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2025年6月29日日曜日

 2025年6月29日 (聖霊降臨節第4主日) 

                「世の光としての使命」

                    フィリピの信徒への手紙2章12節~18節



「恐れおののきつつ」
  徹頭徹尾、神の恵み、即ち恩寵こそが、人の「内に働いて」、神の意志(御心)ままに、「望ませ」、「行わせる」と使徒パウロは言います。
 つまり、わたしたちの内に神ご自身が働いてくださり、御自身の意志を実現させたまうがゆえに、わたくしたちが「望む」ことは、神の御意志のまま「望む」という事であらねばならないというのです。その「望み」は、必ず「行う」という人の行為をも促し、実行させたもうということでなのす。
 しかるに、もしもわたしたちのが、わたしたち自身の「内に」、神の御意志に反逆し、「何事に」つけ、「不平や理屈」を言い、神の御旨に反抗する邪悪な精神的態度が残すのであれば、「よこしまな曲がった時代」の子に転落し、もはや神の子とは言えなくなるのです。(申命記32:5)
 わたしたちの「内に」働かれる神の恵み(恩寵)を、あえて拒むこの態度の残滓が一片だにあるとすれば、わたしたちは、真剣に自己を糾明し、みずからの「内」から、この残滓を払拭し、「従順でいて」、「恐れおののきつつ」、「自分の救いを達成するように努め」るべきなのです。
 不断の自己糾明と悔い改め(方向を神に向ける決断)と、「救いの達成」に努めるならば、「とがめられるところのない清い者となり」、「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」、「命の言葉」の保持するとパウロは断言します。
 この神への反逆心という罪の残滓の払拭をなし得るのは、ひとえに、わたしたとの内に働く神の恵みが神の愛によって、惜しみなく注がれているからです。
 それゆえにこそ、わたしたちは、神の恵みにいっそう敏感に、繊細に、真剣に、気づかされる認識力を願い求めばければなりません。それが「恐れおののきつつ」という精神的態度なのです。
  パウロの喜び キリスト者の完全
  裁きの日に、キリスト・イエスによって神の子として、天上の神と共に永生すること、信徒ひとりひとりが「命の言葉」をしっかりと保ち、「世にあって」も、「星のように輝く」ことを実現することが、使徒パウロの喜びだというのです。
 わたしは、この箇所を読んで、パウロが衷心から信徒に完全なるキリスト者であることを望んでいたのだろうと思った。
 完全な救いを、信徒ひとりひとりが実現・成就することを心から願っていたのではないだろうか。
 魂の奥底にも、ひとかけらの邪心のないことを、救いというならば、完全な救いを達成することは、はたして可能なのだろうか。そんな「理屈」をこねてしまうのは、わたしの罪でしょうが、「完全さの達成」は、どこまで努力しても、永遠に遠ざかるような、近づいても限りなきはるかかなたに、逃げ水のような事柄なのではないのだろうか。
 しかし、パウロの語る達成点は、明確です。
  「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」
  「非のうちどころのない神の子として、星のように輝く」と言うのですから、まさしく「完全性」を、彼は確信しているように見えるのです。 
 パウロが観ている「完全性」は、いったいどういう事を意味しているのだろうか。
 達成とは、人の評価とか価値とかではない
   人は老い、やがて地上でのからだは朽ち果て、土に還ります。人の生物としての限界はあまりにも明白です。人は、それゆえ隣人を愛するという具体的な行動も、いずれは断念せざるを得なくなります。ですから、限りあるいのちの存在としては、誰しもが、神の愛のみ旨を行動にうつすことができなくなるのです。
 そうであっても、キリスト者の完全を達成すべく、真剣に、衷心から努力を続けるべく「もがきあがく」べきなのでしょうか。
 いやいや、そういう「達成度」は、「評価」主義、実績主義ですから、神さまは人を、そういう秤で観ることはなさらないでしょう。
 では、「キリスト者の完全」とはいったいどういう事なのでしょう。
 いのちのみことばをかたくたもつ
   「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(13節)
 みことばに立ち帰って考えます。
 人の内に働く神ご自身が、人に「御心のままに望ませ、行わせておられる」のです。
 わたしたちは、老いようが、病に伏せようが、いかなる苦境に墜ちようが、つまり、わたしたちのからだやこころがいかようであろうとも、神の恵み(恩寵・御心)は、「神の御心のまま」なのですから、決して変わらないのです。
 わたしたちが認知症になったとしても、それによって神の意志が変わるはずはありません。「神の御心」は、絶対なのです。
 だから、わたしたちは、この「いのちの言葉」にかたく立つこと、「いのちの言葉」をかたく保つことは、わたしたちの限界をはるかに超えているのです。
 この確信をパウロは獄中で語っている 
  フィリピ書を、パウロは獄中で書いていることを忘れてはなりません。彼は身体の自由を奪われた環境で、会うことのかなわぬフィリピの信徒たちに、「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」と、励ましているのです。彼には外的な環境は、なんら精神の自由に影響してはいません。
 むしろ、彼は殉教すらも予感しています。
  「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。」(17節)
   獄中にありながら、会うことすらできないフィリピの信徒たちの従順な信仰、みことばにかたくたつ信仰、恐れおののきつつキリスト者の完全性の達成に生きることを心から喜んでいるのです。
 信徒たちが神に捧げる礼拝に、パウロの殉教の血潮が注がれるという比喩を、大胆に彼は語り得ました。自分の殉教の血潮が、信徒たちの真実の信仰へと導くことが出来さえするなら、それは主イエスが人類の救いの為に死に至るまで神に服従した、その道をなぞることに他ならないがゆえに、「わたしは喜びます」というのです。「あなたがた一同と共に喜びます。」と言うのです。
 苦難のさなかにありながら、会うことのできない信徒たちの信仰達成の成就を衷心から喜び、共々に喜ぶことを望むのです。ここには「苦難のアナロギア」があります。主イエスと苦難を共にし、信徒の救いのために苦難することを喜びとする「信仰のアナロギア」が成立しています。 共々に喜びましょう。
                      



