道」です。キリストがアルファであり、オメガです。ゆえに、キリストに従う「道」は、はじめもキリスト、終わりもキリストなのです。そうであれば、この「道」には、「苦難」「鍛錬」は不可避です。しかし避けられないとはいえ、決して途中で挫折することは不可能なのです。なぜなら、この「道」の真の主体は、キリスト・イエスだからです。 

 たとえ、崩折れるような時があっても、たとえ足が萎えても、たとえ手が萎えても、主イエスがまっすぐにしてくださるのです。まっすぐにしてくださるというのは、足や手が、たとえ萎えても、そのままであっても、主イエス・キリストが「まっすぐにしなさい」と命じている以上は、たとえ手足が萎えたままでも、霊的聖性においては、「まっすぐに」してくださるという意味です。

 それは、「苦難」「鍛錬」の目的は、わたしたちを傷のない、汚れのない神の聖性にあずかることだからです。

 「まっすぐ」の意味を熟考し、確信して人生を走り抜きなさいと、主は命じておられるのです。

 「不自由な足が道を踏み外すことなく」というのは、教会共同体から離れてしまうことなくという意味です。

 キリストに従うことから外れることは、本来不可能なはずです。キリストこそが、わたしたちの人生行路の主体者であられるからです。しかしながら、主の主体者でられるキリストに「反抗」する「罪」が存在することもまた事実です。だから、最終的な勝利者はキリストです。

 しかし、キリストに反抗する「罪」もまた健在なのです。だからこそ「死闘」なのです。「罪との格闘」なのです。この「罪」との格闘のさなかで、わたしたちが「道」を踏み外すことがないように、「自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。」と命じられているのです。教会共同体から離れてしまわないように、「まっすぐな道を造りなさい」と言われる。

 「まっすぐな道を造る」ということは、具体的には、日々聖書を読み、祈ること。礼拝すること。自己奉献の証しを立てること(献金)。聖餐にあずかること。伝道することです。

 

7.いつ天に挙げられても

    世界の終わりは必ずきます。「わたし」の地上生活の終わりも必ず来るのです。それがいついつかかは誰にもわかりません。しかし必ず来ます。この決定的な転換点(地上生活から天上生活への転換点)は神の支配のもとにあります。このときを、パウロは待ち遠しいと言いました。キリストの聖性が彼を占領していたから言えた言葉だと思います。

 神共にいますことは、無上の喜びだと確信していたのです。

 いつおとづれるかわからないこの瞬間。戦争や地震災害でこの転換点を迎えた人々には、この瞬間すら知る事なく、転換点を迎えることでしょう。

 わたしにもこの瞬間がおとづれるときに、主イエスと相まみえる喜びを感じるいとまも、もしかするとないのかもしれません。

 たとえそうであっても、わたしは信じます。来世において、キリストと共にあることを信じます。

 こう信じる幸いを感謝します。

 いま、このとき、苦難のなかにおかれた人々、戦火のなかにある人々、被災による避難生活を余儀なくされている人々、これらすべての人々が、キリスト・イエスの「道」を見いだすことができるように祈ります。         アーメン


2026年7月25日土曜日

 2026年7月26日 (聖霊降臨節第10主日)

コリントの信徒への手紙Ⅰ12章14節~26節

『キリストの体』

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                  『キリストの体』
               コリントの信徒への手紙Ⅰ12章14節~26節
14:体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15:足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
16:耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
17:もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
18:そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
19:すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
20:だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
21:目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
22:それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23:わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
24:見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
1. 奴隷制時代の術語だった「奴隷」の同義語としての「体」
     「奴隷」の同義語は、「身体」(ソーマ)である。 古代ローマの奴隷は、自らの意思で自分の身体を自由にする権利をもたない。奴隷の身体は、主人のものである。奴隷の身体は、主人の代わりに懲罰を受け、主人に名誉と利益を還元する。奴隷とは、主人の影武者のような存在であり、自分の意思の自由を持たない身体にすぎないと考えられた。『古代ローマの奴隷制とコリントの信徒への手紙一』福嶋裕子
  コリント教会の信徒には、男女の自由人と男女の奴隷の存在を認めることができるという。
 コリントは紀元前146年にローマによって滅ぼされ、紀元前44年にユリウス・カエサルがローマ植民都市(Colonia Laus Julia Corinthiensis)として再建するまで荒廃に帰していたが、クラウディウス帝の治世(41-54年)までにローマ都市の外観をもつ建築が急増し、ローマの元老院属州アカイアの首都であった。ローマは奴隷制によって社会が成り立っていたから、コリント教会の信徒たちは、一歩教会の外では、自由人と奴隷という厳重な身分の差が存在しているなかを生きていたのである。
 この時代、「奴隷」(ドウーロス)と「体」(ソーマ)は同義語であった。つまり、奴隷は奴隷所有者の「体」の一部とみなされていたのである。奴隷は、「身体」として数えられ、家の財産管理目録に記録されていたのである。

2.所有者の「体」でしかなかった「奴隷」
 古代ローマにおける奴隷の人口は、帝国全人口の15% から20% と推定されています。帝国全人口で考えると八人に一人は奴隷だったと言うのです。一般に古代の百万人都市ローマには、三十万人の奴隷がいたと言われています。古代ローマ世界は、奴隷制によって成り立っていたのです。
   奴隷を入手する方法は三つありました。第一は奴隷を「贈物、遺産相続、購入」によって獲得すること。第二は自分の所有する「女性奴隷が、子どもを産むこと」により、奴隷が増えて行くこと。第三に、これが最古の方法で、戦争により「捕虜となった者」を奴隷とすることでした。
  奴隷の立場に置かれた人々にとって、世界は苛酷だったに相違ありません。人生は暴力に常に脅かされていた日々の連続だったでしょう。奴隷は所有者の財産。モノにすぎないのです。犯されても殺されても文句一つ言えない境遇なのです。
 『グラディエーター』(原題:Gladiator)という映画あります。この作品でローマ軍団の将軍であった者でも奴隷へと落とされてしまうことが描かれていました。自由人と奴隷は移行することがあったということです。しかも自由人も系図を辿ればもとは奴隷だった人も多かった。しかし、奴隷身分から解放されるのは、所有者の意思ひとつにかかっていたので、自分から自由人になることは困難でした。
 コリントの教会には、おそらく男女の少数の自由人、解放奴隷、そして奴隷、さらには神殿娼婦だった女性も含めていたのではないかと想像されます。

3.ローマ市民はなぜ「特権」を棄てた?
   奴隷所有者の財産でしかなかった奴隷の人たち、解放されたとはiいえ蔑みの対象からは免れず差別されていたであろう解放奴隷の人々と、自由人の間には、葛藤はなかったのでしょうか。
 いやそもそも、奴隷の人々と同じ信仰共同体に自由人たちはすすんで洗礼をうけて「兄弟姉妹」として交わり、「聖徒の交わり」に加わることができたのは、どうして可能になったのでしょうか。社会的差別意識をもったままでは、それは絶対不可能だったと思います。
 自由人、自由市民と言ってもよいと思いますが、パウロ自身ローマの市民権を持っていた人でした。彼はキリスト者となったいまは、そのことを「糞土」のようだと言い放っていますが、彼自身がそのように、「特権」を完全に捨て去っていることはともかくも、パウロの福音を聴いて、ナザレのイエスを主と信じたローマ帝国市民たちが、パウロ同様に,自分たちの特権を完全に放棄して、奴隷身分の人たちと完全に同等、平等の交わりに入ろうと決断したのには、いったいどのような心の動きが、彼や彼女のなかに生起したのであろうか、わたしにはとても不思議に思えるのです。
 奴隷制度が、制度であって、約束事、暗黙の了解事項の共有によって成り立っていたことは明らかです。最も古くからある方法、つまり戦争捕虜を全部奴隷にしてしまうことによって奴隷とした。勝者が敗者を家畜同様の「モノ」」とみなしたことに始まりました。この制度は肌の色の違いは関係ありませんし、言葉の違いも文化の違いも関係ありません。ただ戦争の戦利品として人をモノとして扱ったことに始まりました。
 かつてはモノにすぎなった人、誰かの所有物でしかなった人を、自分自身のかけがえのない家族として、兄弟姉妹として愛し愛される存在と、心から信じ受け入れるようにされた。そういう出来事がローマ市民に生起したということです。
 この出来事は、人間的動機から説明できません。正義漢とか、理想主義とか、自分が善人でありたいとか、そんな動機が長続きするとは到底考えられません。ローマ市民のなかにしみついていた社会的差別意識を完全に粉砕し、融解させてしまう出来事だからです。人間的動機からはただ不可解としか言いようがない事が起こったのです。
 神の出来事としか説明できません。そう言っても説明にはならないのかもしれませんが、とにかく、人間の罪を消去する出来事が起きたことは間違いありません。だから神の出来事としか言いようがないのです。

4.被差別者に生起した赦しの出来事
   神の出来事は、差別・暴力を日常的に受け続けていた解放奴隷や奴隷身分の人々にも起こったと言わねばなりません。
 それまで、生かすも殺すも奴隷所有者の胸先三寸という暴虐を受けていた被差別者の心は、どうであったでしょうか。
 何をされても抗うことが許されない状況に置かれていた人々は、恐怖・不安が日常化していたに相違ありません。その人々が横暴をほしいままにしてきたローマ市民たちをこころの内では軽蔑し、憎んでいたのではないかとわたしには思えるのです。そんな人々が、権力者として抑圧してきた人々を、神の家族として、心から受け入れ、同じ神の子として「兄弟姉妹」の交わりを、どうしたら保てるでしょうか。
 心の中に「わだかまり」が残っていても不思議ではありません。日常的に抑圧者の立場にあった人を、簡単には受け入れられないのは当然ではないでしょうか。
 被差別者の人々が差別者を赦し、こころから愛する家族として受け入れられる出来事が生起した。この出来事が生起したのでなければ、被差別者の人々は洗礼をうけはしなかったのではないでしょうか。
 この容易ならざる全人格的な赦しの決断が生起したのことは間違いないと思います。この出来事は人間的な動機では説明できません。恨みや憎しみの感情は容易に消え去りはしないからです。だから、やはりこの人々にも「神の出来事」が起きた、としか説明できないのです。

5.抑圧者の「体」(奴隷)ではなく「キリストの体」 なる教会
  パウロは、自らをキリストの僕(奴隷)と称しました。「罪の奴隷」であった自己をキリストに買い取られた(贖われた)「キリストの奴隷」だと言ったのです。
 忌まわしい意味でしかなかった「奴隷」という言葉を、「キリストの奴隷」と言い換えることによって、「罪から真に解放」し、真実、神の前に自由にされた存在を意味する言葉に、言葉を換えたのです。
 言葉を換えれば、現実も変わるのかと言えばそうではありません。現実こそが変えられているからこそ、言葉が現実に対応するのです。
 奴隷身分の人々は奴隷所有者の財産でしかありませんでした。生殺与奪の権利を抑圧者によって握られていました。自分自身は自分自身の自由にはならない奴隷所有者の「体」=「奴隷」でした。
 しかし、主イエス・キリストによって、「罪」の縄目から解放されたという現実が、信仰によって生起したいまは、自分自身の命は、キリストの「体」となったのです。自分自身のうちには、真実の主人であられる主イエス・キリストが現存しているのです。それゆえ、「私」はもはや「私」ではなく、「私のうちにキリストが生きておられる」から、「私はキリストの体(奴隷)」なのです。キリストの奴隷は、あらゆる抑圧者にとっても、決して従属・依存しない、神の前に独立したかけがえのない尊厳をもつ存在とされているのです。この現実が現に起きているので、わたしは、地上のいかなる権力の前にも屈従する必要はもはやないのです。そうであるからこそ、地上においては、たとえ奴隷所有者であろうと、完全に人として対等・平等な存在だという確信が揺るがないのです。もはや、抑圧者を恨むことも、憎むことも必要としないのです。愛するのです。
 こういう現実が生起したと考えざるを得ないのです。

