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2025年5月17日土曜日

 2025年5月18日(復活節第5主日)

坂下教会にて、東濃3教会合同礼拝  10:00開始

来週より、送迎開始。



ヨハネによる福音書14章1節~11節

「父への道」
1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
 

 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(9節)

 【父なる神を見た者はいない。誰一人していない。】

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)

 主イエスは、ご自身を見る者は、誰も見たことのない父なる神を見たのだと語られました。このような大胆な言葉を、敬虔なユダヤ人であれば想像だにしなかったことでしょう。まして自らを見た者は、父なる神を見たのだと言いだし得るという事は、余程の「狂人」か、はたまた「涜神者」か、そのどちらかでしかあり得ない、と考えたに違いありません。

 だから、主イエスを「神」ご自身だと信じない者たちは、イエスを「神を自称する冒涜者」として憎んだことは、ユダヤ教徒としては至極当然の反応だったのです。人間が、自分を見たのは神を見たことと等しいというのですから、彼らにとっては明らかな「涜神」行為に見えたのです。神は神であり、人は人なのなのに、どうしてそんなことを言い得るのか。傲慢にもほどがあるというのです。「許せん、生かしておけぬ」とイエスの反対者たちは主イエスを憎悪、殺意をさえ抱いたのです。

 たしかに、主イエスが、被造者(造られた者)としてのただの人であったならば、ユダヤ人たちの反応はまったく正当なのです。ただし、それは主イエスが、被造者であったのであればです。

 しかしながら、ヨハネによる福音書によれば、主イエスは、被造者としての人ではないのです。被造者の形、姿をもって地上に来られたことは確かにそのとおりです。しかし、主イエスは、被造者の姿・形をもって来られたには来られたのですが、神ご自身が、被造者の姿・形へと「受肉」されて来臨されたのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)

 主イエスは、「父の独り子である神」ご自身なのです。ゆえに、主イエスを「見る」ということは、「それは父の独り子としての栄光」を「見る」ことを意味するのです。

 わたしたち信仰者は、聖霊により賜った信仰によって主イエスを見るとき、そのことは「父の独り子である神としての栄光」を見ているというのです。

 ところが、神の恩寵によって賜った信仰の「眼」で主イエスを見ることなく、被造者としての「肉の眼」でしか、主イエスを見ないのであれば、その場合には、わたくしたちとて、主イエスをただの人としてしか見えないことにならざるを得ないのです。

 眼前に主イエスが、共に四時間も同道していながら、エマオ途上の弟子たちには、復活の主イエスが誰であるかわからなかった事を思いだしてください。彼らは主イエスの姿・形は正確に覚えていたはずでしたが、それなのに彼らには主イエスが誰であるかわかりませんでしたね。

 「主イエスが誰であるか」。すなわち、主イエスが「神の独り子である神」であるかどうかということは、被造者としての認識能力によっては認識できないということを「エマオ途上」の出来事は示しています。むしろ人の認識の力は無力どころか妨げですらあるのです。

 神が賜い給ふ信仰によって「眼が開かれて」初めて、彼らは眼前の方が、主イエスご自身であることを知ったのでした。

「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(14:7)

 「見ること」と「知ること」。

  主イエスを知ることは、父なる神を知ることになるのだと主は言われました。この「知るということ」は、言い換えれば「信仰知」です。「信仰の知」とは、生まれながらの人間の理性による「知」、一般的な「理性の知」とは異なります。人間理性が主体となって対象を観察・分析する「理性知」とは違うのです。

 神が賜い給ふ「信仰知」は、人間に恩寵として神ご自身の聖霊が、人間の魂に降臨し、そこで初めて、人間の魂の内部に、神の霊たる聖霊さまが内在してくださり、その内在し給ふ神ご自身が、主イエスが「誰であるか」という「信仰知」を、人間に生起せしめたもうのです。すなわち、「信仰知」とは、神ご自身が、わたくしたちに「介入」してくださることに「よって、生起する「知ること」なのです。

 このような出来事が生起するとき、わたくしたちは主イエスが「神の独り子である神」ご自身であり給ふことを「知る」ことになり、そのことはすなわち、「神の独り子である神」と一つであり給ふ「父なる神」を「知ることになる」のです。

「いや、既に父を見ている。」

 この主イエスの御言葉は、さらに素晴らしいことを語っておられるのです。

 つまり、主イエスを「見る」ことは、すなわち、「父なる神」を、「既に見ている」ことなのだと言われているからです。

 この御言葉の素晴らしさは、つまりこういうことでしょう。

 神ご自身の聖霊の授与によって生起するときにこそ、「信仰知」は生起します。つまり「聖霊降臨」が「信仰知」を生起せしめるのです。

 ところが主は、「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」とあえて言われたのです。イエスを見ることによって「父を知る」ようになる。たしかにそうです。しかい、いや、既に「見ている」というのは、「父を知るようになる」以前に、「父を見ている」というのです。ということは、「知ること」が先行して、しかるのちに「見る」ということだけではなくして、「父を知るようになる」以前に「父を見ている」のだというのです。

 主イエスを見ることはすなわち、父なる神を見ることに等しいというのです。

 だから、この御言葉は実に素晴らしい事柄を語っていると言えましょう。

 主イエスを見ることは、即神を見ること、父なる神を見ていることなのだと言っておられるのです。

 ところで、わたしたちの誰一人として、主イエスの姿・形を知るものはいません。

 主イエスは、2千年前に、天に昇られたので、復活者イエスは、その外貌をわたしたちに示すことはないのです。

 だから、わたしたちが主イエスを「見る」ということは、やはり「信仰知」において、「見る」ことなしには「見ること」はできません。

 しかし、このことは、実はわたしたちにとって良いことなのです。

「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」(14:6)

 主イエスは、語り給いました。

 「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』

 わたしたちは、主イエスの外貌を、たとえ知らなくても、主イエス「通る」道が開かれているからです。

 主イエスと父なる神は、「相互内在」しておられると、主イエスは明言されました。

 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」(14:11)

  この「相互内在」の交わりは、わたしたちと主イエスとの間にも生起すると、主イエスは言われているからなのです。

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(14:18~21)

 主イエスは、必ず戻ってきて、「世は」主イエスを見なくなるが、わたしたちは主イエスを「見る」というのです。そして主イエスの命に与って生きることになるというのです。

 「かの日」とは、いついつかという日ではなく、主が再臨される時のことでありましょう。その日は、無限遠点の日かもしれないし、「永遠の今」かもしれません。

 いつかは知らなくても、かならず「かの日」はある。その今、わたしたちは主イエスとの交わりが、独り子なる神と父なる神の「相互内在」と同じように、生起・成就することが「分かる」(知る)というのです。

  

「かの日にはわたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(14:20)

 この「相互内在」こそが、わたしたちの「命」に他ならないことは言うまでもありません。 

「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(4:21)

       それでは、この「相互内在」ということは、具体的にさらにどういうことなのか。 主イエスのこのみ言葉に示されている事を、もっと具体的に考えてゆきましょう。

 主イエスを愛するということは、具体的には主イエスの「掟」を守ることだと示されています。主イエスの「掟」は、では何なのか。それはとどのつまり、神を愛し、人を愛するという最も重要な「掟」以外の何を言うでしょうか。

 

 「愛すること」、しかも神の愛をもって愛することです。神さまが愛してくださる愛をもって、主イエスを愛し、主イエスを愛する人は父なる神に、さらに愛される。神に愛される人を主イエスは愛し、愛された人は、その人に、主イエスご自身はご自身を御現しになられると明言してくださったのです。

