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2025年5月24日土曜日

 2025年5月25日 (復活節第6主日)

マタイによる福音書6章1節~15節

「イエスの祈り」

1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。

4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

9だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。

10御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

12わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

13わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。

15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

2025年5月17日土曜日

 2025年5月18日(復活節第5主日)

坂下教会にて、東濃3教会合同礼拝  10:00開始

来週より、送迎開始。



ヨハネによる福音書14章1節~11節

「父への道」
1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
 

 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(9節)

 【父なる神を見た者はいない。誰一人していない。】

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)

 主イエスは、ご自身を見る者は、誰も見たことのない父なる神を見たのだと語られました。このような大胆な言葉を、敬虔なユダヤ人であれば想像だにしなかったことでしょう。まして自らを見た者は、父なる神を見たのだと言いだし得るという事は、余程の「狂人」か、はたまた「涜神者」か、そのどちらかでしかあり得ない、と考えたに違いありません。

 だから、主イエスを「神」ご自身だと信じない者たちは、イエスを「神を自称する冒涜者」として憎んだことは、ユダヤ教徒としては至極当然の反応だったのです。人間が、自分を見たのは神を見たことと等しいというのですから、彼らにとっては明らかな「涜神」行為に見えたのです。神は神であり、人は人なのなのに、どうしてそんなことを言い得るのか。傲慢にもほどがあるというのです。「許せん、生かしておけぬ」とイエスの反対者たちは主イエスを憎悪、殺意をさえ抱いたのです。

 たしかに、主イエスが、被造者(造られた者)としてのただの人であったならば、ユダヤ人たちの反応はまったく正当なのです。ただし、それは主イエスが、被造者であったのであればです。

 しかしながら、ヨハネによる福音書によれば、主イエスは、被造者としての人ではないのです。被造者の形、姿をもって地上に来られたことは確かにそのとおりです。しかし、主イエスは、被造者の姿・形をもって来られたには来られたのですが、神ご自身が、被造者の姿・形へと「受肉」されて来臨されたのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)

 主イエスは、「父の独り子である神」ご自身なのです。ゆえに、主イエスを「見る」ということは、「それは父の独り子としての栄光」を「見る」ことを意味するのです。

 わたしたち信仰者は、聖霊により賜った信仰によって主イエスを見るとき、そのことは「父の独り子である神としての栄光」を見ているというのです。

 ところが、神の恩寵によって賜った信仰の「眼」で主イエスを見ることなく、被造者としての「肉の眼」でしか、主イエスを見ないのであれば、その場合には、わたくしたちとて、主イエスをただの人としてしか見えないことにならざるを得ないのです。

 眼前に主イエスが、共に四時間も同道していながら、エマオ途上の弟子たちには、復活の主イエスが誰であるかわからなかった事を思いだしてください。彼らは主イエスの姿・形は正確に覚えていたはずでしたが、それなのに彼らには主イエスが誰であるかわかりませんでしたね。

 「主イエスが誰であるか」。すなわち、主イエスが「神の独り子である神」であるかどうかということは、被造者としての認識能力によっては認識できないということを「エマオ途上」の出来事は示しています。むしろ人の認識の力は無力どころか妨げですらあるのです。

 神が賜い給ふ信仰によって「眼が開かれて」初めて、彼らは眼前の方が、主イエスご自身であることを知ったのでした。

「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(14:7)

 「見ること」と「知ること」。

  主イエスを知ることは、父なる神を知ることになるのだと主は言われました。この「知るということ」は、言い換えれば「信仰知」です。「信仰の知」とは、生まれながらの人間の理性による「知」、一般的な「理性の知」とは異なります。人間理性が主体となって対象を観察・分析する「理性知」とは違うのです。

 神が賜い給ふ「信仰知」は、人間に恩寵として神ご自身の聖霊が、人間の魂に降臨し、そこで初めて、人間の魂の内部に、神の霊たる聖霊さまが内在してくださり、その内在し給ふ神ご自身が、主イエスが「誰であるか」という「信仰知」を、人間に生起せしめたもうのです。すなわち、「信仰知」とは、神ご自身が、わたくしたちに「介入」してくださることに「よって、生起する「知ること」なのです。

