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2026年2月8日日曜日

 2026年2月8日(日)(降誕節第7主日)

マルコによる福音書2章1節~12節

『いやすキリスト』




              『いやすキリスト』

                          マルコによる福音書2章1節~12節

1.数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、

2.大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、

3.四人の男が中風の人を運んで来た。

4.しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

5.イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

6.ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。

7.「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

8.イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。

9.中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。

11.「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

12.その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

1.信仰心がないような人から感じる恐さ

   最近、年齢のせいなのかどうかわかりませんが、神さまへの信仰心がないなあという感じがする人と接すると、心にダメージを受けるというか、しばらく心が痛めつけられたような感覚に陥るのです。

 本人は、人を傷つけているつもりは、おそらくまったくないと自分では思っていると思います。けれど、信仰心について、ほとんど関心もなければ、場合によっては見下しているような感じが、そのことばづかい、その表情からにじみ出てくるものが、痛いのです。

 こんなことでは伝道などできないなあ、と思うのですが、たぶん伝道という事柄は、そういう痛みを受けとめて、逆に主イエスの愛をもって愛し返してゆくことなのだろうと、意を決して歩き出さないといけない。そんなことを考えている今日この頃です。

2.主イエスの愛の道は痛みの道

   苦難の道行きをされる主イエスは、ご自分に従ってきている「大勢の人たち」がやがては、主イエスを十字架につけ殺してしまう人たちのなかに紛れ込み、結果として主イエスを見殺しにする、裏切るということを熟知しながら、この「大勢の人」たちをみつめておられたのだと思うと、主のこころの痛みがなんだか、いっそう伝わってくるような気がします。

 肌感覚で、痛くなります。

 主イエスの苦難の道行きは愛する痛みの道なのだと実感します。

  愛するということは痛むことなのだということが、主イエスから感じられてくるのです。

3.四人の男が中風の人を運んで来た。

   「四人の男が中風の人を運んで来た。」しばし、この四人の男tたちに思いをはせよう。

 四人の男たちは集まった。友人であろう中風の人をイエスのもとへ連れてゆこうと、お互いに思いをひとつにしたのだ。

 彼らにも暮らしがある。仕事もあれば家庭もあったかもしれない。けれども、彼らは友人のためになんとかしたいと思い立ったのだ。一人が他のひとりに話した。そしてもう一人にもさらにもう一人にも話した。あの方のところへ彼を連れて行けば癒していただけるのではないか。四人の考えは、主イエスなら友人を癒してくださるという期待・願いで一つにまとまった。それで、彼らは普段通りの暮らしを中断することにした。仕事を休もう。他の用事もいったん棚上げにとすることにしよう。

 彼らには、中風の友人のため、彼らの暮らしを中断するという小さな犠牲を払うことになんの躊躇いもなかった。

 これくらいの犠牲はなんともないさ。大切な友人が癒されるならば、そんな嬉しいことはないからと。彼らは行動を共にした。

 中風の友人は嬉しかったに違いない。みんなありがとう。わたしのためにそこまでしてくれるんだね。有り難う。

4.道を阻まれて

 他にも、イエスの噂を聴き知って、カファルナウムに、再び帰ってくれたイエスなら、数々の癒やしの奇跡をされたあの方ならきっと癒していただけると期待した人は大勢いた。

 大勢の人が集まったために、戸口の辺りまですきまもないほどになった。皆が癒していただきたいという期待・願いでいっぱいいっぱいだった。われ先にとすし詰め状態になっていた。

 とても中風の人を連れて戸口のところまで行けそうにない。道をゆずってくれる人もいなかった。道は阻まれていたのである。

5.われ先にと道を阻む「信仰」は真の信仰か

 他人に道をゆずらないこの熱心さは、自分の期待・願いを他人のそれに優先させるという熱心さだ。我先の熱心さだ。

 ほかの誰よりもわたしはあなたを慕っています。ほかの誰よりも、わたしはあなたを信じていますから、癒してください・・・。

 こういう「われ先にの信仰」は、主イエスに真実従う道ではないことは、こうして説明すると、誰の目にも明らかである。

 こういう信仰観は、実績主義なのである。競走主義なのである。信仰を量と考えているのである。自分の信仰の量を競い合っている。「実績なき信仰はない」という考えなのだ。こういう考えは,自分がどれだけ大きな信仰を、つまり量的に大きな信仰をもって、一歩でも先に、他人を押しのけてでも先に、神に近づくことが「信仰の勝利」だという考えなのである。

 この考えは、神との関係を自分が決めるという考えとなって実を結ぶ。つまり神が自分を救うのではなく、救う神を自分が決めるのである。自分が先に近づけば神は自分を救わねばならないという考えに落ちて行くのだ。そういう神は、自分の思いのままの神だということになる。それでは本当の神ではない。