 

 愛の根源は神です。神は愛だからです。

神に愛され、わたしたちは、神を愛し、人を愛することができるのです。

神の愛を受け、神の愛をもって神を愛し、神の愛をもって主イエスを愛し、主イエスを愛する者は、神に愛される。神に愛される人を主イエスは愛し、主イエスはその人にご自身を現れるというのです。この愛の循環、愛の充溢こそが、「救い」の現実でなくて何でしょうか。

 主よ、わたしたちはあなたを愛します。わたしたちをして、あなたご自身を御現しください。                           アーメン 

      



    

2025年5月10日土曜日

 2025年5月11日 (復活節第4主日)   母の日

ヨハネによる福音書11章17節~27節

「イエスは復活また命」


イエスは復活と命

 17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

   主イエスの生前、死者を甦らせたという伝承は、このラザロの復活の出来事のほかにも、多くあって、初代教会では、広く伝えられ続けていたと思われますが、このラザロの復活についてだけは、共観福音書にはなく、第四福音書(ヨハネ)にのみ記録されています。

 ラザロという名の意味は「神たすけたもう」というそうですが、ルカ福音書に同名の人物が主イエスの譬えのなかで登場しています。「金持ちとラザロ」の話です。

 その名の由来が示しているように、神がたすけたもう者の、いわば代名詞のような名前です。金持ちの家の門前で、物乞いをしていたあの貧しいラザロが「アブラハムの食卓」(神の国)に召された一方で、金持ちは炎熱の陰府へとおとされます。ラザロはこの世で、貧しかったが故に救われ、金持ちはこの世で裕福だったので陰府へとおとされたという主イエスの譬えでした。この譬えは、この世で苦難のなかで生きた者が救われ、この世で安逸を貪る者が裁かれるという「救い」の本質を語ったものです。

 ラザロは善行を積んだから救われた訳ではありません。ただ貧しかっただけです。金持ちは悪行を重ねていた訳ではありません。ただ、この世で、富んでいただけなのです。

 金持ちは、残酷な事に、天上のラザロが天国にいるのを観ることができるのですが、どうしても天国に行けません。金持ちとラザロのあいだには、渡ることができない深淵があるからです。金持ちは生きている兄弟たちに、自分のようにならないようにラザロを遣わして言い聞かせてやってくださいと、アブラハムにお願いします。

アブラハムは答えました。

しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

                 ルカ福音書16章29節~30節

 この世では一度死んだラザロが天国から甦って来て、モーセと預言者(旧約聖書のこと)に耳を傾けないなら、「『たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」というのです。厳しい言葉です。つまり聖書に傾聴しないなら、たとえ死者(ラザロ)が復活してきても、この言葉に傾聴しないだろうというのです。

 逆に言えば、聖書に傾聴するならば、たとえ死者が甦ってこなくても、聖書に傾聴していればよいのだということです。

 この主イエスの譬えに登場する「ラザロ」は譬えの中の登場人物ですので、ベタニアのマリアとマルタの兄弟であるラザロとは別の人格です。けれども、この譬えには「ラザロの甦り」という事柄が譬えのなかで重要な意味を持っています。

 ベタニアのラザロは、特定の人物ですので、譬えの登場人物とはもちろん違いますが、「甦る」という点で、共通しています。

 ベタニアのラザロは、本当に甦ってしまうのです。そして主イエスの譬えどおりに、ラザロが甦ってきても、信じない者はやはり信じないのです。それどころか主イエスもろともラザロさえも殺してしまおうとするのです。

 さて、「神たすけたもう」という名をもつこの人は、わたしたちの代表のような存在ではないかと思うのです。

 主イエスによって救われるべき人類の「さきがけ」として、ラザロは救われた、ということなのではないでしょうか。

 主は、人類を救うということはいったいどういう事情で救いなのであるか、ということを、ラザロを復活させたもう出来事を通してお示しになったということなのではないでしょうか。

 マリアとマルタは人を遣わせて主イエスに病気のラザロの治癒を願いますが、主イエスはなぜでしょう、「なお二日間同じところに滞在され」ました。三日目にようやく出発されます。まるで、ラザロが既に死んでしまったことを知っていて、その死を待っていたかのような振る舞いです。

 当時、パレスチナでは、確実に死亡したか、それとも仮死状態なのかを三日後に確認するということが通常行われていたようです。そういう意味では、ラザロが確実に死んでいるかどうかの確認後に、ベタニアに到着するように主イエスは、出発を遅らせたのかもしれません。

 主イエスが、ベタニアについたときには、ラザロの葬送は終わっており、既に四日もたっていたとありますので、死亡確認は終わっていたことになります。

 生物としての死は、死んでまもなく死後硬直が起こり、時間の経過とともに腐敗が進行します。主イエスが墓石を取りのけるように言われると、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。腐敗臭です。物理的には既に完全な遺体となっていたのです。

    多くのユダヤ人が、ラザロのことで、マリヤとマルタを慰めに来ていました。彼らはラザロたちの友人なのでしょうか。死者を悼み、遺族を慰めようと集まっているのですから、善意の人たちであったことでしょう。実際、彼らの多くは「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」のです。しかし、「中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」とあります。この告げ口によって、イエス殺害計画が進められてゆくことになります。

 死者ラザロを甦らせた主イエスの行いを目撃しながらも、その出来事が神の業であることを読み取ろうとはせずに、イエス殺害の加担者となった人々もいたということです。おそらく彼らも善意の人であった筈です。けれども、彼らにとって「告げ口」には悪意はなかったかもしれません。しかし、その「悪意」のない些細な行為が、イエス殺害計画へと発展させることになったのです。人の行いという事が、どこでどう動いて、ごく些細なことに見えることであっても、とんでもない恐ろしい悪事につながってゆくかもしれない、そういう恐ろしさを感じます。

21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 マルタもマリアも、同じように、ラザロの生前、病床に主イエスがいてくださったら、ラザロは治癒したに違いない、そんな恨み言の一つも言ってしまいたい、いささか主イエスに対する不満というか「お恨み申します」というところでしょう。一言言っていまいます。

 ただ、主イエスは、ラザロの死を、離れた地に滞在していたとき既に知っておられたし、ラザロ葬送後の死亡確認をまって出発されたのですから、「治癒奇跡」によってラザロを蘇生させることは、はじめから意図されてはおられなかったのです。

そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16

 マルタは、一言恨み言を言いはしましたが、すぐに主イエスを「信頼」する姿勢を立て直します。

 22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 そしてここから、主イエスとマルタのあいだに、「復活」問答が始まります。

 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

ここで主イエスが明言されていることは、わたしたちの「復活」の希望です。

 主イエスを信じるものは、たとい死んでも生きるという希望です。そして、生きていて主イエスを信じる者はだれでも、決して死ぬことはないという希望です。 

 ラザロの復活は、この主イエスの救いのみわざを、人類に明示し、人類が信じるようになるための御業なのです。

15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。

  

  


2025年5月4日日曜日

 2025年5月4日(復活節第3主日)

マタイによる福音書12章38節~42節

「まさるもの」





すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。39イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。41ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。42また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 「しるし」を求める心理は、換言すれば「証明を要求する心理」です。

 証明を要求する事は、信ずるに値するかどうかについての「不安」が心理の根底に存在しているので、その「不安」を鎮めるために、何らかの補償を必要とするのです。信ずるためには、信ずる事柄について確実な「あかし」を必要とするのです。信ずるということは、信ずる事柄、信ずる対象が揺るぎなき存在であり続けるという不動性、永遠性が担保されると信じることができて初めて「信ずるに値する」という判断をするのです。そのような心理は、人間心理として当然と言えば当然なのです。

