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2025年7月28日月曜日

 2025年7月27日聖霊降臨節第8主日

『悪霊の逆襲による福音の逆証明』

使徒言行録19章13節~20節



2025年7月23日水曜日

 礼拝スケジュール 2025年度

◎坂下教会の礼拝は午前10時開始で固定します。

◎田瀬と付知の礼拝は、交替で、両教会の合同(田瀬・付知)で行います。

 開始時間は、午後2時で固定します。 

 第1、第3、第5週は、田瀬教会にて。

 第2、第4週は付知教会にてします。


 ◎東濃3教会合同礼拝は、祝祭主日のみとなります。

 イースター、坂下教会にて。

 ペンテコステは、付知教会にて。

 クリスマスは、田瀬教会にてとなります。

 どうぞよろしくお願いいたします。

   東濃3教会

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 2025年7月20日聖霊降臨節第7主日

1テモテ2:1~8

『祈り』




2025年7月14日月曜日

 2025年7月13日 聖霊降臨節第6主日

坂下教会 岐阜地区交換講壇 白砂誠一牧師による宣教

ヨハネによる福音書13章1節~第11節

『弟子の足を洗うイエス』


付知教会にて 田瀬・付知教会合同礼拝における

岐阜地区交換講壇

柳本伸良牧師による宣教

使徒言行録4章32節~37節



2025年7月7日月曜日

 2025年7月6日聖霊降臨節第5主日

コリントの信徒へに手紙2 8章1節~15節

『極度の貧しさがあふれ出て』



2025年6月29日日曜日

 2025年6月29日 (聖霊降臨節第4主日) 

