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2025年4月1日火曜日


2025年4月6日(日)四旬節第5主日 

マタイによる福音書20章20節~28節

「十字架の勝利なき人倫なし」


事前黙想


マルコ伝ではゼベダイの子ヤコブとヨハネが直接に、主イエスに願い出ることというエピソードですけれど、マタイ伝では、ヤコブとヨハネの母が、息子二人を側近として重用してほしいと、願い出たということになっています。

両者の相違は、大きな事柄として区別されるべきです。ヤコブとヨハネが直接に願い出たということであれば、弟子としての心根に、「権力願望」という罪があることが浮かび上がります。母親からの願い出であれば、子離れできない親の自己実現の問題が浮上してきます。

いずれも主イエスに従う信仰の道にあっては、捨ててゆくべき事柄でした。マタイ伝で、主イエスが明らかにされた信仰の道は、マルコ伝とはニュアンスが異なります。28節「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」とあり、「同じように」と主の苦難の道と人間の信仰の道のあいだに「類比」があることを明確に語っておられるからです。



事前黙想その2

マタイによる福音書20章20節~28節

「十字架の勝利なき人倫なし」

「堕落論の解明」という主張こそ罪の極み

神と人との交わりが断たれ、関係が喪失していること、これを「罪」という。

われわれ人間は神と人との関係を一望する視座を持ち得ない。

人は被造者であるから創造者と被造者の関係を一望する身分をもたないのである。

ゆえに、「罪」をわれわれは、その存在の本質からして、そもそも「認識」できない。

われわれ人間にとって、「罪」を認識すること自体が、「神」を認識することができないのと同様に、

不可能なのである。

「罪」は、ゆえに、その影のようなもの、比喩としてただ、示されるままに、知らされるのみなのである。


当然、神が授与したもうた「十戒」は、人倫において、われわれに「罪」の認識を与える。

神の誡命を守ることを神は命じられたのであるから、誡命に違反するということによって、われわれには、「罪」の認識が示されることになった。

しかし、それは神と人との関係喪失の結果を認識しているにすぎない。

「死」とは、神と人との関係喪失の事態をいう。

誡命を破ることによって、人は既に死んでいるが、死んでいることすら認識してはいないのである。


誡命に違反することによって、「罪」の認識がいくらかでも与えられるならば、それは恵みによるのである。

誡命に違反しても、「罪」の意識すら与えられないという「罪」に陥っている人は神と人との関係喪失という「死」を、

なにほどにも知ることはできない。

「死んでいること」すら認識できないのである。


罪の限定的理解は、罪を限定するという意味での罪を、既に犯している。

既述したように、人間には罪を認識する能力は存在しない。

神の誡命に違反することによって、罪意識を恵みとして与えられることはあっても、それは罪自体ではなく、罪の結果の一部にすぎないのだ。

罪を限定することは、神を概念化することを前提としている。

概念化された神は、神御自身では、もちろんありえない。


神は概念化された瞬間から、人の思考内の道具に化しているからだ。


ゆえに、「堕落論の解明」などというのは、児戯に等しい。

それにとどまらず、それ自体が罪の結果なのである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


さて、語調を変えて、今日の聖書の箇所に話を戻しましょう。

以下聖書の引用

20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」



「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」

主イエスのこの言葉を読んだときに、わたしのあたまに二人の人物が、重なって浮かんできました。

一人は、アドルフ・ヒトラー、もう一人はドナルド・トランプ。

なぜ浮かんできたのでしょうか。

偶然、聴いたヒトラーの演説とトランプの演説が、そっくり同じようなセリフだったからかもしれません。

ヒトラーは言いました。「ドイツ国民のために」。

トランプは言いました。「アメリカ国民のために」。

 どちらも「ために生きる」と言うのです。

たしかに偶然と言えば偶然ですが、符合したのは、不思議ですがけれど、わたしのあたまには、二人がそっくり同じことを言っていると記憶されていたのです。

二人とも、主イエスの言葉どおりに、「権力を振るっています。」

ヒトラーは「救世主」を気取り、トランプは自分はクリスチャンだと言っています。

けれども、主イエスは彼らのようになってはならない。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」と命じているではありませんか。

