2026年1月25日(日)(降誕節第5主日)
マルコによる福音書1章21節~28節
『宣教の開始』
『宣教の開始』
マルコによる福音書1章21節~28節
21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
1.カファルナウムという町
イエスは故郷ナザレではなく、カファルナウムという町を「わたしの町」と呼んでいた。ここでペトロをはじめとした弟子たちを呼び出した。ペトロの家もみつかっている。イエスはペトロの家に滞在していたかもしれない。この町でイエスは多くの奇跡を行った。本日は、この町の会堂での出来事である。
2.安息日に会堂に入って
会堂、それはユダヤ教のシナゴーグと呼ばれる会堂である。主イエスは、ここ会堂で聴衆を得ている。このことは、主イエスがユダヤ教社会のなかで、福音宣教を開始されたことを意味する。堂々と会堂に、しかも安息日に「教え始められた」のである。聴衆は、すべてユダヤ教徒だ。聴衆であるユダヤ教徒は、イエスを、「教え」を説く者として受け入れていたのである。
安息日は、律法学者たちが教えを説く場となっていた。聴衆、会衆は礼拝をしに集まっていたのだから、イエスが教えを語り始めたときには、会衆は律法の解釈を語るものだとばかり思っていたはずではないかと考えられる。はじめから、驚くべき教えを語ることを期待していた筈はない。
会衆は、いつものように律法のすぐれた解釈を,静かに聴こうと待機していたに違いない。イエスは、彼らにとってはラビとしては新顔だけれども、あくまでユダヤ教のラビとして受け入れていたと考えるべきだろう。
3.人々の驚き
ところが、会衆がこの新顔の青年の口から語られた「教え」を聴いたとき、彼らは「非常に驚いた」のであった。その理由は、彼らが聴いた言葉は、どうみても「人に見える」この青年の語る言葉は、人の口から語られたものとは到底思えなかったからだった。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とマタイは記述した。「権威ある者として」というのは、人の権威をはるかに超えた「神的な権威」を意味するからだ。
この「人々の驚き」は、しかし、会衆がイエスを、メシア、キリストと信じたという信仰告白にまで至る「驚き」ではなかった。
4.「驚き」は直ちに信仰告白の次元ではない。
会衆は、イエスの言葉に、たしかに神的な権威を感じたし、聴いた。しかし、人は神の権威を感じたとしても、そのことから直ちにイエスへの信仰告白の次元へと飛躍することはないということを、わたしたちは、ここでの会衆のことを黙想するとき、認めざるをえない。彼らはたしかに衝撃をうけた筈だ。驚愕した筈なのだ。しかし、彼らの人格内部に彼らの全人格を完全に動かすという「動き」にはならなかったからだ。
この町の住人は、1500人ほどだったようだ。この町からイエスに従う弟子の共同体が生まれたのは事実である。しかし、弟子たちのあとに続く弟子の共同体が生まれ、弟子たちと同じ歩みをはじめたとは書かれていない。「悔い改め」はついに起きなかったのだ。マタイによる福音書11章の以下の記述に注目したい。
20それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
23また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
24しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」わたしのもとに来なさい。
人は、神によって選ばれたならば、人の力には関係なく、信仰は生起する。がしかし、そこに神の選びがないのならば、いかに神の圧倒的な「権威」や「奇跡」を経験しても、信仰は生起しないのだ。
わたしたちは、「人々の驚き」の現実をみて、主イエスの「宣教」、主イエスの「伝道」が、ただちに実を結ぶことはなかったという現実を見る。
実に神がなさる業は、人の思いを超えているのだ。
5.「神の選び」は「悔い改め」を結実する
「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」とマタイは記している。
カファルナウムは、主イエスに愛された町であった。
人々は数多くの奇跡を目撃・経験したが、ついに悔い改めなかったために、強く叱責を受けたのだ。
だから、わたしたちは、カファルナウムの轍を踏むことなく、自らを常にみつめ直して、「悔い改め」ることが、必要なのである。これを「自己糾明」とイグナチオ・デ・ロヨラは呼んだ。(『霊操』)
6.汚れた霊に取りつかれた男のこと
なぜだろう。礼拝に来ている会衆になかに、「汚れた霊にとりつかれた男」がいて、叫んだという。
まずこの男が、会堂にいたということをどう理解すべきかということが気になる。イエスが登壇する前には、会衆は静かに礼拝を守るこころの準備をしていたことであろう。そのときには、この男は他の会衆のなかにいたはずであるけれども、おとなしくしていたのだろう。他の人となんら変わりなく、「汚れた霊にとりつかれた男」だとは誰も考えなかったと、わたしは考える。つまり、人に対しての迷惑行為をするようには、見られてはいなかった。
イエスが「権威ある者として」語り始めると、会衆はその神的な権威に驚愕し始めた。その男は、イエスの神的な権威と、それに衝迫を受けた会衆の反応に呼応するかのように、突如として反応したのだ。
この男の叫んだ言葉は、イエスが神的権威をもって語り出すと同時に、この男の中の「汚れた霊」が、この男をして語らせたのである。叫んでいるのはこの男にとりついた汚れた霊なのだ。ゆえに、この男自身が語っているのではまったくない。彼に取り憑いている「汚れた霊」が語っているのだ。
7.「汚れた霊」の挑戦とその目的
