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2026年7月25日土曜日

 2026年7月26日 (聖霊降臨節第10主日)

コリントの信徒への手紙Ⅰ12章14節~26節

『キリストの体』

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                  『キリストの体』
               コリントの信徒への手紙Ⅰ12章14節~26節
14:体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15:足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
16:耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
17:もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
18:そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
19:すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
20:だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
21:目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
22:それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23:わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
24:見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
1. 奴隷制時代の術語だった「奴隷」の同義語としての「体」
     「奴隷」の同義語は、「身体」(ソーマ)である。 古代ローマの奴隷は、自らの意思で自分の身体を自由にする権利をもたない。奴隷の身体は、主人のものである。奴隷の身体は、主人の代わりに懲罰を受け、主人に名誉と利益を還元する。奴隷とは、主人の影武者のような存在であり、自分の意思の自由を持たない身体にすぎないと考えられた。『古代ローマの奴隷制とコリントの信徒への手紙一』福嶋裕子
  コリント教会の信徒には、男女の自由人と男女の奴隷の存在を認めることができるという。
 コリントは紀元前146年にローマによって滅ぼされ、紀元前44年にユリウス・カエサルがローマ植民都市(Colonia Laus Julia Corinthiensis)として再建するまで荒廃に帰していたが、クラウディウス帝の治世(41-54年)までにローマ都市の外観をもつ建築が急増し、ローマの元老院属州アカイアの首都であった。ローマは奴隷制によって社会が成り立っていたから、コリント教会の信徒たちは、一歩教会の外では、自由人と奴隷という厳重な身分の差が存在しているなかを生きていたのである。
 この時代、「奴隷」(ドウーロス)と「体」(ソーマ)は同義語であった。つまり、奴隷は奴隷所有者の「体」の一部とみなされていたのである。奴隷は、「身体」として数えられ、家の財産管理目録に記録されていたのである。

2.所有者の「体」でしかなかった「奴隷」
 古代ローマにおける奴隷の人口は、帝国全人口の15% から20% と推定されています。帝国全人口で考えると八人に一人は奴隷だったと言うのです。一般に古代の百万人都市ローマには、三十万人の奴隷がいたと言われています。古代ローマ世界は、奴隷制によって成り立っていたのです。
   奴隷を入手する方法は三つありました。第一は奴隷を「贈物、遺産相続、購入」によって獲得すること。第二は自分の所有する「女性奴隷が、子どもを産むこと」により、奴隷が増えて行くこと。第三に、これが最古の方法で、戦争により「捕虜となった者」を奴隷とすることでした。
  奴隷の立場に置かれた人々にとって、世界は苛酷だったに相違ありません。人生は暴力に常に脅かされていた日々の連続だったでしょう。奴隷は所有者の財産。モノにすぎないのです。犯されても殺されても文句一つ言えない境遇なのです。
 『グラディエーター』(原題:Gladiator)という映画あります。この作品でローマ軍団の将軍であった者でも奴隷へと落とされてしまうことが描かれていました。自由人と奴隷は移行することがあったということです。しかも自由人も系図を辿ればもとは奴隷だった人も多かった。しかし、奴隷身分から解放されるのは、所有者の意思ひとつにかかっていたので、自分から自由人になることは困難でした。
 コリントの教会には、おそらく男女の少数の自由人、解放奴隷、そして奴隷、さらには神殿娼婦だった女性も含めていたのではないかと想像されます。

