2025年度開始
◎東濃3教会合同礼拝は、祝祭 主日のみとなります。
イースター、坂下教会にて。
ペンテコステは、付知教会。
クリスマスは、田瀬教会。
◎合同礼拝以外の週は、
坂下教会:午前10時開始。
田瀬・付知合同:午後2時開始。
第1、第3、第5週は、田瀬教会。第2、第4週は付知教会にて。 東濃3教会
2025年3月30日(四旬節第4主日)14:00
東濃3教会合同・坂下教会消火礼拝
マタイによる福音書17章1節~13節
「変容したもう主イエス」
事前黙想
「キリストの変容」の出来事を、どこまでも合理的な解釈をしないと気がすまない人々は、教会が後のキリストの復活体との出会いを、主イエスの生前の出来事として物語化して伝承したのではないかなどと、自己の理性の限界内におさめようとする。
しかし、わたしは、主イエスが「まことの神」でありたもうという現実を、繰り返して無理解を重ねてきた弟子たちが、それでも繰り返し神の奇跡を経験せしめられてきたのであるから、それにもかかわらず、なおも重ねて物語を創作する必要があったなどという仮定の想像のほうが、わたしにはよほど不合理に見える。
山上で、主イエスが光り輝いてゆく変容、そこにモーセとエリヤが現れ来て語り合う出来事である。律法、預言者、そしてメシアがここに揃うのである。そして天から、神の「認証のみことば」が下される。洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたあの時に、天来のみ声と同じ神ご自身の言葉であった。
そして再び主イエスの「沈黙命令」が弟子たちに下されたのである。
2025年3月30日(四旬節第4主日)14:00
東濃3教会合同・坂下教会消火礼拝
マタイによる福音書17章1節~13節
「変容したもう主イエス」
これまでの流れ
わたしたちは、既に信仰告白が、人間によるものではなく、神ご自身に起源するものであることを、「ペトロの信仰告白」において確認した。そしてまた、主イエスの受難予告に対するペトロの「諫言行為」が「サタン」に起源することに対して、主イエスが即座に喝破し、ペトロを大叱責することによって、ペトロをの内部に巣くうサタンを退散させたことをも確認した。
変貌の出来事は、受難の出来事の開始を意味していた。
本日は、主イエスの変貌の出来事を通じて、この出来事が、「主の受難の出来事」が、これにより開始したことを確認することになる。
荒野の試練に先立ち、主イエスは、地上での宣教の歩みの公的な開始のために、神ご自身による確証の言(ことば)が天より降された。
すなわち、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」(マタイ3章17節)である。
この神ご自身による確証は、ヨルダン川での洗礼者ヨハネによって主イエスが洗礼を受けた時に、起こった。この出来事は、多くの人びとの衆人環視のなかで生起した出来事であり、一人や二人の証言によるものではない。この出来事を目撃、聴取、体験した共同的体験であった。すなわち、主イエスの宣教は、その初めから、「実存的」とか、「観念的」とか、「主観的」とかという単独者の出来事として生起した事柄を意味してないということである。客観的な出来事であって、人間の主観に左右左右されない独一無比な事柄を意味していたのである。
ここで生起した神ご自身による「確証」は主イエスの公的生涯の開始を意味していた。それは民の客観的な共同的体験であった。そして何より、洗礼者ヨハネが、主イエスの神の独り子なる神として宣教を開始するにあたり、その開始の「火蓋を切る」仕事をしたことを意味していた。
この事は、洗礼者ヨハネが、マラキの預言の成就者であったことを意味していたのだ。
すなわちマラキ書3章1節
「見よ、わたしは使者を送る。
彼はわが前に道を備える。
あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。
あなたたちが喜びとしている契約の使者
見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」。
「彼はわが前に道を備える」という使命は、洗礼者ヨハネの自己認識と完全一致する。
すなわちマタイ3章1節~3節にはこうある。
すなわち、
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
また、このようにもある。
ヨハネ1章22節~24節(注記1)
そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