               

2025年6月22日日曜日

 2025年6月22日 (聖霊降臨節第3主日)

使徒言行録17章22節~34節

「悔い改めの使信」


パウロの「説得術」
 アテネの人々のまえで、パウロは路傍で伝道説教を始めました。 
「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。」

 人々の世界観、信仰観をまずは、「認めます」という語り始めでした。しかし、「パウロはアテネで二人(シラスとテモテ)を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。(16節)」とあるように、彼の内心は、アテネの偶像崇拝に、実のところは、激しい憤りを感じていたのです。

 相手に無用な反発心を生じさせるのは得策とは言えないでしょうから、内心を表には出さず、相手の立場をいったんは承認する姿勢を示すことは、対話を成り立たせるうえでは正しい選択だったとは思います。
 内心とは裏腹に、実は相手の神への信仰観や世界観を根底から覆し、まことの神信仰とは「あなたがたが信じているような事柄ではないのだ」ということを伝えようとしているのですから、本心を隠していることにはなるでしょう。
 パウロは、ある種の「説得術」を試みているのです。
 このような「説得術」は、ある意味、わたしには小賢しい方法ではないかと思わないでもありません。
 なぜなら、まことの神への真実な信仰は、人間的話術による「説得」で、生起する事ではないからです。わたしは大胆にも、使徒パウロの伝道説教を批判しました。
 パウロといえどもわたしたちと人間としての存在は、神の前に完全に平等ですから、批判もまた自由なのです。パウロもまた人間ですから、問題も抱えていて当然です。わたしはパウロが間違いをおかしたと言っているのではなく、内心を隠して相手に迎合するような「説得」には疑問ありと思っているにすぎません。真の信仰は、ただ神さまが生起せしめると私は信じているのです。
 事実パウロののこの伝道説教によって、アテネの人々はどのように反応したかというと、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。」(32節)  とあるように「あざ笑う」者あり、「いずれまた」と言って距離を置く者がいたとあるように、自らの「信仰」問題として突き詰めて考えなかったという報告をルカはしています。ただ信仰を告白する者たちもいないではなかったというのですので、反応は相半ばしたというところでしょうか。

   宗教的多元論
 ジョン・ヒックという人の提唱する宗教多元論という思想があります。パウロの説得術には、ある意味で、宗教多元論に近いものがあるように思います。つまり、パウロがアテネでみつけた「知られざる神」と刻まれた祭壇は、アテネの人々が知らずに拝んでいるが、それは「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。」と同一化しているところからも、その近接性ゆえに分かります。

