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2025年3月21日金曜日

2024年3月23日 (四旬節第3主日)

  〈受難の予告〉

  マタイ 16:13~28、  詩編 86:5~10


黙想   サタンの視点、「キリストは決して殺されてはなりません」

  ペトロの信仰告白を、主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と、信仰は人のわざではなく、天与の賜物だと、祝福されます(幸いだ)

 ところが、ペトロの信仰告白を祝福した直後から、主はご自身の受難の予告をかたり始めるのでした。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」

 ペトロの信仰告白は、主イエスが「だれであるか」という事柄についてでした。ペトロは、イエスがメシア(キリスト)、生ける神の子だという認識内容を告白したのです。この告白は正確な認識でした。だからこそ「あなたは幸いだ」と主は祝福されたのです。

 しかし、この信仰知には、神の子・キリストが何をこそなしたもうお方であるかという信仰知が含まれていませんでした。それは主の受難予告に対してペトロがとった行動によって明らかになったのです。ペトロが、受難予告を語りたもう主イエスを諫め始めたからです。主は、これに対して、先ほどとは正反対に超弩弓の叱責をされます。「サタン、引き下がれ」と。

 祝福と叱責。ペトロに対する真逆の主の態度が示す事柄によって、判明することが二つあります。

 第一には、信仰はただ神ご自身の自己贈与によって生起するということ、そしてこの告白は「陰府の力も対抗できない」という不滅性を有していることです。それはペトロの態度が「サタン」呼ばわりされようといささかも解消されはしません。

 第二には、主が「三日目に復活することになっている」と明言されているにもかかわらず、ペトロは主の「苦難と死」について、「そんなことはあってはならない」と、否定したことが「意味するもの」です。

 それはペテロが自らの人間的な視点を、主イエスが完遂しようとされる人類救済のみ業に対して、押し被せて、これを否定したことが「意味していたもの」です。その「意味したもの」とは、「わが師イエスこそは生きてこの地上で、地上の王となって世界を支配するお方であるべきです」という「肉の視点」でした。彼にとっては「わが師イエスは決して殺されてはならないお方」だったのです。彼はそう考えた。この「肉の視点」こそあの荒野で、主イエスを誘惑したサタンの第三の誘惑そのものに他なりません。ゆえに主イエスは、あの時と同じみ言をもって、この「肉の思い」を退けたもうたのです。この怒りの叱責こそ、ペトロの魂にむけての神の独り子なる主の厳しい愛の言に他ならないのです。



2025年3月15日土曜日

 2024年3月16日 (四旬節第2主日)

マタイによる福音書12章22節~32節



『ベルゼブル論争』

本日の黙想はベルゼブル論争と言われる有名な箇所です。
 主イエスが弱き人々の病を癒し、障害を取り除き、悪霊を追放するみわざを行うと、パリサイ人らは、それは「悪霊の頭ベルゼブルによるものだ」と断定して、中傷しました。
 パリサイ人が、主イエスを攻撃する材料として、主イエスの行われる奇跡に対して、その解釈、意味づけを、そのようにしたことは、ある意味で当然だったことでしょう。しかし、彼らの内心は、決して主イエスへの敵意・憎悪で一色だった訳でもなかっただろうと、思われます。なぜなら、主イエスの奇跡は、やはり奇跡以外のなにものでもなかったし、その奇跡はたまたま一件とか二件というようなものではなくて、数知れず起きていたし、これらを経験して、実際に癒された人々や、目撃していた家族や親族、近所の人々は、そのような不思議で、しかも力ある業は、神から遣わされたのでなければ決して起きないだろうと、圧倒的な多数の人々は考える他はなかったのですから、群衆が等しく主イエスの力は神の力によると信じているなかで、パリサイ人らは、同じ経験をしたり、目撃しているにはいるが、彼らとしては決して信じない、信じたくはないという彼らの立ち位置では、群衆の思いと自分たちの思いとを同調させる訳にはいかない。なんとかして、群衆が主イエスに惹きつけられてゆくことを阻止しなければならない、こう考えるしかなかったのです。
 いわば彼らを宿命づけている立場からの要求に、主イエスの奇跡の驚異的な力に心動かされながらも、どこまでも固執しなければならなかったのです。
 だから、主イエスのこの驚異的な力は、神さまからのものではなく、悪霊の頭ベルゼブルからのものだという「こじつけ」「難癖」をつけないではいられなかったのです。確かに、このイエスという男のしている業は驚異的な奇跡・しるしには違いない、しかしそれは悪霊の頭にだってできるだろう。「悪魔の強大な力を背景にこの男はしるしをなしているに違いないのだ。」このような解釈・意味づけをすることにより、群衆が主イエスに心酔してゆくことを阻止しようとしたのです。
 しかしこのような断定は、実は彼ら自身の墓穴でもあったのです。

