2026年8月23日 (聖霊降臨節第14主日)
使徒言行録13章44節~52節
『全ての人に対する教会の働き』
『全ての人に対する教会の働き』
使徒言行録13章44節~52節
44:次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。
45:しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
46:そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
47:主はわたしたちにこう命じておられるからです。
『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
/あなたが、地の果てにまでも
/救いをもたらすために。』」
48:異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
49:こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。
50:ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
52:他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
1.歓迎されていたパウロとバルナバ
ピシディアのアンティオキアに到着したパウロとバルナバは、前の安息日には、ユダヤ教の会堂に招かれて、福音を語りました。(15節) 反応はすこぶるよいものです。次の安息日にも同じ話をしてほしいと、人々はしきりに願ったとあるからです。人々というのは、当然ユダヤ人です。このなかには、異教からユダヤ教に改宗したユダヤ人もいました。集会が終わってからも、パウロとバルナバについてきたので、パウロとバルナバは、彼らを牧会しています。「ひきつづき神のめぐみにとどまるように」と、説きすすめたのでした。
2.主の言葉はその地方全体に広まった
おそらくパウロとバルナバは、前週懇請されていたとおり、ユダヤ教の会堂で主イエスの福音を語るために、足を運ぼうとしていたことでしょう。
ところが、前週のユダヤ会堂でのユダヤ人たちの評判がよかったせいでしょうか、ふたりの話を聴こうとして、ほとんど全市をあげて、人々が集まってきたのです。
この描写どおりであれば、ユダヤ教会堂に収まりきれるものではありませんから、二人は会堂に入る以前に、大勢の人々に囲まれてしまったのでありましょう。
おどろくべき影響力です。この影響は、どのようにしてはじまり、伝播したのか。わたしが聖書の記述から考えられることは、前週、二人の話を聴いて感銘を受けたユダヤ人たちが、全市の住民に語り伝えたとしか思えないのです。ほかに誰がいるでしょうか。
それほどまでに、二人を歓迎しただけでなく、ついてゆこうとまでしていた人々です。ほとんど主の福音を受けいれていたと言っても言いすぎではないと思うのです。
つまり、ピシディアのアンティオキアのほとんどの人々はピシディアのアンティオキアのユダヤ人社会から福音宣教の種が蒔かれたということであったはずなのです。
だからこそ、「主の言葉はその地方全体に広まった」と記録されたはずなのです。
外形的な事実をみれば、福音宣教の果実は実ったというべきでしょう。ところが、意外にも二人はこの地を去ることになるのです。
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
3.ユダヤ人の翻心
ピシディアのアンティオキア全市あげてのパウロとバルナバへの傾倒という事実は、驚異的です。この現実をもたらしたのは、他ならぬユダヤ人たちの使徒たちへの傾倒でした。
ところが、全市の大多数の非ユダヤ人すなわち「異邦人」たちの使徒への急速かつ絶大な傾倒ぶりを目の前にして、「異邦人」たちを二人に引き合わせた当の本人たちユダヤ人たちの心に異変が起きたのです。ユダヤ人の翻心です。
この事態の遷移をみるとき、「ユダヤ人の罪」とみるべきか、それとも「人間存在の罪」とみるべきか、わたしたちもまた解釈上の決断を迫られますが、わたしは、そのどちらの解釈も可能だと考えます。
パウロとバルナバの話には、「神の秩序」の変更がありました。
46:そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
神は神の民としてイスラエル(ユダヤ人)を選び、主イエスの福音は、まずは必ずユダヤ人に語られることになっているというのが、パウロたちの信仰内容だったのです。だからこそ、主イエスもパウロもまずはユダヤ人に向けて宣教を開始しました。それはユダヤ人の背信後も変わりません。
しかし、ユダヤ人たちは、「それを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」というのです。ここには「神の秩序」の変更があります。この変更は、ユダヤ人みずからが選び取ったがゆえに、やはりこの翻心の責任はユダヤ人自身に帰せられるという解釈です。これが「ユダヤ人の罪」だという解釈です。