荒野の誘惑に「完全勝利」したことは、主イエスの人類救済の出来事、すなわち、主イエスの苦難と死、復活と昇天に至るすべての御業の「完全勝利」を意味していた。
したがって、「荒野の試練」の勝利のあと、直ちに主は、「ガリラヤ伝道」へと向かったのであった。
父なる神による二度目のキリスト認証のみ言
マタイによる福音書17章5節に、以下のようにある。
すなわち、
5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
5節の「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という聖句は、「これに聞け」という命令が加わっている以外は、マタイ3章17節の、神ご自身による主イエスのキリスト認証・確証のみ言葉と同じである。
このキリスト認証・確証の神の言こそが、この変貌の出来事の核心である。
さて、
モーセとエリヤとが出現して主イエスと語り合うビジョンは明らかに奇跡である。異象である。ここに合理的な言い訳めいた合理的解釈をさしはさむことはすまい。
合理性を超えているから異象という他はないのである。
とはいえ、異象だから幻視と決めつけることは適当でない。この出来事は、一人や二人の体験ではなく、抜擢された三人の弟子たちの共同的かつ同一の体験なのであるから、主観的な思い込みとか、ある事件の再解釈とか、そういう矮小化は防がれているといえるからだ。しかし他方、何らかの歴史的な現実を反映している「事実」そのものの報告と言うことも、この出来事の時空を超えた意味ある出来事として認識されている以上は、ただちに直接的に判断できない。
わたしは、あえてこの出来事に、合理的な解釈も実存的な解釈も、歴史的な解釈も読み取らないこととする。あえて言えば、この出来事の共同性は、受難の出来事の証言の客観性を担保した三人の弟子たちの共同的体験の現実だった、と考える。
三人にとって、この出来事は、あくまで鮮明な出来事であり、神の確証のみ言を目撃、聴取、体験した共同的、客観的な現実であったと考える他はないのだ。
旧約律法・預言書の成就者イエスと弟子の「別の誤解」
モーセは律法を神より受けた者、エリヤは預言者を代表する。この二人が主イエスと語り合うビジョンは、主イエスこそが、新しい人類歴史の開闢が、神の民イスラエルのすべての救いをもたらすキリストでありたもうことを、視覚的に定着させたのである。
しかし、このビジョン(視覚的認識)は、この出来事が神の自己啓示を意味していることは明らかであるにしても、このビジョンを体験した三人の弟子たちには、神の自己啓示であることまでは認識されていたけれども、彼らの認識のなかで、主イエスの受難予告にペトロが「諫言行為」をしたときとは、次元を異にはするが、「別の誤解」が生じていた。
マタイによる福音書17章2節には以下のようにある。
すなわち、
2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
つまり、主イエスのこの「変貌」を前にして、またしてもペトロが、「的外れな提案」をしてしまうのだ。
4節を見てみよう。
4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロは、モーセ・エリヤ・主イエスのために「仮小屋」を建てましょうと提案する。
「仮小屋」という提案から、わたしは、三つの「罪」を見る。
第一の罪は、偉大なうえに偉大だと信じてきたモーセ、エリヤ、主イエスに、「仮」の建物を建てようという目論見には、尊敬が感じられない。彼は心底、その提案がモーセ、エリヤ、イエスに喜ばれるべき信仰心の発露だと考えていたのだろうか、もしそうであれば、あまりにも尊敬する人びとへを軽視している提案ではないのか。
第二の罪は、「仮小屋」を建てて、どうしようとペトロは考えていたのか。何を目的として、このような提案をしたのか。」
「一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」とある。
ペトロは相手の「ため」だと平気で言っている.一体、「仮小屋」を建てることが、どうして、モーセのためになり、エリヤのためになり、主イエスのためになると、言えるのだろうか。わたしには、何も相手のためにもならないことを、相手のためだと言い切っているようにしか見えない。