5.屋根をはがして穴をあけ

  四人の男たちのこの大胆な共同行動は、一見するとあまりにも豪胆な方法に見えます。大胆すぎます。屋根をはがして穴をあけるとは、なんという迷惑な行為であろう。この家の家人は、イエスに泊まる場所を提供したばかりに、家を壊されてしまったのです。家人の反応は聖書には記されていないが、この光景を観ていた家人は、さぞかし驚いたことであろう。そして怒ったのではないか。イエスに宿を提供することには、こんな被害もあるものだと覚悟のうえならともかく、はじめての経験だとしたら、やはり当惑しないほうがおかしい。

6.イエスはその人たちの信仰を見て

  ところが主イエスは、そんな家人の当惑をよそに、この大胆不敵な無謀な共同行動をやってしまった男たち四人を見て、連れられてきた中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのでした。

 ここで気づくことは、主イエスが見たその信仰とは、四人の男たちを見てとマルコは書いているのであって、中風の人の信仰を見たとは書いていないことです。

 主イエスの見ている先には、あの四人の男たちの大胆な共同行動があった。そこに主イエスは「信仰」を見たのです。

  主イエスは、家人からすれば迷惑行為とも言えるような大胆不敵な四人の共同行動に「信仰」を見ておられたということです。

  傍目からみれば、迷惑行為ともなるようなこの傍若無人な共同行動を、主イエスはあきらかに「信仰」の発露を見ておられた。

 「大勢の人々」「群衆」の「われ先にの信仰」とは違った、真実な信仰が、彼らの共同行動にはあると、主は見ていたもう。

 それは、どういうことなのであるか。


7.聖霊が起こしたもう「切迫」が人を動かす 

   四人の男たちは、思い立った。あの方ならば中風の友人を癒すことがおできになる。この思いには,不純な動機が微塵もない。ひとかけらの打算もない。友人との交わり・絆には純粋に友情以外の何ものもなかった。そしてこの思いは、一人ではなかった。四人が殆ど同時に語り合い一つとなって、それぞれの事情を克服し、犠牲を惜しまずに、ためらうことなく即座に、共同の共同を起こしている。

 そして、群衆に行く手を阻まれても、くさることもなく、即座に大胆かつ迅速な共同行動にもためらいがなかった。

 その決断は、素早くかつ大胆だった。ここに緊急事態にこそ、彼らのなかに働いている動機が、聖霊が生起せしめる切迫感にみちた「促迫であったことが、主イエスには見えていたのだ。

 彼らを突き動かしているのは、神である。聖霊なのであると、主イエスには見えていた。

 彼らには人間的諸事情を乗り越えるべき「時」には、即座に決断しなければならない事があり得るということは、当然のことのように感じられていたに相違ない。

 その決断は、瞬間の決断なのだということを彼らは感じていたのだ。『塩狩峠』の長野政雄さんは、今この瞬間しかない。今自分の体で列車をとめなれば、次の瞬間ではもう遅いのだ。そういう瞬間に自分の体を犠牲にするという決断を一瞬でくだした。

 その瞬間は、神が促した聖霊による「促迫」ではないかと、わたしは考えている。

 四人の男たちのこの瞬時の決断も、聖霊による「促迫」だったのだ。主イエスは、彼らの信仰が神の恵みに促されていることを見たのだ。

8.「子よ、あなたの罪は赦される」

  主イエスは、四人の男たちに向かってではなく、中風の人に罪の赦しの宣言をされた。

 この出来事が教えていることは、「信仰」の共同性である。

  四人の男たちの罪を主イエスは問題にされてはいない。罪の赦しは中風の人にむかってなされている。

 あの四人の男たちは自分の足でイエスのもとに来られるからだ。

 しかし、主がこの四人の男たちの信仰を見て、とあるのだから、彼らの信仰と中風の友人の罪の赦しは、明らかに関係しているはずである。四人の男たちの信仰と中風の友人の罪の赦し。両者の関係はいかなるものか。

 信仰は個人のものだと、言われて育ってきましたが、ここに示されているのは、信仰はただ個人のものではないということであろう。

信仰には、共同性がある。中風の友人には、イエスのもとに来るだけの身体的条件がない。自力では歩いてこれないのだ。彼がイエスのもとに来るには、どうしてもあの四人の男たちの共同行動(信仰)が必要だった。あの四人の男たちの信仰は、中風の友人をイエスのもとに連れて来くることができた。この協働の行動が、両者をイエスのもとに連れてきたと言ってよいのだ。だから、四人の男たちの信仰は中風の友人の罪の赦しの宣言に直結しているのである。

