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2026年4月27日月曜日

 2026年4月26日 (復活節第4主日)

ヨハネによる福音書13章31節~35節

『キリストの掟』



                  キリストの掟
ヨハネによる福音書13章31節~35節
31:さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32:神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
33:子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
34:あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35:互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

1.「子なる神優位」
  福音書には、三位一体の教義自体が語られてはいません。けれでも、「三位一体」の萌芽を思わせるイエスの言葉は残されています。いや、むしろイエスの言葉を信じることによって、必然的に「神とイエスとの関係、交わり」とはいったいどう理解したらよいのだろうかと、信仰においての認識へとすすんでゆかざるを得なかったという事情なのではなないだろうか、と考えます。
 本日与えられた聖書のみことば「神も人の子によって栄光をお受けになった。」は、まるで、イエスによって神も栄光を受けたというのですから、イエスは神に栄光を与えた主体であるかのような表現です。
 わたしたちは、漠然と父なる神が子なる神イエスをこの世に送られたのであるから、父なる神が子なる神であるイエスの優位にあるお方であると思っています。
 ところが、このイエスのみことばは、子なる神イエスのほうが父なる神の優位にあるかのような表現になっている。わたしたちの漠然とした「父なる神優位」という思いを、イエスは打ち砕くかのようです。
 子なる神イエスによってこそ、父なる神も栄光をお受けになったのか、そうであれば、「子なる神優位」という意味になるではないか、ということです。
 
2.「父なる神優位」でもあり「子なる神優位」でもある?
 どちらが優位でもあることは矛盾以外の何ものでもない。論理的には成り立たない。どちらかでもあるという事は人間の論理では成り立たないことになります。
 こう考えてきて思う事は、父なる神と子なる神は、どちらが優位という捉え方をすること自体が、人間の卑小な理性の限界内では不可能だということではないか。つまり、神さまを人間が捉え得るという考え自体が不遜であり、所詮は不可能なのではないか、ということです。
 信仰の現実のなかでのみ、どちらも「優位」であるようなあり方を、主イエスはお示しになられたのでしょう。
 その在り様を、「同質」という言葉で言い換えると「父なる神」と「子なる神」は「一体」のお方であるという信仰の認識へと導かれたのではないだろうか、そう思うのです。神と子は区別されつつも、一体・同質なるお方でありたもうという信仰の認識です。
 そうであれば、たしかに三位一体の認識の萌芽と言えるでしょう。
 いくら考えても、人の理性では不可解なのです。
 
3.主イエスは、神さまを語るために御自身を語った。
 主イエスのこのみことばは、当時のユダヤ教徒たちからすれば、理解しがたいどころか、とんでもない冒涜であったはずです。「人の子」という表現で御自身を語っているという前提で考えると、イエスは御自身が「神に栄光を与える」と言っているに等しいのですから、冒涜にしか聞こえないでしょう。この一言だけで彼らにとっては「死罪」に相当すると、彼らの「正義」は正当化されたに相違ありません。
 主イエスが殺されなければならなかったのは、主イエスの言動に原因があったのです。この一言だけでも、主イエスは殺されるに十分な理由を「殺す側」に与えたことになるのです。
 どう考えても、主イエスは、殺されなければならなかった。それは実に「真理」を語ったからです。
 主イエスは、この「真理」を語ることによって、自分が十字架刑で殺されることになることを十分に理解していたと思います。
 ユダが御自身を裏切り、売り渡しに行くということを、主は知っていました。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」とあります。
 いよいよ、ご自分が弟子の裏切りによって「殺される」ことになることが、決定的になった瞬間に、御自身の「死」を、「栄光」という言葉で表現されたのです。
 イエスが言われた「栄光」は、主イエスの「死」のことなのです。
    「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(31節)
 主は、時系列では、これから御自身の十字架刑が開催される御自身の「死」を「栄光」と表現され、既に「事が成就した」こととして語られています。
 主イエスにとって「死」は、既に終わったことのように語られるほどに確定した事として語られたのです。
 主イエスにとって、「十字架の死」は「栄光」でした。
 そして、主イエスが「十字架の死」すなわち「栄光」をお受けになったことが、「父なる神」に「栄光」を与えることになったと言われたのです。
 主イエスにとって、ご自身の命運を語ることは、即ち神の「命運」を語ることでもあったのです。
 主イエスにとって、「父なる神」を語ることは、ご自身を語ることだったのです。
 ご自身を語らずしては、「父なる神」を語ることはできなかったのです。
 最初のキリスト者共同体の人々は、この主の御言葉を聞くとき、主イエスと神が「一体」の存在であり、「同一・同質」のお方だと、信じたことでしょう。