宗教多元主義が誤りだというつもりはありません。わたしたち被造者が神について語ることには、自ずから限界がありますから、語る資格はそもそもないからです。
 わたしたちが語りうるのは、せいぜい「私はかく神を信じている」ということに制限されるでしょう。
 パウロもまた、事情はわたしたちと変わりません。
「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(23節b~24節)
  彼は、明らかに彼自身が信じている「神についての教説」を述べています。すなわち、「われは天地の創り主たる神を信じず」という信仰内容です。
「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(25節)
つぎには、また十戒の第一戒と第二戒「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。」」(出エジプト記20章3~4節)という禁止命令を伝えます。偶像崇拝の禁止です。この禁止命令こそが、アテネの人々の魂に届くかどうか。パウロの真意はここにあります。直接、「神はかく語りたもう」という表現はとらず、「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。」と婉曲に神の神性の不可侵性を伝えています。
 「ギリシア人にはギリシャ人のように」というパウロの姿勢がここに示されています。
 わたしは、安直な「迎合」には、抵抗を感じるのですが、このような姿勢は、相手に対する深い愛から生まれるもので、「迎合」とはいえないと思っています。「婉曲」表現と「迎合」表現とは区別すべきなのです。
「あなたの神信仰も正しい。正しいけれど、実は間違っている」というのであれば「迎合」でしょう。「あなたの神信仰も正しい」と「迎合」しているからです。「迎合」しながら、相手の信仰は間違っているというのは、「看板に偽りあり」です。
 けれども、「あなたがこれまで知らずにいたでしょうから、あなたのその神信仰は、その意味で認めるべきです。知らずに信じていたからです。しかしあなたが心底求めていたはずの神は、あなたは知らなかったでしょうが、実は天地の創造者であり、人間がつくりあげたモノではなく、生きとし生けるものに命を与える方なのです。」というのは、神の神性の「婉曲」表現でしょう。こういう事を宗教多元主義というのであれば、これ自体はあり得る立場だと言えましょう。
 ただし「あの神OK、この神もOK」というような多元主義は、聖書を通してご自身を啓示したもう神への信仰からすれば、あり得ません。まことの神は偶像崇拝を明らかに禁じているからです。
 「神は近くにいましたもう」 
 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」(27節)
   神は創造主であり、人は被造者です。天は天であり、地は地です。被造者である人と創造者でありたもう神との間には、「無限の質的な差異」があります。それゆえ、人は限りなく神と遠く、神は限りなく人と遠いのです。しかし、パウロは、ここで「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」と宣言します。偶像は人の近くにいつもいます。なぜなら人がその偶像の神を創っるのですから、人の願望や都合で祭り上げることはたやすいはずです。まことの神はそうはいきません。神が人を創造し、命を与えたのです。人の都合で神を動かすことはできないし、あってはならないのです。だから人のおもいのままにはならないのが、まことの神であられます。だから人の思いをはるかに超えた方こそがまことの神であられます。ですから、人から神は限りなく遠い存在なのです。
 ところがパウロは、神は近くにいましたもうというのです。
 アテネの人々にとって、「天地の創り主なるまことの神」が無限の彼方の遠き存在であられるのに、「近くにいましたもう」という神への信仰を、パウロを通して初めて知ったことでしょう。
 このはじめて聴いた神の存在に、激しく魂を揺さぶられた人々もいました。この人々は、単にパウロの説得術によって説得されたのではないはずです。まことの神の存在に感動したのです。魂の震撼を得させた方は、神ご自身なのです。
「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。」(34節)
   悔い改めの使信
  パウロは、ギリシャ神話の別の文脈とは言え、旧約聖書の人類創生の出来事を前提として、人はみなすべからく神の子孫(「神の似姿」(創世記1章26節)だと言って、「神の子孫」という共通術語によって、人の起源を「神の似姿」だという人間論を宣言します。つまり人は、「神の似姿」という本来的な自己を神によって創造されているという、人の自己像を極限にまで高めるのです。
 だからこそ、「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」(29節)と、神を人の「つくりもの」とする偶像崇拝を捨て去らねばならないと、勧めることができたのです。神を人の「つくりもの」にすることなどあってはならないと。
 神は、そんな人の「つくりもの」ではないのに、神を人の従属物に貶めてしまうようなことが平気でできてしまえるのは、まことの神への「無知」から生じていると、パウロは断罪していることになります。
 まさしく「断罪」なのですが、「婉曲」表現で、人は「神の子孫」なのだから、「神である方を」、人の「つくりもの」と「同じものと考えてはなりません」と、愛をもって、婉曲に、しかし本質的には、厳格な禁止命令によって「断罪」しているのです。
 こうして観て行くとき、このパウロの伝道説教は、人間的な話術、説得術とみるよりも、婉曲表現による弾劾宣教であるとみるべきだということがわかります。
 それゆえ、アテネの人々にむかって、「悔い改め」を迫ることができました。
  「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」(30節)
  婉曲表現ですから、言葉使いは優しく、柔らかいですが、内容は、極めて深刻な罪の弾劾なのです。
 弾劾であることによって、罪の赦し、贖いの主イエス・キリストこそ、信ずべき神の独り子であることを宣教するのです。
「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」(31節)
    罪の裁きの日こそが、救いの成就の日
  「この世を正しく裁く日をお定めになった」。
 「審判」の日が定められたということが、「罪の赦し」が確実になったことを意味しています。真実な裁きなき、真実な救いもないのです。ゆえに人は、真実な裁きがおのれにくだされることを、魂の奥底では願っているのです。
 おのれの罪が裁かれ、その裁きの報いを、独り子なる神イエス・キリストがすべて負ってくださり、その贖いによって、人はおのれが、罪なき本来の「神の子」として、神に迎えいれられることを、キリスト・イエスの十字架の死と甦りが確証してくださったからです。 
 わたしたちの近くにいましたもう救い主キリスト・イエスの現臨を感謝します。 アーメン

