2025年5月25日 (復活節第6主日)
マタイによる福音書6章1節~15節
「イエスの祈り」
1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
9だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
10御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
12わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
13わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
主イエスが弟子たちに、かく祈れと命じたもうた「主の祈り」について、黙想します。
「偽善者のようであってはならない
主イエスは、「偽善者のようであってはならない」と言われました。
「偽善者」というのは、「人にみてもらおう」という動機で、祈り時にも「会堂や大通りの角に立って祈りたがる」と、偽善の動機を鋭く指摘されました。
「善行」や「施し」と同様に、「祈り」も、他者から賞賛を得たいという名誉心が動機となる場合は、その他者からの評価や賞賛という「報酬」を目的とする動機がある以上は、それらはすべて「偽善」だというのです。
「善行」や「施し」、「祈り」さえもが、信仰的、霊的な意味、動機から離れた人間の名誉欲という欲望に基づく限り、それらは「偽善」であって、そのような行為は、人間からの報酬を受けているので、神からの報酬を拒む事になるということになるので、すべきではないというのです。
人の報酬ではなく、神の報酬をこそ求めるべきだというのです。
ところで、神からの報酬を求めるということは、わたしたちの地上的な生においては、ただ信仰においてのみ希望することができるのであって、眼には見えない報酬です。
生きている間には、ただ希望の対象であるだけです。地上的生のあいだにあっては、認識することができない報酬です。
逆に言えば、目に見える報酬は、すべて欲望にもとづくものだということになります。人間欲望に起源する報酬への執着は、主イエスによれば禁じられているということです。
褒めると、人は褒められるために行動するようになる
モンテッソーリ教育では、こどもを褒めてはいけないと教えます。
なぜならこどもは褒められると、褒められたという報酬で快感を得た経験をすると、その報酬を再び得たいという欲望にかられて、褒められたいから、何かをするという行動のパターンを身に着けてしまうからです。
人から褒められたいがために頑張るという行動パターンを身に着けたこどもは、みずからの主体的な努力に意味を見いだせなくなってしまうので成長できなくなるのです。ですからモンテッソーリ教育では安易な褒め言葉は禁句です。
こどもには、神が与えた自発的な動機・創造性がかならず備わっています。だから、じっと見守るのです。大人は手本を示すだけです。こどもは大人の行動・模範をみて、自分もやってみたいという思いへをもちます。そのとき、大人は「やってみる?」と促すのです。
大人のしぐさ、行動を興味深く、実に集中して観察するものです。神はそのように人を創造したもうたからです。
「やってみる?」。
「うん」。
こどもは驚くべき集中現象を起こして、みごとに大人と同じようにさまざまな事を成し遂げてゆきます。そのとき決して褒めたりはしないのです。
なぜなら子どもは、成し遂げたという喜びを沈黙のうちに味わっているからです。
人に見せるためでも、賞賛されるためでもなく、自分自身の内面の達成感という報酬を味わっているからです。
「祈り」・「善行」・「慈善」行為も、同じです。祈りは「密室」で、善行や「慈善」は「右手の行為を左手には知らせない」ようにすべきなのです。
祈りも善行も霊的な行為なのです。
神からの報いを得ようとするなら、人に見られることを避ける。
主イエスは、徹して人にみせるための善行や慈善、そして祈りを避けるように命じます。特に、祈りは「密室」で祈るべきことを命じられました。祈りは、神さまに捧げる行為です。神に捧げる行為を、人にわざわざ見せるとき、それは神さまに捧げる純粋な祈りではなくなってしまう、人から「あの人は信仰深い人だ」と思われたい、そういう評価を得たいという動機によって、祈りを祈りではなく演技にしてしまっているというのです。
偽善という言葉の語源は「演じる」だそうです。
※偽善 (hypocrisy) という単語はギリシャ語の (hypokrisis) から来ており、原意は「演じる」であり、そこから「本心で無い感情を持っているふりをする」へと意味が変化してきた。
神は隠れたところにおられる