 しかし、その当然の人間心理に従って、判断するのであれば、信ずるに値するかどうかを担保するための「あかし」・「証明」・「しるし」を要求することになります。

 「なになにだから信じる」、「なになになので信ずる」、とかいうような、そこには信ずるに値するかどうかの担保となるなんらかの「原因」とか「理由」とか「根拠」とかが必然的に必要となるのです。そのような「信ずること」というのは、その「担保物件」(原因・理由・根拠)なしには、信じないという意味をも必然的にもつのです。

 「しるし」を要求する人々、この箇所では、「何人かの律法学者とファリサイ派の人々」ですが、この人々が「しるし」を主イエスに要求するとき、その事は、「しるし」がなければ信じないという意味を込めていることは明らかでした。

 さらに言えば、彼らが「しるし」を要求するのは、信じるに値する「あかし」を要求しているのではなく、むしろ、信ずるに値するための「あかし」「しるし」を、主イエスが少しも示そうとしていないことに対して、言質をとろうとしていると言ってよいでしょう。ここでは、彼らははじめから本気で「しるし」を認めてはいないのです。主イエスは数々の奇跡を行っていますが、彼らにとっては、それらは彼らにとっての「しるし」ではないのです。彼らにとっての「しるし」は、彼ら自身が信じている聖書の文脈上の「しるし」でなければなりませんでした。彼らの信仰上の「しるし」と彼らが認める限りでの「しるし」でなければ、彼らは決して認めないのです。言い方を変えればはじめから主イエスを信じる気など無いのです。

 マタイによる福音のこの箇所で、主イエスは、温厚にして穏健な言い方をされてはいません。単刀直入とさえ言ってもよいほどに直截的です。

「39イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」

  「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と、あまりにも直截的です。

 面と向かってなじっているというくらいの応答でしょう。遠回しとか婉曲的とかということとはおよそ真逆です。相手にむかって正面切って「よこしまで神に背いた時代の者たち」とはっきり断罪しています。

 彼らに対して、「よこしまで神に背いた時代の者たち」、「今の時代の者たち」と呼び方を替えて断罪しています。「この悪い時代の者たち」(45節)とも名指しています。

 そもそもわたしたちは、「荒野の誘惑」で、主イエスがサタンから何を要求されたかを観てきました。神の子なら石をかパンに変えてみよ、神殿から飛び降りてみよと、みずから神の子であることを証明してみせよと、サタンは主イエスに「しるし」を要求しました。「律法学者とファリサイ派の人々」の「しるし」の要求と、根本動機はまったく同一でした。

 主イエスは、サタンを退けたように、「律法学者とファリサイ派の人々」を、まったく同様に退けられるのです。主イエスは、ご自身が神の子でありたもう「しるし」を決してお示しにはなりません。人間心理の「不安」を鎮めるために、信じるための担保物件を示す事は、結局、主イエスが人間に「信じてもらう」事になり、信じるか信じないかの決定権を人間が握ることになるからです。神が人間に信じてもらう必要があるとすれば、その神は真の神に既に値しません。まことの神ではなく、人間の自由に委ねられた無力な概念にすぎないでしょう。 繰り返しますが、神の独り子なる神、主イエスは信じてもらうための「しるし」を決して絶対に与えないのです。

 次に、「ヨナのしるし」について考えてみましょう。

「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

  「預言者ヨナのしるし」だけが、主イエスによって「しるし」として挙げられています。

 「ヨナのしるし」は、人間心理の「不安」解消・補償のための「しるし」ではないのです。人間が信じるために要求する「しるし」という性質を「ヨナのしるし」は持ちません。

 唯一の「しるし」は、神ご自身がお示しになる主イエスの十字架の死と復活以外のなにものでもありません。主イエスの死と復活は、人間心理の補償ではありえません。人が欲する事柄ではないのです。人が欲したところで与えられる事柄ではないのです。

 人間が欲せざるところのもの、それはキリストの死に他なりません。キリストは人も神も決して願わない「死」、「十字架の死」の道を行かれました。

 主イエスの「死」は、人間心理の不安の補償によるところのメシア期待とは完全に相容れない出来事です。したがっていかなる意味でも、人が求める「しるし」ではないのです。

 ゆえに、主イエスの「十字架の死と復活」は、人が決して要求しえないがゆえに、かかる「しるし」ではないのです。

 「ヨナのしるし」が、かかる人間心理の所産である「しるし」要求に基礎をおく「しるし」ではまったくないところの、「唯一のしるし」であるのは、唯一の神の啓示の出来事である「十字架の死と復活」の「しるし」だからです。

「40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」

 主イエスの十字架の死と復活という「唯一のしるし」の「しるし」こそが、唯一の「しるし」なのでした。

  主は、最後の審判について「ヨナのしるし」と「南の国の女王」を例に出して語られました。

 最期の審判について、この箇所のすぐ前の「木とその実」の譬えのなかで、「裁き」の思想が語られていました。つまり「責任」が問われるという思想です。人は、神によって裁かれます。たしかに審判の主はただ神お一人です。ただし、神に問われ、裁かれるのは、一人一人の人なのです。

33「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。34蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。35善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。36言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。37あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

 この主イエスのみことばは、「裁きの日には責任を問われる」とおっしゃっいました。
「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」と言われたのです。
 「ヨナのしるし」では、「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた」からこそ、「ニネベの人々は」、「今の時代の人々」が裁きの日に裁きの座に引き出されるときに、「罪に定める」のだというのです。「ニネベの人々」はヨナが語る神の言葉を聴いて「悔い改めた」。だから、彼らは裁かれる立場ではなく、裁く立場に立つのだというのです。裁く立場というのは審判するという意味ではありません。神に問われるべき自分たちの責任を彼らは自らに問うてすでに「悔い改め」ている。だから、悔い改めることのない「今の時代の人々」と決定的にそこが違うというのです。だから「ニネベの人々」の「悔い改め」は、「悔い改めることのない人々」を裁く立場に立つということなのです。

 「南の国の女王」の例はどうかというと、「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである」と主は言われました。
 ここで語られている範例は、「35善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」という主イエスのみことばが基準となるでしょう。
 「南の国の女王」は、「ソロモンの知恵を聞くために、地の果てからきた」というその姿勢こそが、みずからの「倉」に「良いものを入れ」「良いものを取り出す」ことなのだということなのだと私は思います。言い換えれば飽くことなく執拗にどんな労苦もいとわずただ神の知恵(キリスト)を求めてやまない姿勢の隠喩となっているのです。
 このような姿勢を示した「南の国の女王」が、神の真理の深奥を求めず、自分自身のなかに固定化されたコンテキスト(文脈)を基準に、「しるし」を要求する「今の時代の人々」の責任を問うというのです。
 ヨナの宣教によって悔い改めた「ニネベの人々」や「南の国の女王」が、裁きの時に、「悔い改めない」「今の時代の者たち」(律法学者とファリサイ派の人々)を「罪に定めるだろう」(有罪判決)というのです。

 しかし、いまここには、さらなる権威をもって佇立するものがいる。

「ここに、ヨナにまさるものがある。」

「ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 「まさるもの」とは、ご自身を暗々裡に自己を啓示したもう主イエスご自身に他なりません。 

