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2025年12月29日月曜日

 2025年12月28日 (降誕節第1主日)

『東方の学者たち』

マタイによる福音書2章1節~12節



                『東方の学者たち』

                      マタイによる福音書2章1節~12節

1.遠路はるばる困難を越えてキリストを「礼拝」に来た。

    占星術の学者たちは、遠くは、おそらくメソポタミアからはるばる旅をしてきたのです。

 聖書には三人の学者とは明記されてはおらず、黄金、乳香、没薬という3種の贈りものの数からの想像で、いつしか三人の学者という伝承になったと言われています。

 ですのでこの一行の規模がどれほどであったのかも想像するしかありません。遠路の旅程ですから、食糧を供給するための家畜や、それを世話をする人々を含めると考えたほうがよいのではないか、とわたしは考えます。

 しかも、この一行が長旅を無事に終えることができたのは、この一行が、盗賊や獣の襲撃にも耐えることができる力をもっていたのだと推測することができるとも考えます。ある意味で、それ相当の権威を保持しつつ旅をこえてきたと思うのです。いきなり王ヘロデに謁見を申し出て、ただちに会談していることも、この学者の一行が、それなりに権威を認められていることを示唆しています。ですので、学者ではなく王だという伝承もあるのは、このような事実から出ているのでしょう。

1.この世の「王」と、神の神たる「王」の交錯。

 しかし、占星術もしくは占星学という知見の結果、彼らが王の出現を予見したという確信を、王ヘロデにいとも簡単に披瀝してしまうのはどういうつもりだったのか甚だ疑問を抱かざるをえません。実際、王ヘロデは,自分の王たる地位を脅かす存在だと考え、嬰児殺害を命ずるのです。考えたら、学者たちの行為は、あまりに軽率ではないか、と訝しく思っても無理はないと思うのです。なぜこんな愚かなことをしたのでしょう。

 考えられるのは、学者たちが「礼拝」しようと遠路はるばる困難をこえてやってきたのは、ヘロデ王のごとき俗権力の意味における「王」を探してきたからでは、まったくなかったということです。ヘロデ王のような権力欲に取り憑かれた人間の欲望起源の「王」など、彼らには考えることすら不可能だったということです。彼らが「礼拝」しようとしているのは、この世の王ではないということです。人間の王に礼拝などする必要もないからです。彼らは、「王の王」たる、この世の「王」ではない、全宇宙の「王」の降誕を「礼拝」しようと、やって来たのです。ヘロデ王が考えている「王」ではないのです。それなのに、ヘロデにしてみれば、自分のはかりでしか考えることができない俗物ですから、「王」といえば、競合相手としか考えません。学者からみれば、そのような下劣な事は思いもよらないことだった。自分たちには想像もできないことでした。お人好しもいいところですが、ヘロデも人の上に立つ者なら、真実の「王の王」を待ち望んでいるに相違ないと思って疑わなかったのです。「真の王」を、ヘロデとて喜んで迎えると彼らは思い込んでいたに相違ありません。そうでなければ、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」などと、正直に尋ねるはずがありません。またヘロデ王とて、表面は善良な顔を装っていたことでしょう。学者たちはすっかり騙されたのです。

 学者らにとって、「王」とは、全宇宙、全人類の「王の王」であり、神ご自身であるという確信を彼らは持っていました。ですから権力欲・支配欲の権化のような「王」など想像すらできません。この世の「王」とは比ぶべくもないのです。ですから、ヘロデ王に平気で、尋ねてしまえた。彼らからすれば、誤解の余地などなかったのでした。

3.神は異教徒(学者たち)に、ご自身を啓示された。

 彼らは異教世界からの旅人でした。

 彼らは星辰信仰の世界で生きていた人々です。天体と人間の命運には深い関わりがあると信じていた人々です。彼らの天体に関する知識は当時の世界では再考水準でした。ただ肝心なことは、異教世界の信仰のなかで、彼らは、創造主なる神の子の受肉を知り得たという事実です。

 彼らは、異教世界にいながらにして、異教をはるかに超越した信仰を告白したのです。

  12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 まことの神は、学者たちに、「夢」で危険を知らせ、危険を避けるべく命じました。

