2026年5月17日 (復活節第7主日)
アジア・エキュメニカル週間(23日まで)
ヨハネによる福音書17章1節~13節
『キリストの昇天』(これは聖書日課に基づくタイトルです。)
『神の喜びの充満せる人生』
1.喜びが
先週のみことばの学びで、信仰とは、とどのつまりは、「喜び」に他ならないと結びました。
信仰生活は、主イエスの「喜び」が、わたしたちの「内」に満ちあふれる生活なのです。いわば「主イエスの喜びの充満」です。(13節)
主イエスの喜び・・・。それでは具体的に、「主イエスの喜びの充満」という事柄は、いったいどのような事柄なのでしょうか。復活の主イエスに出会ったとき、弟子たちは喜びに充たされました。瞬時にです。悲しみから喜びへと、瞬時に彼らは変えられました。ですから、弟子たちは、主イエスの喜びを体感したのではないかと考えられます。復活のイエスとの接触によって、彼らは喜びの人生を歩み始めたからこそ、彼らは、苦難や迫害をただ恐れるのではなく、喜んで受け入れる人生へと変えられたのです。
この彼らの人生の変容を想う時に、確実に彼らが復活のイエスの命を受けていたと思わざるを得ないのです。
弟子たちの一人や二人に起こった事ではないのです。全員にこの変容は起きたのです。だからこそ、迫り来る迫害の状況にもかかわらず、彼らは殉教への道へと歩んだのです。
「主イエスの喜びの充満」という事柄は、いったいどのような事柄なのでしょうか。苦難や迫害をも恐れずに、彼らが、喜びに充たされて生き抜き、かつ殉教した事実から、「喜びの充満」がいかなる事柄であったのかを知る事ができます。
2.永遠の命
それは、彼らが「永遠の命」を、確実な事として、自明な事として、揺るぎなき確信のうちに生きるようにされたということなのではないでしょうか。
復活の主イエスに出会ったとき、彼らは彼ら自身が「死の死」を経験したのだと思います。「死」とは「神喪失性」のことです。神さまを喪った事を「死」というのです。神さまと無関係になってしまった事を「死」ということなのです。この「死」を、人は人の力で変えることは絶対できません。この「死」の前ではすべての人は無力です。すべての人は無力ゆえにまったく平等です。無力さの平等です。誰も自らを誇ることはできません。たとえ自力を吠えたとしても、所詮は無力な遠吠えなのです。この絶対的な無力が、復活の主イエスとの接触の瞬間に、神さまの方から、圧倒的な力によって、もはや「信じないことができない」存在として、神ご自身の迫りによって、「神喪失性」が「死んだ」のです。「神喪失性」という「死」が「死んだ」のです。
3.悪魔は天使を偽装する
この出来事は、抗うことのできない神の迫りの出来事でした。とにかく「信じないことが不可能」な事態なのです。復活の主イエスとの接触は、神ご自身との接触だからです。この接触は、「一つとなる」というみことばで、主イエスは語られました。(11節)
神ご自身が、復活の主イエスを仲保者として、弟子たちと「ひとつ」となったのです。これはいわゆる「神人合一」ではないこと留意すべきです。
「神人合一」の思想は「人が神のようになる」という最悪の「罪」の言い換えとなってしまう「神秘主義」の陥穽(おとしあな)に堕する危険性をはらんでいるからです。
最善の救いが最悪の罪と、同じ言葉で表現されるから、留意しなければならないのです。
まさに、「悪魔は天使を偽装する」のです。(2コリント11:13-14)
4.神の喜びの充満
「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)
主イエスは、父なる神にこのように祈りました。「わたしたちのように、かれらも一つになるためです。」と。
ここにも「ように」という言葉が出てきました。父なる神と子なる神=イエスが一つなる存在である「ように」、主イエスと弟子たちも一つなる存在になるために、という意味ですので、「父なる神と子なる神との関係と、子なる神と人との関係が対応」の関係になっているのです。つまり、神と人とはイエスを仲保者として、「類比」が存在するという意味です。
ですから、「主イエスの喜びの充満」を、弟子たちに主イエスが「目的」として語っておられるのは、父なる神の喜びの充満を、弟子たちに願っているということをも意味するでしょう。
神は、人類を神の喜びで充たしたいと望んでおられるというのです。
このイエスの祈りは、「神の喜びの神学」と言っても過言ではありません。(J・モルトマン)
5.神の所有