 

2025年6月16日月曜日

 2025年6月15日 (聖霊降臨節第2主日 )  (三位一体主日)

  田瀬・付知教会合同礼拝   (内木家記念礼拝)

エフェソの信徒への手紙1章3節~14節

「あらゆるものが、キリストのもとに」


  「あらゆるものが、キリストのもとに」

         エフェソの信徒への手紙1章3節~14節

 ロシアによるウクライナ侵攻によって既に100万人もの人々が死亡したとの報道がありました。

 一人の兵士の母親が、ある神学者に尋ねたことがあります。わたしの息子は天国へ行けたでしょうか、と。

 神学者は答えました。

 わたしは、聖書に証言されている事柄を信じています。

 「あなたの質問は、まぎれもなく根源的な問いであることは間違いありません。人は死後の命運について誰しもがあなたのように問わざるを得ないのです。しかし、その答えを私が、私の責任をもって答えることはできませんし、他の誰でも同様です。その答えはただ、人に命を与え、命を取り去ることがおできになる創造主であられる神さまだけが答えることができるでしょう。造られた存在にすぎない人には、創造主の位置に置くことはできないのです。人はただ信ずること、ただ祈ることはゆるされているし、信ず祈ることはできるのです。」

  根源的な問いとは、その問いが根源的であるという意味です。そのほかの問い(自余の問い)とは区別される問いです。この問い以外の問いは、この問いの答えによってまったく意味がなくなるほどの問いです。

 人の死後の命運についての問いは、人には答えることが絶対に不可能な問いであり、かつまた根源的な問いであるゆえに、不可欠な問いなのです。問わずにはおれない問いなのです。

 この母親の問い、愛する息子の死後の命運についての問いは人の生命についての問いでした。人は人を産み育て、そして生涯を生き抜き、やがて世を去ります。生命の遺伝子は、個人の時を超えて人から人へとつながりゆきますが、個人の生命の命運はこの世のわずかな時を刻むだけのものなのであろうか。この母親の問いは、即、祈願に他なりません。

 エフェソの信徒への手紙は、ここで繰り返し「キリストにおいて」(11回)と語っています。

 人が信じ、祈ることを、創造者であり父なる神さまに、その祈りを届け、かなえてくださるのは、神と人とのただおひとりの仲保者キリスト・イエスだからです。

 キリスト・イエスは断言されました。

「23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 

         (ヨハネによる福音書16章23節~第24節)

「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」(23節)

  主イエスは、このように断言してくださいました。わたしたちは、この主の言葉を信じることができるのです。祈ることができるのです。

 神さまは、わたしたちを選んでくださった。この「選び」には、選ばれない人のことを語るために「選び」が語られているとは思えません。なぜなら、神の救いの目的が、「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(10節)とあるからです。

 「天にあるものも地にあるものも」とは、あらゆる存在を意味するからです。最後的目的がすべてのものの「統合」であるなら、その「選」にもれる「選ばれないもの」は存在するはずはありません。

 ですから、「わたしたち」は、実に、このみことばを信じ、祈る「わたしたち」です。

 神さまは、天地創造以前に、この「わたしたち」をすでに選んでくださっているというのです。

「4天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」

 わたしたちの命運は、「キリストにおいて」すでに神のお定めによって定められているというのです。

 それは、神さまがわたしたちを愛して、「イエス・キリストによって」、「聖なるもの」、「汚れのないもの」、「神の子」とするため、「御心のままに定めてくださった」というのです。

 わたしたちを、神の子とするために、神は、キリスト・イエスにおいて、「その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(7節)

   創造主なる神さまは、神の栄光、神の恵みの栄光を、わたしたちが「たたえるため」に、この選びを定めてくださった。

 ですから、あの根源的な問いの答え、すなわち「わたしたちの信じ、祈ること」は、わたしたちを、キリスト・イエスの血潮によって罪赦され、聖なるもの、汚れなきもの神の子とするという「輝く恵み(恵みの栄光)」を、たたえること(讃美すること)に直結するでしょう。

 このときすでにわたしたちは、あの「信じ、祈ること」の実現を堅く信ずることへと招かれ、ゆるされています。そのことで既に、天地創造以前からの、あの「御心」の実現を堅く信ずることへと招かれ、赦されているのです。