                「世の光としての使命」

                    フィリピの信徒への手紙2章12節~18節



「恐れおののきつつ」
  徹頭徹尾、神の恵み、即ち恩寵こそが、人の「内に働いて」、神の意志(御心)ままに、「望ませ」、「行わせる」と使徒パウロは言います。
 つまり、わたしたちの内に神ご自身が働いてくださり、御自身の意志を実現させたまうがゆえに、わたくしたちが「望む」ことは、神の御意志のまま「望む」という事であらねばならないというのです。その「望み」は、必ず「行う」という人の行為をも促し、実行させたもうということでなのす。
 しかるに、もしもわたしたちのが、わたしたち自身の「内に」、神の御意志に反逆し、「何事に」つけ、「不平や理屈」を言い、神の御旨に反抗する邪悪な精神的態度が残すのであれば、「よこしまな曲がった時代」の子に転落し、もはや神の子とは言えなくなるのです。(申命記32:5)
 わたしたちの「内に」働かれる神の恵み(恩寵)を、あえて拒むこの態度の残滓が一片だにあるとすれば、わたしたちは、真剣に自己を糾明し、みずからの「内」から、この残滓を払拭し、「従順でいて」、「恐れおののきつつ」、「自分の救いを達成するように努め」るべきなのです。
 不断の自己糾明と悔い改め(方向を神に向ける決断)と、「救いの達成」に努めるならば、「とがめられるところのない清い者となり」、「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」、「命の言葉」の保持するとパウロは断言します。
 この神への反逆心という罪の残滓の払拭をなし得るのは、ひとえに、わたしたとの内に働く神の恵みが神の愛によって、惜しみなく注がれているからです。
 それゆえにこそ、わたしたちは、神の恵みにいっそう敏感に、繊細に、真剣に、気づかされる認識力を願い求めばければなりません。それが「恐れおののきつつ」という精神的態度なのです。
  パウロの喜び キリスト者の完全
  裁きの日に、キリスト・イエスによって神の子として、天上の神と共に永生すること、信徒ひとりひとりが「命の言葉」をしっかりと保ち、「世にあって」も、「星のように輝く」ことを実現することが、使徒パウロの喜びだというのです。
 わたしは、この箇所を読んで、パウロが衷心から信徒に完全なるキリスト者であることを望んでいたのだろうと思った。
 完全な救いを、信徒ひとりひとりが実現・成就することを心から願っていたのではないだろうか。
 魂の奥底にも、ひとかけらの邪心のないことを、救いというならば、完全な救いを達成することは、はたして可能なのだろうか。そんな「理屈」をこねてしまうのは、わたしの罪でしょうが、「完全さの達成」は、どこまで努力しても、永遠に遠ざかるような、近づいても限りなきはるかかなたに、逃げ水のような事柄なのではないのだろうか。
 しかし、パウロの語る達成点は、明確です。
  「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」
  「非のうちどころのない神の子として、星のように輝く」と言うのですから、まさしく「完全性」を、彼は確信しているように見えるのです。 
 パウロが観ている「完全性」は、いったいどういう事を意味しているのだろうか。
 達成とは、人の評価とか価値とかではない
   人は老い、やがて地上でのからだは朽ち果て、土に還ります。人の生物としての限界はあまりにも明白です。人は、それゆえ隣人を愛するという具体的な行動も、いずれは断念せざるを得なくなります。ですから、限りあるいのちの存在としては、誰しもが、神の愛のみ旨を行動にうつすことができなくなるのです。
 そうであっても、キリスト者の完全を達成すべく、真剣に、衷心から努力を続けるべく「もがきあがく」べきなのでしょうか。
 いやいや、そういう「達成度」は、「評価」主義、実績主義ですから、神さまは人を、そういう秤で観ることはなさらないでしょう。
 では、「キリスト者の完全」とはいったいどういう事なのでしょう。
 いのちのみことばをかたくたもつ
   「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(13節)
 みことばに立ち帰って考えます。
 人の内に働く神ご自身が、人に「御心のままに望ませ、行わせておられる」のです。
 わたしたちは、老いようが、病に伏せようが、いかなる苦境に墜ちようが、つまり、わたしたちのからだやこころがいかようであろうとも、神の恵み(恩寵・御心)は、「神の御心のまま」なのですから、決して変わらないのです。
 わたしたちが認知症になったとしても、それによって神の意志が変わるはずはありません。「神の御心」は、絶対なのです。
 だから、わたしたちは、この「いのちの言葉」にかたく立つこと、「いのちの言葉」をかたく保つことは、わたしたちの限界をはるかに超えているのです。
 この確信をパウロは獄中で語っている 
  フィリピ書を、パウロは獄中で書いていることを忘れてはなりません。彼は身体の自由を奪われた環境で、会うことのかなわぬフィリピの信徒たちに、「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」と、励ましているのです。彼には外的な環境は、なんら精神の自由に影響してはいません。
 むしろ、彼は殉教すらも予感しています。
  「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。」(17節)
   獄中にありながら、会うことすらできないフィリピの信徒たちの従順な信仰、みことばにかたくたつ信仰、恐れおののきつつキリスト者の完全性の達成に生きることを心から喜んでいるのです。
 信徒たちが神に捧げる礼拝に、パウロの殉教の血潮が注がれるという比喩を、大胆に彼は語り得ました。自分の殉教の血潮が、信徒たちの真実の信仰へと導くことが出来さえするなら、それは主イエスが人類の救いの為に死に至るまで神に服従した、その道をなぞることに他ならないがゆえに、「わたしは喜びます」というのです。「あなたがた一同と共に喜びます。」と言うのです。
 苦難のさなかにありながら、会うことのできない信徒たちの信仰達成の成就を衷心から喜び、共々に喜ぶことを望むのです。ここには「苦難のアナロギア」があります。主イエスと苦難を共にし、信徒の救いのために苦難することを喜びとする「信仰のアナロギア」が成立しています。 共々に喜びましょう。
                      



               

2025年6月22日日曜日

 2025年6月22日 (聖霊降臨節第3主日)

使徒言行録17章22節~34節

「悔い改めの使信」


パウロの「説得術」
 アテネの人々のまえで、パウロは路傍で伝道説教を始めました。 
「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。」

 人々の世界観、信仰観をまずは、「認めます」という語り始めでした。しかし、「パウロはアテネで二人(シラスとテモテ)を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。(16節)」とあるように、彼の内心は、アテネの偶像崇拝に、実のところは、激しい憤りを感じていたのです。