4.「栄光」が指し示すもの
    「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」(32節)
 すぐさま、主イエスは、続けて逆のことを言われました。主イエスが「父なる神」に「栄光」を与えたのであれば、「父なる神」も、主イエスに「栄光」をお与えになる、と言うのです。
 そうすると、主イエスにとって、最初の「栄光」と表現された「十字架の死」は、やはり「父なる神」が与えたというよりは、主イエスご自身が自らすすんで決断したもうた「死」だということになります。
 主イエスが自らの「意志」で、「十字架の死」を決断したことが「栄光」だったのです。主イエスが決断した「栄光」であったからこそ、主イエスは「父なる神」に「栄光」を与えることとなった。神はイエスによって、「栄光」をお受けになったのです。
 ややこしくてすみません。でも大事な事なんです。
 イエスさまによって神さまは「栄光」をお受けになられた。そうであればこそ、神さまもイエスさまに「栄光」をお与えになったというのです。ですがこの際の「栄光」は、「昇天」のことでしょう。「栄光」という言葉が指し示している「事柄」が違うのです。
 整理します。
 主イエスが自ら決断された「栄光」を「主イエスの第一の栄光」と呼びましょう。これは「十字架の死」を意味します。
 主イエスが、「主の第一の栄光」をお受けになったことにより、「父なる神」にお与えになった「栄光」を「父なる神の栄光」と呼びます。
 そして、そうであればこそ、神がご自身によって、主イエスにお与えになる「栄光」を「主イエスの第二の栄光」と呼びます。これは「イエスの昇天」を意味します。
 だから、主イエスの「栄光」は、ご自身の決断による「十字架の死」と、神によって与えられた「昇天」という二つの事柄を指し示していることになります。
 それでは、主イエスによって、神に与えられた「栄光」は「父なる神の栄光」ですが、これは何を指し示しているのでしょうか。これが問題です。

5.父なる神の栄光
 主イエスおん自ら決断したもうた「十字架の死」と「復活」(ここでは復活も含めましょう)によって、神も「栄光」をお受けになった。その「栄光」とはいかなるものであるか。之が問題でした。
 わたしは思うのです。
 子なる神たる人の子主イエスが、呪われた十字架刑に処せられ、無残に死んでゆかれた事をもって、主イエスは「栄光」という言葉を用いられました。
 地上的な価値観からみると、もっとも「栄光」とはほど遠い惨い死です。この主イエスの無残極まりない「死」をもっとも高貴な価値を示す「栄光」と言われたイエスの「もののみえかた」こそが、このことと深くかかわってくるでしょう。
 神にとって「栄光」とはいったい何だったのか。
 ご自身と等しい子なる神を「死」なせなければならない「父なる神」にとって、主イエスの「栄光」はもっとも受け入れがたい事柄であり、ご自身の「死」よりも受け入れがたい事柄ではなかったか。神にとってイエスの「栄光」は、受け入れがたい「断念」だったのではないでしょうか。父なる神は、子なる神イエスを被造者である人類とは比ぶべくもない最愛の存在であった筈です。ご自身と一体、同一同質の存在のイエスが自ら死へと向かわれることほど、神にとっての「苦難」は他にあり得ない筈ではなかったでしょうか。人類が滅亡するよりももっともっと受け入れがたい事ではなかったでしょうか。
 それでも子なる神イエスは、父なる神が創造したもうた人類という父なる神にとっては、離れてしまった「こどもら」をもまた、ご自身同様に愛しておられることを、他の誰よりも,否、主イエスのみが、もっともよく知り給ふていたのです。神が愛する人類を、再び神の子どもらとして父のみもとへと送りとどけることを、主イエスは、神のため、人類のために決断したもうたのです。この決断は、だから、父を愛する子として主ご自身が決断したもうた事でした。父なる神は、この決断に苦しみたもうた。子を喪うことほど親にとって辛く苦しいことはありません。父なる神は、この苦しみを黙って見守り続けるしかなかったのです。親として子が親を思い決断した事です。どんなに辛く苦しくとも見守るほかはない痛みを神は耐え続けました。
 この痛みは、人類をわがもとへと送り届けようとする子の愛をよく知るがゆえに、耐えねばなりません。
 この神の痛み、苦しみ、忍耐こそが、神の愛のしるしです。この愛のしるしをこそ、「父なる神の栄光」と呼ぶほかはない、わたしには、このように思われてならないのです。

6.神の愛 苦難に耐える意志
    「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(34節)
    互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(35節)
   主イエスは、人類に、わたしたちに「掟」を授け給いました。
 この掟でも、「類比」が語られます。「~のように」という言葉が、「類比」を意味します。
 主イエスが、わたしたちを「愛されたように」と言われたからには、わたしたが「互いに愛し合う」ためには、どうしても、主イエスがわたしたちを愛された、その現実を私たちが知る必要があるということです。知らなければ、主イエスが私たちをどのようにして愛されたのかわからないのですから、主がわたしたちを「愛されたように」愛し合うことができません。
 ですから、わたしたちは、この「類比」を成就するためには、主イエスがわたしたちをどのよう愛しておられたのか,研究しなければならないのです。
 主イエスは、わたしたちを愛した、そのことはすべて十字架の死という主イエスご自身を、捧げたもうた一事にかかっています。主はわたしたちを父なる神のみもとへと送り届けるために、命を捨てたもうたのでした。「人、その友のために命を捨てる。これよりも大きな愛はない」と、主イエスは言われました。
 そうなのです。究極的な愛の実相は、友の為に命を捨てることです。犠牲の愛です。互いに互いのために命を捨てることを主は「掟」として授け給いました。
 では、日常の暮らしのなかで、具体的には、この犠牲の愛はどのように実践できるのでしょうか。
 実は、このことがいちばん大切なことです。
主が身をもって決断された「犠牲の愛」を、わたしたちは普段のありふれた暮らしのなかで、どのように実践してゆくのか。それは、なにか原則が示されているわけではありません。暮らしのなかの時間は刻一刻と移り変わります。状況は毎日変わります。具体的な状況のなかで、わたしたちも、決断を日々下す連続のなかに生きています。
 ひとつの提案をしたいと思います。
「主イエスなら、いま、ここでの状況で、どのように決断されるだろうか」と、ほんの少しでも考えてみる。そして、こころなかで、主イエスならば、このようになさるのではないかと浮かび上がってくる事を実践するようにしたらどうであろうか。主のみこころを尋ねながら個々の状況のなかで決断するということです。


