2026年3月8日(日)(受難節第3主日)
『受難の予告』
『受難の予告』
マルコによる福音書8章27節~33節
ペトロ、信仰を言い表す
(マタ16:13―20、ルカ9:18―21)
27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
イエス、死と復活を予告する
(マタ16:21―28、ルカ9:22―27)
31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
1.主イエスの最初の質問
主イエスは、弟子たちに問いかけた。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。
イエスが知らないはずはない。イエスと弟子は行動を共にしている。弟子たちが知り得る情報は、イエスも同じ環境の中にいるのだから、弟子の耳に入る事ぐらいイエスの耳に届く。イエスは所謂世評を聴きたい訳でもない。イエスが村々で行っていることは誰の目にも明らかだ。そのことで人々は驚き、ある者は、イエスを崇拝しだし、ある者は、いぶかしいと怪しむ。敵視する者も現れるほど評判になっていたことは衆知の事実だった。
人々は、洗礼者ヨハネの生まれ変わりのように感じる者もいあれば、預言者エリヤの再来だと思ったりもする。それぞれが勝手な想像をめぐらしていた。それくらいのことは、奇跡実行の当事者が知らぬはずはないのだ。
だから、イエスは知っていて、あえて弟子に問うたのだが、その意図は何か。それが問題だ。
2.イエスの2番目の質問
次に、イエスは弟子たち自身が師であるイエスをどのように思っているかを問うた。
この問いもまた、イエスが知らないから問うているという事ではない。弟子はイエスに現に従ってきているのだ。イエスを信じているから行動を常に共にしているのだ。それに、弟子たちはイエスから直接召命を受けたり、師である洗礼者ヨハネが、「世の罪をとりのぞく神の子羊だ」と証言したからこそ、イエスの弟子になったのだ。彼らは、直弟子と言ってもよいのだから、イエスが「誰であるか」を知って従ってきていることは自明だ。あらためて、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問うのは、いったいどういうことか。その意図は何か。それが問題だ。
3.知りつつ問いかける意図とは何か。
たたみかけるようにして、イエスはご自身を、第1番目には世評。2番目には、直弟子たちの認識を、知っているにもかかわらず問いただした。
その意図は何か。
世評もペトロも、それぞれが、自分が信ずる「イエス像」をイエスに投影している。それはそれぞれがイエスに、自分自身が思い思いに、「自分が信ずるイエス」を、イエスに、映しだしているという意味だ。自分自身のイエス像は、期待であったり、願いであったり、理想であったり、人それぞれだ。共通しているのは、現実のイエスという人自身ではないということだ。
なるほど、さすがに第一弟子のペトロは「メシアです」と、きっぱり言いきっている。それは今日、わたしたちが信仰告白する信仰の対象である主イエス・キリストかというと、そうではない。
ペトロは、十字架上で殺され、三日目に甦り、天に昇られたイエスをいまだ知らない。
また、これから彼は死刑判決を受けるイエスを「知らない」と鶏が三度鳴く前に、シラをきったりもすることになる。
ペトロが「メシアです」と言っている事の内容は、その程度の認識にすぎない。「メシアです」と言いながら、自分自身の考える「メシア像」をイエスに押しつけているだけなのだ。だから、自己が描くメシア像と現実のイエスが矛盾すると、イエスを裏切る。裏切ったつもりはないが、実際裏切っている。自分が信じたイエスと違うので、自分が裏切られたとさえ思う。御門違いも甚だしい。自分が裏切っているのに、裏切りをイエスになすりつける。
4.メシア秘密
イエスは、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」ご自身をどのように言うのかという問いに、「メシアです」と応えたペトロに向かって、同時に居合わせた弟子たちに向かってだが、ご自分のことを「誰にも話さないようにと戒められた。
イエスが「メシア」すなわち、「キリスト」であることは、真実である。真実なのに、なぜ、イエスは誰にも話さないようにと戒められたのかと、疑問に思うかもしれない。福音書はなぜ、このような謎めいたイエスの言葉を残したのか。
真実を伝えるということは難しい。人の語る言葉は、神について語り得ない。わたし自身、聖書のみことばを語りつごうとしているけれでも、語る先から語り得ない困難を痛切に思わずにおれない。
イエスが神であるということを、「イエスは神です」と語れば、語ったことになるのかと言えば、それは、やはり「人の語ることば」という限界があると言わねばならない。
ペトロが、「メシアです」と応えた答えは、まったく正しい。まったく正しいが、正しいけれども、やはり「ペトロという人のことば」という限界があるから、正しい事柄を語ったところで、語られた「事柄」そのものの真実が伝わるということを意味してはいないのだ。
主イエスは、正しく福音を語ることの不可能性を知っていた。ペトロが、「イエスはメシアです」と福音を人に伝えたとしても、真実な事柄は伝わらない。
それどころか、ペトロ自身も真実な事柄を知らないのだ。知らない者に福音が伝えられることはない。
ゆえに、イエスは福音を、ここで伝えることを封印されたのである。『イエスはキリストなり』これは紛れもない福音だ。しかし、ここで主は、この福音を語る事を禁じたもうた。それは、ここで福音を語ることが福音を伝えることにならないからだ。
