2026年2月1日 (降誕節第6主日)
『教えるキリスト』
マルコによる福音書4章1節~9節
『教えるキリスト』
マルコによる福音書4章1節~9節
4
1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
1.おびただしい群衆の動機の真面目さと危うさ
主イエスは町々で数多くの奇跡を行い,人々は驚嘆し、生業を放棄してまでして、イエスの一行に従ってきたことが窺わせる記述である。
しかし、われわれは既に、マタイ11章で主イエスが、「悔い改め」という実を結ばない町々を叱ったという事実を知っている。
イエスのあとを追って集まって来た「おびただしい群衆」は、イエスにつき従ってはいても、この人々もまた、イエスの叱責を受けた人々なのである。
この群衆は、エルサレムまでついていった人々もいたであろう。そうではなくて、途中で家に戻った者もいたかもしれない。それでも、この「おびただしい群衆」が、イエスに、彼らなりに真剣に、真面目に、信じてついてきたことは間違いない。彼らの真剣さ、真面目さは疑いの余地がないのだ。彼らは彼らとして純粋な動機でイエスについてきているのである。
しかし、これまで黙想してきたように、彼らは主イエスから叱責の対象でもあった事も厳然たる事実であった。
イエスが行ってきた「奇跡」(ユダヤ教でいう「しるし」)を直接目撃し、経験したことによって引き起こされた衝撃や、驚愕が彼らを、イエスにつき従うという行動へと向かわせたことは間違いない。
しかしながら、奇跡の目撃・経験がイエスへの追従を引き起こしたとしても、それがただちに、主イエスへの真正な信仰告白であったかと言えば、必ずしもそうではなかった。その「事柄」が、主イエスの「叱責」によって明らかとなっていた。彼らの動機・彼らの追従は、主イエスの十字架の死の極みにおいて、実に鮮明に「裏切り」へと変わる。イエスの追従者が、イエスを殺す側へと、変貌したのだ。
2.舟に乗って腰を下ろした湖上のイエス
イメージとして思い描いてみますと、「おびただしい群衆」と主イエスとの間には、「湖上」と「湖畔」」という隔たりがある光景が浮かび上がる。
この隔たりは、主イエスが群衆との間に設定したものと考えられる。主イエスは、追従する人々から、しばしばみずから距離をとられたからだ。一人祈りに山に向かわれたこともあった。ここでも、主イエスは群衆から、あえて距離をとって舟に乗られたと見るべきだろう。
湖上から、湖畔の群衆に向かって、「種まきの譬え」を語り始められた。
3.「種まきの譬え」
この譬えは、「種」は神の言葉、直接には主イエスの言葉を指し示す。神の言葉を聴いた者が、はたして真実な信仰告白に至るのかどうか、至らずに終わる者の三様を3番目の譬えまでで示し、最後の4番目の譬えが真実な信仰告白をした者として、祝福するという譬えだとして知られる。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」
「種を蒔く人」は、究極的には主イエスのことだ。主イエスが神の言葉を宣教したという譬えの文言だ。神の言葉の宣教は、神の使命として、イエスは言葉と行為という形で宣教されたと、神の主体的な人への関わりが確認される。
4.「蒔いている間に、落ちた」
しかしながら、種蒔きという主体的なイエスの行為が強調されているの、最初の三者三様は、すべて「蒔いている間に、落ちた」と書かれている。このことから、これらの場合は、「蒔いた」のではなく、すべて主体的な宣教の対象としてではなく、「蒔いている間に、落ちた」という偶発的な出来事にすぎないことが対照的に浮かび上がる。
すなわち、最初の三者三様の場合は、そもそも宣教の対象として選ばれていないという偶発的な「場合」だということが暗示されているのだ。「落ちた」という言葉にそれがよく表されている。「蒔いている間に、落ちた」のであって、その地に最初から、そこをめがけて種を蒔こうとしたのではないということなのである。
5.三者三様の地に、「落ちた」
(1)「道端に落ち」
→「鳥が来て食べてしまった。」
(2)「石だらけで土の少ない所に落ち」
→「そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」
(3)「茨の中に落ちた」
→「すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」
①「道端に落ち」た種は「鳥が来て食べてしまった。」という譬えは、「サタンが来て神の言葉を奪い取ってしまう」ことを意味している。神の言葉が奪い取られる者だというのだ。この場合、その地には「種」は消滅する。
②「石だらけで土の少ない所に落ちた」場合は、「そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」という。この場合は「神の言葉を聴いて、すぐに受け入れるが「根」がない。だから艱難や迫害が起こるとすぐにつまづいてしまう」者だというのである。
土地そのものが石だらけで土がないから根を地中深くはることができない。これは御言葉を継続して受け続けるという神の言葉を不断に、繰り返し学び、その学びを継続するという意思が問題となっている。根付かない場合とは、継続して神の言葉を聞き続ける意思がない者の譬えとなっているだ。
③「茨の中に落ちた」種は神の言葉が成長してゆくために必要な「光」がとどかないために、「すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」という譬えだ。
