2026年3月22日 〈受難節第5主日〉
弟清水宏明兄は、医師であった父を尊敬し、医師となり、地域医療に尽くしました。東日本大震災後は、ボランティアとして福島に定期的に通い続けました。
3月15日に、69歳で天に召されました。3月19日と20日に、弟との最期の面会の日とし、多くの方の弔問をいただき、遺族一同感謝しました。
葬送の礼拝は、遺族のみの家族葬とし、22日に感謝のうちに執り行いました。
22日は、牧師は遺族のみの家族葬の司式のため、礼拝は「代読礼拝」でした。
〈十字架の勝利〉
マルコ 10:32~45
イエス、三度自分の死と復活を予告する
(マタ20:17―19、ルカ18:31―34)
32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
ヤコブとヨハネの願い(マタ20:20―28)
35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めるこ とではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
1. 苦難へと先頭に立ち、向かう主イエス
主イエス・キリストは、栄光の御姿を、ペトロ、ヤコブ、ヨハネに見せてくださった。その御姿は、甦りの主の栄光に輝いていた。その時、雲の中から、父なる神は、宣教の開始の時と、同じみことばをもって、主イエスが神の独り子なる神であられることを宣言してくださったのであった。
弟子たちは、この啓示の内部にいながら、神の宣言を聞いたことになる。
エリヤとモーセと主イエスは、これから向かうエルサレムへの道、十字架の極みへと至る苦難の道程について、語り合っておられたのだった。主はこの啓示の体験を誰にも話してはならないという禁止命令をくだされた。
それは、主の甦り(復活)の出来事を彼らが体験することにならない間は、彼ら自身にも理解不可能だったからに他ならない。だから、弟子たちは、「この言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」のであった。
彼らには、依然として「受難の予告」の真の意味を悟らずにいたのである。
弟子たちの無理解にもかかわらず、主イエスは、人類救済のみ旨へと向かって、堂々と歩まれる。その悠々たる勇姿を、マルコは伝える。
一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。(32節)
この主イエスの御姿に、弟子たちは「驚き」かつ「恐れた」のである。」主イエスは、自分がエルサレムへと行けば、必ず律法学者や祭司長らに殺される命運が待ち設けていると語った言葉は、言葉の上では聴いて理解してはいた。その真の意味について、深い神の経綸については悟り得ずとも、意味表示のレベルでは聞いて知っていた。だからこそ、主イエスのこの悠然と、かつ堂々と先頭を行く御姿に驚愕と恐怖を隠せなかったのだ。それほどまでに、主イエスの揺るぎのないみ旨に対する意志は堅固そのものだったのである。人類を罪の奴隷から解放する愛に全身から溢れていたのだ。愛は愛する者ために、苦難をみずから負うという真理を主イエスは体現されていたのだ。
2. 三度目の受難予告
イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。(32節)
主イエスは、三度目の受難予告を12弟子に話される。 彼らは、言葉の上では、単なる意味表示のレベルでは、理解していた。しかし、真の意味、神の深い経綸については悟ってはいなかった。それでも、主イエスは、彼らの胸深くに、たとえ意味表示のレベルであったとしても、刻みつけるように、御自身が殺されるためにエルサレムへと向かっているのだと諭されたのであった。
愛するということは、苦難を負うということなのだ。主イエスは、神の愛を、われら人間に、具体的にお示しになられたのである。二千年前に、ひとりの青年が、このような姿を示すことがなかったのであれば、人類はいまだ愛するというこが、どのようなものであるか知ることはなかったであろう。
3.ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願い
ヤコブとヨハネの懇願は、決して権力欲から出ているものではないと、わたしは考える。「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」(41節)とあるのは、他の10人の目には、「抜け駆け」のように映ったからだろうが、それは誤解だ。弟子として重用され、他の弟子よりも「偉くなりたい」という発想で、ヤコブとヨハネはイエスに懇願していると、彼らは思ったのであろう。が、それは見損なっている。ヤコブとヨセフは、主イエスが「栄光をうけるとき」のことを考えているからだ。たしかに、二人は主イエスが語る「栄光」については何も知らない。何も知らないというのは、主イエス御自身が言われたことから分かる。
イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(38節)
主イエスの「栄光」に輝く変容を目撃したからこそ、二人には、「栄光」こそが彼らの願いとなった。そう考えると、彼らの願いが、人間的な権力闘争と同じ次元の願望とは質が異なることは、明らかであろう。
彼らは、主イエスが「神の独り子なる神」でありたもう御姿を見たのだから、彼らには、神の栄光を顕すイエスの御傍に侍りたいと願うのは、神との接近を願う事に他ならないだろう。そう言う意味で、この願望「宗教的願望」とは言える。二人は真面目な信仰者として願っているのだ。