2026年4月20日月曜日

 2026年4月19日 (復活節第3主日)

『まことの羊飼い』

ヨハネによる福音書10章7節~18節


1.羊の門、囲い

  主イエスのこれらの言葉は、比喩で満ちている。

  羊も比喩なら、門も比喩だ。

 比喩が指し示しているものは、「わたしは」という主語によって、限定されてくる。羊は、弟子であり、キリスト者であり、人類をも指すという具合に広がってゆく。

 さしあたって、聴き手のわたしたちは、羊とは、この「わたし」のことだと受けとめる。それでよい。

  「わたしは羊の門である。」と主イエスが語られるとき、羊としての「わたし」にとって、主イエスは「救い」の「門」である主イエスの前にいるのである。


2.自己選択権ということ

  「わたしは羊の門である。」と主イエスが語ってくださるとき、「わたし」には、通るべき門をはっきりと知っている。だから、そこには迷いはない。

 ところが、「わたし」は通るべき「門」が主イエスではない場合があるというのだ。

 その「門」は、主イエスよりも「前に来たもの」が、「門」を自称する場合の「門」だ。主イエスはその偽りの「門」を「盗人」、「強盗」と呼ぶ。この場合、「わたし」はこの「門」を通ってよいかといえば、良いわけがない。この「門」は、通ってはいけない「門」なのだ。

 この偽りの「門」が「わたし」の前にあるとき、「わたし」は、選ばねばならない。

 通ってはいけないが、通るか通らないかは、やはり選ばなければならないのだ。

 「わたし」には、どちらかを選ぶ権利がある。自己選択権があるのだ。

 善の道と悪の道がある。善の道を選ぶべきであることはわかっている。しかし、「わたし」は善の道と悪の道のどちらかを選ぶ権利があるというのだ。

 創世記の堕落の物語では、エバもアダムも、神の戒めを守る道と蛇の誘惑に乗って戒めを破る道の両者が、彼らの前にはあった。彼らには自己が行くべき道を選ぶ権利があったのであった。神の戒めを守るべきことはわかっていた。しかし、彼らは神の戒めを破る道を選んだ。

 この物語は、自己選択権という権利の恐るべき本質を教えている。


3.悪を選ぶ権利はあるのか

  偽りの「門」、すなわち、「盗人」、「強盗」の目的は、「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」。目的は明白だ。

 「盗み」、「殺人」、「滅亡」どれもが、「わたし」が願わざるゴールだ。誰もこんな目的地へ行きたいはずはない。しかし、エバもアダムもこの道を選んだ。ゆえにこそ、彼らの末裔の「わたしたち」の世界は、「盗み」、「殺人」、「滅亡」に満ち満ちているではないか。

 某国は公然と他国の石油利権を盗むと公言している。ミサイル攻撃で無辜の民が死んでも平気だ。文明全体を滅ぼすとさえ言いきる。こんな世界に誰がした。根源には自己選択権がある。こんなことを決断する為政者を選んだのは、「わたしたち」に他ならない。

 人は、悪の道を自由意志によって選択するかもしれない存在なのである。誰しもが願わざる悪の道を、人は選ぶかもしれない存在なのだ。

 「自己選択権」は危険な陥穽(落とし穴)なのである。

 自分で選ぶということは、自分では選ぶことが本来できない筈のことを、選ぶことができると錯覚することではないのか。

 たとえば、わたしたちは、人のものを盗むことができるとか、人を殺すことができるとか、人を貶めて滅ぼすことができるとか・・・・。

 偽りの「門」の目的は、このような事が蔓延することだ。けれどもわたしたちには、このような所業を選ぶことは、本当に「わたし」の選択の権利なのかと言えば、そんな権利が許される筈はないではないか。そんなことを選ぶ権利は本来ありえないはずではないのか。


4.羊は彼らの言うことを聞かなかった。

  しかし、幸いなるかな主イエスは言われた。

 「しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」と。

 主はあえて、過去形で、「聞かなかった」と言われた。

 そのこと(既に過去の既定の事柄だということ)が示す事は、羊が偽りの「門」を選ぶことはなかったと過去形で語ることにより、その事は、選ぶか選ばないかという選択の事柄ではなく既に決定済みの事柄なのだという意味にとれる。つまり、「選択」の問題ではないという事なのだ。「決定済み」の問題なのだと主は言われたのである。

 人類にとって、アダムとエバ以来の「悪の道」は既に過ぎ去った過去のことであり、主イエスによって開闢する人類の新たな歴史においては、人は、悪の道を選ばなかったという決定的地点が既に始まっているというのである。新しいアイオーンが始まっているのだ。

 換言すると、人は、善の道を選ぶか悪の道を選ぶかという自己選択権に、惑う必要はもうないということだ。人は、偽りの「門」、悪の道を選ぶ可能性は既に存在しないというのである。

 なぜなら「羊すなわち人類」は、主イエスを既に知っているからだというのである。

    わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(14節)


5.「わたしは羊の門」=神の先行的選び

  これは限りなき恵みの宣言である。

 〈善の道を進むか悪の道を進むか右往左往する自己選択権という自由の苦悩〉から人は解放されたという解放の宣言だからである。

 主イエスによってもたらされたイエス御自身の解放の福音のまえで、人は、ただ主イエスに従うという唯一の道を通る以外の道を選ぶ必要はなくなったのだ。

 主イエスという「門」は、「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける、と言われる道である。

 主イエスという「門」の前で、人は既に、主イエスという「門」」を知っていると主は言われる。

 「人」がすなわち「わたし」が、主イエスを知っているのは、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と言われたとおり、主イエスが「人」を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからに他ならない。