他方、「人間存在の罪」と見る解釈も可能ですし、こちらのほうが、普遍性があります。「ユダヤ人の罪」だという特定存在に罪を負わせる解釈は、常に「差別」を生みかねない危険があるからです。「人間存在の罪」だと見るのには根拠があります。
それは、「妬み」です。
45:しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
自分たちが感じいって、パウロとバルナバへの傾倒を全市の人々に広めたのに、そのせいで、全市の人々が、パウロとバルナバへと傾倒してゆくありさまを、いざ目の前にしたときに、彼らが感じた人間的感情が「妬み」でした。
4.あまりに人間的な感情、それこそ妬み
急激な翻心の根本動機となったものは、あまりにも人間的な妬みの感情でした。妬みは憎悪と紙一重です。憎悪は殺意につながっています。あまりにも明解な人間の罪の姿です。前週は、従ってゆきたいとさえ思っていた宣教者たちに、これほどまでに憎悪を向けられるとは、人間の罪とは実に恐ろしいものです。
妬みという感情、この感情が動機を形成し、思想を形成し、行動に踏み切らせる。ここには人間の罪の本質が見られます。こう解釈すると、この醜悪な姿は、ひとり特別にユダヤ人だけのものではなく、人間存在、原罪を有する全ての人間存在に共通するものだということができます。
つまり、わたしたち自身の姿なのです。
この急激な翻心、裏切りは、わたしたちの「鏡像」に他ならないことになります。
50:ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
5.追放と門出
パウロとバルナバへのはさぞ驚いたことでしょう。二人は、つい前の週には彼らは歓迎され、招かれ、慕われていたのです。ところが1週間後には、彼らは「嫉まれ」、「口汚くののしられ」「反対」されたからです。
そして、「反対」者たちは「扇動」、「迫害」、そしてついには、「追放」したのです。
しかし、聖書には二人の驚愕については一言も記してはいません。むしろ、記述は、淡々としています。
更に言えば、二人は「喜びと聖霊に満たされていた」のです。
52:他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
なぜなら、二人が語るべき福音を語り得、福音を聴くべき人が聴き、信ずべき人々が救われたからです。「永遠の命」を保証された人々が、地方一帯に増え広がったからでした。
二人が語るべき福音とは、主イエスことが「「異邦人の光」だと神によって定められた聖書のみことばでした。
6.地の果てにまでも救いをもたらすために
47:主はわたしたちにこう命じておられるからです。
『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
/あなたが、地の果てにまでも
/救いをもたらすために。』」
さて、ユダヤ人が翻心したのは、ともすると、彼らからみれば「救われざる者」と見下していた「異邦人」が、急激かつ絶大な信頼を,二人の弟子たちに捧げるようになったからでした。本来なら、喜んでもいいはずなのに、妬みゆえに苦々しい思い、憎悪はパウロとバルナバへと向けられました。
パウロとバルナバには、ユダヤ人の翻心に、主イエスを十字架につけたエルサレムの指導者たちが二重写しに見えたことでしょう。
ここで、二人は、主イエスが甦りの主でありたもう福音を語り始めます。実に、主イエスを信じる者は、誰であれ、義とされるのだと語り始めまめるのです。
主は、一民族のためでも、まして一国家のためでもなく、全人類の救い主なんだと宣言するのでした。この結果、「異邦人」は、喜び、主の言葉を賛美したとあります。
48:異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
7.牧者が去るとき
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
二人は福音宣教の任務を完遂したのです。
福音宣教の成否、数でもなければ、権威でもありません。二人は、結果、外形をみるかぎり、迫害され、追放されるのですが、二人の話を、聴いた人がいる。たとえ、聴いた人がユダヤ人で嫉妬に狂って憎悪の人に翻心したとしても、一度は福音を信じた事実は変わりません。迫害に奔った裏切りの者たちも、イエスの救いに招かれ続けている事実は不変です。
二人の使徒に悔いはありません。憎まれても愛する思いを持ち続けていたに違いありません。
51:それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
牧師が辞任するとき、思い起こす聖句がこの箇所です。「足の塵を払い落とし」て、新たな任地へと向かうのです。この描写には、使徒としての召命観が表出しています。
主によって示された任地を去るのは、任務の放棄ではありません。パウロとバルナバは、新たな門出に立ったのです。
臆することなく、さらなる熱情をもって、次の任地へと向かうのです。
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