 なんと、ここでも神は、異教徒の学者たちに、ご自身の意思をお伝えになっています。まことの神ご自身がご自身を啓示したもうたのです。そうして学者らはヘロデのもとに帰らず、彼ら自身の故郷へと帰りました。それは神ご自身の啓示によったのです

 わたしたちははっきりと知らなければならないと思います。神さまは、キリスト教徒にとっての神なのではないということを、わたしたちは知っておくべきなのです。神は実にすべての人にとって、まことの神でありたもうお方なのです。

4.「別の道を通って」、「自分たちの国」への帰還。

   星辰崇拝の世界で生きてきた学者たちは、人間を介して、まことの神を知ったのではありませんでした。彼らは彼らの信仰の世界にいたままで、キリストの星を予見することができたのです。

 この事実は、異教世界に生きるすべての人々は、その世界の内部にいたままで、キリスト・イエスを礼拝するために、困難な道を命をかけて遠路を旅し、幼子イエスのもとに辿り着いた学者たちのように、主イエス礼拝への道の途上にいるということを意味しています。「ありのままで」(レット・イット・ビー)神の子を礼拝する信仰の確信が与えられるということです。

 そして、神が彼らに「別の道を通る」ことを命じました。彼らの帰還の道は、危険回避という意味だけではありませんでした。彼らは、もはや異教徒の学者ではなくなっていたからです。幼子イエスを礼拝した彼らは、世界で最初のクリスマスに与った栄誉を賜った者たちです。彼らの行く道は、神の子と出会い、跪き、贈りものを捧げた栄誉を授かったのです。いまや彼らは世界で初めの信仰者としての歩みの一歩を、これまでの道とは別の道を通って帰還するのです。帰路には、子どもを失った母親の泣き叫ぶ声が国中にあふれていたことでしょう。嗚咽・嘆息の声がする道を彼らは、殺された子どもたちが、まことの神に愛されていること、招かれていると信じて、この神にすがるほかはないと、心をあらたに引き締めながら、「わたしたちにご自身を顕してくださったまことの神に、救いを願わずにはおれません」と、祈りつつ旅を続けたことでしょう。

 この占星術の学者一行の礼拝の旅は、幼子主イエスが、神の受肉であり、全宇宙、全世界の救い主でありたもう事実を、全世界の人々に、神は啓示したもうという奇跡を示しています。

 それゆえ、この事実を「エピファニー(顕現、公現)」と呼び、全世界の人々の救いの前味として祝うのです。   (公現日は1月6日)










2025年12月25日木曜日

     2025年12月24日クリスマス・イブ宣教

『占星術の学者たち』

   占星術の学者たちは、遠くは、おそらくメソポタミアからはるばる旅をしてきたのです。

 聖書には三人の学者とは明記されてはおらず、黄金、乳香、没薬という3種の贈りものの数からの想像で、いつしか三人の学者という伝承になったと言われています。

 ですのでこの一行の規模がどれほどであったのかも想像するしかありません。遠路の旅程ですから、食糧を供給するための家畜や、それを世話をする人々を含めると考えたほうがよいのではないか、とわたしは考えます。

 しかも、この一行が長旅を無事に終えることができたのは、この一行が、盗賊や獣の襲撃にも耐えることができる力をもっていたのだと推測することができるとも考えます。ある意味で、それ相当の権威を保持しつつ旅をこえてきたと思うのです。

 いきなり王ヘロデに謁見を申し出て、ただちに会談していることも、この学者の一行が、それなりに権威を認められていることを示唆しています。ですので、学者ではなく王だという伝承もあるのは、このような事実から出ているのでしょう。

 しかし、占星術のもしくは占星学という知見の結果、彼らが王の出現を予見したという確信を、王ヘロデにいとも簡単に披瀝してしまうのはどういうつもりだったのか甚だ疑問を抱かざるをえません。

 実際、王ヘロデは,自分の王たる地位を脅かす存在だと考え、嬰児殺害を命ずるのです。考えたら、学者たちの行為は、あまりに軽率ではないか、と訝しく思うのです。なぜこんな愚かなことをしたのでしょう。

