2026年3月1日 (受難節第2主日)
マルコによる福音書3章20節~27節
『悪と戦うイエス』
1.集まった人々
ここで語られている人々は弟子たちを除くと三者に分かれる。
最初に描かれるのは、群衆だ。イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来ていたとある群衆だ。この人々はどのような人々であったのか。ある人は病気を癒してほしいと必死な思いで家を出てきたのかもしれない。またある人は家族や友人のためにイエスにすがろうと来たのかもしれない。いずれもがイエスに助けを求めていたに相違ない人々だ。
次には、イエスの身内の人々だ。家族や親族なのだろうが固有名はわからない。兄弟、弟妹や親戚の叔父叔母(伯父伯母)かもしれない。彼らはイエスを「取り押さえに来た」とある。穏やかではない。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
彼らが来た理由は、一言で言えば「世間体」を気にしているということだ。主イエスがどうして「気が変になっている」と言われたのかは詳細はわからない。
だいいち、イエスの言葉や振る舞いに、世間に迷惑をかけるような異常なものがあったとは思われない。人の病を癒し、汚れた霊を追放したり、障害を負った人々の障害を取り除いたりしてきたことが、迷惑行為だと言われるいわれはないのだ。
それでも、「気が変になっている」との世評が身内の人々に、このような過激な行動に移らせたのは、イエスの言葉と振る舞いをよく思わない一定数の人々がいたからであろう。
身内の人々は、その圧力に屈していたのだ。「世間様に申し訳ない」とでもいうことであろうか。「一族の恥さらしだ」というところか。彼らにはイエスに対する愛情よりもイエスの存在がもたらす世評の圧力への同調のほうが大事だったということだ。この身内には、イエスの立場を弁護したり、かばったりする者はいない。だから、この同調圧力に屈した身内の背後には、ここには言及されてはないイエスへの敵対者が存在する。
イエスの人々への癒しの業を、精神異常者の行為だと決めつけることも、その悪意に屈する隷属的な精神の貧困さも、このイエスへの暴力的な襲撃という形として実を結んでいる。そうなのだ。まさにこれは親族のイエス襲撃の事件なのである。
3番目に登場するのは、はるばるわざわざエルサレムから下ってきた律法学者たちだ。彼らの言い分も行動も尋常さを欠く。
「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。(22節)
2.内輪もめの譬え
身内の襲撃にも、イエスは動じない。それどころかこの三様の人々を「呼び寄せて」いる。そこで語られたのが所謂「ベルゼブル論争」である。
これは、公言だ。宣言と言い換えてもよい。イエスはこの譬えで、「内輪もめ」がもたらすものは、崩壊・滅亡でしかないと宣言したのである。
公言であるが、この比喩が指し示してものは聴く者が、何処に立っているかという立ち位置によって意味が大きく変容する。それだけ、この譬えは意味深長なのだ。
まず、イエスは、「内輪もめ」という事態・事柄を望んではいない。イエスの究極的目的は「和解」だからである。
崩壊・滅亡・内紛ではなく、平和・成長・和解だ。この目的からひもとかねばならない。
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
「内輪もめ」すれば、すなわちサタン同士が相争えば、自滅すると主は断言される。ゆえにサタンがサタンを追い出すことは不可能だというのである。だから、律法学者たちの言い分は成り立たないというのだ。国家も家庭も「内輪もめ」すれば崩壊するほかはない。それはサタンとても同じだなのだ。
イエスによれば、人間もサタンも、その点では変わるところはない、というのがイエスの論理だ。
だから、イエスと律法学者たちとの間も、イエスと身内の人々との間も、中傷や襲撃という形となって現出しているけれども、つまり、外見的には、ユダヤ教内の「内輪もめ」とか、家庭内の「内輪もめ」のようにみえているけれども、主イエスの究極的目的たるみ旨(十字架の死と復活)から見返してみるならば、「内輪もめ」なのでは決してない。
そうではなく、神と人との「和解」と、人と人との「和解」こそが、「内輪もめの譬え」によって、指し示されているのだ。つまり「内輪もめ」は滅びへの道だが、現実に生起しているイエスの言葉と振る舞いは、滅びどころか「和解」への道だというのである。
人は譬えの外形に拘泥していては、本質を見誤る。現実に起こっていることを忘れてはならない。主イエスは、現実として悪霊・サタンを追放しているのだ。この現実から寸分も離れてはいけない。サタンはサタンを追い出すことはできない。そんなことをしたらサタンが自滅するだけだ。だから律法学者たちの言い分は破綻している。
3.律法学者たちの論理
彼らの言い分は二つだ。一つは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」というもので、悪霊の頭ベルゼブルがイエスの「力」の真の主体者だという理屈だ。第2は、イエスは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」というもので、イエスの「力」は「悪霊の頭」によるものだと言う理屈である。この理屈は、イエスの「力」の真の主体者はベルゼブルであり、その「力」は悪霊の頭ベルゼブルの「力」だというものである。
