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2025年2月26日水曜日

 2025年3月2日公現後第8主日

マタイによる福音書14章22節~36節

「湖上を歩きたもう主イエス」




事前の黙想

湖上を歩く主イエスの奇跡について、考えてみましょう。

  「水の上を歩くことなどできるはずがない」、子どもでもこのように考えることでしょう。ファンタジーならばともかく、現実としては考えられないと思う人が殆どではないでしょうか。このような出来事が本当に起こったとは信じられないと思う方は多いことでしょう。

 わたしも、主イエスでない他の人が、このようなことをしたというのであれば、決して信じません。

 まことの神にしてまことの人でありたもう方(神人)イエスであられるからこそ、このような出来事が起こったと考えるならば、逆に出来ないはずはないと思います。

 福音書にこの出来事が書き残されたという事実を考えるとき、かくも簡潔に事実として記述されていることは、事実この出来事があったからこそ残されているとしか考えられません。これを初代教会の「信仰のイエス」による虚構だとか、創作だとかですませてしまえるのは、自分に理解出来ないことを自分の理解可能な枠のなかにおさめてしまおうという「合理化」にすぎません。

 全能の神にできないことは何一つないのです。


2025年2月24日月曜日

 2025年度からの礼拝スケジュールが変更となります。

◎東濃3教会合同礼拝は、祝祭主日のみとなります。

 イースター、坂下教会にて。

 ペンテコステは、付知教会にて。

 クリスマスは、田瀬教会にてとなります。


◎合同礼拝以外の週は、

 坂下教会の礼拝は午前10時開始で固定します。

 田瀬と付知の礼拝は、交替で、

 両教会の合同(田瀬・付知)で行います。

 開始時間は、午後2時で固定します。 

 第1、第3、第5週は、田瀬教会にて。

 第2、第4週は付知教会にてします。

 どうぞよろしくお願いいたします。 

         東濃3教会

2025年2月18日火曜日

 2025年2月23日(公現後第7主日)

マタイによる福音書15章21節~31節

「残の信仰」


2025年度からの礼拝スケジュールが変更となります。
◎東濃3教会合同礼拝は、祝祭主日のみとなります。
 イースター、坂下教会にて。
 ペンテコステは、付知教会にて。
 クリスマスは、田瀬教会にてとなります。
◎合同礼拝以外の週は、坂下教会の礼拝は午前10時開始で固定します。
 田瀬と付知の礼拝は、交替で、両教会の合同(田瀬・付知)で行います。
 開始時間は、午後2時で固定します。 
 第1、第3、第5週は、田瀬教会にて。
 第2、第4週は付知教会にてします。
 どうぞよろしくお願いいたします。 
    東濃3教会


2025年2月17日月曜日

  2025年2月16日公現後第6主日

マタイによる福音書5章13節~16節

『地の塩・世の光』



2025年2月7日金曜日

 2025年2月9日公現後第5主日

『たとえで語るキリスト』

マタイによる福音書13章10節~17節

事前の黙想

主イエスは、たとえをもって語られたが、その目的は

意外にも、真意を悟ることができないようにするというのであった。

しかし、主みずから、たとえの意味を解説することもあった。

この背反する目的があることに、不思議さを感ずるものである。

これを「謎」というのはやめよう。

まことしやかに、「解明」するなどと豪語する、カルト教団があとを絶たないからである。

「謎」ではない、主が語られるままを、解釈する必要があるのだ。

解釈は、多様であり、歴史的にも変遷してきたし、変遷しても決して不思議でも何でもない。

大事なのは、その「解釈」によって、神の主権の自由さと、限りない神の愛と憐み、

そして人間のその都度の、ふさわしき「恩寵」が、解釈者に、注ぎ込まれてくることなのである。

ゆめゆめ、隣人の自由や救済を「呪縛」するものではないのである。



2025年1月30日木曜日

2025年2月2日 (公現後第4主日)  14:00

東濃3教会合同田瀬教会礼拝

マタイによる福音書21章10節~17節 P.40



「新しい神殿」

黙想

所謂「宮潔め」の場面。 

黙想 所謂「宮潔め」の場面。

 神殿破壊の意味は一体何であったのだろうか。

 この出来事は外形的に観れば、「暴言」と「暴力」に他ならない。この出来事は明らかに主イエスへの迫害理由を正当化したことでしょう。このことは、弟子たちに「不可解」なこととして記憶されたに相違ありません。この不可解な「記憶」のかたまりは弟子たちに、共通していたことでしょう。この「記憶」が、まったく異なった意味をもつようになったのは、イエスの復活によってはじめて生起したと考えられます。

 当時の弟子たちの目線で考えるとき、明らかに窮地へと追い込まれてゆくと見えていたであろう出来事が、人類の救いそのものを指し示していたことを、復活の主と出会い、彼らははじめて知ったのです。これは彼らが期待した「メシア像」がこの世的なものである限り、決してて知ることはありません。

十字架への道は「地上的な神の国実現」(この世的な神の国実現)にとっては、真逆の自滅行為にしかみえなかったからです。

 弟子たちの目線がこの世的水準に留まる限り、主イエスの「宮潔め」の行為・言説は、「不可解」でしかありません。そうであれば、主イエスの行為・言説の真意を、この時点で理解できた弟子はひとりもいないことになります。しかし、主イエスは、宣教の開始から、まっすぐに、ご自身の「十字架の死と復活」をのみ目的として、歩んでおられたのです。

           小さなお子さんが来たので、子ども向けのお話し。


2025年1月23日木曜日

     2025年1月26日(日)公現後第3主日

マタイによる福音書4章12節~17節

「宣教の開始」

付知教会  午前8時30分
坂下教会  午前11時
田瀬教会  午後2時

                                       田瀬教会での宣教

 洗礼者ヨハネが投獄されたことを知り、主イエスはガリラヤへと退かれたという。
 このさりげなく挿入された一言から重要な意味を読み取らねばならない。

 主イエスの先駆者たる洗礼者ヨハネの使命は、その生涯と死においても、罪なき者であるにもかかわらず処刑される義人の死をもって、主イエスの先駆となることであった。

 ヨハネの投獄は、主に先だって死出の旅路を意味していたことを、主イエスもヨハネも、両者が別々の道を歩きつつも、聖霊の導きのうちに、明らかに覚知していたであろう。

 ゆえにヨハネは一切の弁明もせずに、理不尽極まりなき斬首を牢獄で待ったのだ。

ヨハネの死を間近に感じ取った主イエスは、御自らもまた、十字架へとの明確な道をまっしぐらに突き進まれた。
 ガリラヤへの道は、その十字架の死への旅路へと続く、前哨戦としての宣教の旅であったのだ。
 主イエスの宣教は、すべてがこの十字架の死と復活という救済の出来事を指し示す比喩に他ならなかったからである。