「ために生きる」と吹聴する人は、その言葉で「権力をふるっている」のです。


しかし、主イエスは、「権力をふるう」ことを禁じておられるのです。


人が二人いるところには、しかし、力の差がいつしか生じてきて、「権力」関係がうまれてしまうのではないでしょうか、と。

権力関係は避けられないのではないかという疑問が湧いてきます。

たしかにそうです。

完全に平等という関係が望ましいけれども、たとえ水平的な人間平等という理想は尊いものです。

けれども、現実の人間関係にあっては、状況によっては必ずといってよいほどに、力の高低、大小といった「差異性」が存在してくるものです。


極端な例かもしれませんが、わたしの脳裏には、アウシュビッツの収容所が浮かんでいます。

この場に於いて、殺す側の人間と殺される側の人間という極限的な権力関係が存在していました。

この権力関係にいま、焦点をあわせるのではなく、コルベ神父とコルベ神父によって命をとりとめた人との関係に、わたしは関心があるのです。

それだけではなく、コルベ神父と生殺与奪の力をもつナチスの死刑執行人との関係もあります。

わたしは、コルベ神父は、主イエスの命令に、忠実に従った人だと思います。

わたしの脳裏に登場しているこの三者の生き方、そして死に方を想起するとき、主イエスの命令に忠実たらんとしたのは誰であったのか。

誰の目にも明らかなのではないでしょうか。

ヒトラーは、600万人の人々を毎日ガス室に送りながら、ベルクホーフの豪華な別荘で愛人と優雅に暮らしていた。

アウシュビッツ・ビルケナウで餓死室へと送られる側に、マクシミリアノ・コルベもフランツィシェク・ガヨウィニチェクもいあわせていたのです。

二人の間には、そこにただいあわせたということ以外には何の接点も交わりもありません。

しかし、まことの神、主イエスは、世界のいずこにいても、その現場に必ずいたもうのです。

ふたりの間には、主イエスの命じられた神の言葉が存在していました。


「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」


「偉くなりたい」という事柄が意味するものは、ヒトラーやトランプのような権力をふるうことでないことは明らかです。ですから、「偉くなりたい」という事柄は、主イエスが示したもう「偉大さ」への渇望でないはずはありません。

「偉くなりたい」という願いは、権力をふるうことを禁じておられるのですから、権力を否定した意味でなければなりません。

具体的には、「仕える者」になり、「皆の僕(奴隷)」となることを意味していました。

二人の間に、力の関係が、不可避なのだとすれば、その力の関係において、「仕える者」「僕(奴隷)」となることを、「偉くなる」と言われたのです。

しかも、その「仕える者」「僕(奴隷)」という身分、立場に身を置くということは、さらに具体的に、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」ということを意味していました。

 「人の子」主イエスが、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(贖い)として自分の命を献げるために来た」すなわち、十字架の死をもって、人類の贖い(身代金)となって「自分の命を捧げる」ために受肉されたという「贖罪の死」こそが、人の行くべき道の範であると示されているのです。

 ここには、明らかな「類比」が存在します。

 主イエスの十字架の道と人倫の道とのあいだには、明らかな「類比」があるのだと主イエスは語られたのです。

 そえは「同じように」という連結のことばによって示されています。


 あなた方が「偉くなりたい」のであれば、人倫において、主の十字架の犠牲の道と、「同じように」、「仕える者」「僕(奴隷)」となりなさい、と命じておられるのです。

 コルベ神父とフランツィシェク・ガヨウィニチェク(コルベ神父が身代わりのなって命を救われた人)のあいだには、この主イエスの命令がたしかに存在していたのです。

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母には、主イエスが、いかなる道を歩んでおられるのか、まったく理解することができなかったのでしょう。彼女が主に願い出た望みは、この世でいうところの「立身出世」「栄達」願望と言ってもいいくらいの、「欲望」なのでした。息子二人も母親の陰に隠れているように見えますが、まったく同じ「欲望」の虜にすぎません。

 ですから、

 「イエスはお答えになった。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』」と。

 主イエス御自身が、今十字架の死に向かって、歩んでいると言うことを、既に弟子たちに告知していたにもかかわらず、最初から従ってきていた弟子にすら、理解されてはいなかったのです。弟子たちに信仰がなかったということではありません。信仰はあるのです。忠誠心もあるのです。思慕もあるのです。尊敬心もあるのです。

 けれども、主イエスの目的を、正確に理解することは、まったくできでいなかったということが、この彼らの願い出によって、明らかになってしまったのです。

 「弟子の無理解」は、主イエスの十字架の極みにおいてすらも、継続してゆくのです。そして、そのこと自体が主の十字架の苦難の内容でもあるのです。

 主は最愛の弟子にすら理解されずに、最期を迎えねばなりません。それもまた苦難の内容そのものをなしています。

 主イエスの孤独、最期まで主イエスは、たった一人、誰からもキリストとしての聖なる使命を理解されないままに、死にたもうたのでした。


 『このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』

 この杯が何を意味しているか、明らかでしょう。十字架の「苦杯」以外の何でしょうか。

 「できます」と即座に答える弟子に、「苦杯」の意味が理解できているはずもありません。


 しかし、主は続けます。

 「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」

 