6.神々の妻として生きてきた神殿聖娼に起きたこと
  コリントのアクロコリントス神殿には、千人もの神殿聖娼がいたと言われます。神々に仕える女性であり、神殿で神々を崇拝する行為をしに来る不特定多数の男性と「みだらな行為」を生業としていた女性たちです。
 このような過去をもつ女性もキリスト・イエスのこどもとしてキリストの教会へと受け入れられていたとも考えられるのです。  この女性たちにも、神の出来事は生起したはずです。主イエスの福音を信じて洗礼を受ける決心をした彼女たちは、「みだらな行為」によって神々と交わるという「異教の信心」を棄てる決心をしたはずです。もはや、かかる「みだらな行為」をしなくともよいし、したくはないと彼女たちは、自分自身の「からだ」を清く保つようになったはずです。
 彼女たちは、生業を棄てました。それでその後、どうやって生きてゆこうとしたのでしょうか。聖書には、沈黙していますが、彼女らが過去の行為を心ならずも生きるために再び繰り返すことを、教会は決して望むはずはないと、わたしは考えます。
 わたしは想像するのです。彼女たちに生きる術を、教会は家族として真剣に考えたはずだと。そうであれば、そこから「福祉」という事柄の原初的な働きが生まれてきたのではないか。そう思えてくるのです。教会から、教育や福祉が始まったのは、神の家族として互いに愛し合う交わりを現実としてゆくためだったと思うのです。 愛する姉妹たちに、二度と「みだらな行為」をさせてはならない。兄弟姉妹ならば、そう考えるの当然でしょう。
 いまも、聖霊の働きは、絶えることなく継続しています。貧困に苦しむ人々、災害にあって苦難を経験する人々、戦火のなかで困難を抱えている人々を、基督の体として、すなわち私の体の一部として愛するように愛する働きが続いているのです。

2026年7月20日月曜日

 2026年7月19日(聖霊降臨節第9主日)

コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1節~10節

『神による完全な武器』


            『神による完全な武器』

コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1~10

1:わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

2:なぜなら、

  「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

3:わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、

4:あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、

5:鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

6:純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

7:真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

8:栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、

9:人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、

10:悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。


1.地上生活は「あいだ」の生

 わたしたちは、地上の生活のあいだを生きています。この世に生を受けて、肉体が朽ちて土に還るまでの「あいだ」が、わたしたちの地上生活です。

 この「あいだ」には楽もあれば苦もまたあることは誰しも避けえないものです。ただ地上にある「あいだ」は、人と衝突しても、反論することもできますし、衝突を避けることもできます。わかりあえることもあれば、距離を置くしかないこともあります。かかわることもかかわりから逃げることも可能です。

 しかし、この「あいだ」の時間は限りがあって、いつかは「あの世」「来世」へと生命を移す時がやってきます。

 その時は、ただ神さまだけが知っていて、支配してくださっている神のみこころにのみかかっている事柄です。

 わたしたちは、その「時」が、いつ起こってもよいように、準備しておかねばなりません。そういう意味で「あいだ」の時間は、その決定的な「時」を迎えるための準備期間と言えるでしょう。

 つまり、わたしたちは、やがておとずれる「時」、神のみもとへと帰還する決定的な「時」を迎えるために、準備し、覚悟してこの世の地上生活を営んでいるのです。


2. 反論できない立場

  人は、突然おとずれる「時」にむけて生きています。

 地上生活を終えてなお、非難中傷、人格攻撃を受けるということも、人には起こり得ます。「死者をむち打つ」」行為という言葉がありますが、死んでなお攻撃されるという事も、世間にはあります。むしろ死んでしまえば、いくらでも嘘偽りであっても攻撃できてしまえるので、卑劣な人は死後にデタラメで死んだ人を辱めることをしたりすることも世間にはよくあるものです。

    ※死屍に鞭打つ(ししにむちうつ)

    死者の言動や行為を非難することをいう。中国の春秋時代、楚(そ)の伍子胥(ごししよ)は父と兄を平王に殺されて呉に逃れ、呉の力を借りて報復しようとしたが、平王の没後であったため、その墓を掘り起こして死屍を鞭打ち仇(あだ)を報いたという故事による。

  そうした場合、死んでしまった人には弁明の機会がありません。「反論」しようにも不可能なのです。

 「草場の陰で泣いている」という言い方が古来ありますが、反論できない故人に変わって戒めている訳ですが、死んでしまってから、「この世」に死んだ人が登場するという思想は、聖書から引き出すことはできません。「この世」と「あの世」は、行ったり来たりできない絶対不可逆なのです。

 ということは、死んでから後に、「死者にむち打つ」ような中傷・攻撃を受けても、いっさい反論とか弁明はできないのです。それでは、いったい誰が死んで逝った人の名誉を守ることができましょう。


3.左右に偽の武器を持ち

  パウロの覚悟について考えてみましょう。「信仰即宣教」ということを、先週学びました。信じて生きるということは、準備・覚悟だということを、今日は教えられます。

 いつ神に召されても、つまりこの世の生を終えて、あの世へと旅立ったとしても、構わないという準備・覚悟をもって地上生活を送りなさいということです。

 死後において、反論できない立場になったときにも、どのような悪評、中傷、攻撃を受けたとしても、そのことに影響を受けることなく神の御許へと赴くという準備・覚悟をもちなさいということです。

 そのことを、パウロは、「真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち」と言っています。

     8:栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。

    4:あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。

  あらゆる場合ですから、この世であろうとあの世であろうと、その覚悟においては同様です。いかなる辱めにも、悪評にも、そしてそれが好評や名誉であろうと、変わることなく、「神に仕える者としてその実を示す」というのです。

 

4.栄誉だろうと辱めだろうと変わらぬ覚悟

  二千年も昔の人の言葉だと思うと、実に驚くべき自己認識です。この言葉は、「自己実現」の超克が含蓄されているからです。ここには「生きがい」とか「自己実現」とか、そのような結局は、自己願望の達成が動機として微塵も存在していません。パウロの自己認識は徹頭徹尾、「神に仕える者」なのです。「栄誉」を得たいとか「好評」を博したいという他者による賞賛を求める名誉心の達成など、眼中にないのです。そして、「辱め」を受けることも、「悪評」を浴びせられることも、彼を脅かすことはないのです。「真理の言葉」「神の力」が、「神に仕える者」の「義の武器」であり、「神の武具」なのです。神の武器、武具に守られているから、好評も悪評も、彼にとっては脅威ではあり得ないのです。


5.パウロが受けていた具体的苦難

     わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、

    9:人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、

   ここには、パウロが受けていた苦難が具体的に語られています。すなわち、パウロは「人を欺いている」と非難されていたということです。パウロは、ある人々から見た時、「欺いている」と見られていたということです。主イエスの福音を語ることが、「人を欺いている」行為と見なされたということです。彼は、その非難・悪評に直面しても、どこまでも誠実であろうとしています。これがパウロの神の武器による霊的闘いなのです。

 パウロは「人に知られていない」ことに落胆もしていませんし、宣教の「失敗」だとも思ってはいません。パウロから福音を聴いて信じる者が、たとえ皆無であっても、動揺したりしません。聞く耳のある者は聴いて信じるのです。神が聴く耳を与えるからです。神が選び分かち、パウロの語ることに耳を傾け、神は福音を信ずる者を起こしたもうから、その者には、よく「知られている」のです。その者は、パウロを通してキリスト・イエスを知っているのです。 

   パウロは、福音を語ることによって、命を奪われそうになりますが、神がパウロを生かしたもう以上は、決して殺されはしません。

 パウロを、罰しようとする者たち、迫害者たちが次々に現れても、パウロは動ずることはありません。迫害者たちを、かえってキリスト・イエスの愛をもって愛したはずです。彼らは、かつてのパウロ自身でもあるのですから、なおさらです。

 パウロは、殺されてはいませんが、死を恐れてもいません。死は神だけが与えることができると確信しているからです。


6.悲しみのなかにあって喜ぶ喜び

    10:悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。 

   パウロに悲しみがなかった訳ではありません。嘆くことも悲しむことも苦しみには伴います。

     苦難、欠乏、行き詰まり、5:鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

  これは苦難のリストです。彼が具体的に受けていた苦難です。この苦難に悲嘆がなかったはずはないのです。ところがパウロは、この苦難の経験に遭いながら、「常に喜」んでいました。この苦しみも主が味わった十字架の苦難に少しでもあやかる経験であるなら、感謝の他はないとパウロは喜んだに違いありません。

 パウロには財産というものがありません。ただ神が彼を養ってくださると信じていただけです。無所有の彼は、しかし、多くの人の財産を増大させることができたというのです。彼は貧しい人です。無一物だと自分で明言しています。ところが無一物であっても、その貧しさをもって。「すべてのものを所有している」と自覚しているというのです。

 なぜなら、一切の被造物は、神が創造したものであって、神の所有するところの「もの」です。パウロが全面的に一切無所有を貫くのであれば、逆に言えば、一切無所有は、一切が神の所有であるから、神に仕える者と確信しているパウロには、一切が神のものであれば、必要なものはすべてご存じである神は、我が身が生きながらえるに必要なものは、彼には必ず与えられる。そう信じているならば、彼は神の所有を信ずる者として、「すべての者を所有している」と表現しても罰は当たるまいということです。


7.キリストの苦難と共に生きる喜び

    6:純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

  キリスト者の喜びは、キリストとひとつの存在であることの喜びです。この喜びは、「神に仕える者としてその実を示す」喜びです。人間的な「承認欲求」ではなく、キリストと一つであることを願い求める祈りが喜びとなって実を結ぶのです。

 より、具体的には,パウロ自身がこのように表現しました。

  「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛」です。これらすべては「聖霊」による賜物です。

 「純真」ひとつとっても、この態度を貫くことは人間的動機によってはできないでしょう。ただ神の力によってこそ、「純真」は人格に反映するのです。

 「知識」、単なる好奇心はこの「知」の源にはなりません。「信仰知」です。信仰は「信仰知」を求めてやまないのです。(アンセルムス)主を信ずるからこそ、より深く主イエスを知ろうとするのです。

 「寛容」、「寛容」を貫けば、この世では「苦難」を避けられません。「寛容」は自らに罪をおかす者を赦すことを必ず伴います。赦しても罪人はまた罪を犯すかもしれないのです。そうであれば、「赦す」ことは、再び「苦難」をわたしたちにもたらすでしょう。それでも「寛容」は、キリストが限りなき「赦し」を与えてくださったゆえに、わたしたちも「寛容」の実を結ぶことができるのです。「苦難」を引き受ける覚悟・準備こそが、キリストに近づくみちなのです。

 「親切」、報いを望まずよきサマリア人の譬えのごとく、世話をすることも、覚悟・準備が必要なのです。サマリア人は、傷ついた人を助けましたが、「復讐」に狂い立つ親族は、サマリア人を襲撃する危険がありました。助けたのに助けたことによって殺されることすら、この世にはあるものです。報いを望まないだけでは親切は貫けません。親切で苦難が待ち受けているかもしれないからです。ナチスの迫害の元で、ユダヤ人を匿うことは、自分たちへの迫害を覚悟しなければ不可能でした。

 「偽りのない愛」は、愛の定義によっては起きません。愛の概念をいくら研究しても、それは無駄というものです。聖霊の働きがあってこそ、愛は偽りから決別できるのです。

 これらの「実」はすべて「神の力」「聖霊」によるのです。聖霊の実は、苦難を引き受ける準備・覚悟を必ず伴います。キリスト者の喜びは、キリスト・イエスの十字架の苦難に、いくらかでもあずかること喜ぶ喜びなのです。聖霊の降臨は、かならずそこにキリストの肢体なる教会を起こすのです。教会にしっかりとつながっていることが大事なのです。

2026年7月13日月曜日

 2026年7月12日(日)(聖霊降臨節第8主日)

テモテへの第一の手紙3章14節~16節

『信仰即宣教の現実』


              「神からの真理」」

                              Ⅰテモテ3:14~16

14:わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。

15:行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。

  神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。

16:信心の秘められた真理は確かに偉大です。

  すなわち、

  キリストは肉において現れ、

  “霊”において義とされ、

  天使たちに見られ、

  異邦人の間で宣べ伝えられ、

  世界中で信じられ、

  栄光のうちに上げられた。




1.報告と祈り

   過ぐる先週7月8日(水)、わたくしどもが愛する○○兄が神のみもとへと帰還されました。

 2日後の10日金曜日に、家族葬を執り行うことができました。生涯をひたむきにキリストの道を歩み通された兄弟の召天をこころに覚え、ひとことお祈りいたします。みなさまもこころを合わせてお祈りください。

