2024年3月16日 (四旬節第2主日)
マタイによる福音書12章22節~32節
2024年3月16日 (四旬節第2主日)
マタイによる福音書12章22節~32節
2025年3月2日公現後第8主日
マタイによる福音書14章22節~36節
「湖上を歩きたもう主イエス」
事前の黙想
湖上を歩く主イエスの奇跡について、考えてみましょう。
「水の上を歩くことなどできるはずがない」、子どもでもこのように考えることでしょう。ファンタジーならばともかく、現実としては考えられないと思う人が殆どではないでしょうか。このような出来事が本当に起こったとは信じられないと思う方は多いことでしょう。
わたしも、主イエスでない他の人が、このようなことをしたというのであれば、決して信じません。
まことの神にしてまことの人でありたもう方(神人)イエスであられるからこそ、このような出来事が起こったと考えるならば、逆に出来ないはずはないと思います。
福音書にこの出来事が書き残されたという事実を考えるとき、かくも簡潔に事実として記述されていることは、事実この出来事があったからこそ残されているとしか考えられません。これを初代教会の「信仰のイエス」による虚構だとか、創作だとかですませてしまえるのは、自分に理解出来ないことを自分の理解可能な枠のなかにおさめてしまおうという「合理化」にすぎません。
全能の神にできないことは何一つないのです。
2025年2月9日公現後第5主日
『たとえで語るキリスト』
マタイによる福音書13章10節~17節
事前の黙想
主イエスは、たとえをもって語られたが、その目的は
意外にも、真意を悟ることができないようにするというのであった。
しかし、主みずから、たとえの意味を解説することもあった。
この背反する目的があることに、不思議さを感ずるものである。
これを「謎」というのはやめよう。
まことしやかに、「解明」するなどと豪語する、カルト教団があとを絶たないからである。
「謎」ではない、主が語られるままを、解釈する必要があるのだ。
解釈は、多様であり、歴史的にも変遷してきたし、変遷しても決して不思議でも何でもない。
大事なのは、その「解釈」によって、神の主権の自由さと、限りない神の愛と憐み、
そして人間のその都度の、ふさわしき「恩寵」が、解釈者に、注ぎ込まれてくることなのである。
ゆめゆめ、隣人の自由や救済を「呪縛」するものではないのである。