2025年2月9日公現後第5主日
『たとえで語るキリスト』
マタイによる福音書13章10節~17節
事前の黙想
主イエスは、たとえをもって語られたが、その目的は
意外にも、真意を悟ることができないようにするというのであった。
しかし、主みずから、たとえの意味を解説することもあった。
この背反する目的があることに、不思議さを感ずるものである。
これを「謎」というのはやめよう。
まことしやかに、「解明」するなどと豪語する、カルト教団があとを絶たないからである。
「謎」ではない、主が語られるままを、解釈する必要があるのだ。
解釈は、多様であり、歴史的にも変遷してきたし、変遷しても決して不思議でも何でもない。
大事なのは、その「解釈」によって、神の主権の自由さと、限りない神の愛と憐み、
そして人間のその都度の、ふさわしき「恩寵」が、解釈者に、注ぎ込まれてくることなのである。
ゆめゆめ、隣人の自由や救済を「呪縛」するものではないのである。
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