 「ヨナのしるし」を示したもう主イエスこそ、唯一の神のしるしであり給ふのです。ここで、主イエスは、ご自身をヨナのしるしが指し示している「十字架の死と復活」を、「ヨナのしるし」を通して予示し、宣言しておられるのです。この深刻な裁きのみことばは、「今の時代の人々」の頑なさを弾劾しているのです。主の弾劾は主の救いへの招きです。弾劾によって、悔い改める(方向転換)猶予を与えていてくださっているのです。

 「今の時代の人々」悔い改めることができない人々は、このときこの場の人々というより、実はいつの時代の人々と言い換えるべきでしょう。すなわち、主イエスの弾劾は、実は他の誰かではない、実にこのわたし自身なのではないか、と自らの責任を問うことこそが大切なのです。

 主イエスの弾劾こそが、救いへの招きだからです。アーメン

 



2025年4月26日土曜日

 2025年4月27日(復活節第2主日)労働聖日(働く人の日)

ルカによる福音書24章13節~35節

「復活者主イエスの顕現」

【YOUTUBE配信について】

これまで、期間限定の公開としてきましたが、しばらく原則公開とします。



  午前の礼拝が坂下教会で、午後の礼拝が付知教会での宣教です。

2回目の宣教なので午後の方がわかりやすいかもしれません。

事前黙想(宣教前の黙想です)

本日の聖書箇所は、いわゆる「エマオ途上」です。

まず思うことは、聖餐へと続く連想です。

弟子たちは、家についてから、復活の主イエスは食事の席についたときのことでした。

そのときの所作を見て、「イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(21節)。

「イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(20節)という所作です。

 弟子たちは、この時に至るまで、旅の道中を共にしてきた人がイエスであるとは気付かなかったのです。

 これをここでは弟子たちの「覚醒の出来事」と呼ぶことにします。

彼らの目前から、イエスの姿は見えなくなりますが、見えなくなるという事と、イエスであると「分かる」という出来事は、繋がっています。繋がっているというべきか、あるいは同時に生起するのです。「分かる」という認知の出来事と同時に、「姿が見えなくなる」という認知の出来事が、同時に起こるのです。

 つまり、イエスが「分かる」という信仰の認識が「覚醒」するという出来事は、イエスの「姿が見えなくなる」という「対象認識不能」の出来事が同時に起きたのです。

 この繋がりは、信仰認識の出来事がいかなるものであるかを如実に物語っています。

サクラメントの出来事がどのような事情で生起して、わたしたちに切迫してくるのか。この繋がりは、示唆しているでしょう。

 聖餐というサクラメントにおいて、わたくしどもが主の晩餐に与るとき、配餐の所作をわたしたちは目の当たりにします。そのとき、パンとぶどう酒は、甦りの主イエスが「分かる」という信仰認識の覚醒が生起するのです。しかし、その具体的な出来事は、決して甦りの主イエスの「姿が見える」ことではなく、「見えなくなる」ことと同時に生起しているということです。

 つまり、主イエスが「私を記念して行いなさい」と命じ給いし、聖餐にあって、わたくしどもはあの弟子たちのように、主イエスが「分からない」状態から、「分かる」という信仰認識を与えられます。しかし、その認識は、甦りの主イエス御自身をその所作や人物を通して写し見ているのではなく、主イエス御自身の姿形は、わたくしどもの認識対象としては「認識不能」だということなのです。「信仰認識の覚醒」と「認識対象の認識不能」という出来事が同時に生起するということです。

 信仰認識の覚醒の出来事が生起する以上は、たしかにこの時この場において、甦りの主御自身は、現臨してい給うのです。それゆえ聖餐は、神とわたくしどもを結びつけるサクラメントなのです。

 さて、「エマオ途上」において、わたくしどもが想起することは、やはり復活の主イエスの「客観性」です。すなわち、先週確認したように、主イエスの甦りは「からだの甦り」であるという現実です。

    13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

 「ちょうどこの日」というのは、主の復活したその日のことです。復活の主イエスは、 クレオパという名の弟子ともうひとりの弟子の二人連れが、エルサレムからおよそ11キロあまり西北の町エマオへ向かって歩いているところに、復活の主イエスがこの二人連れのなかにはいって、歩きながら同道するのです。

 話をしながらですので、時速4キロよりは遅めであったと考えると、およそ4時間弱の道中だったのではないかと推察いたします。

 道中、主イエスと二人の弟子は、客観的にみれば、三人の旅人が話をしながら歩く姿以外のなにものでもない光景が目に浮かびます。

 「身体の甦り」の主イエスは、被造者としての人間の身体とは区別される神的な身体として復活されています。まさしく「身体」ですが、わたしたちの「肉体」とは異なるのです。

 16節には、「16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」とあるように、弟子たちには、同道している旅人が、主イエスだとは気付きません。

 彼らは、先日まで生きておられた頃の主イエスの弟子たちなのですから、その外貌を知らないはずはありません。その外貌、背格好で、誰であるかは一目瞭然の筈なのですが、「二人の目は遮られていて」とあるように、外貌、背格好で明らかに主イエスだと分かる筈なのに、「遮る」もののせいで、「イエスだと分からなかった」のです。

 つまり、二人には「見た目」ではわからない状態だった。

 復活の主イエスは、外貌、背格好が同一であっても、見た目にはわからないという現実だったのです。

 この事実は、実はわたくしどもには大きな希望なのです。外貌や背格好はわたしたちには一切わかりません。知っている人は誰もいないのですから、「わたしはイエスと会いました」などという人がいたら、それはすぐに嘘だということがバレます。そういう嘘つきは世間にはいくらでもいますから、聖書は素晴らしいことに、それが嘘だとすぐにわかるということを、「エマオ途上」で示してくれているのです。弟子たちの「分からない」という事実が示してくれているということなのです。だから「分からない」という事こそが希望になっている。

 くつやのマルチンの寓話が素晴らしいのは、マルチンが出会った少年や、乳飲み子を抱えた女の人が、実はイエスさまだったということでした。主イエスは、外貌や背格好でわからないからこそ、わたしたちの隣人の誰もが、主イエスとして現れてくださるという「秘密」であり得るのです。

 「遮るもの」があったからこそ、この弟子たちがわたしたちの「代表者」たり得たのです。実際、わたしたちは主イエスを直接的に、「わかる」とか「見える」ということはあまりにも畏れ多き事柄です。聖霊の時代に生きるわたしたちにとっては、主イエスは聖霊さまとして現臨されているのですから、姿形、外貌こそがむしろ主イエスとの出会いを「遮るもの」なのです。直接的見神は否定されなければならないのです。なぜなら私たちは神ではないからです。神さまは神さまによってしか相まみえることはできないからです。直接的見神を主張することは自己神化という罪を犯しているのです。

 二人の弟子にとって、主イエスの外貌、背格好は自明だったけれでも彼らには「遮る」ものがあって、外貌、背格好が完全に一致、同一であったにも関わらず、主イエスと認識できなかった。この認識不可能という現実は、復活者イエスの身体がわたしたちの肉体とは別の存在だということを示していると言えましょう。人間の五感では認識不可能なのです。「信仰」という出来事、すなわち神の意志によってのみ生起する奇跡によってしか、復活者主イエスを認識(わかる)することは不可能なのです。

