2026年7月26日 (聖霊降臨節第10主日)
コリントの信徒への手紙Ⅰ12章14節~26節
『キリストの体』
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2026年7月26日 (聖霊降臨節第10主日)
コリントの信徒への手紙Ⅰ12章14節~26節
『キリストの体』
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2026年7月19日(聖霊降臨節第9主日)
コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1節~10節
『神による完全な武器』
『神による完全な武器』
コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1~10
1:わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
2:なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
3:わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、
4:あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、
5:鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、
6:純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、
7:真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、
8:栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
9:人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、
10:悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
1.地上生活は「あいだ」の生
わたしたちは、地上の生活のあいだを生きています。この世に生を受けて、肉体が朽ちて土に還るまでの「あいだ」が、わたしたちの地上生活です。
この「あいだ」には楽もあれば苦もまたあることは誰しも避けえないものです。ただ地上にある「あいだ」は、人と衝突しても、反論することもできますし、衝突を避けることもできます。わかりあえることもあれば、距離を置くしかないこともあります。かかわることもかかわりから逃げることも可能です。
しかし、この「あいだ」の時間は限りがあって、いつかは「あの世」「来世」へと生命を移す時がやってきます。
その時は、ただ神さまだけが知っていて、支配してくださっている神のみこころにのみかかっている事柄です。
わたしたちは、その「時」が、いつ起こってもよいように、準備しておかねばなりません。そういう意味で「あいだ」の時間は、その決定的な「時」を迎えるための準備期間と言えるでしょう。
つまり、わたしたちは、やがておとずれる「時」、神のみもとへと帰還する決定的な「時」を迎えるために、準備し、覚悟してこの世の地上生活を営んでいるのです。
2. 反論できない立場
人は、突然おとずれる「時」にむけて生きています。
地上生活を終えてなお、非難中傷、人格攻撃を受けるということも、人には起こり得ます。「死者をむち打つ」」行為という言葉がありますが、死んでなお攻撃されるという事も、世間にはあります。むしろ死んでしまえば、いくらでも嘘偽りであっても攻撃できてしまえるので、卑劣な人は死後にデタラメで死んだ人を辱めることをしたりすることも世間にはよくあるものです。
※死屍に鞭打つ(ししにむちうつ)
死者の言動や行為を非難することをいう。中国の春秋時代、楚(そ)の伍子胥(ごししよ)は父と兄を平王に殺されて呉に逃れ、呉の力を借りて報復しようとしたが、平王の没後であったため、その墓を掘り起こして死屍を鞭打ち仇(あだ)を報いたという故事による。
そうした場合、死んでしまった人には弁明の機会がありません。「反論」しようにも不可能なのです。
「草場の陰で泣いている」という言い方が古来ありますが、反論できない故人に変わって戒めている訳ですが、死んでしまってから、「この世」に死んだ人が登場するという思想は、聖書から引き出すことはできません。「この世」と「あの世」は、行ったり来たりできない絶対不可逆なのです。
ということは、死んでから後に、「死者にむち打つ」ような中傷・攻撃を受けても、いっさい反論とか弁明はできないのです。それでは、いったい誰が死んで逝った人の名誉を守ることができましょう。
3.左右に偽の武器を持ち
パウロの覚悟について考えてみましょう。「信仰即宣教」ということを、先週学びました。信じて生きるということは、準備・覚悟だということを、今日は教えられます。
いつ神に召されても、つまりこの世の生を終えて、あの世へと旅立ったとしても、構わないという準備・覚悟をもって地上生活を送りなさいということです。
死後において、反論できない立場になったときにも、どのような悪評、中傷、攻撃を受けたとしても、そのことに影響を受けることなく神の御許へと赴くという準備・覚悟をもちなさいということです。
そのことを、パウロは、「真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち」と言っています。
8:栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。
4:あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。
あらゆる場合ですから、この世であろうとあの世であろうと、その覚悟においては同様です。いかなる辱めにも、悪評にも、そしてそれが好評や名誉であろうと、変わることなく、「神に仕える者としてその実を示す」というのです。
4.栄誉だろうと辱めだろうと変わらぬ覚悟
二千年も昔の人の言葉だと思うと、実に驚くべき自己認識です。この言葉は、「自己実現」の超克が含蓄されているからです。ここには「生きがい」とか「自己実現」とか、そのような結局は、自己願望の達成が動機として微塵も存在していません。パウロの自己認識は徹頭徹尾、「神に仕える者」なのです。「栄誉」を得たいとか「好評」を博したいという他者による賞賛を求める名誉心の達成など、眼中にないのです。そして、「辱め」を受けることも、「悪評」を浴びせられることも、彼を脅かすことはないのです。「真理の言葉」「神の力」が、「神に仕える者」の「義の武器」であり、「神の武具」なのです。神の武器、武具に守られているから、好評も悪評も、彼にとっては脅威ではあり得ないのです。
5.パウロが受けていた具体的苦難
わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
9:人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、
ここには、パウロが受けていた苦難が具体的に語られています。すなわち、パウロは「人を欺いている」と非難されていたということです。パウロは、ある人々から見た時、「欺いている」と見られていたということです。主イエスの福音を語ることが、「人を欺いている」行為と見なされたということです。彼は、その非難・悪評に直面しても、どこまでも誠実であろうとしています。これがパウロの神の武器による霊的闘いなのです。
パウロは「人に知られていない」ことに落胆もしていませんし、宣教の「失敗」だとも思ってはいません。パウロから福音を聴いて信じる者が、たとえ皆無であっても、動揺したりしません。聞く耳のある者は聴いて信じるのです。神が聴く耳を与えるからです。神が選び分かち、パウロの語ることに耳を傾け、神は福音を信ずる者を起こしたもうから、その者には、よく「知られている」のです。その者は、パウロを通してキリスト・イエスを知っているのです。
パウロは、福音を語ることによって、命を奪われそうになりますが、神がパウロを生かしたもう以上は、決して殺されはしません。
パウロを、罰しようとする者たち、迫害者たちが次々に現れても、パウロは動ずることはありません。迫害者たちを、かえってキリスト・イエスの愛をもって愛したはずです。彼らは、かつてのパウロ自身でもあるのですから、なおさらです。
パウロは、殺されてはいませんが、死を恐れてもいません。死は神だけが与えることができると確信しているからです。
6.悲しみのなかにあって喜ぶ喜び
10:悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
パウロに悲しみがなかった訳ではありません。嘆くことも悲しむことも苦しみには伴います。
苦難、欠乏、行き詰まり、5:鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、
これは苦難のリストです。彼が具体的に受けていた苦難です。この苦難に悲嘆がなかったはずはないのです。ところがパウロは、この苦難の経験に遭いながら、「常に喜」んでいました。この苦しみも主が味わった十字架の苦難に少しでもあやかる経験であるなら、感謝の他はないとパウロは喜んだに違いありません。
パウロには財産というものがありません。ただ神が彼を養ってくださると信じていただけです。無所有の彼は、しかし、多くの人の財産を増大させることができたというのです。彼は貧しい人です。無一物だと自分で明言しています。ところが無一物であっても、その貧しさをもって。「すべてのものを所有している」と自覚しているというのです。
なぜなら、一切の被造物は、神が創造したものであって、神の所有するところの「もの」です。パウロが全面的に一切無所有を貫くのであれば、逆に言えば、一切無所有は、一切が神の所有であるから、神に仕える者と確信しているパウロには、一切が神のものであれば、必要なものはすべてご存じである神は、我が身が生きながらえるに必要なものは、彼には必ず与えられる。そう信じているならば、彼は神の所有を信ずる者として、「すべての者を所有している」と表現しても罰は当たるまいということです。
7.キリストの苦難と共に生きる喜び
6:純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、
キリスト者の喜びは、キリストとひとつの存在であることの喜びです。この喜びは、「神に仕える者としてその実を示す」喜びです。人間的な「承認欲求」ではなく、キリストと一つであることを願い求める祈りが喜びとなって実を結ぶのです。
より、具体的には,パウロ自身がこのように表現しました。
「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛」です。これらすべては「聖霊」による賜物です。
「純真」ひとつとっても、この態度を貫くことは人間的動機によってはできないでしょう。ただ神の力によってこそ、「純真」は人格に反映するのです。
「知識」、単なる好奇心はこの「知」の源にはなりません。「信仰知」です。信仰は「信仰知」を求めてやまないのです。(アンセルムス)主を信ずるからこそ、より深く主イエスを知ろうとするのです。