 このような出来事が生起するとき、わたくしたちは主イエスが「神の独り子である神」ご自身であり給ふことを「知る」ことになり、そのことはすなわち、「神の独り子である神」と一つであり給ふ「父なる神」を「知ることになる」のです。

「いや、既に父を見ている。」

 この主イエスの御言葉は、さらに素晴らしいことを語っておられるのです。

 つまり、主イエスを「見る」ことは、すなわち、「父なる神」を、「既に見ている」ことなのだと言われているからです。

 この御言葉の素晴らしさは、つまりこういうことでしょう。

 神ご自身の聖霊の授与によって生起するときにこそ、「信仰知」は生起します。つまり「聖霊降臨」が「信仰知」を生起せしめるのです。

 ところが主は、「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」とあえて言われたのです。イエスを見ることによって「父を知る」ようになる。たしかにそうです。しかい、いや、既に「見ている」というのは、「父を知るようになる」以前に、「父を見ている」というのです。ということは、「知ること」が先行して、しかるのちに「見る」ということだけではなくして、「父を知るようになる」以前に「父を見ている」のだというのです。

 主イエスを見ることはすなわち、父なる神を見ることに等しいというのです。

 だから、この御言葉は実に素晴らしい事柄を語っていると言えましょう。

 主イエスを見ることは、即神を見ること、父なる神を見ていることなのだと言っておられるのです。

 ところで、わたしたちの誰一人として、主イエスの姿・形を知るものはいません。

 主イエスは、2千年前に、天に昇られたので、復活者イエスは、その外貌をわたしたちに示すことはないのです。

 だから、わたしたちが主イエスを「見る」ということは、やはり「信仰知」において、「見る」ことなしには「見ること」はできません。

 しかし、このことは、実はわたしたちにとって良いことなのです。

「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」(14:6)

 主イエスは、語り給いました。

 「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』

 わたしたちは、主イエスの外貌を、たとえ知らなくても、主イエス「通る」道が開かれているからです。

 主イエスと父なる神は、「相互内在」しておられると、主イエスは明言されました。

 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」(14:11)

  この「相互内在」の交わりは、わたしたちと主イエスとの間にも生起すると、主イエスは言われているからなのです。

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(14:18~21)

 主イエスは、必ず戻ってきて、「世は」主イエスを見なくなるが、わたしたちは主イエスを「見る」というのです。そして主イエスの命に与って生きることになるというのです。

 「かの日」とは、いついつかという日ではなく、主が再臨される時のことでありましょう。その日は、無限遠点の日かもしれないし、「永遠の今」かもしれません。

 いつかは知らなくても、かならず「かの日」はある。その今、わたしたちは主イエスとの交わりが、独り子なる神と父なる神の「相互内在」と同じように、生起・成就することが「分かる」(知る)というのです。

  

「かの日にはわたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(14:20)

 この「相互内在」こそが、わたしたちの「命」に他ならないことは言うまでもありません。 

「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(4:21)

       それでは、この「相互内在」ということは、具体的にさらにどういうことなのか。 主イエスのこのみ言葉に示されている事を、もっと具体的に考えてゆきましょう。

 主イエスを愛するということは、具体的には主イエスの「掟」を守ることだと示されています。主イエスの「掟」は、では何なのか。それはとどのつまり、神を愛し、人を愛するという最も重要な「掟」以外の何を言うでしょうか。

 

 「愛すること」、しかも神の愛をもって愛することです。神さまが愛してくださる愛をもって、主イエスを愛し、主イエスを愛する人は父なる神に、さらに愛される。神に愛される人を主イエスは愛し、愛された人は、その人に、主イエスご自身はご自身を御現しになられると明言してくださったのです。

 