 祈り

 恵み深い父

 主イエスの御あわれみによって、われらが愛する○○兄は意義ある生涯を送り、多くの人に良い感化を残し、その走るべき道のりを走り終えて、みもとに召されました。あなたは○○兄を恵み、その生前に主を知らしめ、み救いにあずからせ、限りなきいのちをお授けになりましたことを感謝いたします。

 主イエスのみ救いによって○○兄の霊はついに帰るべき故郷に帰り、すでに父のみふところにいだかれていることを信じ、わたしたちはその霊を恵みのみ手におゆだねいたします。 けれども、主よ、地上にあって○○兄と共に世の旅路をたどったわたしたちは、この際にあってたえがたい寂しさを禁じ得ません。とりわけ兄弟の遺族近親のその哀惜は他のなにものによってもいやされがたいものであります。

 わたしたちは、主イエスの慰めと助けが豊かにあらんことを切に祈ります。

 どうか、この世にのこされて悲しむ者をあわれみ、上よりの慰めを豊かに与えてください。また兄弟と共に信仰の道をたどってまいりましたわたしたちにも深くみずからの終わりを思わしめ、主の日のために備えをなさしめてください。み子イエス・キイストによってお願いいたします。アーメン


2.若き伝道者テモテ

  パウロは年若い青年テモテをよく愛していたようです。この短い文面もよく読んでみると、愛情がにじみ出ていて、その想いが伝わってくるような気がします。

    14:わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。

  兄弟への純粋な愛が感じられます。主にある兄弟とはなんという美しいものでしょうか。

 二千年前の人物の思いが、時と空間をはるかに超えて、ひしひしと伝わって来る。そのこと自体が奇跡のように思えます。パウロとテモテのあいだの聖霊による絆の美しさです。

  これは「恋文」ではないのです。「恋文」でもないのに、「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。」・・・・。パウロの心のうちがこの一文に溢れていると感じるのは、私だけでしょうか。

 こころはすでに、テモテを思い浮かべながら、こころのうちから浮かんでくるのは、神の家、すなわち教会のこと。

 とりわけ教会を導くことをこの青年に託そうとしているパウロには、神の家すなわちキリスト者共同体=教会とは、どのようなものか、文字通り、体現してほしいと願っているのです。 

    行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。


3.生活することとは即信仰生活

   わたしたちは生活者です。だれしもが生活者です。信仰していないと、自分で思っている人もみな生活者です。生活者であるということではみな平等です。

 病院生活を余儀なくされている人、仕事に毎日追われている人、学業に励んでいる人、みな、全員がなんらかの暮らしを立ています。普段、自分は「無信仰」だと思っている人も、生活者であることには、他の人と何も変わりません。ここから人は始めます。全員平等に生活者。ここがはじまりです。

 パウロは若き伝道者に、「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」と書いています。

 全員が生活者なのですけれども、人生経験もそれほど多くはない青年テモテに対して、これまでの「生活者」としての「生活」とは、まったく異なる「生活」があるのだよ。その「生活」というのは、「神の家」、つまり教会生活をする者として生きていくのだと言っています。ただ無自覚な「生活者」に留まることなく、これからは神の家での生活者になってほしいというのです。

 信仰者であるということは、生活のすべては信仰者としての「生活者」であることなのだと言う意味です。信仰生活は部分の生活ではないのです。

 「サンデークリスチャン」と、言葉がありますが、これは日曜日だけ、神さまのに祈りを捧げ、礼拝するけれども、月曜からは、神さまをすっかり忘れてしまう、そういう生活をしているクリスチャンを揶揄して「サンデークリスチャン」と呼んだ言葉です。だから、これは、日曜だけのキリスト者、平日は神さまとは関係しませんというような人々への揶揄であり皮肉なのです。それは違うでしょう! ということなのです。

 キリスト者にとっては、生きる事、暮らすことの全部が、信仰生活なのだよと、パウロはテモテに、信仰生活即生活であるべきことを、骨の髄まで体現してほしいというのです。


4.信仰即宣教の現実

  信仰生活は、生活の一部分だけの生活ではあり得ないというのです。パウロは聖霊の交わりにおいて愛するテモテに、信仰即生活という現実を体現してほしいと切に願っているのです。

 そして、そればかりではなく、さらに、信仰即生活の現実とは、「信仰即宣教の現実」でもあるのです。主イエスを信じるということは、福音宣教の現実だというのです。


5.教会は、真理の柱、真理の土台、

    「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」

  神の家すなわち教会は、教会共同体だけの存在でないのです。全世界、全宇宙が「神の家」となるであって、いつまでも小さな枠に中で閉じこもるような存在であってはならないと言うのです。神の家は神の家であるから、神が創造された全宇宙全体が神の家なのです。

 そういう気宇広大なスケールを考えなければなりません。

 この宇宙全体を包含する神の家を支える柱があり、土台がある。そういう家であり、神の家すなわち教会そのものが、真理の柱であり、土台なのだと、テモテによく知っておいてほしいのです。そういう気宇壮大な感覚をもっていなければ、とても神の宣教を語れないというのです。

 伝承によれば、テモテは殉教します。テモテはパウロによってエフェソスの主教(司教)に任じられ、教会の牧会者としてつかえますが、エフェソスの多神教徒によって石で打ち殺されることになります。多神教徒たちの偶像崇拝強要に対して、屈することなく従わなかったからです。

 わたしは、テモテには天地の創り主こそが、まことの神でありたもうという信仰に、骨の髄まで徹していたからこそ、被造物を神とするということなど思いも寄らなかったのだと思います。殺されようと何をされようと、神でないものを神とすることは、彼にはできなかった。不可能なのです。

 それは、神の家こそは、この宇宙全体を包括する者であり、神の家こそは、真理の柱であり、土台だということを実感していたことを意味していたのだと思っています。


6.信心に秘められた真理はたしかに偉大なり

        すなわち、

      キリストは肉において現れ、

      “霊”において義とされ、

      天使たちに見られ、

      異邦人の間で宣べ伝えられ、

      世界中で信じられ、

      栄光のうちに上げられた。

  「信心に秘められた真理」、これはいまだ福音宣教が結実する以前に、すでにパウロのなかでは、確信されていて、しかもその将来の結実は、いまは「秘められている」ということでしょう。いまはまだ、いま現在は、目に見えない現実、すなわち今はただ「ビジョン」として彼には見えていただけなのに、彼にとって、「いまだ」は、「すでに」となって確固たる現実同様であった。そういう「将来の確信」を表現していると考えられます。いまは「いまだ実現していないビジョン」だけれども、このビジョンは彼の内部にあっては「すでに」確信された「現実」として見えていたのです。

 つまり、今は「秘められている」が、すでに彼には見えている。いまは成就以前だけれども、パウロにはこのビジョンは「現実」のものとして「すでに」成就同然だったのです。パウロは愛する青年テモテに、骨の髄まで、パウロ自身と同じように、この確信をもってほしい。

 テモテに、「ほら、君にも見えるだろう。キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。このことは現実なのだよ。だからすでに「キリストは栄光のうちにあげられた」と言うのだよ。わたしは既に成就した事として君も確信してほしい」と、書き送ったのです。

 この現実を、テモテは肌感覚としても感じていたから、彼は、彼を殺す多神教徒(異邦人)にも福音は必ず「キリストは宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられる」のだと。否すでに上げられた現実が見てるではないか。パウロにもテモテにもこの確信が彼らの内部にはあり、見えていた。

 その現実が、時空を超えて、現代のわたしたちにも見えているはずなのです。だから絶望してはならない。諦めてはならない。嘆いてはならないのです。

 パウロの言葉は、テモテだけではなく、わたしたち自身に語られているのです。


2026年6月28日日曜日

 2026年6月28日 (聖霊降臨節第6主日)

                    神の計画(聖書日課によるタイトル)

  「聖霊による充満によらなければ、だれもイエスを主と告白することはない」

                  使徒言行録 13章13節~ 25節


13:パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。

14:パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。

15:律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。

16:そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。

17:この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。

18:神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、

19:カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。

20:これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。

21:後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、

22:それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』

23:神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。

24:ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。

25:その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』


 1. 救済史観

  パウロ一行はキプロス島の西岸パフォスを船出して、地中海をはさんで対岸のパンフィリア州のペルゲに向かいました。ここで、何があったのか、助け手として同行していたヨハネがエルサレムに帰ってしまったとあります。 一行にとっては、試練とも言える出来事だったのかもしれません。 しかし、パウロとバルナバはさらに北上してピシディア州のアンティオキアに向かいました。 ここでも、やはりユダヤ教の会堂で、主イエスの宣教を語ることになります。

 ここでパウロが語った事柄は、イスラエルの歴史でした。しかもただの歴史の説明ではなく、神の民に対する神の摂理と神の民イスラエルの態度についての解明でした。イスラエルの歴史とは、主イエス・キリストをお迎えすることこそが神がイスラエルを歴史を通じて最終的に目的とされてきたのだという「救済史」に他ならないということなのでした。


2.「史観」とアイデンティティー

  過去を、どのように捉えるかということは、現在の自己自身をどう捉えるかということと緊密につながっています。

  日本はかつて「皇国史観」という歴史認識を国民全体に、浸透させて、ついには戦争を拡大しました。他国を侵略し、他国の人々を、「皇民化」政策によって支配しようとしました。国家神道という宗教を創り、人心を支配しようとしたのです。この歴史観は、「日本人」とは何かというアイデンティティーを、天皇の赤子と位置づけました。主権は天皇にあり、国民はすべて天皇の赤子であるというのです。神話が歴史と同一視されました。

 昨今、皇国史観の復活とまでは言わずとも、「美しい日本」に期待する勢力が勃興していることを感じます。この「史観」が必然的に戦争を引き起こした過去の教訓は忘れ去られようとしています。

 これは我が国がふたたび世界から孤立し、壁をつくり、敵をつくりだす危険な兆候であることは火を見るより明らかです。

 だから、このような独善的な「史観」はアイデンティティーと安易に結びつけられてしまうがゆえに危険なのです。この危険を回避するために、わたしたちは過去の歴史の教訓を子細に検証し、平和を構築するための、まったく新たな「史観」を探求しなければなりません。


3.既得権益と侵略の正当化

  現在のイスラエルによるレバノン空爆は、イランとアメリカの停戦合意にもかかわらず継続されています。ヒズボラの殲滅が目的だというのがイスラエルの攻撃正当化の言い分ですが、無辜の市民が無差別に巻き込まれて殺されている現実は、世界中が知っています。なぜイスラエルは殺戮をやめないのでしょうか。なぜイスラエルは国際法を無視してパレスチナ占領をやめず、さらなる侵略を続けるのでしょうか。

 無論、すべてのユダヤ人がレバノン攻撃を支持している訳ではありません。アメリカ在住のユダヤ人の多くはイスラエルの戦争には反対していると聴きます。ユダヤ人という概念は宗教的概念だと言われています。ユダヤ教を信じる人がユダヤ人なのです。ユダヤ人は、旧約聖書に記されている歴史を自己自身のアイデンティティーとしている人々と言ってよいかと思います。

 つまりこの旧約の「史観」を共有している人たちをユダヤ人と言っているのです。 人種概念ではありません。黒人のユダヤ人もいれば、モンゴロイドのユダヤ人もいます。いわゆる白人のユダヤ人もいる。形態的な自己同一性ではなく、歴史を共有することで共同体の成員であることを相互に了解しあっている人々です。

 同じ「史観」を共有していながら、壁をつくり、敵を作り、殺戮を正当化する人々がいて、他方では、平和を求める人々がいる。一方では殺すことを、自国のためには辞さない。殺戮を肯定し、正当化する。他方では、かつて自分たちが殺される側にあったことを,他者に強いてはならないとするユダヤ人がいる。

 トランプ大統領は大学での「反ユダヤ主義」的な言論を放任しているとして多くの大学に圧力をかけていますが、実際は「反ユダヤ主義」を学生は批判しているのではなく、殺戮行為を批判しているだけでした。「シオニズム」と「反ユダヤ主義」はまったく別物なのです。

 「シオニズム」が、ガザ攻撃を正当化し、土地の収奪を正当化しているのです。


4.救済史観の不思議

    19:カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。

    (ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人) 