3.ローマ市民はなぜ「特権」を棄てた?
   奴隷所有者の財産でしかなかった奴隷の人たち、解放されたとはiいえ蔑みの対象からは免れず差別されていたであろう解放奴隷の人々と、自由人の間には、葛藤はなかったのでしょうか。
 いやそもそも、奴隷の人々と同じ信仰共同体に自由人たちはすすんで洗礼をうけて「兄弟姉妹」として交わり、「聖徒の交わり」に加わることができたのは、どうして可能になったのでしょうか。社会的差別意識をもったままでは、それは絶対不可能だったと思います。
 自由人、自由市民と言ってもよいと思いますが、パウロ自身ローマの市民権を持っていた人でした。彼はキリスト者となったいまは、そのことを「糞土」のようだと言い放っていますが、彼自身がそのように、「特権」を完全に捨て去っていることはともかくも、パウロの福音を聴いて、ナザレのイエスを主と信じたローマ帝国市民たちが、パウロ同様に,自分たちの特権を完全に放棄して、奴隷身分の人たちと完全に同等、平等の交わりに入ろうと決断したのには、いったいどのような心の動きが、彼や彼女のなかに生起したのであろうか、わたしにはとても不思議に思えるのです。
 奴隷制度が、制度であって、約束事、暗黙の了解事項の共有によって成り立っていたことは明らかです。最も古くからある方法、つまり戦争捕虜を全部奴隷にしてしまうことによって奴隷とした。勝者が敗者を家畜同様の「モノ」」とみなしたことに始まりました。この制度は肌の色の違いは関係ありませんし、言葉の違いも文化の違いも関係ありません。ただ戦争の戦利品として人をモノとして扱ったことに始まりました。
 かつてはモノにすぎなった人、誰かの所有物でしかなった人を、自分自身のかけがえのない家族として、兄弟姉妹として愛し愛される存在と、心から信じ受け入れるようにされた。そういう出来事がローマ市民に生起したということです。
 この出来事は、人間的動機から説明できません。正義漢とか、理想主義とか、自分が善人でありたいとか、そんな動機が長続きするとは到底考えられません。ローマ市民のなかにしみついていた社会的差別意識を完全に粉砕し、融解させてしまう出来事だからです。人間的動機からはただ不可解としか言いようがない事が起こったのです。
 神の出来事としか説明できません。そう言っても説明にはならないのかもしれませんが、とにかく、人間の罪を消去する出来事が起きたことは間違いありません。だから神の出来事としか言いようがないのです。

4.被差別者に生起した赦しの出来事
   神の出来事は、差別・暴力を日常的に受け続けていた解放奴隷や奴隷身分の人々にも起こったと言わねばなりません。
 それまで、生かすも殺すも奴隷所有者の胸先三寸という暴虐を受けていた被差別者の心は、どうであったでしょうか。
 何をされても抗うことが許されない状況に置かれていた人々は、恐怖・不安が日常化していたに相違ありません。その人々が横暴をほしいままにしてきたローマ市民たちをこころの内では軽蔑し、憎んでいたのではないかとわたしには思えるのです。そんな人々が、権力者として抑圧してきた人々を、神の家族として、心から受け入れ、同じ神の子として「兄弟姉妹」の交わりを、どうしたら保てるでしょうか。
 心の中に「わだかまり」が残っていても不思議ではありません。日常的に抑圧者の立場にあった人を、簡単には受け入れられないのは当然ではないでしょうか。
 被差別者の人々が差別者を赦し、こころから愛する家族として受け入れられる出来事が生起した。この出来事が生起したのでなければ、被差別者の人々は洗礼をうけはしなかったのではないでしょうか。
 この容易ならざる全人格的な赦しの決断が生起したのことは間違いないと思います。この出来事は人間的な動機では説明できません。恨みや憎しみの感情は容易に消え去りはしないからです。だから、やはりこの人々にも「神の出来事」が起きた、としか説明できないのです。

5.抑圧者の「体」(奴隷)ではなく「キリストの体」 なる教会
  パウロは、自らをキリストの僕(奴隷)と称しました。「罪の奴隷」であった自己をキリストに買い取られた(贖われた)「キリストの奴隷」だと言ったのです。
 忌まわしい意味でしかなかった「奴隷」という言葉を、「キリストの奴隷」と言い換えることによって、「罪から真に解放」し、真実、神の前に自由にされた存在を意味する言葉に、言葉を換えたのです。
 言葉を換えれば、現実も変わるのかと言えばそうではありません。現実こそが変えられているからこそ、言葉が現実に対応するのです。
 奴隷身分の人々は奴隷所有者の財産でしかありませんでした。生殺与奪の権利を抑圧者によって握られていました。自分自身は自分自身の自由にはならない奴隷所有者の「体」=「奴隷」でした。
 しかし、主イエス・キリストによって、「罪」の縄目から解放されたという現実が、信仰によって生起したいまは、自分自身の命は、キリストの「体」となったのです。自分自身のうちには、真実の主人であられる主イエス・キリストが現存しているのです。それゆえ、「私」はもはや「私」ではなく、「私のうちにキリストが生きておられる」から、「私はキリストの体(奴隷)」なのです。キリストの奴隷は、あらゆる抑圧者にとっても、決して従属・依存しない、神の前に独立したかけがえのない尊厳をもつ存在とされているのです。この現実が現に起きているので、わたしは、地上のいかなる権力の前にも屈従する必要はもはやないのです。そうであるからこそ、地上においては、たとえ奴隷所有者であろうと、完全に人として対等・平等な存在だという確信が揺るがないのです。もはや、抑圧者を恨むことも、憎むことも必要としないのです。愛するのです。
 こういう現実が生起したと考えざるを得ないのです。