 「エマオ途上」の弟子たちには、神人主イエスを認識する認識の器官が存在していませんでした。

 彼らが、甦りの主イエスを認識した瞬間は、あの聖餐のときの所作と同じように、主がパンを裂いてお渡しになった時でした。

 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

    弟子たちの「覚醒の出来事」が生起したときでした。



2025年4月20日日曜日

 2025年4月20日(復活節第1主日・復活日)14:00

            坂下・東濃3教会合同礼拝


   マタイによる福音書28章1節~10節

「キリストの復活」

主の復活をお慶び申し上げます。
主の復活の日が週の初まりとなったことは、人類歴史において、主の甦りが、わたしたち人類の新しい創造が開始されたことを意味します。
仏教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、ヒンズー京都であろうと、無神論者であろうと、この日が、新しい1週間のはじまりである事実は、共同的に共有しています。
 すべての人が、この日から、新しい時を生きるということなのであります。
主観的には、主イエスを知る人も、知らない人も、この事実を共有して、時を旅しているのです。

 まずこの現実を素直に喜びたく思います。
どうか、キリスト者以外の人々も、今日という日を、今というこの時をもって、新たに生きる決意をしようではありませんか。

 さて、今日はマタイによる福音書によって、復活事件を黙想します。といいますのは、福音書によって復活の出来事の記述がさまざまだからです。
同じ現実を、福音書記者によって、その伝承・報告が異なることは、この出来事の歴史性を疑う根拠にはなりません。
同じ現実の「記憶」が人によって、また共同体によって、その信仰的な強調点が特に際立って記憶されたり、伝承されたりすることは、特に古代世界において、
訝る必要はないと考えられるからです。現代のように、記録媒体がデジタル化されて、野球の審判でも「リクエスト」で判定がひっくりかえるくらいですから、二千年前の古代世界に生きていた人々の、当然の時間世界、空間世界で、それぞれが特異な記憶を伝承してゆく過程で、遷移してゆくことは不思議なことではありません。
むしろ、遷移していて当然なのです。

 ですから、福音書間での報告の相違は、むしろそのことによって、復活事件そのものが、そのような人間的な要素による相違にもかかわらず、核心となる主イエスの甦りについて、まったく一致していることこそ、この出来事の史実性の根拠とみるべきでしょう。

前置きはここまでにして、本題に入ります。
本日の主たる黙想は、復活の出来事の客観性です。
客観性とはどういうことを意味しているかといえば、それは主観性とは異なり、主観的な出来事ではない、つまり、人の主観がどうであれ、それとはまったく独立している出来事だということです。
 主観から独立しているということ、そのことは、その出来事がどのように体験されているかどうかということとは、「無関係にその出来事が起きている」ということです。
 まず、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともうひとりのマリアが、墓を見に行った。」(1節)とあります。
 ユダヤ教の安息日は、今日でいうと土曜日になりますから、まさにその翌日の明け方ということになります。
 キリスト者共同体は、この日、すなわちまさにユダヤ教の安息日の翌日を、「週の初めの日」へと変更したということが、この箇所で明らかにされています。
 当時は、主イエスの弟子たちはみなユダヤ教徒で、イエス御自身もユダヤ教徒でしたから、そのユダヤ教徒にとっての「安息日」を勝手に恣意的に変更することなど絶対あり得ないことでしたから、復活事件が起きたその日をもって主の復活の日として、すなわち人類創生の開始された日として記念したことによってしか、安息日の変更の説明になりません。つまり、この1節で、主の復活事件の史実性、客観性が、すでに証明されていることになります。

 次に、わたしたちは、2節から4節までの、「天使の出現」、それに対する「番兵たち」の反応を見ます。
 「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(2節~4節)
 「大きな地震が起こった。」 地震はなんといっても自然現象ですから、主観的な何かではまったくありません。つまり「客観的な事件」です。太陽が善人にも悪人にも等しく太陽であるのと同じで、誰にとっても地震は地震です。
 ただ、誰にとっても同じ客観的事象を経験する側の人によって、主観的な経験内容は異なってきます。
 「主の天使」が「天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」、「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」。これらの出来事は、自然現象とは言えない。自然現象は、自然法則に従っている事象です。つまり自然の法則性がかならずあって、その法則通りに繰り返し発生してくるものが自然現象ですから、一刻一刻と再現されつづけているので、この「天使の出現」のように、全宇宙の全時間のなかで、ただ一度だけ起こった出来事は、自然現象とは言わないのです。
 言い換えれば、ここで起きたことはただ一度限り、この主の復活の日にだけ起きた出来事なのです。
 ただ一度限り、起きた出来事であったことだからといって、それが主観的な経験だということにはなりません。
 この出来事もまた客観的な出来事だと言わねばなりません。
 なぜなら、この出来事に遭遇してしまった「番兵たち」は、「主の天使」と遭遇して、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と報告されています。
 「番兵たち」ですから複数人いたことになります。
 この複数人の「番兵たち」は、自分が見たいものを見たのではない。信じたいものを信じたのでもない。むしろ彼らにとっては思いもかけない対象と遭遇したのです。このことは、彼らの願望とか、彼らの信仰による幻想とか、そのような彼ら自身が生み出した心象風景という主観的な事柄ではないことを意味しています。
 しかも、そのことは個人的な経験ではなく、複数人が同時に「死人のようになった」という変化を彼らにもたらした。
 つまり、かれらにとっては想像もできない、恐るべき経験によって、彼らは「死人のようになった」。身体的に「死人のように」なったということです。
 そしてさらには、この番兵たちの今後について、マタイによる福音書は11節から15節において、次のように報告しています。  
「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」
「番兵たち」は、主の天使と思いも寄らない遭遇でしたのに、ただちに「この出来事をすべて祭司長たちに報告」しています。そして、命じられるまま、虚偽の風説を拡散させたのです。彼らは、神の啓示の出来事に遭遇していながら、イエスの復活を知りながら、彼らには、イエスへの信仰のかけらも感じられません。それどころか主イエスの復活事件を、弟子たちによる死体の窃盗事件だという虚偽の発信者となったのです。
この番兵たち数人は、神の啓示に遭遇していながら、そのことによって彼らの主観においては、実際に経験した出来事を深く熟考することよりも、地上の権威にすぎない祭司長に従うことのほうが優先的な事柄だったのです。彼らにはイエスへの信仰は生起していないし、神への信仰への深い祈りも熟考もありません。これが彼らの主観です。
 したがって、「天使の出現」というただ一度限りの啓示の出来事は、啓示の出来事として客観的な出来事であったことが、「番兵たち」の反応によって、逆説的に証明されているのです。
彼らは、「主の天使」に遭遇し、そのメッセージを聞いています。空虚な墓の事実を知ります。しかし、彼らは、「主の天使」の使信内容を知りながらも、そのことには蓋をして、イエスの死体がなくなっている「空虚な墓」の現実を祭司長たちに報告したのです。
 神の啓示に遭遇しながら、「番兵たち」には信仰は生起せず、「マグダラのマリアともうひとりのマリア」には信仰が生起しています。
この両者の相違と区別が、主の復活事件の客観性を担保していることになるのです。
第三の論点に行きましょう。8節から9節までを見てみましょう。ここには「からだの甦り」という事実が報告されています。
 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」
 婦人たちは、「恐れながらも大いに喜び」即座に「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」と報告されています。
初代教会の時代から、主イエスのからだの甦りの報告を信じられない人は、多くいました。弟子でさえも、湖上を歩かれた主イエスを「幽霊」だと勘違いしたくらいなので、何も不思議ではありません。番兵たちが主の天使と遭遇し、身体的に病態を呈するほどの衝撃を受けていながら、その体験を封じ込めたくらいです。甦りの主イエスとじかに出会って時を共に、食事をも共にしていても、まだ「わきばらに手を差し入れなければ信じない」という者もいたくらいです。
甦りの主イエスと出会ったという婦人たちの報告を、信じない弟子たちがいても不思議ではないし、婦人たちが出会ったのは、「主イエスの霊」だなどと、自分勝手な想像に封じ込める人たちがいても不思議ではありません。
古代世界でも現代世界でも、事情はまったく同じです。
「主イエスの甦りは、主イエスの霊の出現なのだ」と、自分の頭の中で理解可能な解釈、「そういうことなら信じられるが、からだが甦ったなどとはとても信じられない」という人々は、たくさんいます。そういう人々は「霊」的な出現ならば信じるというのですが、そういう信じ方をすれば、いくらでも「作り話」ができるので、似たような「作り話」を信じこませることに成功した人は、信者を獲得します。あらたな「宗教」を起こしします。「新興宗教」が星の数ほど出てくることになります。
 しかし、聖書の報告は、そのような「霊的出現」「「霊的に復活」した」などとはまったく語っていません。
婦人たちは、主の天使の使信をまっすぐに信じました。
「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。』」
天使たちが言ったことは、「かねて言われていた通り、復活なさったのだ。」という事です。
  「9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」 
婦人たちは、復活の主にであったときに、主のみあしにすがりついています。「霊的出現」ならば足に抱きつくことは不可能です。「身体」だからこそすがりつけるのです。「霊的出現」ならば、そもそも「復活」とは言えません。
「霊的出現」は、時も所もを選ばず、イエスの意志によって自由自在に、いつでもどこでも起こらねばなりません。
「霊的出現」ならば、「遺体の置いてあった場所を見なさい」と語る必要はありません。物体としての「遺体」は墓に存在していたはずです。しかし実際は、「遺体」はなかったのです。だからこそ、「遺体のあった場所を見なさい」と天使は命じたのです。天使の命令は主イエスの身体の復活が起きたのだということを、示しているのです。
 そして、天使は、弟子たちに、告げるように命じます。「ガリラヤで、主イエスにお目にかかれる」と。主イエスが出現される場所を指定しています。
「霊的出現」ならば、場所の指定は無意味です。
場所の指定は、復活の主イエスの「身体」の出現の指定です。
この「身体」は、わたしたちの「身体」とは、まったく異なる「復活のみ身体」であることを明示しています。
「主イエスの復活の御身体」は、地上で死なれた時までの「み身体」とは、決定的に異なっていることが示されているのです。
主イエスの復活の御身体は、わたしたちの「身体」とは異なる「身体」なのです。
特定の時と場所に出現された「復活の主イエス」確かに、「身体」をもっておられたもうた。
その復活の主イエスの御身体は、弟子たちに出現し、天に昇り、神の右に座したもうた。特定の時と場所に出現した時は、この特定の時と場以外にはありません。
その後は、主は聖霊降臨の出来事によって、キリストの御身体を、聖霊として地上に現臨されています。
だから、わたしたちキリスト者共同体は、主イエスの地上における、復活の御身体の写しであらねばなりません。
わたしたちは、復活の主の御身体の一部であり、「影」なのです。
「影」にすぎないわたしたちは、やがて、主の最期の審判によって、正しい裁きを受けて、
主の復活の御身体と等しいさまに変えられる希望を与えられています。
そのとき、わたしたちは、身も心もすべてが新たにされ、主の甦りの御身体とひとつにされるのです。
この希望のものとに、わたしたちはあるのです。

