2025年5月18日(復活節第5主日)
坂下教会にて、東濃3教会合同礼拝 10:00開始
来週より、送迎開始。
ヨハネによる福音書14章1節~11節
「父への道」
1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(9節)
【父なる神を見た者はいない。誰一人していない。】
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)
主イエスは、ご自身を見る者は、誰も見たことのない父なる神を見たのだと語られました。このような大胆な言葉を、敬虔なユダヤ人であれば想像だにしなかったことでしょう。まして自らを見た者は、父なる神を見たのだと言いだし得るという事は、余程の「狂人」か、はたまた「涜神者」か、そのどちらかでしかあり得ない、と考えたに違いありません。
だから、主イエスを「神」ご自身だと信じない者たちは、イエスを「神を自称する冒涜者」として憎んだことは、ユダヤ教徒としては至極当然の反応だったのです。人間が、自分を見たのは神を見たことと等しいというのですから、彼らにとっては明らかな「涜神」行為に見えたのです。神は神であり、人は人なのなのに、どうしてそんなことを言い得るのか。傲慢にもほどがあるというのです。「許せん、生かしておけぬ」とイエスの反対者たちは主イエスを憎悪、殺意をさえ抱いたのです。
たしかに、主イエスが、被造者(造られた者)としてのただの人であったならば、ユダヤ人たちの反応はまったく正当なのです。ただし、それは主イエスが、被造者であったのであればです。
しかしながら、ヨハネによる福音書によれば、主イエスは、被造者としての人ではないのです。被造者の形、姿をもって地上に来られたことは確かにそのとおりです。しかし、主イエスは、被造者の姿・形をもって来られたには来られたのですが、神ご自身が、被造者の姿・形へと「受肉」されて来臨されたのです。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)
主イエスは、「父の独り子である神」ご自身なのです。ゆえに、主イエスを「見る」ということは、「それは父の独り子としての栄光」を「見る」ことを意味するのです。
わたしたち信仰者は、聖霊により賜った信仰によって主イエスを見るとき、そのことは「父の独り子である神としての栄光」を見ているというのです。
ところが、神の恩寵によって賜った信仰の「眼」で主イエスを見ることなく、被造者としての「肉の眼」でしか、主イエスを見ないのであれば、その場合には、わたくしたちとて、主イエスをただの人としてしか見えないことにならざるを得ないのです。
眼前に主イエスが、共に四時間も同道していながら、エマオ途上の弟子たちには、復活の主イエスが誰であるかわからなかった事を思いだしてください。彼らは主イエスの姿・形は正確に覚えていたはずでしたが、それなのに彼らには主イエスが誰であるかわかりませんでしたね。
「主イエスが誰であるか」。すなわち、主イエスが「神の独り子である神」であるかどうかということは、被造者としての認識能力によっては認識できないということを「エマオ途上」の出来事は示しています。むしろ人の認識の力は無力どころか妨げですらあるのです。
神が賜い給ふ信仰によって「眼が開かれて」初めて、彼らは眼前の方が、主イエスご自身であることを知ったのでした。
「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(14:7)
「見ること」と「知ること」。
主イエスを知ることは、父なる神を知ることになるのだと主は言われました。この「知るということ」は、言い換えれば「信仰知」です。「信仰の知」とは、生まれながらの人間の理性による「知」、一般的な「理性の知」とは異なります。人間理性が主体となって対象を観察・分析する「理性知」とは違うのです。
神が賜い給ふ「信仰知」は、人間に恩寵として神ご自身の聖霊が、人間の魂に降臨し、そこで初めて、人間の魂の内部に、神の霊たる聖霊さまが内在してくださり、その内在し給ふ神ご自身が、主イエスが「誰であるか」という「信仰知」を、人間に生起せしめたもうのです。すなわち、「信仰知」とは、神ご自身が、わたくしたちに「介入」してくださることに「よって、生起する「知ること」なのです。
このような出来事が生起するとき、わたくしたちは主イエスが「神の独り子である神」ご自身であり給ふことを「知る」ことになり、そのことはすなわち、「神の独り子である神」と一つであり給ふ「父なる神」を「知ることになる」のです。
「いや、既に父を見ている。」
この主イエスの御言葉は、さらに素晴らしいことを語っておられるのです。