「寛容」、「寛容」を貫けば、この世では「苦難」を避けられません。「寛容」は自らに罪をおかす者を赦すことを必ず伴います。赦しても罪人はまた罪を犯すかもしれないのです。そうであれば、「赦す」ことは、再び「苦難」をわたしたちにもたらすでしょう。それでも「寛容」は、キリストが限りなき「赦し」を与えてくださったゆえに、わたしたちも「寛容」の実を結ぶことができるのです。「苦難」を引き受ける覚悟・準備こそが、キリストに近づくみちなのです。
「親切」、報いを望まずよきサマリア人の譬えのごとく、世話をすることも、覚悟・準備が必要なのです。サマリア人は、傷ついた人を助けましたが、「復讐」に狂い立つ親族は、サマリア人を襲撃する危険がありました。助けたのに助けたことによって殺されることすら、この世にはあるものです。報いを望まないだけでは親切は貫けません。親切で苦難が待ち受けているかもしれないからです。ナチスの迫害の元で、ユダヤ人を匿うことは、自分たちへの迫害を覚悟しなければ不可能でした。
「偽りのない愛」は、愛の定義によっては起きません。愛の概念をいくら研究しても、それは無駄というものです。聖霊の働きがあってこそ、愛は偽りから決別できるのです。
これらの「実」はすべて「神の力」「聖霊」によるのです。聖霊の実は、苦難を引き受ける準備・覚悟を必ず伴います。キリスト者の喜びは、キリスト・イエスの十字架の苦難に、いくらかでもあずかること喜ぶ喜びなのです。聖霊の降臨は、かならずそこにキリストの肢体なる教会を起こすのです。教会にしっかりとつながっていることが大事なのです。
2026年7月12日(日)(聖霊降臨節第8主日)
テモテへの第一の手紙3章14節~16節
『信仰即宣教の現実』
「神からの真理」」
Ⅰテモテ3:14~16
14:わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。
15:行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。
神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。
16:信心の秘められた真理は確かに偉大です。
すなわち、
キリストは肉において現れ、
“霊”において義とされ、
天使たちに見られ、
異邦人の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた。
1.報告と祈り
過ぐる先週7月8日(水)、わたくしどもが愛する○○兄が神のみもとへと帰還されました。
2日後の10日金曜日に、家族葬を執り行うことができました。生涯をひたむきにキリストの道を歩み通された兄弟の召天をこころに覚え、ひとことお祈りいたします。みなさまもこころを合わせてお祈りください。
祈り
恵み深い父
主イエスの御あわれみによって、われらが愛する○○兄は意義ある生涯を送り、多くの人に良い感化を残し、その走るべき道のりを走り終えて、みもとに召されました。あなたは○○兄を恵み、その生前に主を知らしめ、み救いにあずからせ、限りなきいのちをお授けになりましたことを感謝いたします。
主イエスのみ救いによって○○兄の霊はついに帰るべき故郷に帰り、すでに父のみふところにいだかれていることを信じ、わたしたちはその霊を恵みのみ手におゆだねいたします。 けれども、主よ、地上にあって○○兄と共に世の旅路をたどったわたしたちは、この際にあってたえがたい寂しさを禁じ得ません。とりわけ兄弟の遺族近親のその哀惜は他のなにものによってもいやされがたいものであります。
わたしたちは、主イエスの慰めと助けが豊かにあらんことを切に祈ります。
どうか、この世にのこされて悲しむ者をあわれみ、上よりの慰めを豊かに与えてください。また兄弟と共に信仰の道をたどってまいりましたわたしたちにも深くみずからの終わりを思わしめ、主の日のために備えをなさしめてください。み子イエス・キイストによってお願いいたします。アーメン
2.若き伝道者テモテ
パウロは年若い青年テモテをよく愛していたようです。この短い文面もよく読んでみると、愛情がにじみ出ていて、その想いが伝わってくるような気がします。
14:わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。
兄弟への純粋な愛が感じられます。主にある兄弟とはなんという美しいものでしょうか。
二千年前の人物の思いが、時と空間をはるかに超えて、ひしひしと伝わって来る。そのこと自体が奇跡のように思えます。パウロとテモテのあいだの聖霊による絆の美しさです。
これは「恋文」ではないのです。「恋文」でもないのに、「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。」・・・・。パウロの心のうちがこの一文に溢れていると感じるのは、私だけでしょうか。
こころはすでに、テモテを思い浮かべながら、こころのうちから浮かんでくるのは、神の家、すなわち教会のこと。
とりわけ教会を導くことをこの青年に託そうとしているパウロには、神の家すなわちキリスト者共同体=教会とは、どのようなものか、文字通り、体現してほしいと願っているのです。
行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。
3.生活することとは即信仰生活
わたしたちは生活者です。だれしもが生活者です。信仰していないと、自分で思っている人もみな生活者です。生活者であるということではみな平等です。
病院生活を余儀なくされている人、仕事に毎日追われている人、学業に励んでいる人、みな、全員がなんらかの暮らしを立ています。普段、自分は「無信仰」だと思っている人も、生活者であることには、他の人と何も変わりません。ここから人は始めます。全員平等に生活者。ここがはじまりです。