「この世の思い煩いや富みの誘惑が心に入り込み、御言葉をふさいで実らない」という意味である。
「茨」が、「光」を遮るというのである。「茨」は「この世の思い煩いや富みの誘惑」だというのである。
つまり、人間の欲望こそが、神の言葉の成長を阻害する「茨」だというのだ。
6.「良い土地に落ちた」種
4番目の「種」も「落ちた」となっているが、この「落ちた」の意味は、3番目までのあの三者三様の場合とはわけが違う。種は発芽し、根をはり、実を実らせる。この種は「よい地」に「落ちた」のである。種を蒔く人が種を蒔くという目的に一致している地なのである。目的を達成する地なのだ。この地は、そもそも目的の地なのであり、種はその地に偶然こぼれ落ちたのではない。まさに意図・目的をもって「蒔いた」のである。決して偶然こぼれ「落ちた」のではない。目的の地に「蒔いた」。「落ちた」とマルコは最初の三者と同じように、記したが、「落ちた」のでない。あくまでも「蒔いた」。
あえて同じ「落ちた」と記したのはなぜか。
選ばれていない地と選ばれた地が、あえて同一の「落ちた」で示されたことが意味する者は何であるか。
7.①消滅、②枯死、③徒花(あだばな)
三者三様の選ばれなかった地の比喩には、主イエスの宣教を聴く人々の、神の言葉に対して向き合う態度という現実が背景にあるだろう。いずれもが、主イエスへの「信従という実」を結ばない態度が反映しているのだ。これまでの群衆の魂の態度のことである。
そして、「これまでの態度」の反映だけではない。「これからの態度」の行く末についての将来の予言の比喩でもある。むしろ、将来の態度(「これからの態度」)の予言としての比喩のほうが、重要なのだ。
なぜなら、この三者三様の①消滅、②枯死、③徒花(あだばな)とでもいうような精神的態度は、これからの主イエスの苦難の道行きにおいて、イエスを苦難へと追いつめるのは、これらの精神的態度(霊の動き)だからである。この霊的動きこそ、イエスを十字架に追いやるのである。
8.選ばれなかった地の人々の選びは?
通例は、この選ばれなかった地のような精神的態度を反面教師として、このような者にならないように、自省し、選ばれた地として、神の言葉をみずからのうちで「芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなる」ようにしましょうという具合に、警句でもあり奨励でもあるような理解をする。
それはそれでよい。確かに自省のための警句として充分な比喩であり、奨励としてみずからの信仰(精神的態度)を鼓舞する比喩として受けとめてよいとは思う。
ただ、「それでは、選ばれなかった地でしかなかった人々、『おびただしい群衆』の命運はどうなってしまうのか」という必然的な問いが胸に去来することを、われわれは、禁じ得ない。
イエスを十字架に追いやった「おびただしい群衆」の命運はどうなってしまうというのか。
通常読み込まれなかった行間から生起する問いかけ、これがこの比喩が、本日われわれにとっての最重要事なのである。
三者三様の、いずれもが、「不信仰」に終わる人々、これらの人々に「救い」はあるのか。
神は、イエスは、救われざる人々を放置し、「滅び」へと落としてしまうのか。神は愛の神であれるのではないか。そうであれば、この不信仰な人々を見棄てたもうのか。
棄却された人の命運は愛の神の対象となり得るのか。「救いと」と「滅び」を人間的にわけて、ひたすら「救われるように」と鼓舞するだけが、この比喩の意図するものなのか。
これはキリスト信仰にとって、きわめて根源的な問いであろう。
9.神学的な「問い」と「答え」
愛の神は、救われない人々を永遠の滅びへと棄却するのか。それを「神の愛の愛」と主は言われるのか。
この「問い」は人類にとって最重要な「問い」のひとつだろう、とわたしは思う。
「永遠の滅び」への恐怖を煽り立てることで、選択肢をなくし、一定方向へと導くことが神の愛なのか。
「愛」と「棄却される人の命運を定める神の行為」は相容れない矛盾に見える。単純な三段論法では、愛の神と永遠の滅びへと定める行為は、結びつかない。
「永遠の滅び」、「救われない人々の命運」を神は本当に望まれるのか。論理的には結びつかないではないか。
この根源的「問い」の「答え」は、主イエスがなぜ十字架の死を死なねばならなかったのかにかかっている。
なぜ神は人なりたもうたのか。
なぜ神の子が死なねばならなかったのか。
なぜ神の子は殺されるために宣教したのか。
なぜ神の子は甦られたのか。
なぜ神の子は天に昇られたのか。
なぜ主イエスは、「不信仰な人々」に殺されなければならなかったのか。「答え」は、神の子主イエスは、この「不信仰な人々」の救いのために、殺されなければならなかった。「神の愛」は「不信仰な人々」を救うために、「不信仰な人々」によって殺されなければならなかった。神の愛は、そのままでは「永遠の滅び」へと定められねばならない人々を救うために、独り子なる神の子を犠牲の羊、贖いとされたのである。この贖罪によって、「永遠の滅び」が永遠に滅ぼされることを神は望んでおられる。ここに神の愛がある。「滅びの滅び」である。
神は愛の方である。おびただしい群衆の「不信仰」を滅ぼし、人々を救うために御子を遣わされたのだ。
すべての人は罪人である。神のこの愛により、罪人にして、義人とされるのである。「義人にして罪人」なのだ。