2025年4月27日(復活節第2主日)労働聖日(働く人の日)
ルカによる福音書24章13節~35節
「復活者主イエスの顕現」
【YOUTUBE配信について】
これまで、期間限定の公開としてきましたが、しばらく原則公開とします。
午前の礼拝が坂下教会で、午後の礼拝が付知教会での宣教です。
2回目の宣教なので午後の方がわかりやすいかもしれません。
事前黙想(宣教前の黙想です)
本日の聖書箇所は、いわゆる「エマオ途上」です。
まず思うことは、聖餐へと続く連想です。
弟子たちは、家についてから、復活の主イエスは食事の席についたときのことでした。
そのときの所作を見て、「イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(21節)。
「イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(20節)という所作です。
弟子たちは、この時に至るまで、旅の道中を共にしてきた人がイエスであるとは気付かなかったのです。
これをここでは弟子たちの「覚醒の出来事」と呼ぶことにします。
彼らの目前から、イエスの姿は見えなくなりますが、見えなくなるという事と、イエスであると「分かる」という出来事は、繋がっています。繋がっているというべきか、あるいは同時に生起するのです。「分かる」という認知の出来事と同時に、「姿が見えなくなる」という認知の出来事が、同時に起こるのです。
つまり、イエスが「分かる」という信仰の認識が「覚醒」するという出来事は、イエスの「姿が見えなくなる」という「対象認識不能」の出来事が同時に起きたのです。
この繋がりは、信仰認識の出来事がいかなるものであるかを如実に物語っています。
サクラメントの出来事がどのような事情で生起して、わたしたちに切迫してくるのか。この繋がりは、示唆しているでしょう。
聖餐というサクラメントにおいて、わたくしどもが主の晩餐に与るとき、配餐の所作をわたしたちは目の当たりにします。そのとき、パンとぶどう酒は、甦りの主イエスが「分かる」という信仰認識の覚醒が生起するのです。しかし、その具体的な出来事は、決して甦りの主イエスの「姿が見える」ことではなく、「見えなくなる」ことと同時に生起しているということです。
つまり、主イエスが「私を記念して行いなさい」と命じ給いし、聖餐にあって、わたくしどもはあの弟子たちのように、主イエスが「分からない」状態から、「分かる」という信仰認識を与えられます。しかし、その認識は、甦りの主イエス御自身をその所作や人物を通して写し見ているのではなく、主イエス御自身の姿形は、わたくしどもの認識対象としては「認識不能」だということなのです。「信仰認識の覚醒」と「認識対象の認識不能」という出来事が同時に生起するということです。
信仰認識の覚醒の出来事が生起する以上は、たしかにこの時この場において、甦りの主御自身は、現臨してい給うのです。それゆえ聖餐は、神とわたくしどもを結びつけるサクラメントなのです。
さて、「エマオ途上」において、わたくしどもが想起することは、やはり復活の主イエスの「客観性」です。すなわち、先週確認したように、主イエスの甦りは「からだの甦り」であるという現実です。
13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
「ちょうどこの日」というのは、主の復活したその日のことです。復活の主イエスは、 クレオパという名の弟子ともうひとりの弟子の二人連れが、エルサレムからおよそ11キロあまり西北の町エマオへ向かって歩いているところに、復活の主イエスがこの二人連れのなかにはいって、歩きながら同道するのです。
話をしながらですので、時速4キロよりは遅めであったと考えると、およそ4時間弱の道中だったのではないかと推察いたします。
道中、主イエスと二人の弟子は、客観的にみれば、三人の旅人が話をしながら歩く姿以外のなにものでもない光景が目に浮かびます。
「身体の甦り」の主イエスは、被造者としての人間の身体とは区別される神的な身体として復活されています。まさしく「身体」ですが、わたしたちの「肉体」とは異なるのです。
16節には、「16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」とあるように、弟子たちには、同道している旅人が、主イエスだとは気付きません。
彼らは、先日まで生きておられた頃の主イエスの弟子たちなのですから、その外貌を知らないはずはありません。その外貌、背格好で、誰であるかは一目瞭然の筈なのですが、「二人の目は遮られていて」とあるように、外貌、背格好で明らかに主イエスだと分かる筈なのに、「遮る」もののせいで、「イエスだと分からなかった」のです。
つまり、二人には「見た目」ではわからない状態だった。
復活の主イエスは、外貌、背格好が同一であっても、見た目にはわからないという現実だったのです。
この事実は、実はわたくしどもには大きな希望なのです。外貌や背格好はわたしたちには一切わかりません。知っている人は誰もいないのですから、「わたしはイエスと会いました」などという人がいたら、それはすぐに嘘だということがバレます。そういう嘘つきは世間にはいくらでもいますから、聖書は素晴らしいことに、それが嘘だとすぐにわかるということを、「エマオ途上」で示してくれているのです。弟子たちの「分からない」という事実が示してくれているということなのです。だから「分からない」という事こそが希望になっている。
くつやのマルチンの寓話が素晴らしいのは、マルチンが出会った少年や、乳飲み子を抱えた女の人が、実はイエスさまだったということでした。主イエスは、外貌や背格好でわからないからこそ、わたしたちの隣人の誰もが、主イエスとして現れてくださるという「秘密」であり得るのです。
「遮るもの」があったからこそ、この弟子たちがわたしたちの「代表者」たり得たのです。実際、わたしたちは主イエスを直接的に、「わかる」とか「見える」ということはあまりにも畏れ多き事柄です。聖霊の時代に生きるわたしたちにとっては、主イエスは聖霊さまとして現臨されているのですから、姿形、外貌こそがむしろ主イエスとの出会いを「遮るもの」なのです。直接的見神は否定されなければならないのです。なぜなら私たちは神ではないからです。神さまは神さまによってしか相まみえることはできないからです。直接的見神を主張することは自己神化という罪を犯しているのです。
二人の弟子にとって、主イエスの外貌、背格好は自明だったけれでも彼らには「遮る」ものがあって、外貌、背格好が完全に一致、同一であったにも関わらず、主イエスと認識できなかった。この認識不可能という現実は、復活者イエスの身体がわたしたちの肉体とは別の存在だということを示していると言えましょう。人間の五感では認識不可能なのです。「信仰」という出来事、すなわち神の意志によってのみ生起する奇跡によってしか、復活者主イエスを認識(わかる)することは不可能なのです。
「エマオ途上」の弟子たちには、神人主イエスを認識する認識の器官が存在していませんでした。
彼らが、甦りの主イエスを認識した瞬間は、あの聖餐のときの所作と同じように、主がパンを裂いてお渡しになった時でした。
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
弟子たちの「覚醒の出来事」が生起したときでした。