パウロは若き伝道者に、「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」と書いています。
全員が生活者なのですけれども、人生経験もそれほど多くはない青年テモテに対して、これまでの「生活者」としての「生活」とは、まったく異なる「生活」があるのだよ。その「生活」というのは、「神の家」、つまり教会生活をする者として生きていくのだと言っています。ただ無自覚な「生活者」に留まることなく、これからは神の家での生活者になってほしいというのです。
信仰者であるということは、生活のすべては信仰者としての「生活者」であることなのだと言う意味です。信仰生活は部分の生活ではないのです。
「サンデークリスチャン」と、言葉がありますが、これは日曜日だけ、神さまのに祈りを捧げ、礼拝するけれども、月曜からは、神さまをすっかり忘れてしまう、そういう生活をしているクリスチャンを揶揄して「サンデークリスチャン」と呼んだ言葉です。だから、これは、日曜だけのキリスト者、平日は神さまとは関係しませんというような人々への揶揄であり皮肉なのです。それは違うでしょう! ということなのです。
キリスト者にとっては、生きる事、暮らすことの全部が、信仰生活なのだよと、パウロはテモテに、信仰生活即生活であるべきことを、骨の髄まで体現してほしいというのです。
4.信仰即宣教の現実
信仰生活は、生活の一部分だけの生活ではあり得ないというのです。パウロは聖霊の交わりにおいて愛するテモテに、信仰即生活という現実を体現してほしいと切に願っているのです。
そして、そればかりではなく、さらに、信仰即生活の現実とは、「信仰即宣教の現実」でもあるのです。主イエスを信じるということは、福音宣教の現実だというのです。
5.教会は、真理の柱、真理の土台、
「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」
神の家すなわち教会は、教会共同体だけの存在でないのです。全世界、全宇宙が「神の家」となるであって、いつまでも小さな枠に中で閉じこもるような存在であってはならないと言うのです。神の家は神の家であるから、神が創造された全宇宙全体が神の家なのです。
そういう気宇広大なスケールを考えなければなりません。
この宇宙全体を包含する神の家を支える柱があり、土台がある。そういう家であり、神の家すなわち教会そのものが、真理の柱であり、土台なのだと、テモテによく知っておいてほしいのです。そういう気宇壮大な感覚をもっていなければ、とても神の宣教を語れないというのです。
伝承によれば、テモテは殉教します。テモテはパウロによってエフェソスの主教(司教)に任じられ、教会の牧会者としてつかえますが、エフェソスの多神教徒によって石で打ち殺されることになります。多神教徒たちの偶像崇拝強要に対して、屈することなく従わなかったからです。
わたしは、テモテには天地の創り主こそが、まことの神でありたもうという信仰に、骨の髄まで徹していたからこそ、被造物を神とするということなど思いも寄らなかったのだと思います。殺されようと何をされようと、神でないものを神とすることは、彼にはできなかった。不可能なのです。
それは、神の家こそは、この宇宙全体を包括する者であり、神の家こそは、真理の柱であり、土台だということを実感していたことを意味していたのだと思っています。
6.信心に秘められた真理はたしかに偉大なり
すなわち、
キリストは肉において現れ、
“霊”において義とされ、
天使たちに見られ、
異邦人の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた。
「信心に秘められた真理」、これはいまだ福音宣教が結実する以前に、すでにパウロのなかでは、確信されていて、しかもその将来の結実は、いまは「秘められている」ということでしょう。いまはまだ、いま現在は、目に見えない現実、すなわち今はただ「ビジョン」として彼には見えていただけなのに、彼にとって、「いまだ」は、「すでに」となって確固たる現実同様であった。そういう「将来の確信」を表現していると考えられます。いまは「いまだ実現していないビジョン」だけれども、このビジョンは彼の内部にあっては「すでに」確信された「現実」として見えていたのです。
つまり、今は「秘められている」が、すでに彼には見えている。いまは成就以前だけれども、パウロにはこのビジョンは「現実」のものとして「すでに」成就同然だったのです。パウロは愛する青年テモテに、骨の髄まで、パウロ自身と同じように、この確信をもってほしい。
テモテに、「ほら、君にも見えるだろう。キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。このことは現実なのだよ。だからすでに「キリストは栄光のうちにあげられた」と言うのだよ。わたしは既に成就した事として君も確信してほしい」と、書き送ったのです。
この現実を、テモテは肌感覚としても感じていたから、彼は、彼を殺す多神教徒(異邦人)にも福音は必ず「キリストは宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられる」のだと。否すでに上げられた現実が見てるではないか。パウロにもテモテにもこの確信が彼らの内部にはあり、見えていた。
その現実が、時空を超えて、現代のわたしたちにも見えているはずなのです。だから絶望してはならない。諦めてはならない。嘆いてはならないのです。
パウロの言葉は、テモテだけではなく、わたしたち自身に語られているのです。