だが、その願望、宗教的な願望もまた、主イエスからすれば、「あなたがたは、自分で何を願っているか。分かっていない。」ことにすぎないのである。
4.主が飲む杯、主が受ける洗礼
イエスは言われた。「(中略)このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(38節)
二人が決定的に分かっていないことは何か。主イエスの栄光は、苦難を通してこそ栄光に入るという十字架の死と復活ということが、彼らにはまるで分かっていないことだ。彼らが願っているのは「栄光」の主であっても、その栄光は、受難の死を通る道であることが、二人にはまるで分かっていないのだ。
それゆえ、主イエスは、苦難の死を意味する「杯」「洗礼」を語るのである。「杯」は主イエスの「苦難と死」を意味し、「洗礼」は「死」を意味する。主は、二人に、御自身と同じ道、すなわち、苦難と死の道を行くことができるかを問うているのである。
苦難の死を通過しないままで「栄光」の神に近づくことはできない。主は、真の「栄光」への道こそを、二人に問うているのだ。
5.殉教の預言
彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。(39節)
ゼベダイの子ヤコブについては、主イエスがここで「確かに」と言われたごとく、西暦44年頃、ヘロデ・アグリッパによって殺されることになる。(使徒12:2)殉教の預言を主がなさったとみなされている箇所ある。ただ、ヨハネについては、殉教にあいそうになりながらも生きのびたようである。
しかし、彼も主の「杯」「洗礼」に近いような苦難を受けたと言われてはいる。
結局は、この二人は、甦りの主イエスとの出会いの後には、聖霊によって生まれ変わって、主イエスの辿ったのと同じような苦難の道程を歩む人に変えられることになった。
ここで、これだけ、無理解な弟子であったにもかかわらず、復活の主の命に与って、まったき新生を経験することになった。イエスは、すべてを見透していたことがわかる。
6.神による定め
しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」(40節)
主は、「神のさだめ」について語る。ここで語られるのは、父なる神の定めと主イエスの職務との区別である。父なる神とと子なる神とは異なる人格であることが明確に語られていると言える。三位一体の神は、この区別がはっきいとありつつ、唯一なる神だという信仰だ。区別されつつ分離し得ない神であられるのである。
主には右もあれば左もなるのだから、右に座る者、左に座る者は、たしかに「誰か」ではある。しかし、主は「誰か」をお決めにはならないという。それを定めるのは父なる神だというのである。その定めに、主はまったく介入しない。であれば、人は右も左も、主イエスに願うことは虚しいことになるというものだ。主は、たとえ、「宗教的な願望」「信仰動機」によるものだとしても、主イエスとの「距離」や「位置」を願う動機や目的を、徹底して無視されるのだということを語られたのである。そのような動機には、根底に人間的欲望が隠れ潜んでいるからだ。
7.真逆の世界
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。(43節~44節)
二千年前もそうだったようだが、主イエスの世界についての観察は、まったくと言って良いほど、現代世界と同じである。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」というのだ。
「偉い人たち」が誰かと言えば、誰もが思い浮かべることができるだろう。この「偉い人たち」は、「権力を振るっている。」というのだ。強い立場にある者たちは、支配欲をほしいままにしている。
キリスト者の共同体は、そのような世界とは「真逆」の世界だというのだ。それは支配欲を根本動機とするこの世界とは、まったく逆の方向性、すなわち仕えること、奉仕することを生の根本動機とする世界だというのである。
主が語る「いちばん上」というのは、「いちばん下」を意味するというのだ。
すべての人の僕になりなさいというのは、すべての人の奴隷になりさないと言っていることだ。僕は奴隷を意味する言葉だからである。マルチン・ルターの言葉を思い出す。「キリスト者はすべての人の王であり、すべての人の僕である。」(『キリスト者の自由』)
「キリスト者はすべての者の中で最も自由な主人であり、誰にも従属しない。キリスト者はすべての者の中で最も忠実な僕であり、すべての人に従属する。」
8.主は仕えるために、命を捧げるために来た。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(45節)
主イエスは、その御生涯を、人類救済のために、身代金(贖い)として、命を捧げる(捨てる)ために来た。
われら人間は、キリストの命という代償によって、贖いとられたがゆえに、「すべての人の王となり、すべての人の奴隷となる」自由を得た。
主は、全生涯を、この「下降へと昇る」という受難の道行くに徹して歩まれた。
われら人間は、このキリストの死を身に着けて、キリストの武具をまとい、「下降へと昇る」道に続きたいものである。
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