 人がイエスを発見するのではなく、主イエスが既に、人を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからこそ、「人」すなわち「わたし」は、主イエスを知っているのだ。

 ここに選択肢は存在しない。ただ、神の一方的な選びがあるだけである。

 「わたし」が、主イエスを知っているからではなく、主イエスが「わたし」を既に選んで知っていてくださるからこそ、「わたし」は主イエスを知っているのだ。

 ゆえに、この主イエスの先行的選びによって、わたしという人間が主イエスの前にたつとき、既にわたしは主イエスに捉えられた者であるがゆえに、主イエスを知っている。

 これを神の一方的な恵みといわずにおれようか。


6.雇い人

 雇い人もまた何者かを比喩している。

    羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――(12節)

    彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。(13節)

    ここで深く立ち入って解釈する必要はない。

 主イエスは「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる人」を引き合いに出しているのだ。

 辛辣な宗教批判なのである。主イエスは、危機に瀕して逃走する人を引き合いに出して、「羊」のことを心にかけていない事実こそが、「羊飼いと雇い人の違い」だというのである。

 羊の世話を委されていながら、心にかけておらず、危機に瀕すれば遁走する無責任な者を揶揄している。

 厳しい宗教者批判だ。

 主イエスは、どこまでも、個々の具体的な、固有な存在に固着してゆかれる。いつもいつも「一人の人」をみつめておられる。個々の固有な存在を、主はみつめておられる。

 羊飼いは一頭一頭の羊の存在をこよなく大切にする。しかし雇い人はそうではない。自分だけが助かることにしか関心がない。


7.この囲いの外に   「囲い」の消滅

    わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(16節)

  主イエスの「一方的な先行的な選び」は、「門」の中、すなわち囲いの中の「羊」たちだけが対象なのではない。囲いは「狼」のような外敵から「羊」を守る防護柵のことだ。「羊」を守るためには「囲い」が必要なのだ。

 しかし、主イエスは言われた。この囲いの外にも、「羊」がいる。この「羊」もまた「一方的な先行的な選び」の対象だというのだ。

 「囲い」は、防護柵なのだが、ともすると、「壁」に変質しかねない。差別のための自己正当化になりかねない。「壁」の中の人間のみを守り、外の人間を排除し、外敵化する人間の罪がそうさせる。

 しかるに、主イエスは,常に「囲い」の外に、「わたしの声を聞きわける羊」に心にかけたもう。人のこころの中に蔓延る「壁」を不断に崩壊させて、遠くへ遠くへと「羊」を捜したもうのだ。主イエスは、「囲い」の中の羊を放置してでも、どこまでもどこまでも「迷える子羊」を捜し求めてゆかれるのだ。

 こうして、世界中の羊は、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

 この事は実現するとき、容易に「壁」に変質する「囲い」は必要なくなる。

 主イエスのこの宣言は、終末論的な希望である。主イエスが神だからこそ言い得た言葉としか思えない。

 ここには、世界大の共同体が、「一つの群れ」となるという理想世界実現の確証が語られている。人間の語り得る言葉ではない。神にしか語り得ない。究極的な希望の宣言だ。


8.十字架の死と復活の意志 

    わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。(17節)

    だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(18節)

 「わたしは良い羊飼いである」という宣言は、十字架の死と復活の出来事の予告であり、意志表示として理解されなければならない。

 実は、人は、死ぬことができない。

 人はやむなく死ぬのだが、死ぬことができるから死ぬのではない。人は死ぬことはできないのに死ぬのだ。なぜなら、死ぬ事が出来るのはただ神のみだからである。

 神は死ぬことができる。なぜなら、再び生きることができるからである。神はいのちを捨てることができるし、いのちを再び甦らせることもできる。だからこそ、死ぬ事ができるのである。再び生きることができる方のみが死ぬ事ができるのである。

 しかるに、人は、地上の生を終えるが、それは死ぬ事ができるという意味ではない。死ぬ事ができないのに、やむなく死なざるを得ないのだ。このやむなき地上の死は「死が支配する」だ。この「死」とは「神と人との関係喪失性」を意味する。神なき事、神喪失性こそが「死」の本質である。

 この「死」(神喪失性)はキリストの「死」によって滅ぼされねばならぬ。

 「死」(神喪失性)の「死」だ。実に「死」は十字架の死に呑み込まれたのである。

 人は、死ぬ事ができる神によって、再び生きるいのちに与って甦る希望によって、死ぬ事ができるようになる。

 人は、キリストのいのちに与って甦る希望があるとき、はじめて地上の生の終焉を迎える勇気を与えられるのである。

    わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(10節)

  「死」の「死」、すなわち復活の希望によってこそ、人は死ぬ事ができるのである。キリスト・イエスによって「羊が命を受ける」からである。

 主イエスは、明確に、「羊」すなわち「わたし」の「命」(甦りの命)を与えることを、このみことばによって確約されているのである。「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」との宣言は、羊すなわち「わたし」が「いのちを受けるため、しかも豊かに受けるための確証に他ならなかった。

