2026年10月25日 (降誕前第9主日)
『創 造』
ヨブ記38章1節~18節
1:主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
2:これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。
3:男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
4:わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。
5:誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。
6:基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。
7:そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い
神の子らは皆、喜びの声をあげた。
8:海は二つの扉を押し開いてほとばしり
母の胎から溢れ出た。
9:わたしは密雲をその着物とし
濃霧をその産着としてまとわせた。
10:しかし、わたしはそれに限界を定め
二つの扉にかんぬきを付け
11:「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。
12:お前は一生に一度でも朝に命令し
曙に役割を指示したことがあるか
13:大地の縁をつかんで
神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。
14:大地は粘土に型を押していくように姿を変え
すべては装われて現れる。
15:しかし、悪者どもにはその光も拒まれ
振り上げた腕は折られる。
16:お前は海の湧き出るところまで行き着き
深淵の底を行き巡ったことがあるか。
17:死の門がお前に姿を見せ
死の闇の門を見たことがあるか。
18:お前はまた、大地の広がりを
隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。
1.ヨブへの答え エリフの場合
神は、サタンの言葉に応えて、神の前に信仰深く、神からすれば「自慢の息子」のようなヨブを打つことを許した。
義人ヨブは、神の前に潔白を訴えるが神は応えない。まるで答えのないことが応えであるかのように、神は沈黙していた。
3人の友人たち、テマン人エリファズ、シェア人ビルダド、ナアマ人ツフォファルは交互にヨブを責め立て追いつめてきた。
「あなたが神を畏れ敬っているのに 神があなたを責め あなたを裁きの座に引き出されるだろうか。あなたは甚だしく悪を行い 限りもなく不正を行ったのではないか。」(22:4~5)
やはりヨブといえども、不正をどこかでおかしていたのではないのか、と言うのである。ヨブが苦難のなかに置かれるのは、因果応報ではないのか、というのである。
しかし、誰の論難にもヨブは態度を変えることはなかった。
彼は身の潔白を確信していたからだった。
3人の友人たちは、ピタリと話を止めた。「ヨブが自分は正しいと確信していたからである。」(32:1)
ここに、突然、ひとりの若者が登場します。エリフです。
「この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。」(32:2)
エリフは、ヨブに対しても、また三人の友人たちに対しても怒っていました。
「腹の内で霊がわたしを駆り立てている。見よ、わたしの腹は封じられたぶどう酒の袋 新しい酒で張り裂けんばかりの革袋のようだ。」(3:18b~19)
ヨブの嘆きと、苦難の意味を神に訴える姿勢をエリフは粉みじんに打ち砕きます。
「あなたが話すのはわたしの耳に入り 声も言葉もわたしは聞いた。
『わたしは潔白で、罪を犯していない。 わたしは清く、とがめられる理由はない。それでも神はわたしに対する不満を見いだし わたしを敵視される。わたしに足枷をはめ 行く道を見張っておられる。』
ここにあなたの過ちがある、と言おう。 神は人間よりも強くいます。なぜ、あなたは神と争おうとするのか。 神はそのなさることを いちいち説明されない。」
(33:8~13))
若輩者なので、いままで遠慮してきたが、もう我慢できない。腸が煮えくりかえっているぞと、年輩者に向かって、かなり威丈高の口調で、「正論」をぶちまけはじめます。わたしも彼の言っていることは「正論」だなと思いました。牧師が講壇で語る内容となにも変わるところがない模範解答のように感じます。
ただし、この若者の主張に対しては、ヨブの応答も3人の友人たちの反応もありません。神ご自身が直接ヨブに答えを示してくだったからです。エリフの出番はもはやここまでです。
2.嵐の中で
神さまは、嵐の中で顕現されました。言葉による顕現です。嵐の中という状況そのものが、神さまの顕現の状況なのでしょう。神は問いの形を用いて、答えてくださっています。
いままでの、3人の友人たちとの対論、エリフの大上段にかまえた信仰論も、激しい風に吹き飛ばされてしまったかのようです。
ヨブはいまだ苦難の姿のままです。吹きすさぶ嵐の中であるにもかかわらず、神の言葉は、明瞭に、その場に居合わせた者たちには聴くことができたようです。
神の言葉は、単なる音声ではなかったようです。魂が聴くという事柄でしょうか。
『嵐の中の教会: ヒトラーと戦った教会の物語』(ブルーダー著)という本がありますが、教会というところは、キリストの肢体と言われる共同体ですから、キリストの苦難を慕いつつ存在しているとも言えます。むしろ、苦難を経験しない、経験できない共同体は、どこかでおかしくなってしまっているのかもしれません。教会はキリストの苦難と共に歩む共同体なのです。嵐(苦難)の中でこそ、神の声は、ひとりひとりに明瞭に聞きわけられるのではないでしょうか。
3.神さまからの問い
2:これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。
「経綸」とは、「神の計画とその実現の御業を総括する」言葉です。ヨブは繰り返し、苦難を嘆き、身の潔白を主張しました。無実を主張することは、このような苦難を賜る神の「経綸」に対する不満に他なりません。神さまを相手に論争を挑むことなど、そもそも不遜なのです。だから、神は「これは何者か」と一喝されました。