 イスラエルの歴史をひもとくとき、わたしたちは数多くの戦争がくりひろげられてきた事実を見ます。「聖絶」とか「聖戦」とか呼ばれる惨い戦争をイスラエルは戦い、ある時は勝利し、ある時は敗れるという戦争の歴史を生き抜いてきたことがことこまかに記されています。ある意味、戦争の歴史であり、戦争史観とも見えるのです。そしてこの歴史に神が介入してきたという信仰告白が綴られる。

 たしかに戦争の歴史は、イスラエルだけではなく、世界中いたるところで戦争、戦争で明け暮れてきたのが人類史ですから、とりわけイスラエルだけの事柄ではありません。 

 ただ、現代のイスラエルが、数千年前の古代人と少しも変わらないような、聖戦史観で戦争をやめないのだとすれば、 このことについて無知であってはならないし、放置してよいとは言えないでしょう。事柄は「史観」の問題であり、「史観」の危険性の問題となってくるでしょう。

 現代日本の政治家が、織田信長や豊臣秀吉のように、皆殺しをするようなことがあってよいはずはないのと、まったく同じ意味で、イスラエルの政治家が、古代イスラエルの王のように皆殺しをしてよいはずはないのです。しかし、独裁者はヒズボラの殲滅を公言してすこしもはばかりません。どんな思想の持ち主であろうが、信仰の持ち主であろうが、殺してよい人間などひとりもいないのです。

 パウロが、この戦争史観とも言えるイスラエル史を救済史として堂々とユダヤ人に語り得た、しかもそれだけではなく人々の心を打ったということに、わたしは不思議な感慨を覚えるのです。ただし、パウロの福音宣教を聴いたユダヤ人たちは、信ずる者と、信じない者との二つに分かたれました。さらに不思議なのは、割礼をいまだ受けていない異邦人が多く信じたのです。

ピシディア州のアンティオキアには、信じた者たちによって教会が成立します。このことは驚異的な出来事だったと思うのです。


5.どうして信じ得たのか

  人は信じたいものを信じるものだ、ということは一般的によく言われることです。破壊的カルトの信者の精神性は、たしかに信仰の対象が「真実」であり、「真理」であるから信じているのではなくて、結局は自分が信じたいから信じるという精神性だという人がおそらくわたしも含めてそうだと思います。たとえ嘘であっても、自分が信じたい、だから信じるという具合です。

 しかし、初代教会のパウロの宣教と、それを聴いて信じた人々は、そうであったとは、とても考えにくいのです。

 なぜなら、ルカが記したパウロの宣教には、人が信じたくなるような要素がまるでないと、わたしには見えるからです。

 それを信じれば、なにか自分にとって得するというか、得がたいなんらかの報酬系を刺激する「信じたくなるような」要素が、このパウロの言葉から感じられるでしょうか。

    17:この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。

    18:神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、

   この記述は、出エジプトの経験です。荒野の40年は、イスラエルの不信仰にもかかわらず神は決して見棄てることなく耐え忍んでくださったと言っているのです。言うなれば、先祖の不信仰とそれを耐え忍ぶ神の導きを語っているのです。たしかにその記憶は神への感謝でしかないのですが、見方を変えれば先祖の罪への告発です。

    20:これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。

   この記述も、450年もの長きにわたり、他部族への仮借のない戦争状態が続いたことを語っているのであって、戦争史観そのものでしょう。神の導きだったという理解のもとに、他民族との戦争を戦い抜いたということでしょう。会堂に居合わせたユダヤ人以外の「神を畏れる人々」(16節)は、この歴史をどう聴いたでしょうか。戦争をイスラエルが勝ち抜いたという話です。これを聴いて彼らの心に感銘が生まれたでしょうか。

 しかし、結果は多くの人が信じたからこそ、教会が生まれたのでした。わたしにはとても不思議に思えるのです。なぜなのか。


6.信じたい事を信じたのではなかった。

   異邦人にしてみれば、サウルだろうがダビデであろうが、ユダヤ人にとっての偉大な王さまだろうけれども、彼らにとっては、極端に言えば、他国の先祖のお話にしか聞こえない存在だったのではないでしょうか。ナザレのイエスが約束のダビデの子であろうがあるまいが、どうでもよかったのではないでしょうか。

 そんな彼らが、この戦争史観にまみれた歴史を、主イエス・キリストを人類にお迎えするための救済史と受けとめ、自分自身のキリスト者としてのアイデンティティーの中心・核心として受け入れたというのは、彼らが信じたいと願ったからではなく、福音を語るパウロから、「神の力」を感じとり、信じないことが不可能なまでに、聖霊に満たされたとしか考えられないのです。

 人間的な価値判断だけでは、彼らにとって信ずべきなにほどの事もパウロは語ってはいません。むしろイスラエルの武功物語などお話し程度の意味しかなかったはずです。ところが、彼らは、語るパウロと同じアイデンティティーを自分自身のものと信じたのです。神の奇跡としか言いようがありません。

 彼らからすれば、自分たちの歴史(神々の歴史=異教の歴史・神話)から観れば「敵」だった民の歴史を、「われらの歴史」と受けとめ始めたのです。奇跡です。

 イスラエル、すなわちユダヤ人にしてもそうです。パウロは悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたバプテスマのヨハネをユダヤ人の王ヘロデは殺害してしまったし、バプテスマのヨハネが証ししたイエスも殺してしまったというのです。聴いているユダヤ人は、罪の弾劾に聞こえても不思議ではありません。自分たちの同胞が、ヨハネもイエスも殺してしまったという事を、彼が信じたいと思ったとは思えないのです。彼らも信じたいと願ったことを信じたのではないのです。だから、信仰は人間的願望の結果ではないのです。聖霊の力の充満が起きていたのです。


7.あなたたちが期待しているような者ではない。  真の信仰は、人間的な願望や期待の結果ではあり得ないのです。福音が宣教者によって語られるという現実の場において、生起する「奇跡」なのです。「わたし」という存在が、主イエスを主として信じる出来事が起きているという事自体が、「奇跡」にほかなりません。この奇跡が自分自身のアイデンティティーを形成します。するとそのとき、わたしたち自身のアイデンティティーと深いところでつながっているところの「史観」は、主イエス・キリストこそが「はじめ(アルファ)」であり「終わり(オメガ)」である救済史となっていることを見いだすはずです。

    また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。(黙21:6)


2026年6月21日日曜日

 2026年6月21日(日)(聖霊降臨節第5主日)

使徒言行録13章1節~12節

『宣教への派遣』(聖書日課による)



                聖霊による派遣
                    使徒言行録 13章1節~ 12節
1:アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。
2:彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
3:そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
4:聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、
5:サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。
6:島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。
7:この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。
8:魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。
9: パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、
10:言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
11今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
12:総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。

1.アンティオキア教会の人々
   ここに挙げられている人たちの多様さは驚嘆すべきものがあります。ここにはアンティオキア教会の指導者として5人の人が挙げられています。
   バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロの5人です。
 この人たちは、預言者、教師という立場の人ですから、実際はもっと多くの人たちが、このアンティオキア教会にはいたことでしょう。この6人を観ると、実に多様なのです。
 アンティオキア教会は、まず肌の色で人を差別していません。
 ①ニゲルと呼ばれるシメオンは黒人だと言われています。ニゲルというのは肌の色が黒いという意味です。また出身地のよる差別もなかった。②キレネ人のルキオは北アフリカ、現在のリビア出身ということになります。この人も黒人でしょう。③出自・階級による差別もなかった。マナエンは領主ヘロデ・アンテイパスと一緒に育ったというのであるから、幼なじみと言って良い境遇の人です。この人はユダヤ教とから迫害されているクリスチャンの道を自ら選び取ったことになります。権力者の幼なじみですから、それなりに裕福な家に育ったはずですが、個人財産を放棄して原始共産制の共同体に加わったことになります。ですから階級による差別はなかったのです。④地元の人もデイアスポラの人の差別もなかった。バルナバはキプロスの出身です。彼はサウロ(パウロ)と共に宣教へと派遣されることになりますが、派遣先はキプロスですから、地元へ向かうことになります。同行したマルコと呼ばれていたヨハネはバルナバの甥(従兄弟)らしいのでやはり出自は地元かもしれません。(「コロサイの信徒への手紙」4章10節では、マルコについて「バルナバのいとこ(従兄弟)、」という表現が用いられます。育ちはエルサレム。)様々な地から集まってきた人々が主イエスによって兄弟姉妹となっていたのです。⑤そしてサウロ、すなわちパウロです。呼び方が9節から変わっています。以後はパウロという名前で登場することになります。彼は迫害者から主イエスの弟子に変えられた人です。つまり、元は敵対者だった人ですが、そういう人を教会は受けいれただけではなく指導者、宣教者としての務めを託していたのです。
   原始キリスト教会が、このようなダイバーシテイを実現していたという事実は、驚嘆に値します。
 二千年後の現代でも、実現できないでいるのですから。

2.聖霊の啓示
   預言者といっても、旧約時代の預言者とは意味が違うとは思います。聖霊の言葉が告げられたことが記録されているので、おそらくは、この預言者は、聖霊のお告げを教会に告知するという賜物をいただいていたのでしょう。
 かしこまって、聖霊のお告げと言明していたかはわかりませんが、共同体全体が、聖霊の告知として、パウロとバルナバの派遣を認識したということは確かだったのでしょう。
  聖霊の告知内容は、パウロとバルナバを宣教者として選任せよという命令。そしてその選任は、聖霊が予め定めていたという事でした。この選任について、異論があったという記録はありません。教会は教会として決断するという手続きは踏んでいるはずですが、一貫して聖霊の意志がこの間のイニシアチブを取っているという信仰理解で貫かれています。
 そして教会は、断食してから二人に按手をして送り出しました。派遣の祝福です。派遣の主体は神である聖霊なのです。

3.宣教者・旅の人
   二人は、陸路南西の港町セレウキアに出て、そこから西へ海路を航行してキプロス島のサラミスに上陸します。  サラミスではユダヤ教の諸会堂で、宣教を開始します。マルコと呼ばれるヨハネを助手に加えて、島全体を巡回しつつ宣教を続けたようですが、各地での宣教の結果については、触れられません。およそ100キロ西へと進み、島の西岸の町パフォスにまで辿り着きます。ここで、偽預言者とめぐりあうことになりました。

4.偽預言者バルイエス、魔術師エリマ
   偽預言者とルカははっきりと表現しています。これは、パウロたちが宣教する以前の異教世界の宗教的指導者のことでしょうが、パウロらにしてみれば、ただお一人のまことの神以外の神々の世界の指導者は、おしなべて「偽預言者」とみなされていたでしょうから、そのようにルカは表現するほかはなかったのでしょう。記録すべきは、福音の使徒の言行録ですから、宣教の途上での異教世界との接触はいきおい「対決」にならざるを得ないのでしょう。
 ですので、いきなり「偽預言者」と見なされる訳です。ただバルイエスという名の意味は「イエスの子」だそうですから、なんとも紛らわしい。主イエスとは何の関係もないです。イエスという名は珍しい名前ではなかったので、「イエスの子」と言っても珍しい名でもなかったことでしょう。考えてみれば、名前というのは不思議なものです。同じ「イエス」という名前の人が当時は相当いたはずですから、こういう紛らわしさは珍しくはなかったと思います。それでもイエスの名には力があった。だから、名前は単なる音声の連続ではないということなのでしょう。信仰をもってイエスの名によって指し示されている「まことの神」さまが名前をして力あるものにしているということでしょう。
 さて、紛らわしい「バルイエス」と出会ったとありますが、そのときの「接触」はどのようなものであったことでしょうか。

5.偽預言者との接触から総督まで
   バルイエスはキプロスの地方総督と「交際」していたとあります。どういう関係性だったのか。配下として働いていたのか、あるいは時に応じて召し出されて神々の託宣を語っていたのか。「交際」の中身までは想像の域をでません。しかし、ある意味、この人物を仲立ちとしてパウロとバルナバは、地方総督セルギウス・パウルスと面会できたことになります。
 そうだとすると、最初の出会いは、そんなに険悪なものではなかったのかもしれません。バルイエスのほうでも、パウロ一行を好意的にセルギウス・パウルスに紹介したかもしれないのです。それがいったいどうした変化が両者のあいだに生まれたのでしょうか。バルイエスの方から、パウロ一行が、総督に宣教をはじめだすと、邪魔をするようになったのです。どういう心境の変化が起きたのでしょうか。自分の立場が脅かされるという脅威を感じたのでしょうか。「二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。」とルカは記しています。