 主イエスは、神の独り子なる神として、全人類を「羊飼い」として、永遠のいのちを与えんがため、来られた。

 その確証は、全人類にまで及んでいる。

 わたしたちは、ただ主イエスの御前で、主に従うだけで、既に主イエスの「門」を通っているのである。

 諦めてはならない。主イエスの前に立つとき、「わたし」は既に、主イエスに知られている。

 知られている「わたし」は「主イエス」でありたもう「天国の門」を通るべく、主の御声を聴き分けることができる者と変えられている。

 救いは、既に確定しているのだ。ここに迷いはない。


2026年4月6日月曜日

 2026年4月12日復活節第2主日

ヨハネによる福音書20章19節~31節

『復活顕現』



1.不思議に思う事

 甦りの主イエスが、突如として弟子たちの前に出現した。彼らは家の戸に鍵をかけて潜んでいたのだ。

 この家の中で、わたしが不思議に思うことがある。

 それは、弟子たちの「恐怖心」だ。彼らがユダヤ人たちを恐れていたのはわかる。このことが不思議なのではない。彼らはナザレのイエス、ガリラヤ人の仲間、弟子だというだけで、主イエスを殺害し狂ったように敵愾心をもって捜し回っている敵対者たちが、そら恐ろしかったのだ。この心理状態は、紛れもなく主イエスを裏切ったペトロの心理と同質のものだ。

 弟子たちは、主イエスの仲間、弟子だということを隠したいのだ。自分たちも捕縛され、刑罰を受けるかもしれないという恐怖に囚われていたのだ。だから、鍵をかけて誰にも居場所を知られないように、潜んでいたのである。こういう「恐怖心」に、彼らが落ちこんでいるという事情がよく伝わって来る。

 彼らは、なるべく別々に行動しないようにしていたのだろう。個別に行動して、敵対者にそのうち誰かが捕まったりしたら、ペトロがイエスを裏切ったように、仲間を裏切らないとも限らない。疑心暗鬼になりたくはないのだ。だから、なるべく一緒にいよう。捕まるときは、一蓮托生だ。みなで捕まろうではないか。そんな自暴自棄にもなっていたもかもしれない。彼らはひたすら怖かったのだ。逃げたかったのだ。

 そんな彼らの前に、甦りの主イエスは、瞬時に現れたのである。わたしが「瞬時」だと思うのは、このとき、主イエスは、戸をあけて入ってきたのではなかったからだ。戸をあけて入ってきたのであれば、瞬時とは言えない。戸を開ける動作、歩く動作が必ずあるからだ。動作があれば、そこにはある程度の時間経過があるはずだ。だから、この経過時間があったのであれば、彼らはその経過時間のあいだ、主イエスを見続けていたことになる。

 ところが、甦りの主イエスは戸をあけて入ってきたのではなかった。

     そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(19節)

   突如として、甦りの主イエスは、彼らの「真ん中」に立って、「シャローム」と言われたとういうのだ。

 だから、このイエスの出現は、突然の出来事、瞬時の出来事だと云わねばならない。イエスは鍵がかけられていた家に鍵に触れもせず、戸を開けもせず、「来た」のである。甦りの主が、彼らの真ん中に立って、一見して彼らと少しも変わらない「身体」をもった存在として「来た」。甦りの主イエスが、「甦りの身体」をもった存在として、弟子たちの前に、現にいる。少しも変わらない身体であるのに、鍵をあけず、戸を開けもしないで、瞬時に出現したのであった。

 ここに第1の不思議がある。

 同じ「身体」であるにもかかわらず、同じ「身体」ではありえない「甦りの身体」として、主は今、ここにおられるのだ。不思議としか云いようがない。

 そして、第2の不思議が弟子たちに起きた。

    そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(20節)

 「恐怖心」でいっぱいだった弟子たちが、甦りの主の「出現」を経験して、「喜んだ」のだ。

 「恐怖」から「歓喜」へと変化したのはどういうことか。不思議ではないか。あの怖れは、主イエスと仲間だと思われることが、自分の身を危うくする事から来ていた恐怖心だった筈だ。それがいま、主イエスと会って、イエスの弟子として喜んでいるのだ。恥ずかしくないのかと思ってしまう。あれほど、イエスの仲間だということを恥でもあるかのように、ひた隠ししたペトロと、まったく同じ質の恐れに落ちこんでいた彼らは、いま、イエスを会って喜んでいる。どういう心境の変化なのだろう。彼らは単に、『沈黙』に登場する「キチジロー」のような弱く卑怯な人間にすぎないのか。


2.何かが変わった

    イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)

    そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。(22節)

    だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(23節)

  弟子たちの「喜び」には、何かが変わったことの兆しが感じられる。そう考えなければ、この「不思議」さはただの謎に終わるだけだ。弟子たちの人格に、何かが起きたとしか考えられない。さっきまで恐怖に怯えていた彼らと、いま喜んでいる彼らとは、まったく同じ弟子たちではあっても、まったく別の人格が彼らのなかで現れ出てきたとしか考えようがないのだ。

 喜んでいる彼らは、もはやさっきまでの小心者たちではない。彼らは、甦りの主イエスに出会って、別人格の存在と、既になってしまっているではないか。


3.派遣の類比

   甦りの主イエスは言われた。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。 

 この言葉には、類比がある。

 類比とは何かというと、「~のように」という言葉が意味するものを類比という。

 「父なる神が主イエスを遣わしになった。」

 父なる神の主イエスの派遣の出来事と「同じように」主イエスが弟子たちをお遣しになる。つまり「父なる神」の「子なる神イエス」の派遣と、「子なる神イエ」の「弟子」の派遣は、この「~ように」という関係の類比となっているのだ。

 この類比の関係は、対応関係になっている。

 この類比が成り立っているという事は、何を意味しているのか。

 弟子たちが主イエスによって派遣されたという事実は、神とイエスの関係に対応している。主イエスの存在と弟子の存在との間には、神とイエスの関係の如き(ような)関係が生起していることになったことを意味するのである。

