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2026年3月30日月曜日

 2026年3月29日 (受難節第6主日) 

棕櫚の主日(受難週4月4日まで)

マルコによる福音書15章21節~41節

『十字架への道』


1.時・場の違和感

 主イエスの復活を信じられないという人々がいます。 主イエスの同時代、同一の場所で、主イエスの復活を、それぞれの固有な「場」と「時」において、生きた人々がいました。

 彼らのなかには主イエスの復活を信じられない人もいたはずです。

 「信じられない人々」もいれば、「信じようとしない人々」もいたことでしょう。

 そして「信じないではいられない人々」もいました。

 復活の「時」、「場」を共有していた固有な生を生きていた人々にとって、主イエスの復活の出来事は、やはり、ほかの「時」「場」と同じ重さでしかない「日常」の一コマだった筈です。

 だからこそなのですが、わたしには、とても不思議に思えるのです。

 何の変哲もない「日常」だった筈の出来事が、人類にとって、比類のない「時」と「場」であったという事実、これは人類史にとって、「愛敵」という、それまで存在しなかった愛のありようを、人類の各員に贈与したことは紛れもない事実として、この出来事以後の歴史を決定づけているという事実によって証明された事実の決定的な起点という意味での事実となっていた事が、わたしには不思議でならないのです。

 これは、奇跡という意外に考えようがないのです。


2.主の十字架を担う「光栄」を賜った「キレネ人シモン」

 わたしは、まず、人類にとって決定的な出来事が、当時の人々のあいだでは、「日常」でしかなかった埋もれた経験だけを生きていた人々が圧倒的多数を占めていた他方で、主イエスの十字架の死の直前に、この決定的出来事に、図らずも、強制的に関わらざるを得なかった人がいた事に感謝せざるを得ないのです。主イエスの十字架を背負った人がいたのです。彼の経験は、わたしたちにとって極めて重要な意味を持っているからです。

 彼は、「田舎から出て来て通りかかった」にすぎません。まったくの偶然の遭遇でした。たまたま通りかかっただけの彼に、「兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」

 神の恩寵は、人間の主観を超越しているのです。

 彼の名は、「キレネ人シモン」。

 彼には「アレクサンドロとルフォス」という息子がいたようです。息子の名が残されているということは、キリスト者共同体に、彼らが名を残すに値する役割を担っていたのではという推測を可能にするでしょう。

 「キレネ人シモン」は、主イエス・キリストのゴルゴタへと続く坂道を、主イエスの十字架を担ぐという光栄を担うことが許された稀有な宿命を神から授かったのです。

 彼は自ら願って主の十字架を担いだのではありませんでした。担ぐことを、他者から強要されたのです。

 しかし、強要された事が、彼にとって、いや彼以後の全人類にとって大いなる恵みとなったのです。

 神の恩寵は主観的な願望を超越しているのです。

 

3.「痛み」は「神の愛の痛み」に対応する

 彼の肩に食い込む十字架の重量がもたらす「痛み」は、主イエスの「痛み」を彼に、否応なしに体験させました。

 彼の体を痛めつける激痛は、神の「痛み」を、彼が知る縁(よすが)なったのです。

 そして彼の「痛み」は、わたしたちにとって、神の「痛み」を追体験し、知るための、「光栄」として、意味深いものとなるのです。

 実に、わたしたちにとって「わたしの痛み以上の神の痛み」・「神の愛の証明」として受けとめ直す契機と変わるのです。「痛み」はこのとき、「十字架の痛みの光栄(反射)」となるのです。

 とはいえ、「痛み」は「痛み」です、わたしたちは誰しもが、「痛み」から解放されたいと願うのは当然です。「痛み」なのですから。

 主イエスは、わたしたちの「痛みから解放されたい」という願いを無視されたりはしませんでした。

 主は言われました。

 「重荷を負うている者は、わたしのもとに来なさい。」と言われました。(マタイによる福音書 11章 28節)

    疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

「痛み」という「重荷」を、主は共に担ってくださっています。

    わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイによる福音書 11章 29節)

    わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書 11章 30節)