2025年3月10日月曜日

 2025年3月9日四旬節第1主日

マタイによる福音書4章1節~11節

『荒野の誘惑』



2025年2月26日水曜日

 2025年3月2日公現後第8主日

マタイによる福音書14章22節~36節

「湖上を歩きたもう主イエス」




事前の黙想

湖上を歩く主イエスの奇跡について、考えてみましょう。

  「水の上を歩くことなどできるはずがない」、子どもでもこのように考えることでしょう。ファンタジーならばともかく、現実としては考えられないと思う人が殆どではないでしょうか。このような出来事が本当に起こったとは信じられないと思う方は多いことでしょう。

 わたしも、主イエスでない他の人が、このようなことをしたというのであれば、決して信じません。

 まことの神にしてまことの人でありたもう方(神人)イエスであられるからこそ、このような出来事が起こったと考えるならば、逆に出来ないはずはないと思います。

 福音書にこの出来事が書き残されたという事実を考えるとき、かくも簡潔に事実として記述されていることは、事実この出来事があったからこそ残されているとしか考えられません。これを初代教会の「信仰のイエス」による虚構だとか、創作だとかですませてしまえるのは、自分に理解出来ないことを自分の理解可能な枠のなかにおさめてしまおうという「合理化」にすぎません。

 全能の神にできないことは何一つないのです。


2025年2月24日月曜日

 2025年度からの礼拝スケジュールが変更となります。

◎東濃3教会合同礼拝は、祝祭主日のみとなります。

 イースター、坂下教会にて。

 ペンテコステは、付知教会にて。

 クリスマスは、田瀬教会にてとなります。


◎合同礼拝以外の週は、

 坂下教会の礼拝は午前10時開始で固定します。

 田瀬と付知の礼拝は、交替で、

 両教会の合同(田瀬・付知)で行います。

 開始時間は、午後2時で固定します。 

 第1、第3、第5週は、田瀬教会にて。

 第2、第4週は付知教会にてします。

 どうぞよろしくお願いいたします。 

         東濃3教会

2025年2月18日火曜日

 2025年2月23日(公現後第7主日)

マタイによる福音書15章21節~31節

「残の信仰」


2025年度からの礼拝スケジュールが変更となります。
◎東濃3教会合同礼拝は、祝祭主日のみとなります。
 イースター、坂下教会にて。
 ペンテコステは、付知教会にて。
 クリスマスは、田瀬教会にてとなります。
◎合同礼拝以外の週は、坂下教会の礼拝は午前10時開始で固定します。
 田瀬と付知の礼拝は、交替で、両教会の合同(田瀬・付知)で行います。
 開始時間は、午後2時で固定します。 
 第1、第3、第5週は、田瀬教会にて。
 第2、第4週は付知教会にてします。
 どうぞよろしくお願いいたします。 
    東濃3教会


2025年2月17日月曜日

  2025年2月16日公現後第6主日

マタイによる福音書5章13節~16節

『地の塩・世の光』