24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
「汚れた霊」は、イエスのことを知っていた。「ナザレのイエス」と呼んでいることからわかる。相手の名を知っているということを相手に知らせることで、彼はイエスに挑戦しているのだ。「こっちはお前の正体を知っているぞ」とばかりに優位な立場に立とうとしているのだ。
会衆が大勢いるなかで、彼のみが「イエスが誰であるか」を知っていた。彼は自分がイエスよりも上であると他の会衆にアピールしたのである。
「みんな、この新顔のラビをきどっている若造は『ナザレのイエス』だ。オレはこの男を知っている。正体はこのオレには分かっている。『神の聖者』だ。」
「汚れた霊」は、イエスに向かって叫んでいるが、その内容はそこに居合わせた会衆にも聴かせていたのである。
「汚れた霊」の正体が、この「叫び」によって露見した。「イエスの正体」を暴露することで、彼の目的が吐露された。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」
汚れた霊の動機と目的は、内容からして明白だった。
それは、「関係の断絶」である。
イエスが神的権威をもつ『神の聖者』だということを彼はよく知っていて、そして、それゆえにこそ交わりを断ちたいということが彼の根本動機だということなのであった。神との関係を持ちたくないのである。これこそが、「霊の汚れ」の内容なのである。イエスが『神の聖者』だからこそ、関係したくないのだ。この動機を、彼は会衆にもアピールしている。
さらに彼は、イエス到来の意味、すなわち神がイエスをこの世に遣わされた目的をも知っていた。「我々を滅ぼしに来たのか」という言葉がそれを示している。
神が人類を救おうとされていることを彼は知っている。神との完全な交わりを、イエスは人類にもたらそうとしている。それは「神との関係断絶」という事態を、「神との関係回復」へと完全にかえることであり、「人間」から「汚れ」(すなわち神との関係断絶)をとりのぞくことである。
ゆえに、この「汚れた霊」は、ただこの気の毒な男に取り憑いているというだけの存在ではない。人類の「汚れ」を代表している「霊」なのである。
彼の狙いは、会衆を神との関係断絶を「感染」させることだった。だからこそのアピールなのだ。
8.主イエスの命令
「汚れた霊」の「叫び」を聴いていた会衆は、イエスの教えに驚愕し、震撼を覚えたけれども、「汚れた霊」の「根本動機」は、彼らにとっても、同罪の動機が心の奥底にはあるので、「汚れた霊」の言葉に、彼らも共感していたと、わたしは考える。「汚れた霊」は、この哀れな「取り憑かれた男」だけのものではなく、会衆ひとりひとりにも共通している罪と、深いところで通じ合っていた筈だ。この「汚れた霊」に取り憑かれた男は、居合わせたひとりのひとりの「鏡」だったのだ。他人事ではないのだ。
だから、主イエスの叱責は、直接にはひとりの男に向けられていたが、実は、居合わせた会衆ひとりひとりにも神は語りかけておられたと理解すべきなのである。それどころか、ひいては、全人類にむけての叱責なのだ。イエスは、自分自身の内奥に潜む神との交わりを拒否するという根本動機を、自分自身から引き離せ!と命じておれるのである。
25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
9.悪霊追放を目撃した会衆の「驚き」と「議論」
27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
「汚れた霊」の挑発は失敗に終わった。
主イエスの命令は、あくまで神との交わりを拒否しようとする人間の罪を、人間自身から引き離し、追放する命令だった。
この命令には実効力が伴っていた。悪霊は男に痙攣をおこさせ、退散したのだ。このありさまを目撃、経験した会衆は、再度改めて驚愕した。そして互いに論じ合った。彼らはイエスとの今後の交わりを、どうすればよいか「相互に」議論をするようになった。
彼らはイエスの神的な現実性を経験している。そして「悪霊追放」の事件をどう理解したらよいのか、決めかねているし、「権威ある新しい教えだ。」と、イエスの教えを受け入れてもいるようだ。
ただ先に確認したように、イエスとの今後の交わりを、どうすればよいか「相互に」 議論をするようになった。
衝撃・驚愕・震撼を彼らは経験しつつも、あの男をどこかで、他人事として距離をおいて見ている。自分の問題とは受けとめていない。あの「男」は会衆全員の「鏡」なのに、彼らは「「鏡」を見ようともしない。
10.評判
28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
「イエスの評判」は、速い速度で、ガリラヤ地方の隅々になるまで、広まった。
しかし、この「評判」は、ついに「悔い改め」という果実を実らせることはなかった。最初の宣教は、真実な信仰告白を告白する人々を生み出すことはなかったのである。そのことはマタイ11章20節以下に示されているように、イエスは「悔い改めない」カファルナウムを厳しく叱責していることでわかる。
神の奇跡を間近に経験しながら、カファルナウムの人々は、「悔い改めの」の実を結ばなかった。イエスについて行った者達も、結局最後は、ゴルゴタの丘で、主イエスを嘲笑する側に身を隠したのだ。
しかし、この現実こそ、すべての人に捨てられ、非難・中傷に晒され、十字架の死へと向かうという独り子イエスの贖い主としての使命にとって、必要な「果実」であったのである。
主イエスは、「殺す側の論理」によって「殺される側」となるため、この道を歩んでおられるのだ。
この主イエスの御苦難と、同道することこそが弟子たるわたしたちの道なのである。
主よ、あなたの御苦しみを、偲ばせてください。アーメン