2025年4月10日木曜日

 2025年4月13日(四旬節第6主日) 棕梠の主日(受難週19日まで)

◎田瀬・付知合同 14:00 四月十三日は付知教会で礼拝をします。

◎坂下教会    10:00 

『主イエスは十字架上で殺害されるために来られた』


宣教は、実際には、原稿を見ずに語ります。いわば即興「ライブ」です。事前の原稿にはないこと、また事前の原稿にあることが省かれることが多々あります。

事前黙想原稿

『主イエスは十字架上で殺害されるために来られた』

マタイによる福音書27章32節~56節

    32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

    33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、

    34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。

    35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、

    36そこに座って見張りをしていた。

    37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

    38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。

    39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

    40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

    41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。

    42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。

    43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

    44一緒に十字架につけられた強盗たちたちも、同じようにイエスをののしった。

    45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

    46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

    47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。

    48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。

    49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。

    50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

    51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、

    52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。

    53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。

    54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

    55またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。

    56その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 この十字架の出来事に登場する人々を見てみましょう。

      ①兵士たち(32節)、

      ②キレネ人シモン(32節)、

      ③二人の強盗(38節)、

      ④十字架の前を通りかかった人々(39節)、

      ⑤祭司長たちや律法学者と長老たち(41節)、

      ⑥十字架上の主イエスが叫ばれたとき、そこに居合わせた人々(47節)、

      ⑦そのうちの一人(48節)、

      ⑧他の人々(49節)、

      ⑨眠りについていた多くの聖なる者たち(52節)、

      ⑩眠りについていた多くの聖なる者たちが墓から出てきたときに、それを目撃した多くの人びと(53節)、

      ⑪百人隊長やイエスの見張りをしていた人たち(54節)、

      ⑫遠くから見守っていた大勢の婦人たち(55節)、

      ⑬マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母(56節)

 重なる人物もいますが、登場する人々はざっと13のキャラクターが挙げられます。

  (主イエスに対する態度によって色分けしています。)

   こうして俯瞰してみると、主イエスに対する態度が、登場する場面が展開してゆくとともに、大きな変化がみられます。

   44節までの人々は、キレネ人シモンを除けば、主イエスへの罵倒・中傷・試み・嘲笑の態度・発言をしています。

 しかし、午後三時をすぎて、主が父なる神にむかって叫ばれたときの描写に登場する人々は、主イエスに対して宗教的な関心を寄せていたり、まさに死んでゆくイエスへの気遣いを見せていたりしています。つまりイエスの十字架上の死を境目に、人々の態度の変容が窺われるのです。

 イエスを嘲笑する人々がすべて変容したのかどうか、詳細は不明です。たしかに嘲笑・中傷する人々のなかには、イエスの死後も相変わらずイエスへの態度を頑なに変えない人々も、あるいはいたかもしれません。

 しかし、この変容の描写の展開を見ると、主イエスを嘲笑し、憎悪と言っても過言ではないような態度を示していた兵士たちが、54節で描かれている「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちと同じ人々であったという可能性は、否定しきれない、とわたしには思えるのです。

 つまり、イエスを憎悪していた者たちが、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」

可能性です。

 極端な言い方をすれば、イエスを殺す側で、この処刑場で立ち会っていた処刑人たちが、主イエスの死の時に、起きた出来事を目撃して突如として信仰告白に至ったということを読みとることができるのです。

 この劇的な出来事というものが、あったからこそ、初代教会の信徒たちが、殉教をも超えてゆく信仰告白を支える「神の死の記憶」として、魂のささえとすることができたのではないか、わたしにはそう思えるのです。

 まさに、主イエスを殺害した当時者たちが回心した出来事がここに起こったのでした。

 この事実は、初代教会のなかでの回心の証言として存在し続けたはずです。この出来事は、初代教会の信徒たちの中では、イエス殺害に関わった処刑人でさえもが、証言者として、兄弟姉妹として受け入れられていた!ということを意味しています。