 相手に無用な反発心を生じさせるのは得策とは言えないでしょうから、内心を表には出さず、相手の立場をいったんは承認する姿勢を示すことは、対話を成り立たせるうえでは正しい選択だったとは思います。
 内心とは裏腹に、実は相手の神への信仰観や世界観を根底から覆し、まことの神信仰とは「あなたがたが信じているような事柄ではないのだ」ということを伝えようとしているのですから、本心を隠していることにはなるでしょう。
 パウロは、ある種の「説得術」を試みているのです。
 このような「説得術」は、ある意味、わたしには小賢しい方法ではないかと思わないでもありません。
 なぜなら、まことの神への真実な信仰は、人間的話術による「説得」で、生起する事ではないからです。わたしは大胆にも、使徒パウロの伝道説教を批判しました。
 パウロといえどもわたしたちと人間としての存在は、神の前に完全に平等ですから、批判もまた自由なのです。パウロもまた人間ですから、問題も抱えていて当然です。わたしはパウロが間違いをおかしたと言っているのではなく、内心を隠して相手に迎合するような「説得」には疑問ありと思っているにすぎません。真の信仰は、ただ神さまが生起せしめると私は信じているのです。
 事実パウロののこの伝道説教によって、アテネの人々はどのように反応したかというと、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。」(32節)  とあるように「あざ笑う」者あり、「いずれまた」と言って距離を置く者がいたとあるように、自らの「信仰」問題として突き詰めて考えなかったという報告をルカはしています。ただ信仰を告白する者たちもいないではなかったというのですので、反応は相半ばしたというところでしょうか。

   宗教的多元論
 ジョン・ヒックという人の提唱する宗教多元論という思想があります。パウロの説得術には、ある意味で、宗教多元論に近いものがあるように思います。つまり、パウロがアテネでみつけた「知られざる神」と刻まれた祭壇は、アテネの人々が知らずに拝んでいるが、それは「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。」と同一化しているところからも、その近接性ゆえに分かります。