6.神々の妻として生きてきた神殿聖娼に起きたこと
  コリントのアクロコリントス神殿には、千人もの神殿聖娼がいたと言われます。神々に仕える女性であり、神殿で神々を崇拝する行為をしに来る不特定多数の男性と「みだらな行為」を生業としていた女性たちです。
 このような過去をもつ女性もキリスト・イエスのこどもとしてキリストの教会へと受け入れられていたとも考えられるのです。  この女性たちにも、神の出来事は生起したはずです。主イエスの福音を信じて洗礼を受ける決心をした彼女たちは、「みだらな行為」によって神々と交わるという「異教の信心」を棄てる決心をしたはずです。もはや、かかる「みだらな行為」をしなくともよいし、したくはないと彼女たちは、自分自身の「からだ」を清く保つようになったはずです。
 彼女たちは、生業を棄てました。それでその後、どうやって生きてゆこうとしたのでしょうか。聖書には、沈黙していますが、彼女らが過去の行為を心ならずも生きるために再び繰り返すことを、教会は決して望むはずはないと、わたしは考えます。
 わたしは想像するのです。彼女たちに生きる術を、教会は家族として真剣に考えたはずだと。そうであれば、そこから「福祉」という事柄の原初的な働きが生まれてきたのではないか。そう思えてくるのです。教会から、教育や福祉が始まったのは、神の家族として互いに愛し合う交わりを現実としてゆくためだったと思うのです。 愛する姉妹たちに、二度と「みだらな行為」をさせてはならない。兄弟姉妹ならば、そう考えるの当然でしょう。
 いまも、聖霊の働きは、絶えることなく継続しています。貧困に苦しむ人々、災害にあって苦難を経験する人々、戦火のなかで困難を抱えている人々を、基督の体として、すなわち私の体の一部として愛するように愛する働きが続いているのです。

2026年7月20日月曜日

 2026年7月19日(聖霊降臨節第9主日)

コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1節~10節

『神による完全な武器』


            『神による完全な武器』

コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1~10

1:わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

2:なぜなら、

  「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

3:わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、

4:あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、

5:鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

6:純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

7:真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、

8:栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、

9:人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、

10:悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。


1.地上生活は「あいだ」の生

 わたしたちは、地上の生活のあいだを生きています。この世に生を受けて、肉体が朽ちて土に還るまでの「あいだ」が、わたしたちの地上生活です。

 この「あいだ」には楽もあれば苦もまたあることは誰しも避けえないものです。ただ地上にある「あいだ」は、人と衝突しても、反論することもできますし、衝突を避けることもできます。わかりあえることもあれば、距離を置くしかないこともあります。かかわることもかかわりから逃げることも可能です。

 しかし、この「あいだ」の時間は限りがあって、いつかは「あの世」「来世」へと生命を移す時がやってきます。

 その時は、ただ神さまだけが知っていて、支配してくださっている神のみこころにのみかかっている事柄です。

 わたしたちは、その「時」が、いつ起こってもよいように、準備しておかねばなりません。そういう意味で「あいだ」の時間は、その決定的な「時」を迎えるための準備期間と言えるでしょう。

 つまり、わたしたちは、やがておとずれる「時」、神のみもとへと帰還する決定的な「時」を迎えるために、準備し、覚悟してこの世の地上生活を営んでいるのです。


2. 反論できない立場

  人は、突然おとずれる「時」にむけて生きています。

 地上生活を終えてなお、非難中傷、人格攻撃を受けるということも、人には起こり得ます。「死者をむち打つ」」行為という言葉がありますが、死んでなお攻撃されるという事も、世間にはあります。むしろ死んでしまえば、いくらでも嘘偽りであっても攻撃できてしまえるので、卑劣な人は死後にデタラメで死んだ人を辱めることをしたりすることも世間にはよくあるものです。