「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」

 主は、弟子たちが、いまここではまったく理解できていない「苦杯」を、弟子たちは「飲むことになる」と言われました。これは予言なのです。

 弟子たちが、今はまったく理解できない「十字架の死」という「主の杯」を、理解しないままに「できます」と答えているのにもかかわらず、「わたしの杯を飲むことになる」と主は言われました。

 理解できない弟子たちが、将来において、主イエスと「同じように」「十字架の死(殉教)」という苦杯」を飲むことが出来る日が来ると、主は予言されたのです。

 いまの弟子たちには、このみことばの意味は、おそらく「謎」にしか聞こえていないことでしょう。

 

「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」

 他の10人が憤慨したのは、この弟子たちも、二人の弟子とまったく同罪であったということを示しています。彼らも、主の十字架の道行きについて、無理解のまま、主イエスに対して、「この人についてゆけば栄達の道が開ける」という自己欲望達成の道具にしているにすぎないのです。

 

 このエピソードが確かな希望をわたしたちに与えている事柄がみえてきます。

  いかに、弟子たちすべてが、ただの一人も主イエスを理解していないとしても、主イエスは、この無理解な弟子たちを決して見棄てたまわなかった。

それどころか、この無理解な弟子たちに、福音宣教のすべてを、託されたのです。

 人は理解できるからこそ、従えるのか、いやそうではないと聖書は事実をもって伝えているのです。

 人は理解して信ずるのではありません。

 信ずる魂は、人の主観、経験、体験という限界をはるかに超えた神の力の賜物なのです。

 信ずる魂を、神が与えたもうのです。

 神が与えたもう魂は、みずからの自己欲望を捨てることができ、主イエスが歩まれた道と「同じように」行くことが可能にされるのです。

 コルベ神父は、神から与えられた魂を、主イエスの御声をままに聴き、従いました。

 決して、コルベ神父は、自己の欲望達成のために、身代わりの死を歩んだのではないのです。

 

2025年3月26日水曜日

 2025年度開始

【4月6日】   

◎田瀬・付知合同  14:00

◎坂下教会    10:00 

  (四旬節第5主日)

  〈十字架の勝利〉

  マタイ 20:20~28

  詩編 118:1~9  

◎東濃3教会合同礼拝は、祝祭 主日のみとなります。

 イースター、坂下教会にて。

 ペンテコステは、付知教会。

 クリスマスは、田瀬教会。

◎合同礼拝以外の週は、

  坂下教会:午前10時開始。

  田瀬・付知合同:午後2時開始。

  第1、第3、第5週は、田瀬教会。第2、第4週は付知教会にて。        東濃3教会

2025年3月30日(四旬節第4主日)14:00

東濃3教会合同・坂下教会消火礼拝

マタイによる福音書17章1節~13節

「変容したもう主イエス」



事前黙想

「キリストの変容」の出来事を、どこまでも合理的な解釈をしないと気がすまない人々は、教会が後のキリストの復活体との出会いを、主イエスの生前の出来事として物語化して伝承したのではないかなどと、自己の理性の限界内におさめようとする。

 しかし、わたしは、主イエスが「まことの神」でありたもうという現実を、繰り返して無理解を重ねてきた弟子たちが、それでも繰り返し神の奇跡を経験せしめられてきたのであるから、それにもかかわらず、なおも重ねて物語を創作する必要があったなどという仮定の想像のほうが、わたしにはよほど不合理に見える。

 山上で、主イエスが光り輝いてゆく変容、そこにモーセとエリヤが現れ来て語り合う出来事である。律法、預言者、そしてメシアがここに揃うのである。そして天から、神の「認証のみことば」が下される。洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたあの時に、天来のみ声と同じ神ご自身の言葉であった。

 そして再び主イエスの「沈黙命令」が弟子たちに下されたのである。

2025年3月30日(四旬節第4主日)14:00

東濃3教会合同・坂下教会消火礼拝

マタイによる福音書17章1節~13節

「変容したもう主イエス」

   これまでの流れ


 わたしたちは、既に信仰告白が、人間によるものではなく、神ご自身に起源するものであることを、「ペトロの信仰告白」において確認した。そしてまた、主イエスの受難予告に対するペトロの「諫言行為」が「サタン」に起源することに対して、主イエスが即座に喝破し、ペトロを大叱責することによって、ペトロをの内部に巣くうサタンを退散させたことをも確認した。