 とんでもない事が起きていたのである。主イエスが弟子たちを派遣したという事実は、弟子たちが主イエスのごとき(ような)存在へと変えられているというのである。何かが変わったと、わたしが感じたのは、このことだ。弟子たちは、聖なる者とされたのである。

 

4.聖霊を受けよ

   聖霊の原語はプニューマという。この言葉は「息」をも意味する。まさに主イエスは、息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたのだが、「息を受けよ」と言っているに等しい。

 神の息は、生命を与える。アダムは神の息を吹き入れられて生きる者となった。キリスト・イエスの息を弟子たちは吹き入れられて生きる者となったのである。キリストの生命に生きる者となったのである。

 

5.聖霊の生命に変えられる「聖化」

   このように考えることができると、あの「不思議」は、感嘆に変わる。そうか、それでわかった。あの主イエスを裏切った卑怯なペトロが、どうして殉教をも厭わない聖ペトロに変わったのか。合点がいった。ペトロは昔のペトロではなくなったのだ。聖なる者となったのだ。

 主の派遣の命令によって、彼はまったく新しいキリストの生命のごとき生命を生きる者とされたのだ。

 わたしが、感じた「不思議」体験は、主イエスのみことばによって氷解した。

                 

6.「不信のトマス」

   ディディモと呼ばれるトマス。みなさんよくご存じの「不信のトマス」の出来事が、次に登場します。

    そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」         (25節)

 トマスは、仲間の証言では、甦りの主イエスの顕現を信じないという懐疑の人であった。彼は自分の認識力を信じて、仲間の証言を手放しで受け入れることを拒否する強い意志の持ち主だったようである。2千年前の古代社会にもこんな慎重な精神の人がいたことには少しく驚きを禁じ得ない。ある意味では、石橋を叩いても渡らないという慎重さは、詐欺やフェイクが横行する現代でも必要な態度とも言えそうである。

 彼は他の弟子と同じだとも言える。トマスは他の弟子が先に甦りの主イエスに出会った時に、そこに居合わせなかっただけだ。他の弟子たちは、現に甦りの主イエスに出会っているから、信じるも信じないも現に会っているのだから、信じない事はできない。会っているのに会ったことを信じないとは誰も言えないからだ。でもトマスは、まだ会っていないのだ。条件としては、甦りの主イエスに出会う前の他の弟子と同じなのだ。トマスだって,実際に会ってみれば信じないということは不可能になる。他の弟子と実は条件はまったく同じなのだ。

 ただ、トマスだけは、最初の主の顕現の時に,その場に居合わせなかったにすぎないのである。

 だから、トマスの不信というのは、少しかわいそうな気がする。他の弟子も条件は同じなのだから。

 

7.「決して信じない」

  トマスだけ単独行動していて、主の顕現の現場に立ち会うことがなかった理由が気になるが、それはさておくとして、彼の「決して信じない」というきっぱりとした断言には、いくぶん寂しさを感じないではない。

 自分一人だけ、甦りの主イエスに会わなかったということが、彼の心の傷になったのかもしれない。他の弟子たちだって、受難の死と復活の予告を聞いていたのに、主の言葉を信じられないでいたという点では、トマスと何の差もない。頑なに「決して信じない」と言いきるのは、自分一人、置いてけぼりをくったという痛みから来ているのかもしれないのだ。そう考えてゆくと、トマスには同情できる。


8.信じない者ではなく、信じる者になりなさい。

    それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)

   「信じない者ではなく」と主は言われた。まるで、トマスが「決して信じない」と言いきったあの言葉を知っているかのようにである。

 ところで、わたしにはこの主のこの言葉からは、深い愛が感じられる。寂しい彼の心のうちをすべて知っていているかのような言葉に聞こえる。

 すると、トマスは、即座に答えた。「主よ、わたしの神よ」。

 ここで注意すべきは、トマスは手のみ傷に指を当ててもいないし、脇腹に手を差し入れてもいないことだ。

 彼は即座に、「主よ、わたしの神よ」と信仰を告白しているのだ。彼は自分の認識力による「確認行為」は何もしていない。彼にとって、そんなことは実はどうでもよかったようにしかみえない。彼はイエスの愛に触れて感動している。自分の手で触り、自分の目でみないうちは決して信じないと言っていたのに、彼は触ってもいないし、目で確かめようともしていない。彼は主に出会った瞬間、信じないではいられない存在へと変えられているのだ

 

9.見たから信じたのか

    イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)

 主イエスはトマスに、このように語ったが、実はトマスにとって、認識手段による確認などもうどうでもよかった。トマスは見て信じた訳ではないのだ。イエスの愛の言葉に触れて彼は感動して、人生がひっくり返ったのだ。

 だから、主のこの言葉は、トマスを「代理」としている背後の存在者である全人類に向けて語っておられたのである。

 見ないのに信じる人は幸いだという言葉の意味は、トマスの背後に存在するすべての人を指し示して、言っているのだ。人類は、もう既に甦りの主イエスを肉眼で「見て信じる」ことは不可能となっている時代に生きているからだ。

 さらに言えば、現代、目で見ることには、実に多くの虚偽が存在する。もう「見たら信じられる」ことは不可能なのだ。見たように信じる事は危険な時代になっているのだ。実際見るものは疑わしいのだ。

  信仰とは、聴くことによる。見て信じる信仰は偽者だ。信仰は、神の言葉を聴くことによって、生起する。

 だから、見るのではない。信仰は見ることによっては起こらない。見ないで信ずることが、本当の意味での信仰なのだ。見ないで信じる。それは神の宣教に聴くことによって信じる出来事が、奇跡として生起するということなのである。 