 愛の根源は神です。神は愛だからです。

神に愛され、わたしたちは、神を愛し、人を愛することができるのです。

神の愛を受け、神の愛をもって神を愛し、神の愛をもって主イエスを愛し、主イエスを愛する者は、神に愛される。神に愛される人を主イエスは愛し、主イエスはその人にご自身を現れるというのです。この愛の循環、愛の充溢こそが、「救い」の現実でなくて何でしょうか。

 主よ、わたしたちはあなたを愛します。わたしたちをして、あなたご自身を御現しください。                           アーメン 

      



    

2025年5月10日土曜日

 2025年5月11日 (復活節第4主日)   母の日

ヨハネによる福音書11章17節~27節

「イエスは復活また命」


イエスは復活と命

 17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

   主イエスの生前、死者を甦らせたという伝承は、このラザロの復活の出来事のほかにも、多くあって、初代教会では、広く伝えられ続けていたと思われますが、このラザロの復活についてだけは、共観福音書にはなく、第四福音書(ヨハネ)にのみ記録されています。

 ラザロという名の意味は「神たすけたもう」というそうですが、ルカ福音書に同名の人物が主イエスの譬えのなかで登場しています。「金持ちとラザロ」の話です。

 その名の由来が示しているように、神がたすけたもう者の、いわば代名詞のような名前です。金持ちの家の門前で、物乞いをしていたあの貧しいラザロが「アブラハムの食卓」(神の国)に召された一方で、金持ちは炎熱の陰府へとおとされます。ラザロはこの世で、貧しかったが故に救われ、金持ちはこの世で裕福だったので陰府へとおとされたという主イエスの譬えでした。この譬えは、この世で苦難のなかで生きた者が救われ、この世で安逸を貪る者が裁かれるという「救い」の本質を語ったものです。

 ラザロは善行を積んだから救われた訳ではありません。ただ貧しかっただけです。金持ちは悪行を重ねていた訳ではありません。ただ、この世で、富んでいただけなのです。

 金持ちは、残酷な事に、天上のラザロが天国にいるのを観ることができるのですが、どうしても天国に行けません。金持ちとラザロのあいだには、渡ることができない深淵があるからです。金持ちは生きている兄弟たちに、自分のようにならないようにラザロを遣わして言い聞かせてやってくださいと、アブラハムにお願いします。

アブラハムは答えました。

しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

                 ルカ福音書16章29節~30節

 この世では一度死んだラザロが天国から甦って来て、モーセと預言者(旧約聖書のこと)に耳を傾けないなら、「『たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」というのです。厳しい言葉です。つまり聖書に傾聴しないなら、たとえ死者(ラザロ)が復活してきても、この言葉に傾聴しないだろうというのです。

 逆に言えば、聖書に傾聴するならば、たとえ死者が甦ってこなくても、聖書に傾聴していればよいのだということです。

 この主イエスの譬えに登場する「ラザロ」は譬えの中の登場人物ですので、ベタニアのマリアとマルタの兄弟であるラザロとは別の人格です。けれども、この譬えには「ラザロの甦り」という事柄が譬えのなかで重要な意味を持っています。

 ベタニアのラザロは、特定の人物ですので、譬えの登場人物とはもちろん違いますが、「甦る」という点で、共通しています。

 ベタニアのラザロは、本当に甦ってしまうのです。そして主イエスの譬えどおりに、ラザロが甦ってきても、信じない者はやはり信じないのです。それどころか主イエスもろともラザロさえも殺してしまおうとするのです。

 さて、「神たすけたもう」という名をもつこの人は、わたしたちの代表のような存在ではないかと思うのです。

 主イエスによって救われるべき人類の「さきがけ」として、ラザロは救われた、ということなのではないでしょうか。

 主は、人類を救うということはいったいどういう事情で救いなのであるか、ということを、ラザロを復活させたもう出来事を通してお示しになったということなのではないでしょうか。