 「痛み」「重荷」を、主は、同じ軛を負うてくださっているのです。人生から「重荷」が完全になくなるということではありません。「重荷」を負うことは「責任」を担うということですから、わたしたちは「責任」を負うことで、はじめて意義ある人生を送ることができるのです。わたしどもの信仰は、重荷を放棄する、責任を放棄するということではなく、共に重荷を負うてくださる神と共に生きる信仰なのです。

4.兵士たち

  言うまでもなく、このローマ兵たちにとっては、普段と変わらない日常の時間、日常の場所での振る舞いが、マルコ伝には無機質に記録されています。何の感情移入もありません。彼らには、イエスの処刑は、彼らの仕事のなかでの作業にすぎないのです。

 彼らは、この人類にとって決定的な出来事に、居合わせながらも、イエスの復活について何も考えず、何も感じない、ただ主イエスを殺すという彼らの仕事に、淡々と従事しているのでした。

 彼らにとっては、イエスの着ている衣服を分け合って、自分の取り分とすることだけが関心事でありました。

 イエスの腕に釘を打ち込み、足の甲を合わせてやはり釘を十字架の杭に打ち込む作業を、終えると午前9時でした。


5.午前9時

 午前9時に、処刑場に集まっていた人々は、野次馬もいたでしょう。嘲笑する者たち、侮辱する者たちでした。朝のこの時間に、わざわざ、忌み嫌われているこの場所へ集まるとは、彼らの、憎悪の関心度合いの激しさがわかります。

 罵声、嘲笑、哄笑がその場を支配していたようにみえます。主イエス処刑の「時」と「場」は、まさに現代の縮図そのもののように思われます。

 無関心なローマ兵、通りがかりの嘲笑する者たち、侮公衆に聞かせようとばかりに、代わる代わるに律法学者たちや祭司長たちが吐き捨てるように侮辱します。

「他人は救ったのに、自分は救えない。」と。

 遠くから婦人たちは見守っていた。またその他にも、イエスについてきた婦人たちが大勢いたとマルコ伝は記録しています。十字架のみもとに、怖くて近寄れなかったのでしょうか。哀しみの嗚咽を彼女たちは呑み込むようにして見守るほかはなかったのです。


6.「他人は救ったのに、自分は救えない。」

  「救い」とは何なのでしょうか。ここでイエスが命を永らえることなのでしょうか。主イエスは、人類を救うために命を捨てるために世に来られたのです。イエスは、この十字架につけられて殺されるために、エルサレムまで来られたのです。生きながらえることが目的ならば、エルサレムに来る必要はありませんでした。

 殺されることが分かっていながら来たのです。

 侮辱する者たちには、イエスを殺す事が最終目的だとことが、彼らの侮辱の言葉に明らかに示されています。

 彼らは、イエスがここで死なないことが、彼らにとってが不都合だったから、「自分を救ってみろ」と侮辱できたのです。彼らには、イエスが生き続けることが不都合でした。だから殺すのです。

 彼にとって、「メシア(キリスト)」は、生きてこそメシアでした。だから殺さねばならなかった。殺しさえすれば、イエスがメシアではない事が証明される、と彼らは考えていたのです。

 キリスト・イエスは、十字架で死なねばならない。このことについて、彼らは完全な無知であったのです。

 彼らにとって、イエス殺害こそ、最終目的であり、彼らにとっての最終的解決だったのです。

 イエス殺害が最終到達点だったからこそ、「他人は救ったのに、自分は救えない。」という言葉が、「侮辱」になり得たのです。

7.それを見たら、信じてやろう

  現代のわたしたちにとって、「それを見たら、信じてやろう」という精神的態度は、実に身近に存在します。

  イエスの復活を、「信じられない人々」もいれば、「信じようとしない人々」もいます。

 ここで、十字架上で死ぬためにイエスが世に来られたということについて完全な無知な人々は、「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と侮辱しました。

 「見たら,信じてやろう」という精神的態度は、はじめから、イエスが生きながらえることが、必要不可欠なはずだという自分自身の勝手な思い込みがあったがゆえにこそ、「十字架から降りてきて、生きながらえることなどどうせできないだろう」と、そう考えたのです。だから、「自分を救えない」という言葉が、彼らにとっては「侮辱」たりえたのです。