 考えられるのは、学者たちが「礼拝」しようと遠路はるばる困難をこえてやってきたのは、ヘロデ王のごとき俗権力の意味における「王」を探してきたからでは、まったくなかったということです。ヘロデ王のような権力欲に取り憑かれた人間の欲望起源の「王」など、彼らには考えることすら不可能だったということです。彼らが「礼拝」しようとしているのは、この世の王ではないということです。人間の王に礼拝などする必要もないからです。彼らは、「王の王」たる、この世の「王」ではない、全宇宙の「王」の降誕を「礼拝」しようと、やって来たのです。

 ヘロデ王が考えた「王」なのではなかったのです。それなのに、ヘロデにしてみれば、自分のはかりでしか考えることができない俗物ですから、「王」といえば、競合相手としか考えないのです。

 学者からみれば、想像もできない錯誤です。全宇宙、全人類の「王の王」は、神ご自身であるという確信を彼らは持っていたということになります。この世とは比ぶべくもないのです。ですから、ヘロデ王に平気で、尋ねてしまえたのです。彼らからすれば、誤解の余地などなかったのでした。

 彼らは異教世界からの旅人でした。

 彼らは星辰信仰の世界で生きていた人々です。天体と人間の命運には深い関わりがあると信じていた人々です。彼らの天体に関する知識は当時の世界では再考水準でした。ただ肝心なことは、異教世界の信仰のなかで、彼らは、創造主なる神の子の受肉を知り得たという事実です。

 彼らは、異教世界にいながらにして、異教をはるかに超越した信仰を告白したのです。

 そして、彼らにまことの神ご自身がご自身を啓示したもうたのです。ヘロデのもとに帰らず、彼ら自身の故郷へと帰ったのは、神ご自身の啓示によったのです。

 この占星術の学者一行の礼拝の旅は、幼子主イエスが、神の受肉であり、全宇宙、全世界の救い主でありたもう事実を、全世界の人々に、神は啓示したもうという奇跡を示していたのです。

 それゆえ、この事実を「エピファニー(顕現、公現)」と呼び、全世界の人々の救いの前味として祝うのです。        (公現日は1月6日)

 



2025年12月21日日曜日

 2025年12月21日

田瀬教会10:30

東濃3教会合同クリスマス礼拝  

礼拝後に、愛餐会をします。

クリスマスメッセージ

        2025年12月21日クリスマス説教

        『主イエスの御苦しみを慕う』

 今日も戦火のなかで、家も無く、日々の糧をいただくこともできないでいるわたしたちの人々がいます。

 寒空の下で、暖をとることもできないで、震えながら毛布にくるまるしかない人々がいます。

  世界の片隅に追いやられ、爆撃攻撃が毎日のように継続して、どこへ逃げてゆけばよいのか途方にくれている人々がいます。

 戦争をしかける人々もまた、自国の正しさを、為政者たちのいいなりに信じる他なく 「敵」も「味方」もともに命を失う惨禍を前にして為す術なく、傍観者然として責任をひたすら「敵」になすりつけるしか生き方を知らない人が多いのでしょう。

 「反戦」思想は「国賊」「売国奴」のものと決めつけ、「敵」の「死」には、心を痛めようとしません。

 戦場と化した町々、村々のクリスマスは、誰もが苦悶しながら、涙をこらえて過ごす、静かなクリスマスでしょう。

 本来、歓喜をもって迎えたい人類の救い主イエス・キリストの誕生を、不安と恐怖、悲哀と忍耐のなかで迎えねばならないのです。

  主イエスは、国中が、ヘロデの嬰児殺害命令布告による多くの赤子の殺戮の恐怖が蔓延する環境のなかで生まれます。多くの母親たちが嘆き泣き叫ぶ声が静かな村々に響き渡ります。

 赤子を殺すように命じられた兵士たちも、殺さねばならない宿命に深い悔悟の思いを持たずにはおれない筈です。泣きながら助命を嘆願する母親から赤子を引き裂くようにして奪い、剣で突き殺すのです。なにゆえに、こんな残酷な命令を王はくだすのか。誰もが思ったことでしょう。