 このことこそが、「キリストに希望を置く」ことであり、「神の栄光をたたえる(讃美)」ことに他ならないのです。

「13あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」





2025年6月7日土曜日

 2025年6月8日 (聖霊降臨日) 14:00

          東濃3教会聖霊降臨日合同礼拝        こどもの日・花の日



 「聖霊降臨の出来事」

                  使徒言行録2章1節~11節
1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

宣教事前黙想

 復活者イエスの出現の記録は、「甦り」の主が、「からだの甦り」の主でありたもう事実を示していたことは明らかです。
 しかしながら、その「甦りのからだ」の「身体性」は、自余の被造物のような「身体」でなかったこともまた明らかでした。復活者イエスの「甦りのからだ」は、閉じられた戸を開けずにとも、突如として弟子たちの真ん中に出現できたし、焼き魚を弟子たちの前で食べたりもされた。被造者のごとき様相を示していながらも、被造者であることを完全に超越した存在として、弟子たちに出現されていたのです。
 復活の主イエスの「身体性」は、人類の永遠の命、アブラハムの懐(ふところ)で、人類が授与される永遠の身体がいかなる存在となるのかを主イエスみずからお示しになられたところの「身体」だったといえましょう。
 復活者イエスと等しい身体とされることが、人類の、わたしたちの希望なのです。

 ヴィットゲンシュタインという哲学者の有名な言葉があります。
「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」
" Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.
           『論理哲学論考』

 死後の世界は語ることができなしいし、沈黙すべき事柄 

 いわゆる「死後」の生命については、「語りえない」事柄です。哲学者は、語りえない死後の生命については、人は沈黙せねばならないというのです。

 言語もまた人間世界の事柄ですから、被造者的な限界を持っています。ですから、言語で、被造者的限界を超えた「神の存在」を語ることはできないということになりましょう。

 聖書が証言している「聖霊降臨」の出来事も、言語の出来事としては「不可解」なものとなっているのは、言語の被造者的限界のなかで、神の存在、神の啓示の出来事を書き記すことが本来不可能だという現実に起因しているのではないしょうか。

 言語は、この聖霊降臨の証言において、ただ指し示す言語、比喩としての言語の範囲内に留まらざるをえないことが、不可解のもととなっているのではないでしょうか。

 たとえば、「炎のような舌」という表象が証言には記されていますが、「炎」も、「舌」も比喩的にしか理解することができません。 

 「炎」は神顕現の比喩であり、「舌」は言語の出来事を示す比喩です。

 視覚的な表象ですが、後世の画家も、「炎のような舌」を視覚的に表現することに困難を感じたのでしょうか、「舌」そのものを描かない絵画もあります。言語的にも視覚的にも神の啓示の出来事として表現することが困難なのです。有名なエル・グレコの「聖霊降臨」を見ても、「舌」のようには見えません。「舌」は、「言葉」を意味している用語ですのです。言葉を視覚的に表現することは、そもそも困難です。 

 霊の甦りではなく、からだの甦り

 初代教会は、復活者イエスとの出会いによって、甦りの希望を与えられました。
 しかし、当初から、主イエスの甦りは、「霊的な出現」であったと主張する人々が存在し、教会の信仰を脅かしていたようです。仮現論(ドケティズム)という異端は早くから存在していたのでしょうが、このような理解は、わかりやすいので、伝播力は凄まじいものがあります。わかりやすいというのは、想像しやすいからなのです。そもそも「霊的」という場合、その意味内容は、この用語を用いる人の考えの深浅に左右されます。つまり、使う人によって、勝手に想像のまま使うことができるのです。現代に「スピリチュアリズム」が流行するのも、人によって勝手にイメージをその人その人が創り出しているからなのです。
 「死後の世界」と呼んだり、「霊界」と呼んだり、「スピリチュアル・ワールド」などと、手を替え、品を替えて安易な使い方をしていますが、それらの用語の概念は、それぞれ別ものなのに、人は安易に「同一視」し、勝手に意味づけをしています。
 さらには、「霊界」と通信できるなどという事を言い出します。
 古来から、「口寄せ」とか「霊媒」とかの職業的な霊界と交流できると自称・他称の「巫女」「巫覡(ふげき)」は存在していました。旧約聖書は、このような存在を神への冒涜として厳しく禁止していますが、本来知り得ない、語り得ない死後の世界とか霊界と交流できると言い得る能力をもつという思想は、まことの神以外に知り得ない、語り得ない事柄を、知っている、語り得ると言うに等しいからです。言い換えれば、神の立場に自分を立たせていることに他ならないからでした。(レビ記 19:31、申命記 18章9節~14節)
注記 口寄せ(くちよせ)とは、霊を自分に降霊(憑依)させて、霊の代わりにその意志などを語ることができるとされる術。または、それを行う人である。