第三の罪は、この提案には、ペトロの意識的にか無意識的か、はっきりした目的が潜んでいることだ。それは、ペトロの宗教的願望である。ペトロがいま、現実に他の二人と共有しているの神の啓示の体験を、自己の宗教的な陶酔感に浸りながら、「このままこの至上の恍惚体験」を、ここに留め置きたいのだ。いつでも、この「仮小屋」にきて、この三人に会うことができるとしたら、もう他には何もいらない。いまは「仮小屋」でも、やがてはここを聖所にするのだ・・・。いや神殿にしよう・・・。「天の宮」だ。
主イエスの変貌という視覚的なビジョンの体験は、まぎれもなく主イエスが神ご自身であることを意味する出来事にほかならなかった。
しかし、この否定しように否定できない人間の主観とは完全に独立した現実であるにもかかわらず、ビジョンによって、弟子たちの信仰内容は変えられてはいなかったのである。
つまり、弟子の「無理解」、弟子の「的外れな提案」によって、むしろかえって、この変貌の出来事が、彼らの宗教的願望の投影でもなく、まして彼らの「信仰の所産」ではあり得ないということを証明しているのである。
人間に示されたこの神の自己啓示の出来事を体験した当時者自身に「信仰の革新」はなんら生起していないのである。信仰は「神秘的体験」と必ずしも一致するとは限らないことをこの出来事は証明しているのだ。
変貌の出来事の核心はみ言にある。
マタイによる福音書17章5節=7節を見る。
すなわち、
5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
「信仰の革新」は、人間の側からは決して生起しない。信仰は、ただ神からくる。
「雲の中から」神ご自身のみ言が語られた。「6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。」
弟子たちは、主の変貌という神の自己啓示の体験によっては、「信仰の革新」を経験できずにいたけれども、他ならぬ「神の言」によって、「信仰の革新」へと導かれたのだ。
主イエスが彼らに触れられ、「起きなさい。恐れることはない。」とのみ言によって、彼らははじめて、信仰に覚醒する。
ここから、弟子たちは、主イエスの受難への道に同道する弟子として、新たな旅立ちをしてゆくことになったのだ。
「これに聞け」
雲の中からの神のみ言、「これに聞け」という命令は、主イエスの受難予告の通りに、主イエスが、以後、ひたすら、しかも威風堂々と、十字架上で殺されるという人類救済にむけて「受難の道」を、歩んでゆくが、この道をゆくイエスのみ言に聴き従うことを命じているといえよう。
受難の道を行く主イエスの言に聴き従えという神の命令なのである。
弟子たちは、この神の言のもとにある。
信仰の覚醒は、神の言への従順以外ではあり得ないのだ。
主イエスは、十字架に至るまで、主イエスを殺そうとするすべての敵対者を、赦し、愛するという行動を最期まで貫き通される。
この愛の戒め、主イエスが身をもって示された愛のいましめに、あなたがたも同じように聴き従いなさい。神はここで命じられたのである。
この「これに聞け」が弟子たちすべての原点となっているのである。
五度目の「沈黙命令」
17章8節~9節をみる。
すなわち、
8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
主イエスの「沈黙命令」については「受難予告」のときにもなされた。「主イエスはキリストである」という信仰告白は人によるものではなく、ただ神によるものであらねばならない。
人による評価、価値判断、業績、功績、奇跡願望、神秘主義的願望、宗教的体験主義などなどあらゆる人間的な起源は真実な信仰告白にはならない。すなわち、「主イエスはわたしの主、イエス・キリストでありたもう」という信仰告白には、一片の人間的動機も入り込む余地はないのである。
これから、弟子たちは、殺されるために、その十字架の死という極点を目指して、揺るぎなく、威風堂々と先頭を切る主イエスの、あとに続き歩むことになる。
これから殺されることが明白な方を、メシアだと宣教してゆくことは、はたして、彼には可能だったであろうか、彼らは、しかし、ここではっきりと、命じられたのだ。
「沈黙命令」
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
エリヤの使命は果たされた。
信仰に覚醒した弟子たちは主イエスに重大な質問をした。
洗礼者ヨハネこそが、来るべきエリヤであることを、主イエス御自身が弟子たちに語られるということをこの箇所は明示しているから、「重大」なのであった。
マタイによる福音書17章10節~13節を見よう。
すなわち、こう書いてある。
10彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
11イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。
12言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」
13そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。
主イエスは、洗礼者ヨハネこそ、この応答によって、「エリヤだ」と明言されていることになるのだ。
だからこそ、初代教会は、洗礼者ヨハネをエリヤの使命成就者として、尊敬してきたのだ。
ヨハネ福音書には、ヨハネが「わたしはエリヤではない」と自己証言しているが、一世紀90年代に成立したヨハネによる福音書が、わざわざこの洗礼者ヨハネの自己証言を残しているのには理由がある。主イエスによりヨハネについての証言とヨハネの自己証言との食い違いを明確化する目的がヨハネ共同体にはあったからだ。
洗礼者ヨハネの宣教内容と主イエスの宣教内容には、明瞭な「差異と区別」がある。その差異性は、主イエスの宣教内容をより鮮やかに明確化する。この差異性は、自己証言とイエス証言の差異よりもはるかに重要であったのである。
福音書全体を通してみれば、洗礼者ヨハネは、生前、母エリサベツの胎内にあって、人類のなかでただ一人、主イエスが誰であるかを「証言」した人物であり、預言者イザヤの預言成就者であることを自認し、それはマラキのエリヤ預言とまったく一致もしている。
イエスの最初の弟子たちは洗礼者の弟子たちであったことが、ヨハネ福音書で示されている。洗礼者ヨハネの「見よ、世の罪をとりのぞく神の子羊」という証言に、ヨハネの弟子たちは信じ、従ったからこそイエスの弟子となったのである。
ヨハネはその死においても、主イエスの先駆者として、神の義をまっとうした。主イエスに先だって、死罪とされたのである。ヨハネの「死」は、イエスの「死」の先駆であることは明白だ。だから、その誕生から死に至るまで、主イエスの先駆者、証言者としていささかのブレることなく生涯をまっとうしたである。
洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆者として、つまりエリヤとして、主イエスの「受難の道」を先だって歩んだと、主はこの問答のなかで語っておられるのである。
繰り返す、主イエスは、ここで弟子たちに、洗礼者ヨハネこそ、エリヤとしての使命を完全に全うしたと宣言されているのである。
「 人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」
洗礼者ヨハネのように、主イエスは、苦難の道程を歩むと語られたのである。
繰り返す、洗礼者ヨハネこそ、エリヤの使命を完全にまっとうした、主イエスはそのように、ここで明確に語っているのだ。
「人びとから認められず、好きなようにあしらわれ、苦しめられる」ことこそ、主イエスの先駆者、「主の道筋を備え、その道をまっすぐにする荒野の声」(イザヤ預言)」であり、エリヤとしての使命をまっとうすることなのだと語られたのである。
マラキ3章23節~24節の預言をみよう。
すなわち、
23見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
24彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。
エリヤの使命とは「父の心を子に子の心を父に向けさせる。」
洗礼者ヨハネこそは、エリヤであったと主イエスは明言された。
それは主が使命とされている人類救済のみ業が、十字架の死と苦難によってこそ成し遂げられることと、まったく同一軌道上の道、すなわち、義のゆえに斬首されるという苦難によって、主イエスの受難の道の先駆者となったからである。
エリヤの使命は、「父の心を子に子の心を父に向けさせる」事柄であった。
「父の心を子に子の心を父に向けさせる」事柄とは何か。
人心を変えることではない。人心に、悔い改めを起こさせるバプテスマの働きも、彼が人間である以上は時空を超えることではないからだ。
「父の心を子に子の心を父に向けさせる」事柄は、主イエスが、あの十字架上で、叫ばれる「エリ、エリ、エリ、サバクタニ」という叫びにも似た祈りの瞬間に、人類の目にも明らかとなった出来事だ。
洗礼者ヨハネの、道ぞなえの道は、主イエスの御苦難の先駆として「死に渡される」ことであった。これにより、真の父(父なる神)の心を子(子なる神)に向けさせ、子(子なる神)に父(父なる神)の心を向けさせたのである。
ヨハネは極悪人に課せられるべき斬首の死をもって、主イエスの受難の先駆となった。