 けれども武力をもってする強制力の前には、必死の抵抗も無力なのです。

 主イエスが生まれるとき、この地は権力と権力がせめぎ合い、妥協、打算がぶつかり合う世界でした。王の横暴は人命の生殺与奪を恣にしていたのです。なぜ人はこのような悪の前で翻弄されねばならないのでしょう。この慨嘆は、昔も今も変わらないのです。

 神は、この悲惨な世界に、人類の救い主イエスをお送りになりました。主イエスは、権力に権力をもって対抗するために来られたのではありません。その逆の力をもって「この世」をお救いになられたのです。逆の力とは、一人の幼子として、人に知られずに生まれることでした。すなわち、「無力」という力です。

 「無力」こそが、神が人類を救う「力」なのでした。

 人は、「無力」な幼子の前で、ある決断を迫られています。それは権力を捨てるという決断です。人を支配し、自分の思うままに支配し、操るという「欲望」を断念する決断です。「無力」な存在の前に、無力な存在へと変えられることを良しとして、「無力」な存在なりに、「力を尽くし、思いを尽くし、神を愛する」者となることです。これこそがクリスマスの夜の礼拝でした。

 この世の片隅へと追いやられている羊飼い、異邦人として差別されながらも堂々と「異教」世界で生きてきた「占星術の学者たち」。いずれも、圧倒的な権力で古代世界の支配者だった大ローマと、属国となりながら虎の威をかってユダヤの支配権益を恣にする俗物ヘロデからみれば、差別・軽侮の対象でしかなかった人たちでした。神は、このような社会の周縁者、被差別者をこそ、人類の代表として召されたのです。

 「無力」な神の子の前に、「無力」な者たちが「力を尽くし、思いを尽くし、神を愛する」者とされたのです。これは、全人類が、神にどこまでも己をむなしくされ、その十字架の死に至るまで従順であられた神の子イエスのように、驕ることなく、主なる神に従う、倣う者となるためでした。

 だから、クリスマスは「決断」の時なのです。

 神の子イエスが、十字架の死と復活によって、人類の全てを「神の子」とするために、この世に来て下さった。このキリストのケノーシス(謙卑)は、神ご自身のケノーシスであるから、人はこのケノーシスの神の来臨に際して、己を捨て、神に従う「決断」をする時なのです。

 主イエスは、人類のために、そして他ならぬこの「私」のために、十字架の死を死んでくださった。この神の受苦こそが、「私」を罪から解放するための「贖い」だから、わたしたちは、キリストの受苦にこそ感謝し、慕いつつ礼拝せざるをえないのです。

                                                                                                     


アーメン


2025年12月20日土曜日

 2025年12月21日

田瀬教会10:30

東濃3教会合同クリスマス礼拝  

礼拝後に、愛餐会をします。

先週の宣教の要旨

 『先駆者』

 イザヤ書40章1節~11節

 第2イザヤはバビロニア捕囚からの解放、エルサレムへの帰還という歴史的状況を、捕囚という苦難のただなかで語ります。

 イザヤは、自身が置かれている「座」を「荒野」と呼んでいます。

「荒野」はイスラエル=神の民にとって、常に神の声を聴く「座」だからです。

人声絶える場所、飢えと放浪の場所、獣の咆哮、乾いた灌木しかない荒れ地、そこで神の民は、神の声を聴いてきました。

 苦しみのなかでこそ、神さまの恩寵は、その響きは明らかになるのです。イザヤは、みずからを、「荒野で呼ばわる者の声」と呼び、この「荒野」のただなかで神の民にと語りかけたのです。

 苦役の真っ只中にあった神の民はまさに痛みを毎日が痛み、苦しむ暮らしの境遇だったのではないでしょうか。痛みから解放されたい。この苦しみから逃れたい。この不安を取り去ってほしい。

 こういう願いは、決して罪でも咎でありません。

「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」、と主は言われます。

  「神の民の苦役」は、「神の民」の苦役でした。

 この苦役は人々の「罪・咎」の報いではありません。

 現に苦役を受けている人々は、苦役は「罪・咎」を神さまの前におかした先祖たちの「罪・咎」に起因していたのです。

「彼女の咎は償われた」という、その「彼女」とはエルサレムであり、イスラエルです。

イスラエルという共同体が、共同しておかした「罪・咎」を、神さまはお咎めになったということなのでした。「罪・咎」は、その罪をおかした当時者だけの罪を、神さまは問うているのではないということがわかります。

  バビロニア捕囚の苦役は、人々自身がおかした罪や咎が問われているのではない、ということなのです。

 なぜ?なにゆえに?と、そんな理不尽ではないですか?

