2026年1月11日(降誕節第3主日)
マルコによる福音書1章9節~11節
『イエスの洗礼』
『イエスの洗礼』
マルコによる福音書1章9節~11節
9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて〝霊〟が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
マタイによる福音書3章13節~17節
13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
1.十字架への道
主イエスは、洗礼を受けられた。洗礼が意味するものは何か。
それは「死」である。
創世記には、「ノアの箱船」の物語が登場する。神さまが人の邪悪なのをご覧になり、ノアとその家族を除いて滅ぼすということを決断されたという出来事である。
ノアは神のお示しになるとおり、地上のあらゆる動物のつがいを、建造した箱船に入れた。神は40日40夜大雨を降らせ、地上は水に覆われる。この「洪水」で多くの人びとは死に絶えた。
「神は愛なり」と、福音は宣言している。だが人類を滅ぼすというこの神さまの審判の行為をどう理解したらよいのか。洪水の審判から、わたしたちは神さまのはっきりした意志を見る。すなわち神さまは人を命あるものとされるお方であると同時に、命を滅ぼすこともできるお方であるということを知るのだ。
神は命を与え、奪うお方なのである。
そして、この出来事からわたしたちが学ぶことは、神は邪悪さを裁かれるお方だということだ。神はわたしたちを見ておられる。そして裁かれる。わたしたちの一挙手一投足を神はすべてご存じなのだ。
神は、邪悪さとは交わることはなされない。交わるということは、互いが影響し合うことに他ならないからだ。神が邪悪さを帯びるということはないのである。神との交わりは、神の影響を受けるということであって、神が邪悪さの影響を受けるということはないのである。
2.滅んだ人々は「邪悪さ」そのものだったのか。
それでは、滅んだ人々は「邪悪さ」そのものだったのだろうか。おそらくそうではあるまい。
「邪悪さ」一色の人など、よほどの悪人でないかぎり、そうそういるものではない、とわたしは思う。
良いところもあったに違いない。
なにも、まったくの悪人でもないのに、神はすべての人を何故に滅ぼされたのか。
人は良きことをするが、悪しきこともする。
善人が悪をなすこともあれば、悪人が良きことをなすこともあるのだ。
つまり、神の好意を得たノアとても、人品はさして変わらぬ人たちではなかったか。
ではなぜ?
ノアは神の好意を得たとある。「恵みを得た」という意味である。神の明白な意志である。神はノアを選びたもうた。神の選びは、神の自由な意志による。この神の意志に、わたしたちには、どんな詮索も意味をなさない。神がそうお決めになられた。これ以上のことは、人である者には、立ち入ることができない事柄であって、わたしたちはただこの神の意志を肯んずる以外になにができよう。神は神でありたもうのだ。
そうであれば、滅んでいった人々のことを、わたしたちはどのように考え、思えばよいというのか。
3.滅んだ人々への思いはいかなるものであるべきか
神に滅ぼされたのだから仕方ないのと考えるのをやめるのか。わたしはそうは思わない。滅ぼされた人々の、死後の命運を思わないではおれないのだ。神は命を与え、奪う権能をもっておられるお方だ。神は、この人々を愛しておられないのか。
神は愛なり。神は愛でありたもうお方だということを、わたしたちは主イエスによって知らされている者だ。愛のお方であられる神が、滅んでいった人々をも愛していたもうことは、わたしには疑い得ない。
しかし、神は、邪悪さと交わることはなさらない。
邪悪さの本質は、神を神とせずに、自己を神とすることにある。
自己神化こそが、生物学的死よりもはるかに深刻な「死」である。滅ぼされた人々の「死後」は、永遠の「滅び」なのか。自己神化したまま、神ならざる者であるにもかかわらず、自己を神とする「死」にとどまり続けるのか。
滅ぼされた「普通の人(The Ordinary Man)」は、生物学的死の後に、さらに神の審判を待つことになるだろう。最後の審判までの「あいだ」の時はあるのだろうか。あるとして、この人々に、はたして「救い」はあるのか。彼らには「救い」はあるのか。