宗教多元主義が誤りだというつもりはありません。わたしたち被造者が神について語ることには、自ずから限界がありますから、語る資格はそもそもないからです。
 わたしたちが語りうるのは、せいぜい「私はかく神を信じている」ということに制限されるでしょう。
 パウロもまた、事情はわたしたちと変わりません。
「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(23節b~24節)
  彼は、明らかに彼自身が信じている「神についての教説」を述べています。すなわち、「われは天地の創り主たる神を信じず」という信仰内容です。
「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(25節)
つぎには、また十戒の第一戒と第二戒「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。」」(出エジプト記20章3~4節)という禁止命令を伝えます。偶像崇拝の禁止です。この禁止命令こそが、アテネの人々の魂に届くかどうか。パウロの真意はここにあります。直接、「神はかく語りたもう」という表現はとらず、「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。」と婉曲に神の神性の不可侵性を伝えています。
 「ギリシア人にはギリシャ人のように」というパウロの姿勢がここに示されています。
 わたしは、安直な「迎合」には、抵抗を感じるのですが、このような姿勢は、相手に対する深い愛から生まれるもので、「迎合」とはいえないと思っています。「婉曲」表現と「迎合」表現とは区別すべきなのです。
「あなたの神信仰も正しい。正しいけれど、実は間違っている」というのであれば「迎合」でしょう。「あなたの神信仰も正しい」と「迎合」しているからです。「迎合」しながら、相手の信仰は間違っているというのは、「看板に偽りあり」です。
 けれども、「あなたがこれまで知らずにいたでしょうから、あなたのその神信仰は、その意味で認めるべきです。知らずに信じていたからです。しかしあなたが心底求めていたはずの神は、あなたは知らなかったでしょうが、実は天地の創造者であり、人間がつくりあげたモノではなく、生きとし生けるものに命を与える方なのです。」というのは、神の神性の「婉曲」表現でしょう。こういう事を宗教多元主義というのであれば、これ自体はあり得る立場だと言えましょう。
 ただし「あの神OK、この神もOK」というような多元主義は、聖書を通してご自身を啓示したもう神への信仰からすれば、あり得ません。まことの神は偶像崇拝を明らかに禁じているからです。
 「神は近くにいましたもう」 
 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」(27節)
   神は創造主であり、人は被造者です。天は天であり、地は地です。被造者である人と創造者でありたもう神との間には、「無限の質的な差異」があります。それゆえ、人は限りなく神と遠く、神は限りなく人と遠いのです。しかし、パウロは、ここで「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」と宣言します。偶像は人の近くにいつもいます。なぜなら人がその偶像の神を創っるのですから、人の願望や都合で祭り上げることはたやすいはずです。まことの神はそうはいきません。神が人を創造し、命を与えたのです。人の都合で神を動かすことはできないし、あってはならないのです。だから人のおもいのままにはならないのが、まことの神であられます。だから人の思いをはるかに超えた方こそがまことの神であられます。ですから、人から神は限りなく遠い存在なのです。
 ところがパウロは、神は近くにいましたもうというのです。
 アテネの人々にとって、「天地の創り主なるまことの神」が無限の彼方の遠き存在であられるのに、「近くにいましたもう」という神への信仰を、パウロを通して初めて知ったことでしょう。
 このはじめて聴いた神の存在に、激しく魂を揺さぶられた人々もいました。この人々は、単にパウロの説得術によって説得されたのではないはずです。まことの神の存在に感動したのです。魂の震撼を得させた方は、神ご自身なのです。
「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。」(34節)
   悔い改めの使信
  パウロは、ギリシャ神話の別の文脈とは言え、旧約聖書の人類創生の出来事を前提として、人はみなすべからく神の子孫(「神の似姿」(創世記1章26節)だと言って、「神の子孫」という共通術語によって、人の起源を「神の似姿」だという人間論を宣言します。つまり人は、「神の似姿」という本来的な自己を神によって創造されているという、人の自己像を極限にまで高めるのです。
 だからこそ、「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」(29節)と、神を人の「つくりもの」とする偶像崇拝を捨て去らねばならないと、勧めることができたのです。神を人の「つくりもの」にすることなどあってはならないと。
 神は、そんな人の「つくりもの」ではないのに、神を人の従属物に貶めてしまうようなことが平気でできてしまえるのは、まことの神への「無知」から生じていると、パウロは断罪していることになります。
 まさしく「断罪」なのですが、「婉曲」表現で、人は「神の子孫」なのだから、「神である方を」、人の「つくりもの」と「同じものと考えてはなりません」と、愛をもって、婉曲に、しかし本質的には、厳格な禁止命令によって「断罪」しているのです。
 こうして観て行くとき、このパウロの伝道説教は、人間的な話術、説得術とみるよりも、婉曲表現による弾劾宣教であるとみるべきだということがわかります。
 それゆえ、アテネの人々にむかって、「悔い改め」を迫ることができました。
  「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」(30節)
  婉曲表現ですから、言葉使いは優しく、柔らかいですが、内容は、極めて深刻な罪の弾劾なのです。
 弾劾であることによって、罪の赦し、贖いの主イエス・キリストこそ、信ずべき神の独り子であることを宣教するのです。
「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」(31節)
    罪の裁きの日こそが、救いの成就の日
  「この世を正しく裁く日をお定めになった」。
 「審判」の日が定められたということが、「罪の赦し」が確実になったことを意味しています。真実な裁きなき、真実な救いもないのです。ゆえに人は、真実な裁きがおのれにくだされることを、魂の奥底では願っているのです。
 おのれの罪が裁かれ、その裁きの報いを、独り子なる神イエス・キリストがすべて負ってくださり、その贖いによって、人はおのれが、罪なき本来の「神の子」として、神に迎えいれられることを、キリスト・イエスの十字架の死と甦りが確証してくださったからです。 
 わたしたちの近くにいましたもう救い主キリスト・イエスの現臨を感謝します。 アーメン