神と一つになる。主イエスと一つになる。この事を、主イエスは、「所有」という言葉でも語っておられます。わたしたち人間は、神のものだと言うのです。
9節:彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
10節:わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
信仰は「神の喜びの充満」だと申し上げました。そして、ここでは、信仰は、人が自己自身を「神の所有」であり、「主イエスの所有」であるというアイデンティティー(自己同一性)のことだということでしょう。
「わたしは、主イエスのものだ。したがって、わたしは神のものだ。」という自己認識に生きるということです。
このように考えると、「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」と命じられた主イエスのみことばは明確になります。自分自身を愛するというのは、利己的な自己愛をまったく意味しないからです。自己は「神のもの」「イエスのもの」なのですから、自分自身を愛することは、神のものを愛することに他ならない訳ですから、愛さないほうがおかしい。愛さねばならない自己自身なのです。自己自身を愛する事は、神を愛し、主イエスを愛することなのです。
6.昇天後の世界
主イエスのこの祈りは、イエスさまが天に昇られて以降の世界にむけて、主イエスが父なる神に、弟子たちを守ってくださいと願っている祈りです。
11節:わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
「神の名」(御名)がここで語られています。父なる神が子なる神・イエスに与えた「御名」です。
これは、「キリスト」とか「メシア」とかの「名詞」を指しているのではないと、私には思われます。
イエスご自身は,ご自身を「人の子」と言われました。群衆は「ラビ(先生)」と呼んだり、「主」と呼んだりもしました。しかし、このどれも、この「御名」に該当するとは思えないのです。
神がイエスを呼んでいるのは、「これはわたしの愛する子」ですが、この事でしょうか。「これに聴け」と神は啓示されているので、これがいちばん近いかもしれません。
ただ、「御名」には、弟子たちを守ることができる力があるとに主イエスは明確に語っているのです。
イエスの「御名」には力があるのです。
この「御名」の力が、神とイエス、イエスと人を一つにすると明らかに語っておられるのです。一つにするのですから、「神の喜びの充満」を人にもたらすのです。
7.「神の御名」
「神とイエス、イエスと人を一つにする」力が「御名」にはあると、主イエスは明言されています。
人間の神への合一ではなく、神さまが主イエスを仲保者として人間を「一つ」にしてくださるのです。圧倒的な、一方的な、絶対他者なる神の恵みの恩寵としての「神との合一」です。
この「合一」こそが「神の喜び」であり、「栄光」だと言われたのです。「栄光」とは、「喜び」のことだったのです。「神の喜びの神学」は「神の栄光の神学」だったのです。
復活の主イエスの昇天以降の世界において、世界は、人類は、主イエスは神のみもとへと帰られたからには、可視的な手段・方法によって、復活の主イエスと接触することはかなわぬものとなりました。
12節:わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
13節:しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
だからこそ、主イエスは、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と、「御名」の力を神に願っておられるのです。
8.聖霊降臨
可視的な存在としては、復活の主イエスは、弟子たちの前から去りました。しかし、主イエスは、これまで「別の方」「弁護者」「助け主」が来られると、幾度も語ってこられました。そしてここでは、いやここでもですが、「御名」を父なる神に願っているのです。復活の主イエスの昇天以後、「神の喜びの充満」のために、「御名」によって「守ってください」と願っているのです。
聖霊さまこそが「神の御名」なのではないかと考えざるをえないのです。アーメン
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