 マリアとマルタは人を遣わせて主イエスに病気のラザロの治癒を願いますが、主イエスはなぜでしょう、「なお二日間同じところに滞在され」ました。三日目にようやく出発されます。まるで、ラザロが既に死んでしまったことを知っていて、その死を待っていたかのような振る舞いです。

 当時、パレスチナでは、確実に死亡したか、それとも仮死状態なのかを三日後に確認するということが通常行われていたようです。そういう意味では、ラザロが確実に死んでいるかどうかの確認後に、ベタニアに到着するように主イエスは、出発を遅らせたのかもしれません。

 主イエスが、ベタニアについたときには、ラザロの葬送は終わっており、既に四日もたっていたとありますので、死亡確認は終わっていたことになります。

 生物としての死は、死んでまもなく死後硬直が起こり、時間の経過とともに腐敗が進行します。主イエスが墓石を取りのけるように言われると、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。腐敗臭です。物理的には既に完全な遺体となっていたのです。

    多くのユダヤ人が、ラザロのことで、マリヤとマルタを慰めに来ていました。彼らはラザロたちの友人なのでしょうか。死者を悼み、遺族を慰めようと集まっているのですから、善意の人たちであったことでしょう。実際、彼らの多くは「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」のです。しかし、「中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」とあります。この告げ口によって、イエス殺害計画が進められてゆくことになります。

 死者ラザロを甦らせた主イエスの行いを目撃しながらも、その出来事が神の業であることを読み取ろうとはせずに、イエス殺害の加担者となった人々もいたということです。おそらく彼らも善意の人であった筈です。けれども、彼らにとって「告げ口」には悪意はなかったかもしれません。しかし、その「悪意」のない些細な行為が、イエス殺害計画へと発展させることになったのです。人の行いという事が、どこでどう動いて、ごく些細なことに見えることであっても、とんでもない恐ろしい悪事につながってゆくかもしれない、そういう恐ろしさを感じます。

21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 マルタもマリアも、同じように、ラザロの生前、病床に主イエスがいてくださったら、ラザロは治癒したに違いない、そんな恨み言の一つも言ってしまいたい、いささか主イエスに対する不満というか「お恨み申します」というところでしょう。一言言っていまいます。

 ただ、主イエスは、ラザロの死を、離れた地に滞在していたとき既に知っておられたし、ラザロ葬送後の死亡確認をまって出発されたのですから、「治癒奇跡」によってラザロを蘇生させることは、はじめから意図されてはおられなかったのです。

そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16

 マルタは、一言恨み言を言いはしましたが、すぐに主イエスを「信頼」する姿勢を立て直します。

 22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 そしてここから、主イエスとマルタのあいだに、「復活」問答が始まります。

 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

ここで主イエスが明言されていることは、わたしたちの「復活」の希望です。

 主イエスを信じるものは、たとい死んでも生きるという希望です。そして、生きていて主イエスを信じる者はだれでも、決して死ぬことはないという希望です。 

 ラザロの復活は、この主イエスの救いのみわざを、人類に明示し、人類が信じるようになるための御業なのです。

15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。

  

  


2025年5月4日日曜日

 2025年5月4日(復活節第3主日)

マタイによる福音書12章38節~42節

「まさるもの」





すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。39イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。41ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。42また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 「しるし」を求める心理は、換言すれば「証明を要求する心理」です。

 証明を要求する事は、信ずるに値するかどうかについての「不安」が心理の根底に存在しているので、その「不安」を鎮めるために、何らかの補償を必要とするのです。信ずるためには、信ずる事柄について確実な「あかし」を必要とするのです。信ずるということは、信ずる事柄、信ずる対象が揺るぎなき存在であり続けるという不動性、永遠性が担保されると信じることができて初めて「信ずるに値する」という判断をするのです。そのような心理は、人間心理として当然と言えば当然なのです。