  具体的に考えてみよう。

 足の不自由な人を教会に連れて来ることは、連れて来る人と連れて来られる人の協働の信仰だというべきだということである。

 連れて来る人にとっても、連れて来られる人にとっても、両者の協働の信仰が、ここで罪の赦しとして,主イエスによって宣言されているということなのである。

9.そこに律法学者が数人座っていて、心の中で

    7.「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

   律法学者も神を信じている。そしてイエスが神の独り子なる神ではなくて、ただの人にすぎないのであれば、律法学者の考えは正しい。神以外に罪を赦すことはできない。正論だ。

 ところが、主イエスはただの人でない。神の独り子である。そのことを律法学者は知らない。知らないのだから、仕方がないと言えばそうだ。彼らにとってイエスはただの人にすぎないのだから。

 しかし、主イエスにとって、律法学者のこの「無知」は、聞き捨てならないことであった。

  イエスは強い口調であっただろう。詰問する。

    8.イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。

    9.中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

  主イエスはなぜ?と問われた。

 ここに表出しているのはきわめて鋭い裁きである。

 主イエスがなされる御業、しるし、所謂奇跡は、人間の力によるものではないことは、律法学者とて認めざるをえなかったほどに、驚愕と衝撃をカファルナウムの人々に与えてきたからである。律法学者も知らないわけがない。第1、彼らがここに居合わせる事事態が、イエスのなしたもう行為が神の力によっていることを認めていたからに他ならないはずだ。

 ところが、彼らは奇跡を目撃・経験しても、そして驚き、神の御業と認めていても、彼らはなお、かたくなにイエスが神の人であることを完全には受け入れてはいなかった。それゆえ、心の中で、「神を冒涜している」等と思ってしまったのだ。

 それに対してイエスは、「なぜ?そんな考えを心に抱くのか」と厳しい裁きを下される。

   神の奇跡を目の当たりにしてもなお、心が塞がれている。神の人を神として受け入れようとしない。主イエスは、彼らの心のなかの呟きを痛いほど感じておられたであろう。十字架上の槍のように主イエスに突き刺さってきたに相違ない。

10.地上で罪を赦す権威

    10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。

 槍のようにイエスに突き刺さる不信仰の言葉は、十字架の痛み同様に、主イエスを苦しめていたのではないか。すでに、もう主イエスは、十字架への道を苦しみ痛みつつ歩まれている。

 律法学者の槍のような言葉に耐えながら、主はなおも信仰について、重要な事柄を開示された。

 神の御業は、単に意味表示するにすぎない言葉と、神の力が現実に働いている言葉との区別である。

 主イエスの言葉は無論後者である。しかし人の言葉は前者にすぎない。前者は信仰がなくても語る事ができる。無神論者でも同じ言葉を語ることができる。しかしそこには神の力が働いてはいない。

 主イエスが、あなたの罪は赦されると言われれば、現実に赦されるのだ。主イエスが「起きて、床を担いで歩け」と言われれば、現実に起きて歩きだすのである。

 信仰なしにでも言える言葉は語るに易しい。しかし実際に、起きて、歩きだすようになる神の言葉は神の力なくては語ることはできない。

 だから、主イエスは、ここで、みをもって、実際に神の力によって語られたことを、お示しになられたのだ。

    10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。

    11.「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

    12.その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。

  主は現実に神の力をもって、中風の人を起き上がらせた。主イエスが語る言葉が、神の独り子なる神の言葉であることが、ここで実際に証明されたのである。これは、律法学者たちの不信仰が律法学者自身にとっても明らかなることであったはずあった。

11.人々は主イエスに神を見ることができたのか

     人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

  この神の御業を目撃し、経験した人々は、ここでも驚愕した。

「このようなことは、今まで見たことがない」と驚愕しているのだ。しかし、この驚愕は、はたして主イエスのうちに神の力が働いていると完全に受け入れることを意味したのだろうか疑問が残る。人々はイエスに神が働いていることを完全に信じたのか。「神を讃美した」と結ばれていることが気にかかる。

 人々は、たしかにこのしるしをみて神の力を実感したはずだ。だから神を讃美した。しかし、神を讃美したが、彼らは、その神の力が主イエスの言葉に宿っていると本当に実感したのであろうか。イエスを神の人だと、ここで信じたのだろうか。

 神を讃美はしたが、主イエスを神の子の権能をお持ちの方だと信じたのか。もしかすると、中風の人を癒やしたのは神の業だと認めつつも、

イエスを神の人だとは区別して、いまだ完全には受け入れなかったのではないか。

 いくばくかの疑問が残るのである。驚愕しかつ神を讃美した群衆は、主イエスをやがて殺す側に豹変してゆく。主イエスはこの讃美を痛みと感じたのではないかと、わたしは懸念しているのだ。


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