2026年9月20日(日)(聖霊降臨節第18主日)
ヘブライ人への手紙9章23節~28節
『キリストに贖われた共同体』
『キリストに贖われた共同体』
ヘブライ人への手紙9章23節~28節
23:ですから、天にあるものの雛型は、これらのものによって清められねばなりませんが、天にあるもの自体は、これらより優れたいけにえによって清められねばなりません。
24:事実、キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今や私たちのために神の前に現れてくださったのです。
25: それも、毎年自分のものでない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストは、ご自身を何度も献げるようなことはありません。
26: もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、ただ一度現れてくださいました。
27:そして、人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっているように、
28: キリストもまた、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです。
1.百万遍
京都に百万遍というところがあります。浄土宗知恩院は、正式名称を浄土宗大本山百万遍知恩寺というそうです。そこから京大前の交差点あたりの一体を百万遍というそうになったということです。念仏を7日間(もしくは10日間)のうちに100万回唱えることで目的が成就されるという信仰に由来するそうです。
元弘元年(1331年)第8世善阿空円のとき、京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により善阿空円が念仏百万遍を行ったところ疫病がやんだことから「百万遍」の号が下賜さたのだそうです。
百万遍念仏とは、自身の往生、故人への追善、各種の祈祷を目的として念仏を百万回唱えることだそうですから、人が祈祷を数限りなく唱えることによって目的が達成できるという思想が背後にはあることになりそうです。
このような思想は、法然の説く専修念仏、称名念仏の教えとどう結びついているのか、わたしにはわかりません。
しかし、念仏を数限りなく一意専心して唱え続けるというのはある種の「修行」のように思えますので、それはやはり、「人の業」によって「功徳を積む」という積善行為なのでしょう。
そういう意味であれば、パウロの信仰義認とは明らかに異なります。わたしたちの信仰は、人の行為・業によって救いを得られるとは考えないからです。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 ローマ書3章23節~24節
徹頭徹尾神の絶対的恩寵(恵み)によってのみ、人は救われるのです。
カトリックにはロザリオ、正教会にはコンボスキニオンがありますが、プロテスタント教会は、このように修行のような祈祷は棄ててしまいました。やはり行為義認、つまり人の行為によって、神に近づくことができるという思想の残滓だからではないかと思います。
2.動物供犠
旧約時代の祭司は、動物を犠牲として神に捧げて「贖罪」できる説いてきました。山羊や仔牛の血を流すことで、人の犯した罪を神に免じていただけるという思想が前提にあったのです。ですから、人は自分が律法を守れずに罪を犯すたびに繰り返し犠牲獣の血を流す必要があったのです。
主イエスは、神殿に犠牲の動物を売り買いする人々を蹴散らしました。「宮清め」です。
主イエスが、神殿はわたしの父の家は「祈りの家」と唱えられるべきだと激怒したのは、犠牲の動物の血を流すことで、人の罪が贖われるという信仰観そのものを粉砕する意味があったはずです。
25: それも、毎年自分のものでない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストは、ご自身を何度も献げるようなことはありません。
大祭司は、「贖罪」のために、何度でも犠牲の儀式を繰り返さねばなりませんが、それによって神と人とのあいだの関係がどうにかなるということは金輪際あり得ないのです。
ただし、神さまご自身が、捧げよと命じるならば、そこには必ず神の意志があるのですから、そこには意味があります。神さまの要求ですから。
アブラハムは、息子イサクを捧げよと命じられたとき、彼は逡巡したに相違ないのですが、彼は神さまの命令に従いました。しかし神は、アブラハムが息子を捧げようとした刹那に、彼を引き留められました。アブラハムのイサク献祭の意味は、たしかにあったのです。
アブラハムの苦悩は、わたしたち人類が独り子なる主イエスを十字架に渡さねばならない父なる神の苦悩・痛みを知るために、どうしても通らねばならなかった苦闘だったのです。
3.繰り返しても贖罪にはならない
知恩寺8世善阿空円がたとえ百万遍専修念仏を完遂したとしても、罪の贖いにはなりません。無限に祈りを繰り返したとしても、罪の贖いにはならないのです。
動物の血を流しても、人の罪の贖いにはならないし、それを百万遍繰り返しても、神さまとの関係を、人の業によって修復したり、「再創造」したりはできないのです。
被造物(神によって創られた存在)は神さまではないのです。神さま以外に何ができましょう。神さまご自身が神の独り子を十字架に捧げなければ人の罪は贖われることはないのです。
4.偽預言者・偽キリストを見破る基準
偽預言者、偽キリストたちを見分けるための基準がここにあります。それは贖罪観にあります。
罪の贖い、神さまと人との間が関係喪失となったということが、人の原罪なのですが、原罪を贖う、つまり贖うというのは買い取るという意味です。罪の奴隷となった人を神さまが買い取って自由人にするという、そもそもそういう比喩的な術語です。
神さまだからこそ、罪の奴隷であるところの人間を買い取って自由にする、解放することができるのです。
それを、人の力で人の罪を買い取ることなどは、そもそも不可能なのに、できると言うのであれば、それは人間を神さまの上に考えているということになるでしょう。
だから、贖罪観において、人が人の罪を贖えるという思想を標榜する者がいたら、それは間違いなく偽預言者であり、偽キリストなのです。
人間が人間の罪を買い取って、罪をなきものとできるという思想は、人間の力でできるというのですから、それは人間の行為によってできるということになります。そうであれば、人間は、その行為をどれだけすれば罪を帳消しにできるでしょうか。それは数限りなくその行為をしなければならなくなります。そしてどれだけ、その行為を繰り返せば、罪を贖い終えたと言えるのかという問題がありますが、それを確認する方法は厳密に言って有り得ません。どれだけ繰り返したら、「もう罪はなくなった」と言える認識に立てるのかと言えば、そんな認識に立ったと豪語する時点こそ、最も罪深い地点でしょう。 ですから、罪の贖いを繰り返ししなければならないという思想を標榜するとしたら、その者は間違いなく偽預言者であり、偽キリストです。 人が罪を清算できるという思想、そして罪を清算(帳消し)する行為を繰り返ししなければならないという思想は、偽預言者の思想であり、偽キリストの思想なのです。
5.ただ1度限り
28: キリストもまた、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです。
主イエスは、罪の贖いのために「ただ1度」限り「身をささげられました」。ただ1度限りということが極めて重要な事なのです。
贖罪は、神の御業です。神の御業だからこそ「ただ1度限り」なのです。2度目があるということは、1度目では不十分だったということになります。不十分だというのは、神の御業の絶対性、全能性、完全性を否定することになります。言葉を換えれば、神さまが神さまでなくなってしまうことになります。そんなことは不可能です。神さまは神さまであって神さまは不完全なことをなさる事は不可能だからです。独り子なる神キリストを何度も十字架にかけることなど不可能なのです。十字架は完全な贖罪なのです。
6.2度目は救いをもたらすため
2度目とはキリストの再臨のことです。主イエスは再び来臨されると予言されました。それは「審判」です。「審判」だからこそ、わたしたちにとっては「救い」なのです。再臨は、「罪を負うためではなく」です。罪を負われるのは十字架で完遂されています。再臨は、「救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです。」
「救い」とは何か。それは救い主イエス・キリスト信じることだと、主は言われました。主イエスを信ずる者たちは、主イエスと同じありさまへと「一瞬にして変えられる」と書いてあります。主イエスと一つなる存在へと変貌するのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿
感想などあればどうぞ。悪意ある中傷は削除いたします。