2025年2月2日 (公現後第4主日) 14:00
東濃3教会合同田瀬教会礼拝
マタイによる福音書21章10節~17節 P.40
「新しい神殿」
黙想
所謂「宮潔め」の場面。
黙想 所謂「宮潔め」の場面。
神殿破壊の意味は一体何であったのだろうか。
この出来事は外形的に観れば、「暴言」と「暴力」に他ならない。この出来事は明らかに主イエスへの迫害理由を正当化したことでしょう。このことは、弟子たちに「不可解」なこととして記憶されたに相違ありません。この不可解な「記憶」のかたまりは弟子たちに、共通していたことでしょう。この「記憶」が、まったく異なった意味をもつようになったのは、イエスの復活によってはじめて生起したと考えられます。
当時の弟子たちの目線で考えるとき、明らかに窮地へと追い込まれてゆくと見えていたであろう出来事が、人類の救いそのものを指し示していたことを、復活の主と出会い、彼らははじめて知ったのです。これは彼らが期待した「メシア像」がこの世的なものである限り、決してて知ることはありません。
十字架への道は「地上的な神の国実現」(この世的な神の国実現)にとっては、真逆の自滅行為にしかみえなかったからです。
弟子たちの目線がこの世的水準に留まる限り、主イエスの「宮潔め」の行為・言説は、「不可解」でしかありません。そうであれば、主イエスの行為・言説の真意を、この時点で理解できた弟子はひとりもいないことになります。しかし、主イエスは、宣教の開始から、まっすぐに、ご自身の「十字架の死と復活」をのみ目的として、歩んでおられたのです。
小さなお子さんが来たので、子ども向けのお話し。