    ※死屍に鞭打つ(ししにむちうつ)

    死者の言動や行為を非難することをいう。中国の春秋時代、楚(そ)の伍子胥(ごししよ)は父と兄を平王に殺されて呉に逃れ、呉の力を借りて報復しようとしたが、平王の没後であったため、その墓を掘り起こして死屍を鞭打ち仇(あだ)を報いたという故事による。

  そうした場合、死んでしまった人には弁明の機会がありません。「反論」しようにも不可能なのです。

 「草場の陰で泣いている」という言い方が古来ありますが、反論できない故人に変わって戒めている訳ですが、死んでしまってから、「この世」に死んだ人が登場するという思想は、聖書から引き出すことはできません。「この世」と「あの世」は、行ったり来たりできない絶対不可逆なのです。

 ということは、死んでから後に、「死者にむち打つ」ような中傷・攻撃を受けても、いっさい反論とか弁明はできないのです。それでは、いったい誰が死んで逝った人の名誉を守ることができましょう。


3.左右に偽の武器を持ち

  パウロの覚悟について考えてみましょう。「信仰即宣教」ということを、先週学びました。信じて生きるということは、準備・覚悟だということを、今日は教えられます。

 いつ神に召されても、つまりこの世の生を終えて、あの世へと旅立ったとしても、構わないという準備・覚悟をもって地上生活を送りなさいということです。

 死後において、反論できない立場になったときにも、どのような悪評、中傷、攻撃を受けたとしても、そのことに影響を受けることなく神の御許へと赴くという準備・覚悟をもちなさいということです。

 そのことを、パウロは、「真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち」と言っています。

     8:栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。

    4:あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。

  あらゆる場合ですから、この世であろうとあの世であろうと、その覚悟においては同様です。いかなる辱めにも、悪評にも、そしてそれが好評や名誉であろうと、変わることなく、「神に仕える者としてその実を示す」というのです。

 

4.栄誉だろうと辱めだろうと変わらぬ覚悟

  二千年も昔の人の言葉だと思うと、実に驚くべき自己認識です。この言葉は、「自己実現」の超克が含蓄されているからです。ここには「生きがい」とか「自己実現」とか、そのような結局は、自己願望の達成が動機として微塵も存在していません。パウロの自己認識は徹頭徹尾、「神に仕える者」なのです。「栄誉」を得たいとか「好評」を博したいという他者による賞賛を求める名誉心の達成など、眼中にないのです。そして、「辱め」を受けることも、「悪評」を浴びせられることも、彼を脅かすことはないのです。「真理の言葉」「神の力」が、「神に仕える者」の「義の武器」であり、「神の武具」なのです。神の武器、武具に守られているから、好評も悪評も、彼にとっては脅威ではあり得ないのです。


5.パウロが受けていた具体的苦難

     わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、

    9:人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、

   ここには、パウロが受けていた苦難が具体的に語られています。すなわち、パウロは「人を欺いている」と非難されていたということです。パウロは、ある人々から見た時、「欺いている」と見られていたということです。主イエスの福音を語ることが、「人を欺いている」行為と見なされたということです。彼は、その非難・悪評に直面しても、どこまでも誠実であろうとしています。これがパウロの神の武器による霊的闘いなのです。

 パウロは「人に知られていない」ことに落胆もしていませんし、宣教の「失敗」だとも思ってはいません。パウロから福音を聴いて信じる者が、たとえ皆無であっても、動揺したりしません。聞く耳のある者は聴いて信じるのです。神が聴く耳を与えるからです。神が選び分かち、パウロの語ることに耳を傾け、神は福音を信ずる者を起こしたもうから、その者には、よく「知られている」のです。その者は、パウロを通してキリスト・イエスを知っているのです。 

   パウロは、福音を語ることによって、命を奪われそうになりますが、神がパウロを生かしたもう以上は、決して殺されはしません。

 パウロを、罰しようとする者たち、迫害者たちが次々に現れても、パウロは動ずることはありません。迫害者たちを、かえってキリスト・イエスの愛をもって愛したはずです。彼らは、かつてのパウロ自身でもあるのですから、なおさらです。