 しかし、その当然の人間心理に従って、判断するのであれば、信ずるに値するかどうかを担保するための「あかし」・「証明」・「しるし」を要求することになります。

 「なになにだから信じる」、「なになになので信ずる」、とかいうような、そこには信ずるに値するかどうかの担保となるなんらかの「原因」とか「理由」とか「根拠」とかが必然的に必要となるのです。そのような「信ずること」というのは、その「担保物件」(原因・理由・根拠)なしには、信じないという意味をも必然的にもつのです。

 「しるし」を要求する人々、この箇所では、「何人かの律法学者とファリサイ派の人々」ですが、この人々が「しるし」を主イエスに要求するとき、その事は、「しるし」がなければ信じないという意味を込めていることは明らかでした。

 さらに言えば、彼らが「しるし」を要求するのは、信じるに値する「あかし」を要求しているのではなく、むしろ、信ずるに値するための「あかし」「しるし」を、主イエスが少しも示そうとしていないことに対して、言質をとろうとしていると言ってよいでしょう。ここでは、彼らははじめから本気で「しるし」を認めてはいないのです。主イエスは数々の奇跡を行っていますが、彼らにとっては、それらは彼らにとっての「しるし」ではないのです。彼らにとっての「しるし」は、彼ら自身が信じている聖書の文脈上の「しるし」でなければなりませんでした。彼らの信仰上の「しるし」と彼らが認める限りでの「しるし」でなければ、彼らは決して認めないのです。言い方を変えればはじめから主イエスを信じる気など無いのです。

 マタイによる福音のこの箇所で、主イエスは、温厚にして穏健な言い方をされてはいません。単刀直入とさえ言ってもよいほどに直截的です。

「39イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」

  「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と、あまりにも直截的です。

 面と向かってなじっているというくらいの応答でしょう。遠回しとか婉曲的とかということとはおよそ真逆です。相手にむかって正面切って「よこしまで神に背いた時代の者たち」とはっきり断罪しています。

 彼らに対して、「よこしまで神に背いた時代の者たち」、「今の時代の者たち」と呼び方を替えて断罪しています。「この悪い時代の者たち」(45節)とも名指しています。

 そもそもわたしたちは、「荒野の誘惑」で、主イエスがサタンから何を要求されたかを観てきました。神の子なら石をかパンに変えてみよ、神殿から飛び降りてみよと、みずから神の子であることを証明してみせよと、サタンは主イエスに「しるし」を要求しました。「律法学者とファリサイ派の人々」の「しるし」の要求と、根本動機はまったく同一でした。

 主イエスは、サタンを退けたように、「律法学者とファリサイ派の人々」を、まったく同様に退けられるのです。主イエスは、ご自身が神の子でありたもう「しるし」を決してお示しにはなりません。人間心理の「不安」を鎮めるために、信じるための担保物件を示す事は、結局、主イエスが人間に「信じてもらう」事になり、信じるか信じないかの決定権を人間が握ることになるからです。神が人間に信じてもらう必要があるとすれば、その神は真の神に既に値しません。まことの神ではなく、人間の自由に委ねられた無力な概念にすぎないでしょう。 繰り返しますが、神の独り子なる神、主イエスは信じてもらうための「しるし」を決して絶対に与えないのです。

 次に、「ヨナのしるし」について考えてみましょう。

「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

  「預言者ヨナのしるし」だけが、主イエスによって「しるし」として挙げられています。

 「ヨナのしるし」は、人間心理の「不安」解消・補償のための「しるし」ではないのです。人間が信じるために要求する「しるし」という性質を「ヨナのしるし」は持ちません。

 唯一の「しるし」は、神ご自身がお示しになる主イエスの十字架の死と復活以外のなにものでもありません。主イエスの死と復活は、人間心理の補償ではありえません。人が欲する事柄ではないのです。人が欲したところで与えられる事柄ではないのです。

