2026年5月10日(日)(復活節第6主日)
ヨハネによる福音書16章12節~24節
『悲しみは断たれなければならない』
ヨハネによる福音書16章 12節~24節
12節 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
13節 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
14節 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
15節 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
16節 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
17節 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
18節 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
19節イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
20節 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
21節 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
22節 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
23節 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
24節 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
1.主イエスの死 切迫感のない弟子たち
わたしたちは、自分自身もやがて死ぬ運命にあります。誰も死を免れることはできません。
子どもの頃は、一日が長く感じられました。いまはあっというまに時は過ぎゆきます。年とともに、時間が速くすぎてゆくのは、多くの人の実感ではないでしょうか。 昔は、10年といえば、随分長いと感じたものですが、いまは50年もすぎてしまえば、一昔にすぎません。
「時」の速さは変わるのです。
主イエスは十字架の死への旅立ちに際して、「しばらくすると」と、時の事をお語りになりました。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16節)
主が、十字架上で殺害されるという現実を「あなたがたはもうわたしを見なくなる」 と婉曲に語られたのでしょう。弟子たちは、受難の予告を既に聞いていたのですから、これが主イエスの死を意味していたことは、わかっていた筈なのですが、弟子たちは、聴いて知っていたとしても、本気で、主イエスがまさか本当に死んでしまうとは思ってもみなかったのでしょう。彼らには意味がわかならいのです。
そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
(17節)
また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」(18節)
主イエスの「時」と、弟子たちの「時」は、その切迫度が異なっていたように見えます。
主イエスにとって、こうして弟子たちと親しく語る時間は限られていました。自分は、「しばらくすると」、弟子たちの眼前からは「見えなくなる」からです。こうして生身の主イエスが弟子たちと対話されるのは、もうきわめてわずかしか時間が残されていないのです。
ですから、主イエスにとっての「しばらくして」の時間感覚は、貴重な時間という意味で、きわまて重要な一瞬一瞬であった筈です。ところが、弟子たちには、この主イエスのみことばの意味が、まったく分からないのです。ですので、「しばらくして」の時間感覚には、主イエスの緊迫したものがまるで感じられていなかった。切迫感がないのです。
2.弟子たちは何を悲しんでいたのか
ある時、お世話になっていた弁護士の方に言われたことばが忘れられません。
福島第1原発汚染水一万トン海洋投棄の責任を追及し、余命半年と言われながら最後まで東電取材、執筆活動を続けた日隅一雄弁護士が49歳の若さで亡くなったときのことでした。共に闘ってきた同僚の弁護士の方でした。
「悲しんでいる時間がありません。」
この一言が、こころに刺さり、忘れられないのです。
人にとって悲しむことは大切な事柄です。人には悲しむべき時に悲しむ事はどうしても必要な事柄だと思うのです。ただし、悲しむという事柄はどうしても必要なことなのですけれども、「悲しんでいる時間がない」という「時」もあることも事実です。
主イエスの言葉の意味を理解できないで、議論しあっていた弟子たちの思いは、一体どういう思いであったのでしょうか。
ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。(22節)
主イエスは、弟子たちは、悲しんでいると言われたけれども、一体何をどのように悲しんでいたのでしょうか。
主イエスがご自分の「死」が間近であると言われた意味を、彼らは理解できなかったのですから、主イエスの「死」を、このときに悲しんでいたとするのは無理でしょう。彼らの無理解ぶりを考慮すれば、彼らはこのときには、本気で主イエスが死ぬとは思っていなかったということになるからです。
それでは一体何を、どのように悲しんでいたのか。
わたしは、こう考えます。
彼らは、主イエスのみことばを本気では信じる事がいまだできてはいなかった。
彼らの思いは、こんなものではなかったか、と思います。つまりこうです。