6.態度急変の心理
 最初は近づけ、後になって遠ざけようとする。この態度の急変に至る心境の変化はいかなるものであったのでしょう。
 はじめのうちは、一時の旅人、同業者でも旅人として歓迎したのかもしれません。一時的な滞在だからこそ、もてなすという心理です。ところが、パウロ一行の話を総督が熱心に聞く姿勢が見え始めてみると、またその話の内容が自分の信奉する世界と真っ向から衝突するものであると理解し始めると、このような教えに総督がかぶれると自分も自分が信ずる霊的世界も否定されてしまうと危機感を抱くようになった。それで、なんとかこの二人を総督から引き離す必要がある、と感じだしたのではないか、そんな風に思うのです。

7.対決
   こうして、パウロ一行とバルイエスすなわち魔術師エリマは対立した。バルイエスすなわち魔術師エリマとは対立したのでした。先に魔術師エリマの方から、遠ざけようとするという行動に出たのです。
    9: パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、
    10:言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
    11今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
  こういう宣教もあるのかとばかり、多少びっくりしてしまいました。正面からの真っ向勝負とでも言ったらよいでしょうか。
 要するに、お前は失明するぞと言った訳です。そうしたら本当に失明してしまったという出来事です。

8.地方総督セルギウスの入信
    12:総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。
   もともと、この人物は、パウロ一行の話を聴こうという開かれた精神の持ち主だったと思いますが、彼が入信したのは、パウロの宣教の言葉を聴いた結果だったからではなく、魔術師エリマがパウロの言葉どおりに本当に失明してしまったからでした。
  こういう信仰の道への入り方ということもあるのだなと、当惑しないではおれません。驚きです。
 どう理解したらよいのか戸惑います。「主の教え」には、こういう事も含まれるのかと驚かざるをえません。
 言うなれば、福音宣教を妨害する者への直接的な懲罰を言明すると、実際に懲罰の出来事が起きてしまうというのです。恐ろしきかな宣教の威力。
 こんな恐ろしい力を発揮する出来事を目の当たりしたら、驚くのも当然です。でも、こういう宣教を毎回していたら、人々は怖れなして、かえって遠ざかってしまうのではないでしょうか。
 聖書は、この出来事もパウロが聖霊に満たされて実行したと記していますから、神の意志が働いていたことになります。神さまの意志ですから、文句は言えません。
 しかし、実際に宣教の最前線では、こういう奇跡もあったし、希望でもあったのでしょう。こういう場合も、パウロは救済の道を忘れてはいません。「時が来るまで日の光を見ないだろう。」との一言を付け加えています。これは救いです。相手のことを、赦し、愛し、いたわる言葉を忘れてはいないのです。「時が来れば」と、つまり、悔い改めのチャンスを与えているのです。
 これは猶予期間です。バルイエスは「時」を与えてもらったのです。失明は、その間、暗闇のなかで、彼は自分自身を振り返り、内面世界をみつめる猶予を与えられたのです。失明は、その意味では、彼の救いのためには恵みになるのではないしょうか。そう考えると、失明は、必ずしも単なる懲罰ではなくなります。かえって、悔い改めを促すための恵みになります。それまで見えなかった世界が闇の中で見えるようになるために。
                  アーメン

2026年6月14日日曜日

 2026年6月14日 (聖霊降臨節第4主日)

          付知・田瀬教会合同礼拝

                子どもの日(花の日)



『悪霊追放』
          使徒言行録16章16節~24節

16節:わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。

17節:彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」

18節:彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

19節:ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。

20節:そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。

21節:ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」

22節:群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。

23節:そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。

24節:この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。


1.占いの霊に取り憑かれた女奴隷の叫び

   ここに一人の女性が登場します。この女性は、パウロとシラスにまとわりつくように、「うしろについて来て」は叫んでいたというのです。その叫びの内容は、 「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」というものでした。

 内容は、パウロとシラスの宣教をあたかも宣伝しているかのようなもので、パウロがどうして、彼女に向かって、「悪霊追放」を行ったのかと、疑問を抱いても不思議ではありません。

 彼女が叫んていた内容そのものは、まったく正しいからです。内容が正しいのに、パウロは、彼女を操り動かしている「霊」は、追い出すべき「霊」だと認識していたことになります。

 この事実が私たちに示している事柄は、所謂「悪霊」(悪霊とはここでは言われていませんが)の働きは、内容の正しさによって見極めるのではないということです。悪霊もまた正しい事を語るのです。だから言っている内容が正しいということは、その「霊」の働きが「悪霊」から起源するのか、そうではないのかという判断基準にはならないということです。言説の正しさは、その言説の起源が、悪霊なのか、神の霊なのかを担保しないのです。


2.「霊」を見分ける判断基準

   言説の正しさが、「霊」を見極める判断基準になり得ないとしたら、パウロはどのようにして見極めたのでしょうか。」

   「彼女がこんなことを幾日も繰り返すので」と、ルカは記しています。こんなこととは、パウロ一行にまとわりついて叫び続ける行為です。パウロには、「迷惑」行為だったことがうかがえます。外見的にみれば、宣伝してくれているようにも見えるのですが、パウロにとっては、そうなってはいなかったということでしょう。つまり、いくら言っている事が間違いとは言えないまでも、その言葉をつかう「状況(様態)」、「目的」によっては、語っている内容そのものの意味内容を台無しにしてしまうということが、現実にはあるということです。パウロの立場から言えば、彼女の行為の状況(様態)、目的は、パウロの宣教にとって、妨害行為以外の何ものでも無かったということです。 

 わたしは、福音宣教とは、信仰の対象であられる「まことの神」への信仰から、語られるというきわめて明解な事柄だと考えます。

 この女性は、「占いの霊に取り憑かれている」人でした。

 彼女は、パウロから、主イエスの福音を聞いたことはありません。聴いた事もない、すなわち彼女は自分が知りもしないのに、パウロ一行を指して、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と「宣伝」していたのです。

 彼女の状況・目的は何だったのでしょうか。彼女の状況は、福音については「無知」、目的については、今流に言えば、パウロ一行への「褒め殺し」とでも言うのでしょうか。しつこくまとわりついて、自分では知りもしないのに「いと高き神の僕」だと言い立てる訳です。聞いている人にも、彼女が「占い」をして主人をもうけさせる女奴隷だということは知れ渡っている状況ですから、彼女の状況や目的が、パウロ一行を貶める行為であることは、周囲の人々にも明らかだったであろうし、パウロにとってみても、「迷惑」でしかなかったはずです。

 わたしたちは、この事態から、何を教訓として学ぶことができるでしょうか。

 それは、福音宣教は、福音を語る人の「実存」と無関係ではありえないとうことでしょう。

 パウロは、自分自身の実存と離れたところでは、一言も語ってはいなかったはずです。

 女奴隷にとっては、彼女の実存は、実存としてかならずあるはずですが、それは主イエスとは無関係だった。

 ここで、わたしたちは、自分の実存と主イエスの実存が無関係なところでは、ひとことも福音を語れないし、語ってはならないということを知らされるのです。

3.信仰者の実存と離れた宣教は存在しない

   この女奴隷は、福音を聴いたこともなく、従って主イエスを知らないし、信じてもいません。しかし、この女性が、福音を知らないというだけでは、何の罪でもありません。このとき、世界は、パウロ一行をはじめとした圧倒的な少数者しか、主イエスを知らなかったのですから、彼女はそのなかの一人にすぎません。

 彼女はむしろ、知らされなければならない人々の一人として、福音を聴くべき者のひとりでした。言い換えれば、つまり、パウロは、彼女にこそ、福音を伝える責任を負っていたのです。

 彼女に、福音を語るということは、パウロの実存と無関係では有り得ません。

パウロ自身が、キリスト者迫害の中心にいた一人でしたから、迷惑行為によって、パウロの宣教を妨害する彼女に対して、「主イエスならどうなさったであろうか」と思わずにはおれなかったはずだと、わたしは考えます。他人事ではないのです。

 パウロの、かつて自分こそ迫害者だったという彼自身の原体験が、彼女への特別な関心と愛を、彼にもたらしたはずなのです。それがパウロの実存的な「原点」だからです。彼はいっときも自身の過去の罪との対峙なくして福音を語れなかったはずです。

 

4.「悪霊追放」・パウロの自己解放

     「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

  だから、パウロのこの「悪霊追放」の命令は、彼が彼女に向かって命令してはいるけれども、この命令は、パウロ自身の内面をえぐることなしには出て来ないはずだと、わたしは思っています。

 かつては、この女奴隷よりもはるかに罪深い迫害者だった自分が、彼女を救えるなどと思ってもみないパウロだったはずです。その彼が、どうしてこのような激越した命令を語り得たのでしょうか。

 彼は、彼女に向かって語ったけれども。「この罪深い自分には、こう命ずる権利など微塵もない」と感じていたのではないでしょうか。

 ですから、ここで命じているのは、パウロ自身でありながら、実は、彼の主イエスへの信仰ゆえに、「自分には語る資格はない。しかし主イエスご自身ならば、この命令を語るに相違ない。そうであれば、主ご自身が、命じてくださっている」、と確信していたからこそ語り得た、私はここを読むときこのように理解せざるをえないのです。

   こう命じるパウロ自身が、主イエスの「悪霊追放」の命令を受けているように感じていたのではないか。彼は主イエスが命じてくださっていると信じることによって、彼自身もまた、解放されている自己を感じていたのではないか。そう思うのです。


5.占いの霊

  さて、この一人の哀れな女性ですが、彼女の内面世界では何が起きていたのでしょうか。

    すると即座に、霊が彼女から出て行った。

  この記述は、古代人にとっての「客観的な描写」だったのだと思います。これを現代のわたしたちが、どのように理解するのかということが重要になります。

 ポール・トウルニエ博士は、来日時の質問に答えて「悪霊」の存在は否定できないと語りました。精神科医であり牧会者でもあったトウルニエ博士の言葉だけに重みがあります。ただ、存在を否定できないという事が何を意味するかは、依然として重要です。

 「悪霊」の存在を、物証的な意味で科学的に検証することは不可能です。ですから、神学的、思想的に、理解する必要があります。

 わかっていることは、パウロが語った悪霊追放によって、この女性の意識と行動には劇的な変化が見られたということです。これは否定できません。

 この変化は、彼女の内面世界においては、どのような変化があったからなのでしょうか。

 占いが金儲けのためのビジネスだったことは、彼女の主人が彼女の占い行為によって、金を稼いでいたという記述から明らかです。

      ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。

   ですから、彼女はこの職業によってお金を稼いで主人を喜ばせていたことになります。要するにお金になることをしていたのです。それには客を喜ばせる必要がありますから、この女性は、「読心術」のような特技があったと考えられます。わずかな表情の変化も見落とさずに,何を語れば客が信じたり、慰めを得たり、喜んだりするかを、瞬時に読み取る才能があったと思われます。

 そうして、話を即座に作る訳です。自分がつくった「話」を自分でも信じこんでしまう。客観的には、これは人を騙している事だけれども、それで客が満足するのであれば、金儲けは成立することになります。言うなれば、「詐欺」なのですが、訴える人はいません。なぜなら占いによって自己満足しているから訴えたりしないのです。嘘でも信じていっときでも安心できれば、「救われた」ような気分を味わえるから、感謝して客はお金を支払って帰るのです。

 彼女は、毎日毎日、人の心を読み取り、作り話を限りなくつくり、それを自分でも信じ切って、語るのです。

 そんな彼女は「作り話」に明け暮れていた人生に、彼女はいい加減疲れきっていたのではないでしょうか。虚しさを感じていたのではないでしょうか。嘘で固めた人生に彼女は耐えきれなくなっていた、内面的に限界にきていた。そんな彼女は、自分では何も知らないパウロ一行に、何かを感じたのだと思います。パウロの語る自分にとってはいまだ知らない「いと高き神」に、彼女の空虚な魂を癒す何ものかを感じとっていたのではないでしょうか。おそらくこの魂の渇望こそが、パウロ一行への「つきまとい」となって行ったのではないか、わたしにはそう思えるのです。彼女の状況(様態)・目的が、彼女の限界に来ていた虚ろな魂が、いまだ明確には知らない主イエスの救いの言葉を求めて、この「迷惑行為」を引き起こした、と思うのです。