神が愛のお方であられるのなら、彼らにも「永遠の命」を、与えたいと切望されているのではあるまいか。
主イエスは、彼らをも愛したもうのではあるまいか。
主イエスは、ご自身を殺そうとする者を愛したもうた。神の子を殺す者を愛された。おのれを神とする者は、まさに「神を殺す」者だ。洪水審判で生物学的生命において滅んだ人たちは、「神を殺すことを選んだ」人々だった。それが「邪悪さ」の正体だった。彼らは滅んだ「普通の人(The Ordinary Man)」であったかもしれないが、神の前で,神を拒み,自らを「神」とし続けたことを、神は裁かねばならなかった。神は「無神性」とは交わることができない。
しかし、主イエスは、「神殺し」の者たちを愛し抜かれた。 わたしたちは、この主の愛に倣うことが勧められているのではないか。主イエスが愛したもうように愛すべきではないか。 滅び行く者たちに、神がその罪を赦し、神なき世界から、すなわち「無神性」の世界から、救い出してくださることを信ずべきではなかろうか。
「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」
わたしたちが信じ,告白するこの言葉は、彼らの絶望ではなく希望なのではあるまいか。
生物学的な死ののち、彼らの「無神性」に「死」を、たまうのではないか。「死」の「死」である。滅びなければならないのは、「無神性」「自己神化」という「死」であって。この「死」に対して決定的な「死」を与えたもうのではないか。
わたしたちは、ゆえに、そのことを祈り願う。
洪水審判のとき、溺れ死んだ人々を、神は、その罪にもかかわらず、神ご自身が、御子イエスによって、彼らの「死」を「死」に至らしめたもう事を信じて、祈るべきではなかろうか。
4.洗礼は罪に「死」に、「主にあって甦る」事を意味する
洗礼は、洪水審判を比喩として再現する神の業である。
全身を水のなかに沈ませることで、罪においては「死ぬ」のである。一度死んでから、神によって引き上げられることで、新しき神にある命へと甦る、「新生」するだ。罪人たるおのれは死なねばならない。死んで、新生するのである。新生した命は、自分の命ではない。キリストの命が宿る命である。インマヌエルの命である。キリスト・イエスと共なるいのちである。
5.主イエスの洗礼が指し示しているものは何か
わたしたちが洗礼を受けることの意味は、以上述べたことであるが、これは罪人であるわたしたちに該当する意味に他ならない。主イエスが洗礼を受ける事とは区別される。
それでは、罪なきお方であられる主イエスがなぜ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのか。
主イエスが洗礼を受けようとヨハネのもとに来たとき、ヨハネは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と、引き留めようとしたとマタイによる福音書は伝えている。
ヨハネの洗礼は「罪の悔い改めのバプテスマ」と呼ばれていたほどで、罪人を「悔改め」させることに意味があった。
それゆえ、罪なき方イエスにこの「洗礼」を授けることは畏れ多いからだ。ヨハネ自身、イエスを「見よ、世の罪をとりのぞく神の子羊だ」と叫んでいたのだ。
「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」
主イエスは、しかしこのヨハネの振る舞いを振り切る。「今は正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」とヨハネを諭す。当然、いったい「正しいこと」とは何であるかが問題になる。言うまでもない。主イエスが、その公的生涯を、この洗礼の一事をもって開始されようとしている刻(とき)である。主イエスは、これから歩もうとしている「十字架の道」「復活の道」をはるかに見晴るかして、人類救済という父なる神から託された使命の全体を「正しいことすべて」と言っているのだ。
しかも重要な事は、「われわれにはふざわしいこと」だと言っているのであるから、この救いの御業を、洗礼者ヨハネと共に歩まんというのである。「死にて甦る」まさに「十字架と復活」を、主イエスの洗礼は意味しているのであるアーメン
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