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2025年12月20日土曜日

 2025年12月21日

田瀬教会10:30

東濃3教会合同クリスマス礼拝  

礼拝後に、愛餐会をします。

先週の宣教の要旨

 『先駆者』

 イザヤ書40章1節~11節

 第2イザヤはバビロニア捕囚からの解放、エルサレムへの帰還という歴史的状況を、捕囚という苦難のただなかで語ります。

 イザヤは、自身が置かれている「座」を「荒野」と呼んでいます。

「荒野」はイスラエル=神の民にとって、常に神の声を聴く「座」だからです。

人声絶える場所、飢えと放浪の場所、獣の咆哮、乾いた灌木しかない荒れ地、そこで神の民は、神の声を聴いてきました。

 苦しみのなかでこそ、神さまの恩寵は、その響きは明らかになるのです。イザヤは、みずからを、「荒野で呼ばわる者の声」と呼び、この「荒野」のただなかで神の民にと語りかけたのです。

 苦役の真っ只中にあった神の民はまさに痛みを毎日が痛み、苦しむ暮らしの境遇だったのではないでしょうか。痛みから解放されたい。この苦しみから逃れたい。この不安を取り去ってほしい。

 こういう願いは、決して罪でも咎でありません。

「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」、と主は言われます。

  「神の民の苦役」は、「神の民」の苦役でした。

 この苦役は人々の「罪・咎」の報いではありません。

 現に苦役を受けている人々は、苦役は「罪・咎」を神さまの前におかした先祖たちの「罪・咎」に起因していたのです。

「彼女の咎は償われた」という、その「彼女」とはエルサレムであり、イスラエルです。

イスラエルという共同体が、共同しておかした「罪・咎」を、神さまはお咎めになったということなのでした。「罪・咎」は、その罪をおかした当時者だけの罪を、神さまは問うているのではないということがわかります。

  バビロニア捕囚の苦役は、人々自身がおかした罪や咎が問われているのではない、ということなのです。

 なぜ?なにゆえに?と、そんな理不尽ではないですか?

 そんな思いになります。

 具体的な痛みや苦しみ。それは、「わたしの罪・咎」の罰ではありません。それだけは信じるべきです。ただ、この痛みや・苦しみは現実にこの「わたしの身に起こっている」ことは確かですが。

 これはいったいどうして?イザヤが聴いた神の言葉は、「償い」、そして「罪のすべてに倍する報い」を「主の御手から受けた」ということでした。

  この神の御言葉は、キリスト・イエスの十字架の贖いと救いを指し示しています。

 なぜなら、人間は人間の罪・咎を償うことは絶対にできないからです。

 イスラエルの人々がどれほど、痛み、苦しんでも、そのことで、「イスラエルの罪や咎の償い」には決してならないからです。人には人の罪・咎の償いをなしえないのです。

 もしそんなことを認めてしまうなら、その「思想」はユダヤ人虐殺、ホロコーストもユダヤ人の罪・咎の「償い」だ、罪の報いだという差別思想と変わるところがありません。人の罪・咎を償うことができるのは、ただ神さまだけなのです。ゆえにこの預言はキリスト預言なのです。

  わたしたちは、痛み、苦しむとき、わたしの罪・咎の責任ではないことを絶対的に信ずべきです。

 それどころか、この痛みや苦しみは、「罪のすべてに倍する神の御手から受けた」と言われているのですから、この「報い」とは何であるのか。それはキリスト・イエスによってもたらされた「救い」という「報い」であることを知るべきなのです。

 意外にも神さまは、捕囚から解放すると言われるにもかかわらず、人の肉なる者」たることを語り、「草に等しい」、「永らえても野の花のようなもの」と、この世での命の限りあることを示します。

 神の言葉とは、主イエス・キリストです。(ヨハネ1章)わたしたち人間の肉体的生命は、野の花のようなもの、草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだと神さまは言われます。

 主の風とは主の霊であり、神ご自身の比喩です。つまりは、わたしたち人間の地上的・肉体的生命は、神ご自身によって「枯れる」、神の霊に吹かれて「しぼむ」「草に等しい」というのです。

 生命とは神さまが与え、神さまが奪うのです。

 わたしたち人間の地上的・肉体的生命は、とこしえに立つ主イエス・キリストと結ばれて、「枯れ、しぼむ」生命から「永遠の生命」へと帰還するというのです。

 イザヤの語るこの御言葉は、人の有限性という「限界設定」を語ることによって、救われし人の「永遠の命」の現実を語っているのです。

  わたしたちのこの世のいのちは、肉体という有限性に限界づけられています。

 けれども主イエス・キリストによって「永遠の生命」を約束されたわたしたちは、永遠の生命をこの世にあっても授かっていることを信ずることができるのです。

    イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」                          (ヨハネ11:26~27)

「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と主イエスは言われました。だから、わたしたちは、痛みや苦しみのさなかにあっても、すでに、主の永遠の生命に与っているということを忘れてはなりません。

 イエスと結ばれているわたしたちの痛みや苦しみは、主イエスもまた痛み苦しんでくださっているのです。

 洗礼者の生涯は苦難の生涯を生ききることで主の先駆者、イザヤの預言の成就者にもっとも相応しいものでした。

 苦難こそ、神の恩寵、恵みを知るべき縁(よすが)だったのです。





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