 パウロは、殺されてはいませんが、死を恐れてもいません。死は神だけが与えることができると確信しているからです。


6.悲しみのなかにあって喜ぶ喜び

    10:悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。 

   パウロに悲しみがなかった訳ではありません。嘆くことも悲しむことも苦しみには伴います。

     苦難、欠乏、行き詰まり、5:鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、

  これは苦難のリストです。彼が具体的に受けていた苦難です。この苦難に悲嘆がなかったはずはないのです。ところがパウロは、この苦難の経験に遭いながら、「常に喜」んでいました。この苦しみも主が味わった十字架の苦難に少しでもあやかる経験であるなら、感謝の他はないとパウロは喜んだに違いありません。

 パウロには財産というものがありません。ただ神が彼を養ってくださると信じていただけです。無所有の彼は、しかし、多くの人の財産を増大させることができたというのです。彼は貧しい人です。無一物だと自分で明言しています。ところが無一物であっても、その貧しさをもって。「すべてのものを所有している」と自覚しているというのです。

 なぜなら、一切の被造物は、神が創造したものであって、神の所有するところの「もの」です。パウロが全面的に一切無所有を貫くのであれば、逆に言えば、一切無所有は、一切が神の所有であるから、神に仕える者と確信しているパウロには、一切が神のものであれば、必要なものはすべてご存じである神は、我が身が生きながらえるに必要なものは、彼には必ず与えられる。そう信じているならば、彼は神の所有を信ずる者として、「すべての者を所有している」と表現しても罰は当たるまいということです。


7.キリストの苦難と共に生きる喜び

    6:純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、

  キリスト者の喜びは、キリストとひとつの存在であることの喜びです。この喜びは、「神に仕える者としてその実を示す」喜びです。人間的な「承認欲求」ではなく、キリストと一つであることを願い求める祈りが喜びとなって実を結ぶのです。

 より、具体的には,パウロ自身がこのように表現しました。

  「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛」です。これらすべては「聖霊」による賜物です。

 「純真」ひとつとっても、この態度を貫くことは人間的動機によってはできないでしょう。ただ神の力によってこそ、「純真」は人格に反映するのです。

 「知識」、単なる好奇心はこの「知」の源にはなりません。「信仰知」です。信仰は「信仰知」を求めてやまないのです。(アンセルムス)主を信ずるからこそ、より深く主イエスを知ろうとするのです。

 「寛容」、「寛容」を貫けば、この世では「苦難」を避けられません。「寛容」は自らに罪をおかす者を赦すことを必ず伴います。赦しても罪人はまた罪を犯すかもしれないのです。そうであれば、「赦す」ことは、再び「苦難」をわたしたちにもたらすでしょう。それでも「寛容」は、キリストが限りなき「赦し」を与えてくださったゆえに、わたしたちも「寛容」の実を結ぶことができるのです。「苦難」を引き受ける覚悟・準備こそが、キリストに近づくみちなのです。

 「親切」、報いを望まずよきサマリア人の譬えのごとく、世話をすることも、覚悟・準備が必要なのです。サマリア人は、傷ついた人を助けましたが、「復讐」に狂い立つ親族は、サマリア人を襲撃する危険がありました。助けたのに助けたことによって殺されることすら、この世にはあるものです。報いを望まないだけでは親切は貫けません。親切で苦難が待ち受けているかもしれないからです。ナチスの迫害の元で、ユダヤ人を匿うことは、自分たちへの迫害を覚悟しなければ不可能でした。

 「偽りのない愛」は、愛の定義によっては起きません。愛の概念をいくら研究しても、それは無駄というものです。聖霊の働きがあってこそ、愛は偽りから決別できるのです。

 これらの「実」はすべて「神の力」「聖霊」によるのです。聖霊の実は、苦難を引き受ける準備・覚悟を必ず伴います。キリスト者の喜びは、キリスト・イエスの十字架の苦難に、いくらかでもあずかること喜ぶ喜びなのです。聖霊の降臨は、かならずそこにキリストの肢体なる教会を起こすのです。教会にしっかりとつながっていることが大事なのです。

2026年7月13日月曜日

 2026年7月12日(日)(聖霊降臨節第8主日)