 だからパウロにとっても、彼女は必要な人でした。

外見的には「迷惑」であったように見えますが、彼にとって、彼女は、パウロ自身、他人事ではない。彼女は主イエスと自分との関わりを想起させ、確認させる存在だったと思うのです。彼女の救いは、彼の救いと結びついていたのです。

 彼は彼女に、主イエスの福音を語ることによって、主イエスの命令すなわち全人類に福音を伝えるという命令に従うことができるからです。

 パウロは、主イエスに代わって、彼女にみことばを語ったのです。

     「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。

   彼女を支配していた「霊」を、聖書記者は、彼女自身の人格とを区別しています。

 彼女の虚ろな精神世界の状況は、彼女自身の実存的な状況でしたが、その状況は彼女自身が望んで、そうなっているのではないという意味がここにはあります。魂の空虚、魂の危機、限界状況は、本来的な彼女自身の人格ではないのだという理解です。

 この区別によって、彼女の内面世界は、「手術」(オペレーション)を受けた」のです。彼女の危機は、彼女自身から切り分けられたのです。

 そして、主イエスのみことば、主イエスのみことばの力によって、切り取られた「霊」(彼女の魂の空虚、危機)」は、彼女から「追放」されたのです。

 彼女にとって、パウロの命令は、彼女には、「もう嘘をつかなくてもいいんだわ」、「もう作り話をつくらなくてもいいのだわ」という「魂の自由を獲得し得た喜び」をもたらしたことでしょう。彼女は「解放」されたのです。


6.福音宣教が引き起こした「迫害」

    そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。

    ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」

   女性の自由は、人格の自由だけではなく副作用を招きました。金づるを失った奴隷所有者はパウロ一行を高官に訴えて逮捕させます。群衆も一緒になって責め立てました。人格の解放は、社会経済への影響を免れなかったのです。社会全体が、「占いの霊」を守る側の精神世界だったから、この秩序に変化をもたらす福音を拒絶したのです。

 ローマの社会を支えていたこの精神世界を、根底から覆す力を目の当たりに見た群衆は、奴隷所有者の金ずるの喪失に、支援の同調をして、パウロ一行への懲罰を要求しました。

 福音が、人間を自由したことが、ほかの人の財産権の侵害だった。そういう社会だったのです。人間の欲望のシステムと人間解放とが衝突するとき、「迫害」という状況が生まれたということなのでした。

 人を自由にする解放のわざが、そのことによって社会全体の抑圧のシステムを根底から揺さぶった。それが「迫害」という状況だったのです。

 パウロは、人の財産を奪ったのではありません。女性の人格を彼女自身のものへと取り戻したのです。それは、奴隷所有者たちの「財産」としての価値をなくすことだったために、損害を与えたことにされたのです。それはもともと彼らが彼女から奪っていたものを失っただけなのでした。

 奪っていた者から、自由人へと解放しただけでした。

 それが、「迫害」の理由です。


7.牢獄の中のパウロたち

 パウロは、ただ主イエスへの信仰故に、主イエスの命令を、彼の人格を通して実行したまででした。

 それは、そうなさずにはおれない必然の行動でした。

 「悪霊追放」とは人格解放をもたらす福音宣教に他なりませんでした。

 それゆえ、この必然に伴う「迫害」は、神の栄光に他なりません。パウロは、外見的には投獄という苦難の状況のなかで、この苦難こそキリストへの追従として、受けとめたに相違ありません。ゆえにこの苦難を神の祝福として感謝し、次の一歩を歩み出す力に満たされていたことでしょう。

 主イエスの栄光に感謝します。  アーメン

 


2026年6月7日日曜日

 2026年6月7日 (聖霊降臨節第3主日)

使徒言行録4章13節~31節

『迫害の現場こそ宣教の場であった』


聖書の引用

13:人々は、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であることも分かった。

14:しかし、足を癒やされた人がそばに立っているのを見ては、何も言い返せなかった。

15:そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、

16:言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない。

17:しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」

18:そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。

19:しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。

20 :私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

21:そこで、彼らは二人をさらに脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を崇めていたので、人々の手前、どう処罰してよいか分からなかったからである。

22:このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。

23:さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず報告した。

24:これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声を上げて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。

25:あなたの僕であり、私たちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。/『なぜ、諸民族は騒ぎ立ち/諸国の民は空しいことを企てたのか。

26:なぜ、地上の王たちは立ち上がり/君主たちは集まって/主とそのメシアに逆らったのか。』

27:事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、諸民族やイスラエルの民と共に集まって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、

28:御手と御心があらかじめそうなるようにと定めていたことを、すべて行ったのです。

29:主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、堂々と御言葉を語れるようにしてください。

30:どうか、御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病気が癒やされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」

31:祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした。

以下 宣教の原稿

1. 神の共同体は感情の共有ではない

   被害感情から宣教の言葉は生まれません。この記録は、事実をもとにしてでなければ描き得ないものだとしか思えません。人間的な感情による情熱にうなされるような「信仰」感からは、このような記録は残せないはずです。

 もしペトロとヨハネが、ほんの少しでも人間的な感情の片鱗でも示していたならルカはこのような描き方はしなかった筈です。人間的な感情、反応というのは、攻撃されたら、敵意をもって反応する。「迫害」や「中傷」にさらされたら、傷つき被害感情を懐く。それが「普通の人」の反応です。つまりは、感情とか心情とか、人間的心理に還元される反応を人間的と思うからです。

 もしペトロとヨハネが、ごく「普通の人」として人間的な感情という反応を示していたなら、反対されたら、ただ敵を憎悪し、被害感情に浸るだけだとしたら、キリスト者共同体は、もはやキリストの肢体たる共同体ではなく、ただの傷のなめ合いのお友だちの集まりに終わっていたことでしょう。教会はもはや存在していないからです。そこにあるのは被害意識を共有するお仲間の集合体にすぎません。

2. 堂々とした態度

   ペトロとヨハネは、「堂々とした態度」でした。この状況は、反対者たちが、なんとか彼らを処罰して,福音宣教を阻止しようとしている、いわば裁きの場であり、迫害の現場でした。この状況は、社会的な力関係でいえば、弟子たちは、裁かれる立場なのですが、霊的には裁く側のサドカイ人を圧倒してます。この「堂々とした態度」という言葉が、このシーン全体を支配しています。

 ここには被害意識、被害感情、敵愾心の微塵も感じられません。

 信仰は感情とか心情とか、人間的心理の所産ではないことがよくわかります。

 ペトロとヨハネから感じられるのは、不動の意志です。

彼らの人格・個性を超えたところ、魂の内奥に存在するイエス・キリストの意志が伝わってきます。

 彼らは、表面的には「無学な普通の人」でした。それだけに、人々は驚愕したというのです。どれほど彼らの霊的な意味での圧倒的迫力に、「ものすごいもの」があったとことでしょう。人々が感じとったものは、ペトロとヨハネを通して働く神の力だったのです。


3. 足を癒された人がそばに立っていた

  ペトロとヨハネは、主イエスがなさった「しるし」、すなわち奇跡的治癒行為を、実行したのです。弟子たちは、イエスの生前、治癒行為を行おうとして、結果できなかったことがありましたが、ここでは、何の気負いも、不安もなく、実行しています。「できなかったらどうしよう」とか、「イエスさまから権能を授かったんだからできるはずだ」とか、そういう不安、気負いは、ここでの彼らからは感じられません。実に、当然のことを当然のように、淡々と、粛々と実行しているのです。もはや彼らではなく、彼らのなかのキリストが実行しているかのようです。

  この堂々たる態度に圧倒されているばかりではなく、癒された当事者がここに生き証人として立っているのです。この事実は否定しようがありません。

   ルカの記述には、この一人の癒された人の存在だけではなくて、この人以前にも奇跡的治癒行為は多々、既に行われていて癒された人が大勢存在していたと思われるのです。エレサレムの住民全体に知れ渡るほど広範囲に行われていたとあるからです。彼らの癒やしの治癒行為は「目覚ましいしるし」として住民全体に認知されていたのです。

 しかし、知れ渡っているから、「否定しようもない。」とルカは記録しているのですが、わたしはこの記述は少し変だと思います。住民全体に知れ渡っているから、否定できないというのは、少し変でしょう。否定できないのは、生き証人が現にここに立っているからでしょう。現に存在する人を否定できるはずがない。

    16:言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない。」

  文字通り受けとめれば、「エルサレムの住民全体に知れ渡っている」ということは、つまり「人の口には戸を立てられない」というような事態は、もう防ぎようがないというような意味ではないでしょうか。もういくら否定するネガテイブキャンペーンをはっても、とめようがないという意味でしょう。そうであれば、この言葉の意味は、反対する人々は、民衆の評判が急速に広まっていることに危機感を感じながらも、止めようもないと、諦めの心情を吐露しているということになります。学者先生はルカの誇張だと言いますが、それは主観にすぎず根拠はありません。反対する人々の困惑こそが、ルカの誇張だという主張を否定しています。


4.無駄な抵抗、脅しと命令

    17:しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」

  反対する人々には、もう為す術は残っていませんでした。彼らは、これ以上民衆の間に広まることを危惧しながらも、困惑しているのです。 無駄な抵抗をする他はありませんでした。

  「今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」と、脅しと命令を虚しくする他はありませんでした。

 しかも、彼らとても、内心では、ペトロとヨハネが実行する「しるし」は、二人の内奥にキリストの存在があるのだということを知っていた事が、彼らの脅しと命令によって、その事実が判明します。彼らは、キリスト・イエスの「御名」には、「力」があることを知っていたのです。だからこそ、「御名」を禁じたのです。


5.イエスの御名には「ちから」がある          

    18:そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。

   反対する人々は、「イエスの御名」に「力」があることを、信仰者ではないにも関わらず、知っていたのです。だからこそ禁じたのでした。かれらは、社会的な「力」では優位にありがら、霊的な圧力においては、彼らのほうが恐れていたのだと、わたしは思います。


6.神と人との、どちらに従うことが正しいか

  ペトロとヨハネには、反対する人々の「脅し」や「命令」は何の「力」もありませんでした。二人にとっては、「脅し」も「命令」も何ほどの権威もなかったのです。

 二人にとって、人の「脅し」「命令」に従うことと、神に従うことのあいだは、「どちらか」は、比較を絶していました。比べものにならないのです。

 この判断は、反対する人々においても、正しい判断ではないのかと、逆に問いかけています。ただ、反対する人々にとっては、二人にとっての「神」は「神」とは見なされてはいません。二人には「神」は当然「イエス・キリスト」ですが、反対する人々にとっては、「イエス」は「神」ではなかった。それを百も承知で、二人は、自分たちにとっての「神」、イエス・キリストに従うことこそ「神」に従うことなのだと、抗弁しているのです。

 「神」は、両者にとっては、「共通」存在ではなかった。それが、両者のはざまにあった現実でした。

 それでも二人は、「見た事や聴いた事を話さないではいられない」と抗弁したのです。


7.見たこと、聴いたこと、神の現実存在

   ペトロとヨハネは、反対する人にとっても、「イエス・キリスト」は「神」なのだと抗弁しました。これは、明らかに福音宣教です。そうです。二人は、迫害者・反対者・敵対者に福音を宣教しているのです。

 二人が「見た事や聴いた事」とは、主イエス・キリストでの出会いにおいて,彼らが経験した神の現実でした。神の現実が二人を変えました。二人は変えられた者として。「いま・ここで」生きています。イエス・キリストが、魂の内奥に内住してくださっている存在として生きているのです。

 二人は、こう語っているのです。

「あなたがたは、あなたがた自身、今はまだ、あなたがた自身をささえ、生かし、導き、共に生きておられるまことの神すなわちイエス・キリストの現実存在を知らないが、あなたがたは、このイエス・キリストによって、既に神と共にある者なのです」と。


2026年5月31日日曜日

 2026年5月31日(聖霊降臨節第2主日)三位一体主日

ローマの信徒への手紙8章12節~17節


「『あなたは神の子』ということば」


              『神の子とする霊』

 ローマの信徒への手紙8章 12節~17節

12:それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

13:肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

14:神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

15:あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

16:この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

17:もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。


1.「あなたは神の子である」という言説

 「あなたは神の子なのだ」と、断定的に言われたとしましょう。あなたはいったいどんな気持ちになりますか?」

  ある人は、「自分のような者が『神の子』だなんて面はゆい。」と思います。

 またある人は、「そうはっきり言ってくれるとなんだか嬉しくなる。」と感じるかもしれません。」

 つまり、「神の子である」という言い方は、聞く人によっても、また聴く人の精神的態度によっても、さまざまな捉え方ができてしまうし、その影響は良い場合もあれば悪しき場合も有り得るということでしょう。