「主イエスは、奇跡を数多く行ってきた。自分たちはその目撃者であり、証人でもある。主は、文字通り奇跡を行って、イスラエルが待望してきた「メシア」として劇的に、迫害や中傷という危機的な事態を変えてくださるに相違ない。自分たちはそういう王的メシアとして戴冠されることを誰よりも信じて、ここまでついてきた。それなのに、主はいっこうに奇跡を行ってはくださらない。われらの期待はいまだ実現していない。どうして、こんなときに、「見なくなる」とか、「父のもとへ行く」とか言われるのだろう。」
弟子たちは、主イエスの「死」を確信して悲しんでいたのではなく、主イエスが「死」を選んでいることを悲しんでいるのです。
主ご自身の「決断」ではなく、自分たちの「期待」どおりの主イエスではないことを悲しんでいた。そのような「悲しみ」は、主イエスの言葉への「無理解」そのものであるし、彼ら自身の期待するイエス像が砕かれたことが、彼らには「悲し」かったのです。
「どうして、死ぬなどと言われるのですか。生きて生きて生き抜いて、イスラエルを救ってくださる筈ではなかったのでしょうか。」という思いではなかったのでしょうか。
この思いは、イスカリオテのユダの思いと変わりません。ユダの思い、主イエスを裏切ったユダの思いは、他の弟子にも共通する思いでもあったのではないか、とわたしは思っています。
つまり、この時の弟子たちの悲しみは主イエスの「死」を悲しんでいる「悲しみ」ではなく、現実の主イエスが自分たちの「期待」どおりの「イエス」ではないことを、悲しんでいる。
ただし、主イエスは、この「悲しみ」は「喜び」に変わると断言されました。
ただ変わるというのではなく、もっと強い意味で、「変わる」と言われたのだと思います。
信仰は、自分の願望を「神」に投影することではありません。そういう事なら、その「神」は「自己願望の形を変えた像」ということになるからです。そのような自己願望の化身のような「神の像」は「偶像」ですから、砕かれなければならないのです。それゆえ、主は「変わる」と言われたのです。
3.悲しむ事に固執すること
人は、しばしば悲しむことに固執します。悲しむ自分に固執するのです。まるで悲しむことを楽しんでいるかのように悲しみに固執するのです。
たしかに、悲しみはひとにとって大切なこころの動きですが、悲しみは「喜び」へと「変わる」ことを忘れてはならないのです。悲しみは悲しいままで終わるのではないことを、主イエスは宣言されているではありませんか。
「悲しんでいる時間はないのです。」
悲しみは中断されなければなりません。悲しみを悲しみのままにしてはいけないのです。
人には希望が必要なのです。希望は、悲しみを哀しみのままに終わらせずに、「歓喜への希望」へと変えられねばならないのです。
主イエスは、生きてこの世で王的メシアになる事ではなく、死ぬ事ができるお方として、かつ再び甦ることができるお方として、「再会」を約束されました。
「十字架の死と復活」を約束されたのです。
ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(22節)
「しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」
この約束は、弟子たちに、真の信仰を与えるという事も意味しています。信仰とは、つまるところ、「喜び」なのです。
4.信仰は「喜び」にほかならない」
キリスト教が単なる「宗教」ではないのは、キリスト・イエスの実在が、実際に弟子たちを変えたという現実が歴史として存在したからに他なりません。弟子たちが、悲嘆のどん底から現実として、「歓喜」の人生へと変えられたからです。
彼ららの悲嘆のどん底の現実は、主イエスが実際に、殺されたからこそ、生起しました。この悲嘆は、イエス生前のときの、「悲しみ」とは比較になりません。まったく意味が違います。あのときの弟子たちの「悲しみ」は、彼らがイエスをいまだ「偶像」として知らなかったときに、彼らの期待した「イエス像」をイエスが否定したから、彼らの願望が粉砕されたことによる失望感が起因する「悲しみ」でした。しかし、主イエスの十字架の「死」が現実に起きたときは、弟子たちは、本当に、主イエスはみことばどおりに死んでしまったのですから、正真正銘、彼らは主イエスの「死」を悲しんだのです。
歴史に「もしも」はないのですけれも、もしも仮にですが、彼らが、主イエスの「死」に直面して、復活の主イエスと再会できなかったとしたら、彼らの人生にはなんの変化も起きなかったことでしょう。ただイエスの「死」を悲しみ、やがて忘れていったことでしょう。キリスト教会も存在していなかったことでしょう。
しかし、現実に、彼らは主イエスと再会した。そして終生変わることのない不動の信仰にいきる人々と変えられたのです。彼らは命を狙われても決して怯むことなく、殉教の最期まで、主にある「歓喜」の人生を生きたのです。」
5.イエスの名によって願いなさい
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。(23節)
今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(24節)
「その日」が意味するものは「真理の霊」すなわち「聖霊」が降臨する日です。「聖霊」によって、わたしたちは「真理をことごとく悟らせ」ていただけると、主は言われました。
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(13節)
「聖霊」の賜物を実らせることが、私たちの生涯の目的となるように、主イエスの御名によって、願い求めましょう。「そうすれば与えられ」「喜びに満たされる」と主は言われたのです。こあれほど確実な事はありません。
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