 まさに仇敵、怨讐ともいうべき主イエス殺害の当時者たちを、キリスト者共同体は、主イエスにある兄弟姉妹として受け入れ、証言者として尊敬し、伝承してきたのです。

 それでは、逆に「背信者・棄教者」の存在に対しては、わたしたちはいかに振る舞うべきでしょうか。

 その根源的な問いを遠藤周作は『沈黙』のなかで、キチジローという「裏切り者」への赦しというテーマで浮かび上がらせました。

 キチジローの密告によって、ロドリゴは捕縛されます。まさにユダそのものです。しかし、教会はこの弱きもの、信仰薄きものを赦します。

 背信者・棄教者に対して私たちがとるべき態度、心的な態度は、キリストを殺害した者を、主イエス御自身が愛したもうたという、神の慈愛に満ちた態度こそに、唯一の模範を求めるのです。

 なぜなら、主イエスは御自らを殺害した者の赦しを、神に懇願されましたからです。

 この愛敵の態度こそ、背信者・棄教者への唯一の根源です。

 愛敵なのです。敵愾心ではなく愛敵の心なのです。


 主イエスを殺害した兵士たち、見張りの者たち、百人隊長らが、同時に「回心」したのは、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れて」のことでした。その「いろいろな出来事」とは、52節、53節に語られている死人復活の出来事を指しています。

 つまり、主イエスが復活した後、死人の甦りがただちに起きているというのです。

 わたしたちは、ここでも、自分の自然的理性が納得出来ない場合には、そのことには蓋をして、合理的な説明、たとえば、神話的表象とか、古代人の信仰による福音書記者の想像とかで自分を納得させようとすることは避けます。なぜなら、福音書記者の「創作」などということであれば、当時主イエスの処刑の現場に「居合わせた人びと」が現に存命している時代ですから、その人たち(イエスの死の証人たち)が、なにゆえに、嘲笑する者から、「本当に、この人は神の子だった」と信仰告白するという者へという劇的な人格変容が起きたのか、説明がまったくつかないからです。初代教会に存命中の当時者たちが、マタイが作り話を書いているのなら、許すはずはありません。

 彼らが回心した現実が作り話だということになりますし、何より彼らが回心した原点である、現実にその出来事(死人の復活)が起きたからこそ、「恐れた」という心的な激変が起こったのにもかかわらず、その重大な事件が実際は何もなかったことになってしまうからです。それこそ非合理的です。

 そればかりか、ここで甦った人たちの出現は、イエス殺害者の当時者の回心を呼び起こすという直接の出来事だっただけではないはずです。復活者イエスが弟子たちに、何度も御自身をお顕しになられたけでなく、「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」のですから、この「聖なる者たち」はただ出現したに留まっていた筈はありません。この甦った人たちもまた、初代教会の構成員として、兄弟姉妹、さらには指導者として霊的な牧会を担ったことでしょう。

 つまり初代教会には、死者のなかから甦った人びとが多数存在していて、現世を今生きている信徒と共に生きていた、そういう時代が教会にはかつて存在していたということです。

 この十字架の出来事、甦りの出来事を、わたしたちは真剣に受けとめる必要があります。

 つまみ食いのように、お気に入りのところは受け入れるけれども、納得できない部分は、蓋をする式の「信仰」は、むしろ非合理的なのです。神さまにはできないことは何一つありません。

 神さまのなさる出来事は、科学的に検証可能な領域をはるかに超えた異次元の世界です。信仰は科学とは何一つ矛盾はしません。科学が対象とする領域は、神さまの領域とは異なるのです。神さまが創造したもう被造物の世界は、限りなく科学の対象として存在します。しかし、被造物の世界は、神さま御自身ではないのです。

 神の独り子なる神の十字架の死と復活の出来事は、科学的検証の領域ではないのです。ただし信仰の対象を科学的に、理性的に受けとめて祈りをもって考え抜き、その事情を知ろうとすることは、それ自体は神学的サイエンスそのものです。

 墓から復活者たちが出現し、多くの人に現れた。その出来事に出会い、恐れ、主イエスへの信仰告白「回心」が起きた、この一連の出来事を徹底して科学的に考究することは、信仰の認識の深化に他なりません。

 ゆえに、わたしたちは、身体の甦りを、真剣に受けとめ、祈りの内に考えぬかねばならないのです。

 







2025年4月1日火曜日


2025年4月6日(日)四旬節第5主日 

マタイによる福音書20章20節~28節

「十字架の勝利なき人倫なし」


事前黙想


マルコ伝ではゼベダイの子ヤコブとヨハネが直接に、主イエスに願い出ることというエピソードですけれど、マタイ伝では、ヤコブとヨハネの母が、息子二人を側近として重用してほしいと、願い出たということになっています。

両者の相違は、大きな事柄として区別されるべきです。ヤコブとヨハネが直接に願い出たということであれば、弟子としての心根に、「権力願望」という罪があることが浮かび上がります。母親からの願い出であれば、子離れできない親の自己実現の問題が浮上してきます。

いずれも主イエスに従う信仰の道にあっては、捨ててゆくべき事柄でした。マタイ伝で、主イエスが明らかにされた信仰の道は、マルコ伝とはニュアンスが異なります。28節「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」とあり、「同じように」と主の苦難の道と人間の信仰の道のあいだに「類比」があることを明確に語っておられるからです。



事前黙想その2

マタイによる福音書20章20節~28節

「十字架の勝利なき人倫なし」

「堕落論の解明」という主張こそ罪の極み

神と人との交わりが断たれ、関係が喪失していること、これを「罪」という。

われわれ人間は神と人との関係を一望する視座を持ち得ない。

人は被造者であるから創造者と被造者の関係を一望する身分をもたないのである。

ゆえに、「罪」をわれわれは、その存在の本質からして、そもそも「認識」できない。

われわれ人間にとって、「罪」を認識すること自体が、「神」を認識することができないのと同様に、

不可能なのである。

「罪」は、ゆえに、その影のようなもの、比喩としてただ、示されるままに、知らされるのみなのである。


当然、神が授与したもうた「十戒」は、人倫において、われわれに「罪」の認識を与える。

神の誡命を守ることを神は命じられたのであるから、誡命に違反するということによって、われわれには、「罪」の認識が示されることになった。

しかし、それは神と人との関係喪失の結果を認識しているにすぎない。

「死」とは、神と人との関係喪失の事態をいう。

誡命を破ることによって、人は既に死んでいるが、死んでいることすら認識してはいないのである。


誡命に違反することによって、「罪」の認識がいくらかでも与えられるならば、それは恵みによるのである。

誡命に違反しても、「罪」の意識すら与えられないという「罪」に陥っている人は神と人との関係喪失という「死」を、

なにほどにも知ることはできない。

「死んでいること」すら認識できないのである。


罪の限定的理解は、罪を限定するという意味での罪を、既に犯している。

既述したように、人間には罪を認識する能力は存在しない。

神の誡命に違反することによって、罪意識を恵みとして与えられることはあっても、それは罪自体ではなく、罪の結果の一部にすぎないのだ。

罪を限定することは、神を概念化することを前提としている。

概念化された神は、神御自身では、もちろんありえない。


神は概念化された瞬間から、人の思考内の道具に化しているからだ。


ゆえに、「堕落論の解明」などというのは、児戯に等しい。

それにとどまらず、それ自体が罪の結果なのである。


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さて、語調を変えて、今日の聖書の箇所に話を戻しましょう。

以下聖書の引用

20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」



「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」

主イエスのこの言葉を読んだときに、わたしのあたまに二人の人物が、重なって浮かんできました。

一人は、アドルフ・ヒトラー、もう一人はドナルド・トランプ。

なぜ浮かんできたのでしょうか。

偶然、聴いたヒトラーの演説とトランプの演説が、そっくり同じようなセリフだったからかもしれません。

ヒトラーは言いました。「ドイツ国民のために」。

トランプは言いました。「アメリカ国民のために」。

 どちらも「ために生きる」と言うのです。

たしかに偶然と言えば偶然ですが、符合したのは、不思議ですがけれど、わたしのあたまには、二人がそっくり同じことを言っていると記憶されていたのです。

二人とも、主イエスの言葉どおりに、「権力を振るっています。」

ヒトラーは「救世主」を気取り、トランプは自分はクリスチャンだと言っています。

けれども、主イエスは彼らのようになってはならない。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」と命じているではありませんか。