テモテへの第一の手紙3章14節~16節

『信仰即宣教の現実』


              「神からの真理」」

                              Ⅰテモテ3:14~16

14:わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。

15:行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。

  神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。

16:信心の秘められた真理は確かに偉大です。

  すなわち、

  キリストは肉において現れ、

  “霊”において義とされ、

  天使たちに見られ、

  異邦人の間で宣べ伝えられ、

  世界中で信じられ、

  栄光のうちに上げられた。




1.報告と祈り

   過ぐる先週7月8日(水)、わたくしどもが愛する○○兄が神のみもとへと帰還されました。

 2日後の10日金曜日に、家族葬を執り行うことができました。生涯をひたむきにキリストの道を歩み通された兄弟の召天をこころに覚え、ひとことお祈りいたします。みなさまもこころを合わせてお祈りください。

 祈り

 恵み深い父

 主イエスの御あわれみによって、われらが愛する○○兄は意義ある生涯を送り、多くの人に良い感化を残し、その走るべき道のりを走り終えて、みもとに召されました。あなたは○○兄を恵み、その生前に主を知らしめ、み救いにあずからせ、限りなきいのちをお授けになりましたことを感謝いたします。

 主イエスのみ救いによって○○兄の霊はついに帰るべき故郷に帰り、すでに父のみふところにいだかれていることを信じ、わたしたちはその霊を恵みのみ手におゆだねいたします。 けれども、主よ、地上にあって○○兄と共に世の旅路をたどったわたしたちは、この際にあってたえがたい寂しさを禁じ得ません。とりわけ兄弟の遺族近親のその哀惜は他のなにものによってもいやされがたいものであります。

 わたしたちは、主イエスの慰めと助けが豊かにあらんことを切に祈ります。

 どうか、この世にのこされて悲しむ者をあわれみ、上よりの慰めを豊かに与えてください。また兄弟と共に信仰の道をたどってまいりましたわたしたちにも深くみずからの終わりを思わしめ、主の日のために備えをなさしめてください。み子イエス・キイストによってお願いいたします。アーメン


2.若き伝道者テモテ

  パウロは年若い青年テモテをよく愛していたようです。この短い文面もよく読んでみると、愛情がにじみ出ていて、その想いが伝わってくるような気がします。

    14:わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。

  兄弟への純粋な愛が感じられます。主にある兄弟とはなんという美しいものでしょうか。

 二千年前の人物の思いが、時と空間をはるかに超えて、ひしひしと伝わって来る。そのこと自体が奇跡のように思えます。パウロとテモテのあいだの聖霊による絆の美しさです。

  これは「恋文」ではないのです。「恋文」でもないのに、「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。」・・・・。パウロの心のうちがこの一文に溢れていると感じるのは、私だけでしょうか。

 こころはすでに、テモテを思い浮かべながら、こころのうちから浮かんでくるのは、神の家、すなわち教会のこと。

 とりわけ教会を導くことをこの青年に託そうとしているパウロには、神の家すなわちキリスト者共同体=教会とは、どのようなものか、文字通り、体現してほしいと願っているのです。 

    行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。


3.生活することとは即信仰生活

   わたしたちは生活者です。だれしもが生活者です。信仰していないと、自分で思っている人もみな生活者です。生活者であるということではみな平等です。

 病院生活を余儀なくされている人、仕事に毎日追われている人、学業に励んでいる人、みな、全員がなんらかの暮らしを立ています。普段、自分は「無信仰」だと思っている人も、生活者であることには、他の人と何も変わりません。ここから人は始めます。全員平等に生活者。ここがはじまりです。

 パウロは若き伝道者に、「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」と書いています。

 全員が生活者なのですけれども、人生経験もそれほど多くはない青年テモテに対して、これまでの「生活者」としての「生活」とは、まったく異なる「生活」があるのだよ。その「生活」というのは、「神の家」、つまり教会生活をする者として生きていくのだと言っています。ただ無自覚な「生活者」に留まることなく、これからは神の家での生活者になってほしいというのです。

 信仰者であるということは、生活のすべては信仰者としての「生活者」であることなのだと言う意味です。信仰生活は部分の生活ではないのです。

 「サンデークリスチャン」と、言葉がありますが、これは日曜日だけ、神さまのに祈りを捧げ、礼拝するけれども、月曜からは、神さまをすっかり忘れてしまう、そういう生活をしているクリスチャンを揶揄して「サンデークリスチャン」と呼んだ言葉です。だから、これは、日曜だけのキリスト者、平日は神さまとは関係しませんというような人々への揶揄であり皮肉なのです。それは違うでしょう! ということなのです。

