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2025年3月15日土曜日

 2024年3月16日 (四旬節第2主日)

マタイによる福音書12章22節~32節



『ベルゼブル論争』

本日の黙想はベルゼブル論争と言われる有名な箇所です。
 主イエスが弱き人々の病を癒し、障害を取り除き、悪霊を追放するみわざを行うと、パリサイ人らは、それは「悪霊の頭ベルゼブルによるものだ」と断定して、中傷しました。
 パリサイ人が、主イエスを攻撃する材料として、主イエスの行われる奇跡に対して、その解釈、意味づけを、そのようにしたことは、ある意味で当然だったことでしょう。しかし、彼らの内心は、決して主イエスへの敵意・憎悪で一色だった訳でもなかっただろうと、思われます。なぜなら、主イエスの奇跡は、やはり奇跡以外のなにものでもなかったし、その奇跡はたまたま一件とか二件というようなものではなくて、数知れず起きていたし、これらを経験して、実際に癒された人々や、目撃していた家族や親族、近所の人々は、そのような不思議で、しかも力ある業は、神から遣わされたのでなければ決して起きないだろうと、圧倒的な多数の人々は考える他はなかったのですから、群衆が等しく主イエスの力は神の力によると信じているなかで、パリサイ人らは、同じ経験をしたり、目撃しているにはいるが、彼らとしては決して信じない、信じたくはないという彼らの立ち位置では、群衆の思いと自分たちの思いとを同調させる訳にはいかない。なんとかして、群衆が主イエスに惹きつけられてゆくことを阻止しなければならない、こう考えるしかなかったのです。
 いわば彼らを宿命づけている立場からの要求に、主イエスの奇跡の驚異的な力に心動かされながらも、どこまでも固執しなければならなかったのです。
 だから、主イエスのこの驚異的な力は、神さまからのものではなく、悪霊の頭ベルゼブルからのものだという「こじつけ」「難癖」をつけないではいられなかったのです。確かに、このイエスという男のしている業は驚異的な奇跡・しるしには違いない、しかしそれは悪霊の頭にだってできるだろう。「悪魔の強大な力を背景にこの男はしるしをなしているに違いないのだ。」このような解釈・意味づけをすることにより、群衆が主イエスに心酔してゆくことを阻止しようとしたのです。
 しかしこのような断定は、実は彼ら自身の墓穴でもあったのです。

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