 人間が欲せざるところのもの、それはキリストの死に他なりません。キリストは人も神も決して願わない「死」、「十字架の死」の道を行かれました。

 主イエスの「死」は、人間心理の不安の補償によるところのメシア期待とは完全に相容れない出来事です。したがっていかなる意味でも、人が求める「しるし」ではないのです。

 ゆえに、主イエスの「十字架の死と復活」は、人が決して要求しえないがゆえに、かかる「しるし」ではないのです。

 「ヨナのしるし」が、かかる人間心理の所産である「しるし」要求に基礎をおく「しるし」ではまったくないところの、「唯一のしるし」であるのは、唯一の神の啓示の出来事である「十字架の死と復活」の「しるし」だからです。

「40つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」

 主イエスの十字架の死と復活という「唯一のしるし」の「しるし」こそが、唯一の「しるし」なのでした。

  主は、最後の審判について「ヨナのしるし」と「南の国の女王」を例に出して語られました。

 最期の審判について、この箇所のすぐ前の「木とその実」の譬えのなかで、「裁き」の思想が語られていました。つまり「責任」が問われるという思想です。人は、神によって裁かれます。たしかに審判の主はただ神お一人です。ただし、神に問われ、裁かれるのは、一人一人の人なのです。

33「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。34蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。35善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。36言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。37あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

 この主イエスのみことばは、「裁きの日には責任を問われる」とおっしゃっいました。
「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」と言われたのです。
 「ヨナのしるし」では、「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた」からこそ、「ニネベの人々は」、「今の時代の人々」が裁きの日に裁きの座に引き出されるときに、「罪に定める」のだというのです。「ニネベの人々」はヨナが語る神の言葉を聴いて「悔い改めた」。だから、彼らは裁かれる立場ではなく、裁く立場に立つのだというのです。裁く立場というのは審判するという意味ではありません。神に問われるべき自分たちの責任を彼らは自らに問うてすでに「悔い改め」ている。だから、悔い改めることのない「今の時代の人々」と決定的にそこが違うというのです。だから「ニネベの人々」の「悔い改め」は、「悔い改めることのない人々」を裁く立場に立つということなのです。

 「南の国の女王」の例はどうかというと、「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである」と主は言われました。
 ここで語られている範例は、「35善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」という主イエスのみことばが基準となるでしょう。
 「南の国の女王」は、「ソロモンの知恵を聞くために、地の果てからきた」というその姿勢こそが、みずからの「倉」に「良いものを入れ」「良いものを取り出す」ことなのだということなのだと私は思います。言い換えれば飽くことなく執拗にどんな労苦もいとわずただ神の知恵(キリスト)を求めてやまない姿勢の隠喩となっているのです。
 このような姿勢を示した「南の国の女王」が、神の真理の深奥を求めず、自分自身のなかに固定化されたコンテキスト(文脈)を基準に、「しるし」を要求する「今の時代の人々」の責任を問うというのです。
 ヨナの宣教によって悔い改めた「ニネベの人々」や「南の国の女王」が、裁きの時に、「悔い改めない」「今の時代の者たち」(律法学者とファリサイ派の人々)を「罪に定めるだろう」(有罪判決)というのです。

 しかし、いまここには、さらなる権威をもって佇立するものがいる。

「ここに、ヨナにまさるものがある。」

「ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 「まさるもの」とは、ご自身を暗々裡に自己を啓示したもう主イエスご自身に他なりません。 

 「ヨナのしるし」を示したもう主イエスこそ、唯一の神のしるしであり給ふのです。ここで、主イエスは、ご自身をヨナのしるしが指し示している「十字架の死と復活」を、「ヨナのしるし」を通して予示し、宣言しておられるのです。この深刻な裁きのみことばは、「今の時代の人々」の頑なさを弾劾しているのです。主の弾劾は主の救いへの招きです。弾劾によって、悔い改める(方向転換)猶予を与えていてくださっているのです。

 「今の時代の人々」悔い改めることができない人々は、このときこの場の人々というより、実はいつの時代の人々と言い換えるべきでしょう。すなわち、主イエスの弾劾は、実は他の誰かではない、実にこのわたし自身なのではないか、と自らの責任を問うことこそが大切なのです。

 主イエスの弾劾こそが、救いへの招きだからです。アーメン