この理屈とイエスの論理との違いは、イエスのほうがサタンはサタンを追放することは不可能、自滅するからとしている。
それに対して、律法学者たちはサタンはサタンでも他のサタンを追放する力をもつ頭級のサタンならば、追放できるという前提だ。サタンにも序列があるという訳だ。 なるほど、そう来るかという理屈は彼らなりに筋が通っている。
しかし、見落としてはならないのは、この理屈の盲点は、悪霊を追放する具体的な「力」を、彼らは単にそのように解釈しているにすぎないという点である。彼らは彼らの都合で、勝手に、「決めつけ」ているにすぎない。イエスが現実に、悪霊追放の奇跡を行っている事実を、律法学者たちは勝手に悪霊の頭ベルゼブルの所業だと解釈をあてはめているだけなのだ。
言うまでもないが、ただ「決めつけ」るだけなら、容易な事だ。容易でないのは、現実に悪霊を追放する事のほうだ。
律法学者たちはただ自己都合で勝手な解釈、レッテルをはるだけだが、イエスは現実を動かしている。この差は無限だ。
解釈する方はいかようにでも解釈可能だが、現実に奇跡を起こすことは、現実の「力」が働いているからこそ起きている。この力を律法学者たちは「悪霊の頭ベルゼブル」と言って、イエスを「ベルゼブルに取り憑かれている」と、「追放」しようとしているのだ。
ここで気付く事は、まさに律法学者たちは、イエスという「悪霊の頭ベルゼブルに取り憑かれた」男を、ユダヤ教社会から「追放」(悪霊追放)しようしていることだ。つまり、彼らこそ、「悪霊追放」しようとしている当事者だということだ。
律法学者たちはイエスを排除しようとしている。その論理はイエスが「悪霊の頭ベルゼブルに取り憑かれた男」だからとういう訳である。
イエスは、「悪霊追放」の奇跡を、個人に対して行っただけではない。この論争の舞台そのものが、イエスを悪霊と決めつけて排除・追放しようという律法学者たちの中傷・攻撃・襲撃だったのだ。
4.「悪霊」の正体
イエスは、ご自身が「悪霊」と同一視され、排除・追放・攻撃の対象とされているベルゼブル論争という舞台において、真の悪霊の正体とは何なのかという真理を明らかにされた。
悪霊の正体は、単なる解釈とか決めつけによるレッテルなのではない。そうではなく、人間の内奥に隠れ潜んでいる魔物としての「共感力」なのだということであった。
律法学者たちは何故に、イエスを悪霊とレッテルをはるのか。「気が変になっている」と身内を追い込んだ世評を、人はなぜ声高に語るのか。身内は現実に生きている生身のイエスをかばうでもなく、弁護など思いもよらず、暴力をもって襲撃さえする。何故なのか。それは彼らには、当時のユダヤ教社会の無言の圧力、言い換えれば社会に波風をたてずに平穏無事に過ごしてきたところに、主イエスが具体的・現実的な奇跡を行い続けることへの恐れと不安があった。理解できない事柄に対する動揺が社会の同質性を揺らがせているという漠然たる違和感が、共同体の紐帯を脅かしていると感じていた。それを喚起したのは、「共感する力」だ。漠然たる不安が「共感力」によって、異質な分子への根拠のない嫌悪、排除する力へと醸成されてしまう。この曖昧な差別感情が排除の論理を作り出す。決めつけがはじまる。そしてその決めつけは確信にまで増幅される。
人々は、元来は根拠のない決めつけを負の共感力によって強化させてゆく。彼らは神への愛、ユダヤ共同体への愛着という正義の大義によって着飾られた「確信」 に満ちて、異分子の排除を正義と信じこんで、この舞台では、イエスを排除にかかったのだ。
主イエスはご自分みずからが、具体的・現実的に神の力をもって「悪霊追放」を数限りなく行ってきた。そのことの偉大さゆえに、「負の共感力」に翻弄された人々は、熱狂的に、イエスの御業が偉大なるがゆえに、「悪霊の頭ベルゼブル」とレッテルをはって襲撃したのである。
5.受難の主
だから、人のなかに隠れ潜むもの、人を思いやることもできれば、人を憎むこともいとわない、負の「共感力」というべき魔物のような性質を、主イエスは暗々裡に、真の悪霊だと気づかせようと、「内輪もめの譬え」を語られた。しかしイエスの究極的目的は平和であり、和解である。「内輪もめ」すれば滅ぶ他はないのだ。だから神は、徹底して攻撃され、襲撃されることを決して避けることなく引き受けたもうことによって、「内輪もめ」なのではなく、和解と平和をもたらそうと、受難の道を歩まれた。「内輪もめ」など起きてはいないのだ。主イエスは徹して襲撃されていることをやめない。それは「内輪もめ」ではないからだ。主イエスは、徹して襲撃されることによって、実は戦っておられたのだ。
6.略奪の譬え
主の闘いとは何か。それは、完全に「強い人」を縛り上げることである。
これは「略奪の譬え」だ。
主の闘いは、人間内部に隠れ潜む魔物をコントロールすること他ならない。この魔物は、人間に利他的な、慈悲深い行動を促す原動力ともなるものだ。紛れもなく神が人に与えた「よいもの」だ。
しかし、この魔物は、暴走する。思考停止を引き起こす。ときに愛国心という美名に名を変えて、敵を作り出し、人の道を踏み越えてしまうのだ。
主イエスの闘いは、この強い人=魔物=共感する力を、人をして制御する知恵を、人に与えたもう。
家財道具は、人の魂の内面世界の比喩であろう。主は、人を魔物の手から守るために、魔物を制御すべきことを、この譬えでお示しなった。
われら人間は、主イエスによって内面に潜む「強い人=共感力」を縛られてこそ、自分自身の共感力という魔物を、正しく制御することができる。
主よ、どうぞわたしたちの内面に隠れ住む魔物のような力を正しく用いて、これを人と神を愛する道具となさしめてください 主の御名により祈ります。