 イエスは、ここで死なねばならない使命があったことが彼らには理解出来ないのです。

 このような精神的態度の人々は、現代においても、多くみられるありふれたものです。

 イエスは、生きてこそ使命を果たすべきだった、という訳です。死んで花実が咲くものかという訳です。

 「救い」について、根本的に違うのです。

 「信じてやろう」式の「ものの考え方」は、そもそも、「絶対信じない」という態度と何も変わるところのないものです。「どうせそんなこは起こらない。やれるものならやってみろ。そうしたら信じてやる」という態度だからです。この態度は、およそ「信じる」という態度ではないからです。「信じてやる」は「決して信じない」と同根なのです。「信じるか信じないか」はこっちが決める、つまり人間が決めるというのです。

 およそ、「信仰」の名に値しません。自分を神さまより上に置いているからです。これでは「自分教」です。

   ここで主イエスを侮辱している人たちは、自分はイエスより「上」だと思っている人たちなのです。

 

8.エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。

   主イエスの、このみことばをどのように理解したらよいのか、理解に苦しんたことのない人はいないでしょう。

 主イエスは、ご自分が、祭司長、律法学者たちから殺されることになっていることを三度にわたって予告してこられました。堂々と十字架の死にむかって歩んでこられました。

 それなのに、なぜ、主はこのように叫ばれたのか。

 わたしたちは、言葉が首尾一貫して矛盾のないことを

無意識のうちに好む傾向があるのです。ですから、主イエスのみことばも、人間らしく、首尾一貫して矛盾なく理解したいのです。

 ところが、この十字架上のイエスの叫びは、死ぬことこそが神への従順であると語ってこられたイエスの言葉と矛盾しているように聞こえるのです。ここにわたしどもの無意識の美意識と齟齬が生じてしまうから、悩むのです。

 しかし、実際のところ、言説というものは矛盾だらけの事のほうがはるかに多いのではないでしょうか。

 わたしは、この主イエスの叫びを、文字通り、父なる神が子なる神イエスを死へと渡さなければならない神の絶対的な矛盾への子なる神としての父なる神への愛の叫びと受けとめることができると理解します。

 十字架の死は、父なる神にとって、神であることを自己放棄するに他ならない絶対矛盾なのです。御子なる神イエスの死は、父なる神にとって、自己自身の死以上の死なのです。そのような父なる神に対して,子なる神イエスはその絶対矛盾をあえて遂行しなければならないこと、すなわちイエスを「捨てる」なければならぬ神に対して、イエスは、「なぜそれほどまでに、しなければならないのですか。」と神の愛の痛みを悲しんで叫んでおられる。「なぜそれほどまでに、人類を愛しておられるのですか。」この「なぜ」」は疑問詞ですが、疑問詞であって疑問詞以上の意味が込められています。

 わたしは、あなたの人類への愛を受けとめます。独り子なるわたしを捨てなければならないほどに、あなたは人類を愛されているのですね。わかりました。わたしは、あなたの人類への愛をしっかりと受けとめて、その使命を完遂します。なぜそれほどまで人類を愛されるのですか。なぜそれほどまでにわたしを愛してくださっているんのですか。承知しました。わたしは、あなたの独り子なるわたしを捨てるほどまでに、人類を愛しておられるのですね。わたしは、あなたがそれほどまでに人類を愛しておられることを信じることができていることを、いまここに受けとめることができました。感謝です。

 主イエスは、神の愛の痛みを、喜んで受けとめたゆえに、叫ぶことができたのではないか。

 だから、この叫びは、嘆きの叫びではなく感謝の叫びなのです。勝利の雄叫びなのです。

 主イエスは、殺されること、捨てられることを、感謝の雄叫びをあげるまでに受け入れたもうたのです。殺されること、捨てられることを、感謝して受け入れた人は他にいません。捨てられ、殺されることが、この方にとって「愛」することだったのです。ここに「愛」があります。アーメン




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