 これらは、「神の子」という言説を〈言われた側〉の問題です。これらに対して、また、〈自己意識〉として「神の子」という言説も問題となります。


2.〈自己意識〉としての「神の子という言説」

 順番は逆になりますが、まず〈自己意識〉としての「神の子という言説」について考えてみます。

 たとえば、悪しき実例をあげれば、旧統一協会の教祖の場合などは、その典型です。

 この人は、「自分は神の子だ」と、信者たちに信じこませていますが、それは統一協会の「教義」で、〈そういうことになっている〉と信じこませることに成功しているからです。教祖をよく知っていて、その感化を受けて、「この人こそ神の子だ」と信じこんだ訳では決してない。教祖の人物については実は何も知らないのに、「教義」を受けれたばかりに、信じるようになってしまったのです。自分を「神の子」だという自己意識、それがたとえ嘘だと自覚しているにせよ、あるいは自分自身もその妄想に生きているにせよ、この自己意識をもっているとしたら、どんな人間として振る舞うようになるのか。それは教祖の実人生を精緻に分析すれば、ある程度は明らかにできます。

 またこの教祖のこどもたちを見てもわかります。現実が赤裸々に示しています。自殺、家庭内暴力、不倫、賭博癖、常習的虚言(作話)、平均的な市井の人には見られないような実態が既に多くの文献で報告されています。

 「われは神の子なり」という言説が自己意識になってしまったとき、人間は、常識を超えた道徳的逸脱をするようになるという典型が、教祖一族(全員とは言いません)の中には特徴的に現れているのです。これは悪しき実例です。際限のない尊大さ、倨傲性に満ち満ちた人間を創り上げてしまいます。

 それでは逆に、自己意識としての「神の子という言説」が、良い結果を生むこともある例をあるのかどうか、考えてみましょう。良き実例を挙げますと、たとえば、きわめて厳しい逆境におかれた人が、周囲から、社会から攻撃を受けて、とことん自尊心を痛めつけるような非難・中傷を受け続けていたとしましょう。キリスト者が該当します。初代教会の信仰者たちの事を思い浮かべることができます。

 イエスをキリストとして信じるという、そのことだけで、殺される時代状況の嵐のなかで生きてゆかねばならなかった一人一人は、どのような「自己意識」を持っていたのでしょうか。

 それは本日、パウロがローマの教会の信徒にむかって語りかけた事がそれです。

    14節 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

    16節 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

  迫害は、ひとりひとりの自尊心を徹底的に痛めつけることが目的でした。その状況下で、「ああ、神の霊、聖霊さまが私を導いていてくださる。聖霊さまが、わたしたちの霊と一緒になって、わたしが神の子であることを、神さまの前に証ししていてくださるのか」と信じることは、「自分のような者はなにほどでもない」卑賤な者だという自己存在への卑下を、吹き飛ばしたことでしょう。

 文字通り、「もはやわたしが生きているのではない。わたしの内のキリストが生きているのだ」という自己意識へ変貌させたのです。そこには、自己卑下ではなく、キリスト内住の確信が充満していたことでしょう。

 これは、良い実例です。

 この自己意識は、自己と他者を比較して、他者に対する存在の優位を誇るものでは有り得ません。他者に対して憐憫でもありません。ただ天地の創り主なる神に対して、「わたしはキリスト・イエスによってあなたの子である事を聖霊さまが証ししてくださいました」と言いうる霊を与えられているということです。

 それゆえ、「わたしは、キリスト・イエスが人類に対して愛したヨウニ隣人を愛する自己とされた」という「自己意識」となったのです。自己意識としての「神の子という言説」は、隣人への優位性の誇りでも、憐憫でもなく、隣人へ愛の主体者となる自覚となったのです。

 だからこそ、良い実例なのです。


3.他者に向けての言説としての「神の子」   「神の子」という言説を〈言われた側〉の問題を考えてみましょう。またこれは〈言った側〉の問題でもあります。誰かが誰かに、「あなたは神の子です」と〈言われた場合〉と、〈言った場合〉です。

  まず、〈言われた場合〉について考えます。

 この場合にも、悪しき実例と良い実例があることでしょう。

 これも、統一協会の教祖一族、全員とは言いませんが、教祖の子に生まれてしまったがために、幼少時から「あなたは原罪のない神の血統を受け継いだ者だ。すなわち神の子なのだ」と言われ続けた子どもたちです。その結果、どのような人格に育ってしまったか、現実が証明しています。

 教祖の子どもたちだけではありません。所謂「宗教二世」の問題でもあります。この子どもたちは生まれて以来、継続的に「あなたか神の子」だと親や周囲から言い続けられます。信者以外の人間は、「非原理世界すなわちサタン世界の人間、サタンの子」だと教えられ、自分は「神の子」だと言われ続けるのです。生まれながらにして、隣人を差別するという観念をたたき込まれて育つのです。当然、信者以外の人間を、「サタンの子」だとみなすように育つことになります。

 これは、悪しき実例でしょう。

 さらには、「あなたは神の子」と言われ続けるなかで、当然、自分自身の罪を罪としてみつめる洞察力が育ってくると、現実の自己と、「言われる自己」の間にある圧倒的な齟齬に精神の混迷に陥ってしまうこともあるでしょう。統一協会二世に自殺者が多いことの原因は、教義による自己像(「あなたは神の子」)と現実との自己像とのギャップにあると言っても言いすぎでないでしょう。

 「あなたは神の子」だと〈言われる側〉としての葛藤は、本人が真面目であればなおさら深刻化せざるをえません。きわめて深刻なストレスのなかで日常的に生きなければならない苦しみを抱えるか、葛藤することを拒否して、自己欺瞞的自己を受け入れるか、つまりいい加減な生き方を選ぶかを、意識的にせよ無意識的に選択するしかなくなってしまうでしょう。

 この葛藤は、真面目であればあるほど、深刻化しますから、どんどん追い込まれてゆきます。この葛藤そのものを、あたかもないかのごとく、テキトウにイイカゲンに生きることを決断してしまうと、教義が語る「神の子」像は限りなく、絵空事、建て前になって、齟齬そのものが消えてゆきます。これは典型的な偽善です。

   これは、やはり悪しき実例でしょう。

  それでは、「あなたは神の子」だと〈言われる側〉の良き実例を考えます。

   わたしの友人に、自分は同性愛者だと、いわゆるカミングアウトした人がいます。キリスト教会は長い間、同性愛は罪だとしてきた歴史があります。『幸せの王子』という実に美しい物語を書いたオスカー・ワイルドは同性愛者として、刑罰を受けた人でした。彼の時代の英国では、「罪」だったのです。これはキリスト教が聖書の読みにおいて犯した過ちの歴史に刻まれています。友人も、聖書の記述を、批判的に解釈することなく文字通りに受けとめて苦みました。多くの同性愛キリスト者が苦しんできた歴史がありますが、彼も苦しみ抜いたのでした。そんな彼を救ったのは、やはり信仰でした。

 すべての人は、神によって創造された「神の似姿」だと聖書は語ります。そしてその「神の似姿」は、人間堕落によって完全に破壊されてしまったがゆえに、すべての人は、ひとりの例外もなく「神の似姿」を喪失している。しかし、まことの神にしてまことの神、ただお一人の主イエス・キリストこそが「神の似姿」として降臨されたので、人は主イエスにつながることによって、「神の子」とされているのである、と信ずる信仰によって、「あなたは神の子なのです」と、聖書から「言われた」のです。

 これは、「あなたは神の子」だと〈言われる側〉を、救う神の言葉でした。

 これは、良き実例というべきでしょう。

※オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(英: Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde、1854年10月16日 - 1900年11月30日)は、アイルランド出身の詩人、作家、劇作家。耽美的・退廃的・懐疑的だった時代の旗手のように語られ、多彩な文筆活動を行った。しかし、男色行為(当時のイギリスでは刑事罰を科される犯罪行為)の発覚により実刑判決を受けて服役し、出獄後に失意から回復しないままに没した。


4.「あなたは神の子です」と〈言った場合〉

   まず悪しき実例を挙げましょう。

 2023年にNHKで放映された『プレミアムドラマ仮想儀礼』とか、タケシが主演した『教祖誕生』も、どちらもインチキ宗教を起ち上げるもので、いわば詐欺師が主人公になる作品です。嘘ではじめた宗教ビジネスが意外に信者を集めてしまう物語です。面白かったのは、でっち上げの「教祖」が、だんだん自分でもなかば本気になってしまうところです。

 ホームレスのオジサンに「お前、これから教祖になれ」と詐欺師が命じる訳です。するとオジサンはだんだんその気になってしまう。これなどは、「あなたは神の子」ですという言葉かけは、はじめから嘘なんですけれど、そういう嘘でも第三者に影響を及ぼしてしまうという可笑しくも悲しい話です。金儲けのために嘘で人を騙すことばとして、「あなたは神の子です」と言ってみても、人は騙され信じてしまうという事があるというのです。

   詐欺師の言説です。

 これは悪しき実例の見本でしょう。はじめから嘘なんですから。嘘でも、信じる人がそれで救われるならいいじゃないかという人も出てくるでしょう。これはモラルの崩壊です。

 では、良き実例を考えてみます。

 究極の実例は、イエス受胎の告知でしょう。

 天使ガブリエルは、母マリアに言ったことば。「あなたは神の子を身ごもるでしょう。」神が神の御使いによって神の言葉を語ったのです。真実そのものです。

 神は主イエスにも、語りました。

「これはわたしの愛する子、わたしのこころに適うものである。これに聴け」と、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、天から神の言葉が語られました。まさに「あなたは神の子です。」という言説の究極的起源です。

  この実例は究極的起源の実例ですが、これは真実に神の子であられる主イエスに対して父なる神が〈言った場合〉です。これは究極の起源につながる人間の世界にも通じていると思われます。その〈言った場合〉を挙げてみましょう。人間的に、人間としてしか見ないのであれば、母マリアのイエス出産の客観的事実は、夫ヨセフの子ではな父親不在のこどもの誕生にしか見えません。この事実は、ユダヤ教社会の通例では、恐るべき事態だったと考えられます。現在でも、「名誉殺人」という因習が、法の支配にもかかわらず存在しています。

   ヨセフが密かに離縁しようとしたのは、彼の妻への配慮があったからでしたが、神がヨセフに真実(聖霊によって懐胎したこと)を伝えました。しかし、世間に理解されるものではなかったことでしょう。

    ※名誉殺人とは、女性の不道徳な行為がその家族や帰属集団(家族、親族、村落、カースト、宗教集団など)にもたらす不名誉を取り除き、名誉回復の手段として行われる暴力(殺傷事件)である。不道徳な行為とは婚前の性関係、親が認めない婚姻関係(ただし、認めない理由はさまざまである)、そして妻の不貞などである。名誉殺人はその言葉から殺人を指すが、殺人未遂や拉致など、殺人以外の暴力も含めることができる。名誉殺人は、両親の権威によって象徴される伝統的な共同体、すなわち「名誉の共同体」の秩序を揺るがす若者にたいする処罰である。

  現在でも行われる家族・親族による殺害。まして、2千年前には、イエスの生命自体が危機的だったと考えても不思議ではありません。この事実は、現代でも不遇な境遇によって、女性やその子どもが置かれる生命の危機的状況に、通じるものです。

 イエスの生命の危機に、母マリアは幼少期のイエスにどのような言葉をかけて育てたことでしょうか。

 「あなたは神の子なのです。」と語りかけたかもしれません。

 同様に、イエスが置かれた危機的状況とよく似た境遇に置かれた母子の事を思うのです。

  哀れな母親がこの世に産まざるをえずして産まれたこどもを愛するとき、この母親は、一体どういう言葉をこどもに語りかけたらよいだろうか。

 わたしは、こういう場合こそ、「あなたは神の子です」「だれがなんと言ったって、あなたはあのイエスさまと同じように誰が父親かわからなくても、あなたは神さまがわたしに与えてくださった神さまの贈りものなんだよ。だからあなたは神の子なのよ」と言いきったとしたら、それは母マリアのような立派な母親だと言えるのではないでしょうか。全世界には、イエスと同じように,客観的事情において、生命の危機に瀕した子どもたちが大勢います。この子どもたちは、貧しさのゆえに、戦争のゆえに、災害ゆえに、生命の危機に瀕しています。母親ならずとも、人類は、共に聖家族の一員として、この子たちに具体的に、現実的に、「あなたは神の子です」と断言し、家族としての責任の一端を、ほんのわずかであっても担うことができたらと思うのです。これができたとしたら、明らかに良き実例なのではないでしょうか。