 ここに、教会の宣教の根拠がある。だから、教会の内部でこそ、甦りの主イエスの言葉を聴くことが、こよなく重要なのである。

 

10.魂の家の真中に立つ甦りの主イエス

   弟子たちが隠れ潜んでいた家は、わたしたちの「魂」を比喩している。甦りの主イエスは、鍵をかけたわたしたちの「魂」の戸を開けずとも、「魂」の真中に顕現されたもうのである。

2026年4月4日土曜日

 2026年4月5日(日)(復活日主日)

   復活日主日

『キリストの復活』

マルコによる福音書16章1節~8節

主イエスはここにおられない。


マルコによる福音書16章1節~8節
1:安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエ
    スに油を塗りに行くために香料を買った。
2:そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
3:彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」
    と話し合っていた。
4:ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に
    大きかったのである。
5:墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたの
    で、婦人たちはひどく驚いた。
6:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ
    のイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられな
    い。御覧なさい。お納めした場所である。
7:さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたよ
    り先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかか
    れる』と。」
8:婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、
    だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


1.弟への想い
    先月15日に、わたしの弟は、わたしより先に天へと旅立ちました。弟はエンバーミングという処理をされて、死後1週間後の主日に、わたしの司式で、家族に囲まれながら最期の告別式を迎えました。
  エンバーミングとは、遺体は死後硬直のあと、急速に腐敗するので、全身の血液を防腐剤と入れ替え灌流固定することを云うそうです。この処置によって、死後の自己融解を最小限に抑え生きた状態に近い形態を保持することができるということでした。
 遺体となった弟は、驚くほど母に似ていました。やがて、私自身もこのように看取られる日が来るのだなと思いつつ、幼き日からの彼との思い出が、走馬灯のように思い起こされるのでした。
 そして、思ったものです。弟も主イエスに愛されていたなと。神から愛されたからこそ、人々を愛する医師という仕事をこよなく愛したのだと。
 そんな弟が、神のみもとへと旅立ったのだと、わたしは心から願い祈りました。
2.イエスの死後も大祭司は恐れていた
   主イエスが十字架上で絶命された翌日から、ユダヤ教の安息日だったので、イエスの葬りは慌ただしく執り行う必要がありました。最高法院の議員でもあったアリマタヤのヨセフが、許可を得て、主イエスの遺体を引き取り、しかるべく丁重に葬りました。墓は大きな岩をくり抜いた大きなものだったようです。入口は大きな石で塞がれ、ローマの封印がなされたことでしょう。遺体
が盗まれることを恐れたのです。墓場には見張りが配置されるほどに用心深く警護されたのは、イエスが復活すると予言していたからです。
 大祭司カイアファらは、主イエスを神の冒涜者として殺害すべしと目論んでいた反面、イエスの死後も、イエスの存在に脅威を感じていたのです。
 本当に復活したとしても、弟子たちによって遺体が盗まれたにせよ、どちらであろうと、イエスの影響力が雲散霧消するとは思えなかったのです。
 死人を甦らせたイエスだ。自分自身が甦らないとは限らない。心の片隅では、イエスの復活をなかば信じ、なかば恐れていたのです。だから厳重な警備を要請したのです。
 事柄上、それゆえ、甦りが信じられるか信じられないかという問題ではなかったのです。ファリサイ人は死後の復活を信じていました。イエスは復活するかもしれない。
 そう彼らが半ば本気で信じていたと、わたしには思えるのです。けれども、イエスが復活したとしても彼らにとっては、イエスがキリストであるという信仰の告白には至らない。復活の主イエスに出会ったからといって、即信仰に至らない者も実際にはいました。だから、復活が信じられるか信じられないか
は、敵対者たちには問題とならない。もし、本当に復活したのであれば、それはイエスの弟子たちの隠謀論だと噂を流せばよい、そう彼らは考えたからです。
 敵対者たちが、主イエスをキリスト(メシア)と信じるようになるためには、神御自身の選びの御業をたまわる出来事が生起しなければなりません。そして、その出来事が起こらないとも限らないのです。現実に、敵対者であったサウロは、復活の主に出会い、瞬時に信じる者へと変えられたのです。
3.油を塗るために
 厳重に見張られていた主イエスの墓に、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメらが、週の初めの朝早く、向かいました。
      彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。(3節)
  女性の力では、到底重い石をどかせることはできませせん。彼女たちは入口を塞いでいる大きな石をどかす算段など何も考えずに、ともかく入口まで行ったということになります。思慮が足りない。助けのあてもないのにも関わらず、駆けつけたという風情です。混乱していたのです。
 香料も買ったようですが、決して安価なものではないはずなので、彼女らにとってイエスがどれほど慕わしい存在であったかをうかがわせます。それにしても婦人たちの行動力には驚かされます。決して思慮深いとは言えませんが、その即座の行動の素早さは、彼女らの思いの深さ、強さを感じます。
