2026年4月19日 (復活節第3主日)
『まことの羊飼い』
ヨハネによる福音書10章7節~18節
1.羊の門、囲い
主イエスのこれらの言葉は、比喩で満ちている。
羊も比喩なら、門も比喩だ。
比喩が指し示しているものは、「わたしは」という主語によって、限定されてくる。羊は、弟子であり、キリスト者であり、人類をも指すという具合に広がってゆく。
さしあたって、聴き手のわたしたちは、羊とは、この「わたし」のことだと受けとめる。それでよい。
「わたしは羊の門である。」と主イエスが語られるとき、羊としての「わたし」にとって、主イエスは「救い」の「門」である主イエスの前にいるのである。
2.自己選択権ということ
「わたしは羊の門である。」と主イエスが語ってくださるとき、「わたし」には、通るべき門をはっきりと知っている。だから、そこには迷いはない。
ところが、「わたし」は通るべき「門」が主イエスではない場合があるというのだ。
その「門」は、主イエスよりも「前に来たもの」が、「門」を自称する場合の「門」だ。主イエスはその偽りの「門」を「盗人」、「強盗」と呼ぶ。この場合、「わたし」はこの「門」を通ってよいかといえば、良いわけがない。この「門」は、通ってはいけない「門」なのだ。
この偽りの「門」が「わたし」の前にあるとき、「わたし」は、選ばねばならない。
通ってはいけないが、通るか通らないかは、やはり選ばなければならないのだ。
「わたし」には、どちらかを選ぶ権利がある。自己選択権があるのだ。
善の道と悪の道がある。善の道を選ぶべきであることはわかっている。しかし、「わたし」は善の道と悪の道のどちらかを選ぶ権利があるというのだ。
創世記の堕落の物語では、エバもアダムも、神の戒めを守る道と蛇の誘惑に乗って戒めを破る道の両者が、彼らの前にはあった。彼らには自己が行くべき道を選ぶ権利があったのであった。神の戒めを守るべきことはわかっていた。しかし、彼らは神の戒めを破る道を選んだ。
この物語は、自己選択権という権利の恐るべき本質を教えている。
3.悪を選ぶ権利はあるのか
偽りの「門」、すなわち、「盗人」、「強盗」の目的は、「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」。目的は明白だ。
「盗み」、「殺人」、「滅亡」どれもが、「わたし」が願わざるゴールだ。誰もこんな目的地へ行きたいはずはない。しかし、エバもアダムもこの道を選んだ。ゆえにこそ、彼らの末裔の「わたしたち」の世界は、「盗み」、「殺人」、「滅亡」に満ち満ちているではないか。
某国は公然と他国の石油利権を盗むと公言している。ミサイル攻撃で無辜の民が死んでも平気だ。文明全体を滅ぼすとさえ言いきる。こんな世界に誰がした。根源には自己選択権がある。こんなことを決断する為政者を選んだのは、「わたしたち」に他ならない。
人は、悪の道を自由意志によって選択するかもしれない存在なのである。誰しもが願わざる悪の道を、人は選ぶかもしれない存在なのだ。
「自己選択権」は危険な陥穽(落とし穴)なのである。
自分で選ぶということは、自分では選ぶことが本来できない筈のことを、選ぶことができると錯覚することではないのか。
たとえば、わたしたちは、人のものを盗むことができるとか、人を殺すことができるとか、人を貶めて滅ぼすことができるとか・・・・。
偽りの「門」の目的は、このような事が蔓延することだ。けれどもわたしたちには、このような所業を選ぶことは、本当に「わたし」の選択の権利なのかと言えば、そんな権利が許される筈はないではないか。そんなことを選ぶ権利は本来ありえないはずではないのか。
4.羊は彼らの言うことを聞かなかった。
しかし、幸いなるかな主イエスは言われた。
「しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」と。
主はあえて、過去形で、「聞かなかった」と言われた。
そのこと(既に過去の既定の事柄だということ)が示す事は、羊が偽りの「門」を選ぶことはなかったと過去形で語ることにより、その事は、選ぶか選ばないかという選択の事柄ではなく既に決定済みの事柄なのだという意味にとれる。つまり、「選択」の問題ではないという事なのだ。「決定済み」の問題なのだと主は言われたのである。
人類にとって、アダムとエバ以来の「悪の道」は既に過ぎ去った過去のことであり、主イエスによって開闢する人類の新たな歴史においては、人は、悪の道を選ばなかったという決定的地点が既に始まっているというのである。新しいアイオーンが始まっているのだ。
換言すると、人は、善の道を選ぶか悪の道を選ぶかという自己選択権に、惑う必要はもうないということだ。人は、偽りの「門」、悪の道を選ぶ可能性は既に存在しないというのである。
なぜなら「羊すなわち人類」は、主イエスを既に知っているからだというのである。
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(14節)
5.「わたしは羊の門」=神の先行的選び
これは限りなき恵みの宣言である。
〈善の道を進むか悪の道を進むか右往左往する自己選択権という自由の苦悩〉から人は解放されたという解放の宣言だからである。
主イエスによってもたらされたイエス御自身の解放の福音のまえで、人は、ただ主イエスに従うという唯一の道を通る以外の道を選ぶ必要はなくなったのだ。
主イエスという「門」は、「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける、と言われる道である。
主イエスという「門」の前で、人は既に、主イエスという「門」」を知っていると主は言われる。
「人」がすなわち「わたし」が、主イエスを知っているのは、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と言われたとおり、主イエスが「人」を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからに他ならない。
人がイエスを発見するのではなく、主イエスが既に、人を、すなわち「わたし」を知っていてくださるからこそ、「人」すなわち「わたし」は、主イエスを知っているのだ。
ここに選択肢は存在しない。ただ、神の一方的な選びがあるだけである。