5.受難の予告
イエスは、ここでご自身の究極的目的を、はじめてお示しになった。
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(31節)
主は、人々には譬えをもって語られたが、弟子たちには、神の国の秘密を語ると言われていたが、いまこそ、秘義が語られたのだ。
しかし、ペトロには理解できない。彼には、イエスの語り秘密が理解できないのだ。彼には、彼自身の「メシア像」がある。イエスが受難するなどと、彼には到底受け入れがたいことだったのだろう。なんと彼は師にむかって「いさめ始めた」のだ。彼にはイエスがメシア=キリストであるという事柄の秘義が、何も分かっていない。
6.振り返って弟子たちを見ながら
主イエスは、このまるでイエスのことを理解していないペトロを最大級の,超弩弓の叱責を与えたもうた。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(33節)
ペトロの「メシア像」「メシア期待」の正体が、面と向かって暴露される。ここでイエスは苛酷なまでに非情だ。弟子に向かって「サタン,引き下がれ」と叱ったのだ。今日外見だけ見て、「パワハラ」だと非難されかねない強烈な叱責だ。しかし、主イエスがペトロを憎んで叱責しているのではない事は,明らかである。強い叱責は,強く叱責しなければならない必然があることを、知らねばならない。
イエスは、「振り返って弟子たちを見ながら」と振る舞った。この所作から、イエスがペトロだけに、事柄を伝えようとしているのではなく、弟子たち全員に伝えようとしていることがわかる。また「振り返って」という所作には、ペトロの身の程をわきまえない「諫め」を無視して、一息ついてから、叱責を叱責として、これから大切な事柄を君たち全員に伝えるという主イエスの「構え」がうかがえる。
ペトロは弟子たちを代表しているのだ。最も先輩格のペトロだからこそ、イエスは厳しく諭しているのだ。
ペトロの「メシア期待」は、人間的動機であった。「メシア期待」は、期待である以上は,人間的願望・欲望を源泉としている。根本動機が、そもそも不純なのだ。
神を信じるているということではないのだ。人間の事を思っているということは、すなわち神のことを思ってはいないことを意味していると、主イエスはきっぱりと明言されたのである。
7.群衆を弟子たちと共に呼び寄せて
弟子たちを叱責し、不純な宗教的願望を捨てて、神さまに起源する動機へと集中させようとされたイエスは、今度は、語りの対象を「群衆と弟子」へと変更された。
弟子たちだけでなく群衆へと向かわれたということは、ここで語られる事柄は、全人類にむかって、普遍的な戒めとして語られた事柄だということを意味する。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
(34節)
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。(35節)
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(36節)
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(37節)
神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 (38節)
8.福音の真実を伝えること
福音を伝えることは、ただ人の言葉の次元で語り伝えるということによっては不可能だ。そのような饒舌をイエスは禁じられた。
福音は、主イエスに現実として従うことによって伝える他はない。主イエスに従うことなのだ。「信従」なのだ。
「自分を捨て」ということは、宗教的願望に起源する利己的なメシア期待、「信仰のようなもの」を捨てよということだ。
「自分の十字架を背負って」ということは」、十字架の主に従う道を、主と共に歩むときに、自ずから己が十字架が何であるかが明確となるだろう。神と人を愛するなら、人は苦難を選ぶからだ。
「自分の命を救いたいと思う者」とは、永遠の生命を信じることができずに、自己一身の延命を隣人の生命よりも願う者だろう。そのような利己的人間は永遠の生命を見失う。
主イエスのため、また福音のため自分の命を失う者とは、地上の生命への拘泥を相対化し、永遠の生命を信じる者であろう。永遠の生命とはイエス・キリストを信じる事に他ならない。
「永遠の生命」の価値は、全世界の価値と比較をすら絶している。
9.主イエスの恥とならないために
審判は必ずある。最後の審判の時がやがて来ます。それだけではなく、いま・ここに,リアルに審判はあります。
心から恥ずかしいと思う事が、突如として心に去来することは、誰にでもあるだろうと思う。その時こそ、いま・ここでの審判なのだと考える。
その瞬間、神は、わたし自身の恥ずべきことを、示してくださっている。それは神の御前で、悔い改める機会を神が与えて下さっているのだと、わたしは考える。
この機会は、悔い改めのチャンスなのである。主の来臨のときに、主イエスの恥となることのなきように、神は、いま・ここで悔い改め、新たに生き直す再出発の時なのだ。
主イエスのみことばを、日々、繰り返し心に思い、主を偲びつつ生きることで、日々新たに生き直し生きるなら、終わりのとき、主もわたしを恥としないでくださると信じる。
受難の主と、今週も,日々新たに、生き直して生きたいと、祈る。
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