厳しい一喝ですが、沈黙されていた神が答えてくださった事自体は、ヨブには喜びだったはずです。どんなに厳しいみことばでも、神ご自身の言葉であることがヨブには感謝なのです。
4.答えてみよ
3:男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
「腰に帯をせよ」という表現は、困難にむかっての覚悟を、神はヨブに要求されたという意味です。応答を神は要求されたのです。しかもそれ相当の覚悟をもって応答せよというのです。これは責任なのです。
責任とは、レスポンシビリティ(responsibility)と言いますが、一般に「責任を負うこと・責任を持つ立場」を意味します。元来は、神さまからの要求、呼びかけに応答する力を意味していたと考えられます。つまり責任とは「信仰」なのです。神さまの呼びかけに答えることを信仰というのです。信仰とは責任なのです。
5.理解していることを言ってみよ
4:わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。
4節から18節まで、人間には到底及ばない神の創造の偉大さを、あらんかぎりの想像力を動員させ、人間に不可能な「創造」を御業の数々を示して、人には絶対不可能であることを思い知らせるために、神はヨブに問いかけます。
4:わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。
天地創造の時、「お前はどこにいたのか」という問いは、それに答えることができないのが被造者たる人間であることを思い知らせる問いです。この問いへの応答は、「わたしはそのとき、まだ存在していませんでした。わたしは天地創造の最後にあなたによって創られたからです。」としか答えようがありません。しかしこれこそが応答のはずです。「神は創造主であり、人は被造者です。わたしはあなたによって創られた存在です。」と答えるほかはないのです。
無論、現代では科学の知見は急速に深化しています。生命の起源についても驚くべき進展を示しています。しかし、どれだけ深化しても、理解の広がり、深さは決して留まるところはないでしょう。神が「理解」を求め、理解の表現を求めておられるから、人類はそのようなものとして存在し続けるはずです。「理解」していることを「言ってみよ」と神は言われたのです。言い得ないことを神は求めています。それは人がどこまでも限りある存在だという事実を人が思い知るためでした。ゆえにこそ、人は科学の知見を深めれば深めるほど、いっそう創造者の偉大さを思い知ることになるのです。
6.創造者なる神は、天地万物の設計者にして構築者
5:誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。
6:基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。
宇宙の「広がりを定め」、「測り縄を張る」という表現は、いずれも「設計」行為です。つまり、神の創造行為を、設計・構築の行為を比喩として想像させようとしているのです。
「基の柱」、「隅の親石」も構築行為の比喩です。古代世界の宇宙像は、大地は平面として理解されていたので、世界を支える柱があったと考えられていました。「隅の親石」は建築上の基礎工事の礎石です。構築者である神が礎石を置かれたと考えられていました。文字通り、神の構築行為があったからこそ世界は存在できていたのです。そこに人の入り込む余地はありません。
7.宇宙の定礎式
7:そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い
神の子らは皆、喜びの声をあげた。
8:海は二つの扉を押し開いてほとばしり
母の胎から溢れ出た。
9:わたしは密雲をその着物とし
濃霧をその産着としてまとわせた。
もちろん比喩ですが、古代の建築の基礎工事には定礎式があったようです。その時には、歌を歌ったらしいのです。それで、「こぞって喜び歌い」ということになるのでしょう。「夜明けの星」、「神の子ら」は、擬人的ですが、天空の星々が合唱する光景でしょう。星辰崇拝を相対化した比喩と言えるかもしれません。異教世界では天体は崇拝の対象であり、「神々」だったのですが、神の宇宙創造の「定礎式」には、神による創造の賛美者となっているのです。
7.死の門・死の闇の門
16:お前は海の湧き出るところまで行き着き
深淵の底を行き巡ったことがあるか。
17:死の門がお前に姿を見せ
死の闇の門を見たことがあるか。
死の門・死の闇の門とは、門であるので、ここが入口ということになるでしょう。陰府の入口のことでしょう。そうであれば、「大地」は、地下に広がる世界」ということになります。
神は、ご自身が死者の世界の支配者であることを示してくださったのです。まさに生者と死者の世界のいずれもが、創造者なる神の支配によって統括されていることを示しています。
8.苦難を通して、神の愛を知ること
生と死の真の支配者は創造者なるお方です。
神さまは、ヨブにご自身を、このようにお示しになりました。それは、ヨブへの厳しい叱責を含んでいます。しかし、この叱責ののちに、神はすべてを元どおりの姿へともどされ、そればか、祝福を倍にして与えたもうたのです。
苦難を経ていなければ、神のこの祝福を、味わうこともなかったでしょう。
わたしたちにとっての苦難は、間違いなく神与えたもう苦難であり、この苦難のなかでしか、知る事のない神の愛を、受けているのです。
9.主は与え、主は奪いたもう
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。 「わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。 (1:20~22)
このヨブの信仰をこそ、わたしたちの人生を貫く信仰です。かぎりある地上の生活の一日一日を、このヨブの信仰にならいつつ歩んでゆきましょう。 アーメン
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