 変貌の出来事は、受難の出来事の開始を意味していた。


 本日は、主イエスの変貌の出来事を通じて、この出来事が、「主の受難の出来事」が、これにより開始したことを確認することになる。


 荒野の試練に先立ち、主イエスは、地上での宣教の歩みの公的な開始のために、神ご自身による確証の言(ことば)が天より降された。


 すなわち、


 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」(マタイ3章17節)である。


 この神ご自身による確証は、ヨルダン川での洗礼者ヨハネによって主イエスが洗礼を受けた時に、起こった。この出来事は、多くの人びとの衆人環視のなかで生起した出来事であり、一人や二人の証言によるものではない。この出来事を目撃、聴取、体験した共同的体験であった。すなわち、主イエスの宣教は、その初めから、「実存的」とか、「観念的」とか、「主観的」とかという単独者の出来事として生起した事柄を意味してないということである。客観的な出来事であって、人間の主観に左右左右されない独一無比な事柄を意味していたのである。


 ここで生起した神ご自身による「確証」は主イエスの公的生涯の開始を意味していた。それは民の客観的な共同的体験であった。そして何より、洗礼者ヨハネが、主イエスの神の独り子なる神として宣教を開始するにあたり、その開始の「火蓋を切る」仕事をしたことを意味していた。


 この事は、洗礼者ヨハネが、マラキの預言の成就者であったことを意味していたのだ。


 すなわちマラキ書3章1節


       「見よ、わたしは使者を送る。


      彼はわが前に道を備える。


      あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。


      あなたたちが喜びとしている契約の使者


      見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」。


  「彼はわが前に道を備える」という使命は、洗礼者ヨハネの自己認識と完全一致する。


すなわちマタイ3章1節~3節にはこうある。


すなわち、


    そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」


 また、このようにもある。


 ヨハネ1章22節~24節(注記1)


      そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」


  荒野の誘惑に「完全勝利」したことは、主イエスの人類救済の出来事、すなわち、主イエスの苦難と死、復活と昇天に至るすべての御業の「完全勝利」を意味していた。


 したがって、「荒野の試練」の勝利のあと、直ちに主は、「ガリラヤ伝道」へと向かったのであった。





 父なる神による二度目のキリスト認証のみ言


     


 マタイによる福音書17章5節に、以下のようにある。


 すなわち、


  5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。


 5節の「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という聖句は、「これに聞け」という命令が加わっている以外は、マタイ3章17節の、神ご自身による主イエスのキリスト認証・確証のみ言葉と同じである。


    このキリスト認証・確証の神の言こそが、この変貌の出来事の核心である。


 さて、


 モーセとエリヤとが出現して主イエスと語り合うビジョンは明らかに奇跡である。異象である。ここに合理的な言い訳めいた合理的解釈をさしはさむことはすまい。


 合理性を超えているから異象という他はないのである。


 とはいえ、異象だから幻視と決めつけることは適当でない。この出来事は、一人や二人の体験ではなく、抜擢された三人の弟子たちの共同的かつ同一の体験なのであるから、主観的な思い込みとか、ある事件の再解釈とか、そういう矮小化は防がれているといえるからだ。しかし他方、何らかの歴史的な現実を反映している「事実」そのものの報告と言うことも、この出来事の時空を超えた意味ある出来事として認識されている以上は、ただちに直接的に判断できない。


  わたしは、あえてこの出来事に、合理的な解釈も実存的な解釈も、歴史的な解釈も読み取らないこととする。あえて言えば、この出来事の共同性は、受難の出来事の証言の客観性を担保した三人の弟子たちの共同的体験の現実だった、と考える。


 三人にとって、この出来事は、あくまで鮮明な出来事であり、神の確証のみ言を目撃、聴取、体験した共同的、客観的な現実であったと考える他はないのだ。


 


旧約律法・預言書の成就者イエスと弟子の「別の誤解」


 モーセは律法を神より受けた者、エリヤは預言者を代表する。この二人が主イエスと語り合うビジョンは、主イエスこそが、新しい人類歴史の開闢が、神の民イスラエルのすべての救いをもたらすキリストでありたもうことを、視覚的に定着させたのである。


 しかし、このビジョン(視覚的認識)は、この出来事が神の自己啓示を意味していることは明らかであるにしても、このビジョンを体験した三人の弟子たちには、神の自己啓示であることまでは認識されていたけれども、彼らの認識のなかで、主イエスの受難予告にペトロが「諫言行為」をしたときとは、次元を異にはするが、「別の誤解」が生じていた。