巫(ふ、かんなぎ)は、巫覡(ふげき)とも言い、神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指す。女性は「巫」、男性の場合は「覡」、「祝」と云った。「神和(かんな)ぎ」の意。

 主イエスの甦りを、単なる人間の能力の範囲内で想像し得る「霊的なよみがえり」だという主張は、「巫覡」と、質的に同一の前提が、その思想の根底にあるのです。

 霊的な甦りだという主張は、イエスの十字架の死の贖罪はどうなるのか

 論理的に考えてみよう。
 霊的に復活したという思想の前提には、通俗的な「霊魂不滅論」があります。人は死ぬと、肉体から霊魂のみが離れるというのです。イエスの「霊魂」が弟子たちに現れたという理解です。そうだとすると、イエスの十字架の死が、神の御子という代贖という意味はなくなってしまいます。イエスがただの人として殺されただけという意味になってしまうのです。「神の独り子の死」ではなくなるのです。主イエスは、死んで「よみにくだり」という意味もなくなります。死んでしまって、肉体は土に還ってしまっただけになります。このような「霊魂不滅論」を前提とした「霊的復活」しただけの「甦り」だとすると、主イエスの死は、ただの人の死にすぎなくなります。神ではないということになります。
 また、このようなイエスの死の理解であるなら、イエスは神ではなくただの人にすぎないだけではなく、イエスによる救いもまた存在しなくなります。イエスの「霊魂」を信じるということはどういうことを結果するでしょうか。ただの人にすぎない「イエスという男」を信じると言うことによっては、神と人間とが離反してしまった「神喪失性」(死)は、そのままになります。つまりこのような「イエスという男」の「霊魂」を信じても、「罪の贖い」はないことになります。このような「信じ方」によっては、治癒奇跡行為者イエス、すぐれた道徳的教師を信じたにすぎなくなります。これではもはや、キリスト教信仰とは別物です。「霊的復活」だという主張は、罪の裁きなきものです。それゆえ、裁きなきところに救いもあり得ないのです。
 

 キリストの昇天を礼拝した弟子たちは祈りつつ待っていた

 復活者イエスが弟子たちを祝福しながら昇天してゆくありさまを、弟子たちは礼拝しました。このとき、彼らははじめて、この時、復活者イエスを「まことの神」ご自身であられると、はっきりと認識したからこそ、神を礼拝したのです。
 復活者イエスは、まことの神であられる。
 まことの神の独り子なる神であられる。
 この神認識を、彼らはイエスの祝福と使命委任によって贈与されたのでした。
 この主の昇天は、事実として生起したことは疑いようがありません。
 なぜなら、弟子たちは「大喜び」で、主の命じたまま、エルサレムへと向かい、主がおくりたもう助けぬし、すなわち聖霊降臨を祈りつつ待ったからです。
 弟子たちのこの共同的な喜び、共同的な祈り、共同的な待望は、主の昇天を、彼ら全員が共同的に体験したという事実によってしか、説明できません。
 主の昇天の出来事は、ただ神の出来事としてのみ理解する他はない出来事なのです。主の昇天の出来事は、人間の経験則によっては、いかなる意味でも承認しがたい出来事です。人間の自然の認識力を超えている出来事なのです。
 ただの「霊魂」の昇天であるなら、「昇天」の必要すらなかったでしょう。
 ただの「霊魂」であるなら、共同的な体験として、同時に生起する必要すらなかったでしょう。否、弟子たちに出現する必要すらなかったことでしょう。
 ただの「霊魂」にすぎないのであれば、人間の頭脳の中で想像しさえすればよいからです。
 「キリストの昇天」は、ただ神の啓示の出来事として理解するときにのみ、了解されるのです。いかなる意味でも、自然現象のような事象として理解することは不可能な、そしてかつ具体的な出来事だったのです。
 

 聖霊降臨は神顕現の出来事であり、共同的にして個人的な派遣の出来事

 神の啓示の出来事は、人間的事件とはまったく別次元の出来事です。
 人間の言語では表現することはできないのです。その不可能な事柄を、不可能でありながら、その出来事を表現しなければならないとき、福音書記者は視覚的なイメージで、その人間にとっては不可解な出来事を不可解なままに記録にとどめてくれたのです。それが聖霊降臨の出来事でした。
 この啓示の出来事は、主イエスの派遣の予言の成就として生起しました。
 独り子なる神・復活者イエスによる聖霊さまの派遣の出来事なのです。
 聖霊さまの派遣は、祈りつつ待望していた弟子たちの共同体に生起しました。
すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(4節)

