2024年3月23日 (四旬節第3主日)
〈受難の予告〉
マタイ 16:13~28、 詩編 86:5~10
黙想 サタンの視点、「キリストは決して殺されてはなりません」
ペトロの信仰告白を、主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と、信仰は人のわざではなく、天与の賜物だと、祝福されます(幸いだ)
ところが、ペトロの信仰告白を祝福した直後から、主はご自身の受難の予告をかたり始めるのでした。
「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」
ペトロの信仰告白は、主イエスが「だれであるか」という事柄についてでした。ペトロは、イエスがメシア(キリスト)、生ける神の子だという認識内容を告白したのです。この告白は正確な認識でした。だからこそ「あなたは幸いだ」と主は祝福されたのです。
しかし、この信仰知には、神の子・キリストが何をこそなしたもうお方であるかという信仰知が含まれていませんでした。それは主の受難予告に対してペトロがとった行動によって明らかになったのです。ペトロが、受難予告を語りたもう主イエスを諫め始めたからです。主は、これに対して、先ほどとは正反対に超弩弓の叱責をされます。「サタン、引き下がれ」と。
祝福と叱責。ペトロに対する真逆の主の態度が示す事柄によって、判明することが二つあります。
第一には、信仰はただ神ご自身の自己贈与によって生起するということ、そしてこの告白は「陰府の力も対抗できない」という不滅性を有していることです。それはペトロの態度が「サタン」呼ばわりされようといささかも解消されはしません。
第二には、主が「三日目に復活することになっている」と明言されているにもかかわらず、ペトロは主の「苦難と死」について、「そんなことはあってはならない」と、否定したことが「意味するもの」です。
それはペテロが自らの人間的な視点を、主イエスが完遂しようとされる人類救済のみ業に対して、押し被せて、これを否定したことが「意味していたもの」です。その「意味したもの」とは、「わが師イエスこそは生きてこの地上で、地上の王となって世界を支配するお方であるべきです」という「肉の視点」でした。彼にとっては「わが師イエスは決して殺されてはならないお方」だったのです。彼はそう考えた。この「肉の視点」こそあの荒野で、主イエスを誘惑したサタンの第三の誘惑そのものに他なりません。ゆえに主イエスは、あの時と同じみ言をもって、この「肉の思い」を退けたもうたのです。この怒りの叱責こそ、ペトロの魂にむけての神の独り子なる主の厳しい愛の言に他ならないのです。
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