 マタイによる福音書17章2節には以下のようにある。


 すなわち、     


2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。


 つまり、主イエスのこの「変貌」を前にして、またしてもペトロが、「的外れな提案」をしてしまうのだ。


 4節を見てみよう。


      4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」


 ペトロは、モーセ・エリヤ・主イエスのために「仮小屋」を建てましょうと提案する。


「仮小屋」という提案から、わたしは、三つの「罪」を見る。


 第一の罪は、偉大なうえに偉大だと信じてきたモーセ、エリヤ、主イエスに、「仮」の建物を建てようという目論見には、尊敬が感じられない。彼は心底、その提案がモーセ、エリヤ、イエスに喜ばれるべき信仰心の発露だと考えていたのだろうか、もしそうであれば、あまりにも尊敬する人びとへを軽視している提案ではないのか。


 第二の罪は、「仮小屋」を建てて、どうしようとペトロは考えていたのか。何を目的として、このような提案をしたのか。」


      「一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」とある。


 ペトロは相手の「ため」だと平気で言っている.一体、「仮小屋」を建てることが、どうして、モーセのためになり、エリヤのためになり、主イエスのためになると、言えるのだろうか。わたしには、何も相手のためにもならないことを、相手のためだと言い切っているようにしか見えない。


  第三の罪は、この提案には、ペトロの意識的にか無意識的か、はっきりした目的が潜んでいることだ。それは、ペトロの宗教的願望である。ペトロがいま、現実に他の二人と共有しているの神の啓示の体験を、自己の宗教的な陶酔感に浸りながら、「このままこの至上の恍惚体験」を、ここに留め置きたいのだ。いつでも、この「仮小屋」にきて、この三人に会うことができるとしたら、もう他には何もいらない。いまは「仮小屋」でも、やがてはここを聖所にするのだ・・・。いや神殿にしよう・・・。「天の宮」だ。


 


 主イエスの変貌という視覚的なビジョンの体験は、まぎれもなく主イエスが神ご自身であることを意味する出来事にほかならなかった。


 しかし、この否定しように否定できない人間の主観とは完全に独立した現実であるにもかかわらず、ビジョンによって、弟子たちの信仰内容は変えられてはいなかったのである。


 つまり、弟子の「無理解」、弟子の「的外れな提案」によって、むしろかえって、この変貌の出来事が、彼らの宗教的願望の投影でもなく、まして彼らの「信仰の所産」ではあり得ないということを証明しているのである。


 人間に示されたこの神の自己啓示の出来事を体験した当時者自身に「信仰の革新」はなんら生起していないのである。信仰は「神秘的体験」と必ずしも一致するとは限らないことをこの出来事は証明しているのだ。


 


変貌の出来事の核心はみ言にある。


 マタイによる福音書17章5節=7節を見る。


 すなわち、


      5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。


      6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。


      7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」


 


 「信仰の革新」は、人間の側からは決して生起しない。信仰は、ただ神からくる。


 「雲の中から」神ご自身のみ言が語られた。「6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。」


 弟子たちは、主の変貌という神の自己啓示の体験によっては、「信仰の革新」を経験できずにいたけれども、他ならぬ「神の言」によって、「信仰の革新」へと導かれたのだ。


 主イエスが彼らに触れられ、「起きなさい。恐れることはない。」とのみ言によって、彼らははじめて、信仰に覚醒する。


 ここから、弟子たちは、主イエスの受難への道に同道する弟子として、新たな旅立ちをしてゆくことになったのだ。





「これに聞け」


  雲の中からの神のみ言、「これに聞け」という命令は、主イエスの受難予告の通りに、主イエスが、以後、ひたすら、しかも威風堂々と、十字架上で殺されるという人類救済にむけて「受難の道」を、歩んでゆくが、この道をゆくイエスのみ言に聴き従うことを命じているといえよう。


 受難の道を行く主イエスの言に聴き従えという神の命令なのである。


 弟子たちは、この神の言のもとにある。


 信仰の覚醒は、神の言への従順以外ではあり得ないのだ。


 主イエスは、十字架に至るまで、主イエスを殺そうとするすべての敵対者を、赦し、愛するという行動を最期まで貫き通される。


 この愛の戒め、主イエスが身をもって示された愛のいましめに、あなたがたも同じように聴き従いなさい。神はここで命じられたのである。


 この「これに聞け」が弟子たちすべての原点となっているのである。





 五度目の「沈黙命令」


 17章8節~9節をみる。


 すなわち、


      8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。


      9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。


   主イエスの「沈黙命令」については「受難予告」のときにもなされた。「主イエスはキリストである」という信仰告白は人によるものではなく、ただ神によるものであらねばならない。