2026年5月24日日曜日

 2026年5月24日 (聖霊降臨日)

『集まれなかった人々』

使徒言行録2章1節~11節


                『聖霊の賜物』(聖書日課に基づくタイトル)

2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

2:5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

2:6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

2:7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

2:8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

2:9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

2:10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

2:11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


1.集まらなかった人々、集まれなかった人々

    2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

 「一同が一人になって集まっていると」とある。この一同のなかにいる人々は、集まっていたのだが、神の恵みの導きによって、集められていた人々とみるべきでしょう。この人々は「抜擢」された人々なのです。

 ということの裏側には、集められなかった人々がいたと考えられるでしょう。この人々は、神の恵みにあずかれなかったのでしょうか。

 わたしには、「集まらなかった人々、集まれなかった人々」が気になります。この人々は「聖霊降臨」の出来事が起きたときに、その場に居合わせることができなかったからです。「集まる」という事が起きている以上は、どうしてもそこに「選び」が同時に起きていることになります。だから、「集まらなかった人々、集まれなかった人々」は、「選び」に漏れた人々ということになってしまいます。

 そして、この「集まる」という事柄が、神の「選び」の出来事であると理解するならば、「集まる」事が、いかに重要な事柄であったかを、示していることになります。


2.「集まる」ことは、神の選びのみわざだということ

 わたしたちが毎週、礼拝のために礼拝堂に「集まる」事の重要さを、改めて覚えます。

 わたしの霊的な恩師小野一郎牧師は「礼拝にははってでも来なさい」と教えてくださいました。わたしは、この言葉を忘れることができません。

 たしかに、わたしたちの全生涯、全生活、全時間は礼拝です。仕事に従事しているときも礼拝なのです。食事をしているときも礼拝です。眠っているときでさえ礼拝なのです。キリスト者のときのすべては神への礼拝の時だという理解は、正しい。礼拝の時と、礼拝でない時とは、原則的に区別はありません。すべては神への礼拝だという理解は間違いないのです。ですがしかし、とりわけ、主の復活の日、主日に守られる「礼拝」こそは、原則としてのわたしたちの全時間としての礼拝とは、区別されます。

 ほかの時間とは区別されるのです。それは神が全被造物を創造され、最後に休まれ、「安息日」と定められ、他の時間と区別されたからです。「安息日を覚え、これを聖とせよ」と神は、命じられました。この戒めは、「区別せよ」という事と同義です。

 わたしたちは、この戒めに従い、主日を守ることに、文字通り「命」をかけることを、「要求」されているのです。

 だから、わたしたちは「集まる」のです。ひとりで、洞穴のなかにひきこもるのではないのです。「集まる」ことが、こよなく重要なのです。

 この神の安息日遵守の命令に、聴き従おうという意志が、こころのうちに起こっているからこそ、人は礼拝に集まるのです。この神の誡命に聴き従おうという意志が起こされているという現実は、神のめぐみの選びが、わたしたちの魂にすでに働いている証しなのです。

 ですから、ペンテコステ・聖霊降臨の出来事が起こった、あの日あの時あの場所に、集まっていた「一同」は、決定的な聖霊降臨の出来事以前に、恵みの神の導きが、促しが、この人々には明確に存在した事は間違いないのです。彼らは間違いなく「選ばれ」ていたのです。


3. 集まらなかった人々

  ここに集められた人々が神の恵みの選びに導かれていたことの裏には、ここに「集まらなかった人々」、そして集まれなかった人々」がいた事を、どのように理解したらよいのでしょうか。再び、ここに戻ってきます。「集まらなかった人々」は、自分の意志で集まらなかった人々です。この人々のことを考えてみます。

 エルサレム入城まで主イエスにつき従ってきていた群衆は、当初はイエスに追従する人々でしたが、主イエスがユダヤ当局から死罪を要求されるという風向きの変化のなかで、イエスへの期待は急激に失望へと変わり、イエス殺害の同調者たちの陰に隠れるように身を潜めます。そしてイエスの支持者であることを隠し、むしろイエス殺害を叫ぶ民衆にのなかに紛れるかのように翻身する者までいたことでしょう。

 主イエスが復活したという証言は、エルサレム中に広まったことでしょうし、弟子たちが復活のイエスに出会ったことも知れ渡ったことでしょう。それでも、弟子たちのところに、参集して、こころを一つにして祈ることを、拒んだ人たちがいたことも想像に難くはありません。

 自分の意志で集まらなかった人々とは、「集まる」ことを「拒否」した人々です。一度は、彼らも彼らなりにですが、イエスについてきた人々です。弟子たちとも面識もあり、同じ仲間のようにふるまってきた時間もあったはずです。その彼らはなぜ、弟子たちの祈りの場に集まらなかったのか。彼らには、恵みの選びはなかったのでしょうか。

 わたしは、彼らにも神の選びはあったと思っています。神の選びは、人の目には理解できないことがあるとわたしは思っています。

 たしかに彼らは、意図して集まらなかった。なぜなのでしょうか。わたしは思うのです。

 彼らが見てしまった「景色」を、こころのなかで解決できていなかったのではないでしょうか。

 彼らは見てしまったのです。弟子たちが姿をくらます様子や、イエスを「知らない」と言って無関係を装い、イエスを公然と裏切って、行方をくらましてしまった事実を見てしまったのです。 彼らにも当然、逃げる動機は同じようにあったし、弟子たちの心理を理解しないわけではなかったでしょう。しかし、自分の事は棚に上げてせめて弟子たちには、もっと「立派」に振る舞うだけの責任を示してほしかったと思った。自分のことは棚に上げてです。「赦せない」彼らはそう感じたのではないでしょうか。

 こんな思いでいっぱいだった彼らには,弟子たちの祈りの場に、こころを一つにして集まることは不可能だったのでしょう。自分自身を振り返って内省するこころをもたずに、他者に自分が勝手に創り上げた理想像を投影して、他者がその理想像に重ならない時に、他者を一方的に裁いてしまうのです。このような心理状態だったのではないでしょうか。彼らは神ではなく自分を「裁き主」にしているのです。このままでは、彼らは神の恵みの選びのなかにあったとしても、彼らには神への思いよりも自分の思いしか見えてはこないでしょう。

 「自分の意志で集まらなかった人々」とは、結局、自分の思いへのこだわりを神への思いよりも優先したがゆえに、集まらなかったのです。


4.集まれなかった人々

 「集まれなかった人々」とは、意図せずに、集まりたくても集まれない何らかの事情に阻まれて集まれなかった人々です。この場合、この人々は集まりたかったという動機においては、集まった人々と同じだったという前提があります。つまり、この人々は、集まることを「拒否」していたのではなかったけれども、事情によって集まれなかったのです。

 この人々も、恵みの神の選びに導かれていたことを、わたしは疑いません。彼らも導かれてはいたのです。

 けれども、結果として集まれなかった。

 問題は、集まることを阻んだ何らかの事情です。この事情によっては、この人々自身にも責任があるとは思うのです。

 まったくこの人々自身には問題がない場合もあるでしょう。この人々の力の及ばない客観的な事情がある場合です。その場合は、かの人々には責任がありません。

 しかし、この人々自身の内面の問題が、阻んでいる事情となってしまう場合は、その人自身に責任があることは明らかです。たとえば、その人自身が、解決しなければ他の誰にも解決することはできない個人的な課題を抱えている場合です。

 弟子たち「一同が一つになって集まっていると」とあるように、弟子たちは、こころを一つにして集まり、祈っていたのです。ところが、かの人々は、ここに集まっている人々と、こころを一つになることができないのです。

 その場にいるある人のことを「どうしても好きになれない」とか、「一緒にいたくない」とか、そういう「好き嫌い」の類というべき個人的な心理的課題を抱えている場合です。

 この人々も、神の恵みの選びのうちに導かれていることは疑いえませんが、この人々は、神の恵みを受けながらも、自分自身にしか解決できない個人的な課題を直視することを避けているために、自ら「集まり」のなかに、入って行くことができないのです。

 この人々は口癖のように二言目には、「わたしは集まりたくても集まれないのです」と言い訳をするのが常です。自分が集まりのなかに入れないのは、集まりのなかに自分の気に入らない人物が混じっていることが嫌だというのです。これでは誰の目にもこの人々が集まれないのは、この人々自身の問題なのは明らかなのに、集まれない理由を「集まり」のせいにしているのです。

 彼らも、やはり、神の恵みの選びの導きのなかにいるはずなのですが、彼らは、神の選びに応えることをしません。そして他者に責任があると本気で考えてしまうのです。神の選びの前に、自分がいかにあるべきかを見ようとせずに、「集まり」そのものに問題があるとしか考えないのです。

 結局、「集まり」に「集まろう」とはしていないだけなのに、「集まりたくても集まれない」と主張するのです。


5.聖霊の賜物は、客観的な現実

    2:7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

    2:8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

 聖霊降臨の出来事は、「一同が一つになって集まっていると」、生起しました。わたしたちは既に、「一同が一つになって集まっている」事実に、神の恵みの選びの働きが確認できることを見てきました。少なくともここに集まっている人々は、「一つになっている」と記録されているように、すでに個人的なわだかまりとか、葛藤とかの問題は消滅していると見て取れます。ここに集まっている人々は、神の恵みの選びに応答して、ここにいることが許されているのです。

 なんのわだかまりもありません。彼らのこころは既に一つです。そしてそこに聖霊降臨の出来事が起きました。

 その結果は、ここに記録されているように、言葉の出来事でした。奇跡です。人々は、「学習」という経験を経ることなく、自分が知らずにいた言葉を自由に語るようになったのです。

 これは客観的事実でした。主観的な「思い込み」ではありません。思い込みでは自由に言葉を操ることなどできはしません。奇跡なのです。この奇跡は瞬時に起きています。言葉の出来事が、客観的事実であったことは疑いえません。

 ただ奇跡は、聖霊降臨より以前から起きていたとみるべきでしょう。

 それは、「一同が一つになって集まって」いること自体に、わたしは大いなる奇跡を見るからです。


6.遅れてきた「人々」

  わたしは、神の恵みの選びはあったと思うと語りました。神の選びは、人の目には理解しがたいとも申し上げてきました。

  聖霊降臨の日に、そこに、その場に居合わせることができなかった人々、集まりに参集しなかった人々のことを考えてきました。彼らは、結局、決定的な客観的事実としての聖霊降臨を受けなかったのですが、わたしは彼らも神の選びへの導きの中にはあったと信ずると述べてきました。

 彼らは、決定的な歴史の転換点に、ごく間近まで来ていたにもかかわらず、その時、その場に居合わせることなく、歴史の陰におきざりにされて見過ごされてきた人々です。

 彼らのことについて、必ずやいたであろう彼らの事について、聖書は何も語ってくれません。

 まさに行間を読まざるを得ません。しかし、恵みの神はほむべきかな。神は、この「集まり」に、間に合わなかったかの人々をも愛したもうお方です。神の恵みの選びは、かの人々をも救わんとしている事を、わたしは信じます。

 彼らは、「遅れてきた人々」なのです。彼らは、悔い改めるべき課題を抱えた人々ですが、その課題を解決するための、いっときの猶予が必要だったのです。

 この猶予の期間、彼らは遅れることになります。

 しかし、この猶予は、彼らには必要な期間なのです。この猶予期間に、彼らは、彼らにしかできない彼ら自身の課題を解決しなければなりません。

 神は、待っているのです。

 愛の神は忍耐の神であられます。

 こうして読んでゆくとき、神に待っていただいているのは、他ならぬ「わたし」ではないのか。そう思えてきます。待っていてくださる神に、これ以上待たせることなく、「一同こころ一つにする集まり」すなわち「キリスト者共同体(教会)」に、遅ればせながら参集したいと、こころから願わないではいられません。