つまり、主イエスを「見る」ことは、すなわち、「父なる神」を、「既に見ている」ことなのだと言われているからです。
この御言葉の素晴らしさは、つまりこういうことでしょう。
神ご自身の聖霊の授与によって生起するときにこそ、「信仰知」は生起します。つまり「聖霊降臨」が「信仰知」を生起せしめるのです。
ところが主は、「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」とあえて言われたのです。イエスを見ることによって「父を知る」ようになる。たしかにそうです。しかい、いや、既に「見ている」というのは、「父を知るようになる」以前に、「父を見ている」というのです。ということは、「知ること」が先行して、しかるのちに「見る」ということだけではなくして、「父を知るようになる」以前に「父を見ている」のだというのです。
主イエスを見ることはすなわち、父なる神を見ることに等しいというのです。
だから、この御言葉は実に素晴らしい事柄を語っていると言えましょう。
主イエスを見ることは、即神を見ること、父なる神を見ていることなのだと言っておられるのです。
ところで、わたしたちの誰一人として、主イエスの姿・形を知るものはいません。
主イエスは、2千年前に、天に昇られたので、復活者イエスは、その外貌をわたしたちに示すことはないのです。
だから、わたしたちが主イエスを「見る」ということは、やはり「信仰知」において、「見る」ことなしには「見ること」はできません。
しかし、このことは、実はわたしたちにとって良いことなのです。
「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」(14:6)
主イエスは、語り給いました。
「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』
わたしたちは、主イエスの外貌を、たとえ知らなくても、主イエス「通る」道が開かれているからです。
主イエスと父なる神は、「相互内在」しておられると、主イエスは明言されました。
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」(14:11)
この「相互内在」の交わりは、わたしたちと主イエスとの間にも生起すると、主イエスは言われているからなのです。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(14:18~21)
主イエスは、必ず戻ってきて、「世は」主イエスを見なくなるが、わたしたちは主イエスを「見る」というのです。そして主イエスの命に与って生きることになるというのです。
「かの日」とは、いついつかという日ではなく、主が再臨される時のことでありましょう。その日は、無限遠点の日かもしれないし、「永遠の今」かもしれません。
いつかは知らなくても、かならず「かの日」はある。その今、わたしたちは主イエスとの交わりが、独り子なる神と父なる神の「相互内在」と同じように、生起・成就することが「分かる」(知る)というのです。
「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(14:20)
この「相互内在」こそが、わたしたちの「命」に他ならないことは言うまでもありません。
「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(4:21)
それでは、この「相互内在」ということは、具体的にさらにどういうことなのか。 主イエスのこのみ言葉に示されている事を、もっと具体的に考えてゆきましょう。
主イエスを愛するということは、具体的には主イエスの「掟」を守ることだと示されています。主イエスの「掟」は、では何なのか。それはとどのつまり、神を愛し、人を愛するという最も重要な「掟」以外の何を言うでしょうか。
「愛すること」、しかも神の愛をもって愛することです。神さまが愛してくださる愛をもって、主イエスを愛し、主イエスを愛する人は父なる神に、さらに愛される。神に愛される人を主イエスは愛し、愛された人は、その人に、主イエスご自身はご自身を御現しになられると明言してくださったのです。
愛の根源は神です。神は愛だからです。
神に愛され、わたしたちは、神を愛し、人を愛することができるのです。
神の愛を受け、神の愛をもって神を愛し、神の愛をもって主イエスを愛し、主イエスを愛する者は、神に愛される。神に愛される人を主イエスは愛し、主イエスはその人にご自身を現れるというのです。この愛の循環、愛の充溢こそが、「救い」の現実でなくて何でしょうか。
主よ、わたしたちはあなたを愛します。わたしたちをして、あなたご自身を御現しください。 アーメン