 そんな思いになります。

 具体的な痛みや苦しみ。それは、「わたしの罪・咎」の罰ではありません。それだけは信じるべきです。ただ、この痛みや・苦しみは現実にこの「わたしの身に起こっている」ことは確かですが。

 これはいったいどうして?イザヤが聴いた神の言葉は、「償い」、そして「罪のすべてに倍する報い」を「主の御手から受けた」ということでした。

  この神の御言葉は、キリスト・イエスの十字架の贖いと救いを指し示しています。

 なぜなら、人間は人間の罪・咎を償うことは絶対にできないからです。

 イスラエルの人々がどれほど、痛み、苦しんでも、そのことで、「イスラエルの罪や咎の償い」には決してならないからです。人には人の罪・咎の償いをなしえないのです。

 もしそんなことを認めてしまうなら、その「思想」はユダヤ人虐殺、ホロコーストもユダヤ人の罪・咎の「償い」だ、罪の報いだという差別思想と変わるところがありません。人の罪・咎を償うことができるのは、ただ神さまだけなのです。ゆえにこの預言はキリスト預言なのです。

  わたしたちは、痛み、苦しむとき、わたしの罪・咎の責任ではないことを絶対的に信ずべきです。

 それどころか、この痛みや苦しみは、「罪のすべてに倍する神の御手から受けた」と言われているのですから、この「報い」とは何であるのか。それはキリスト・イエスによってもたらされた「救い」という「報い」であることを知るべきなのです。

 意外にも神さまは、捕囚から解放すると言われるにもかかわらず、人の肉なる者」たることを語り、「草に等しい」、「永らえても野の花のようなもの」と、この世での命の限りあることを示します。

 神の言葉とは、主イエス・キリストです。(ヨハネ1章)わたしたち人間の肉体的生命は、野の花のようなもの、草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだと神さまは言われます。

 主の風とは主の霊であり、神ご自身の比喩です。つまりは、わたしたち人間の地上的・肉体的生命は、神ご自身によって「枯れる」、神の霊に吹かれて「しぼむ」「草に等しい」というのです。

 生命とは神さまが与え、神さまが奪うのです。

 わたしたち人間の地上的・肉体的生命は、とこしえに立つ主イエス・キリストと結ばれて、「枯れ、しぼむ」生命から「永遠の生命」へと帰還するというのです。

 イザヤの語るこの御言葉は、人の有限性という「限界設定」を語ることによって、救われし人の「永遠の命」の現実を語っているのです。

  わたしたちのこの世のいのちは、肉体という有限性に限界づけられています。

 けれども主イエス・キリストによって「永遠の生命」を約束されたわたしたちは、永遠の生命をこの世にあっても授かっていることを信ずることができるのです。

    イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」                          (ヨハネ11:26~27)

「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と主イエスは言われました。だから、わたしたちは、痛みや苦しみのさなかにあっても、すでに、主の永遠の生命に与っているということを忘れてはなりません。

 イエスと結ばれているわたしたちの痛みや苦しみは、主イエスもまた痛み苦しんでくださっているのです。

 洗礼者の生涯は苦難の生涯を生ききることで主の先駆者、イザヤの預言の成就者にもっとも相応しいものでした。

 苦難こそ、神の恩寵、恵みを知るべき縁(よすが)だったのです。





2025年12月15日月曜日

 2025年12月14日 (待降節第3主日)

イザヤ書40章1節~11節

『先駆者』




2025年12月8日月曜日


 2025年12月7日 (待降節第2主日)

『旧約における神の言』

エレミヤ36章1節~10節



2025年12月1日月曜日

 2025年11月30日 (待降節第1主日)

イザヤ51章4節~11節

『主の来臨の希望』