  「一同は聖霊に満たされ」という言葉が、この出来事が、弟子たちという集団に、共同的に生起したことを示しています。

 共同的な派遣の出来事だということと同時に、この出来事が、まったく個人的な次元においても生起していることが示されています。 

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。(3節)
 共同的にして個人的な派遣なのです。
 

 聖霊降臨は言葉の出来事

 聖霊は、教会共同体に派遣されたということが、教会という存在を、わたしたちがいかに認識するかということの基礎です。
 すなわち、教会・キリスト者共同体は、「聖霊の共同体」だということなのです。
わたしたちは、使徒信条において告白します。
   我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
  罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン

「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と告白します。つまり聖霊を信ずるということは、教会を信ずる信仰なのです。聖徒の交わりを信ずる信仰なのです。

 信仰は人が語りえぬことを、神が語りたまうことして信ずること

 身体のよみがえりを、わたしたちは信じます。キリストがわたしたちに与えてくださる永遠の生命を信じます。「身体のよみがえり」も、「永遠の生命」も、被造者にすぎない人間には決して語り得ぬ事柄です。絶対に語ってはならない事柄です。

 ただ、まことの神ご自身がお示しになる他はないからです。

 聖霊降臨の出来事によって、わたしたちは語るべき言葉を、聖霊さまご自身が語らせるままに語るべき使命を、主イエスより使命を委任されました。それゆえに、わたしたちは、世界のすべての人びとに、主が語り給ふ救いの福音を宣べ伝えなければなりません。

 いまや、人が語りえぬ事柄を、神ご自身が語らせるように語るべき者とされたのです。

                            アーメン


 


2025年6月1日日曜日

2025年6月1日 (復活節第7主日「キリストの昇天」

 2025年6月1日 (復活節第7主日)アジア・エキュメニカル週間(7日まで)



宣教黙想

                         「キリストの昇天」

ルカによる福音書24章44節~53節

イエスは言われた。

44「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

48あなたがたはこれらのことの証人となる。

49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」


天に上げられる(マコ1619―20、使徒19―11)

50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。

51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、

53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。


  エマオ途上

    エマオ途上で主イエスに出会った弟子たちが、エマオでの食事に際して、「眼が開け、イエスだと分かった」が、たちまち、主イエスの姿が見えなくなったという経験をして、「時を移さず出発して」、彼らはエルサレムへと戻りました。

 彼らが、エマオへ向かっていたのには、何らかの目的があった筈ですが、主イエスとの出会いの経験をしたことによって、まったく彼らの当初の目的などはどこかへ雲散霧消してしまっていたようです。

 彼らは、「時を移さず、エルサレムへと戻った」のです。

 この二人の弟子の行動の変化を見ると、主イエスとの出会いの現実性がわかるような気がいたします。彼らは、主イエスだと「分かる」以前、エマオ途上の時から、「聖書を説明してくださったとき、心が燃えていた」 のですから、眼前のお方が、主イエスだと「分かった」瞬間から、彼らの心は、いっそう激しく感動していたと思われるのです。

 彼らの当初の目的などは、もう眼中にありません。彼らはもう、いてもたってもいられない強い感動に充たされていたに違いありません。

エルサレムに戻ってみると、「11人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」のでした。そして二人の弟子もまた、「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」とあります。

 このような語り合いの最中のことです。

 ルカは、「こういうことを話していると」と、エルサレムでの、弟子たちの語り合いの場面での出来事だという説明をします。

    復活者イエスの出現

 その場に、主イエスがご自身を現されるのです。復活者イエスの出現です。

 この出現によって、主イエスご自身が、ご自身の「身体」をお示しになられた事が大切な意味をもちます。弟子たちは、はじめ目の前に出現したイエスをみて、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」からです。つまり、彼らには、死んでいるイエスが亡霊となって現れたと咄嗟に思ったというのです。主が復活してシモン・ペトロに現れたということや、エマオ途上で主イエスを旅の道中を共にした弟子たちもいたのにもかかわらず、現に目の前にいるイエスが甦った主だとはにわかに認識することができなかったということです。

 彼らが咄嗟に思ったのは、古来ヘレニズム世界では通俗的に信じられていた「霊魂不滅」の「共通感覚」で理解したのです。 人は死んで霊魂だけが肉体を離れて「霊界」に住むという考えです。「霊界」からこの世へと、出てきた幽霊とか亡霊とかという形で出てきたのだと、彼らの脳裏には浮かんだのでしょう。こういう考え方は、古来から現代に至るまで、多くの人びと漠然と受け入れている考えです。

 復活者イエスが弟子たちに出現したときに、主はこのような考えを木っ端微塵に粉砕する御言葉を語られました。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足をみなさい。まさしくわたしだ。触ってよくみなさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり。わたしにはそれがある。」