神は、「隠れたる神」(deus absconditus) なのです。神さまはわたしたちにすら御身を隠されていたもうというのです。(『隠れたる神』ニコラス・クザヌス)
※「隠れたる神」deus absconditus は、『イザヤ書』45:15《イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である》(日本聖書協会訳一九五七年版)《Vere tu es Deus absconditus, Deus Israel, salvator》 からとられたもの。
「隠れたる神」は、人間の知によって把捉されえない創造主なる神です。
創造者が被造者によって把捉できるはずはないからです。把捉できるとすれば、その「神」はすでに、まことの創造者ではなく、人間の知によって把捉可能な概念にすぎないでしょう。わたしたちは、わたしたちの頭脳の中の概念を崇めているのではないのです。
主の祈りは、どう考えても、人間の知能の産物とは考えられません。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。』
「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけ得たというお方が、まことの神の独り子でありたもう神であられることは、実に、人に過ぎないわたしたちから見れば、「奇跡」としか考えられません。罪深い人間には、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけ祈ることは元来不可能だからです。わたしたちがいくら自分の立ち位置から、同じ文言をもって叫んだところで、わたしたちの祈りの声は、その祈りのゆえには神さまに届くことはないでしょう。
人間の声は、所詮は被造物の声にすぎません。被造物の声はどこまでも被造物にすぎないので、同じ被造者には聞こえても、創造者でありたもうまことの神は、わたしたち被造者の声が被造者の声に終始するかぎり、創造者なる神にとっては、所詮は被造者の声であって、そのことは終始不変です。
創造者なる神は、人が祈る以前から人のすべてを知っておられるのです。
人の祈りが神に届くのではなく。創造者なる神は、やはり創造者なる神の独り子主イエスの声をこそ聞かれるのです。イエスがかく祈れと命じたもうからこそ、命じたもうイエスを通して、神はわたしたちの声を聴かれるのです。
主イエスがかく祈れと命じたもうたゆえに、「主の祈り」は、すでに仲保者主イエス・キリストの仲保によって、神に結ばれた祈りなのです。
わたしたちの肉声を神が聴かれるのではなく、主イエスという独り子なる神の存在によって、聴かれるのです。
神よ、願わくばわたしたちの功罪を問うことなしにわたしたちの罪をお赦しください。
神の正義の秤(はかり)にかけられて、何人(なんぴと)が立ち得ましょうか。
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら主よ、誰が耐ええましょう。」(詩編130:3)
わたしたちには、なんの「いさおし」もありません。ひとつだにありません。無です。いや無どころがマイナスなのです。罪を赦される何ものもないのです。
神さま、わたしたちの「価値」をもってはからずにおいでください。
わたしたちも、わたしたちに害悪を与えた人々を、秤ることなしに赦しますから。(塚本虎二『主の祈りの研究』136頁)
わたしたちは、罪のなんたるかさえ、知りません。罪そのものさえ、わたしたしには限りなく秤りがたい、それほどまでにわたしたちの罪は重いのです。だから、わたしたちはわたしたちに罪を犯す人々を、無限に赦さなければなりません。どうか主よ、わたしたちに、無限に赦す力のないわたしたちに、赦す力と英明さをお与え下さい。
我(われ)等(ら)のうけし害(そこない)をわれら誰(だれ)にも赦(ゆる)すごとく、汝(なんじ)も我(われ)等(ら)の功(く)徳(どく)を見(み)たまはず、聖惠(みめぐみ)によりて赦(ゆる)したまへ
「主の祈り」は、主イエスの執り成しの祈りです。
「主の祈り」は、わたしたちに、隣人を赦す力と知恵をも与えることができるキリスト・イエスの祈りです。
この祈りによって、わたしたちの罪が、赦される祈りです。キリスト・イエスが、「いま、ここに」、わたしたちの人格の中心に宿り、わたしと共にいてくださるイエスが、神にとりなしてくださるのです。
主がかく祈りなさいと命じたもう祈りを祈ることは、祈る「私」の魂の根底に、主イエスご自身が宿りたまうがゆえに、祈りの真の主体は、主なのです。主イエスご自身が「私」として祈っていてくださっているのです。独り子なる神主イエスが父なる神ご自身に祈ってくださっているのです。仲保者イエスの御名によって祈るなら、神は祈りをかならずきいてくださるのです。 アーメン