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2026年1月18日日曜日

 2026年1月18日(日)(降誕節第4主日)

『最初の弟子たち』

マルコによる福音書1章14節~20節

              『最初の弟子たち』

         マルコによる福音書1章14節~20節

 坂下教会での宣教です。(午前)



田瀬教会での宣教です。(午後)


14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

18  二人はすぐに網を捨てて従った。

19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、

20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。


以下は宣教原稿です。(あくまでもメモです。)


1.献身

    マルコにおける最初の弟子たちの召命は、「献身」とはいかなるものであるかを、きわめて端的に示している。

 キリスト者はすべからく「献身」者である。わたしたちは献身しているのだ。その自覚をもって生きている。

 だから、この弟子たちの召命から、「献身」とはいかなるものなのか、深く学ぶところがあるのである。


2.神からの接近

  「献身」は、無論のこと、自らの意志で、文字通り身を捧げるのであるが、矛盾するようだが、自分からすすんで「献身」しているようであっても、実の所は、自分のその献身の意志というものは、神ご自身が、まずもって接近してくださり、わたしたちの魂を選び、捉えてくださっているがゆえに、「献身」しないではおれない自己とされているということなのである。 わたしが神を選んだのではない。神がわたしを選んでくださった。選ばれたがゆえに、自ずから神に従おうとする心が内心に沸き起こり、その心に忠実に従っているだけなのである。

  「シモンとシモンの兄弟アンデレ」もそうだった。彼らが主イエスを見いだしたのではなかった。彼らは彼らの仕事にうちこんでいた。そこにはなんの不満も悩みもない。職業人として誇りをもって仕事に励んでいたのだ。彼らにとって、「漁師」という仕事はかけがえのないものだったはずだ。

 そこに、主イエスが突如として現れた。

    16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

 主イエスがシモンとアンデレを「ご覧になった」のである。

    17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

    18  二人はすぐに網を捨てて従った。

    

3.信従

 主ご自身が、まずはじめにシモンとアンデレをご覧になって、命じたもうたのである。神からの呼びかけが先行しているのである。人が神を選んで信従するのではない。神がまずもって呼びかけてくださったのだ。信仰、信従は、人間の側の求道心とか宗教心とか、人間内部にそなわっている何かに起源するものではないということを、わたしたちははっきりと知らねばならない。

 シモンとアンデレが、イエスを知って、その偉大さに感動・感銘をうけて、「この人なら信頼できる」と考えたので従ったのではまったくないのだ。信仰・信従は、人の側に選択の権利があって、その権利を行使して始まる、という事柄ではまったくない。神を選ぶ権利は人にはない。神は偶像ではないのだ。

 偶像は原則、人が選ぶことができる。なぜなら偶像は人が創ったものだからだ。自分が創ったものは自分で毀すことも、選ぶことも容易い。しかるに神は人がつくった偶像ではない。神は神なのだ。神は人を創造されたお方であって、創り主なる神は人を選び、人を呼び求めてくださった。

 主イエスがシモンとアンデレをご覧になって、呼ばわったように、わたしたちにも主イエスが呼ばわってくださったからこそ、わたしたちは主を、神を慕い、愛し、従おうとする魂が揺り動かされるのだ。


4. 二人はすぐに網を捨てて従った。すぐに。

   主イエスから呼びかけられた「二人」は「すぐに」網を捨てて従った。二人は、主から、網を捨てるようにと明じられた訳ではない。二人の判断は同時的に起きた。示し合わせた訳ではないし、何か高邁な議論をして結論を出したという事ではさらにない。二人同時的に生起したこの一連の行為は、信仰・信従の原形とも言うべきものだ。

 「網を捨てて・・・」。この行為が含意する事柄は重大である。彼らは財産を捨てたのであり、生業の道具を捨てた。彼らはこれからの「日々の糧」はどうしようかなどという算段は何もなかった。必要なものは神が与えてくださるというイエスの教えも、彼らはまだ知らない。

 知らないにもかかわらず、二人は、そのような「生きるすべ」をも考えず、ただ主イエスの命じられたまま、「従った」のである。ここには、「献身」の原形がある。

 「すぐに」。この「即座に」行動が生起する「動き」には、信仰・信従の特質を観ることができる。信仰・信従とは「動き」なのである。信仰・信従は「人格の運動」なのだ。


5.超俗・献身

    19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、

    20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

   ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも、まず主ご自身がご覧になり、そしてすぐに呼ばわった。彼らも、シモンとアンデレ同様に、モビリテイ(すぐに,即座に)が描かれている。

 彼らも、シモンとアンデレ同様に、「行き先を知らずに」従った。主イエスの呼びかけを、神ご自身の呼びかけと信じたとしか見えない。やはり、「行き先を知らずに」、「すぐに」という彼らの動きには「献身」、「超俗」という事柄が示されている。


6.主イエスの明確な俊敏さ

    19   すぐに彼らをお呼びになった

   この「すぐに」は、主イエスの行動の俊敏さを示している。

 ここには「迷い」がない。弟子たちがただちに従ってゆくありさまを想像すると、この確信に満ちた主イエスの行動の比類の無さ、俊敏さには驚かざるをえない。確信に満ちた「動き」だ。なんのためらいもない。

 弟子たちの主の召命に応答する俊敏さにも驚きを禁じ得ないが、より以上に主イエスご自身の驚異的な俊敏さから、福音宣教を開始した主イエスの強固な意志を感じないわけにはいかない。実に堂々たる、確固たる旅姿であろうか。


7.洗礼者ヨハネの命運に伴う強固な意志

 わたしたちは、主イエスの俊敏な行動から、そして弟子たちの俊敏な信仰・信従・献身の行動からも、開始された主イエスの宣教への不動の意志を察することができる。

    14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

    15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 洗礼者ヨハネのところで、主イエスはヨハネから洗礼をお受けになられたときに、言われたことばを忘れてはならない。

    「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マルコ1:16)

 主が、「われわれにふさわしいこと」と言われた「正しいことすべて」とは、主イエスの公生涯全体が意味する事柄、すなわち、子なる神として人類を救うために、十字架の道を行く事であった、そのことをはっきりと知ることができる。

 洗礼者ヨハネが獄に捉えられたということは、洗礼者ヨハネが、主イエスの歩まれる十字架の死への道に、先だって、つまり先駆者として、罪なきにもかかわわらず死なねばならないという命運を意味していた。

 主イエスの先駆者として、いまやヨハネの死が確定的になったことを知り、主イエスは、ヨハネに代わって、ヨハネと同一の道を、ヨハネと共に歩んでゆくというご自身の宣教の道を、歩み始められた。

 だからこそ、主は、この苦難への道を、堂々と、弟子たちを呼び集めつつ、その足を進めたのである。


8.ためらいなき足取り

   その宣教の道を歩まれる主イエスにはなんの迷いも躊躇いもない。だからこそ、弟子たちを呼ばわる言葉、行動は俊敏極まりない。ここには、主イエスご自身の「献身」の姿がある。 この主イエスの呼びかけに、シモンとアンデレも、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも、実に「即座に」、同時的に、超俗し、主イエスに、信仰・信従した。ここにわたしたちが倣うべき「献身」の姿がある。

 主よ、わたしたちは、すでに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」との御言葉を賜っています。主の呼びかけをわたしたちは聞きました。しかし、主よ、今一度、いまここで、くださった御言葉を、あらたにわたしたちの魂の奥底に、響き渡らせてください。そしてかの弟子たちと共に、主と共に歩ませてください。    アーメン

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