「わたし」が、主イエスを知っているからではなく、主イエスが「わたし」を既に選んで知っていてくださるからこそ、「わたし」は主イエスを知っているのだ。
ゆえに、この主イエスの先行的選びによって、わたしという人間が主イエスの前にたつとき、既にわたしは主イエスに捉えられた者であるがゆえに、主イエスを知っている。
これを神の一方的な恵みといわずにおれようか。
6.雇い人
雇い人もまた何者かを比喩している。
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――(12節)
彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。(13節)
ここで深く立ち入って解釈する必要はない。
主イエスは「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる人」を引き合いに出しているのだ。
辛辣な宗教批判なのである。主イエスは、危機に瀕して逃走する人を引き合いに出して、「羊」のことを心にかけていない事実こそが、「羊飼いと雇い人の違い」だというのである。
羊の世話を委されていながら、心にかけておらず、危機に瀕すれば遁走する無責任な者を揶揄している。
厳しい宗教者批判だ。
主イエスは、どこまでも、個々の具体的な、固有な存在に固着してゆかれる。いつもいつも「一人の人」をみつめておられる。個々の固有な存在を、主はみつめておられる。
羊飼いは一頭一頭の羊の存在をこよなく大切にする。しかし雇い人はそうではない。自分だけが助かることにしか関心がない。
7.この囲いの外に 「囲い」の消滅
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(16節)
主イエスの「一方的な先行的な選び」は、「門」の中、すなわち囲いの中の「羊」たちだけが対象なのではない。囲いは「狼」のような外敵から「羊」を守る防護柵のことだ。「羊」を守るためには「囲い」が必要なのだ。
しかし、主イエスは言われた。この囲いの外にも、「羊」がいる。この「羊」もまた「一方的な先行的な選び」の対象だというのだ。
「囲い」は、防護柵なのだが、ともすると、「壁」に変質しかねない。差別のための自己正当化になりかねない。「壁」の中の人間のみを守り、外の人間を排除し、外敵化する人間の罪がそうさせる。
しかるに、主イエスは,常に「囲い」の外に、「わたしの声を聞きわける羊」に心にかけたもう。人のこころの中に蔓延る「壁」を不断に崩壊させて、遠くへ遠くへと「羊」を捜したもうのだ。主イエスは、「囲い」の中の羊を放置してでも、どこまでもどこまでも「迷える子羊」を捜し求めてゆかれるのだ。
こうして、世界中の羊は、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
この事は実現するとき、容易に「壁」に変質する「囲い」は必要なくなる。
主イエスのこの宣言は、終末論的な希望である。主イエスが神だからこそ言い得た言葉としか思えない。
ここには、世界大の共同体が、「一つの群れ」となるという理想世界実現の確証が語られている。人間の語り得る言葉ではない。神にしか語り得ない。究極的な希望の宣言だ。
8.十字架の死と復活の意志
わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。(17節)
だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(18節)
「わたしは良い羊飼いである」という宣言は、十字架の死と復活の出来事の予告であり、意志表示として理解されなければならない。
実は、人は、死ぬことができない。
人はやむなく死ぬのだが、死ぬことができるから死ぬのではない。人は死ぬことはできないのに死ぬのだ。なぜなら、死ぬ事が出来るのはただ神のみだからである。
神は死ぬことができる。なぜなら、再び生きることができるからである。神はいのちを捨てることができるし、いのちを再び甦らせることもできる。だからこそ、死ぬ事ができるのである。再び生きることができる方のみが死ぬ事ができるのである。
しかるに、人は、地上の生を終えるが、それは死ぬ事ができるという意味ではない。死ぬ事ができないのに、やむなく死なざるを得ないのだ。このやむなき地上の死は「死が支配する」だ。この「死」とは「神と人との関係喪失性」を意味する。神なき事、神喪失性こそが「死」の本質である。
この「死」(神喪失性)はキリストの「死」によって滅ぼされねばならぬ。
「死」(神喪失性)の「死」だ。実に「死」は十字架の死に呑み込まれたのである。
人は、死ぬ事ができる神によって、再び生きるいのちに与って甦る希望によって、死ぬ事ができるようになる。
人は、キリストのいのちに与って甦る希望があるとき、はじめて地上の生の終焉を迎える勇気を与えられるのである。
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(10節)
「死」の「死」、すなわち復活の希望によってこそ、人は死ぬ事ができるのである。キリスト・イエスによって「羊が命を受ける」からである。
主イエスは、明確に、「羊」すなわち「わたし」の「命」(甦りの命)を与えることを、このみことばによって確約されているのである。「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」との宣言は、羊すなわち「わたし」が「いのちを受けるため、しかも豊かに受けるための確証に他ならなかった。
主イエスは、神の独り子なる神として、全人類を「羊飼い」として、永遠のいのちを与えんがため、来られた。
その確証は、全人類にまで及んでいる。
わたしたちは、ただ主イエスの御前で、主に従うだけで、既に主イエスの「門」を通っているのである。
諦めてはならない。主イエスの前に立つとき、「わたし」は既に、主イエスに知られている。
知られている「わたし」は「主イエス」でありたもう「天国の門」を通るべく、主の御声を聴き分けることができる者と変えられている。
救いは、既に確定しているのだ。ここに迷いはない。
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