 それにしても、入口の石をどうやって動かすつもりだったのでしょうか。もし石を動かす助けがいなかったら、彼女にはどうすることもできないでしょうに。あとさきを考えず、ともかく行こうではないか、という行動には無謀さすら感じます。
   内臓は死後6時間後には既に腐敗が始まり、48時間後には自己融解する
と言われます。主イエスも死後48時間をゆうに経過しているので、自己融解し、遺体ならば、強烈な腐敗臭や血液が漏出している状態になっていても不思議ではありません。
 どんなに高価な香料でも、強烈な腐敗臭を防ぐ事は困難だったろうと思います。焼け石に水です。それでも、彼女らは、ご遺体に一目会いたいとう思いで墓に来た。
  それにしても、なぜ男の弟子たちは動かなかったのか。まだ恐れていたのか。婦人たちの決然とした行動力とは、あまりも対照的な男の弟子たちの姿です。
4.転がされていた入口の非常に大きな石
      ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。(4節)
   「目を上げてみると」とあるので、墓は小高い丘の中腹にあったのでしょうか。
 あるいはもっと象徴的な意義を表象しているのでしょうか。つまり、彼女らは、「上」を仰いでいるのです。彼女らは、ただの石の移動後の状況を見たのではなく、神の大きな力を見たということです。彼女らは自力では到底動かせる筈もない大きな石であったにも拘わらず、途轍もなく大きな力が、この状況下で人力をはるかに超えた力が働いて、非常に大きな石が転がされているという驚くべき現実をみたというのです。
 既に、封印が解かれて入口から大きな石は転がされていました。
   彼女らは、神の啓示の出来事を、ここで既に経験しはじめていたというべきです。なぜなら、入口の石は、神の力でしか転がすことは不可能だということは、彼女たちは知っているからです。墓の中に入ること自体が奇跡なのです。
5.白い長い衣を着た若者
      墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。(5節)
  わたしたちはあえてマルコによる福音書の記述だけを通じて、神の啓示の出来事を黙想しましょう。
 墓の中に、彼女たちは入って行きます。
 ここに遺体独特の腐敗臭の痕跡すら書かれていません。それどころか、主イエスのご遺体は影も形もありません。すなわち、主イエスはここにはおられないのです。
 そればかりか、彼女たちを驚かせたのは、白い長い衣を着た若者が右手に座っていたのです。
 その若者が一体誰なのか彼女らにはわかりません。
 見た目の姿形によっては、若者が誰であるか分からないのです。この正体不明の若者が「長い白い衣」を着ているのは、あの基督の変貌の時の、主イエスを彷彿とさせますが、主イエスその人ではないことは明らかのようです。姿形が主イエスであれば、彼女らは、「主だ」とわかるはずだからです。ただ彼女たちにとって、この長い白い衣を着た若者が「神の使い」「天使」のような存在だということを感じとるには充分だったようです。彼女らの驚きは、「神の使い」を間近に見たという驚きだったのです。
 婦人たちは、この若者と出会ったことで、神の使いと出会ったと感じたということなのです。
6.あの方は復活なさって、ここにはおられない。
      若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。(6節)
   わたしたちは、この「若者」をあえて、「天使」と呼びましょう。婦人たちも、おそらくそう感じたと思うからです。
 最初に「若者」が告げた言葉は、第1には、婦人たちが主イエスを捜し求めているという事実。第2には、「主イエスは復活されて、ここにはおられない」という事実。第3は、この墓の中に、十字架で殺害されたイエスの遺体が安置された場所で間違いないという事実の三つでした。
 天使の告知は、主イエスの、この墓の中にはおられないという主イエスの不在がイエスの復活を意味しているのだという内容だったのです。「空虚な墓」の事実でした。
7.「空虚な墓」が意味するもの
    マルコによる福音書の「復活」証言は、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」という「イエス不在の告知」でした。復活の主イエスとの直接の遭遇は、マルコによる福音書においては記述されてはいないのです。他の福音書では、明確に復活の主との出会いは記録されているのに、マルコによる福音書だけは、「不在」がイエスの復活を指し示しているのです。そして、
次に天使が告げた事は「ガリラヤ」へ行けという命令でした。復活の主イエスとの実際的な出会いは、「ガリラヤ」で生起するという予言でもありました。
 先に述べたように、わたしたちは、マルコによる福音書に即して、婦人たちと復活の主イエスとの出会いを黙想しています。
 この「空虚な墓」での出来事は、まぎれもなく神の啓示の出来事の経験でした。彼女らは「上」を見仰いで、墓の入口の非常に大きな石が転がされている奇跡を経験しました。そして、墓の中に入り、本来遺体が安置されているはずの場所には、主イエスは不在であった事実に出会ったのです。
 神の啓示の出来事の内部で、神の不在を経験したのです。
   しかも、彼女らが主イエスを捜し求めているはてに、主イエスの不在を告知されるのです。なんという逆説( 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現)でしょう。捜し求めている先に、神と出会うという筋書きならば、それはそうだろうと納得できそうなものなのに、そうはいかないのです。しかも、この不在との遭遇は、彼女らが圧倒的な
神の奇跡の真っ只中で遭遇するのですから、複雑です。
 どう言ったらよいでしょうか。
 人は求道心の結果として神と出会うということでは、どうもないらしいというのです。そうではなくて、人はいかに浅慮短慮であっても、遮二無二に、神を思慕する決然たる一歩を踏み出してゆく時に、神が大きな石を転がしてくださったように、神はその時自らを開示してくださるというのです。しかし、それでも、その神の自己開示という奇跡の真っ只中で、人が遭遇するのは、「神の不在」という啓示だというのです。さらにもう一度しかし、この「神の不在」こそ、未来の「ガリラヤ」で、復活の主御自身を相まみえるというのです。つまり、復活の主イエスとの出会いは、たとえ、今・ここでかなわないとしても、やがて来る将来において(ガリラヤ)、必ずや復活の主イエスは、御自身と出会ってくださるということなのです。かかる意味において、女性たちこそが、人類ではじめて復活の主イエスに出会った人々だったのです。