  「まさしくわたしだ」と主は言われました。十字架上で殺され、三日目に甦ったところのまさしく「わたしだ」と断言されたのです。すなわち亡霊・幽霊の類の存在ではないことをお示しになったのです。(38節~39節)

 主の復活を、「霊的に復活した」などという考えを主イエスは粉砕したのです。「霊魂不滅」論と同様に、「仮現論」(ドケテイズム)*1という思想を否定されたのです。

   弟子たちは、それでも「喜びのあまりまだ信じられず。不思議がっているので」と、彼らの「不信仰」は依然としてそのままでした。復活の主イエスだと言われているのに、まだ「不思議がっている」というのは、復活者イエスの「身体性」を、いまだ受け入れられないということでしょう。彼らの認識能力の限界をはるかに超えた現実だったのです。

 人間は、手持ちの認識の道具(理性や知識)でしか、認識することはできないものです。わたしたちは、「神」を認識することはできないのです。たとえ、神ご自身であられる復活者が目の前にいたとしても、「神」と認識することは不可能なのです。

 主イエスが、「なぜ、うろたえているのか」と叱責されたとしても、無理なものは無理なのです。人間の側からは認識できないのです。ただ神さまご自身の自己贈与という出来事が起こるときにのみ、わたしたちに授与された神の力によって、いわば神さまだけが神さまを認識できるのです。

 まだこの場での弟子たちには、「否定の方法」によってしか、復活者イエスを知ることができない状態だったのです。

 主はなおも、ご自身の「身体性」をお示しになられました。

 「ここに何か食べものがあるか}と言われ、焼き魚を、彼ら前でムシャムシャと食べられたのです。幽霊が物体である焼き魚を食べるはずはないのです。「そんなことはありえない」という方法で、弟子たちにも「分かる仕方」で、ご自身の「身体性」を否定できない仕方でおしめになられたのでした。「幽霊」が物体を食べることは出来ないから、幽霊ではないという仕方です。

    聖書に書いてある事柄は必ず実現する

 エマオ途上での聖書の解き明かしと同じことが、主イエスによって語られました。

    44「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

   聖書は、実に主イエス・キリストををこそ予言した神の言葉なのです。

  主イエスによる、聖書全体の総括的な要約とみいうべき御言葉が示されます。

    45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

    46言われた。

    「次のように書いてある。

    『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

    47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。

 ここにきて、復活者イエスの神の力によって、神の力の自己贈与の出来事が起きました。 「彼らの心の目を開い」たのです。 

  弟子たちの「心の目を開い」たということは、神ご自身が、神として、神の力により、神の力(認識力) を弟子たちに賜ったということです。

 そして言われた。「あなたがたは、これらのことの証人となる」と。

    49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

  主が、弟子たちに、神の力の自己贈与によって、ご自身が、神の独り子なる神として、十字架において死にたまい、三日目に甦った、人類への愛の道を、いま弟子たちにも、その道を辿るべき使命の委任をされたのです。

 主の昇天

 主イエスは、弟子たちをエルサレム近郊のベタニアまで連れてゆき、祝福されました。

 この祝福は特別な意味をもちます。この祝福を受けた弟子たちは、今までとは違った意味で、主イエスを「伏し拝む」ことになったからです。これまでの主イエスへの敬愛、尊敬というような意味での伏拝ではないのです。彼らはこの時はじめて、主イエスを、「神」として礼拝したからです。

 彼らが主イエスに命じられたように、エルサレムへと帰りますが、彼らは「大喜びで」とあります。そして、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と命じられた通りに、ペンテコステの出来事が起こるまで、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」というのです。

 わたしは、彼らの「大喜び」を黙想するのですが、弟子たちのこの「喜ぶ」姿は、まさしく彼らが共同の体験として、復活の主イエスの出現を経験し、それだけではなく、主イエスの力を身に受けて、主イエスが歩まれた愛の道を行くようにされた、その現実が、この「大きな喜び」なのではないだろうか、と思えるのです。

 だから、この主の証人たちは、貧しい漁師だったり徴税人だったりの小さき者にすぎなかったのに、いまや彼らは、主イエスの力を充満させて、主の使命委任のみことばを実際に生きるものとされるのです。

    47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

    48あなたがたはこれらのことの証人となる。

 彼らは、主の祝福のこの時から、あらゆる国の人びとに、「福音」を宣べ伝えるものとされたのでした。わたしたちの信仰は、この主の昇天によって、弟子たちが主との別離の瞬間から、主が彼らと共なる存在といて、生きるようになった、そのことを同じ事が、わたしたちにも起きている、そのことなのです。