 人による評価、価値判断、業績、功績、奇跡願望、神秘主義的願望、宗教的体験主義などなどあらゆる人間的な起源は真実な信仰告白にはならない。すなわち、「主イエスはわたしの主、イエス・キリストでありたもう」という信仰告白には、一片の人間的動機も入り込む余地はないのである。


 これから、弟子たちは、殺されるために、その十字架の死という極点を目指して、揺るぎなく、威風堂々と先頭を切る主イエスの、あとに続き歩むことになる。


 これから殺されることが明白な方を、メシアだと宣教してゆくことは、はたして、彼には可能だったであろうか、彼らは、しかし、ここではっきりと、命じられたのだ。


 「沈黙命令」


      9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。


エリヤの使命は果たされた。


 信仰に覚醒した弟子たちは主イエスに重大な質問をした。


 洗礼者ヨハネこそが、来るべきエリヤであることを、主イエス御自身が弟子たちに語られるということをこの箇所は明示しているから、「重大」なのであった。


 マタイによる福音書17章10節~13節を見よう。


 すなわち、こう書いてある。


      10彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。


      11イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。


      12言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」


      13そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。


 主イエスは、洗礼者ヨハネこそ、この応答によって、「エリヤだ」と明言されていることになるのだ。


 だからこそ、初代教会は、洗礼者ヨハネをエリヤの使命成就者として、尊敬してきたのだ。


 ヨハネ福音書には、ヨハネが「わたしはエリヤではない」と自己証言しているが、一世紀90年代に成立したヨハネによる福音書が、わざわざこの洗礼者ヨハネの自己証言を残しているのには理由がある。主イエスによりヨハネについての証言とヨハネの自己証言との食い違いを明確化する目的がヨハネ共同体にはあったからだ。


 洗礼者ヨハネの宣教内容と主イエスの宣教内容には、明瞭な「差異と区別」がある。その差異性は、主イエスの宣教内容をより鮮やかに明確化する。この差異性は、自己証言とイエス証言の差異よりもはるかに重要であったのである。


 福音書全体を通してみれば、洗礼者ヨハネは、生前、母エリサベツの胎内にあって、人類のなかでただ一人、主イエスが誰であるかを「証言」した人物であり、預言者イザヤの預言成就者であることを自認し、それはマラキのエリヤ預言とまったく一致もしている。


 イエスの最初の弟子たちは洗礼者の弟子たちであったことが、ヨハネ福音書で示されている。洗礼者ヨハネの「見よ、世の罪をとりのぞく神の子羊」という証言に、ヨハネの弟子たちは信じ、従ったからこそイエスの弟子となったのである。


 ヨハネはその死においても、主イエスの先駆者として、神の義をまっとうした。主イエスに先だって、死罪とされたのである。ヨハネの「死」は、イエスの「死」の先駆であることは明白だ。だから、その誕生から死に至るまで、主イエスの先駆者、証言者としていささかのブレることなく生涯をまっとうしたである。


 洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆者として、つまりエリヤとして、主イエスの「受難の道」を先だって歩んだと、主はこの問答のなかで語っておられるのである。


 繰り返す、主イエスは、ここで弟子たちに、洗礼者ヨハネこそ、エリヤとしての使命を完全に全うしたと宣言されているのである。


      「 人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」


 洗礼者ヨハネのように、主イエスは、苦難の道程を歩むと語られたのである。


 繰り返す、洗礼者ヨハネこそ、エリヤの使命を完全にまっとうした、主イエスはそのように、ここで明確に語っているのだ。


 「人びとから認められず、好きなようにあしらわれ、苦しめられる」ことこそ、主イエスの先駆者、「主の道筋を備え、その道をまっすぐにする荒野の声」(イザヤ預言)」であり、エリヤとしての使命をまっとうすることなのだと語られたのである。


      マラキ3章23節~24節の預言をみよう。


 すなわち、


      23見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。


      24彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。


 


エリヤの使命とは「父の心を子に子の心を父に向けさせる。」


    洗礼者ヨハネこそは、エリヤであったと主イエスは明言された。


 それは主が使命とされている人類救済のみ業が、十字架の死と苦難によってこそ成し遂げられることと、まったく同一軌道上の道、すなわち、義のゆえに斬首されるという苦難によって、主イエスの受難の道の先駆者となったからである。