このヨハネの死を見て、主イエスは父なる神の「心」をことごとく知り、父の心をさらに確実に確信したであろう。そして、父なる神への従順の道は、この十字架への道以外にないことをさらに確信したであろう。この独り子なる神の苦難の叫びは、「子の心」を父なる神に届けたことであろう。子なる神の痛み(苦難)を見つめる父なる神の「痛み」をこそ、十字架上の叫びこそ、人類が「神の痛み」をキリスト・イエスによって知らしめられたのだ。
ここで「洗礼者こそエリヤ」その人だと弟子に示すことによる、ゆるぎない受難の道を、ここで弟子たちに示したもう事になった。
この「変貌の山」での、神の命令によって、主イエスの受難の道が開始され、弟子たちがこの苦難の道への始まった。弟子たちの苦難の道への同道は、即、人類の道をも示している。
最後に
弟子への「これに聞け」という神の命令は、わたしたちにも向けられている。
それは、主イエスが受難予告で示された、犠牲の愛、敵を愛する愛の道をこそ行きなさいという人倫である。
この命令は、主御自身、さらには洗礼者ヨハネの示した義のゆえに死ぬという道、このようないばらの道こそが、人類が共同して、歩むべき人倫であるということであろう。
(注記1)
ヨハネによる福音書のこの箇所で、洗礼者はファリサイ人の派遣する使者の問いに、「わたしはエリヤではない」と答えている。これはヨハネ自身による自己認識において、エリヤ自身ではないという意味であるだけであることに留意すべきである。事柄として、彼自身には使命者として、イザヤ預言の成就者という自己認識があったということが重要であり、その使命の成就者とは、とりもなおさず、主イエスによって、「エリヤ」の使命成就者と認定されていた事が重要なのである。ゆえにキリスト者共同体にとって、洗礼者ヨハネは「エリヤ」と同定されたのである。
2024年3月23日 (四旬節第3主日)
〈受難の予告〉
マタイ 16:13~28、 詩編 86:5~10
黙想 サタンの視点、「キリストは決して殺されてはなりません」
ペトロの信仰告白を、主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と、信仰は人のわざではなく、天与の賜物だと、祝福されます(幸いだ)
ところが、ペトロの信仰告白を祝福した直後から、主はご自身の受難の予告をかたり始めるのでした。
「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」
ペトロの信仰告白は、主イエスが「だれであるか」という事柄についてでした。ペトロは、イエスがメシア(キリスト)、生ける神の子だという認識内容を告白したのです。この告白は正確な認識でした。だからこそ「あなたは幸いだ」と主は祝福されたのです。
しかし、この信仰知には、神の子・キリストが何をこそなしたもうお方であるかという信仰知が含まれていませんでした。それは主の受難予告に対してペトロがとった行動によって明らかになったのです。ペトロが、受難予告を語りたもう主イエスを諫め始めたからです。主は、これに対して、先ほどとは正反対に超弩弓の叱責をされます。「サタン、引き下がれ」と。
祝福と叱責。ペトロに対する真逆の主の態度が示す事柄によって、判明することが二つあります。
第一には、信仰はただ神ご自身の自己贈与によって生起するということ、そしてこの告白は「陰府の力も対抗できない」という不滅性を有していることです。それはペトロの態度が「サタン」呼ばわりされようといささかも解消されはしません。
第二には、主が「三日目に復活することになっている」と明言されているにもかかわらず、ペトロは主の「苦難と死」について、「そんなことはあってはならない」と、否定したことが「意味するもの」です。
それはペテロが自らの人間的な視点を、主イエスが完遂しようとされる人類救済のみ業に対して、押し被せて、これを否定したことが「意味していたもの」です。その「意味したもの」とは、「わが師イエスこそは生きてこの地上で、地上の王となって世界を支配するお方であるべきです」という「肉の視点」でした。彼にとっては「わが師イエスは決して殺されてはならないお方」だったのです。彼はそう考えた。この「肉の視点」こそあの荒野で、主イエスを誘惑したサタンの第三の誘惑そのものに他なりません。ゆえに主イエスは、あの時と同じみ言をもって、この「肉の思い」を退けたもうたのです。この怒りの叱責こそ、ペトロの魂にむけての神の独り子なる主の厳しい愛の言に他ならないのです。
2024年3月16日 (四旬節第2主日)
マタイによる福音書12章22節~32節