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2025年1月30日木曜日

2025年2月2日 (公現後第4主日)  14:00

東濃3教会合同田瀬教会礼拝

マタイによる福音書21章10節~17節 P.40



「新しい神殿」

黙想

所謂「宮潔め」の場面。 

黙想 所謂「宮潔め」の場面。

 神殿破壊の意味は一体何であったのだろうか。

 この出来事は外形的に観れば、「暴言」と「暴力」に他ならない。この出来事は明らかに主イエスへの迫害理由を正当化したことでしょう。このことは、弟子たちに「不可解」なこととして記憶されたに相違ありません。この不可解な「記憶」のかたまりは弟子たちに、共通していたことでしょう。この「記憶」が、まったく異なった意味をもつようになったのは、イエスの復活によってはじめて生起したと考えられます。

 当時の弟子たちの目線で考えるとき、明らかに窮地へと追い込まれてゆくと見えていたであろう出来事が、人類の救いそのものを指し示していたことを、復活の主と出会い、彼らははじめて知ったのです。これは彼らが期待した「メシア像」がこの世的なものである限り、決してて知ることはありません。

十字架への道は「地上的な神の国実現」(この世的な神の国実現)にとっては、真逆の自滅行為にしかみえなかったからです。

 弟子たちの目線がこの世的水準に留まる限り、主イエスの「宮潔め」の行為・言説は、「不可解」でしかありません。そうであれば、主イエスの行為・言説の真意を、この時点で理解できた弟子はひとりもいないことになります。しかし、主イエスは、宣教の開始から、まっすぐに、ご自身の「十字架の死と復活」をのみ目的として、歩んでおられたのです。

           小さなお子さんが来たので、子ども向けのお話し。


2025年1月23日木曜日

     2025年1月26日(日)公現後第3主日

マタイによる福音書4章12節~17節

「宣教の開始」

付知教会  午前8時30分
坂下教会  午前11時
田瀬教会  午後2時

                                       田瀬教会での宣教

 洗礼者ヨハネが投獄されたことを知り、主イエスはガリラヤへと退かれたという。
 このさりげなく挿入された一言から重要な意味を読み取らねばならない。

 主イエスの先駆者たる洗礼者ヨハネの使命は、その生涯と死においても、罪なき者であるにもかかわらず処刑される義人の死をもって、主イエスの先駆となることであった。

 ヨハネの投獄は、主に先だって死出の旅路を意味していたことを、主イエスもヨハネも、両者が別々の道を歩きつつも、聖霊の導きのうちに、明らかに覚知していたであろう。

 ゆえにヨハネは一切の弁明もせずに、理不尽極まりなき斬首を牢獄で待ったのだ。

ヨハネの死を間近に感じ取った主イエスは、御自らもまた、十字架へとの明確な道をまっしぐらに突き進まれた。
 ガリラヤへの道は、その十字架の死への旅路へと続く、前哨戦としての宣教の旅であったのだ。
 主イエスの宣教は、すべてがこの十字架の死と復活という救済の出来事を指し示す比喩に他ならなかったからである。


2025年1月20日月曜日

 2025年1月19日公現後第二主日

マタイによる福音書4章18節~25節

「最初の弟子たち」


2025年1月13日月曜日

 2025年1月12日公現後第1主日

『罪なきお方がなにゆえ罪の悔い改めの洗礼をお受けになられたか』

マタイによる福音書3章13節~17節「キリスト・イエスの洗礼」

田瀬教会での宣教



2025年1月6日月曜日

 2025年1月5日降誕節第2主日

マタイによる福音書2章13節~23節

「エジプト避難・幼児虐殺」


2024年12月の宣教はクリスマス礼拝を除き、限定公開としました。

2025年1月1日水曜日

 2025年1月1日  元旦

Facebookがなぜか、一時停止となっています。

規則違反はしていないはずなので、異議申したてをしていますが、復旧できるかどうかは

いまのところわかりません。

今年71歳を迎えるにあたり、節目だという神様の思し召しかもしれないと思い、

そう落胆はしておりません。

 徐々に、ブログへと移行してゆくことになるのかもしれません。

 植物は、寒空のなか、放置状態です。春に復活するかどうか、ある意味楽しみです。


 昨年は、牧師館にニホンカモシカが訪問してくれました。

昨日は鹿、先日は狸に遭遇しました。

今年も、動物たちを仲良くしていきたいと思っています。