 エリヤの使命は、「父の心を子に子の心を父に向けさせる」事柄であった。


「父の心を子に子の心を父に向けさせる」事柄とは何か。


 人心を変えることではない。人心に、悔い改めを起こさせるバプテスマの働きも、彼が人間である以上は時空を超えることではないからだ。


 「父の心を子に子の心を父に向けさせる」事柄は、主イエスが、あの十字架上で、叫ばれる「エリ、エリ、エリ、サバクタニ」という叫びにも似た祈りの瞬間に、人類の目にも明らかとなった出来事だ。


 洗礼者ヨハネの、道ぞなえの道は、主イエスの御苦難の先駆として「死に渡される」ことであった。これにより、真の父(父なる神)の心を子(子なる神)に向けさせ、子(子なる神)に父(父なる神)の心を向けさせたのである。


 ヨハネは極悪人に課せられるべき斬首の死をもって、主イエスの受難の先駆となった。


このヨハネの死を見て、主イエスは父なる神の「心」をことごとく知り、父の心をさらに確実に確信したであろう。そして、父なる神への従順の道は、この十字架への道以外にないことをさらに確信したであろう。この独り子なる神の苦難の叫びは、「子の心」を父なる神に届けたことであろう。子なる神の痛み(苦難)を見つめる父なる神の「痛み」をこそ、十字架上の叫びこそ、人類が「神の痛み」をキリスト・イエスによって知らしめられたのだ。


 ここで「洗礼者こそエリヤ」その人だと弟子に示すことによる、ゆるぎない受難の道を、ここで弟子たちに示したもう事になった。


 この「変貌の山」での、神の命令によって、主イエスの受難の道が開始され、弟子たちがこの苦難の道への始まった。弟子たちの苦難の道への同道は、即、人類の道をも示している。


 


  最後に


 弟子への「これに聞け」という神の命令は、わたしたちにも向けられている。


 それは、主イエスが受難予告で示された、犠牲の愛、敵を愛する愛の道をこそ行きなさいという人倫である。


 この命令は、主御自身、さらには洗礼者ヨハネの示した義のゆえに死ぬという道、このようないばらの道こそが、人類が共同して、歩むべき人倫であるということであろう。





(注記1)


ヨハネによる福音書のこの箇所で、洗礼者はファリサイ人の派遣する使者の問いに、「わたしはエリヤではない」と答えている。これはヨハネ自身による自己認識において、エリヤ自身ではないという意味であるだけであることに留意すべきである。事柄として、彼自身には使命者として、イザヤ預言の成就者という自己認識があったということが重要であり、その使命の成就者とは、とりもなおさず、主イエスによって、「エリヤ」の使命成就者と認定されていた事が重要なのである。ゆえにキリスト者共同体にとって、洗礼者ヨハネは「エリヤ」と同定されたのである。



 

2025年3月21日金曜日

2024年3月23日 (四旬節第3主日)

  〈受難の予告〉

  マタイ 16:13~28、  詩編 86:5~10


黙想   サタンの視点、「キリストは決して殺されてはなりません」

  ペトロの信仰告白を、主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と、信仰は人のわざではなく、天与の賜物だと、祝福されます(幸いだ)

 ところが、ペトロの信仰告白を祝福した直後から、主はご自身の受難の予告をかたり始めるのでした。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」

 ペトロの信仰告白は、主イエスが「だれであるか」という事柄についてでした。ペトロは、イエスがメシア(キリスト)、生ける神の子だという認識内容を告白したのです。この告白は正確な認識でした。だからこそ「あなたは幸いだ」と主は祝福されたのです。

 しかし、この信仰知には、神の子・キリストが何をこそなしたもうお方であるかという信仰知が含まれていませんでした。それは主の受難予告に対してペトロがとった行動によって明らかになったのです。ペトロが、受難予告を語りたもう主イエスを諫め始めたからです。主は、これに対して、先ほどとは正反対に超弩弓の叱責をされます。「サタン、引き下がれ」と。

 祝福と叱責。ペトロに対する真逆の主の態度が示す事柄によって、判明することが二つあります。

 第一には、信仰はただ神ご自身の自己贈与によって生起するということ、そしてこの告白は「陰府の力も対抗できない」という不滅性を有していることです。それはペトロの態度が「サタン」呼ばわりされようといささかも解消されはしません。

 第二には、主が「三日目に復活することになっている」と明言されているにもかかわらず、ペトロは主の「苦難と死」について、「そんなことはあってはならない」と、否定したことが「意味するもの」です。