「ために生きる」と吹聴する人は、その言葉で「権力をふるっている」のです。


しかし、主イエスは、「権力をふるう」ことを禁じておられるのです。


人が二人いるところには、しかし、力の差がいつしか生じてきて、「権力」関係がうまれてしまうのではないでしょうか、と。

権力関係は避けられないのではないかという疑問が湧いてきます。

たしかにそうです。

完全に平等という関係が望ましいけれども、たとえ水平的な人間平等という理想は尊いものです。

けれども、現実の人間関係にあっては、状況によっては必ずといってよいほどに、力の高低、大小といった「差異性」が存在してくるものです。


極端な例かもしれませんが、わたしの脳裏には、アウシュビッツの収容所が浮かんでいます。

この場に於いて、殺す側の人間と殺される側の人間という極限的な権力関係が存在していました。

この権力関係にいま、焦点をあわせるのではなく、コルベ神父とコルベ神父によって命をとりとめた人との関係に、わたしは関心があるのです。

それだけではなく、コルベ神父と生殺与奪の力をもつナチスの死刑執行人との関係もあります。

わたしは、コルベ神父は、主イエスの命令に、忠実に従った人だと思います。

わたしの脳裏に登場しているこの三者の生き方、そして死に方を想起するとき、主イエスの命令に忠実たらんとしたのは誰であったのか。

誰の目にも明らかなのではないでしょうか。

ヒトラーは、600万人の人々を毎日ガス室に送りながら、ベルクホーフの豪華な別荘で愛人と優雅に暮らしていた。

アウシュビッツ・ビルケナウで餓死室へと送られる側に、マクシミリアノ・コルベもフランツィシェク・ガヨウィニチェクもいあわせていたのです。

二人の間には、そこにただいあわせたということ以外には何の接点も交わりもありません。

しかし、まことの神、主イエスは、世界のいずこにいても、その現場に必ずいたもうのです。

ふたりの間には、主イエスの命じられた神の言葉が存在していました。


「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」


「偉くなりたい」という事柄が意味するものは、ヒトラーやトランプのような権力をふるうことでないことは明らかです。ですから、「偉くなりたい」という事柄は、主イエスが示したもう「偉大さ」への渇望でないはずはありません。

「偉くなりたい」という願いは、権力をふるうことを禁じておられるのですから、権力を否定した意味でなければなりません。

具体的には、「仕える者」になり、「皆の僕(奴隷)」となることを意味していました。

二人の間に、力の関係が、不可避なのだとすれば、その力の関係において、「仕える者」「僕(奴隷)」となることを、「偉くなる」と言われたのです。

しかも、その「仕える者」「僕(奴隷)」という身分、立場に身を置くということは、さらに具体的に、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」ということを意味していました。

 「人の子」主イエスが、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(贖い)として自分の命を献げるために来た」すなわち、十字架の死をもって、人類の贖い(身代金)となって「自分の命を捧げる」ために受肉されたという「贖罪の死」こそが、人の行くべき道の範であると示されているのです。

 ここには、明らかな「類比」が存在します。

 主イエスの十字架の道と人倫の道とのあいだには、明らかな「類比」があるのだと主イエスは語られたのです。

 そえは「同じように」という連結のことばによって示されています。


 あなた方が「偉くなりたい」のであれば、人倫において、主の十字架の犠牲の道と、「同じように」、「仕える者」「僕(奴隷)」となりなさい、と命じておられるのです。

 コルベ神父とフランツィシェク・ガヨウィニチェク(コルベ神父が身代わりのなって命を救われた人)のあいだには、この主イエスの命令がたしかに存在していたのです。

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母には、主イエスが、いかなる道を歩んでおられるのか、まったく理解することができなかったのでしょう。彼女が主に願い出た望みは、この世でいうところの「立身出世」「栄達」願望と言ってもいいくらいの、「欲望」なのでした。息子二人も母親の陰に隠れているように見えますが、まったく同じ「欲望」の虜にすぎません。

 ですから、

 「イエスはお答えになった。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』」と。

 主イエス御自身が、今十字架の死に向かって、歩んでいると言うことを、既に弟子たちに告知していたにもかかわらず、最初から従ってきていた弟子にすら、理解されてはいなかったのです。弟子たちに信仰がなかったということではありません。信仰はあるのです。忠誠心もあるのです。思慕もあるのです。尊敬心もあるのです。

 けれども、主イエスの目的を、正確に理解することは、まったくできでいなかったということが、この彼らの願い出によって、明らかになってしまったのです。

 「弟子の無理解」は、主イエスの十字架の極みにおいてすらも、継続してゆくのです。そして、そのこと自体が主の十字架の苦難の内容でもあるのです。

 主は最愛の弟子にすら理解されずに、最期を迎えねばなりません。それもまた苦難の内容そのものをなしています。

 主イエスの孤独、最期まで主イエスは、たった一人、誰からもキリストとしての聖なる使命を理解されないままに、死にたもうたのでした。


 『このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』

 この杯が何を意味しているか、明らかでしょう。十字架の「苦杯」以外の何でしょうか。

 「できます」と即座に答える弟子に、「苦杯」の意味が理解できているはずもありません。


 しかし、主は続けます。

 「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」

 

「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」

 主は、弟子たちが、いまここではまったく理解できていない「苦杯」を、弟子たちは「飲むことになる」と言われました。これは予言なのです。

 弟子たちが、今はまったく理解できない「十字架の死」という「主の杯」を、理解しないままに「できます」と答えているのにもかかわらず、「わたしの杯を飲むことになる」と主は言われました。

 理解できない弟子たちが、将来において、主イエスと「同じように」「十字架の死(殉教)」という苦杯」を飲むことが出来る日が来ると、主は予言されたのです。

 いまの弟子たちには、このみことばの意味は、おそらく「謎」にしか聞こえていないことでしょう。

 

「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」

 他の10人が憤慨したのは、この弟子たちも、二人の弟子とまったく同罪であったということを示しています。彼らも、主の十字架の道行きについて、無理解のまま、主イエスに対して、「この人についてゆけば栄達の道が開ける」という自己欲望達成の道具にしているにすぎないのです。

 

 このエピソードが確かな希望をわたしたちに与えている事柄がみえてきます。

  いかに、弟子たちすべてが、ただの一人も主イエスを理解していないとしても、主イエスは、この無理解な弟子たちを決して見棄てたまわなかった。

それどころか、この無理解な弟子たちに、福音宣教のすべてを、託されたのです。

 人は理解できるからこそ、従えるのか、いやそうではないと聖書は事実をもって伝えているのです。

 人は理解して信ずるのではありません。

 信ずる魂は、人の主観、経験、体験という限界をはるかに超えた神の力の賜物なのです。

 信ずる魂を、神が与えたもうのです。

 神が与えたもう魂は、みずからの自己欲望を捨てることができ、主イエスが歩まれた道と「同じように」行くことが可能にされるのです。

 コルベ神父は、神から与えられた魂を、主イエスの御声をままに聴き、従いました。

 決して、コルベ神父は、自己の欲望達成のために、身代わりの死を歩んだのではないのです。