 キリスト者にとっては、生きる事、暮らすことの全部が、信仰生活なのだよと、パウロはテモテに、信仰生活即生活であるべきことを、骨の髄まで体現してほしいというのです。


4.信仰即宣教の現実

  信仰生活は、生活の一部分だけの生活ではあり得ないというのです。パウロは聖霊の交わりにおいて愛するテモテに、信仰即生活という現実を体現してほしいと切に願っているのです。

 そして、そればかりではなく、さらに、信仰即生活の現実とは、「信仰即宣教の現実」でもあるのです。主イエスを信じるということは、福音宣教の現実だというのです。


5.教会は、真理の柱、真理の土台、

    「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」

  神の家すなわち教会は、教会共同体だけの存在でないのです。全世界、全宇宙が「神の家」となるであって、いつまでも小さな枠に中で閉じこもるような存在であってはならないと言うのです。神の家は神の家であるから、神が創造された全宇宙全体が神の家なのです。

 そういう気宇広大なスケールを考えなければなりません。

 この宇宙全体を包含する神の家を支える柱があり、土台がある。そういう家であり、神の家すなわち教会そのものが、真理の柱であり、土台なのだと、テモテによく知っておいてほしいのです。そういう気宇壮大な感覚をもっていなければ、とても神の宣教を語れないというのです。

 伝承によれば、テモテは殉教します。テモテはパウロによってエフェソスの主教(司教)に任じられ、教会の牧会者としてつかえますが、エフェソスの多神教徒によって石で打ち殺されることになります。多神教徒たちの偶像崇拝強要に対して、屈することなく従わなかったからです。

 わたしは、テモテには天地の創り主こそが、まことの神でありたもうという信仰に、骨の髄まで徹していたからこそ、被造物を神とするということなど思いも寄らなかったのだと思います。殺されようと何をされようと、神でないものを神とすることは、彼にはできなかった。不可能なのです。

 それは、神の家こそは、この宇宙全体を包括する者であり、神の家こそは、真理の柱であり、土台だということを実感していたことを意味していたのだと思っています。


6.信心に秘められた真理はたしかに偉大なり

        すなわち、

      キリストは肉において現れ、

      “霊”において義とされ、

      天使たちに見られ、

      異邦人の間で宣べ伝えられ、

      世界中で信じられ、

      栄光のうちに上げられた。

  「信心に秘められた真理」、これはいまだ福音宣教が結実する以前に、すでにパウロのなかでは、確信されていて、しかもその将来の結実は、いまは「秘められている」ということでしょう。いまはまだ、いま現在は、目に見えない現実、すなわち今はただ「ビジョン」として彼には見えていただけなのに、彼にとって、「いまだ」は、「すでに」となって確固たる現実同様であった。そういう「将来の確信」を表現していると考えられます。いまは「いまだ実現していないビジョン」だけれども、このビジョンは彼の内部にあっては「すでに」確信された「現実」として見えていたのです。

 つまり、今は「秘められている」が、すでに彼には見えている。いまは成就以前だけれども、パウロにはこのビジョンは「現実」のものとして「すでに」成就同然だったのです。パウロは愛する青年テモテに、骨の髄まで、パウロ自身と同じように、この確信をもってほしい。

 テモテに、「ほら、君にも見えるだろう。キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。このことは現実なのだよ。だからすでに「キリストは栄光のうちにあげられた」と言うのだよ。わたしは既に成就した事として君も確信してほしい」と、書き送ったのです。

 この現実を、テモテは肌感覚としても感じていたから、彼は、彼を殺す多神教徒(異邦人)にも福音は必ず「キリストは宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられる」のだと。否すでに上げられた現実が見てるではないか。パウロにもテモテにもこの確信が彼らの内部にはあり、見えていた。

 その現実が、時空を超えて、現代のわたしたちにも見えているはずなのです。だから絶望してはならない。諦めてはならない。嘆いてはならないのです。

 パウロの言葉は、テモテだけではなく、わたしたち自身に語られているのです。