 それはペテロが自らの人間的な視点を、主イエスが完遂しようとされる人類救済のみ業に対して、押し被せて、これを否定したことが「意味していたもの」です。その「意味したもの」とは、「わが師イエスこそは生きてこの地上で、地上の王となって世界を支配するお方であるべきです」という「肉の視点」でした。彼にとっては「わが師イエスは決して殺されてはならないお方」だったのです。彼はそう考えた。この「肉の視点」こそあの荒野で、主イエスを誘惑したサタンの第三の誘惑そのものに他なりません。ゆえに主イエスは、あの時と同じみ言をもって、この「肉の思い」を退けたもうたのです。この怒りの叱責こそ、ペトロの魂にむけての神の独り子なる主の厳しい愛の言に他ならないのです。



2025年3月15日土曜日

 2024年3月16日 (四旬節第2主日)

マタイによる福音書12章22節~32節



『ベルゼブル論争』

本日の黙想はベルゼブル論争と言われる有名な箇所です。
 主イエスが弱き人々の病を癒し、障害を取り除き、悪霊を追放するみわざを行うと、パリサイ人らは、それは「悪霊の頭ベルゼブルによるものだ」と断定して、中傷しました。
 パリサイ人が、主イエスを攻撃する材料として、主イエスの行われる奇跡に対して、その解釈、意味づけを、そのようにしたことは、ある意味で当然だったことでしょう。しかし、彼らの内心は、決して主イエスへの敵意・憎悪で一色だった訳でもなかっただろうと、思われます。なぜなら、主イエスの奇跡は、やはり奇跡以外のなにものでもなかったし、その奇跡はたまたま一件とか二件というようなものではなくて、数知れず起きていたし、これらを経験して、実際に癒された人々や、目撃していた家族や親族、近所の人々は、そのような不思議で、しかも力ある業は、神から遣わされたのでなければ決して起きないだろうと、圧倒的な多数の人々は考える他はなかったのですから、群衆が等しく主イエスの力は神の力によると信じているなかで、パリサイ人らは、同じ経験をしたり、目撃しているにはいるが、彼らとしては決して信じない、信じたくはないという彼らの立ち位置では、群衆の思いと自分たちの思いとを同調させる訳にはいかない。なんとかして、群衆が主イエスに惹きつけられてゆくことを阻止しなければならない、こう考えるしかなかったのです。
 いわば彼らを宿命づけている立場からの要求に、主イエスの奇跡の驚異的な力に心動かされながらも、どこまでも固執しなければならなかったのです。
 だから、主イエスのこの驚異的な力は、神さまからのものではなく、悪霊の頭ベルゼブルからのものだという「こじつけ」「難癖」をつけないではいられなかったのです。確かに、このイエスという男のしている業は驚異的な奇跡・しるしには違いない、しかしそれは悪霊の頭にだってできるだろう。「悪魔の強大な力を背景にこの男はしるしをなしているに違いないのだ。」このような解釈・意味づけをすることにより、群衆が主イエスに心酔してゆくことを阻止しようとしたのです。
 しかしこのような断定は、実は彼ら自身の墓穴でもあったのです。

2025年3月10日月曜日

 2025年3月9日四旬節第1主日

マタイによる福音書4章1節~11節

『荒野の誘惑』



2025年2月26日水曜日

 2025年3月2日公現後第8主日

マタイによる福音書14章22節~36節

「湖上を歩きたもう主イエス」




事前の黙想

湖上を歩く主イエスの奇跡について、考えてみましょう。

  「水の上を歩くことなどできるはずがない」、子どもでもこのように考えることでしょう。ファンタジーならばともかく、現実としては考えられないと思う人が殆どではないでしょうか。このような出来事が本当に起こったとは信じられないと思う方は多いことでしょう。

 わたしも、主イエスでない他の人が、このようなことをしたというのであれば、決して信じません。

 まことの神にしてまことの人でありたもう方(神人)イエスであられるからこそ、このような出来事が起こったと考えるならば、逆に出来ないはずはないと思います。

 福音書にこの出来事が書き残されたという事実を考えるとき、かくも簡潔に事実として記述されていることは、事実この出来事があったからこそ残されているとしか考えられません。これを初代教会の「信仰のイエス」による虚構だとか、創作だとかですませてしまえるのは、自分に理解出来ないことを自分の理解可能な枠のなかにおさめてしまおうという「合理化」にすぎません。

 全能の神にできないことは何一つないのです。